雜報 明治二十九年七月二日 海嘯被害記『其十二』 (六月廿八日 午後八時 於久慈港) 碧泉生
○廿七日午前七時陸奥八戸の旅舎を出で*車を賃して東海岸を南下す久地港に赴かんが爲めなり
○八戸久慈港間ハ一條の濱街道なる者通じ居るも羊腸**として凸凹常なく腕車ハ賃せりと雖も殆んど七車四歩の割合を以て通越せざる可らず
○途中大野にて腕車を換へ晝食を喫し早坂峠の山夏井に至りて下車し夫より一里の峻坂嶮路を跋渉して午後五時頃久慈港を距る一里手前なる大川町に入る
○大川目警察署に*りて先づ同署所轄管内の被害情况を叩き内勤巡査二名出で迎へて*さに當夜の情况を談話す署長以下ハ今猶ほ久慈の臨時事務所に在りて諸般の殘事を處理し居れり
○疲勞彌々加ハりたるも久慈港の慘状を實見踏査せんが爲め一行相携て大川目を出づ町端に至りて沿岸を搖望する火氣焔々天を焼きて四方に起り且つ臭氣紛々鼻を撲つ者あり
○大川目より久慈門前此間殆んど三十七八丁一望際涯なき耕地にして農家諸所を點*せるに今や悉く荒涼凄慘其極に達し家倒れ人死し農作枯*し道路潰廢して些の舊觀を存せざるに至る死三百二十負傷三百餘、流亡家屋九十六の多きを以て其慘を察し得べきなり
○行くゆく歩を久慈門前に轉せは家屋の倒潰して片木破柱を殘存し一見海嘯の如何に狂暴猛烈なりしかを豫想せしむる者あり而して今や大川目警察署は善後の衛生を重んじ悉く是の殘屋を該所に堆積して灰燼に附し居るなり
○臨時事務所にて東警部に會して審かに當夜の光景を聞く二回の遠電殷轟を聞き數十分に渉る強微の地震を感ぜるハ此地又他と異なるなし
○夫より郡吏、巡査救護員三名の案内を以て猶ほ親く倒潰廢殘の跡を見る處聞く處悉く*腸寸斷の*ならざるなし
○死体の漂着し來る者若くハ潰殘の倒家中より發堀せる者今日迄既に數百の多きに及び此日の如き亦四人の死体を發見して荼毘に附したりと云へり
○此地方ハ海嘯の當時ハ多く就寝せし者から從て寝耳に水の災難に進退の自由を失し手殊に夜陰昏*殆んど東西を辧じ難かりきと罹災生存者の一人ハ云ひき
○死体の悉く赤條々たるハ以て其證となすに足る何となれバ東奥の習慣として就寝の際にハ男女共に赤裸々の儘にして衣服を身に纏ハざるハ一般人の爲す處なれバ也
○久慈町は農民と漁民より組織せられたる所なりき然るに農民ハ悉く耕地を壞廢せられて耕すに山なく漁民ハ悉く漁具を流亡して漁するに由なし彼等ハ纔かに生き延たりと雖も生活の道ハ絶たれたるなり
○電柱の流失せる者三十餘本に及びたるも今は差支なく建設せられ電信又通じ居る
○海嘯の當夜は大川目警察署員の内外に盡力せるハ勿論なりと雖も村田幸七郎なる人の所有に係る久慈炭山の工夫の斡旋盡力又没す可らざる者なり既に當夜の如きも直ちに百名の工夫を繰出し又救助費の中に金一百圓を義捐したり
○久慈炭山は横濱在留の佛人(十三番舘)某出金して營む所の者村田幸七郎氏ハ表面の所有名儀者と聞ゆ規模も較々見る可く既に運炭鐡路の如き若くハ桟橋の如きも久慈港頭に架せられて其繁榮を示したりしに憐れむ可し遂に鐡路も桟橋も激浪渦中に投せられて跡方もなく流亡せり爲めに四五日前より其採掘を中止したりと傳ふ佛人三名現に久慈に在り
○久慈接近地の被害又尠少に非ず野田ハ死亡二百八十三、負傷五十九、流亡家屋七十二戸、宇部の中大字久喜ハ死亡百五十六、負傷三十六、大字小袖ハ死亡三十四、負傷二十、流亡家屋久喜小袖合して五十八
○夏井村の中閉伊の口にハ死亡四十、負傷四、流亡家屋十三、侍濱ハ死亡二十三、負傷三、流亡家屋二、中野村ハ死亡六十一、負傷十四、流亡家屋二十四、長内村ハ死亡二十一、流亡家屋二、
