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    雜    報

  ●本縣大海嘯彙報

  ●本吉郡海嘯彙報           (廿二日志津川發)

工兵來着 第二師團工兵八十名は昨日午後來着
直ちに歌津村へ四十名他四十名は淸水細浦の兩
所に出張死屍其他取片付方に從事せり
佐藤久作氏の奮發 同氏は志津川町消防組頭な
るを以て海嘯の當夜直ちに被害地へ出張自ら激
浪に身を投じ消防夫を督勵し百方人命救濟方に
從事せられし爲め生命を全ふしたる者多し又一
家擧て焚出し等に從事し且つ視察員等の來るあ
れば只管厚遇し居らるる由實に感心の至りなり
婦人の賑恤 志津川町齋藤収税属鈴木銀行員警
察署長其他署員諸氏の細君十數名より罹災の際
負傷したる患者にして同町病院に入院中の者へ
菓子一袋宛を惠贈し且つ一々慰問せり
一家の慈善 罹災の當夜より同町の高橋長十郎
氏の一家族擧て救助の炊き出し方に從事し三晝
夜程は一睡もせず徹夜從事したるは揃ひも揃ひ
し一家の慈善
鈴木味右エ門氏 刈田郡民総代者として本吉郡
役所罹災救護事務所を見舞はられ且つ白木綿五
十反を義捐せられたり

