海嘯被害記『其八』 (六月廿四日午後十時發) 特派員棚瀬軍之佐
眞宗本願寺門跡大谷光尊氏ハ今回の海嘯被害慰問使として昨日武田篤治氏を派し且つ右被災者救助の爲め金一千圓を岩手縣廰に寄贈して分配方を依頼せり
明治二十九年六月二十七日
○ 日本鐡道會社長小野義眞氏も昨日鄭重なる慰問書に添ゆるに金一千圓を以てし是の*古未曾有の海嘯罹災者を救恤されたき旨縣廰に申出でたり
明治二十九年六月二十七日
○ 南部舊藩主南部利恭伯ハ舊封内沿岸海嘯を最とも憫然に思ハれ昨日奈良眞志江刺*臣の二氏と共に來盛不取敢奈良氏ハ宮古釜石へ、江刺氏ハ宮古以北の地へ南部伯の代理として出張し且つ南部伯は舊封内罹災者へ米三百俵、賴森縣下舊封内へ米百俵を義捐せらる
明治二十九年六月二十七日
○ 曾て岩手縣廰より罹災人民救恤の爲め函館に於て購求したる白米四百石ハ來廿七日宮古に向け解*の旨電報あり
明治二十九年六月二十七日
○ 栃木縣宇都宮共立病院副院長吉永峯太郎醫師平松孚之の二氏ハ今回の災害に特志を以て救護の爲め昨日被害地釜石に向け出發せり
明治二十九年六月二十七日
○一昨夜因州網代軍艦橋立乘込の常備艦隊司令長官坪井少将より遭難地救助の爲め軍艦和
泉を派遣したる旨電報あり想ふに和泉號の宮古港に着するハ今夕若くハ明朝ならん
明治二十九年六月二十七日
○ 日本赤十字社より又々看護婦六名及三陸海嘯罹災救助事務所より看護婦十名各派遣せられ何れも昨日宮古若くハ氣仙郡に向け出發せり
明治二十九年六月二十七日
○ 久米内務參事官ハ昨日午後來盛宮古に向け出發若槻大倉書記官も備荒儲蓄金及荒地等に關する用務を帶び不日來盛の旨通知あり
明治二十九年六月二十七日
○今日迄に山田港に於て發掘或ハ漂着し來りたる死体は四百五十八にして内氏名分明族籍判然せる者三百九十五人ハ埋葬を終へ氏名不祥の者ハ引取人なきを以て火葬に付せり又船
越村の發見死体は三十八にして何れも土葬火葬に付し織笠村の死体四十五ハ悉皆
埋葬し終りぬ
明治二十九年六月二十七日
○ 東園侍從ハ目下氣仙郡の被害地巡視中にて被害者一同ハ只管ら天恩の優渥なるに感泣し到る處三々五々路傍に跪坐して出迎へたる有樣は殊勝にも亦た憐れなり
明治二十九年六月二十七日
○ 今回の海嘯被害に伴ふ沿岸地方より収入ありたる地方税ハ殆んど皆無に歸したるを以つて是れ*補充額五六萬圓に及ぶ可く且つ特派官吏の旅費臨時救恤費等も莫大の額に上りたるを以て不日臨時縣會を召集し是れが善後策を諮問決定する筈なり
明治二十九年六月二十七日
○ 天皇皇后兩陛下より下賜相成りたる救恤金一万圓ハ追て罹災人民授産金に充つる由にて差當り救助費ハ江湖慈善家諸氏よりの義捐金を以て遺憾ながら救恤し得らるヽ豫定なりと聞けり
明治二十九年六月二十七日
○ 氣仙郡唐丹村の鈴木磯治なる人ハ奇特にも今回の海嘯被害者卅二名を自宅に引受け差當り越中富山の賣薬を以て熱心に治療し居れりと云ふ*す可き事ならずや
明治二十九年六月二十七日
○死体ハ到る處累々として散在し暑気烈しき今日の事とて腐敗惡臭を發する事甚はだしく去れバとて是れを取片付くるに人夫甚だ少なく殊に金石町の如きハ全市街の被害なるが爲め何れより手を下さんか只だ茫然たる有樣な明治二十九年六月二十七日
○ 死体の大部分ハ家屋又ハ木材の下に埋没せられたる爲め之を發堀するに頗る困難を感ぜり去十八日ハ遠野町より百名餘の消防夫出張し又他郡村よりも人夫一千餘名入込みて死躰の發堀に從事し傍より公葬墓地に運搬せしめて火葬に附し居りぬ
明治二十九年六月二十七日
○ 釜石町のみにても猶ほ泥沙中若くハ木材若くハ潰裂家屋中に埋没せる死躰數百の多きに達し居らんとの取沙汰なり
明治二十九年六月二十七日
○ 大槌町の内大槌、小槌、安渡等に於てハ遺族者及其地方並に他郡村の人夫にして日夜死躰の取片付を爲し既に廿日迄に陸上の死躰は大概埋葬したるも吉里々々の分は目下猶ほ取片付中なり
明治二十九年六月二十七日
○ 今回海嘯被害地視察の爲め神戸クロニシル社にてハ記者ビ−、エ−、ヘ−ル氏を特派し氏ハ昨日獨逸人某と共に盛岡より宮古に向け出發せり
明治二十九年六月二十七日
○ 牛馬の流亡せる者殆んど枚舉に遑まなく且つ猫ドノ犬ドノの慘死を遂けたるも甚しく目下沿岸被害地にてハ朝夕等も*犬の聲を聴く事なく只だ澎湃たる海灣岸崖を噛んでいとど凄惨の情を喚起するのみ