明治二十九年六月二十三日 雜報 ◎海嘯視察(第二信) 特派員棚瀬軍之佐 (六月十九日 午後三時)
○前報後猶ほ詳細の調査報告を得ずと雖も第一部分なる牡鹿郡沿岸の被害慘状は只今實地視察を遂けて歸仙したる片野宮城縣屬の談話に依りて略々其一斑を知る事を得たり○牡鹿郡に在りては雄勝、女川等尤も其慘状を逞ふし既に片野屬の調査檢分したる處に依るも雄勝は宮城集治監の囚役所看守八人死亡、囚役十二人の中行衛不明八人、死骸發見一人、逃走中捕縛されし者三人外に男女の死亡せる者十七人に及ふ○目下雄勝灣に於て施米救護中の者は熟慮二千餘人にして何れも辛く其日を送り居れり不幸中又不幸なるは海水井戸を浸したるが爲め飲料水悉く混濁し夫れが爲め炊き出し等又非常の困難を感じたるも*塲如何んともしかたく昨今は止を得ず是の泥水を使用し居れり
○雄勝灣より三里半隔たりたる荒屋敷十六戸の内十三戸は深く敷石までも激浪に浚はれて些の痕跡なく只だ緩かに山續きなる三戸丈けは其原形を存在するのみにて酸鼻目も當てられず而して流失死亡は二十八人に及び發見されたる死骸は三箇のみに過ぎず
○同處には九人の家族中*かに一人を剰すのみにて餘は悉く死亡したりければ殘る一人は殆んど半狂亂の躰にて日夜號泣して其不甲斐なきを嘆じ生きて此後の憂き目を見るより寧ろ死するに若かずと嘆きて止まざるより見る人一同涙ながらに慰め居ると云ふ
○船越には死亡者なきも家屋の破壞せる者二三十戸に及び財物の如きは總て流失したるが如し
○女川の内鷲の神には死亡一人あるのみ併し家屋破壞せる者未詳なるも想ふに三四十戸を下らざる可し
○大原村の内矢川は鷲の神と較々同様にして死亡者には婦人及小兒の二人あるのみ
○今回の海嘯は本吉郡志津川は其中心點にして南雄勝に至りて止まり牡鹿郡女川鷲の神等は其餘波を受けたるに過ぎざるが如し從て被害の度南方よりも北部沿岸甚だしく漸次北するに從て歩は一歩より悲慘を極む
○十三濱等にて漁船の流失したる者五十餘艘に及び就中漁民の生命とも云ふ可き三千余圓の巾着網の紛流したる者も二三にして止まらず○殘存せる建物並に樹木等の年數に徴すれば此地方は慥かに五六百年の間は天變地異の災害に罹りたる事なきが如し○右は只今宮城縣廰に於て片野屬より直接聴取したる被害地惨状の一班なり素より慘状の十一を盡さずと雖も取敢へず報道し置く事とせり委細は後便に附す
○今日午前九時股野宮内官より宮城縣廰に打電せる處に依れば海嘯被害地實地視察の爲め特派せられたる東國侍從は今夕來仙の筈にて夫より直ちに岩手縣釜石方面に向け出發し宮城縣の分は***察する趣きなり
○海嘯被害の慘状各地に傳はるや其翌十六日第一着として慰問電報を寄せ來りたるは愛知縣知事時任爲基氏にして又他縣人にして劈頭義損を申込み來りたるは岐阜縣會常置委員山田清三郎氏にして其金額は二十五圓也兩者共に震災に依りて其疾苦を知る者同情相憐の情眞に掬す可し
○被害の翌日横濱在留の英國商人レプレポスト宮城縣廰を過りて一坂書記官を訪ふ時に被害地より電音頻々として至りしが書記官結愁*憂一々是の電音を披閲して談話**常なかり*よりレプレポスト用務繁多に*の毒とや思ひけん直ちに辭し退きしが暫時にして再び來訪し只一分時間書記官に面謁したしとの事故重ねて面會せしに彼れ愁然語を次で曰く只今通辭より貴官に頻々達せる電報の要旨を聞けば御管下中海嘯の爲め死亡若くは家屋の流失したる者少なからざる趣き實に痛悼の至りに堪へず余は行旅の一人甚だ失敬なるも願くは被害人民救恤の費用中に加へられなば幸甚と即座五十金を投じて去るアヽ行旅の外人猶ほ斯の如し願くは本邦の慈善家たる者*て此の憐む可き被害人民を救恤して遺憾なからしめよ
○今回の慘状に付き最早や備荒貯蓄の賑恤に充たす可き者なきを以て宮城縣にては遠からず臨時縣會を召集して其善後策を協議する筈
○臨時事務所は今は宮城縣廰内に設けらる是れが委員に任ぜられたる者數十名の多きに及ぶ
