海嘯の善後策と 自由黨の價格 冷 眼 居 士
三陸の海嘯善後策に就て第一の責務に當れる者
は内務省なり、而も今の内務省は自由黨の内務
省なり、上に自由黨総理の大臣たるあり下に仝
黨員の縣治局長たり秘書官たるあり、加ふるに
今日の官海上官と主義を異にし相矯て降らざる
如き硬骨男兒のあるべき筈なければ内務一省の
官僚は皆自由主義の人なるべし、乃ち之を自由
黨の内務省と謂ふ敢て甚しき誣言にあらず、自
由黨の得意想ふべきなり
然れども得意の在る所は則ち責任の存する所、
現時の内務省の所置にして若民意を滿たしむる
能はさるものあらむか自由黨は直に其責を分た
ざるを得ず、其處置の當否は實に自由黨の價格
を皇帝せしむるものあるなり、當の責任も亦重
しと謂ふべし
盖三陸の大海嘯善後策は内務大臣の大に其手腕
を振ふべきものにして亦自由黨が治安の任務に
堪ゆるものならや否やを驗するの試金石なりと
す、去る廿四年十月尾濃の兩國に大地震の災あ
るや當時の総理大臣松方伯は輕裝急行して普く
被害地を視察し、歸京すると同時に應急救恤の
費として二百萬圓の支出を斷行せり(後別に四
百萬圓を支出す)當時其遺拂に就ては多少の物
識を招きしと雖兎に角之に依て以て兩國幾百萬
の生靈を蘇息せしめたる効績の偉大なるは何人
も疑はさる所なり、今や板垣内相亦三陸の被害
地を視察せられ本日を以て歸京の途に就かると
云ふ、伯歸京の日何等の善後策を施して以て罹
災數萬の人民を蘇息せしめんとするや、此間の
處置一着を松方伯に輸るあれば伯の名聲は自由
黨の價格と共に一時に地に墜ん、誠に榮枯盛衰
間一髪を爭ふの機なりとす
乃ち伯の深思熟慮を要すべきは勿論、自由黨も
亦宜しく責任の重きを知り伯を助けて善後策を
講し、伯をして一大果斷を以て出格の救護法を
實施せしめ、一は以て三陸の罹災者を蘇息せし
め一は以て松方伯を壓倒するの聲譽を博し自黨
の價格を高むる事を勉めざるべからず
雜 報
●本 縣 大 海 嘯 彙 報
●現時の階上村 黑澤 十太
本吉郡各被害地に於て溺死者の數を以てすれば
階上の上に出つる所あり流家の數を以てすれば
階上の上に出つる所あり死者多けれは多き丈け
それ丈け流家多ければ多き丈けそれ丈け慘?の
度多きは勿論なれと人の感情を動すの大小に至
りては眞に死者流家の多少を以て論する能はさ
るものあり本吉郡の被害地人の感情を動すの大
なるものに至りては階上の上に出つるものなか
るへしその然る所以は何そや去廿六日の奥羽新
聞上友部鐵軒氏の筆之を説明して余りあれば余
は今之を言はざるべし讀者願くは就て見よ
救災事務所と赤十字社假病院 被害後直に救災
事務所を被害の尤も 甚 しき明戸濱の傍なる畠
山佐吉なるものの家宅に設けて村吏一同日夜孜
々救助慰問に從事しつつあり現時氣仙沼町役塲
に勤務中の中澤成誠氏が久しく當村吏員たりし
縁故を以て來村非常の盡力を以て事務を擔當せ
り若し萬難群集の此の際氏の來援なからんか到
底今日の如き成績を見るの運に至らざるべしと
は村民の一同言ふ所なり事務所には吏員の外五
名の警官あり内四人は朝食後より黄昏まて被害
地取片付の人夫を指揮監督せり其勞や思ふべし
赤十字社假病院は救災事務所の隣り地福寺の内
にあり目下患者十五名重症者は氣仙沼病院に移
され當院のものは輕症者なり醫員は村醫二名仙
臺より二名赤十字社看護婦二名篤志看護婦四名
居れり
海賊 海若一たひ怒て人畜を一掃するや數日の
間四隣慟哭家財の如き一も手を下さす空く白沙
黄泥に委するのみされば海賊幾群夜に乘し來て
破茅乱材の中に入り衣服なり器具なり材木なり
其何たるを問はず得るに從て之を収め十分に得
たる頃欣然去て行く所を知らず嗚呼誰か父母な
からん誰か兄弟なからん一朝の奇災忽ちにして
流離?沛僅に一塊肉を存して路傍に彷徨するの
み天下の同胞其慘を哀み其窮を憐み爭ふて之を
救ふに當り機會こそ能けれと掠奪窃取以て快と
するとは何等の無道殘虐ぞや
鹽田の死体 當村の大被害地たる明戸濱の鹽田
は古來より有名のものにて現代まても村の寳な
りしか今回の災巨濤無數の家屋を捲き之を破り
之を摧きて此鹽田中に置き去りしを以て是の中
より水漬の死体を發見すること今に至て絶す廿
五日に發見せしもの二個廿六日三個廿七日六個
廿八日は四個其の中尤も慘なりしは佐藤東右エ
門の妻きのなるものにて本年四月生の女兒を背
に負ふたる儘溺死せしなり同家は一家十人の家
族中殘りしものは僅三人のみにして皆男子なり
又去る廿七日取片付中水中より拾ひし一個の箱
は何ならんと開き見しに豈に圖らんや幼兒か其
骸を托せる新棺ならんとは是れ盖し巨濤の爲に
其土を浚られて流れ來りしものなり要するに是
等酸鼻の死骸は日として是なきはなし
沼澤翁 救災事務所の門前毎日慰問者續々廿八
日正午沼澤翁令息と共に至れり直に病院を訪ふ
て深雪丁寧に患者を慰藉し參圓を寄附せり後ち
被害現塲に臨むや眉目愁然嘆嗟幾回事務所にて
握飯を喫し直に氣仙沼に赴けり其元氣壯者に讓
らす
人夫 災後村内より無賃の人夫百二十人を得て
毎日午前七時より午後六時まて被害塲の取片付
けに從事するも非常に慘憺狼藉を極めたれば容
易に其効を見さりしが去る廿五日遠田郡より二
十九人廿六日四十一人昨廿八日仙臺より七十二
人の人夫應援に來れるを以て今は已に二百六十
二人と云ふ多數の人夫となれり此の一事以て被
害の如何に慘烈なりしかを説明して余りあるへ
し(六月廿九日本吉郡階上村救災事務所にて)