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適地さえあれば  全部落を移す   復興気分横溢する荒、雄勝部落    村有地をどしどし開放

桃生郡十五浜村の復興は素晴らしく進展し、既に雄勝、荒両部落にはバラック建設着工したが、村当局並に村有志中は、被害部落は明治二十九年にも惨憺たる被害を蒙ったところにして、今後も又津浪襲来のおそれなしとは断言出来ぬので、復興に先立って荒部落の如きは、他の安全地帯に全部を移転新築し永久に津浪惨害から免れたいという意見■■し同区長高橋長五郎翁などは熱心な提唱家にして部落民を盛んに力説し、関係村民も如何に祖先伝来の住宅地であっても、一生の中二回も津浪の惨害を蒙ったのであるから他に適当な候補地さえあれば全部落を挙げて移転する事には双手を挙げて賛成しているので、昨今復興気分横溢した同部落では早速新らしい屋敷としての候補地物色中だが、村当局でも村有地の中に適地があればグングン解放する事になった、尚雄勝浜でも成るべく今度の海嘯に鑑み山ノ手方面に新住宅地を選んで建設せしむる事になったが、同部落は四百戸の密集部落なだけに他に移転するとしても三ヶ所位に区分して安全地帯を設定するより外に方法がないといわれ何れにしても危険な低地の浜辺には住宅を建てるものがなくなるだろうといわれている。

衣食類配給  充分行渡る   薪炭や食器具類の    恵与を一般に希望

三陸沿岸海嘯罹災者に寄せられた全国的同情は衣類、食料品等の慰問品、救恤品となって現れ、気仙沼警察署に事務所を置く県の救護出張所を通じて唐桑、鹿折、大島大谷、階上各村罹災者に送られた■量は約六千点を数える程で、衣類の如きは罹災者一人当り七枚平均に行き渡り、食料品も同じ程度の配給となっている。従って罹災者達は食う、着る二点では先ず不安がないが、薪炭と食器具類の贈り物が少ないため、暖をとることと煮炊きが充分に出来る台所道具を一般に欲している。

米味噌を船で  斎藤氏の隠れ  た美学

桃生郡小野村浜市富豪斎藤宗蔵氏は今回の震嘯災害地の罹災民、救助に白米二百俵、味噌醤油各二百貫宛を発動機船に積込み県下各沿岸に陸上げし、それぞれ町村役場を通じて配給したとのことで、隠れた救世主として罹災地から非常に感謝されていると。

飯野川職工 組合員奉仕

桃生郡飯野川町職工組合にては同郡十五浜村海嘯被害地復興作業■率先奉仕すると同時にバラック建築に対しては各組合員が最低賃金で従事することになり各方面から感謝されている。

大東丸活動  救恤品輸送に  当る

県水産試験場気仙沼分場指導船大東丸は震災前より気仙沼の村上造船所で機関の大修理を行っていたが、災害救助に出助することになり応急修理の上、十一日から気仙沼、唐桑間を往復慰問品、救恤品の輸送につとめている。

消防組の救援

石巻町消防組清野組頭以下約五十名は災害地牡鹿郡大原村谷川、鮫の浦等の道路修理とバラック建築敷地の地均し等その他復興事業に従事すべく三日間の予定で十二日同地方へ向ったが、五十名はいづれも野営の意気込みである。

抜群の偉功を  樹てた伝書鳩   手柄を誇りもせず    気仙沼署楼上に静かに休養

気仙沼湾■の離島、大島村には電信、電話の架設なく通信機関は全く欠如している上、交通機関は僅かに渡船の便があるに過ぎないところから小守林気仙沼署長は昨夏来盛岡高等農林学校から購入した伝書鳩二番の中、一番を気仙沼署楼上に、一番を大島村巡査駐在所に置き不断に訓練を施していたが計らずも今回の大震災には警察官の有力なる支持者となり海嘯被害の状況通信に抜群の偉功を樹てた唐桑村間の電話も復旧した今日、用済みになって現在気仙沼署楼上の鳩舎で、自分の樹てた、手柄を誇りもせず静かな休養をとっている、小守林署長は語る、
 人間に優る偉功を樹てて呉れた何かの時に役に立つと思って飼育していたのが、三日の日の如きは大島、気仙沼間と唐桑、気仙沼間を五往復もして被害状況を知る上に絶大なる助けを得た

雪の峠を越えて  本社慰問班活躍   危険を冒して荻浜へ    罹災民一同大喜び

第三回本社慰問班が仙台市内各方面からの寄贈品を山積したトラックで十日第一日目を牡鹿郡女川町方面に配給し、第二日は折柄の雪を大原村鮎川方面に夫々配給したが、トラックは積雪のため進行困難に陥りすべりとめのクサリをつけたが用をなさず、危険と見て荻浜附近から引返そうと思ったが、罹災地のこと、罹災民の困難と哀れな姿をおもうては踵を返し、鈴木班長は一行を激励して雪の■越峠や小■峠の嶮を突破、遂に目的地の荻浜、大原、鮎川の各村にそれぞれ配給し得ることを得たが、罹災民は金を懐ろにしても買うことの出来ない日常品や殊に児童の学用品等々が本社寄贈品によって大いによろこび、役場吏員から受けとるや直ちに使用するという有様、一同から感謝されては慰問班もスッカリ苦労を忘れて朗かになったものである。

