悪夢に追われて一ヶ月 志津川町 住宅建設やっと三割 思うにまかせぬ復旧作業
チリ津波で死の町と化した志津川町もあす二十四日で被災以来ちょうど一ヶ月。公共施設は復旧、住宅も次々に建っていく。そしてお
役所総計では復興五割といい、七割ともいうが、住宅はまだ三割足らず、復旧はこれからが本番というのが実情である。
なし
チリ津波は同町の八割に全滅的な
被害を与え被災戸数千八百九十
五戸、うち家屋流失三百十二戸、
全壊六百五十三戸、半壊三百六十
四戸、死者四十人、負傷者五百
人、水田百九十ヘクタール、それに沿岸漁
業も全滅的な打撃を受けた。これ
に対してこれまで投入された自衛
隊を含めた復旧奉仕隊はざっと二
万人。別に農地の復旧奉仕隊二千
人が本吉、登米、栗原郡をはじめ
県下各地からかけつけた。
こうして電話、電灯、水道、道路
はいち早く復旧、いまでは旅館、
飲食店など二十七軒、商店十五軒
ふろ、パーマ、床屋さんなど十八
軒も店開きし、目抜き通りは一応
にぎわいをみせはじめた。百九十
ヘクタールの被害水田も塩入など十六ヘクタール
を残して植え付けを終わった。養
蚕も流失した蚕地四千三百箱のう
ち三千九百箱が補給された。
しかし肝心の住宅復旧はまだその
緒についたばかり。流失、全壊約
千戸に対し現在まで完成している
のは応急仮設住宅百五戸、建築完
了もしくは建築中のもの百四十戸
そのほか応急バラック五十戸余を
合わせてまだ三百足らず。この
ため高校、小、中校には現在なお
二十三世帯九十一人が仮住いして
いるほか、親類、知人に身を寄せ
ている人も多く、中には町に見切
りをつけて転出するものも多数に
上っている。
また着のみのままで逃げた町
民の中には生活に追われるもの
も多く、生活費や住宅資金の貸
し出しを求めるものも跡を断た
ず、これらの相談件数も百五十
一件に上っている。沿岸漁民が
唯一の生活のカテと期待したワ
カメの開口が津波後はじめて二
十一日行なわれたが、小舟がな
いため隣接町村の小舟を借り集
め二戸で一隻がやっと。このた
め漁も思うにまかせなかったと
町民が暗然。
一方町は排水施設が不十分のため
ちょとした雨でも海岸地帯は浸
水したり、地震のつど「津波騒
ぎ」お演ずるなど町民はいまだに
津波におびえている。町の年間予
算はこれまで一部町有財産の売り
食いで八千万円ないし一億円。そ
れがこんどの津波で五十一億円の
巨額に上る被害を受けた。しかも
津波で町民税減免は今年度だけで
約一千万円が見込まれており、こ
うした中で都市計画、町の再建を
はかる町当局はお先真っ暗な中で
暗中模索の形だ。
農家に救いの雨 被災地は除塩に大助かり
カラつゆの日照り焼きで、鹿島
台地区など県下の水田は一部地
割れをみせはじめ、また津波で
塩害を受けた志津川、鳴瀬地区
では除塩に苦心していたが、二
十一日夜からの雨で一気にもり
返し農民をホッとさせている。
仙台*区気象台の話では六月には
いってからの雨量は例年の十分の
一の十九・二ミリしか降らず、この
ため鹿島台地区では九十ヘクタールの割れ
田がでて、農家は雨乞いまでする
騒ぎだった。また追町など登米地
区ではせっかく開田したのに雨不
足で、稲の発育が止まり、青息と
息という状態だった。
そこへ二十一日夜六時から二十二
日午前九時までに十八・二ミリの雨
が降り、農家にとっては時期を得
た慈雨となった。この雨はまた津
波の除塩地帯にとっても除塩に大
いに役立ち、鳴瀬地区の塩害水田
十七ヘクタールはこの雨で田植え可能となり
農家は一斉に水田に飛びだし、志
津川、女川などでも水田や畑の天
然除塩で、どうやらピンチを切り
抜けた。だが一方は*地区など大
麦の刈り取りをしている地帯では
収穫作業が中絶され、うらみの雨
となった。