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潰滅から再建へ  残骸は片端から   綺麗に取片つけ    木の香の高いバラック続々建つ     本吉郡唐桑村地方

暴戻なる海嘯の魔手に親を奪われ子を失い、住む家を持ち去られた者、漁村における唯一つの資本、漁船、漁具を破壊された三陸沿岸罹災者は全国的に集まった同情と降るように寄せられる救恤品、慰問に辛くも飢と寒さを凌いで一意復興の意気に燃え、凄惨なる海嘯の残骸は片端しから取り形付けられ潰滅から再建設の力強い姿が確然と現れて来た。
本吉郡唐桑村只越部落、唐桑村内でも海嘯惨禍■甚を極め全戸数の三分の一は見る影もなく打ちくだかれたが、灼熱する復興への意気は、尾崎道路の交通を自由にし、散乱する家■、漁船の破片が着々と形付けられ、丸木建ではあるが、早くも木の香も高いバラックが、そちこちに建てられて来た、材木は部落の裏山から伐り取ったものだ、再建の気を凝めて金槌を打ち込む者、丸太を打ち込む者、屋根の■きの者これ皆部落民で「自力更生」の力がハッきりと見る者の眼に映ずる。
流失家屋僅かに七戸、死者なし村内でも被害微少の宿部落は災厄程度の軽少であるためか、家屋流失の跡は綺麗に整理され、木普講に取りかかる鉋の音、槌の響きが寒空に力強くはね返って復興は「宿」からの意気を語るようである。

行方不明者尚  百余名   牡鹿桃生本吉    一部の調査

石巻区裁判所管内牡鹿、桃生、本吉の一部で今回の災害で行方不明になったもので未だ死体を発見されないもの、又は岩手県方面に出向いて災害に行方不明になったもの等現在約百余名に達しているとのことだが、各町村では目下救援事業に忙殺されているので区裁判所では戸籍■の失踪手続き又は死亡手続き等は当分やむを得ないものとしているので、現在一人の戸籍訂正がないが死体発見が非常におくれるか全然不明ときまればこれらの失踪手続き其他で混雑を来たすものと見ている。

衛生方面や飢餓の  不安は最早なし   水兵や工兵の救援で    復旧を急ぐ十五浜村

桃生郡十五浜村の海嘯後片付けは附近消防組、自警団■急派によって着々と整理されているところへ雄勝浜は横須賀鎮守府から救援した駆逐艦「沼風」外二隻の入港によって水兵の上陸と積載した海軍毛布とさきに第二師団から送られた毛布、食糧品の配給が罹災民に普く配給され、一時学校寺院に収容された避難民は最寄安全地帯の部路に仮寓することになったので、衛生面や飢餓の不安はなくなった。
雄勝湾に入港した駆逐艦から上陸した水兵達は、在郷軍人や消防組青年団と協力して海岸被害地一帯の後片づけや、雄勝から明神に至る県道や集治監跡から船戸に至る流失道路橋梁架設の荒工事に従事し、一方県電飯野川出張所や小牛田から繰出した電工達の涙ぐましい奮闘で八日夜から全村一帯に電灯がともされた。
工兵第二大隊伊藤少尉の率ゆる一個小隊は船越から荒に至る道路を改修したり、荒部落の中央部を流れる小川に架橋したり、乱雑な津浪の後かたづけに猛烈作業を続け八日は、雄勝浜から船越局の間に第二師団から急送してきたゴム管線七十貫をもって電話を架設して両部落の輻輳する通信を緩和したこの工兵隊は何れも日支事変の猛者運とあり、実弾の洗礼を受けた尊い体験の持主なので、統制ある駿敏な行動、作業は村民から多大な感謝の的となっている。
荒部落で八日まで判明した死体は二十二個で何れも部落民の懇ろな弔いにさびしい葬式を済ませたがまだ判明していない分は三十七名にして、村の老■達は寒い浜辺に集うて念仏を唱えている有様は実に哀愁をそそられる光景だ。
次に如何に職掌柄とはいえ三日早朝猛烈活動を続けているのは飯野川警察署鈴木儀助所長以下全署員だ本署には連絡係りの巡査小山半沢、佐藤視察の三名を残した切りで全部十五浜村に詰め切りで給仕君迄寝ずの番をしなければならない。殊に雄勝と荒部落の外に名振、船越の両部落とも死傷者こそ出さなかったが、部落が比較的大きいだけ、相当被害があるので、日が経るに連れこの方面の調査や、衛生施設、盗難予防等に、戦争のような騒ぎだ、幸い鈴木署長は軍人上りとあって部下の統制は軍隊式にキビキビしているも、大金侍従三辺知事、国富技師、内務部長、内務省社会局長各派代議士等々の見舞やら慰問やら、惨害調査やらの大官運が続々とやって来るので、案内説明して居る内に、玄米飯がなくなったおいう騒ぎで一日只の一食で過ごした事もあり、臨時警察出張所となった雄勝校の荒■の上にせんべい布団にくるまって、一夜まんじりともしない日の連鎖だ、同署長夫人うめさんまでが十五浜に行ったきり未だ帰らない署員達の身の上を案じて、鶏卵をゆでて現場に送っている、又人目知れぬ苦労しているのは自動車運転手の久長巡査で、三日以来帯を解いて寝た事がなく、峻険二里余の雄勝峠を二十分間で自動車走破の記録を作った事が可なり有名な物語りとなっている。

