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明治二十九年六月二十八日 ●被害補助費の支出法

三陸地方海嘯被害民救助方法は地方備荒儲蓄と中央備荒儲蓄金支出の外明治七年發布せられたる救恤規則施行の外は法律に依り被害民救助の道なきを以て實地調査の上到底是等の方法のみにては救助の行届かざる見込附かば或は緊急勅令を以て國庫剰餘金の支出を見るならんとの事なれども國庫金の支出は最も慎重の調査をなしたる上ならでは容易に支出する等の事はなかるべしと而して刻下の急は備荒儲蓄金にて充分間に合ふ見込なりと

明治二十九年六月二十八日 ●備荒儲蓄金の支出

三陸地方被害に付き同地方備荒儲蓄金及中央儲蓄金を以て目下夫々被害民の救助をなし居る由なるが同金の支出制限は罹災民三十日間の食料并に小屋掛料、農具料、種穀料及罹災の爲め地租を納むる能はざるものヽ補助に貸與する以外に支出すること能はざるものにて其小屋掛料は一戸十圓以内農具料種穀料は一戸二十圓以内なり然るに今回の三陸地方の被害民は其多數は漁民にして中には一畝の田畑をも耕作せざる漁民あり是等へは災後三十日間の食料と小屋掛料は支給せらるれども農民にあらざるを以て農具料及種穀料を給する能はず左ればとて漁猟具料として支給することは法律に明文なきのみならず備荒儲蓄の性質よりするも到底支給するの道なきを以て是等は特別の詮*に出づるの外なからんと云ふ

明治二十九年六月二十八日 ●救恤規則の實施

三陸地方海嘯被害救助に付ては府縣備荒儲蓄金及び中央備荒儲蓄金を以て救助する外明治七年大政官第百六十二號救恤規則に依り獨身にて七十以上の重病者又は老衰して産業を營む能はざるもの或は年齢十五年以下にして其身病氣に罹り居るもの及年齢十三年以下にして獨身のもの等へは男は一日米三合女は二合の割合を以て救助せらるべしと

    明治二十九年六月二十八日 ◎宮城縣下郵便局の被害(廿六日 午後二時 仙臺局長發)

被害地流失局名は大谷、雄勝濱二局、死亡は大谷局長家族四名同局集配人一名、電信工夫一人、負傷は電信工夫一名、流失郵便物は大谷局分凡九十通雄勝濱局取調中、流失電柱は志津川氣仙沼間五十三本此破壞電線二里十町、氣仙沼盛町間内六十
八本一里半、山田宮古間三十三本二里半、久慈附近卅二本同一里半計二百七十九本此破壞電線一里二十町右報告す

明治二十九年六月二十八日 ●被害者救療報告

去廿四日附にて第二師團軍醫部より陸軍省醫務局に達したる三陸地方海嘯遭難救助報告第六回の概要を聞くに左の如し在釜石齋城軍醫より縣廰を經て廿二日夜軍醫看病人を請求し來る乃ち左の人員に材料を携へしめ廿三日午後三時半發汽車にて出發せしむ三等軍醫二名看護長一名看護人十四名在盛町中館軍醫の電報に曰く飯田川島兩軍醫氣仙沼より着各軍醫を左の如く分派して救療に從事せしむ
吉濱地方
飯田*川兩軍醫
綾里へ加治軍醫
小宮へ郷右近川島兩軍醫
大舟渡へ中館井上兩軍醫
右の軍醫配置と在釜石區域軍醫一行の配置とを參照すれば岩手縣下東海岸大槌以南二十餘里の間は軍醫の專有作業地となれり在氣仙沼飯田軍醫より廿日發の報告に曰く六月十九日午前三時氣仙沼に着し臨時救災病院患者の治療を引受け午前八時出院直に診所を開始す在來の救護員中當地方病院醫員三名を除くの外は地方の有志者及其婦女にして人員無慮五十餘名左往右往唯**するのみにして事務に分擔なく規律なく器具亦不完全にして病衣病床の如きは不潔濕潤臭氣甚し哭泣呻吟相和し實に慘状を極む然れども患者の處置服藥及飲食物の如きは稍行届けり是れ全く軍醫以下地方有志者の徹夜奔走して救護に從事したるの結果にして其苦心勞力察するに餘りあり小官等先づ急救の處置を施行して後職員の分擔を議す兩夜一睡せず疲勞甚しきにも拘らず徹宵瀕死の患者を診療す

明治二十九年六月二十八日 ●海嘯と經濟上の影響

海嘯の惨害は日々に報ずる所の如くなるが實業家の談によれば人畜の死傷は夥多きも其の被害地は主として海産物にて米作、養蠶等の地ならざるが故此の損害は案外に少なかるべし但ら海産物の損害は頗る大にして本年は鰯の大漁にて干鰯の肥料蓄積多かりしに海嘯の爲に一掃し去られたり此等は一時の損害なる故尚ほ忍ぶべきも漁業者は祖先傳來の唯一財源たる漁舟、網等を失ひ且つ漁夫をも死亡せしめたれば此の損害の恢復は容易に期しかたかるべし而して東京の肥料商奥三郎兵衛、岩出惣兵衛等の諸氏の損害は頗ぶる大なる如く傳ふる者あるも是れ亦何れも豫想より少なし内國生命保險會社の被保人にして死亡者夥しく此の損害大ならんとの事なるも中には全く保險證書を忘失し又保險金受取人も存在せずして會社の僥倖と爲るもあるべし又生命保險は此の如き非常なる天災をも保險したる約束なりしや否やにつきては議論起るべく會社の損害は此等の問題によりて大に輕減することを得べしと

明治二十九年六月二十八日 ●義捐物品の取次

築地本願寺にては去廿六日より三陸罹災者救恤金の取扱を始めたるが尚ほ罹災地は物品の需要急なるを以て衣類、帶、手拭、股引、襦袢又は梅干、澤庵に至る迄悉く取次ぐ*となしたり

明治二十九年六月二十八日 ●廣島第五師團の義舉

廣島第五師團にては今回東奥三陸地方の嘯害に付将校以上何れも其身分に應じ救恤金の義捐を爲す事に決し少尉は五十錢中尉は七十錢大尉は一圓少佐は一圓五十錢中佐は二圓大佐は三圓少将は四圓中将は五圓宛寄附する筈にて目下醵集中なりと云ふ

明治二十九年六月二十八日 ●海嘯慘状寫眞献納

日本橋區本町博文舘にては海嘯の報あるや直に大橋乙羽氏を三陸地方へ派遣して親しく被害の慘状を撮影し市街の荒廃、船舶の破壞、死屍の暴露、葬送の畧式等凄慘酸鼻の光景四五十枚を得晝夜兼行して歸京し其中二十餘枚を精選して二冊の帖と爲し再昨日宮内省へ献納したり