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余りの凄惨に只呆然  人一人見えぬ雫の浜   全滅の惨!釜石町の悲話惨話    笛吹峠越えの難行(窪田特派員記)

突如、真に突如として突風的に襲来した三陸地方の大地震、岩手、宮城両県下太平洋沿岸の大津浪!きょうは楽しい雛の節句と云う三月三日午前二時三十分の出来事だ。零下十度、草木も眠るといはる、深夜の出来ごとなのである、ごうーと響く音を聞くよと思う間に大地はゆらぎ家は崩れ橋は落ち一波又一波山の如き怒濤は岩を超え■を洗い■々と押し寄せ来りアッという間にすべてを水底に投じ去ったのであるそして水にあがらぬ所は火災を起こしたのであった、正に火攻め水攻めだ、地震と共に一瞬にして電灯が消えた為め寝巻のまま家を飛び出した避難民は文字通りの右往左往に遂には親は子を捨て、子は親に分れ泣く声、叫ぶ声各所に死傷者続出し「地獄図」を目のあたり現出したのであった
三陸沿岸大地震、大津浪の報に接するや記者は社命に依って先ず被害程度最も甚だしと思わる、釜石港目ざして自動車を馳せた、超スピード、一関、黒沢尻、花巻をまたたく間に過ぎ岩手県稗貫郡矢沢村に入るや漸く雪深く抱松部落の急カーブにてとうとう自動車は溝に突入付近■落氏の応援を得て引き上げたが写真班子は肩に打撲傷を負うと云う騒ぎ正午遠野町に達したが被害地に食料品、夜具、衣類等を徴発的に発送とあって全町を挙げて動員下命の如き騒ぎだ此町で此れから先千人峠を越して行くか、それとも笛吹峠を越して行くかに大いに迷うたが笛吹峠の方を行けば途中全部落全滅の鵜住居村が見られると云うので、然かも釜石には早く着くと云う事が判ったので千人峠超えを捨てた
笛吹峠の山越え……其難渋行、命をまとにかけての爆弾三勇士的決死行なる決して千人峠の山越えに劣るものではなかった、寸前尺退山頂では水が切れて自動車から火を吹かんとし運転手君と助手君は哀れ半里のところを崖を下って一は長靴に一はソフト帽に水をしゃくって来たのであった、記者も写真班員も幾度が車の後押しをさせられた事である、然し兎にも角にも自動車の通ずるうちはまだよかった、鵜住村雫部落に到るや地震にて家屋倒潰、道路破損のため一歩も進まぬというのだ、即ち此所で自動車を断念……釜石まで約五里。
どんよりした月明りを頼りに猛進又猛進雫ノ浜近くになって我々一行はアッと驚きの目をみはったのである、幾十戸という家屋が玩具でも叩き潰したように滅茶苦茶になって倒壊しているではないか、余りといえば余りの凄惨さに暫し呆然たるものがあった、人は逃げ終せたか津浪の犠牲となったか一人も見あたらぬ。
月も消えて闇夜行路、目的地釜石港に辿り着いたのは午後九時だ、遅れたかナと職業意識の胸とどろかせたが新聞記者釜石入りの一番槍と知ってホッと安心した早速被害地調査を始めたが山間鉱地帯には異状なく、人呼んで「釜石町」という「釜石町」月貫きの釜石町東前、只超、仲町、場所前一千五百戸を津浪と火災とで全滅だ、水はひいたが未だ萌えているその惨状振りは如何なる形容詞を使用するにも決して過言とはならぬだろう
みんなの話だ……午前二時三十分頃ドエライ地震にハッと夢破られて跳ね起きたがまさかに大津浪がやって来ようとは思わなかった、だがやがて遠くの方から螳々といた押しに押し寄せるような浪の音、ソレッ津浪だッ、とわれ先にと山めがけて避難したのであった、ガラガラドンと地震が起ってから津浪の襲来するまで、その間三十分斯くして多くの声明はいみじくも助かったのである
犠牲となった人々の話−釜石三冷会社中村主任夫人は今年から学校の愛嬢をひとし抱きしめて溺死、愛嬢のみが人工呼吸で蘇生したという、キリストの言葉「一人はとらえ一人は残さるべし」である鉱夫山■伝吉君の妻君は可愛いわが子と運命を共にした、妻君は臨月が近づいていたとの事、之は又一撃三者を失ったもの、悲しとも■し俟、次は小原商店の八十三才になる老婆が十才になる孫と手を握り合って逃れたがとうとう分れ分れになって老婆はあの世へ、孫は奇しくも救われた。
夜がほのぼのと明けそめた、記者は■■再び被害地域の調査を決行した、会って関東大震災を其の直後に視察した記者である、前者と後者とを比較して後者即ち今度の方がはるかにその悲惨さの大を感ずる、記者は村役場を訪問して社命に依り全町民に対し深甚なる慰問の意を表し更に警察署を訪問し罹災者救助に対する栄苦を感謝し女学校小学校を訪問して其校に収容された避難民を心から慰問し釜石に別れを告げた、特に四日午前六時半記者はこれから大槌町方面に向わんとするもの……、
 釜石出発に際し小野寺町長も水攻め火攻めに逢うたと聞く、大患直後のこの災厄、真に同情に堪えない