本社慰問班  本吉郡各村へ出動   『有難や有難や』の連発

本社第二回本吉郡震災地慰問班の一隊は白米、漬物、缶詰の食料品から、シャツ、足袋、ジャケッの衣類及び、バケツ等の如き罹災者にとって何より欲しがられている慰問品をトラックに満載八日午前八時、本社前を出発、本社旗を寒風になびかせて鹿折、唐桑両村に幡居する、只越峠の険路を冒して唐桑村只越部落に乗入れ、先ず同部落の罹災者に一抱えもある前記の慰問品を贈った、着のみ着のまま、中にはこの寒空に足袋も履かず草履を突っかけたお神さんは本社員から手渡された慰問品を両手で大事そうに抱き心から謝意を「有難や有難や」の連続に表し涙を流さんばかりの感激に燃えた瞳で車上の本社員を見上げていた、歓びの笑いを後に聞いて観光道路の別名がある尾崎道路をヒタ走りに走り、平磯、石浜の部落を経て「河北の慰問隊だ」と歓喜の声に迎えられて宿部落に至り数々の慰問品を贈って更に鮪立、小鮪方面に向って賛辞と謝辞の雨を浴び、唐桑村慰問を終わり、帰路、津谷、歌津の災害地を歴訪それぞれ慰問品を贈った。

中村厳島艦長  石巻を訪う

救援艦厳島中村艦長は救援作業が完了したので野村横鎮司令長官の代理として石巻町を訪問後塩釜神社を参拝、八日午後六時帰艦と共に出航準備を整え九日朝横須賀に向け出航したが十日正午ころ横須賀港入港の予定であると。

倉庫を埋むる  慰問品の山   石巻大繁忙

海の暴威により一瞬にして潰滅に瀕した本県沿岸部への同情は潮の如く集まってをり、石巻、渡波両町では各婦人団体その他救恤品金品の募集に活動しているが、全国より寄贈された同情品は県当局より石巻町に回送されて来て居り、半島航路の石巻合同汽船や雄勝方面行きの北上内航課の倉庫にはギッスり詰っている。これ等は連日汽船によって託送され罹災地役場に届けるため各運送店で万全を期し、速達方法を講じている。

飯野川女子青  年団の活動   衣類三百五十    人分贈る

桃生郡飯野川町では十五浜村海嘯慰問品募集のため町役場、男女青年団、商工振興会その他各種団体の非常集合を行い早速救護慰問運動を開始、全町民洩れなく衣類金品を募集し、小学校児童からも一銭二銭づつの貯金をして去る八日夫々代表委員が慰問品を満載した数台のトラックに乗って同村を訪れた。尚一層涙ぐましい活動を続けたのは同町女子青年団及び実科高等女学校生徒百五十名が七日朝から八日にかけて袷三百五十八人分を裁縫し八日手戸団長外六名の代表者をして寒気に震えている罹災気を一々慰問贈興した。

丹羽社会局  長官視察

岩手県沿岸の震災地視察中の丹羽社会局長官の一行は七日午後七時ごろ気仙郡高田町を経由、自動車で気仙沼町に入り同夜菅原旅館に一泊、近在被害状況を詳に聴取し、八日午前八時自動車で本吉郡歌津村の被害地視察に向って出発した。

復興への  女川町会   本月中に改め    て招集

罹災の牡鹿郡女川町は松川町長以下が不眠不休で復興と救助の対策に苦心しているが、肥料の流失及び各戸床上浸水や船舶の流失破損等被害は約五十万円に達するだろうというので県及び政府に対し救済資金借入れにつき運動することになったが、本年度予算町会は去る三月以来自然流会となって居り、応急対策等が決定し後始末が終った上改めて招集する筈だが、本月中には町会を招集し予算案を決議すると。

