文字サイズサイズ小サイズ中サイズ大

不眠不休の大活動  他町村の消防組員が応援に出動   飲料水欠乏した十五浜

桃生郡十五浜村の大海嘯被害跡片づけは、同村青年団、消防組、自警団その他の尽力によって連日連夜不眠不休の猛活動を続けているも、村内のこれ等諸団体は何れも津浪で自分の命を漸く拾ったが、家は押流されたり潰されたりしたものばかりで全く気の毒な境遇にあるものばかりで救援に赴き引続き滞在中の鈴木飯野川署長は十五浜村以外の消防組を出動せしめて間断なく整理している、なお同村海岸部落は三十余尺の津浪に洗われたため、各部落共飲料水欠乏しこの点については飽くまで厳重に取締って、海水侵入した井戸の使用を厳禁し罹災民の保健衛生に万全な策を講じている、又津浪襲来してから、村民は何れも戦々兢々として落着かず、再び海嘯襲来する……等の流言蜚語盛んに伝えられるのでこの点も十分取締っているなお飯野川署出張署は最初破損した雄勝浜駐在所に開設したが、三日目からは同村小学校の二階に移転し、更に警察電話を峠下の民家に架設して一切の通報連絡を円滑にしている、又整理に当って最も困難なのは全村一千四百戸、約五千人に達■る戸口簿冊原簿全部流失したため、県警察部から諸簿冊用紙を送附され四日から全署員と県の応援巡査を督励して一斉に調査を開始したが、この調査は恰も国勢調査と同■なので、簡潔するまで少なくとも二週間以上の日子を要する見込みであると。

捜索船を運転  死体を捜査   仮小屋に寒気と闘う    十五浜村民の姿哀れ

十五浜村大津浪惨害後の整理については、その当日から雄勝、荒の両部落に海上捜索船と漂流家財道具運搬に従事せしめ、去る五日も折柄の吹雪を冒して勇敢に従事、近海に漂流する家屋の破片や台所用具その他は例え金額にすれば小額なものでも見当った品物は何でもかんでも拾い集めては荷あげする、そしてこの海上捜索船が着船すれば、役場吏員や警察官立会の上、間違いなしに分配して、濡れた衣類や箪笥の抽出、戸棚、下駄箱その他等々かついで仮小屋に運ぶ有様は帝都震災よりも一層惨めなものがある殊に今回の罹災民は夜半津浪に襲われ文字通り細帯一筋の着のみ着のままで逃げ出したので、三月に入ってのこの余寒にはふるえ上るのみで、村当局では暖房装置や衣類の配給に万全を期している。

罹災地出身兵  賜暇帰郷

桃生郡十五浜村出身、陸海現役軍人は郷里の大海嘯によって殆ど全部賜暇帰郷したが、大部分はその家を流失されたり破壊されていたので、一と先ず家族の避難先を見舞いした上、早速村人と一緒になって跡片づけに働いている、又県特高勤務千葉実部長や、塩釜署勤務遠藤徳平巡査も早速帰郷したが、千葉部長の生家は雄勝、遠藤巡査の生家は船戸で何れも流失して跡方もなく僥倖にも家族の人々のみは怪我一つなく無事で避難していたので何れも手を握り交わしてその無事なるをよろこんだ。

手拭一本でも  粗末にするな   荒莚の上に相抱えて    ゴロ寝する罹災民

十五浜村の大津浪被害で各方面から家財道具その他慰問の見舞品が機船や、トラックで続々運搬され村役場の受付けにうづ高く積まれているが、殊に被害を免れた同村部落でも早速衣類等を運んで罹災者に配給方を役場に依頼し、去る三日朝から地下足袋をはいたまま役場に詰め切りの成沢村長は一々これを受理し配給方の指揮しているが「一筋の手拭でも、衣類を包んだ風呂敷一枚でも粗末にしてはいけない一と叮嚀にしてそれぞれ気の毒■避難者に配っているが、事季節遅れの寒さではいくらあっても不充分なので、村社新山権現の拝殿や、小学校の二階、天雄寺の避難所を訪れると、女子供老人などは荒筵を敷いた上に布団にくるまり相抱えて寝ているという悲惨な有様はただ「気の毒だ…?」との一語に尽きている。こんな有様であるから同浜罹災民が各々仮小屋を建て引越すまでは容易なことでなく、ここ当分は季節外れの余寒とたたかいながら気の毒な生活を続くることであろう。

