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  ●宮城縣海嘯被害者救護状况

 左に掲くるは去る六月十八日仙台第二高等學
 校醫學部學生の海嘯被害者救護の状况なりと
 て同校醫學科卒業受驗生田澤多吉氏より特に
 社員の元に寄せられたるものなり事は宮城縣
 に屬し且つ較々時を經たりと雖も能く宮城縣
 赤十字社支部の事業と殊に第二高等學生救護
 の顛末及當時の仝地被害状况を悉せるを以て
 之を左に紹介す
六月十五日の三陸海嘯は如何に空前の悲劇を現
出せしに然れとも其當日は余等毫も之を知らざ
りし唯午后八時頃両三回の地震ありしを以て或
は何地か劇震したる其の餘響にあらざるやと疑
へり併し其地震は左まて劇甚と云ふにあらざり
しを以て三陸の大海嘯とは夢想だも思はざりし
なり然るに翌十六日午后に至り初めて 宮城縣
本吉郡志津川町近傍に海嘯ありて死傷七百名許
ありとの飛電に接し一時は其慘状に驚きしも之
れ新聞紙號外の記事なれは元とより確報とは思
はれず或は出放大に悉せしにあらざるやを疑ひ
ぬ之れ盖し昨夜來の地震は左程念頭に掛くるか
如き劇震にあらざるを以て其近海の大海嘯とは
想像する能はざればなり然るに一報は一報より
益々其慘状を告げ海嘯…海嘯…との聲喧しく其
初電報は唯一局所の報道に止まり他の慘状甚し
き所は却て電報不通の爲め其報に接せざるを知
り死亡者既に數千に及ひ負傷者亦夥しく到底推
測し能はさるのいとも悲慘なる報に接し一時は
其豫想外なる慘絶に驚き思はず戰慄するに至れ
り然れとも當時は尚ほ其宮城縣に限局せるもの
と知了し其岩手靑森二縣の慘状は更に之れを知
らざりし
翌十七日例に依り余等出校せり然るに當醫學部
主事兼宮城病院長山形醫學士は病院長の資格を
以て被害者救助の爲め本吉郡志津川町に出張を
命せられ既に出發せりとの報に接せり於■乎我
か四年生一同は罹災民救療の爲め一は學術上研
究の目的を以て被害地に發向せんとするの心勃
然として起れり然れとも身は學生にして既に校
規に支配せらるヽ事なれば假令災民を救療する
の目的に出つれはとて其學課を捨て校規を脱す
るの擧動に及ぶべからず■し校長より救護の爲
め派遣の命下らんかまだしもの事左なければ如
何に懇願すれはとて到底其目的を果すべからさ
るを知り泣き寢入りに當日は日課を受けぬ而し
て此日の午后に至り各地の悲電は續々として來
り岩手靑森の二縣も亦其の慘状■■らざるを知
れり
翌十八日例に依りて授業を受く偶々吉村校長■
然我が四年生の授業を中止して曰く諸子の既に
知らるヽ如く這回の海嘯は非常なる慘状を極め
たり未だ其詳報に接せすと雖とも唯に當宮城縣
のみならず岩手靑森の二縣も亦此慘状を極むる
甚しく死亡者のみにても數万を以て算し傷者亦
夥しく之れか爲め醫員の乏は甚しく到底其救
療周到なる能はずして徒らに生民を苦慘の中に
呻吟せしむるの止むなきに至れるを以て諸子を
派遣せられたき旨當宮城縣より囑托し來れり依
て余大に之れを賛し直に諸子を派遣すべきを諾
せしを以て諸子其勞苦を厭はすして災民を救療
せよ殊に此際諸子の任務は實に重大にして平素
研究せる學術を實地に施し其技倆を顯はすべき
の時なり故に進んて其任務を盡せとの訓命あり
一同其命を奉し喜んて之れを承諾せり盖し如斯
き塲合に臨んて如何なる辛苦をも厭つざるは余
等醫學者の義務にして尚命令は正さに余等の素
志を貫徹するの好機を得たればなり依て全級學
生三十六名を三分し六名は醫學得業士眞山■一
郎氏を主任醫として桃生郡雄勝濱に向はしめ十
五名は本吉郡志津川町に向ひ既に出張せる山形
主事の指揮を仰ぐ事とし他の十五名は當校敎授
醫學士神村兼亮氏を指揮官として本吉郡氣仙沼
町に向ふ事に决せり而して各自の旅裝は制服に
脚袢草鞋を着け外套を■ひ豫め徒歩と露宿の準
備をなし藥品物品、繃帶瓦設綿花の類、毛布等は
宮城縣赤十字社支部より支給し器械は當高等學
校并宮城病院の器械を準備し宮城縣よりは事務
員として各方面に縣屬一名宛を派出し午后一時
四十分發の列車にて出發することに决せり而し
て其學生派遣方面は抽籤に依り之れを定めしに
余は其氣仙沼町行に加ははりしを以て其状况專
ら該地に限るものと知られよ   (未完)

