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惨澹たる災害の跡  県下各署の状況報告 気仙沼署管内

 唐桑村 (つづき)唐桑村只越部落は三日来罹災現場整理のため気仙沼消防手二七名、鹿折消防手二四名、鹿折自警団一四名、唐桑村より人夫五○名出場し居り本日中には大体において同部落の災害家屋を整理し得らるる模様、
 救護状況
罹災者は附近の人家及神社四ヶ所に避難し食糧その他は恙なく配給せられ遺憾なき状態、罹災死者二十五名中屍体発見せるもの八名未だ発見せざるもの一七名の屍体は目下捜索中なり、医療機関は赤十字■陸■救護班県警察部衛生課救護班気仙沼医師会救護班等出張し異動救護に従事してありて救療上何等遺憾なし
流言輩語昨日ラジオ放送にて本朝午前三時強震ある旨放送せられ再び海嘯の襲来するとの流言蜚語起りて罹災以外のものも夜半に神社その他に押寄せ一時混乱を極めたるも厳重取締をなし制止した。

飯野川署管内  各地避難民の状況

十五浜村雄勝総■数三百七十戸人口二十二百五十五人中流失戸数百二十八戸、半潰七十■戸、全潰五十六戸殆ど全部落に浸水行衛不明九人(死体発見七未発見二)同村船越字荒全戸数二十八戸、人口約二百二十人中流失十二戸、半潰三戸、全潰三戸行衛不明五十九人(死体発見十七)負傷者重軽計十八名、両部落共明治二十九年三陸海嘯に遭遇し相■経験あり雄勝部落では終震後駐在所において消防組の後援団をして直に警戒に就かしめたので、海嘯襲来を早く知悉し各部落民に周知せしめ直に避難したる■果行衛不明者少なきを得僅に一家七名の行衛不明者あるに止まったのがこれは明治二十九年海嘯に際し階上に在りて完全に避難したが、今回の海嘯は明治二十九年より雄勝浜において約六、七尺高かったため家屋流失惨死したるもの、
荒部落においては何等非常の警戒をなさざるのみならず終震後約三十分後海嘯があったので、一時就床したらしくそのため行衛不明者多数に上ったもの、
船越部落流出家屋六戸、全潰二十二戸、半潰十三戸、浸水五十七戸
名振部落の流出家屋五戸、全潰六戸、半潰十三戸、浸水五十八戸、

 警察署の採りたる措置

三月三日午前二時三十五分発震終動直後午前二時四十分頃管内各駐在所に非常電話を以て署の安全を通知すると共に駐在所の安否を確かめるに何れも事故なき旨報告あり即時部内被害状況を調査報告すべきを下命した、然るに午前三時五分頃雄勝巡査駐在所勤務巡査高橋金男より非常信号を以て海嘯の電話報告あり、当署においては呼返したるも何等の返事もなきを以て海嘯の大なるを察知し即時巡査部■千葉弘平巡査半沢幸雄同柴原芳策同久永俊寿を自動車を以て現場に急行せしめたるに雄勝部落の惨害甚だしきを知るを得た、而して午前六時頃罹災者に対する炊出救護の必要を認めたるを以て署員の非常招集を行い二俣、大川、橋浦、飯野川各消防組をして救出の救護を求め一方直に出動救援を下命飯野川町貨物自動車二台乗合自動車四台の応援を得て合計百名に出動せしめ倒潰家屋の整理炊出の配給避難民の救助その他に従事せしめ十五浜消防組は各部落より直に救援せしめ、涌谷、仙台各署より各五名の警察官の応援を得たり

 罹災民の現状

十五浜雄勝浜、船越、荒の三区は尤も被害が多く相当避難民あるものと思科、各部落小学校舎、仏閣を避難所と指定収容した避難民は或は事故住宅の半潰倒を利用し自己所有財産の管理に当り又は全潰流失等の者と近親知己を便り何れも避難した、被害僅少な名振浜においては何等避難方法を講ずるの必要を認めなかった。雄勝部落罹災民に対しては自動車及船の交通割合に便なるを以て各附近部落より多数食糧の配給があったが、船越、荒においてはこれ等の便更になく附近部落においても多少被害あり救護に向うもの割合少きを以て被害なき隣部落大須浜より食糧供給しあり、昨三日緊急■会を開き一万四千百七十四円の救済金の決議をなし四日女川町より購入、寝具は附近各部落より若干の配給を受け更に大川村より布団百二十枚、県より毛布四百枚の配給を受け雄勝部落罹災民に配給した、名振、船越には割合被害少く荒においては大須部落より配給を受けた。雄勝部落では開業医伊藤雄吾氏救護に当り負傷者十八名(内三名重傷)の荒部落にては同村開業医菅原善衛、大川村開業医永沼五郎の両氏にこれに当りその後衛成病院より千田二等軍医■外十五名日本赤十社宮城支部より医師二名、看護婦四名の救援を得治療救護中。

