人心の安定は 先ず児童から 子守までやって罹災民に 利便を与える雄勝校職員
大海嘯により校舎傾き書類流失の浮目を見たる雄勝小学校は日下主席訓導が総指揮となり全職員昼夜兼業で校舎修理、浸水校舎の大消毒、流失書類の整理等文字通りの奮闘をつづけ三月十三日より開校し、且幼児の子守等までして罹災民活動の利便を浮けつつあり、目下出席児童は平常と異なることなく授業を受けつつあり修卒業式、入学式等も予定通り挙行し先ず以って地方人心の安定を児童より与えんと目下努力中である。
歌津村救護班 献身的活躍
過般の震災で八十四名の死者行方不明者を出した本吉郡歌津村では役場員、消防組、青年団部落契約会を以て被害民救護班を組織し被害各区に事務所を設け、持弁で倒潰家屋の取片付、被害者の家族慰問、或は山と積まれた慰問品の運搬配当に大童となっているがこれ等班員の中には親戚を失った者や漁舟を流失した者も多く殊に其の日暮らしの漁夫が毎日黙々として立働いているのには被害者もホロリとさせられている。
罹災民から 罰金の延納願い 検事正視察後善処
石巻検事局では管内罰金処分者の滞納を整理中だが、右の中震嘯災の罹災民が相当多く、これらから続々と嘆願書やら延期願いが来て居り、これらの者は住居先き等によって大体罹災民か否かは判るがどの程度まで信じ得るかが問題で中には悲痛な延期願いもあり
「津浪のため漁船が流失し途方に暮れ目活の道がつかないで徒らに救恤金品で日を暮らしてる次第です」
という意味をながながと陳情した桃生郡十五浜村の罹災民もあったが、神谷検事正の実地罹災地の視察もこれら対策その他に適切な方法を講ずることになろうと。
二ヶ月間で 二百隻 石巻町内造船 所の小船建造
震嘯災被害の漁村振興策から小型漁船等約一千隻を二ヶ月間に建造しようというので十六日午後六時から石巻町で山西造船所外七ヶ所の造船関係者と打合せをした県松本水産課長一行は十七日朝は大原村方面に向ったが、同夜関係者と協議した結果、八造船所では、
四、五両月で約二百隻を建造し得ると申合せた、即ち海苔舟、中柵無し(サッパ)中柵付小舟(カッコ)の三種でこれらはいずれも発動機なしであるが船具を備えるものである
尚県では右の小船を町村有として被害地大原村鮎川村荻浜村女川町等に配給し、町村当局から県に対し費用を支払うものであり、漁業地方復興の原動力は何としてもこれら漁船小舟の急造が最緊急事とされているので、各造船所でも出来るだけ右の趣旨によって奉仕的に建造にあたるわけである。
工兵隊の架橋
本吉郡歌津村では、三日の海嘯で数箇所の橋梁を流失され交通に多大の危険を伴っていたが黒沼少尉の率いる工兵隊三十三名の活動により架橋されたので地方民は漸く安堵したなお工兵隊は見本バラック二棟を急造して帰営した。
義捐金寄贈
鳴子温泉の芸酌婦連が三陸震災地罹災者に対して各自貯金して、金十円を菅料理屋組合長の手を経て本社に寄贈方を依頼した
児童から慰問
桃生郡各町村小学校では、津浪被害を受けた同郡十五浜村を除いて、児童一名から三銭以上の震災地慰問金募集中であるが、成績何れも良好で近く取纏めの上発送するはずである。
慰問金品送附
刈田郡宮村■■自警主婦会では三陸地方の震災地に現金十五円、白米■俵、衣類数十点を送附した。
菰莚を贈る
桃生郡鷹来村青年団では大海嘯惨害地慰問として、団員奉仕による菰莚製造に大馬力をかけ、この程第一回慰問として二百五十枚を送り更に第二回慰問の方法を講じている。
惨禍を契機に 要望具体化 江の島、田代島の超短波無電 十七日関係者再協議
牡鹿半島女川町、江の島、荻ノ浜村、田代島に超短波無電を装置し石巻局を伸■局として無電網を布かんとする仙逓局の計画についてはその後関係町村も大いに待望しているか、今回の津浪襲来によって一層緊急なことを痛感されて居り
海上十一海里をへだてた江の島に無電装置さえあれば沿岸に対し警戒網を布くことが出来、将来の災禍にも備え得るといわれ速かに真剣味を帯びて来。
十七日午前十字から牡鹿郡水産会事務所で大木石巻郵便局長、松田郡水産会長高橋同会主事等が会見し対策を協議した結果、
田代島の装置費用は同村当局と田代漁業組合■に有志で■■することに大体決定を見てるが、江の島の方は未だ決定的でなくしかしこれも大体纏まるものとみられ、石巻局に対する仲■設備費は石巻町で支出可能性がないので郡水産会で応分の寄附は負担し、不足分は町当局及び商工会に対し援助を求めたい、
ということになり、郡水産会で極力応援することになった。
県会議員 経験を土台に大自然の 暴威から逸がれよ 廿九年海嘯当時の潮勢磁力変動 尊重すべき古老の言 災害地視察 (10)
私は、この視察記の書き出しにおいて、三陸沿岸海嘯惨害の歴史を記したから書き結びに際して、今回の海嘯と比考する上に、何等かの参考資料にもと、明治二十九年海嘯時の、潮勢や磁力の変動やその他の事を記したいと思う。