左沼建築手組合  第二班出動   再建の意気に拍車をかけ    部落民から感謝さる

登米郡佐沼町建築手組合では震災地の復興援助のため六日、八日までの二日間本吉郡唐桑村小鯖部落で労力奉仕をなしバラック建住宅十一戸を建築して再建の意気に拍車をかけ部落民から異常なる感謝をうけたが、更に同組合労力奉仕第一班は同組合顧問技師富樫作之助氏に引率され十一日午後六時十分気仙沼駅到着、白木綿に「佐沼建築手組合」と大書した旗を前頭にして大工道具と食料、衣類を入れた包を背に負った組合員十名は同夜唐桑村、只越部落に向った、引率者富樫氏は語る
 過日小鯖部落に赴いた折、只越部落にも労力奉仕のため第二班をお送りすることを約束したので、それを履行するために参った訳です、総勢僅か十人に過ぎず、大したことも出来ませんが再建に幾分かの力となれば幸いです。

困っているお友だちに  あげて下さい   罹災民を憐れむ少女の情    白石町役場吏員感激

白石町役場では町内各戸に義捐金袋を配付して震災地の救恤金を募集中であるが、十一日白石役場に左の如き可愛いい手紙とお金や教科書が届けられた。
 これはわたくしがためておいたおかねです。わずかばかりですがこんどのしんさいのこまっているおともだちにあげてください。ふるいご本とえんぴつもあげてください。
     白石、二年 銭谷米子
 ふるいほんですがなくなったkたにおわけしてあげてちょうだい。えんぴつもごほんもたくさんはいっていますからみんなでわけてちょうだい。
     白石町二年 十二村ヒロ子

県会議員  六十年間に三度   大惨害を被る    陸海軍人、警官の活動に感謝感激     非常時用船舶も必要      災害地視察       (7)

 女川慰問調査を以て七日の牡鹿郡を終りとし、午後六時過ぎ石巻に帰り俵屋旅館に投じた。南■氏電車で帰仙、庄司氏が入れ代った災害御見舞の菅原英伍氏も加わり相共に災害■長の想像外に甚大なるに驚愕した。この日の過程一百一■を■した。
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 翌八日午前九時石母田■、(小野■氏帰宅)桃生郡十五浜村に■ったが、災害増■■■の■■を■■して重ね重ね大■■の■■に■れをなした。十五浜■■で死亡■は二十七名行衛不明四〇名これとても到底生存の見込はないという。流失家屋一五一、非住家三八一、浸水家屋住家一二七、非住家一五六、倒潰家屋住家七八、非住家一一四、負傷者七八名という惨状である。
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 惨事突発の翌夜は■■も消えて■の■に泣き■ばねばならなかったのを、■■■■■が■■を湾内に■し■■■■■■■らしてくれたので■われたそうだ。それのみでない、■■■上■して■■■シャツ類やその他の結構な救恤品を配給してくれたので村民一同感謝の涕にくれている。
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 海軍ばかりでなく、陸軍の工兵隊が駆けつけ、■■物を除去して運路を開いてくれるやら、毛布を配給してくれるやら、昼夜軍と■■■に対する感謝感激は■央の到る所に■■している。人の情を花に■■るなら、俳人一茶の句、
 「花■や日■■いさましや」
の■■■■■る。
     ×     ×
 雄勝荒船越名振の各浜々共に、住宅復興の土地選定に悩むことであろう。罹災部落の地形によっては、災害前の地域に復旧することは絶対に不可なるを自覚すべきである。今年六十歳の人は明治二十九年の大海嘯と翌三十年のそれと今回と三度大惨害を被っていることを忘れてはならない。
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  十五浜を辞して飯の川町に到り昼食(庄司氏帰宅)午後二時四十五分出発、午後三時本吉郡戸倉村に着いたが、当村も折立水戸■波伝谷津宮瀧浜■浜良清水寺浜等の各部落が惨害を受けている。然し■に明治二十九年の海嘯に比して惨害の程度は少ない。△印を明治二十九年の惨害とし今回のを●印で示して比較すれば死亡者△六五●一負傷者△二〇●一〇全壊家屋△三〇●■の程度である。
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 ■■■にも■■なく、■■戸倉村にも■■■どうすることも出来ないのだ、■■■から十■■■■うことが出来なかった。十三浜は護岸堤防なく惨害が甚大だという。
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 十三浜は交通の便悪く、仙台市から発送する郵便物でさえ四日位を要するそうだ。■り十三浜のみの問題ではない、三陸沿岸の漁村漁■も程度の相違こそあれ同様の状況にあるから、今回の惨害に鑑み、石巻署や塩釜■■に非常用の船舶を常備して置く必要があろうと思われる。
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 戸倉村役場から志津川町に到り佐■■代二民や町長警察署長等の案内を受けて歌津村に■った。田ノ浜浦■部落を■■したが、惨状は牡鹿郡谷川浜に■ている。■浜、■■■、■■、■■、■■、■■石■■ことごとく惨憺たる光景を呈しているが、死亡■二〇、女一六行衛不明(死)四六、重傷三六、■■■■■■一三三、浸水家屋五〇という■況である。(■)
     (■■■■■記)