●奥羽日日新聞 縣會議員半數改撰 琅 ?
當宮城縣會議員の半數改撰は愈々本月十五日を
以て施行せらるる筈にて今日より僅かに半月の
日子を剰すのみ、去れば縣會議員たる名譽ある
月桂冠を戴かんとする輩は?に業に其々手段を
講じて己れこそはと内々に野心を抱く連中尠か
らずと聞く。
惟ふに半數改撰の宮城縣會は劈頭第一役員の撰
擧を畢れば直ちに大海嘯慘害事件の議事に上る
筈なりと聞く。抑も海嘯事件は實に前古未聞の
珍事にして國家の大事として其善後策の大切な
る事は日淸戰爭を除くの外は殆んと之と匹敵す
る程の難件なかる可きなり、即ち之れが責任に
當り之れが善後を作劃する議員諸氏の任や重且
つ大なりと謂ふ可し、然らば則ち此際特に注意
して達觀達識全智全能の士を擧げて這任に當ら
しむる事は刻下に於る肝要の事なりとす、或は
謂はむ議員の撰擧は何時にても盡とく達觀達識
全智全能の士を擧げたる事?に今日まで見る所
の如し、獨り此際にて格別に注意を與ふるの婆
心を要せずと、夫れ然り然りと雖も各自黨派心
に拘泥するの結果或一種の情實に纏綿して餘儀
なく思ひも寄らざる人を撰擧する事なしとは從
來の事實に徴して敢て必無とは斷定す可らず、
唯何黨派を論せず侃々諤々正議公明の士を擧げ
て議長となす事の最も至當なるを信ず、此際黨
派を謂ふは抑も末なり。
要するに如此大事を目前に控ひたる議會の議員
は撰ばるる人も大切なり撰ぶ人も大切なり、己
れの才力を計らず、唯漫りに黄白を以て區々の
榮譽を買はんとするが如き輩は最も自省せざる
可からざるなり、(如此事實は將來?往とも决し
てなき事ながら) 吾人は深く前途を思ふの餘り
一言して世間の注意を促かす事爾り。
雜 報
●小野田警保局長
昨夜海嘯被害地より來仙
ありたる警保局長小野田元唯氏は直に皈■の途
に就かるる筈なりしも都合に依り昨日小泉集治
監典獄及び濱田仙臺警察署長の先導にて桃生郡
雄勝出役所に出張せられたる由なるが右は仝集
治監將來の施設上實地臨檢を遂ぐるの必要ある
爲めならんといふ
●小笠原憲兵隊長
陸軍憲兵中佐小笠原尚弼
氏は過日部下引率海嘯被害地視察の處明後日頃
には一先づ引揚らるる由なり
●第二區土木監督署
技師足助好生氏は改修
御用として山形縣酒田地方へ書記小野英家氏は
同北上川各工營所へ同田中壯平氏は同最上川工
營所へ出張、同署員は海嘯罹災者賑慰費として
金六拾圓を義捐し其取 扱 方を内務省土木局へ
依頼せり、大藏屬高田長豊氏は出納檢査として
第二區土木監督署に臨まれたり
●縣属の出張
本縣属宮城惠那二氏は本吉郡
へ出張を命せられたり
●來往
東京組合辨護士江木衷氏は訴訟用に
て一昨夜來仙針久へ投宿、被害地視察の爲め出
張中なる横濱居留地甲七十七番舘獨逸商人オツ
トー、フオツペー大坂毎日新聞記者渡邊巳之次
郎東京新聞?報記者丸山古香國民新聞?工久保
田金僊諸氏は歸途當市に一泊昨朝出發
●根岸逓信属
被害地へ出張せる逓信属根岸
傳氏は歸任の途加藤支店へ一泊昨日出發せり
●故山崎英太郎氏の葬儀
去る十五日宮城集
治監雄勝出張所に於て不測の災害に罹り非業の
最期を遂げられたる同氏の葬儀は一昨廿九日南
鍛冶町東漸寺に於て執行せられたり総て同僚諸
氏の盡力に依り最も鄭重を極めたり斯て河原町
