◎海嘯被害記「其二」 在盛岡市特派員棚瀬軍之佐(六月廿日 午後二時發)
岩手縣廰部内は今や殆んどなきが如し石津収税長も樋脇警部長も村上參事官も津田書記官も其他數十名の吏員は舉げて被害地に赴きたるを以て廰内の事務並に中央指揮官として服部知事居殘り日夜人夫の供給、委員の派出、米穀の運搬等を司どり且つ内務省等の交渉に一瞬間時の餘暇なきに似たり
被害地の報告も刻した較々精確の者を得るに至れり
左表は即ち今日統計したる所の者とす
岩手縣管内海嘯被害概數取調一覧表
(明治廿九年六月二十日 午後六時調)
郡名人口死亡負傷戸數
氣仙郡三万三千六百九
南閉伊郡一万六千二百五十九
東閉伊郡二万八千三百二十八
北閉伊郡七千百五十五
南九戸郡一万千六百四十五
北九戸郡七千七百七十七
合計
備考人口戸數は警察署戸口調査表による本表の被害數は時々増加を來たすにより日々變更あるべし併し斯表と雖も猶ほ終局の者と云ふを得ず何となれば被害地區域の長大なる丈け夫れ丈け調査も非常に困難にして且つ交通の便缺塞し居るが爲め今日被害に於ての調査報告も兩三日を經ざれば縣廰には達せざる可きを以てなり
明治二十九年六月二十四日 ◎海嘯被害記[其三] 六月廿一日 午後四時發 特派員棚瀬軍之佐
明治二十九年六月二十四日
○今回の海嘯地たる岩手縣廰所在地なる盛岡市を距る近きは二十七里遠きは三十餘里の町村にして加ふるに崎嶇羊腸たる峻阪嶮路横はり居るの村落に屬するが爲め通信交通の便杜絶せらる
明治二十九年六月二十四日
○沿岸警察署、巡査駐在所、電信局、郵便局、町村役塲等流失若くは破壞損亡し且つ吏員の流亡負傷を爲したる者數多きを以て人夫を派せんとするも更らに應ずる者なく船舶の如き又通ず可らず
明治二十九年六月二十四日
○斯の如くなるを以て被害地生存者は衣食缺乏せるも是を給するの道なく傾斜せる屋舎に**を訴へしむるに至れり
明治二十九年六月二十四日
○殘存せる毀損の家屋中に没し重傷苦痛を忍びて匍匐手足を延ばし悲泣號哭救を求むるも醫師缺乏の爲め其救治に應ずるものなき比々之れあり
明治二十九年六月二十四日
○或は纔かに身を以て丘陵に*ぢ上りて其生命を全ふし得たるも天地漠々更らに衣食の得べきなく空腹に空腹を重ね進退維谷まりて空く窮死の慘境に陥りし者もあり
明治二十九年六月二十四日
○被害地より歸廰せる一戸技手の談話に依れば北閉伊郡小本地方は海岸より上流二十餘丁の間は憐む可し一望赭黑の泥地に變じて間々僅かに細毛を見るに過ぎずして*荒慘其實に云ふに忍びず
明治二十九年六月二十四日
○海岸に相對する字中野の山麓の如きは屋舎家材の流着堆積せる者多く且つ死躰の此の錯落せる破殘中に横れるもの少なからず阿鼻凄絶實に言語に絶へ鳥聲すら且つイトヽ憐れ至極なり
明治二十九年六月二十四日
○小本は由來八十戸より成れるの地無論舉げて海嘯の慘禍を被りしと雖も僅かに流亡を免れたる者十餘戸ありしかも是の殘存せる十餘戸は屋宇傾覆毫も原形を存せず人命を損亡する三百の多きに至る想ふに生存せる者は三分の一に過ぎざるならん乎
明治二十九年六月二十四日
