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写真説明

(1)山と積まれる慰問品(石巻三陸倉庫)(2)バラック建の煙草屋(唐桑村小鯖部落)(3)潜水夫を使って死体捜査(小鯖部落)(4)労力奉仕に向う塩釜青年団第一分団員(塩釜駅前にて)

一町十六ヶ村の  慰問金二千五十円   桃生町村長会から夫々罹災地へ

桃生郡町村長会では十五浜村並に孤島宮戸両村海嘯見舞の緊急総会を開いた結果、被害二ヶ村を除く一町十六ヶ村四万一千戸から平均二十銭づつを募集し、合計二千五十二円を取纏め、十三日五島飯野川町長外代表者が親しく被害村を訪問贈呈したが、各町村分担額左の如し
 飯野川一九五、六野蒜九六、二小野一六二、二鷹来二一九、〇赤井八八、二大塩六四、六北村九三、三広淵一〇七、四須江六一、六鹿又一一六、六前谷地一一六、六中津山一七三、四桃生一一七、八大谷地一一一、六橋浦七〇、六二俣八三、二大川一二四、六

井戸水も  又激減   津浪再襲来に   脅ゆる両部落

桃生郡十五浜村字大須、荒両部落は去る十日から連続的に飲料水井戸の水量俄に減退涸渇したので村民は再び海嘯が襲来するのではあるまいかと極度に狼狽しているが
 同村古老の経験によれば明治二十九年三陸大海嘯の直前にも井戸水が涸渇したり、海水が混濁した事実あり、
去る三日も雄勝浜の井戸水が俄に涸れた事実があるので、海嘯後の同村は又も津浪襲来の前兆であるまいかと村民が井戸を覗いて狼狽している。

塩釜青年団第 一分団員  労力奉仕に唐  桑へ向う

塩釜町青年団第一分団員十一名は永井副団長引率のもとに同町青年団を代表して、過般大海嘯にあって目下復興の途にある三陸沿岸地方の労力奉仕に赴くこととなり食糧品、慰問品を携え、十三日午前十時発の汽車で先ず被害の甚だしかった本吉郡唐桑村に向け出発したが、向うに三日間滞在し十七日帰塩の筈である。

救護係りを  悩ます慰問品?   「消毒はするが汚れ目迄は」と    事務所員の困惑顔

海嘯罹災地への同情は全国的に集まり、本吉郡唐桑、大島、階上、鹿折各村の罹災者は衣類の如きは一人平均七枚の配給をうけて寒さにふるえる苦悩も薄らぎ、感謝の涙を流しているが、一方慰問品の中には不衛生極まるものがあり、配給の衝に当っている救護所の係も、罹災者に贈らなければ、寄贈者の真心を蹂躙することになり、又寄贈者の真心を伝えようとすると、貰う方の感情を害する結果になりはしまいかと随分頭を捻るものがしばしばある、救護事務所の係の人は
 昨日東京方面から贈られた慰問袋には洗濯していない汚れた猿股が五六枚入れてあったものがありました、衣類は大部分消毒して罹災者に渡すのですから衛生上からみるとこれでも好い訳ですが汚れ目まで綺麗にすることが出来ないので、贈ったものか、どうしたものか考え中です
と困惑顔で語った。

座礁した  稲荷丸   大東丸に無事   曳航さる

気仙沼水産試験場分場指導船、大東丸は大島、唐桑の罹災者へ贈られる慰問品、救恤品の輸送に従事する他、死体の海面捜査にもつとめているが、十二日海面捜査を終え気仙沼に帰港の途中本吉郡唐桑村字崎浜、三浦清松所有漁船稲荷丸(十二トン)が崎浜海岸の岩礁に打ち上げられていたのをワイヤーロープで曳き出し、無事救助した
 稲荷丸はこれまで数回に亘って曳き出し救助をうけたものであるが、何せ岩間に挟まって動きがとれず、救助不能で破壊を覚悟していたところ
大東丸の活動により僅か四十分で無事を得たものである。

雄勝浜駐在所  戸口簿   海上調査で無   事発見さる

去る三日払暁の海嘯で、全村民の戸口簿全部を流失した桃生郡十五浜村雄勝浜駐在署ではその後鈴木飯野川署長以下応援巡査の出張によって、実際的の調査を開始したが、その後右戸口簿全部を海上捜索船によって発見されたので、警察側では非常に安心し、早速飯野川署に運搬、昨今全署員を督励し不眠不休でこれが再調整に着手した。