の僑居出 棺 眞先には五色の幡翩翻として諸行
無常を告るか如く次に故看守勳八等山崎英太郎
之柩と書せる銘旗悄々として風に翻るの力なく
是生滅法を示すかと思はれたり次に同氏の遺骨
次に喪主即ち遺子(五年)次に同監看守百名松本教
官之を引率し二列に徐歩何れも帽と左手に黑布
を纏ふて喪意を表せり續いて同監小泉典獄以下
署員一同にも會葬せられ莊嚴中に其式を終りし
か地方監獄よりも看守全体を代表し數名の看守
諸氏會葬されたりしと
●本 縣 大 海 嘯 彙 報
▲ 被 害 者 扶 助 法
幾多漁腹の
裡に葬殺せられたる仝胞の靈慘は即ち慘なりと
雖も所謂る死者又た生くべからず斷者復た續ぐ
べからざるの理今更ら詮術なき事なり唯目下の
要務は斯九死の中に一生を得たる悲哀の遺民を
して爰に自立自活の道を與ひ以て將來の恒産を
作らしむるに在るのみ今小野田警保局長が海嘯
遺民扶助の方策なりとて某代議士に談話せられ
しを聞くに差當り國庫を開發して一 戸 五
十 圓 平 均の漁獵船を造作して給與する
ことに略ほ内定したりと
▲東二番丁小學生
同高等學校男子部第三
年級乙の組生徒一同は縣下の災害を聞き相互自
身の衣類四十四点を集め同級惣代として佐藤善
三郎二瓶貞夫宮城金治郎鈴木保の四氏海嘯臨時
部出張所へ來り寄附せしと云ふ
●函舘有志者の義捐
三陸海嘯罹災者慘状の
報に接するや北海道函舘區在住の本縣人高橋文
之助莊司平吉の兩氏は卒先發起人となり郷里な
る本縣下の爲め義捐金の募集を試みんと各新聞
紙に廣告し且つ有志を誘導せしに賛成を表する
者續々あるより徐々岩手靑森兩縣に及ほさんと
の意向なりしに他にも亦有志者顯はれ汎く三陸
罹災者の爲に募集すべき事となりしに付き之れ
と合同し昨今專ら募集中なるが曩に本縣下の爲
に集合したる分金百八十圓六十六錢をば宮城縣
廳に依頼し送金されしと云ふ尚ほ義捐者中本縣
人のみを擧れば金拾圓宛莊司平吉、高橋文之助、
同五圓宛 河崎三郎、松川喜之助、本間助七、阿邊
宇兵エ、及川榮之助、尾崎いし、 同三圓四拾錢中
井三五七、同三圓宛太田慶七、熊谷調、 同二圓五
拾錢關太三郎、同二圓宛早坂兵三郎、下田幸吉、
星澤豊太郎、橋本嘉吉、 榊盛治、武田晋藏、 淺田
幸四郎、松尾林助、永澤永治、宮城野淸治、前田長
松、早川勇治、同壹圓五拾錢木下利吉、 同一圓宛
永田洋次、阿邊米吉、高橋榮助、平坂辨次、苅谷鐵
之助、山本子之吉の諸氏なり
▲時計商の慈善
登米郡佐沼町に出 張 店を
設け兼て高評ある時計商千葉篤之助氏は被害地
階上大島唐桑等の各村に貸付たる者多く今回の
大海嘯の爲め損害を被りしにも拘はらず氣仙沼
臨時救濟病院の患者一統へ菓子二袋宛を贈り且
つ一人毎に親しく訪問せしとは實に慈善家と云
ふべし
▲帝國生命保險會社の義捐
三陸海嘯の災害
たる實に慘况を極め此悲報に接する者哀悼吊意
を發せざる者あらんや殊に人命を保險し慈善を
以て本色とする會社にして之れが衷情を盡さず
んばあるべからすとの趣意を以て同社長福原有
信氏は本縣へ二百圓岩手縣へ五百圓靑森縣へ百
圓を義捐し尚ほ蒔田順彦氏を代理として派遣し
本日岩手靑森に向け出發被害地を詳細に視察し
且つ親しく慰問の意を表さるる筈なりと云ふ
▲牡鹿郡漁業組合の義擧
今回の大海嘯に付
き本縣下沿海の被害最も慘鼻に堪へざるを以て
