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雜報 明治二十九年七月五日

明治二十九年七月五日海嘯被害記『其十四』 (六月卅日午後九時發)碧泉生

○北九戸郡久慈港の慘状を觀撃したる後余ハ猶ほ進んで野田に赴かんと欲したりしも北部の大慘禍ハ久慈最も至甚至劇を極め野田の如きハ家屋僅少なる丈け既に取片付を終れりとの報ありしを以て余ハ遺憾ながら野田を見殘して再び大川目に入れり
○氣仙より釜石、宮古、鍬ケ崎、山田等の慘状は*者數々報道したる所、獨り北部沿岸を剰したりしに今や久慈港に入りて一百餘里に渉る東海岸被害實况ハ報道し終ハりぬ
○廿八日午前九時駄馬を賃して大川目より大野に向ふ細*蕭々衣袂を*ほして至る早坂を跨*るの頃天漸く晴る道路嶮惡馬蹄遅々として恰も牛脊に跨りたるが如く五里の行程優に七八時間を費やし黄昏初めて大野に入り長内と稱する旅亭に投ず海嘯の談判處に喧しく往來の人又*るが如し
○廿九日*明*氏駄馬を賃し大野を發して田代に赴く北するに從て道路較々見る可き殊に靑森縣に入りて一層道路の修繕行届けるを感ず
○田代より腕車に乘換ひ行歩飛ぶか如にて正午八戸に着し江藤にて晝餐後一時五十分の列車に乘じて盛岡に向ふ大蘆、竹内の*停車塲迄送り至る
○晩景盛岡に入れば大津淳一郎氏の待つあり依て常置委員鈴木文三郎、三田義正、鄕橋嘉太郎の三氏と共に大津氏の旅舎清風館*ふ海嘯善後の談深更に渉れり
○海嘯善後の策は最も迅速に*も適當に請ぜさる可らず臨時議會を開設して救護の道を協賛する可なり或ハ憲法の許す範圍に於て緊急勅令を以て豫備金支出するも可ならん來て被害の慘状を目*せば決して善後の問題ハ等閑に附す可らざる者あるなり
○數十年來祖先の遺業を繼承して藹々たる和樂の家庭に優かなる生活を營みたる人民ハ一朝海嘯の爲めに父母兄弟妻子に死別し今や着るに衣服なく喰ふに米粟なく憐れ**を身に纏ひ傷を裏んで到處の沿岸、臨時救恤所門前に集りて食を求むる者を見よ
○アヽ如何なれば斯く迄に憐れ至極なるぞやアヽ如何なれバ天斯の人民をかく迄に酷遇するぞや
○刻下焦眉の急ハ殘存者に衣食を救恤すると同時に彼等の生命たる可き漁船漁具を給與するに在る也
○若夫れ漁船漁具の**にして最も迅速に行ハれしめば彼等ハ長く救恤所門前に佇立せず愉快安心に從來の漁業獲収を勉勵して其殘命を保*するに努むるならん去れば當局者たる者ハ漫に姑息の善後策に拘泥彼等の不幸を看過するなく早速漁船漁具を新造して彼等に水産族*収を努めしむ可し刻下焦眉の急ハ蓋し爰に在り
○憐れなる殘存者ハ爾後連日海上を睨んで其無情を慨けり既に今日歸盛せる被害地視察員の談話に依るも宮古港頭に蕭然佇立し大音聲を舉けて絶呼する者あり而して絶呼する者ハ曰く「この腐れ海め、このほいど(乞食の事)海め、なんだっておれのお方や(妻)わらし(小兒)殺しなんだ、この赤どうす海め(癩病の事)おれのお方なんぞぁ、かた*て善ひお方だツた、ほんにおれぁ、生きたくもなんにもなひ、このほいど*め」彼れハ狂氣の如く血涙を絞り海に向て其*情を訴ふ
○彼れの是の言*し天*なり
○*れか是の悲哀なる音響を聞て泣かさる者やある、嗚呼彼等ハ實に海の無情に逢うて満腔の悲哀思ハず爰に至りし者なり*心慈*ある者是の*を聞て如何の感をか爲す

明治二十九年七月五日????欄外にあり