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雜報 明治二十九年六月三十日

明治二十九年六月三十日 ◎惨話の一二(岩手縣) 明治二十九年六月三十日

○小本村字小本に年頃三十二三の兼て妊娠中の一婦人此の凶災の爲めに辛ふして逃げ出でたるが其途中出産し母は其の子の顔をも見ずに怒濤に打ち上げられ赤子のみは呱々の聲髙く山の中腹にありしとはアヽ慘の極
明治二十九年六月三十日
○普代村に於て出生後三四ケ月許りを經たらんと覺しき一兒沙泥の中に全身を埋め頭部のみあらはして居るを發見し直ちに引き出して見るに口中に沙石充滿しあるもマダ息の通ひ居れば取り敢へずその沙石を口中より除去し「いはおこし」と稱する菓子を水にて融かし之を與へたるにスッパスッパと吸ひ込み追々健全となりたるにぞ種市村の某が之れを傳聞し箇ばかり髙運の子ならんには生先の程も頼母し我れに子なきこそ幸ひと發見者より引き受け連れ行きしとぞ
明治二十九年六月三十日
○大田名部の某數人の家族皆流亡し某獨り免かる而して其の妻女は猛浪にもまれたる爲め面皮悉く剥げ去りて其の誰れたるを知るに由なかりしも僅かに其の頭髪止に依りて妻女たるを知り泣くなく引取りて埋葬したりと
明治二十九年六月三十日
○吉里々々村にて海嘯の翌日泥砂の中より乳兒を背負ひたる儘死したる婦人の死骸を發見したりとの届出に掛官は直ちに出張して之を檢するに不思議や乳兒は存命し居りしかも些の負傷だにせず最とも健全にてありしと願ふに是れ引汐の際母は流れ來る木材等に胸部を打撲せられ爲めにカヨハき乳兒に先つて無慘の死を遂げたるものなるべし

明治二十九年六月三十日 ●知事の具申と實地の損害

從來各府縣に於ける天變地異に對する當該知事の具申書を見るに多くは實地よりも廣大の意味を含み居るの弊あり此等は要するに國庫補助其他の都合上より斯の如き弊害を生じ來りたるものならんも今回三陸の嘯害は何分事火急に出で十分調査を遂ぐるの遣なきためにや實地臨檢の結果は地方官の具申書よりも猶一層甚しきものある見込にて豫め此れが計畫をなし居れりと某省の或髙等官は語れり

明治二十九年六月三十日 ●技手の増遣

逓信省にては過般の海嘯地電信線復舊工事の爲め同省にて練習中の臨時**電信建設部技手五名を仙臺局管内へ派遣したるが猶破損の箇所意外に多く從て人員不足の報ありたるに依り今回更らに同技手一名を同地に派遣したり

明治二十九年六月三十日 ●横濱居留外人の義捐金額

横濱各英字新聞社に於ても三陸海嘯罹災者救助の爲め義捐金を募集中なるが去二十六日迄の募集金額は日本ヘラルド新聞社凡そ三千圓、メ−ル新聞社凡そ二千五百圓ガゼット新聞社凡そ四百圓合計五千九百圓内外なり

明治二十九年六月三十日 ●大谷派本願寺の慰問使派遣

大谷派本願寺にては海嘯罹災民救恤の爲め*きに金圓を義捐し災害實况取調として金松空賢氏を特派せしが尚ほ慰問使として*きに從軍布教師たりし佐々木圓慰、千原圓空の兩氏に出張を命じたる由

明治二十九年六月三十日 ●進歩黨特派員大津代議士の通信 進歩黨嘯害

地方特派員大津淳一郎氏の通信によれば同氏は去る廿八日午前二時三十分仙臺に着直ちに同縣廰に就き被害救助の實况を聞くに宮城縣の被害は岩手縣に比し殆んど五分の一位にて殊に道路は開け交通は便なるより應急の救助は夫々行届き居り今日迄に於て支出せし同縣の救助費は
一金 五十圓 衛生費支出
一金 四万七千百二十圓 備荒儲蓄金支出
而して備荒儲蓄金にて支出すべき費途は定まり居り即ち小屋掛け料、農具料、炊出米料等なるも被害各地は多く漁村にて農具料、種穀料は不用にて目今差迫り救助費に差支へ居るものは一流失船數二千四百九十一此見積代金十万七千二百四十圓
一流失漁網數七千九十二
此見積代金一万二千五百七十圓
此外漁具等にて是等の救助に就ては其費途なきに苦しみ居り便宜地方限り救助中にて宮城縣廰よりは前記支出の費途なきものと備荒儲蓄金の救助に足らざるものとを併せ此程金十九万余圓を國庫より緊急支出を受けんと請求したる由道路橋梁等の復舊工事費、被害耕地の反別等は未だ調査行届かざれど是等は少數なる見込なるも充分調査を遂げられん事を求め聞きたり之れより岩手縣に赴き被害地の實况等を調査する考なり云々

明治二十九年六月三十日 ◎御沙汰

今回三陸地方非常海嘯の災に罹りたるに付き我が天皇陛下大に宸襟を惱させられしが早くも英國皇帝陛下の*聞に達し我天皇陛下竝に我邦臣民と感情を同くし痛悼に堪へざる旨本邦駐*サ−ルアルテスト、サトウ公使に訓令して慰問の詞を寄せられたるに依り宮内大臣は之を奏上せしに天皇陛下は英國皇帝陛下が我皇室の憂慮と國民の艱苦とを以て念とせられたる友誼の懇到なるに對せられ*感斜ならず思召され同公使を經て親厚の謝意を英國皇帝陛下に致すべき旨御沙汰に附き宮内大臣は直に之を同公使に通告せり