県会議員 速やかに改正を要する 罹災救助法の一部 家屋を建築する時は出来るだけ 山際の高地を選べ 災害地視察
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山甚翁の言に■に、この家は■屋組みで、角々隅々まの固めが丈夫だからだという。建築上研究に値する活資料だと思われる。この家の主人の語る所によれば、最初に襲われた波は高サ一丈余、漸次低くなり勢も弱って前後五回襲われたという。
洗い払われた人家の立ち列んでいた所と、波打際との堺には、約三百間位の堤防が築かれてあったが、滅茶々々に破壊されてある。この堤防は、土砂を積んで石を張りつけたものだ、いわゆる砂上の楼閣である。怒涛を喰っては一たまりもあろう筈はない。
大正■年の暴風の際、堤防を浪に洗われて惨害を受けた鮎川港では、それに懲りて、コンクリートの立派な堤防を築いたため、■後の災厄から逸がれている。防波堤防は混凝土に限るようだ。約三十戸の鮫の浦の惨害は更に甚だしく山際の三戸を除く外全流失、一物を留めない状況を視察しようとしたが、渡り行く片舟だに求めかねて中止した。
谷川浜の惨状を視て、誰でも考えさせられることは、斯うした地形にある漁村の復興策である。単純にいえば、沖から押し寄せて来る波浪を防ぐことが第一策だから高い高い堅牢な堤防を築けば可い訳だが、三陸沿岸の漁村漁港にこれを実施することは、支那の戦国時代でもなければ、秦の始皇でもなければ出来ない相談である。
さればというて何等の策を講ずることなく、災害以前の場所に災害以前の通り人家を建て列べたなら、幾星霜かの後、又しても大自然の暴威に泣かねばなるまい。カスカロナ海溝の存在する限り、鋸の刃のような海岸である限り、誰か今後絶対に、三陸沿岸に海嘯の惨害なしと断言し得る人があろうか、過去の事実を忘れてはならない。
私は斯く信ずる。三陸沿岸の今次の海嘯惨害地の善後策は、復旧であってはならない、復活でなければならない、復興であらねばならぬと思う。災害前に復旧することは百年の大計ではない。先ず第一災害地域から離れ去らずとするならば、この際、将来を慮り、出来る限り、山際の方に、より高地に人家を建築すべきである。多少の浸水被害はあったにしても、比較的高地にある家、比較的波打際より遠い地域にありし家屋は、流失、倒壊、人畜の死傷から逸かれたという月前の活事実を見逃してはならない。
谷川浜の如きは、この際、思い切って、山手に移転する事の賢明適策なるを勧告したい。
私共一行は、谷川浜の惨状に胸打たれつつ道を回して女川港に向った。村役場を訪い、松川町長に慰問の辞礼終って状況談に入ったが、此■は、流失倒壊等の惨害ではなく、程度の酷い浸水家屋二六六戸、床上浸水一六三戸の被害である。
万里同風、さなきだに深刻な不景気風に祟られて、当町一ヶ年の経常費約六万円のところへ町税未納約六万円という悲況を続けて来ているところへ、今度の被害、鰯の大量でヤッと息がつけるかと喜んだのも津浪の泡と消え去ったというわけ、今度の町財政が想いやられて気の毒に堪えない。
震災の被害とて、布団と畳は役に立たず、■水漬は容易には乾わかないので、罹災民は弱わり切っている、単り女川浜のみの問題ではない、ここに全国的な重大問題を提唱せざるを得ない、それは罹災救助法規の一部を速かに改正せよと絶叫せざるを得ない一事である
現行罹災救助法の示すところに依ると、救恤品目中に衣類は挙げられてあるが、布団や畳が指示されていないため、今度の様な罹災の場合、法規のみに従えば、何物よりも布団が必要だとしても、これを給興することが出来ない訳である、これを給興しようとするには救助資金ではどうにもならぬから義捐金等で何とか処置せねばならないという不便窮屈さがある。