三度目の受難に茫然自失の部落民  惨禍未だ生々しき 田の浦、港両部落

総戸数五百七十二戸の中海嘯で消失した家屋百三十三戸、半潰家屋十二戸、浸水家屋五十戸、死者、行衛不明者八十二名を数えた、本吉郡唐桑村では阿部村長以下役場吏員■同夜を徹して罹災者の救助対策に忙しく、消防組員、青年団は仙台市役所からトラック二台で送られた慰問品の搬入分配から行衛不明の死作発見、流失部落跡形づけの手伝いに大活動を続けている、更に歌津村内でも被害最も甚だしく全戸数七十二戸の中流失家屋三十二戸半潰二戸浸水二戸、二十九名の犠牲者を出した田の浦部落を訪問したときは海嘯惨禍の残骸歴々として凄惨の状胸を衝くものがある
地勢の関係か磯近く建っていた家の屋根だけが、海岸から五町余も離れた田畑の真中に惨めにも横倒れとなってをり、其附近一帯には漁船の破片、家具の片鱗が散乱して手もつけられない
明治二十九年の三陸沿岸一帯を襲った大海嘯には部落全滅に瀕し、激浪に浚われた者二百余名を出したこの田の浦は大正二年の山火事で全焼の大厄に遭い、火災復興に勢一ぱいの力で今日の郷の七十二戸を築き上げ、まだその痛手が治らない今日三度目の海嘯到来だ、漁船は殆ど全部消失、破壊して役には立たず漁具は波に奪われどうしてこれから生きて行くべきか全く目鼻も付かない、復興の力強い言葉を予期していた記者も至極尤もなことだと叩頭せざるを得なかった、惨禍を見馴れた記者は憂鬱になって散乱する家屋の残骸踏み越え踏み越え山道伝いに隣部落の港に足を速めた
港部落は全戸数八十一戸、災厄に遭遇した家屋は流失三十三浸水二十六戸、惨状は田の浦部落に次ぐ、三陸沿岸では気仙沼港と同様、漁船避難の最■港で三日朝も漁船が■隻波の音を子守唄に聞いて夢を結んでいたがあの津波で部落の漁船と同じ運命を辿ったという、「今朝漁った魚は夕の糧に■える忙しい生活に追われているこの部落民は燃えるが如き再生の意識があっても実態に復するには容易ではないですよ−」復興を急ぐ意気だけではどうにもならないことを記者に語ったのは跡片附けの鎌を手にした四十格好の漁師の人だ

歌津村阿部尊重は語る

今朝仙台市民の同情から送られた慰問品を有難頂戴して早速罹災者に分けました、皆様から寄せられる同情に対しても一日も早く復興を急がねばならないのですが、深刻な不況続きの揚句に漁具の大部を失って仕舞つては容易の業ではありません、明治二十九年の海嘯には村内に漁船材料の官有林がありこれを安く払い下げて貰って漸く■態に復したのですが、今は官有林がなく漁船の新修理にも材料を手に入れることはなかなか困難です、復興は第二残骸整理が当面の急務ですが復興を思うと心も暗くなります。
村役場で記者に語る同村長のこの言葉は罹災者一同の苦衷を語るものであろう。

農林省監視船の  偉大な功績    機敏な応置で女川の    人畜被害を免る

牡鹿郡女川港の津浪による被害は軒並に床上三四尺以上襲われ家屋倒壊五戸を出だし運送船漁船等で護岸上に揚げられたもの多く惨状を極めたが人畜に死傷のなかったことは意外とされている。
 それは当時被害の最も大きい鷲の神社近くに農林省漁業監視船新知丸が碇泊していたが地震による波涛が烈しく「ドン」と船底に一大衝動を興えた船長以下はこの強いショックを異常に感じテッキリ船底に一大衝動を興える位の地震では津浪が襲来するかも知れないという予感を推測から直ちに海■近くにあった船に銅羅を鳴らして予告しながら■外に碇泊した。一方この非常合図によって及川部長菅原巡査は海岸に面した各戸に対し予め警戒を興えたのでいづれも突嗟の間に万一に備えるところあったので幸い流失する位の強烈な海嘯でなかったにしてもあれだけの被害者をうけながら人畜に死傷を出さなかったのであろうというので女川町民を最大の被害から守ったのは新知丸の鋭敏な処置のお陰であると専ら評判させている。