●海嘯の豫防林

 海嘯の害は到底堤防等の豫防
し得べきにあらずと雖も亦人事を盡くし之の災
禍を避くるの計を講究せざるべからず而して彼
の救助上の善後處分の如きは已に夫れ々々其手
續に及びたる次第なるが余の最も注意したるは
豫防の点に在り我土佐に於て藩政時代に濱邊に
は必ず松を植ゆ風よけ又は魚寄せの爲めと云へ
ど其實は非常に海嘯を禦くの効力あるを信する
なり而して這回の海嘯に就て之を實地に徴する
に現に宮古港の如きは其の入口の中央に斗出し
たる松林の洲觜あり而して海嘯は先つ此の洲觜
に全力を以て衝突したる後に二ッに分れて打ち
入り港内の人家は非常の慘状を呈せしに拘らず
松林を前にしたる洲觜の人家は左までの害を蒙
らざりしを以てするも亦松林が海嘯の衝突力を
緩和するの妙用あるを知るべし尚ほ其例を擧く
れば宮城集治監の雄勝濱出役所即ち假■■の如
き土壁或は板圍等の抗拒物ありし塲所は崩壞し
て地に委したれども監房の如きは前後■に格子
造りにて潮水を容易に呑吐せしめたるにより其
害に■らざりしは恰も松林の海嘯の衝突力を緩
和せしむると同一理なりと信ずるなり而して今
後被害地各所に建立すべき紀念碑には單に當時
の慘状を叙するに止まらず尚ほ前に述へし如く
其の前兆の豫知すべきもの等は一々之を後世子
孫の爲めに豫防の道を盡さヾるべからずとは板
垣内相の談話なりと

●慈善會の設置に就て

 今度嘯害救助慈善會の
開設と共に今後永續して靑森町慈善會を組織せ
んとの事は過日の紙上にも記せしが右に付昨日
午後七時より米町商業倶樂部内に於て發起人相
談會を開きたるに來會者は川田水穂淺井庄右エ
門大瀬與四郎眞木重遠田中儀三郎松下一郎北谷
眞樋口亮三浦千代次郎藤林忠兵衞百川精一郎の
諸氏にして先つ川田氏は過日の慈善音樂幻燈會
に於ける諸般の報告を■■次■今後靑森慈善會
組織の協議に移りしに異議なく設置の事に决し
規則の起稿は川田、三浦、眞木の三氏に依諾する
事となりたる由にて草案の出來次第印刷に附し
て他發起人に配付して再たひ集會を開らきいよ
々々發表すべしとのことなり尤も今後の慈善會
は可成的靑森町の全戸を誘導し一人に付一年に
十錢の會費を徴収し慈善費に供する目的なりと

●死体の漂着(海嘯の死体?)

 去る十三日漁夫
某なる者東津輕郡平舘村大字平舘海岸を徘徊し
たるに壹人の屍體砂礫の中に埋りあるを發見し
たりとて同村巡査駐在所へ申出たるにより直に
警官並に役塲員醫師等出張して檢視をなしたる
に漸く十歳位の小兒と見へるも腹部以下半身の
みの屍體にて肉は腐れ■ち骨ばかりに等しく男
女すら識別する事ならず醫師の鑑定により死後
卅日間位も經過したるものならんとのことなり
檢視終りし後仝字共葬墓地へ仮埋葬せしか一見
目もあてられぬ屍體見る人をして悲慘の情に■
へざらしめしが思へは去月十五日三陸海嘯の遭
難者の屍体は波濤に捲き去られ海嘯のまに々々
數十里以外の同村海岸へ漂着したるものにあら
すやと同地の人は話し居る由

  本 社 取 扱 大 海 嘯   罹 災 救 助 義 金

一金壹圓  靑森浦町村     小舘彦五郎
一金四圓  東津輕郡袰月村   堀谷 紋助
 内 貳圓 本縣・壹圓 宮城・壹圓 岩手
一金七圓  歩兵第五聯隊第七中隊 兵卒一同
  計金拾貳圓
通計金五百拾五圓五拾四錢八厘
 内譯 金四百參拾六圓參拾四錢八厘 本 縣
    金參拾八圓六拾錢      宮城縣
    金四拾圓六拾錢       岩手縣

嘯害救濟 慈善幻燈音樂會報告
   収  入
一金百七拾六圓八拾七錢三厘 収入総高
  内  譯
 金七拾三圓貳拾七錢三厘   入塲券料
 金七拾六圓三拾錢      慈善者寄附
 金貳拾七圓三拾錢      發起人出金
   支  出
一金貳拾壹圓五十五錢    支出総高
    但前項發起人出金ノ内ヨリ充ツ
  内  譯
 金九圓五十錢        會塲費
 金壹圓貳拾六錢       入塲券印刷料
 金四拾五錢         謝状用紙代
 金三拾錢          仝上郵券料
 金九圓          幻燈原板買入代
    但海嘯被害實况ノ幻燈原板注文■テ品
    物ハ未着
 金壹圓           雜費
    差引殘
一金百五拾五圓參拾貳錢三厘  救濟寄贈高
  内  譯
 金五拾五圓三拾貳錢三厘   本 縣
 金五拾圓          岩手縣
 金五拾圓          宮城縣
収支計算前記ノ通リニ付本日縣廳ヘ現金ヲ添ヘ
配布方ヲ申請セリ
右報告ス
  明治廿九年七月十三日 發 起 人