罹災の場合、布団や畳などは…という人あらば、それは被害者の実情を知らぬ者の屁理屈で、膳椀が無くとも飯が食えるというに等しい。鍋釜から手づかみでも間に合わすれば間に合うが、それは真の食事とは称されまい。
明治三十八年の凶歉の際、矢張り法規の不備から、虫害風害等は救済されるが、米作の無収穫に対して救済の受けようがなかったのを、時の県議長小野平一郎氏や山田甚助翁等が「法規の不備のために民生の救われざるが如きを黙視すべきにあらず」と中央政府に運動して、衆議院をして救済法改正案を通過せしめ、難関貴族院をも突破し、終いに宰相原敬氏の果断により単行法として公布せしめ以て凶歉の厄を凌いだという歴史もある。不備不適切な法規は、すべからく速かに改正せしむべきであると、伊丹議長も意気込んでいる。(七日夜石巻にて=富田広重記)
県下の死傷者 行衛不明数 十日現在県保安課調査
宮城県下の地震、海嘯による死亡行衛不明、負傷者(重軽傷別)は十日現在県保安課の調査にかかる数は死者百六十九名、行衛不明百三十八名、負傷百四名で、老幼婦女子に被害者が多かったが、これを年齢別にすれば、
【死者】 (十歳以下)男三二女■四(二十歳以下)男八名女九名(三十歳以下)男七名女十二名(四十銭以下)男四名女九名(五十歳以下)男二名女五名(六十歳以下)男七名女十四名(七十歳以下)男十一名女八名(七十一歳以上)男五名女七名
【行方不明】 (十歳以下)男三十一名女十八名(二十歳以下)男十名女六名(三十歳以下)男十二名女十五名(四十歳以下)男六名女五名(五十歳以下)男四名女八名(六十歳以下)男一名女六名(十七歳以下)男九名女六名(七十一歳以上)男一名女二名
【負傷】 (十歳以下)男四名女八名(二十歳以下)男十名女九名(三十歳以下)男十八名女十一名(四十歳以下)男十三名女十三名(五十歳以下)男十名女四名(六十歳以下)男十五名女七名(七十歳以下)男七名女二名(七十一歳以上)男一名女一名
更にこれ等死傷、行衛不明者を部落別にすれが左記の通りとなる。
郡町村 部落別 死亡者 行衛不明者 重傷者 軽傷者
男 女 計 男 女 計 男 女 計 男 女 計
本吉郡 大沢 一 四 五 − − − 四 一 五 三 二 五
唐桑村 只越 三 七 一○ 七 七 一四 二 − 二 五 三 八
石浜 四 三 七 − − − − − − − − −
小鯖 六 三 九 六 二 八 − − − − − −
崎浜 一 − 一 一 − 一 − − − − − −
宿 − − − 二 二 四 − − − − − −
計 一五 一七 三二 一六 一一 二七 六 一 七 八 五 一三
本吉郡 三ノ浜 二 二 四 − − − − − − 二 − 二
鹿折村
計 二 二 四 − − − − − − 二 − 二
本吉郡 長浜 − − − − − − − − − 二 − 二
大島村
計 − − − − − − − − − − 一 一
本吉郡 杉ノ下 − 一 一 − − − − − − − 一 一
階上村
計 − 一 一 − − − − − − − 一 一
本吉郡 二十一 三 六 九 四 二 六 − 二 二 二 三 五
小泉村 浜
計 三 六 九 四 二 六 − 二 二 二 三 五
本吉郡 清水 − − − − − − − − − 一 一 二
志津川 細浦 − − − − − − − − − 一 − 一
計 − − − − − − − − − 二 一 三
本吉郡 藤浜 − 一 一 − − − 一 一 二 − 一 一
戸倉村 波伝谷 − − − − − − 一 一 二 一 二 三
寺浜 − − − − − − 一 − 一 − 一 一
計 − 一 一 − − − 三 二 五 一 四 五
本吉郡 湊 二 二 四 − 一 一 一 − 一 − − −
