文字サイズサイズ小サイズ中サイズ大

乳呑児を抱いて  気の狂った母親   奇跡的に助った女中    岩手県気仙郡 中心の惨害(2)

山の手に約二十戸、壁がおちて柱の歪んだ家が残っているばかりで米崎村細浦港百二十戸
の部落は全滅した。盛町からの交通がやっと開けて六日始めて慰問品の配給が行われるまでこの部落は津浪と火災に生地獄を現出し、続いて急低下した気温と食糧の欠乏から寒気と飢に迫られた部落民は廃墟の中に茫然と死を見つめていたのだ
 細浦に入る村道を上手で車を捨て織るように往来する救護団の人々や、罹災民に交って部落を貫いている村道を降りて行く。
難を逃れた家々には収容された罹災民が庭先にまであふれていて泥の中から掘り出して来た家財道具や布団が、山のように沿道に並んでいる。
 肥料工場の土蔵と、造船場の大きな屋根が形を残しているだけで、津浪にかみくだかれた細浦部落は文字鳥木葉微塵の惨状を晒し出している。
この中を入江から吹上げられた五十噸位の発動機船が十五六艘、巨体を四十五度に傾斜して船底を見せて、点在している。潰滅した部落の入り口に天幕張りの仮村役場が出来、消防や青年団の詰所も出来て罹災民救助に全力を挙げているこの日始めて持込まれた慰問品満載のトラックに、罹災民は■声ををあげて狂喜した。
 慰問品配給所からセトの鍋を抱いて出て来た漁師らしい無尻外套の男が、記者とすれ違いながら淋しそうに苦笑している。
−男ホイトでさァ−
ここでは海嘯のあと三十分くらいで郵便局隣から発火、船と民家三軒を焼いたが火元の隣の郵便局の建物は足が生えて逃げ出したのか、海岸道路から県道へ二十間も後退している。全滅の細浦港も、漁師の警報で人死は少なかった。行方不明が十一名、死骸が二個発見されたが、未だ部落民は死体捜査にまで手が届いていない。
 −死骸は一回水に沈んでから四、五日経つと浮き上がって岸に着くんだから探したって仕方がない−
跡片付けに忙しい部落民は、そういって入江に沈んだ死骸の浮き上がるのを待っている。ここの料理屋の女中さんで奇跡的に生残った女がある。
 津浪と共に波に巻き込まれたこの女中さんは、三度も大きな波にあおられて苦しさの余り観念して舌を噛み切って死のうかとあせった。
だが波にもまれている間にこの女中さんの口の中は砂で一杯になってしまって、自殺もできなかったという。−−その女だけが奇跡的に波に打上げられて朋輩の女中さん達は行方不明になっている。運が強いというのだろう、
 外からは入ってきた救護隊の人々は部落の全滅で泊る宿もなく廃墟の中に胴体を晒している発動機船を宿舎にして自炊生活をやっている。
ここから次の部落、船河原港を訪れると、水際にあった八戸は柱一本残さず綺麗に洗い流されていて土台石でもなかったら、ここに家があったと気のつく者はいない。行方不明十八名の悲しい記録を残している。
 ここで哀話の主人公は舟大工藤沢春治さんの一家だ、乳呑児を抱いて嫁アキ(三四)さんが生残ったきり八人家族は全滅した。アキさんは津浪と共に赤児を抱いて飛出したが大切な子供を波に奪われてしまった。だが奇跡にも波に打上げられていて浜に着いたアキさんは目の前にポッカリ浮き上がった子供を夢中で、もう一度抱きかかえたまま岸にのがれ出た。その時の姿!着物を波にとられて丸裸になった母親が、シッカリ乳呑児を抱いて浜の砂に倒れていたのだ。
然し哀話のヒロインはこれからだこの母子は根崎の実家に帰って行ったが、この部落も全滅して親に行き会う事も出来なかった。トボトボと引返して来たアキさんは跡かたもない自分の家のあたりをさまよっていた−と、そこに見覚えのある夫の着物が泥に汚れて残っていたのだ。アキさんはそれ以来乳呑児を抱いたまま樹が鬱になってしまった。この狂った母親を山手に残っている、救護所にあてられた家に訪れると、薄暗い炉端で、大勢の罹災者に交って、アキさんが子供を抱いて黙々としている。その傍顔一杯包帯した四十女が、
 妾はとうとう波に子供をとられてしまった。頭に何かツキ当ったのでハッとした瞬間子供を手離したのが、いけなかったのだ
と痛々しい包帯の頭をふりかえって、黙々と座ったままシッカリと乳呑児を抱いているこの狂った母親を羨ましそうにながめていた。
(つづく)
写真(上)未崎村字細浦港避難民へ食物配給(下)未崎村字細浦港避難民船の仮宿

復興へ復興への努力  各方面から寄せられる同情 十五浜村に  建つバラック   来る二十日までに    各部落に建設される

桃生郡十五浜村においては取敢ず村当局で材料を負担し地元の職工人夫に女川町、飯野川町から補充し雄勝部落罹災者二百七十八戸中百六十戸、荒部落二十一戸の内十九戸、船越部落九十六戸の内五戸のバラックを八日から建設に着手二十日まで竣成の見込である。

坂元村にも  十戸建築   材料は宮城県    と村役場負担

やや閑却された形にある亘理郡坂元村磯浜部落の罹災者救恤に復興については八日坂元村役場で緊急村会を招集、対策協議をなし全潰戸数十戸につきバラック十戸を建設することとなりトタンは県から他の材料は村役場で負担することとなり消防組員の外村内各戸から一名づつ義務的出役して建設その他の労務に服することとなった

