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怖ろしい三陸津浪  三つの型種と其破壊力   東北帝大助教授 林氏の研究【三】

(B)引き津浪(気仙沼型)
(1)本津浪襲来の地域並に其特色
 本津浪は前項において己に述べた廻し津浪襲来の両翼にあたる地方即ち地殻運動において隆起の傾向ある地域主として気仙沼より南へ牡鹿半島に至る地域並に久慈より北へ下北半島に至る地域に襲来したものである。本津浪の特徴は大体次の如くである。今報文短縮の便宜上気仙沼より金華山に至る地域を気仙沼地帯、久慈より下北半島に至る地域を久慈地帯と称する。
 イ、気仙沼地帯各湾の湾口並に湾内の水深の深度は大ならず湾口は一五乃至三〇米、湾奥に於て二乃至七米の水深である。久慈地帯は概して砂浜続きと云ってよい。
 ロ、気仙沼地帯は主に中生代の岩石より成立して海岸まで山が迫っていても大体丘陵型が多い久慈地帯は主に新世代の地層こう成立していて砂浜続きの陸地が多い。
 ハ、本津浪の襲来は徐々にやって来て其災害は津浪退去の時に及ぼすのが特徴で、家屋被害の多くは浸水程度であって、器物小船等を持ち去ることはあるが人命に害を及ぼすことは少ないと見てよい。
(2)本津浪を引津波と称するの理由
 後章説く所の津浪一般論において一層引き津浪ということが理論的に分ることと思うがここにその代表的の一例に依って説明したい(第三図)。
 気仙沼湾は本津浪襲来の代表的のものであるのみならず最近地質時代に幾分地殻隆起運動の行われたる地帯と地殻沈下運動の行われたる地帯の隣接地であり、地質的には中生代と古生代の地帯が隣接するの地である、而し一層面白いことは気仙沼湾は大島によって西湾と東湾に分離せられていて階上村、松崎部落より気仙沼に至る西岸地帯は古生代の地質構造で大島及び東岸唐桑半島は中生代白亜紀の地質構造である。即ち気仙沼湾は津浪襲交の条件において西湾は引き津浪襲来の地域であり、東湾は廻し津浪襲来の地域であるという興味百パーセントの地帯である
 今東湾と西湾の水深を比較すれば一層面白い事実が存在することに気付かれると思う。東湾は湾口の深水約70米、それより湾内に入るに従って浅くはなるが概して30乃至40米で東湾の奥より西湾の■部に通ずる大島の瀬戸においては鶴ノ浦まで約30米の水深を有する。然るに西湾の入口は水深約15米にして、湾内に入ること約1粁にして水深は急に減じて約7乃至9米の水深である。湾奥に近づけば蜂ヶ崎の地峡部を経て鼎浦に達するのであるが、この蜂ヶ崎地峡の附近においては水深2乃至3米にして目下浚渫中である鼎浦は概して6乃至8米の水深を有する。即ち東湾は地殻沈下地帯の湾に類する水深を有し、西湾は明かに地殻隆起地帯の海湾に特有な浅海であることがその特徴である。
 この気仙沼湾を襲った津浪の動向が如何様であるかを知るにはその被害程度、波浪の動いた径路を知ることが必要である。よって西湾よりその径路を記して、東湾に及びたい。
 湾口より早池峰丸を入れて西湾の東岸地帯大島村の西湾に接続する各部落要害、浅根、高井、田尻浦浜、大水、磯草を見るに被害の顕著なるものなし。岸辺に築造された■■製のノリ簀はそのまま存在している、西湾の西岸地帯階上村の各部落を経て松崎部落に至るに之また特筆すべき被害を見ず矢張りノリ簀は原位置に安置されたままである。湾奥に近い蜂ヶ崎地峡部において小々汐部落の岸を迂回した津浪が概地峡部を経て鼎浦へ逸流する際その一部が水堤を越えノリ養殖場へ流入したため丁度水害後の稲田におけるが如く粗朶が西地帯へ向って雑然と打ち靡いている。又このノリ養殖場へ鼎浦西南部において作業をしていた浚渫船一艘が津浪退路の方向に水堤を越えて置き去りにされている蜂ヶ崎地峡部において作業をしていた浚渫船はそのままで原位置において目下差障りなく作業に従事している。鼎浦並に気仙沼港内の被害は絶無といってよい程である
 鼎浦においては垂下式牡蠣養殖の桴が悠々と原位置に鎮座しているのを見ても如何に津浪の襲来が静々と押し寄せるものなるかということが首肯出来なければならない。この津浪の襲来を受けた気仙沼住民の多くは三月三日早朝において魚市場に海水が押し上った形跡のあるのを発見し、初めて地震後に津浪の襲来があったことを知ったという報道が該地に上陸した著者の手元にある。
 この気仙沼西岩の津浪襲来の模様を見るに、押し寄せる時に如何に静かであったかは、地峡部蜂ヶ峰小々汐において波打際に築造されたノリ簀が安全百パーセントで存在していることである。而してこの津浪の引き波の作用は押し寄せた時より勢いが多少猛烈であるから鼎浦の浚渫船を其退路のノリ養殖場へ持ち去ったものと見てよい。即ちこの型の津浪の作用は重力の作用を受けることが非常に大であるから其性、其作用に因んで引き津浪と命名する所以である。
 さて気仙沼東湾における津浪襲来の模様については巳に上に述べた様にこの溝が地殻沈下地帯の性質を帯びているがこの湾の西岸地帯大島は地殻隆起地帯に属しているとみてよいし、地殻隆起■作用と地殻沈下の作用とが働いて地殻に歪みの作用を及ぼしていいわゆる皺を作ったのが大島瀬戸であるから、此湾の特質は廻し津浪と引き津浪の中間の浪が来たと見てよい。其被害を見れば東岸地帯に属する唐桑村部落に多少廻し津浪と思われる被害があって漁船の損害も相当にあった。しかし湾奥の■浜舞根部落にはノリ簀が存在していた。此湾の最大の被害地は小鯖部落であるが、この被害は■の丘陵地帯を越えて広田湾に沿った部落の被害と雲泥の差がある即ち広田湾は純然たる地殻沈下運動の地に属する湾で、此処に襲来した津浪は廻し津浪に属する。それで、気仙沼東湾は丁度両度津浪の中間の如き襲来模様とみてよかろう。
 以上の例によって明かな如く、引き津浪の襲来地は地殻隆起運動の地帯に来るものでその災害の型が又特別に廻し津浪による災害の型と明かに区別することが出来て陸上の器物が引き浪によって浚われるのが特徴である。これ女川、志津川等において鰯締め粕の被害が多額の金額に上った所以であるよってその災害の最も少かった代表を名として気仙沼型津浪の災害と称するも異議はないものと思う