全國の失業群 實に二百萬 三井の救濟義捐三百萬圓 極めて有意義に働く
わが國においては昨年七月一日内
務省社會局の調査によれば四十八
萬五千八百余名の失業者を擁して
ゐることになつてゐるが、實際は
百五十萬乃至
二 百 萬 と見るのが今日
の常識とされてゐる。これを失業
者一人につき五人の家族がありと
すれば實に七百五十萬乃至一千萬
人の家族が飢を訴へてゐることに
なり、由々しい社會問題である。
ドイツやイギリスには失業保險の
制度があつて、これらの失業者を
救濟し、又自由保險制度を有する
國家十數ヶ國あつて、それヾヾ失
業對策を講じてゐるが、わが國に
は、これまで何等の施設がないの
で、失業者はたヾ景氣挽回の日を
旱天に雲霓を望むが如く待望して
ゐる。偶ま若槻内閣につぐ犬養内
閣は前内閣の失業救濟事業を踏襲
すると共に、新に總額三億五千六
百萬圓の
産 業 開 發土木事業五ヶ
年計畫を樹て、 その實施に着手し
たことは、 遅ればせながら欣ぶべ
きことである。三井家は由來勤勞
階級の生活については、多大の關
心を有し、時に應じ、折にふれて
これが生活安定のために力をつく
して來たが、現在の失業群に對し
深く憂慮し、昨年三井家創業三百
年に際しその記念として失業救濟
の目的を以て 金三百萬圓を 政府
に寄付した。このことは當時新聞
紙上に報道されたところで未だ世
人の 記憶に 新たなところであら
う。これが現下の窮乏せる失業勞
働者の生活安定の上に資するとこ
ろ極めて多大であることいふまで
もなくその
具 體 的 の實施方法につ
いては一切を政府に委託し、左の
如く最も有効適切な計畫のもとに
實行することになつた即ち政府の
計畫した救濟施設要綱は左の通り
である。
(続き)
一、六大都市及びその付近地並に
福岡縣における勞働者にして、
失業のため生活困難となり特に
救助を要するものを救濟する。
二、救濟施設は、無料宿泊所の增
設經營、食糧補給の二種とす。
三、無料宿泊所は六大都市及その
付近を通じて約十二ヶ所を建設
し、主として宿泊の便宜なき獨
身勞働者を収容し、必要ある塲
合は適當と認むる者に生業資金
を貸與し、また就勞の機會を得
ない者に對しては輕易の勞働に
つかしむること。
四、食糧補給は失業勞働者にして
特に救助の必要ありと認むる者
及びこれと同一世帶にある家族
に對してこれを行ふ。
五、食糧補給は、大體獨身者には
食券(一人一日十錢内外)また家
族を有する者には、 白米 (一人
一日二合五勺内外) を給與する
こと。
六、食糧補給を受くべき者の一日
當り人員は約七萬人、これが所
要經費は一日約四千圓の見積り
である。
七、これら失業救濟施設は、約二
ヶ年間繼續の豫定である。
總ての統計に現れてゐるように失
業者の大部分は都會に集中してゐ
るので、右の計畫は極めて適正を
得て食ふに食なく働くに職なき幾
多の勞働者を失業地獄から救濟し
てゐる。
關東大震災に際し 三井の奉仕努力 今更に新なる思ひ出
今回の三陸地方の震災にとつて
最も胸を打たれたのは、關東の大
震災にあつた人々であらう。遠く
十年前の事として次第にわれ等の
記憶から遠ざかりつヽあつた
生々しい
思 ひ 出 を
またしてもひし々々と思ひ起さざ
るを得なかつたのは誰しも同じで
あらう。當時大三井は如何にこの
救濟事業のために活躍したか、そ
れもまた世の人の肝に銘ぜられた
忘れ得ざる感謝の思ひ出である、
即ち三井では、震災が起るや否や
直ちに三井合名、三井銀行、三井
物産、三井鑛山、東神倉庫の職員
を督勵し、三井救濟事業委員會を
組織せしめて各々部署を定め、罹
災者の應援救濟に全力を注いだの
であつた、九月五日にさらに内務
省臨時震災救護事務局に金五百萬
圓の寄付を申し出で、續いて九日
には東京キリスト靑年會の救護所
建築費として同會に金三千圓を寄
付した、三井救濟事業委員會は、
九月二日に早くも物資配給の手配
を初め、無電で三井物産大阪、神
戸兩支店に糧食その他の急送を命
じた、實に電光石火の勢ひである。
兩社では社船榛名丸 (四千八百ト
ン) に白米その他を
滿載して
東 京 に 急 航
せしめたヽめ、 四日に横濱に入港
して、五日には全部を内務省救護
事務局に寄付した、その重なる品
目は、米、鹽、醤油、味噌、砂糖
鑵詰、毛布等であつた。續いて十
一日には、社船吾妻山丸(七千二
百トン)が品川沖に到着し、糧食、
被服、 毛布、 建築材料、 テント等
を諸官廳、 區役所、 病院、 救世軍
等に寄贈した、 又社船三弘丸は、
同じく十一日に北海道から米、 澱
粉、 麥粉その他、 主として食料品
を廻送して來た、 吾妻山丸はその
後一度歸航したが、 十月一日再び
品川沖に到着した、積み荷は建築
用材、生子板、毛布、綿ネル等で
建築用材は主として罹災者
(続き)
救護用の
バ ラ ツ ク
建築に使用し、その他は大部分諸
官廳、 病院等に寄贈した、 以上の
寄贈品は總計八十余種の多數に上
り糧食配給と同時に委員會は罹災
者の避難所 建設を急ぎ、 全國各
地から百方手を盡して、建築材料
の蒐集に務め、九月四日には早く
もバラツク建設寄付を救護事務局
に申し出で、その諒解の下に上野
九段その他東京市内外に合計二十
三ヶ所、横濱市に六ヶ所のバラツ
クを建て、その總建坪數は五千四
百七十八坪に達した。バラツクの
寄付は三井家が最初であつたので
内務省では、この義擧に非常に感
謝した。なほ三井家の出資による
和泉橋慈善病院は燒失區域の眞中
にありながら、幸ひ類燒を免れた
ので、直ちに罹災の傷病者救療に
着手し、巡回救護班を組織して市
内各地を巡回させた。
畏 く も
皇 后 陛 下
には九月二十九日同病院に行啓あ
らせられ、親しく罹災傷病者を御
慰問あらせられた光榮に浴してゐ
る。大地震の後東京、横濱の兩市
は大火災を起し多數の避難民火に
追はれ逃げ塲を失つた。三井物産
社員は、身を挺して避難民の救助
にあたり、築地、千住その他で同
社所屬の小蒸汽船、艀船數十隻を
利用して一萬人余の罹災者を安全
地帶へ運んだ。また横濱では碇泊
中の社船寳永山丸に約四百名の罹
災者を収容して救護に務めた。