三陸海嘯  犠牲者追悼   施餓鬼会    九日松島海岸で

三日曉突如として三陸沿岸を襲った大津浪によりあわれにも不慮の死を遂げた痛ましい犠牲者の霊を追悼し、慰めるために松島瑞巌寺松島町、大宮司雅之輔氏、佐浦もと刀目等が主催となって明九日午後八時より松島海岸において大施餓鬼会を催すことになった
 当日は松原盤竜導師のもとに末山五十八個寺の僧侶全部によって大読経が行われ海には犠牲者の霊の如きともしびが流される筈だが、瑞巌寺僧堂の霊水は同災害にあってこの寒空に飢えと寒さにふるえている人々のために義捐金を募集して送るため、松島、塩釜、仙台方面に托鉢行脚に出かけることとなった。

十五浜村  救援へ   桃生町村長会    の申合せ

桃生郡町村長会では同郡十五浜村の大津浪惨状に対し早速■を代表して五島飯野川町長が現状に急行種々救護策を講じたが、更に六日午後一時飯野川町会議事堂で緊急総会を招集五島町長から残害概況を報告直ちに全郡から慰問品を募集して被害地に発送することを申合せたが差当り十五浜村の慰問に万全を期する方針であると。

内ヶ崎代議士  災害地慰問

民政党内ヶ崎代議士、国民同盟菊地代議士は六日石巻町に来たり直ちに女川港方面から災害地へ向い慰問するところあったが、内ヶ崎代議士は語る
 三陸沿岸が再び大津浪に襲われ惨害を蒙ったことは実に遺憾である、私は緊急建議案として一階要調査の必要二、割一教育の打破三、匡救事業で漁村海岸の築堤等を実現すべく同志を糾合したいと思う。

閖上の被害

漁港閖上町の今回三陸沿岸の震災に際し大なる影響なく二十二戸の浸水家屋を見たに止まり、漁業も今のところ変化なくさめ、なめた類一艘百円より百五十円の水揚高となっている。なお去る大正十二年関東大震災の際千葉銚子沖の魚族が震災後一ヶ月にして北方に移動し一艘四百円の収穫あった実例に徴し今回も三陸方面の鱈、なめた等が南下し豊漁を見るだろうと同町魚業組合では観測している。

罹災者に毛布給興

牡鹿郡女川町が床上浸水したもの約三百戸ありこれらは布団その他衣類を損じ困っているのでこれ等には毛布を給興すべく六日石巻署では巡査を増派し実情調査を行った、尚同町では罹災資金から四斗入白米十四俵を購入し罹災中の貧困者に対し支給した。

鹿又村議慰問

桃生郡鹿又村村会議員一同は十五浜村大海嘯被害地慰問として同町に出張、各部落を巡回した。

義捐金募集

若柳町上青義勇団では三陸沿岸地方の罹災者に地方より義捐金を募集しておくる事になり五日より全団員が出動し全町に亘って活動を開始した。

小遣銭を寄附

三陸沿岸災害地に向けどしどし金一寄贈を申込まれているが、七日塩釜町尾島町■■にて慰問金募集中同町尾島湯屋の中から五六歳の男の子が「おじさん僕のも」と手紙に添えて八十七銭を差出した
「ミナサンコノタビノツナミニワオドロイタデシヨウボクモオドロキマシタオミマイトイタシマス」
ミナサン
イトウ仁(六歳)
と未就学児に珍らしい達筆で書いてあったが同小児は尾島湯■伊藤浪治郎四男仁君と云う本年六歳の男の子、毎日一銭宛玩具の達磨の中に貯めて置いたものを差出したもので皆感心している。(写真は仁君)

写真説明

(1)破壊堤防を修理する消防夫=歌津村伊里前=(2)国富技師と三辺知事の挨拶、右に立てるは大金侍従=唐桑村只越=(3)調査中の国富技師=只越=(4)慰問鍋進出=石巻町=(5)震災地に向った佐沼建築救護班=建築師組合員=