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蘇える魚河岸

三日の海嘯修羅委以来、気仙沼には魚の水あげが無く海岸通りは火の消えた様なさびれ方だったが、この八日ころから難を免れた漁船がボツボツ出漁に出かけ、水あげするので、魚小売の■店も十数件出揃い初めて、漸く魚河岸らしい叫び声と■音が交錯して来た。魚飢饉で悲鳴をあげた町民もどうやら鮮魚を口にすることが出来て来た(写真は蘇って来た魚河岸)

復興の意気  旺んな大原村   村の補助を受けて    バラック続々建設

牡鹿郡大原村谷川、鮫の浦の災害地は復興の意気旺んで村当局のバラック補助交付で木の香も新らしく匂わせているが十五日現在の調査では
 谷川浜は本建築八戸、バラック十六戸でいずれも建築に着手した、鮫の浦は本建築四戸、バラック建築九戸
全部三月中に竣功の見込で本建築は多少遅れる訳であると。

全滅した三戸 に集まる同情

桃生郡十五浜村大海嘯被害で家族全部が津浪にさらわれたのは同村荒浜高橋松三郎方八名、同貞治郎方四名、高橋しん方五名であるがこの気の毒な三戸に対する村民の同情は大いに集り、新味も及ばぬ世話をし、無縁仏となる三戸十七名の会向方につき種々協議を進めている。

震災直後の石 巻局  電信電話扱  平常の数倍

石巻郵便局の震災直後の郵便小包電話電報等の取扱は平常のそれより数倍の激増を見た、即ち震嘯災当日の三日から五日間の市外電話通話は七千六百三十六通話で平常の五日間は三千九百通話に過ぎない、電信の如きは三日から一週間の取扱一万一千九百四十六通で平常の一週間分は三千百二十二通、郵便小包等は一週間で二十一万二百七十三通で平常の七日間に比して十一万三千六百五十二通の激増を見て居る。

震災善行者具申

飯野川警察署では這回の桃生郡十五浜村大津浪襲来に当って各部落にあった善行者を調査しその筋に表彰方を具申することになった。

慰問金寄贈

軍艦金剛乗込阿部与市として十五日八巻石巻署長宛に封書が配達された、
「今回の震嘯災の惨事を無電で知り艦は鹿児島県有田湾に入港したので直ちに金五円為替を封入したが罹災民救助慰問の万分の一にも充当してくれ」
というので同署長も大いに感じ慰問金として受理することになった

臨時警電架設

本吉郡唐桑村宿、小原木両部落間(約一里半)に県で警察電話を架設する計画中であるが、気仙沼署では罹災地復興事務の円滑をはかるため、臨時に警察電話の架設することになり測量も終って今明日から架設工事に着手する。

三県分義捐金  二千六百円   気仙沼町から配分

気仙沼町では十五日午後一時より同町役場に長会協議会を招集、同町役場で取り扱った三陸沿岸震災義捐金一千六百六円九十三銭、町費より支出する一千円、計二千六百六円九十三銭の配分に関し協議の結果、左の如く決定した。
△県内九四〇円 内訳、唐桑二三〇円、大島、二五円、鹿折二〇円、階上二〇円、大谷二五円、小泉五〇円、歌津一七〇円、戸倉二〇円、志津川、二〇円、十三浜八〇円、鮎川一〇円、大原五〇円、女川五〇円、十五浜一五〇円、坂元二〇円、
△岩手県釜石以南七六五円 内訳大船渡二〇円、高田一〇円、気仙五〇円、米崎一〇円、赤崎四〇円、吉浜一五円、越喜来五〇円、綾里■〇〇円、広田五〇円小友二〇円、末崎五〇円、釜石二〇〇円、唐丹一五〇円、
△岩手県釜石以北二九五円 内訳久慈五円、野田五円、種市一〇円、侍浜五円、中野五円、夏井五円、長内五円、宇部五円、小本一五円、田ノ畑一五円、普代一〇円、大槌五〇円、鵜住居一〇円、宮古二〇円、山田三十円船越一〇円、田老五〇円、重茂一〇円、津軽石五円、大沢五円織笠一〇円、崎山五円、磯鶏五円、
△青森県三〇円
なお青森県へは県庁に直接送り他は各町村にそれぞれ送る。