電柱の取替え  県電石巻出張   所の活動

石巻県電出張所では管内牡鹿半島方面各地及び女川海岸等一帯の電柱が津浪のため根こそぎにされたもの、折損流失したもの等非常に多いので一時的応急修理をしていたが、昨今全力をあげて新電柱の取替その他に馬力をかけて居り、四日もトラック数台で各被害地へ向け工夫を派出した。

罹災者救助  十五浜で緊急   村会招集

桃生郡十五浜村では速報の如く大津浪対策として罹災者四百戸、二千四百名に対し五日間の救助費一万四千四百七円を決議し、白米四十八石外食糧品、布団等を購入、それぞれ配給しているが第一回救助対策は来る八日まででその後と誰も被害地の秩序回復の見込みが立たぬので、更に第二回緊急村会を招集して再び救済策を樹てる事になった。

飯野川町青  年団救援

桃生郡飯野川町青年団では緊急役員会を開き十五浜村大海嘯罹災救護のため応援隊を派遣し、更に団員各自は応分の醵出をして慰問金を送り今後は機会ある毎に活動写真その他の方法で慰問金の募集を行う事を決議した。

御真影を擁護して  無事安全地帯に奉還   危急の際泰然たる相川小学校長    部落民非常に感動

海嘯の襲来にも動ぜず身を挺して御真影を擁護し無事安全地帯に奉遷した美談==本吉郡十三浜字相川部落を襲った三日未明の強震に夢やぶられ海岸から僅か三丁にある相川小学校教員室に安置された御真影を護るため逸早く馳せつけたのは角張相川小学校長であった、第一回の強震があって三十分余二丈余に達する海嘯は物凄い響きをたてて相川部落八十三戸の中四十二戸を一呑みにして小学校舎の床上一尺まで侵入し、同校舎をも浚わんとする勢いを示した、この時職員室で御真影を護っていた角張校長の身辺も危険迫り、職員一同即刻避難方をすすめたが、角張校長は最後まで御真影の傍から離れず却て職員に対して一刻も早く裏山に避難方を命じ動ずる色も見せなかった、泰然として動かざる角張校長の厳粛なる態度に避難方をすすめた職員一同もこれ以上言葉を続けることが出来ずと云って校長一人置き去って難を避けることも出来ずその去就に迷ったいた折、青年訓練所生徒が師の身を案じて馳せつけこれ以上留まるは危険であると注進したので、角張校長も遂にその言を入れ悠々迫らず奉安庫の扉を排し、恭しく最敬礼なしたる上御真影を拝持して裏山の熊野神社に奉遷申し上げ、職員、青年訓練所生徒と共に夜を徹して警固申し上げ事なきを得たが、斯かる危険な場合に沈着として動ぜざる角張校長の行為を聞き知った同部落民一同は感動して賞賛の辞を吝まずいよいよ角ばり校長の徳をたたえている。

震災義捐金

 白石町消防組第九部では今回の震災地に対して義捐金三円の伝達方を五日白石署に願出た。▲桃生郡鹿又実科高等女学校では十五浜村海嘯罹災民慰問のため、全校児童は日曜を廃して衣類を裁縫の上早速取纏めて発送することになった。
△栗原郡築館町の栗原自動車会社の従業員三十六名は相互の親睦を■りまた向上進歩を期するため過般相互会を設立したが今回三陸沿岸の大震災が突発するや罹災者が気の毒であるとて会員一同が拠出し五日会長鈴木七郎氏が本社若柳通信部を訪れ罹災者義捐金にと金五円を提出したので直ちに送金の手続きをとった。