○是等諸村の中に在りても最も其慘禍を蒙り全部流亡潰廢せるハ久慈及野田にして慘絶悽絶の光景*し如何なる文字と雖も形容し能ハざるを悲む鳴呼『悲痛還悲痛、憤然還慨然、此心與誰語、揮涙向神前』
○昨夜東警部余等が旅宿に來訪ありて具さに當夜の情况を説く警部涙を以て語り余涙を以て聴くアヽ死する者又た還らず悲哉
○黄昏久慈を辭せんとする時臨時事務所門前幾多の男女食器を抱て集合し來る中に傷を*むの小女二三わり彼等ハ悉く顔色憔悴し形容枯渇し愁然憂鬱を*****に涙を浮ぶ余ハ是の悲む可き憐む可き心情を察して思ハず廢聲號哭する事多時、アヽ彼等罪なし天何ぞ斯の如き夫れ無情なるや
○是れ皆な施米救恤を受くるの罹災者にして目下二百餘名の多きあり
●北海道の海嘯續報
日高國幌泉地方に於ける六月十五日海嘯の襲來及び退去ハ各所一定ならざるも概ね同日午後八時三十分乃至九時三十分に始り同日午後十一時三十分乃至翌午前一時前後に終れり又天候の如きハ終日別に異常なる光景を呈せず而して襲來の方向ハ南方より襟裳岬を衝き其より左右に分れ一ハ幌泉村に至る沿岸を掠め一ハ猿留村に至る沿岸を襲へり其初に方り海水潺々たる中凄然一種の響音を發し退去すること十數分間にして數十間の海底を現し俄然一轉して一大激浪轟々として海岸を襲ひ數十間或ハ數百間の陸地を*襲し其餘勢の盡くるや更に劇甚なる猛力を以て遠く海中に退去し大去來凡そ三回其内被害の多かりしハ第二回の時なりき而して潮水の深さ概ね幌泉村ハ一丈内外、歌別村小越村間ハ八尺乃至一丈五尺、庶野村猿留村間ハ一丈二尺乃至三丈に及べり其被害は溺死六人、負傷五人、流失及破壞家屋二十五戸、板庫及び漁舎十二箇、和船一隻、漁船八十三艘、魚粕百六十四石餘、其他家財器具の如きハ實に列舉し難し其遭難の状況ハ一時悲惨を極めたり
明治二十九年七月二日 ●慘話の一二(岩手縣)
釜石町にて人足等か破材を取片付けんとする折しも最と大いなる材木の種々工夫すれど取除けられぬに持餘し、*にて曳き離さんとせしに、何所ともなく助けて々々々と呼わる聲聞*るにぞ耳*つれバ其儘止みぬ鋸にて切り始むればまた憐れなる聲するに不審して材木の下を穿鑿すれバ痩せ果てたる少女の材木の下に埋まれ居るにぞありける此娘の姉ハ蒲團の中に包まれしまヽ溺れ死せしものと見へ其下腹海豚の如く腫れ上れり取片付の人足誤つて竹片の先にて小さき疵付けしに張り切つたる下腹潰裂して腐水忽人足の額に*りぬ唐丹村の漁父に松と云ふものありしがその子に九歳の男子あり海嘯の來ると共に左右の考もなく一疊の疊の流れ來るに取付き二日間海上を逍遥ひあるきし末漁師の助けにて歸り來りしと
明治二十九年七月二日 その他 ●軍艦發着
和泉は函館に筑紫ハ宮津に龍田ハ大舟渡に嚴島ハ清水に吉野は佐世保に去月二十八日孰も投錨、鳥海ハ佐世保港に向ひ同日釜山を松島濟遠ハ杵築に向ひ同三十日瀬戸崎を橋立ハ竹敷に向ひ同日博多を孰も抜錨
●進歩黨に對する誤報
昨日都下一二の新聞に進歩黨ハ去る土曜日の集會に三陸地方善後策の爲め臨時會を開くべし剰餘金又は豫備金の中より海嘯救助費を支出せるハ不都合なりとの決議を爲せし旨を記したり進歩黨ハ臨時議會を開くべきを議決したれども豫備金支出を不都合なりと云ひしことなし斯る際には寧ろ豫備金を早く支出し不時の急要に應する事を希望する者なり多分通信社の爲めに誤まられしるなべしと同黨事務所員ハ語れり
義捐金 ●海嘯救濟會 宮城縣本吉郡氣仙沼の有志者發
起となりて題號の如き會を設け廣く江湖の義捐を募集し罹災者の遺族を救恤する由なり
その他 ●髙木技師
一昨日内務技師より血清藥院長に轉補したる高木友枝氏ハ目下三陸海嘯地方の衛生視察中に付き右視察を了るまでハ歸京せざるべし