○屋舎の流失家財の毀壊の如き是の慘禍に逢ふては素より云ふに足らず只見聞者をして*た氣の毒の情に堪へざらしむるは家族舉げて溺死せる者少なからざる事是なり幸にして生き殘りたる者も親を失ひたるもあり妻に別れたるもあり子を見殺しにしたるもありて是等の悲號如何とも詮なし
明治二十九年六月二十四日
○當日は陰暦端午の節に當り沿岸の人民何れも今日を晴れと着飾りて祝意を表し殊に夜に入りては各々一家團欒の楽を取りつヽありしに俄然迅電の如き凄其なる音響地軸を動かして起りしかばスハこそと人々起ち上らんとせる暇もなく山なす激浪怒濤壁を倒し柱を打て襲ひ來り遂に暗夜の事とて多數の死傷を致したる者の如し
明治二十九年六月二十四日
○激浪怒濤の如何に強暴なりしかは河口海岸に於て平水よりは八十尺以上に達したるを見ても知るを得ん
明治二十九年六月二十四日
○水面より八十尺以上の地所の樹木も多くは顛覆し若くは挫折し枝葉と表皮との如きは些の痕跡を止めざるに至る又た屋舎の上際以上に押上げられ二階屋の下層を突折して上層の變轉陥落せる者甚だ多し
明治二十九年六月二十四日
○只今被害地山田港の人にて縣會議員なる昆貞八氏に逢ふ山田港は電信局流失の爲め今猶ほ不通にして從て世人の同地方に於ける慘状を知らざる者多きも實際同地方は非常の災害にて死者も凡そ一千人に達し今日迄に發見されたる屍躰は三百五十人餘に達せり
明治二十九年六月二十四日
○殊に山田港の慘状と云ふ可きは海嘯の引き去りし間もなく不幸にも殘存せる家屋に火起りたる者ありて見る見る四方に延焼し遂に激浪に免がれし殘存者五十餘名は無殘にも猛火の裡に包まれて燒死を遂ぐるに至りたりとぞ*纔かに水禍を脱したる者直ちに火禍に死す
前世如何なる業因ぞ、天此の地に災を下す如斯く甚だしきや阿鼻叫喚の責苦思ひ至れば筆を投じて只だ涙あるのみ
明治二十九年六月二十四日
○被害地は恰も戰争地の如し人馬の往來旁午相織り叫喚悲號四に達して一帯漠々たる平沙鬼哭*々燐火點々凄絶其絶を極む
明治二十九年六月二十四日
○三崎縣治局は本日一ノ關にて下車し直ちに被害地氣仙郡盛町に向ふ
明治二十九年六月二十四日
○岩手東海岸は左なきだに米穀を他に仰ぐの地然るに今や此の慘禍に罹りて一粒の餘剰なく其上各地より多數の人々入込みたるも更らに食物の給す可きなく陸上の運搬は山路重疊甚だ不便なるが爲め縣廰にては北海道函館に照會し*地より海上米穀を輸送するに決し其米穀は本日頃釜石港に到着の豫定なり
明治二十九年六月二十四日
○東園侍從の一行は昨日來盛の處本日更らに引返して水澤に赴き同處より轉じて被害地氣仙郡各沿岸に出張の筈明治二十九年六月二十四日
○仙臺なる第二師團よりは被害地救護の爲め工兵一小隊を派遣されしが只今着盛直ちに宮古に向け出發したり
明治二十九年六月二十四日
○其他赤十字社員の釜石、宮古、山田、盛、鍬ケ崎等に赴く者甚だ多く夫れが爲め是等の人々被害地に到着するに至らば先づ以て遺憾なく救恤するを得ん只だ刻下は農家挿秧の季節とて人馬の雇に應ずる者少なきが爲め多くは徒歩し行けり
明治二十九年六月二十四日
○只今在仙臺第二土木監督署技師吉本龜三郎氏は九戸より海岸通り氣仙郡盛町まで土木工事の損害取調べの爲め出發せり
明治二十九年六月二十四日 ○靑森縣の被害報告