十五浜村民  漸く漁業に着手   後片付けも大体終了    小学校授始業をむも

桃生郡十五浜村海嘯被害部落の後片づけも大体終了し昨今盛んにバラック建設や海岸桟橋改修、道路橋梁の復旧も一段落となったので被害を免れた同村明神、北浜、大浜、分、立浜、桑浜等から連日腰弁当で惨害部落に応援している。部落民も去る十二日から漸く本業たる漁業に着手したが去る三日から連続的に被害部落に応援に出かけたため、これ等の部落でも下級民は極度に生活に窮乏したものあるので、それぞれこれ等の涙ぐましい村民の奉仕に対しても充分慰労の意を表する事になった、なお同村に送付された各地からの慰問品は積んで山を成すの有様にして村当局では各部落有志立会の上最も公平に且迅速に配分をなし一般から非常に感謝されている。又避災民収容場となった小学校も、バラック建設と同時にポツポツ引きあげたので去る九日から一斉に授業をやっているが、罹災児童の学用品はまだまだ不足なので学校及び村当局では県に申請して学用品の供給方を交渉した。

石巻に於ける  造船能力調査   一時に二十隻内外は    大丈夫建造し得る

三陸災害で小型漁船その他の被害最も多い岩手県では漁船、カッター等を急速に建造することになったが、同県より石巻署に対しても町内造船所及び造船能力等につき照会があったので直ちに調査の上回答したが町内主要造船所は八ヶ所でこの造船能力は船舶の大小構造等によってそれぞれ異なるが一時に二十隻内外は建造し得るとのことである。

県会議員  大地震あったら   津浪襲来を覚悟    前回の経験が祟って死を招く     懸念される今後の衛生      災害地視察      (5)

 歌津村から志津川町に帰着したのは午後六時十分、蔦屋旅館に投じた。清水谷学務部長一行が、巻ゲートル姿で諸般の事務に■■していた。志津川町は流失倒潰家屋五浸水家屋一九五死亡■負傷一という程度だが、耕地や船舶や道路橋梁護岸堤防の破損はおびただしいようである。一刻も速かに復旧せられんことを望んでやまない。
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 当町に一泊、九日は小泉二十一浜、大谷、階上、気仙沼、唐桑に向う予定であるが、今日まで視察調査を遂げて、感じたところを帰納的に述べて見よう。
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 第一に、罹災地方民は、明治二十九年翌三十年の海嘯と今回と合せて三回も大惨事に遭遇していることを忘れてはならないと思う地勢を考えて住宅地域を変更するなり、護岸堤防を完全にするなりこの際万難を排してこれを断行し決して再び惨害に逢わぬよう万全の策を講ずること。
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 第二には、死亡者を出した一家の生存者の談によりて考察するに強震があってから、津浪の押寄せて来たまでには、三十分乃至一時間位の間があったから、この間に急いで何所かへ逃げ去った者は助かったのに反し、モー地震もなかろう、津浪のおそれもなかろうと安心を極め込んでいた者や、再び眠りに就いた者が浪に襲われて死んでいるようだ。
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 勿論死亡者の中には、多くの子持ちで誰を爺さんに誰を婆アさんにこの子は妾、その子は亭主にと手間取っている間に逃げ濡って大浪に呑まれた者もある。親子の情の表れとして、斯うした哀話を耳にする度に、胸の痛さを禁じ得ないが、要するに、大地震があったら津浪の襲来を覚悟して即時何所か安全地帯に避難するのが安全第一らしい。
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 第三には、海嘯の惨事に遭遇した経験の所有者が地震直後津浪が来るぞ逃げろ逃げろと注意をしてくれた者もあるが、中には「この前の津浪の時には、此処まで水が来なかった」とか油断したため、経験が反って祟って死の悲惨に見舞われた者もあるようだ。注意すべき事である。
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第四には、どうしても遠くへ逃げられない時は、屋根に這い上がることである。そうした人は大抵助かっている。斯うした注意事項は誰でも知っている筈だが、何分にも、平常板子一枚下の地獄生活を続けている漁師の人などは、浪に対する警戒心が知らず知らずの間に鈍っているための油断から終に生命を失うの結果に陥り易い。注意すべき重要点だと思う。
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第五には、公安の維持、応急救護衛生等の事柄は、警察官並に係員諸君の決死的活動のお蔭で遺憾なく行われたが、懸念されるのは、今後の衛生状態である。日一日と過ぎるに連れて、疲労も重なるだろう、また悪疫流冒の季節にもなろう、そうした時に処する万全の策を講じて置くことが、何より大切なことだと信ずる。
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 その他罹災小学児童に対する精神的慰安の方法を講ずることも必要であろう。いろいろな点は既に片々的に記して置いたが、配給品の中に野菜類の少なかったことは罹災民の等しく語るところである都会地方民や農村民と異なり、常に野菜類の少ない魚村民が津浪のために、漬物まで失ったのであるから、芋、大根類のないには閉口したに相違ない。それから履物などにも困ったようだ。(■)
     =富田広重記=