惨澹たる災害の跡  県下各署の状況報告 気仙沼署管内 海嘯襲来の状況

 三月三日午前二時三十分頃強震あり何れも起床屋外に飛び出したが後約三十分位で沖合に大砲を発射したような音響二回あり其の後海面干潮間もなく海嘯襲来した去る明治二十九年の海嘯の際にも沖合に於て音響後一時に干潮となった例があるので、之を知る者は直ちに海水に注意したが果たして海水引いたので海嘯の来ることを予期し部落民に急告した為比較的死傷者少なかりし模様。
各地被害の惨状
 小泉村二十一浜部落総戸数四十三戸の中流失家屋十一戸全潰一半潰にして死傷八名、行衛不明者七名、馬匹斃死三等、半全潰の家屋二棟は形態を存するも其他は約二|位小川に沿うて上流に押し流されて大破した。同部落に死傷少なかったのは地震直後出漁準備の為海岸に居た漁夫が早くも海嘯襲来を知り部落民に知らせたる結果である。惨死者の死体は家屋の下に圧せられたもの或は土中に埋没せられ中には老婆が孫を抱いて共に圧死したという悲惨なものもあった。大谷村大谷部落総戸数四十戸の中流失家屋六戸(住家六、非住家七棟)で家屋は全部県道に沿うて約三百米上方に押し流され県道田園等に散乱し一時交通杜絶した。
○上村杉下部落流失家屋四戸、浸水家屋四戸、死者一名傷者一名あり死者は本年七十歳の老齢且病臥中で長男夫婦は救助しようとしたが浸水急激遂に救助し得ず辛うじて避難するを得た。唐桑村字小鯖浦部落総戸数六十三戸の中流失家屋二十九戸浸水家屋十戸死者八名行衛不明者七名負傷二名。同所には大洋丸(八十噸)不動丸(六三噸)松生丸(四○噸)の三艘が海岸に押し上げられ、家屋の破片は湾内に充満し殆んど海面と陸地とを■別し得ざる惨状を呈した。同部落民■強震後間もなく一時に干潮になり海嘯の前兆となることを知り小高き丘に上り部落民に津波だ津波だと告げたが火事と間違い逃げ遅れ死傷したものもある。唐桑村石浜部落総戸敷八戸の中四戸流失す死者七名を出したが死者は何れも同一家族で生き残ったのは小■寺貞雄二十八年同人母みつの四十七年の二名、みつのは流失家屋と共に約二哩沖に押し流され約三時間海中に漂流中貞雄に奇跡的に救助された唐桑村只越部落総戸数八十三戸の中流失家屋三四戸。死者八名行衛不明十七名負傷者三名、中には一家現在八人家族で全部死したのもあり同所は連接部落なるため流失家屋は殆ど山根に沿うて押し上げられ折り重なって打ち壊され宅地は一面河原と化し死体は諸所に散在する■惨状を極めた。唐桑村大沢部落総戸数百六戸中流失家屋二十五戸半潰五戸、死者五名、傷者三名馬斃死二、同所は総戸数の割合に被害の少なかったのは家屋は比較的山地に建築されてた結果
警察官応急手配並救護の状況
 海嘯襲来の報を受くるや直ちに罹災地と目せらるる受地以外に警察官を迅速に非常召集し署長以下現場に急行消防組員、自警団員を督■し村当局と協商の上死傷者の応急手当罹災者の救助死体の捜査等に従事し、医師なき村には気仙沼町より警察医その他の医師を急派し応急手当をした、罹災地は何れも逓信機関不便で故失、伝書鳩等により通信の連絡をとり、十名の応援警察官を求め各地に之を配置した
罹災民の惨状並救護方法
 罹災民は辛うじて身を以て遁れ衣類を初め家具等は全部流失し住むに家無く糊口を凌ぐに食なきのみならず中には親を尋ぬる娘あり姉を探す弟あり或いは吾子の死体を守って悲嘆に募るる者ある等実に惨状を極めたが罹災民は残存せる人家及神社等に収容し炊出しを供給して一時救済更に唐桑村の如きは村費を以て一人二合五勺平均に救助米一週間分を供給しその他の食糧品及被服等は村内有志より寄贈あり之を供給し「仮小屋料として一家十円宛を村費より支出給興することとした。又二師よりは毛布七百枚を借受け当署下全罹災民に給興した。

暴虐の跡

(1)唐桑村小鯖海岸(流失家屋が海面に充満)(2)谷川より鮫の浦に渡る船上の大金侍従(3)唐桑村に向う本社救護班の一部(気仙沼支局前にて)(4)十三浜村相川の惨状(5)本吉郡小泉小学校及川訓導指揮の救護班の活動(津谷三美館撮影)