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海嘯被害記『其十』 (六月廿五日 午後十二時發) 碧泉生

明治二十九年六月二十八日
○ 氣仙釜石間の慘状ハ既に江湖の知悉する所となりしも釜石以北種市迄の被害状况ハ猶ほ世人の耳目に觸れざる者甚だ多きに似たり是れ主として交通不便より來る一の現象に過ぎざるが如し
明治二十九年六月二十八日
○ 死亡人員、負傷總數、流亡家屋の統計は既に幾回も詳細の報道を爲したるが如く今日に於て最早やこれを繰返すの必要なきなり何となれバ郡別の統計も村別の統計も業巳に世人の頭腦に印刻せられて其記憶を慥めたれバなり
明治二十九年六月二十八日
○ 種市宿の戸と稱する所に吹切丑松と呼ぶ素封あり母屋ハ一の高丘に建てられ旅舎を兼ねたる別宅ハ海岸に設けらる然るに海嘯の當日ハ端午を祝するか爲め舉家海岸の別宅に至り近傍の人若くハ旅人を會して酒莚を張り管歌粒*譽轉だ*なる時*殘や妻の辛くも逃難したるのみにて他ハ悉く流亡不明の人となる
明治二十九年六月二十八日
○ 田の畝にてハ周圍三間餘なる沿岸の岩石并に日和見岩と稱して漁民の朝夕登臨して海上の兆象を檢する二間餘の岩石は共に缺落流亡して些の痕跡を印するのみ海嘯強暴の度以て察するに足る
明治二十九年六月二十八日
○ 慘譚悲話悉く人腸を斷つの資*ならざるなしと雖父母ハ子を救ふか爲めに死し夫は妻の行衛を捜索せんとて返らぬ人となり兒ハ父母の死屍を抱き號哭の餘困死し妻ハ夫の死亡を聞きて消魂氣絶*老ハ生き甲斐なしとて縊死せんとす其慘譚悲話一々傾聽し來れバ余ハ只だ血涙萬*滂沱たるを覺ゆるのみ
明治二十九年六月二十八日
○ 殊に普代村にてハ生れて五六ケ月の赤兒海嘯の翌日海岸沙泥の中に埋没せられ口中にハ一握餘の潮沙を含みながら猶神明の加護せる者乎ヒクヒクと呻吟微動して半死半生し居たりぬ吁如何なれば斯く迄も人を泣かしむるぞや
明治二十九年六月二十八日
○ 死亡せる者に向てハ最早や鄭重に後事を營むを以て足れりとせざる可らず而して萬死の間に一生を得て身の不幸を悲嘆する殘存者に向てハ國家は勿論江湖の慈善家たる者ハ彼等の頭上に仁義の雨を降らして遺憾なからしめよ
明治二十九年六月二十八日
○來て殘存せる者を見よ彼等ハ生き居るとハ名のみに過ぎざるなり完全無垢の身体にハ幾多の重傷を負ふて血痕淋漓たり居宅ハ流亡潰損して居るに由なく耕地ハ沙泥に化して一粒を収穫するの望みなし其*々たる境遇寧ろ死せるの勝れるに若かずと悲鳴叫號するも又無理ならぬ事ならずや