○去十六日急行被害地なる本吉牡鹿方面に赴きたる勝間田知事は今日若くは明朝歸廰の旨電報あり
○ 海嘯被害以來宮城縣にては知事參事官収税長等巡檢中の事とて報告書等日夜絶間なく到着し且つ報告統計書等調製の爲め爾來徹夜にて事務を取扱ひ居る程なり
○
明治二十九年六月二十三日 ◎海嘯被害記『其一』p 在盛岡市特派員棚瀬軍之佐 (六月廿日午後六時) 明治二十九年六月二十三日 ◎海嘯被害記『其一』 在盛岡市特派員棚瀬軍之佐(六月廿日 午後六時)
宮城縣管内に於ける海嘯の實況は大略前便に附して報道したるが如く最早や同縣の分は調査も*々精確に至りたるも岩手縣管内の被害地に至りては猶ほ未だ世人の耳目に觸れざる至悲至慘の事實甚だ多く且つ縣廰と被害地とは髙山重疊、嶮路崚坂も少なからざる僻遠の地に觸するを以て臨檢官吏の今猶ほ中途に在り若くは被害地に*みたるも郵便線の斷線或は電信輻輳等の爲め報告書の到達せる者至て少なく從て江湖諸士の釜石、宮古、山田鍬ケ崎、氣仙各地の被害の如何に大にして如何に酸鼻悲痛す可き慘禍の者なるかを知らざる者多きに似たり
余は於是宮城縣管内の被害地通信は舉げて是を仙臺なる常設通信員に托し本日午前十時三分仙臺を辭して岩手縣廰所在地なる盛岡市に向ふ仙臺停車塲迄は奇人沼澤興三郎翁外數名送り至る殊に前夜は淺尾辧護士より招かれて東一都川亭に小酌す東北日報の髙谷祐次氏又席に在り
車中聖旨を奉じて被害地檢分に赴く東園侍從の一行あり送山迎水幾多の短亭長亭を過ぎて午後二時前一ノ關に至る停車塲にて平田代議士に會す代議士又明日を以て被害地視察に赴く筈にて余と盛岡に會合す可き約を締す此地より余が知人なる磐井警察署長同乘し相互別後の情を叙し且つ同署長の吻頭より縷々被害地の慘状を聞く乘者皆耳を覆ふて暗涙に咽ぶ署長の此行又被害地に出發するなり
余が生れの故郷中里村は一ノ關を距る纔かに二十四丁の間に在り此行急匆素より家門を過ぎるの暇なき車窓遙かに前後を顧望して行く多少の感慨なきに非ず磐井警察署に達せる被害地の報告を聞くに實に豫想猶ほ且つ及ばざる慘澹の者あり殊に釜石の如きは全市悉く流亡して死者又萬餘に及び負傷者の如きも舉げて算す可らざる程なり爲めに岩手縣廰は日夜吏員を派して其救恤に餘念なきも爰に最も遺憾なるは工夫人足等の拂底及諸品運搬馬匹等の不足なりとか云へり故に管内の各警察署よりは一署纔かに三四の巡査を殘せるのみにて他は警部も巡査も悉く部署を分ちて被害地に赴きたるも沿岸の町村は殆んど何れも全部流亡せる事とて宿舎す可き家屋なきは勿論被害地に集合せる官吏及人足等に供給す可き米穀乏しきが爲め如何に人足等を雇傭し行くも目下の處是れが所置に苦む計りなりきとなり
然れども幸にして生存せる者若くは負傷せる者に向ては既に第二師團の軍醫數多派遣され赤十字社員并に看護夫の如きも各々救護機械を携へて出發したるを以て兎も角爲し得る丈けの手當は爲しつヽあり
宮古にては海嘯の當日一山を以て海岸と離隔せる山後の村役塲に於て村會議を開きたりしが會議意外に長びきて夜に入り纔かに結了を告け議員連中各々手を携へ其住所なる宮古町に至り見れば何ぞ圖らん今や全市激浪渦中に投入せられて慘澹悲號の聲波上に紛湧し見るさへ恐ろしき光景なるも逆捲く激浪天地を振憾して寄せ來りし眞最中なれば今更如何んとも救護の道なく只だ山上に屹立して茫然愕然たりきと云へり併し會議の延刻は幸ひにも議員連中の生命を助けたる者と云ふ可し何にか幸福となるや知れぬ者なり
巌手縣會常置委員として多年敏腕家の聞へありし閉伊郡釜石の人小輕米汪氏は何たる素因ぞや居常盛岡に搆居し居るに拘らず海嘯の數日前歸省して遂に死亡したりとは悼む可き事に非ずや噫慘又慘
◎海嘯飛電
明治二十九年六月二十三日 ◎陛下の御仁昤
奥州地方の大海嘯は近古稀有の異災なるが天皇陛下には畏くも大御心を惱せられ既に東園侍從をして*害地の實況を委しく視察せしめられしが昨今は日々宮内大臣を召させられ遭害地よりの電報等を御下問ありて大臣より奏上ある毎に宸襟を勞せらるヽ樣身受け奉ると御仁昤の程漏れ承るさへ畏れ多き*にこそ
