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海嘯役所の新設

今回三陸に於ける海嘯の大變事に就ては連日の
紙上にて報道せし所にて讀者は?に其慘虐の概
略を知悉せられたるならむ、而して又中央備荒
貯蓄の補助、江潮の義捐金を請ふの件は?に業
に論じたる所の如し、是時に當り被害の善後策
を作劃するは甚だ急務にして併も吾人は其第一
手段として海嘯役所の新設を望むや切なり、海
嘯役所とは嘯災に關する萬般の事務を取扱ふ獨
立の役所にして郡役所町村役塲等とは其趣を異
にし被害地の善後策は勿論罹災民の救助等に關
し適宜の方法を講じ以て災害地の復舊を圖り其
事務の結了するを以て閉鎖するものとす。
愛知岐阜縣の震災の如き國庫より三百萬圓の大
金を支出して應急の資に供したりき、併も其二
百萬圓の分配支出等は市役所町村役塲に一任し
たるを以て頗る當時の物議を惹き起したりき、
是れ監督部の區々にして多忙の際命令の支梧し
たる結果に歸せずんはあらず、今回の事豈其覆
轍を履む可けむ哉。
聞く本縣參事會員の諸氏亦茲に見る所あり、海
嘯役所の新設に就て其筋に具申する所あらんと
すと、又進歩黨の代議士諸氏は臨時議會招集の
事を决したる由なるが是は我帝國の如き四周海
國は其海嘯の來るや今後も亦免かれ難き所、且
つ我國の火山脈に當れるを以て又々震災なしと
も限らねば主として是が應急の法律を制定する
目的にて此事に就ては各派とも異論なしと聞く
去れば必然の須要に依りて海嘯役所と云へるが
如き事も其中には必らず含蓄さる可きが吾人は
此際第一の急務として海嘯被害一切を取扱ふ役
所の新設を望む者なり、敢て所感を布く。(廿九
日今泉生稿)

    雜    報

今回三陸地方大海嘯の災厄に罹りたるに付白耳

●備荒儲蓄法の欠点

  現行の備荒儲蓄法は明
治十三年六月之を制定して明治八年の窮民一時

救助規則及同十年の凶歳租税延期規則に代へた
るものなるが當時の精神は專ら農民を目的とし
たるを以て非常の凶荒不慮の災害に罹りたる窮
民には食料小屋掛料農具料種穀料を給し又地租
を納むる能はざるものの租額を補助或は貸與す
る等農民に對しては頗る備はるものなりしも今
回の海嘯の如きは全く同法に豫定せられざりし
災害にして爲に被害地の漁民は十分に其惠に浴
する能はずと云ふ尤も臨機の處置として食料小
屋掛料等は一般窮民と見做し之を支給し得べし
と雖もかの農家に於ける農具料種穀料の如く漁
民に日用缺く可からざる漁具料を支給する能は
ざるは遺憾千萬の事共なり、若し同法中に漁船
漁具料等を貸附若くは給與するの道備はりあら
んか苟くも手足の自由なるものは其翌日よりし
て直ちに生計の途に就くを得べく此点は農民に
農具種穀を給するも其結果は尚數月の後を待た
ざる可からざる如きと同一の談にあらず、從て
長時日の焚出救助を要せざるは勿論人氣頓に回
復して悲慘の光景も存 外 速に消散するの益あ
るべし、故に宮城縣の同業者は大に奮發して漁
具の義捐に盡力しつつあり又た府下の有志にも
同樣の 企 を爲すものありとか、是等は極めて
嘉みすべきことなるが政府に於ても徒らに備荒
儲蓄の不文をのみ歎ずるを止め斯かる塲合にと
て用意しある第二豫備金をドシ々々支出して速
かに救恤の手當を爲すべきなり、負傷病者の保
護は夫々の手順も略ぼ整へるが如し、今日の急
務は寧ろ彼等身上の善後策に在り、徒らに眼前
の慘景に消魂して彷徨度を失するが如きは牧民
當局者の能事にあらずと知るべし、備荒儲蓄法
は二十年を以て一期と爲すが故に最早二三年に
して其有効期限を盡くべしと雖も已に差當りか
かる不便を感じたる以上は速に第十議會に於て
完全なる備荒儲蓄法を定めざるべからず、或は
漁業は農事と異なり危險多きものなれば同一に
律し難し抔云ふものあれども普通難破船の如き
は別に方法を設けて可なり今回の海嘯の如きは
陸地の洪水と何ぞ擇ばん、要するに居處の流潰
を以て基礎とせば其標準を立つるに毫も困難な
かるべきなり云々「日本」ば云へり