牡鹿郡漁業組合頭槇谷喜三郎氏は取敢へず被害
者救恤として牡鹿郡に十圓桃生本吉の兩郡に五
圓宛を所轄郡役所を經て寄送し尚ほ同氏は被害
漁業者に對し漁具漁網を給與するは尤も急須の
事なりとし理事熊谷龜之輔氏は目下寄贈方に付
き奔走盡力中なり
▲桃生郡十五濱村(大海仁門生發)
去る十五
日の大海嘯は本村未曾有の變災にてありき而し
て最も災害を被りしは船越濱字荒濱なりとす同
濱の戸數借舎一を合して十七なり今殘るもの七
戸此内完全舊存する者僅かに二戸他は盡く破壞
して居住する能はず死亡二十八人以て其慘状を
察するに足るべし昨日まで一家團欒たりしも今
や最愛の妻子を亡ひ傳來の家屋を失ふ其人の心
痛如何ばかりならん此間罹災者救護に盡力せら
れしは有力家高橋左太治中村孫太郎巡査石川退
藏菅原廣吉の四氏にして現に高橋中村の兩氏の
如きは自己もまた罹災者たるにも拘はらず私費
を投じて飯米を給與し或は船を出して人命を救
助したる者尠少ならずとかや自己を顧みるの遑
なく他救に切實なるもの茲に至りて始めて地方
有力家の本領とこそ云ふべけれ斯る際に於て衣
服に金員に他人の流失物を隱蔽し何に知らぬ顔
に腹を肥さんとしたる者も寡なからずと聞く如
何なる非道の人間なるか憎みても猶ほ余りある
次第なり天道焉んぞ漏すべき英正豪直を以て鳴
る石川菅原兩巡査の探聞する處となり忽地糾問
せられたりと扨もサテモ此慘状を實地に受けなが
ら如 斯 人ありとは呆れ果たる世にもある哉兩
巡査は一周日の久しき晝夜眠食を常にせず屍体
發堀に流失物調査に其他一切丁寧に取扱はれた
る職務柄と云ひ一大感謝する處なり尚ほ罹災者
中實に言外に絶したる慘状の者あり不日實事を
摘記して郵送すべし
▲義捐申込用紙の寄附
栗原郡築舘町の活版
營業人斑目淸氏は各役塲へ義捐金品申込用紙千
五百枚無代價配當の儀を郡役所へ願ひ出たる由
▲登米郡産婆會
會長鈴木淸子は會員惣代と
して義捐金五圓を被害地へ寄贈の筈且つ登米町
婦人を勸誘し菅原かつ子外八拾名より古着二百
枚外百五十品を寄贈せしめたりとの事
▲奇特の小兒
罹災者救護に就ては數多奇特
者のある中に書くも嬉しき殊勝者は當市成田町
半澤平助の借舎に住する何の某とて極めて貧し
く僅かに竹皮草履などを造りて辛く其日を送る
者なるが長男要助(十年)といへるは南材木町小
學校に通ひ日々勉強なし居たるが今度の變災に
付ては各小學校とも夫々義捐の擧あり同校にて
も一人五錢以上を醵出する事とし受持教員より
各生徒へ傳へしに要助太く感激し如何にかして
十錢も義捐せばやと思へども家には一錢の餘裕
なく去とて出金せざるも本意なしと夫より毎夜
螢狩に出掛け翌朝出校前に大町邊を賣り歩行き
遂に十錢を得たるを以て直ちに之を義捐したり
と貪欲飽く事を知らざる守錢奴之を見て少しく
省みる處あれ
▲湯屋番頭の美擧
土樋眞福寺内の湯屋に雇
はれ居る番頭にて山形出身の齋藤喜作(三一)と云
ふは今回の罹災沈溺者の慘况を聞き追悼の余り
泪と共に聊かながら救恤費の萬分一にもとて金
貳拾錢を義捐し送附方を本社へ依頼せり
●氣仙沼通信(六月廿八日)
本町 畠 山竹藏
氏は平素義侠心に富める人なるが今回の被害地
階上大谷唐桑の三村に白米十石其他各村中取引
ある者へ同十五石と若干の金員を惠與したるに
