社告
三陸の海嘯高く@きて惨禍の及ぶ所三十餘里、幾千の生民老を扶け幼を救ふの遑あらずして空しく波間の鬼と爲る、田@裂け家屋潰えて滿眼凄惨の致を極むこれ豈近年希有の異災ならずや、本社乃ち棚橋軍之佐氏を被害地に派遣して其實況を視察せしむ、氏は東奥の地勢人情を詳悉するもの其報告は凄惨の光景を活寫し來て血あり涙ある江湖士人の同情を@起するに足らん
義捐金 義捐金募集
東奥海嘯の惨禍は前に述ぶる所の如し其一生を萬死に得たる者と雖ども、歸らんとするに家なく、食んとするに糧なく、風濤洶湧の餘に@@する、其數果して幾何ぞ、是に於て我社は博く江湖の義財を醵集し遭難の窮民に施して衣食の萬一を補助せんとす博愛義侠なる江湖の士人幸に彼憐むべき同胞の惨苦を@め但義捐金は金十銭以上とす義援者の姓名金額は本紙に掲出し且別に受領證を出す被害者に交付方は地方廰に依頼す
明治二十九年六月十九にち
毎日新聞社謹告
明治二十九年六月十九日 雑報
明治二十九年六月十九日勅使差遣
去る十五日午後八時過より岩手宮城青森三縣下東南海岸に大海嘯起り同地方人民の惨害に罹りたる者非常に多き由の電報去る十六日より昨日にかけ續々其筋に到達せしかば土方宮内大臣は其の報知を得るに随ひ其都度*内*聞に達したるに陛下には深く宸襟を惱ませられ昨日遂に同地方に向け勅使として侍従東園基愛氏を差遣せらるべき旨御*ありたり同侍従は畏き命を拜し本日上野發第一列車にて同地方に向け出發せらるヽよし
明治二十九年六月十九日 ●久米参事官の出發
大海嘯被害地調査を命ぜられたる内務省参事官久米金彌氏は昨日午前上野發の一番汽車にて被害地へ向け出發したり
明治二十九年六月十九日 ●池田事務官の被害地到着
去十六日夜急行列車にて今回の海嘯地へ向け出發したる逓信省事務官池田十三郎氏の一行は翌十七日宮城縣仙臺に到着直ちに流失電線の應急工事に着手せりとの報ありたる由
明治二十九年六月十九日 ●赤十字社の慰問
日本赤十字社に於ては一昨日岩手縣下へ醫員看護人を派遣せしが尚昨日午前六時上野發の汽車にて宮城縣へ慰問として醫員黒岩*朋氏に看護人一名を附し出發せしめたるよし同縣下は師團所在地なれば赤十字社支部の設けあり随て醫員看護人等にも差支あらざる見込にて特に慰問として派遣したるものなれとも尚負傷者多くして到底支部の人員にて不足を感ずるときは直ちに本社より醫員及看護人を派遣する筈なりと云ふ
明治二十九年六月十九日
●氣仙沼來電宮城縣本吉郡氣仙沼は其の位置海岸に沿ひ郡内繁華の土地なるが今回同地方の海嘯に付其の安否を問合せたるに一昨日午後八時發にて左の返電ありたり
當地無事志津川唐桑*にて死亡二千餘人あり
明治二十九年六月十九日
●首藤代議士宮城縣第五區選出の代議士首藤陸三氏は進歩黨遊説員として過日來關西地方旅行中なりしが*州松江に滯留の折柄其の選挙區なる宮城縣下本吉、牡鹿の二郡海嘯の爲めに非常の惨害を蒙りたりとの報に接したれば山口縣巡回の事を中止し直ちに歸京して被害地を見舞はんと即日松江を出發して廣島に出で同地より汽車に塔じて歸途に就くとの電報ありたり
明治二十九月六月十九日 ●國民協會の視察員
國民協會にては三陸の海嘯被害地視察として幹事薬袋義一氏を仝地に派遣することヽなり仝氏は本日上野發一番汽車にて出發する由
明治二十九年六月十九日 ●金庫検査員の遭難
目下岩手縣下に出張中なる大蔵省金庫検査員並木鈴木兩氏は海嘯の當時宮古支金庫にありて遭難したるも幸に微傷を負ひしのみにて職務に差支なき旨其筋に報知ありたり
明治二十九年六月十九日 ●汽船金州丸
日本汽船會社の汽船金州丸は去る十五日午前十時横濱より荻の濱函館等へ向け出帆せしか同船は海嘯后荻の濱に入港したる由電報ありたりと云へば多分何れかの沖合にて海嘯の波
動に遭遇せしならんと云ふ
明治二十九年六月十九日 ●岩手縣下の負傷者
岩手縣下へ赤十字社より出張したる大吉醫師より醫員看護人調剤師等増遣の請求ありし事は別項の通りなるが此事に付き同社員の語る處に據れば戦時負傷者二百名に付醫師三名調剤師一名看護人三十名を附する規則となり居れり然るに岩手縣の負傷者は果して幾何なるか知ることを得ざるも醫師都合四名調剤師二名看護人十三名を要する由なれば現に救護すべき負傷者は二百名以上なるべし只看護人の請求少きは同地に看護人を補助せしむべき人のあるものならんと云々
明治二十九年六月十九日 ●青森縣下の救護
青森縣下にも旅團司令部あり赤十字社支部の設けあれば定て同部より救護員を派遣し居るならんとの見込なれども若し支部員にして不足なれば是又宮城同様派遣する筈なりと