●慘 况 一 斑(三)鐵 軒

   宿の假病院

唐桑村字宿の假病院は龜谷山壽福寺と云へる寺
院に設けられ吉井軍醫治療を擔當せらる、予の
訪問せしは二十三日の夕景にて氏も此日赴任せ
られしなりと、病室の一覧を請ひしに氏自ら案
内して懇切に説明せらる、頗る宏敞なる本堂を
仕切り一部を藥局手術室等とし其餘を患者室に
充てたるものにて臥具等も淸潔に能く整頓し居
れり、患者の症 ? を問ふに重症は氣仙沼へ送
り此處に在るは打撲擦傷等多し内に肺炎患者二
名あり、一は半産せし廿余歳の婦人にて一は五
歳の小兒なり、何れも旦夕に迫りて最早施すへ
き術なし、是等は皆海嘯の際汚濁の潮水を喫し
後十分に吐出せざりしに因りて發せし者誠に氣
の毒の至りなりと憂苦の?色に形はる、氏人と
爲り温厚患者に接する最も穩和深切を以て稱せ
らる、今其言容に接して世評の誤らざるを信す
病室にて最も哀れに覺えしは五六歳の女兒を看
護し居れる五十許の老父なりき、其娘の悶へ苦
しむに胸も裂け骨も碎くる樣に覺えしか眼の光
りも尋常ならす病人を見詰めてありしが軈て氏
に打向ひ箇樣に苦しみますが何ぞ御藥を頂かれ
ませんかと言ふ内より露の玉は早?に溢れぬ、
氏は之を慰め藥は先刻與へたれば靜かに寝せ置
かれよ後には安らかになるべししと諭して行過
きらす、是ぞ前に言へる重症二人の一にて山形
宮城病院長にも此日巡視診察し到底望みなしと
斷定されたる患者なりと、されど其が父は之れ
を知らずして猶治癒すべき者と思ひ込るが如し
哀れにも慘らし、予辞して去らんとす氏曰く當
宿の旅店は家人共に流失して泊るべき處なし本
院は見らるる如く雜沓を極め居れとも飯とケツ
ト丈はあり一泊せられては如何と、予深く其厚
意を謝し今夕は古舘の鈴木氏方に宿する積りな
ればとて遂に辞し出つ、實は今夜を過さじと云
ふ病人而も女と子供の憐れなる姿を見せられて
は一大事と考へたればなり

   村上丈吉

宿と古舘とは一小山を隔て山徑多岐迷ひ易し病
院より案内者を附けんと云ふ、無人の際其も氣
の毒と思ふ處に宛も好し鮪立へ歸る患者ありと
云ふ、依て同伴を請ひ寺を出づ、其人は鮪立の
漁業家村上丈吉と云ふ人にて罹災の夜左足を傷
けたるなり、途上當夜の景?を語て曰く彼の日
は端午の節句故日頃懇意なる丹野贇之助氏を訪
ふて充分に酒を飲み軈て辞し歸るに臨み氏夫婦
門送りを爲し自分は一禮して戸外に出つると同
時にドッと云ふ音と共に海嘯の爲め屋根の上に
打揚けられぬ、スハ津浪よと云ふ間に氏は屋根
裏に飛付き屋根を打破て遁れんと手を以て衝き
上くるに幸ひにも杉皮葺故容易穴あきしかば其
處より大聲を發して丈吉殿屋根を破て呉れと?
ふ、黑白も分ぬ暗夜なれば聲を便りに漸く其破
れ目を探り當て力を極めて引めくり其處より夫
妻を輓出し三人辛ふして九死に一生を得たり天
佑神助とは是等を謂ふならむと語りぬ

   鮪立を巡視す

二十四日の朝は丹野氏に案内せられて鮪立を巡
視す、罹災者は半潰の家に住むもあれば古材を
集つめ假小屋を掛けたるもあり、或ひは他人の
家に同居したるもあり丹野氏一々指点して曰く
此家にては一人死せり彼の家にては二人を喪へ
りと、或は三人或は五人、多きは一家九
人の死亡あるに至る慘も亦極れり、其死者多
き二三を記せは鈴木龜松祖母一人叔母二人と男
女子供六人死亡す、鈴木半兵衛は主人夫婦に祖
母長次女と都合五人、佐々木虎之進は男二人女
三人にて五人、小松駒藏は妻と長次三女の四人
を失へり、此外にも三四人を喪ひし者數多ある
よしなるが傷魂動魄一々記するに慵ければ略し
ぬ、唐桑村の収入役鈴木英治氏夫妻死亡し三歳
許の小兒一人を存せりと這は亦別樣に慘なり

   (欄外にも有り)