歌津村 田ノ浦 一四 一一 二五 四 − 四 二 一 三 二 四 六
名足 − 一 一 一 − 一 − − − 二 − 二
石浜 一 四 五 六 五 一一 − − − − − −
中山 六 三 九 三 二 五 − 一 一 四 三 七
馬場 一 三 四 六 八 一四 − − − − − −
計 二四 二四 四八 二○ 一六 三六 三 二 五 八 七 一五
本吉郡 小指 五 二 七 − 三 三 − − − 三 − 三
十三浜 相川 − − − 一 − 一 − − − − − −
立神 − − − − − − − − − 一 二 三
計 五 二 七 一 三 四 − − − 四 二 六
合計 四九 五三 一○二 四一 三二 七三 一二 七 一九 二七 二四 五一
牡鹿郡 金華山 一 − 一 − − − − − − − − −
鮎川村
計 一 − 一 − − − − − − − − −
牡鹿郡 谷川 九 一二 二一 二 三 五 四 一 五 七 五 一二
大原村 鮫浦 五 八 一三 一○ 一三 二三 四 一 五 三 二 五
計 一四 二○ 三四 一二 一六 二八 八 二 一○ 一○ 七 一七
牡鹿郡 江ノ島 一 − 一 − − − − − − − − −
女川町
計 一 − 一 − − − − − − − − −
合計 一六 二○ 三六 一二 一六 二八 八 二 一○ 一○ 七 一七
桃生郡 雄勝 一 六 七 一 一 二 − − − 二 一 三
十三浜村 荒 一○ 一四 二四 二一 一四 三五 二 七 九 二二 七 二九
計 一一 二○ 三一 二二 一五 三七 二 七 九 二四 八 三二
合計 一一 二○ 三一 二二 一五 三七 二 七 九 二四 八 三二
亘理郡 磯浜 − − − − − − 一 二 三 − 四 四
坂元村
合計 − − − − − − 一 二 三 − 四 四
総計 七六 九三 一六九 七五 六三 一三八 二三 一八 四一 六一 四三 一○四
海底面の変動 全回よりは小さい 昼夜兼行調査を急ぐ石巻測候所 県当局への報告大要
石巻測候所では三日未明の大地震発生とともに所員は震災地へそれぞれ手分けして実地踏査に赴き、蒐集した材料によって目下昼夜兼行で整理し、狭苦しい事務所は戦場のような混雑を呈しているが、ここ一両日中に全部の整理がつき詳細な報告を完成する筈である、尚ほ同測候所から県当局に報告した大要は左の如し
「今度の震源地は金華山東二百キロの海底浅い所で変動を生じた結果で、範囲が極めて広く、北は千島列島から関東地方本州中部の大半及び近畿地方に亘っているので中央気象台並に当所から沿岸一帯に津浪のおそれあると手配したが、通信機■の故障等で徹底しなかったのは遺憾である、被害の多いのは大地塊運動に起因する、由来三陸海岸は北上山脈の尾根太平洋に没する所で、凹凸甚だしいv字型に沖の向へ向って開口し所■リアス式海岸を形成しているので海岸に波浪の到達し来る時は伝播速度を減ずるが、高さを増して陸に押しよせるのである、災害地の調査によって今度のは明治二十九年のよりは小さい、これは海底面に起った変動が小さかったためによる、最もところによって被害の大きいのもあるが二十九年のより約百五十キロ南方に偏したので震源地の方向に向って開口せる湾は被害が大きい」
一斉に建設への スタートを切る 木の香高いバラック ぞくぞく建設される
本吉郡内の震災地各村落は全国的に寄せられる救恤品、慰問品や、激励の言葉に今や潰滅から再建に至る苦難多き前途を物ともせず奮起■躍起ち上って建設へのスタートを一斉に切り、見る影もなき荒地の跡片付け、些かなれど木の香も高いバラック住宅の■■等に精力的奮闘の姿は涙ぐましいものがあるが、県土木課でも決潰した防波堤の修理復旧を急ぐため各地に土木技師を派遣実地測量を開始した。