一昨日午後五時三十五分靑森發にて同縣知事よりの報告左の如し
小官管内海嘯の被害地を巡視し昨夜歸廰せり被害の區域は上北郡三澤村字天ケ森以南岩手縣に至る沿岸一帯にして多少輕重あるも概して惨状を極めたり昨日迄の調査に依れは死亡三百四十六負傷二百十三家屋流失三破壞四百六十五比々死躰の漂着する者尠なからず靑森衛戍病院より軍醫二、赤十字社并に同社靑森支部より委員二つヽ各數名の看護人を卒ひて出張救護に從事す重傷は割合に尠なく手當は行届けり
明治二十九年六月二十四日 ◎海嘯死亡數
今回の海嘯に就き昨日迄其筋に達したる報告に由り死亡數を算するに左の如し
巌手縣 二万二千人
宮城縣 三千人
賴森縣 四百人
合計 二万五千四百人
尚精査せば三万人に上るならんと云ふ
明治二十九年六月二十四日 ◎海嘯慘聞 万死中一生を得たる者
最初の激浪を以て家屋の構造を*ち弛るめ再度の襲撃を以て海中に簸弄席巻せられたる宮古町は流亡家屋三分の一鍬ケ崎町は殆んど全部を流亡し其甚しきに至りては一家十三人頭を並べて死亡したるあり老幼男女逃るヽに道なく激浪の中に*轉し潰家の下に呻吟するも
あり慘状目も當てられず生憎當日は陰曇濛々暗黒咫尺を辧ぜず出張の警官も進退駆引の自由を失ひ見す見す人命を救護し兼ねたるも間々あり就中宮古町藤原の如きは新晴橋中斷したるを以て對岸の救援に赴かんとするも能はず舟揖の便に頼らんとするも港内に碇泊せし風帆船(二十噸未滿六隻八十六噸一隻)の内小形三隻は陸上に打上げられ漁船は勿論岸上に漂はされて民家に衝突するあるのみなりしと
明治二十九年六月二十四日 溺死と餓死
東閉伊郡内に於て今回の慘状を極めたるは田老村なりとす同村は大字田老乙部の兩部殆んど流失死者二千三十八人の多きに達し生存者は僅かに百名内外なり而して其僅かに生存したる者も多くは重輕傷者に非るなし此等生存者は樹に攀ぢ登りたる者と當日沖合遙かに漁獲に出でたる者なりと云ふ又辛ふじて災を免れたる者も居るに家なく食ふに粟なく僅かに溺死を免れて*渇に斃れん斗りなるは何等の慘状ぞ
明治二十九年六月二十四日 ●海嘯の前兆
大災の前兆に付ては未だ確たる源因と認むべきものなきも當時異状を認めたる事實は鍬ケ崎漁夫女遊戸沖に漁業し居りたるに沖合鳴動*に聞へ氣味悪きを以て歸家し甚だ奇怪なりと言ひ居たるに果して海嘯ありたりと又當日田老村に林壮藏なる者同業者十二名と小*に網引に赴き居りたるに午後九時前と覺しき頃俄然海水の引き退くこと三百間餘陸地は暗黑咫尺を辧ぜざるに海面及び退潮せし海底は恰も月光の如き蒼白なる光輝を發し諸物を明視するを得たり此れ只事に非らずと吃驚周章傍への髙所へ攀ぢ上ると漸く二間斗りの瞬間凡十丈餘も尖濤屏風の如く吃立非常の速力を以て浸襲し來り同人も辛ふして引きさらはるヽを免れたり田老崎山等の被害現况と宮古館ケ崎と趣を異にするは宮古等に在りては怒濤漸く五六丈に過ぎず且浸襲力の大なるに比し退潮は緩慢微弱なりしも田老等に在りては太平洋に面したる爲めか波濤も大にして十丈餘なりし而して浸襲力退去と共に強大なりしと
明治二十九年六月二十四日
※岩手縣管内海嘯被害地畧圖あり
明治二十九年六月二十四日 ●海嘯と南部家