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震源地観測と海嘯被害実地調査のため等意見した中央気象台■■技師や、右■観候■川■技師等の談は、既に新聞紙上に発表されたから、■めて記す要もないが、今回の震源地は、一ヶ年千回以上も活動する地震外廓地帯の活動によるものだということである。そして、地震来を予知することも困難、震源地の深度観測も困難、従って津浪の襲来を予知することは不可能と聴いては、全くオオ神様よ・・・・・・というより外に詮方がない。
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斯うなると「鰯の大漁の時は津浪がある」などという、昔から三陸沿岸の漁民の間に伝えられていることでも、警戒予防の一針になさざるを得ない、事実三陸沿岸は、近年にない鰯の大漁であり、各漁村は鰯カス(肥料)で一息つこうとよろこんでいたところへ、今回の惨害に見舞われたのである。
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航海業者は、大気と天体との作用によって海水に動揺のあることを知っている。海水の動揺を、波浪、潮浪、海流の三に分ち、その中の波浪は、原因の異なるに■って、■浪、暴浪、地震浪、■浪の四に分れ、海嘯は、暴浪と地震浪とを称するのだというている。
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明治二十九年の海嘯当時、本吉郡役所で発表した公報によると
六月十五日朝来風穏かに天晴れ温度七十五度の日和なりしが午前十一時頃に至り濃霧起り海上咫尺を弁ぜず午後五時頃大雨沛然として到り午後六時三十分頃止み地震数十回強震ならざるも鳴■長く雷の如し八時三十分頃津浪襲来せり
と記してある。桃生郡十五浜雄勝区の報告には
六月十五日午後五時頃より一天曇り同六時十分頃雷鳴二回劇雨となり漸次雨勢表へたるも同七時五十分頃まで続き同八時三十分雨止み霧深く地震数十回午後八時頃津浪襲来前■十三回に及ぶ
と記されてある。今回とは季節も異なるから、無論大候の変化も異なるに違いないが、今回罹災地方民に訊いて見ると、前夜降雪ありて寒く、当日は晴雲半ばし、突如強震があってから津波の襲来まで場所により三十分乃至五十分ころの間隔があったというている。
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潮勢に関し、明治二十九年の海嘯当時、陸軍参謀本部の調査せる所によると牡鹿郡鮎川村験■■の示すところは
午前中平穏午後八時二十五分の満潮時にも拘わらず俄然約二十三センチ(六寸六分)の退潮を示し同八時三十分頃突然襲来せる激浪一米四〇(四尺六寸)の高さに達し二十五分間にして下り四五分毎に一昇一■同九時三十分同五十分の二回は同じ高さを示し同十一時は二米(六尺六寸)高昇■■の■■■二米七〇(八尺九寸)平常時の潮面に復するまで数日を要せり震源地釜石の東方太平洋中なり
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今回の海嘯騒ぎで、涛勢遠く布?■まで及んだといわれているが二十九年の当時も同様、涛勢布?に及んだことが記録されてある。二十九年当時、震災予防調査会委員中村精男氏が、同会に報告した大海嘯前後の地球磁力の変動によると
六月十五日三陸地方大海嘯の際における地球磁力の■■を調査するに仙台に於ては同月十一日頃より水平労力■に偏角に多少の変動を起し大海嘯の全日■■十四日には特に著しき変動を示せり、東京においても亦やや微弱ながら殆ど同様の変動を呈せり、然るに名古屋における■力計は、毫も異象を呈せざるを以てこれを視れば今回の磁力変動も亦地震を起すべき地下の変動に起因したること殆ど疑うべからず果して然れば五月十一日頃より既に三陸地方の沖合において地下変動を起しつつありて十五日に至り海中に地震を起し遂に大海嘯を来せしならんか云々
と記してある。仙台における磁力の観測は、第二高等学校内に■付けてあった磁力観測器によったものなそうだ。
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大自然の力と、これを征服せんとする科学の力との争い、驚くべき人智の発達も、まだまだ恐るべき大自然の威力を征服し切れず、地震来も海嘯来も明確に予知し■ないとするならば、私共は、過去現在の苦い経験を根拠として将来に備え、■う限り、大自然の脅威から逃がれる工夫を怠ってはならない。これが海嘯損害善後策の骨子であり根本でなければならないと■告する。(■)=富山■■記=