集る同情に甦 る谷川鮫の浦
牡鹿郡大原村谷川、鮫の浦の災害地は村のバラック建設補助や各地よりの同情金品殺到で復興の一歩に入り各地からの労力奉仕団体で着々建築準備が成り早くも更生の意気に燃えている。
県罹災者救護 出張所の活動 慰問品配給に 大童
気仙沼に事務所を置き唐桑、鹿折、大島、大谷、階上、御岳、六村沿岸罹災者救護につとめている宮城県罹災者救護出張所では七日以来気仙沼青年訓練所、同女子青年団の生徒団員十数名の応援を得て、県下から集った救恤品、慰問品の運搬、衣類等の消毒に大童べとなているが、十日までの慰問品配給数は衣類、食料等約四千点である。
潜水夫四名で 行方不明者捜索
牡鹿郡大原村鮫の浦部落では行方不明者は底曳き網で捜索しているが岩石等多い海岸であるため、九、十両日は潜水夫四名をもって発動機船で海底探索を行った。
被害地を救え 涙ぐましい 県下各地の同情
栗原郡岩ヶ崎長では町会の議決により震災義捐金として百円を贈る事になった。
登米郡只越町では震災義捐金として百円を贈るべく各区長の手で全村各戸より寄附取纏め中である、また同村芦倉自警団では白米二俵及び衣類二百点を、赤谷区では白米二俵をそれぞれ県社会課を通じて罹災地へ送った
桃生郡飯野川青年団では十五浜村津浪惨害に機を逸せず方師団を派遣救援し、更に慰問品募集中であるが、一方去る九日より三日間同町■楽座で海嘯惨害地義捐金募集慈善興業を開催した。
桃生郡在郷軍人連合会では緊急幹部会を招集、代表者を津浪被害地に派遣すると同時に、惨害地十五浜村を除く一町十七ヶ村分会員全部から応分の慰問金品を募集して牡鹿、桃生、本吉二郡被害町村に送附する事となった。
桃生郡鷹来村では三陸海嘯被害地慰問品募集に全村挙げて奮闘し、殊に大江村長、石垣農会長、遠藤校長外代表者は早速同県十五浜村を訪問親しく慰問した、なお第一回衣類、台所道具その他の慰問品はトラック数台で急送し更に作今同村主婦会が中心となって募集中である。
桃生郡広淵村隣保館農村託児所主任庄司領師は今回の三陸海嘯で両親を失った孤児、扶養者をなくした老人達の身の上を案じ、中央社会事業協会及び県社会事業協会につき、早速打合せを遂げて、同隣保館を開放しこれ等気の毒な孤児や老人たちを隣保館に引き受けて扶養救済することを申出たが差当り、牡鹿、桃生両郡の分について、これ等の調査に着手すると同時に中央各種社会事業団体と救護方打合せのため九日夜上京した同師は
「今度の津波の惨害で随分気の毒な人々が多い事であろう、私共の任務は平常も大切であるが、今度の様な不時の災害事変等の場合は万難を排して敢然と起つのが当然である、差当り牡鹿桃生二郡の災害地を調査し孤児や孤独になった気の毒な人々を収容したいと思う」
と雄々しく決心の色を見せて居たが、同師は前述のごとく中央社会事業団との交渉のため急遽上京したので、留守中の事一切をつね子夫人に引き継ぎ、早くも気の毒な人々の収容準備のため隣保館の掃除や、布団、衣類、食糧品等を準備手配した
古川町社会事業協会の罹災民慰問隊は義捐金を七百円と慰問品を山と積んだトラック三台に分乗、十日朝目的地に向ったが、一台は石巻、一台は県船沼、一台は志津川方面に向う筈。
火が消えた様な 気仙沼海岸 魚の水揚殆んどなく 町民もホトホト弱る
三陸一帯を襲った津浪に気仙沼湾附近の漁船は大半流失、破壊し、これがため三日以来トロール漁の魚は、ほとんど水揚げされず、魚小売の■店数十軒が居並んで活気呈していた海岸通りは冷凍魚を漁板に並べている数軒で寒空に並んでいるだけで火の消えた様な閑散振り、鮮魚には苦労したことのない気仙沼町民は「サッパリ魚が来ない」と■日悲鳴を挙げている
写真説明
(上)海岸測量中の土木課員