付他の募集に應ぜざる旨其向へ届出しと◎小笠
原憲兵中佐本日志津川より石巻水上警察の小汽
船にて來町恩田岩手縣技師は當町を經て高田へ
向け出發せり◎被害なき濱々にては本日より鰹
漁の爲め出帆せしが大谷階上唐桑の三ヶ村にて
は漁船の流失八百艘余にして糊口の道を絶たれ
ば當局者は早く救濟の方法あらまほしき事なり
●中新田町近信
郡衙の位地に付き南北兩郡
に岐れ互ひに爭ひ居たりしが過般河村參事官出
張双方の關係有志者に談示せられしに依り稍々
感する處あり寄附は何の一方に建設するも從來
の通りの割合則ち五百二十八圓は双方に於て負
擔する事に决し目下募集方に奔走中なれば遅く
も來月中旬までには募集濟となるべく建設位地
もまれ熟議の上効果を見るに至るべし、海嘯被
害地罹災者救助金品募集に就ては消防組頭中村
與八氏等盡力し九十余圓に達したるを以て第一
回 救 恤金として其筋へ送附し第二回送附の分
募集中なり、有志家今野良作氏は去る廿四日同
町 出 身の軍人一等軍曹鈴木金太郎二等軍曹板
垣淸八の兩氏及十余名の凱旋兵士を自宅に招き
宴會を催ほせしが余興として烟火をさへ打揚け
たる事故中々賑ひなりき
●慘 話 一 束
浦島之子
巖手縣氣仙郡唯出の漁夫某漁船に乘
じて例の如く沖合に漕ぎ出し網を下ろして鮪漁
を試み居りしに平日になく八本まで得たれば其
夜は沖合に泊し翌日船を廻へして喜ぶ妻子の顔
を見んと急ぎ歸れば無慘や昨日迄ありし我が家
は何くに行きけん一夜の中に消えて妻子の影だ
になかりき
産婦無恙
巖手縣廣田村佐藤某の妻女男子を生
むで未だ三分間ならざるに波に浚はれしが如何
にしてか岸に這上り後療養せしに今は全く莊健
の人となれりと
幼兒奇運
巖手縣氣仙郡末崎にては海嘯後越え
て三日人あり來りて田の中に堆積せる藻草を掻
きのけしに一人の幼兒十四五歳の少女に抱かれ
て眠り居れり少女は?に死して糜爛し居りしも
其の懐にありし幼兒は微かに呼吸通じ居りしか
ば直ちに療養を加へしに全快せりと云ふ
滿網死屍 巖手縣氣仙郡廣田村にては海中の死
屍を捜索するが爲め漁網を卸ろせしに網に罹り
て來りし者五十餘人餘りに重くして曳き上ぐる
こと能はず漸やく半分づつに分ちて陸に上げた
りき
兇變天外
巖手縣北九戸郡八木、宿戸地方の漁
夫四十餘名五六艘の漁船に乘込み沖合に出で居
たるに波上忽焉として一條の黑線北方より南方
沿岸に突き抜け之と同時に張り置きたる網はグ
ラぐらと飄盪し魚は悉く逸し去れり何れも顔見
合せて不審に思ひしも別に危險の事なく翌日に
至りて歸り來れば意外の凶變、家もなく家族も
無し
電線塵芥
本吉郡小泉村の北に援子川あり此邊
一面の高地にして海を抜く事殆ど四丈電線其上
に懸る海面より電線迄の高さは裕に五丈に餘れ
り海嘯の際潮水は茲處まで達したりと見え電線
泥にまみれて藁之にかかれり里人海岸にある十
餘間の松樹を指していふ潮の高さは實に松樹の
梢と均かりしと
宛乎游龍
本吉郡志津川町の傍ら一小流あり海
嘯の來るや勢に乘じて此の小河に押し寄せしが
河幅狭くして潮水行くに處なく又左右に溢るる
に暇もなく遂に堤防より高き事五尺計の流れと
なり堤なくして河上に進み行きたりと
●斷 膓 録 (三) 今泉生手記
唐桑村字大澤の漁師伊藤某(六八)は遭難當時の?