行衛不明者  現在でなお三十名   鮫の浦の哀話二、三

災害の最も甚だしい牡鹿郡大原村鮫の浦細田五九阿部庄八一家では妻しめ(六八)外一家八名が無残の死を遂げた外同字阿部良蔵一家では四名、阿部忠吉一家では同七名その他現在の行方不明の者は約三十名に達している。

枕を並べて死んだ  地方の名望家、有力者岩手県岩泉管内の被害死亡者

四日午後三時迄判明した岩泉署下被害死亡者の主なるもの左の如し
▲普代村村議大村宗蔵▲同大村文蔵▲同郵便局長大村健蔵▲同消防組頭藤島興助▲田の畑村長小田喜代八▲小本木炭技手菊精七▲同小学校訓導栗川アサ▲岩泉町藤沢信命

奥山深く逃げた  村民ぼつぼつ語る帰る   津浪再襲来の噂におびえ立つ    罹災者収容【岩手県普代村】

岩手県下閉伊郡小本村、普代村、田の畑地方は津波と同時に田の畑村郵便局、同木炭検査所、小本浜漁業組合事務所、同村信用組合事務所、同木炭検委所製板工場等の主なる家屋を流失した外小本村では船舶三百艘、普代村では二百艘、田の畑村で三百三十艘を流失し生き残った村民は全部山中に逃げ込んだが、避難者の中田の畑校には五戸二十人、普代小学校には六戸二十四人を収容したのみで外は何れも津波襲来の噂におそれて恟々として山中奥深く逃げ込んだが四日に至り宗徳寺に三百人、松葉旅館に二百人、八幡社に約百人を収容して救護を待っている。

焦土の中から拾った哀話  起き上る力も失った釜石町民   憎めないこの悪口

昨日の姿は何所か釜石町は傷ついたのだ、焼け出されねぐらを追われた町の人々は何を思うか、寒さは零下十度、食うに米なし、ああ巣を失った小鳥達は何うなるか、以下焦土の中から拾った哀話数個
海岸通りだ、にょっきりと突立った桟橋の残骸に引っかかる船、ヤ、ヤ、海岸へ四十五度も ■いた路面に面した焼跡で、金目のものを拾っている夫婦の傍らにいた子供が「母ちゃん広くなっていいね」
海岸場所通りは横浪を受けたため大破損、中に「によきり」岩手銀行の赤煉瓦の家を見な焼け出された人「チエク」「ゴクップシのくせに」憎めない悪口だ。 
「あんた焼けた」「ウン倒されただけなの」「それはよかったわね」「ちっとも、私は、一その事きれいにさっぱり焼けて貰った方がよかったの」
等々、今は全く町民は自然の大きな痛撃に起き上る力を失っている、風もる小学校々舎に雑魚寝する数百人の人何もいう者もない、ぐったりとなって只目だけが空を見上げて
不景気からやっとインフレで息を吐いたも束の間今は完全に商人は家を焼き品物を失い漁夫は船を失い漁具を焼いた、残ったものは「はい物を食べる口のある体だけです」
見渡せば茫々■町赤色な灰の焦土だ、立ち上る杖すら失った町民だああ釜石町よ村民よ、お前は再び起ち上る力はあるか。

罹災民に配る  米一千石急送   岩手県より払下懇請に    五日午後汐留駅より

災害の最も激甚であった岩手県下は罹災民救護の配給米が不足を告げ農林省米穀部に対し正米払下方を懇請して来たので同部では五日午後深川区浜■町東京穀倉庫保管米一千石(二千五百俵)を汐留駅経由で急遽罹災地へ発送することとなり同六時■で汐留駅に回送村井助役以下三十名の発送係が総動員で貨車十一輌に漸く積込みを終り同午後九時五十分発品川経由で一関へ向った、六日午前九時到着の予定である、なお米穀部の半田技手は午後一時半上野発列車で一関へ向け急行した。

食料品には  先ず困らぬ   慰問品下駄、手拭がよい

桃生郡十五浜村大津浪惨状を慰問した県の係員は語る、
 「惨状実に目も当てられぬものあり、県民その他の同情で■々と物資が持込まれ、罹災者は非常に感謝して居るが、今度の視察で直感したことは海嘯被害地は他の震災、火災地等とは自づから趣きを異にし、村民は夜半の海嘯ときいて何れも着のみ、着の儘、甚だしきに至っては帯をしめるいとまもなく逃げ出したと云う有様で、慰問する向きは差当り食うものよりも、衣類とか下駄、手拭、洗面器、毛布のようなものを被害地に送って呉れる方が罹災民はどんなに有難いか知れない、勿論色んな日用品が不足であるが、食糧などは一番先きに何とかなるもので別段飢餓を覚えるようなことはない故にこれからの慰問品は前に列記したものを現物で送って呉れるよう心掛けられたい、なお救済慰問の方法は自然充実され日本人特有の犠牲心と相互扶助の精神に基づいて今度の被害地方に対し十分に行き亘ることであろう」云々。

写真説明

(1)仙台駅に着いた大金侍従(本日)(2)岩手県九戸郡野田浜の惨状(3)雑魚寝する罹災者=大槌町にて=(4)岩手県九戸郡久慈港の倒潰惨状