舊盛岡藩主伯爵南部利恭、舊七戸藩主子爵南部信方、舊八戸藩主子爵南部利克も三華族は今回三陸の海嘯に付一方ならず配意され居る事なるが此中南部伯は一家總代として昨日午後二時を以て被害地に赴かれ夫々慈善の舉あるべしと云ふ
明治二十九年六月二十四日 ●阿部浩氏の出發
岩手縣選出代議士阿部浩氏は昨日午後二時南部伯の一行に随伴し被害地に赴けり
明治二十九年六月二十四日 ●大隈伯の災害談
世界各國中天災地變の多きは伊太利、土耳其、日本なり災變少なきは英、佛なり今回三陸地方の海嘯は維新後第一の災害なり往昔の事は記録の徴すべき者なきが故に詳細を知るを得ざるも明治二十九年間随分事變多き中に今回の如き激烈なるはなし岐阜愛知の震災大は則ち大なるも其死傷者は四五千人なりと覺ふ然るに今回の變は巌手一縣にて死亡者の數二万以上に達したりといふ亦悲慘の極ならずや震災は殘酷なるも家屋人畜田畑を取り去らず海嘯は地上の物件を舉て一掃す今回の變は岐愛震災の比にあらず然るに世人の感情は先きの震災の時の如くに厚からざるが如し是れ全く三陸と東京との交通は東海道筋の如く頻繁ならざるに由る者か此等の不幸は國家の力を以て救助すべき事勿論なり
日本國は外國に比して災害多し災害多き國の人民は災害に勝つの力も増加する者なるに我國民は天災に勝つの力に乏しきは遺憾なり云々
明治二十九年六月二十四日 ●太田書記官と久米參事官内務省參事官久米
金彌氏は兩三日内には宮城縣下の視察を終り岩手縣に赴き書記官太田峯三郎氏は今日中に靑森縣下の巡視を終り同く岩手縣に向ふ筈なりと
明治二十九年六月二十四日 ◎義舉一束
義捐金 明治二十九年六月二十四日 ◎東奥海嘯罹災救助義捐金
一金壹圓 東京蠣売町三丁目十一番地 大塚留吉
一金參圓 本郷順天堂内 岡山縣平民 眞柴平三郎
一金參圓 横濱野毛町三丁目七十番地 井上德右衛門
一金拾五錢 越後北蒲原郡笹岡村 加藤初三郎
一金壹圓 東京 戸川安宅
一金參圓 同 佐久間貞一
一金壹圓 同 同 ます
一金壹圓 同 同 てつ
一金五拾錢 同 同 ゆら
一金五拾錢 野州足利町 原田絹糸店 丁稚
一金壹圓 下谷仲徒町一丁目 岩崎万次郎
一金五圓 東京 須藤時一郎
一金壹圓 同 同 きく
一金五拾錢 同 同 壮一郎
一金五拾錢 同 同 十二郎
一金五拾錢 同 同 三郎
一金五拾錢 同 同 愛子
一金五拾錢 同 増田 園
一金五拾錢 同 清水四郎
一金五拾錢 同 竹中こま
一金拾錢 同 渡邊文子
一金拾錢 同 須藤*一
一金拾錢 同 同 みよ
一金拾錢 同 増田録郎
一金拾錢 同 同 夏郎
一金參拾圓 京橋區南八丁堀一丁目十番地 渡邊又兵衛
横濱市の義捐(第一回)
一金三十圓 横濱 朝田又七
一金三十圓 同 西村喜三郎
一金三十圓 同 左右田金作
一金十五圓 同 増田嘉兵衛
一金十五圓 同 中山沖右衛門
一金十圓 同 中山新平
一金十圓 同 田中林藏
一金十圓 同 原木仙之助
一金十圓 同 木間金三郎
一金十圓 同 吉田町 津田啓次郎
一金十圓 横濱 *原又市
一金五圓 横濱石川町 鶴屋呉服店主 古屋*兵衛
一金五圓 同 鶴屋*中* 店々員中
小計 金二百四拾五圓拾五錢
合計 金二百八拾八圓六拾五錢