明治二十九年六月二十三日 ●三縣出身在京有志會
海嘯被害地宮城、岩手、賴森三縣出身の在京有志者は去廿日午後一時より新肴町開花亭に集會して罹災民の救助方法を協議せしが當日出席者は武者傳次郎、千葉胤昌、吉田正章、佐藤琢二(以上宮城)南部景晴(南部家々令)佐藤昌藏、阿部浩、鵜飼節郎(以上岩手)藤田重道、原十目吉(以上靑森)等其他數名にして左の救助手續
を議決し千葉胤昌氏は即夜仙臺に向け鵜飼氏は一昨日靑森に向け出發したり
三陸海嘯罹災人民救助手續
一宮城、岩手、賴森三縣下の海嘯罹災人民救助に關する政府への交渉及請願の運動は三縣 撰出の代議士諸氏主として之に任じ他の有志者は之が應援を爲すべし
一事務所を東京々橋區南鍋町一丁目八番地に置き罹災上に關する調査を爲し且其の事務を 處理するものとす
一事務所の經費は代議士諸氏及其他有志諸氏の醵金を以て之に充つるものとす
一事務所は代議士諸氏の意見に依り政府への交渉及請願の容れられたるを機として解散すべし
一事務員は帝國濟民會事務員之に當る
明治二十九年六月二十三日 ●本願寺の救恤
本派本願寺にては今度巌手、宮城、賴森三縣下へ救恤として取敢へず金一千七百圓を贈與し且つ門末へ對し義捐の舉に出づべしとの諭達を發したりと云ふ
明治二十九年六月二十三日 ●函館と海嘯
北海道にては幌泉亦災害に罹り流亡變死の數尠なからず然るに函館は*一海岸に面するに拘らず同港辧天、若松海岸住吉の沼岸各町とも別に浸水の害を蒙りしなく唯十六日午前一時頃海面の靜穩なるに似ず、潮流非常に膨張し沿海の溝渠へ海水漸次侵入し來り遡流し居るを認めたるも翌拂暁に至り全く干潮し毫も損害を被らざりし是より先き室蘭に向け出帆したる定期航海船田子の浦丸、根室航として出帆したる伊勢丸の二隻は海霧の爲め中途より歸航したりといふ
明治二十九年六月二十三日 ●海波に異状を呈す
日向國宮崎郡*生*港に於ては去る十六日午前六時頃より突然海波に異状を呈し濁り切つたる潮水滔々と突浪川に*流する勢ひ凄まじく川より流出づる水と海中より溯る潮水と衝突して非常に激し爲めに突浪川に繋留せる漁船材木など彼方此方へ漂ひ一時は中々の騒ぎなりしが波浪の同樣は午後六時に至るも鎮靜せず又同所より三里を隔てたる内海港にても突浪川に於けるが如く内海川へ非常の潮水侵入し來り其勢ひの甚だ凄ましきより同所の人々は大に恐怖し今にも海嘯の押寄せ來らんかと安き心もなかりしに十
一時頃より平常に復したりと
義捐金 明治二十九年六月二十三日 ◎東奥海嘯罹災救助義捐金
一金一圓 東京谷中 大野洒竹
一金二圓 東京下谷 安立院主 中川光諭
一金五十錢 麹町區有楽町 原 拓郎
一金二十錢 芝三田四國町 笹川まさ
一金二十錢 同 中谷いの
一金三十錢 同 牛込甲良町廿六番地 中澤金一郎
一金三十錢 東京 石川道正
一金二圓 埼玉縣北埼玉郡笠原村 中根得太郎
一金五圓 東京市京橋區南小田原町四 尾崎正若
一金二圓 同 靜
一金五十錢 同 幸子
一同 同 正*
一同 同 正文
一同 同 正道
一金一圓 同 やそ
一金一圓五十錢 尾崎方 吉田滿壽
一金五十錢 同 正久
一金二十錢 東京西紺屋町 秀英舎 小島辰藏
一金二十錢 山本*次郎
一金二十錢 島 連太郎
一金二十錢 内山和太郎
一金二十錢 瀧 勝次郎
一金二十錢 邊見久五郎
一金二十錢 野村 莠
一金十錢 金田直三郎
一金三十錢 日本橋區*売町一丁目四番地 布施*一
一金二十錢 同 *子
一金三十錢 神奈川縣神奈川町浦島町 飯田國造
一金十錢 同 飯田さく
一金十錢 同 飯田福太郎
一金三十錢 三重縣伊勢飯南郡神戸村 北村德藏
一金十錢 同 村 北村しげ
一金十錢 同 村 田町*之助
小計 金二十圓五十錢
合計 金四十三圓五十錢
欄外 明治二十九年六月二十三日 ◎御救恤金
本月十五日三陸地方海嘯の災に罹りたる**然に
・・????以下再チェック