県会議員  海水が多賀城まで来た   千六十三年前の津浪    至極厄介な三陸海岸の地形     被害大きいのも当然      災害地視察

(1)
目もあてられぬ三陸沿岸の惨状天下の同情は、いろいろな形において該地方に注がれている。そして宮城県会は、どんな応急策を執り、どんな善後策を講ぜんとするか、その基礎調査に出かけるのが伊丹議長を始め八議員の一行である。罹災地方への慰問をも兼ねることはいうまでもない。
大自然の神様…から見たら、人間ほどコ蒼蝿いものはないと思召すかも解からない。発明だ発見だ文化だ何んだとコチョコチョコセコセ大自然を冒涜する、恰度巨象にすがった風のように……
然し、人間娑婆からというと大自然ほど性悪のいたずら者はないといいたい。だまりこかしている無警告無予告に、今度のような大惨事を現出する。暴風のあとのしづけさなんていうが、海嘯の跡はメチャクチャだ。まだ死亡者の数も確定的ではなく、失われた道路堤防等の土木関係や、船溜船揚場漁船漁具等の水産関係や肥料種子等の農業関係、土砂埋没の耕地関係、電柱電線等の損失額も、四日までのところ県有町村有公共団体個人有を総■にして約三百万円と計算されているが、これだったハッキリしたものではない。
従って復興費もどれ程かかるかまだ明確にはわからない。……が兎に角四百万円程度の損失だろうと概算される。これは物件だけだが貴い人命まで無造作に消し飛ばすのだから暴威暴力のすさまじさ真に恐ろしき極みである、この恐るべき大自然の暴威の中、海嘯と三陸沿岸との因縁を史籍に従って調べて見ると、今から一千六十三年前の貞観十一年卯巳七月陸奥の大地震とこれに伴った海嘯から以後のことはわかるが、以前の事はチョット調べにくい。この時には溺死一千三百人と記され海水多賀城の辺に及ぶと書かれてある。
それからズッと下って慶長十六年辛亥秋に大津浪があった。これは駿府政事録の中に藩祖政宗公が徳川家康に初■を献上しながら地方の異変を物語ったことが記されてあり、それによると仙台藩から幕府へ書き上げた死者は一万二千人、南部領人馬死亡三千余、大浪岩沼に及ぶと記されてある。或る古■録には死者一千七百八十三人と精密に記されてあるのもあるが或は五千人とも伝えられている今から三百二十三年前の惨事である
延■五年丁巳伊達綱宗公時代即ち二百五十七年前にも三陸沿岸に大津浪があった。宝暦元年辛未歳東北地方大凶■の歳の六月、牡鹿桃生、本吉気仙の沿岸に海嘯があった、百八十六年前の惨事だが死亡者など判然しない。嘉永四年辛亥歳今から八十三年前にも仙台封内に海嘯があった。
幕末頃の海嘯としてひどかったのは、安政元年十一月四日の伊豆下田港の惨害だが、この時に三陸沿岸も多少被害があったらしい。明治になっては二十九年六月十五日の大惨事で波高二十五メートル速度(一秒時)二百十六メートルと当時の記録に見ゆる。流失家屋は一万三千戸死者二万千九百九人というのだからひどい。本吉郡では罹災者二万二千三百四十九人死亡三千三百三十二人、牡鹿郡罹災者二千二百四十七人死亡二人、桃生郡罹災者二千八百七十七人死亡五十六名とある。
勝間田稔知事の時代だが畏くも十八日には勅使として侍従東園其愛子爵が来県され、二十二日には内帑金一万円は岩手県へ金三千円を本県へ青森県へは一千円を御下賜になり更に本県へ皇太后陛下より七百円賜わった。
それに今度の惨害である。地質学者に訊いて見ると、厄介至極なのは三陸沿岸である。港湾なり内海なりの入口が狭くて内が広いと大浪が押し寄せて来ても、狭い口から入って広い場所に拡がるから波勢が弱くなるが、三陸海岸は大抵■の刃のような形状を成しているから、波浪が岩壁にブツつかり合って■勢を増すのだという。こんなところにも、将来の安全策を考究すべきものがあるようだ(続)
=富田広重記=

写真説明

【1】復興を急ぐ十五浜村荒部落(工兵隊の作業)【2】バラックが建ちはじめた唐桑村只越部落【3】行衛不明の死体を待ちわびる荒部落民の哀れな集い【4】飯野川女子青年団同実科・女学校生徒総動員で衣類裁縫【5】本社の慰問に感謝する罹災民(唐桑村宿)【6】仙台市からの慰問品を積んだトラック(石巻町)