●海 嘯 實 視 雜 録 (三)       於被害地特派員  今泉寅四郎記

唐桑村の金滿家鈴木禎治氏(縣會議員)は郡内第
一等の豪家なり、其居宅は高爽の處にあるを以
て幸に流潰の難を免がれしが氏は部内の慘?を
目撃するや直ちに家に立ち歸り己れは勿論細君
より子供等に至る迄一家盡とく着衣一枚の外は
洋服迄取り出して窮民を賑恤せり、尤も氏は平
生華奢を好む人なれば一枚の上着にて五十圓の
ものもあり洋服一襲にて百圓以上なるもあり一
家の衣類都合三百餘點にて代價に積らば殆んと
六七百圓以上ならん、平生は卑吝なりなど誹毀
する輩もありたれど今回の擧動を見て何れも其
厚志に感服せざるものなし氏の如きは實に金錢
物品を投ずるに其道を得たりと謂ふ可き也。
濱々には平生魚買商人飴買小間物賣等一濱平均
三人位宛は入込居るものなり殊に海嘯の當日は
舊暦節句なるを以て酒賣も醤油賣も多少は入込
み居りたるならん、而して是等の宿泊し居りた
る家屋は多分流失し從つて其家族も死亡したる
事とて今更誰に依て聞糺さん樣もなければ行旅
者の死亡は今に不判然なり、是等は概算するに
必らず百人以上は死亡せしに相違なきなり、目
下其筋にて調査し得たる溺死者の総數は三千二
百五十二人なるが此外行旅者の死亡及び負傷の
後假病院にて死亡したるものも今日迄數百人に
達し又今後負傷の爲め或は嘯災の當時多分の惡
潮を飲下したる爲め餘病を發して死亡する者も
極めて多からん、去れば嘯災の爲に直接間接生
命を失ふ者少くも五千人以上に達す
るや必せり、近來の天變地異として殆んと慘?
の極に達したる濃尾の大震災は死亡者の総數僅
かに五千餘人に過ぎず、今回の海嘯は本吉郡一
郡の沿岸十六七里の一小區域にして濃尾兩國三
百方里に亘れる大震災と其死亡者の數を同ふす
又征淸役に從軍して戰死したるものは一千餘名
病死を併するも一萬人に上らず今回宮城岩手靑
森三縣の死亡者を假に四萬人とすれば萬國を轟
動したる征淸役総死亡者より實に四層倍
の大多數なり、嗚呼無慘々々復謂ふに
忍びざるなり。
本吉一郡にて今回の奇變の爲に財産を失ひたる
事は今日に於て固より調査の行届かざる處なれ
ども今假に流失したる家屋船舶田畠等より眞の
概算を立つる時は内端に見積るとも猶一千
萬圓已上の巨額に達したるなら
ん、元 來今 回流失せし濱々の多分は敢て富有
と云ふにはあらねども春來の大漁且つは此頃鮪
の漁 獲 頗る多く平生糊口にすら差支ゆる貧民
も百圓や二百圓は何れも處持せざるものなく特
に彼等は銀行に預け郵便貯金に預くるを不安心
なりとし悉とく自家の?笥に仕舞置く事とて一
家にして五六百圓乃至四五千圓を貯蓄し居るも
の敢て珍らしからず是等は悉とく家屋の流失と
共に跡方を留めずなりぬ、且つ郷村にては紙幣
を仕舞置く者なく多分は銀貨白銅に引直して貯
蓄するの有樣なれば若し紙幣なれば後日に至り
萬一にも浮び出づる事あるも銀銅貨は遂に再び
世に出る事なかる可し。
今回の大慘?に就ては官 廳 及び有志者は負傷
者の手當其他刻下の急に關する事に就て夫々手
配中なるが殊に大切なるは善後の策如何にあり
右に付戸澤本吉郡長に就て其意を敲たるに氏は
憮然として曰く今や匆卒の際にて善後策に關し
ては未だ何等の考も出でざれど老幼男女大半は
死亡し家屋田畠船舶漁具等悉皆烏有に歸したる
今日なれば被害地方をして罹災前の如く漁業其
他に從事し他人の力に依らずして獨立の生活を
なさしめんには少くも三十年を經ざ
れば舊形に復せざる可し
或は他地方より窮民を移住せしめて漁業に從事
せしめむるの上策なるを説く者あれど罹災者を
他方に移住せしむるは格別、態々何一ッなき無
人の郷に來りて新たに業を起さんとする者は到
底一人もなかる可し、何さま舊形に復するには
人口を增殖せんには妻を喪ひたる者は後妻を娶
り夫に別れたる者は後夫を入れ生存者中年齢相
應の者は婚姻を取急ぎ其間に擧けたる子供の三
十歳位に成長するを特に非れば到底復舊を望む
可からず是れ甚だ迂遠の策なれど勢ひ斯くせざ
れば迚も外に良策を得る能はず去れば余が如き
老人は到底自分の管下の舊?に復するを見る能
はず眞に遺憾に堪ざるなりと言了て涙漣々。

●應急佳話   蕉堂 外史投

北海道函舘なる日本郵船會社支店支配人久保扶
桑此程上 京 の途次岩手縣盛岡へ一泊せし折知
事服部一三來り訪ひ談話の次海嘯地飯米に乏し
ければ此地にて米穀を買求め鹽釜迄鐵道にて送
り同所より船にて宮古へ送る積りなりと曰ふ、
久保曰く迂なる哉策、恐くは轍鮒を枯魚の 肆
に求むるの憾あらん、服部 驚 て 計 を問ふ、
久保曰く盡ぞ之を函舘に購はざる、彼の地常に
五六百石の飯米あり郵船會社の船に積て送れば
事容易に辨すべく唯今電報を發せば三日ならす
して罹災地の民皆米飯に?んと、服部善と稱し
悉 く其言の如くし且被害地へ電報して此事を
告く、難民傳聞して歡聲雷の如くなりしと云
外史■曰く久保は郵船會社中敏腕を以て稱せら
るる者、其人風流洒落而も機智あり應變の才に
富む、二十七年征淸の役釜山仁川旅順大連の間
運輸の大任を擔當し接濟宜しきを得王師の前進
に便す其功偉なりと謂ふべし、而して朝廷廣く
行賞の典を擧けらるるに?んで其褒賞遂に紅裙
を擁して内地に醉飽せし同僚に及ふ能はす、眞
に數奇と謂ふへきなり