消防組員中の  罹災状況   緒方理事視察

宮城県の被害状況を視察のため大日本消防協会から理事緒方堆一郎氏が来県八日から県下の消防組員の罹災状況を特に視察した、また新潟県消防義会から県下消防組員の罹災者に見舞金として金百円を贈って来た、
 消防組中被害の最も甚しいのは桃生郡十五浜村消防組で組員二名死亡し家屋の被害者六十三戸内全潰二戸、半潰十一戸、流失十八戸、浸水三十二戸、その損害金三万七千三百二十円悲惨なのは、三等消防手高橋■一家二死亡、三等消防手高橋金光は三名死亡、二等消防手鈴木求は七名死亡。

犠牲者   その後判明し   た分(宮城県)

宮城県下震災海嘯の犠牲者でその後判明したものは左の通りである
死亡者 ▲牡鹿郡大原村鮫ノ浦阿部すずえ(二ツ)▲本吉郡唐桑村只越吾妻ひで子(四ツ)▲桃生郡十五浜村船越荒高橋善治(二九)
死体発見 ▲本吉郡唐桑村小鯖伊藤謙蔵(二九)歌津村田ノ浦梶原勇四郎(五四)梶原甚助(一○)梶原ふじの(七ツ)梶原あき(三九)梶原とし子(五ツ)同村石浜阿部うめ(六一)阿部うた子(一五)同村中山阿部長三■(八四)同村馬場三浦つめ(六二)歌津村不足に於て年の頃四十歳の男の死体発見▲桃生郡十五浜村船越荒高橋まつ子(一三)高橋みや子(一五)▲牡鹿郡女川町江島鈴木庄之助(二八)大原村寄磯浜に於て年の頃五十八歳の男の死体発見
負傷者 ▲本吉郡唐桑村只越小野寺みつえ(五○)同村大沢村伊正喜(一八)吉田やすみ(二九)吉田平三郎(六五)村上源太郎(七一)伊藤かのえ(三三)伊藤つま子(二ツ)伊藤忠蔵(六○)伊藤■男(九ツ)村上元治(七五)吉田豊(二二)小泉村柳沢小野寺新治郎(五○)

上田市商議所  から義捐金

上田市商工会議所では逸早くも仙台商工会議所宛九日金二十五円を送達し三陸の罹災民に移牒方を申込んで来たが右は上田市魚商組合より関係地方の魚類取引商に寄贈するものである。

宮城県扱の義捐  金二万円突破

宮城県庁取扱の震災義捐金は八日収受の分六千三百二十九円五銭で前日までの計一万円三千八百四十七円七十五銭を合し累計二万百七十六円八十銭となった。

東京府より  見舞と見舞金

東京府会議長朝倉虎治郎、同学務部長安原舜一、同府会書記長森谷森三、同属佐々木梵成の四氏は九日午前宮城県庁を訪問今回の震災見舞を述べ三辺知事に見舞金一千五百円を贈った。

仙台市銀行団  の見舞金

仙台市内銀行団では三陸罹災民に対し今般二千五百円を見舞金として贈呈の手続きを執った。

宮城丸活動  本吉郡へ出動

被害地の警戒及び海軍救恤品配給に連日活動を続けていた宮城県渡波水産試験場指導船宮城丸は八日夜まで桃生、牡鹿、本吉の三郡被害地への第一回配給を終ったが九日は宮城県の救恤品を石巻町合同汽船倉庫から満載して気仙沼及び志津川港に向って出動し同日中にこれを全部配給することとなった

労力奉仕団  すでに三組申込   仙台鉄道当局も安堵

仙台運輸事務所扱いによる三陸震災地救護労力奉仕団体の無賃乗車手配を行ったものは六日以来九日まで一ノ関青年団団長槻山直三郎申込の十一名奥玉青年訓練太田敬義申込の十七名大貫青年団団員津田正治申込の十五名の三団体であるが流石に震災地に対する同情が多く鉄道当局がこの無賃発案当初心配したいわゆる野次馬的団体申込が少しもなく、いづれも真摯な団体のみであるが当局をすくなからず感心せしめている。

罹災民救援  全国商工会議所   に檄を飛ばす

全国実業団に三陸の罹災実情を報告救援を仰ぐために八日朝上京した仙台商工会議所の佐藤副会頭並に佐々木理事は九日朝帰仙したが商工会議所の代表は八日午後三時青森盛岡の両会議所代表と日本商工会議所に落合い折柄東京府、東京市、日本商工会議所三者合体三陸罹災者救援に関する協議を開催中前記代表は日本商工会議所の渡辺理事その他と会見つぶさに実情をうったえ救援を懇請したので日本商工会議所でも大いに同情の意を表し全国商工会議所常議員会開催を待たずに迅速に救済の実をあげるべく全国商工会議所に救援の檄を飛ばすことになった。

金菊丸船員の  死体ではない

牡鹿郡渡波町本町阿部伝蔵所有の運送船金菊丸(十九噸)阿部船長外三名は地震当夜浪と火災の岩手県釜石港に碇泊し船と運命を共にしたものとして捜査手配中のところ乗組員阿部八郎(二四)に酷似した溺死体を釜石町附近で発見したと伝えられ船主側は八日同地に急行調査の結果八郎ではないこと判明したが何れにしても昨今まで小国がないので絶望といわれている。