明治二十九年六月十九日●釜石地方は再度の海嘯
岩手縣下釜石地方神戸新田附近には去る明治二十五年中一度津浪の起りたる事あり釜石は全町内の家屋皆潮水に没し神戸新田は其山際迄打寄せられしも當時は只坐床を浸したる迄にて大なる損害はあらさりしか今回は全家屋流失するの不幸に遭へり聞く處に依れは津
浪なるものは其大小に拘らす寄來る時は緩慢なるも退く時は急激なれは何人も姑息の考より或は二階に逃れ或は小距離の處まて奔り心を許るし思はすも溺死したる者多かるへしと此事に経験ある人は物語れり
明治二十九年六月十九日●平地は被害少し
海嘯の害は其來る固より咄嗟の間に在りて澎湃とし陸に上ること猶洪水の如けれと其障害物(主として山岳)に逢ふや反動の爲め勢忽ち猛烈となり爲に人家其他を破壊流亡せしむるものヽよしにて茫漠として數里山岳を見ざるの平地は被害却て少なしとの事なるが今回の海嘯の如きにしても氣仙沼附近及び南九戸郡の災害少なかりしは此等地勢の関係に由るものならんと云
明治二十九年六月十九日●被害沿岸各地の人工稀少今回の海嘯の爲め
惨状を極めたるは石巻以北八戸以南百餘里間なるが此地方は漁*の収穫多く*桑の業亦盛にして殊に宮古港の如きは富豪家少からざるよしなるに此地方の特質として不思議とも云ふべきは人口は頗る稀少なり
明治二十九年六月十九日●兩海上保険會社支店代理店の安否東京並に
明治二十九年六月十九日 雜報
明治二十九年六月十九日 ◎海嘯の原因及歴史
日本は原來火山脈多き土地なるを以て古より地震の多き世界中我國の如きはなかるべし而して之を歴史に徴するに地震の海邊に起るや常に海嘯を起し人家田畑を流失し人畜を死傷せしめさるなく海嘯の原因は全く地震に因來するものなり然れども古來未だ今回東北地方災害の如く區域の廣く且つ損傷の大なるはなし今我國開闢以來海嘯史を*するに左の如き者なり
一人王四十八代**天皇天平**二年六月五日
大隈神造新島震動息まず海水溢れ民皆亡す
明治二十九年六月十九日一清和天皇貞観十一年五月二十六日陸奥國地大に震動し流光晝の如く隠映す少頃くして人民叫呼伏して起る能はず或は*仆れ壓死し或は地裂け馬牛駭*走り或は***し城廊倉庫門檣垣頽落顛覆する者其數を知らず海上哮吼の聲**に似たり響濤涌潮***溢し忽ち城下に至り海を距る數百十里浩々其涯*を知らず原野道路随て**したり船に乗するに*あらず山に登るに及び難く溺死するもの數千人資産苗稼殆んど孑
明治二十九年六月十九日
一光徳天皇仁和三年五月廿九日七月二日同七日
共に地震す此日五畿七道諸國の官舎多く損じ海潮*に*り溺死するもの*て數ふ可からず摂津最も甚し夜東西聲あり雷の如し明治二十九年六月十九日一朱雀天皇天慶元年六月二十日地震す鴨川水大に溢れ京城に入り多く人屋を漂流す
明治二十九年六月十九日一後村上天皇興國十六年六月十八日及二十日地
震す阿波*港海溢れ居民盧舎千七百家を流失す同七月廿四日大に地震し難波浦海溢れ死する者數百人阿波鳴門潮涸れ陸となり**あり石上に見はる
明治二十九年六月十九日一後土御門天皇延德七年八月廿二日伊勢地大に震ふ海水**流死するもの一万余人國崎島没す此日鎌倉震する事一晝夜凡そ三十度江島地峡又海となる又此日伊勢紀伊等河海溢れ安房國海嘯あり内浦誕生寺爲に破損す
明治二十九年六月十九日一後陽成天皇天正十八年二月十二日地震し安房上總下總常陸最も甚し山崩れ海埋り家屋顛倒せざる者稀れなり又慶長六年十二月十六日上總安房地大に震ひ山崩れ海埋り*を海上に爲し潮*る事三十餘町明且海大に鳴り潮水溢れて人畜死する者算なし同十九年十月廿五日地大に震ひ海溢れ死する者多し
明治二十九年六月十九日一東山天皇元禄十六年十一月廿一日關東諸國地
震海嘯あり安房亦甚しく家屋一時に*へり相模武藏上野等甚しく江戸城廓壞れ茅屋一も全き者なし箱根山崩れ海水暴溢し溺死數ふべからず同時に安房國亦津波あり千餘家を流亡せり又四年十月四日伊勢國度會郡海水激す民屋流亡し男女死する者八十餘人遠江國潮涸れ荒井白須賀陸陥り人畜多く死す光格天皇寶永九年四月得撫島地震し海嘯あり露船を飄蕩して山上に至る後海に下す可からず露人之を棄てヽ去る孝明天皇弘化四年十一月四日地震あり富士山及箱根山崩れ下田海溢れ十八箇所曠野となり溺死者多し紀伊國湯淺の民家千餘戸を破り大島を沈没し島民皆死す伊勢國は山田の町家數百を破り人多く溺死す和泉攝津播磨諸國洪波興り大坂の市民七百廿人道頓堀に溺死す