を語りて曰く浮世の甘きも辛きも此の五六十年
間の世の有樣は皆予の腦中にあり火事、地震、海
嘯、 電雷其の他有りとあらゆる經歴に於て恐ら
くは己れ程よく知り居るものはあらじ然れども
今回の如き海嘯に至りては己の嘗て耳にだもせ
ざる所臍の緒切つて以來の大珍事なり十五日の
夕己は姻戚の法事に招かれたれば家に妻子を殘
して彼の家に赴き來り會したる七八人の男女と
與に佛前に坐して法事に餘念なかりしが忽ち入
口の方に當り何物とも知れず非常なる力を以て
碎くる計り戸を打つものあり咄嗟後へを顧みし
一刹那己は心の中にて是は兼て聞き及びたる黑
船が復讐の爲め海岸に來りて破裂彈を打ち込み
たる者なりと思ひぬ、斯く思ひたるは己れのみ
にあらさるなり此の災を免れて生き殘りたる者
は皆斯く思へり、己の斯く思ふ一刹那戸は忽ち
打ち破れ轟々たる音の我が耳元に響くや否や頭
の上より潮の瀧水鞳?と落ち來りぬ、此時己は
殆ど茫然自失したりき己と與に坐したる友は如
何したりけん佛壇は如何になりけん己は今に之
を想ひ起す能はず忽ちにして己の全身は潮の中
に没し世は全く黑暗となりぬ、己の左の足は兎
角の中に材木の間に壓せられたり、己は固と潮
風の中に成育されたる男よしや六十八となりた
ればとて十分や二十分間水底にあるを苦しとす
る者にあらず左れと激烈に此の足を壓せられて
は流石に己も忍ふ能はず茲處一生懸命の所と力
に任せて足を材木の間より引き抜きて水面に上
らんとせしが茅の屋根に頭を支へられて自由な
らざれば兩手を延へて此れを掻き分け僅かに身
をぬくべき丈を開きて其上に出でたり然れども
方角全く狂ひて何れを何處とも定め難ければ屋
根の上に坐して家と與に陸の方に押し流されて
行きぬ、かくて己の坐する家は陸地十餘間近く
の所迄來りたれば今こそと水に投し急きて海岸
に上り一命を拾へり此時己と與に岸邊近くに流
され來りし者廿餘人もありし樣子なりしが何れ
も最早岸に上るの氣力なく退く潮と與に又もや
沖中に流れ行きぬ唯々己の 傍 に浮び來りし一
人のみは己の力にて救ひ上けたり斯くて不思議
に己は助かりしが熟ら妻子の事を思ふに五十年
來荒海稼業に身を鍛へ上けたる己さへこの有樣
にて九死に一生を得たるのみなれば妻子は無論
波に攫はれたる者とあきらめ兎も角も此の樣に
ては寒さを凌ぐ能はざればとて潮の退きたる跡
に殘りし藁を拾ひ集め海岸にある松の樹の下に
持ち行きて之に火を点じ暖をとりしが此の光を
認めて同じく助かりたる男女茲に集ひ來り十餘
人して火を圍みつつ互の無事を祝し不幸を語り
て三時間許其處にありき其時初めて我が左の足
にそげの折れ込みて甚しく流血せるを知れり其
中に救護に來られたる人此塲に驅けつけられ己
は擔架に載せられて氣仙沼病院に來りぬ、病院
に來りて見れば思ひきや死したりと思ひし二十
になる忰は?に茲にありて己を待ちき、嗚呼此
時の喜び己は胸せまりて言葉を發する能はず七
十の頑固爺に似氣もなくハラはらと涙を落して
女々しき事をなしぬ、去れど妻と十二歳の小供
は死せり忰は 弟 を失ひ己は鰥となり與に佛い
じりせし友達も悉く亡びぬと。
(欄外にも有り)