白石青年救護へ

白石町青年団員 十名は太宰副団長引率のもとに十六日午前三時白石駅発列車で気仙沼に赴き罹災民の救護に従事中である。

島津氏視察

帝国農会副参事島津秀蔵氏は十五日石巻町に来たり直ちに自動車で牡鹿半島から三陸一帯の災害地視察に向った

白石小校の義捐

白石小学校の職員生徒一同は県教育■の手を経て義捐金八十二円四銭を災害地に送った。

県会議員 明治廿九年の大海嘯と  今回との比較対照   志津川外八ヶ所臨時病院開設    勝間田知事の善後策

災害地視察
    (8)
 最後に附記したいことは、明治二十九年大海嘯当時の状況と今回のそれとの比較対照である。いささかたりとも現在並に将来に資するところがあれば幸である。
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 生命財産等の損失を計画的に明確に決定的に知ることはまだ不可能である。当局に対してこれを要求することも無理でありまた早きに過ぎると思うが、六日県保安課の発表によると死者一五三、負傷者一二八、行衛不明一三九名で、行衛不明というのは、死者と見■してあやまりはなさそうだ。
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 家屋の倒潰三七九、流失六一八浸水一二八六戸、舟の流失一二三二隻、罹災者九二九二名という惨害である。明治二十九年には本吉牡鹿、桃生三郡で家屋の流失倒壊一〇八四戸、半潰二九一戸を算し死亡者三三八〇、負傷者一三三七名である。被害耕地は災害前総反別五六七三町四反八畝一七歩のものが五一八八町九反二畝一六歩に減少したから被害総反別は四八四町五反六畝一歩に達した訳で内■入地化四〇九町八反二畝九歩、石砂入地化七四町大反一畝一二歩、海成地編入一反二畝歩を示した。
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 明治二十九年には災害発生直後焚出救助を受けた人員は二八二五戸一七三三名、六月三十日には減少して九一二五名、翌七月六日には七〇九四名という漸減であった。また当時の医療的救護方法はどうであったかというに、大惨事突発当日、勝間田知事は、直ちに日本赤十字社宮城支部長として医師看護婦の出張を命じ、翌十六日には■医病院医開業医より成る百名(後三十九名増加)の看護隊が急派され、本吉郡志津川町外八ヶ所に臨時病院を開設した。
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 治療を受くる者六二九名、逐日増加したが、七月に入って漸く減少したので、七日には志津川町(各足伊学前二院合併)小■村■■沼(大■宿明戸大谷四院合併)の三ヶ所に縮小した。そして七月三十日に閉鎖した。
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 宮城県庁の執務方法としては、庁内に「宮城県海嘯臨時部」を特設し、書記官一坂俊太郎氏部長となり、出張所を志津川町気仙沼の二ヶ所に置き、志津川には参事官河村金五郎、気仙沼には時の救税長山田揆一氏が所長として出張した。又出張所を県会議事堂に置き義捐金や寄贈品等の事務を取扱ったものである。
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今回の惨事を知った私が、三陸海嘯に関するいろいろな資料を集めている中に、最も心をひかれたのは、明治二十九年の海嘯後、時の知事勝間田稔氏が被害地郡長町村長区長外各有力家に向け、七月十五日付を以て通牒した善後策の一端である。到底全文をかかげ得ないから、その要点だけを記して見よう。
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  善後策■■一端
 今回の海嘯は今古未曾有の天災にして罹災の民衆は財産家屋を蕩■したるもの多きのみならず概ね一家親族を魚腹に葬り人生の悲酸実にこれより甚だしきはなくその未だ生業に従事するを得ざるは情勢の止むを得ざる所なり然れども備荒諸畜の焚出日数は巳にその制限を経■し恩興を以て更に食料を給与すべきも是亦今後三十日を過ぐるを得ず即ち無限の救則は為し得べからざる■につき一日も速かに各その生活の道を謀らしむるを緊急の事とす、それこれ■謀らしめんとするには先ず死屍の埋葬を丁し各家若しくは部落に於て神仏各その信仰する所に随い祭祀を執行し以て遺族の心を安慰せしむる事勉めてその悲■を転じ■魂を■■せしむるにあり、今や災後に処する第一期は経過したるを以て第二期以後に属する善後の方策中主■なる条件を挙げ本官の意見を示す被害地所轄■長はこの方針を■■して町村長区長及び有志者へ説示を加え■く■■するよう取計らるべし。云々(続=富田■■記=)