つなみ作文 特集
「つなみ」にあった少年少女のみなさんと、このお友達にさし
あげる作文(さくぶん)をつのりま
したら、たくさんの作品(さくひ
ん)がよせられました。「つなみ」
にあった学校は、岩手、福島の
三けんで一四〇ちかくもありました
きょうは、りっぱな作品のうちの一
ぶぶんをのせましたが、このほかの
ものも、これからまいにちのせてゆ
きますから、みなさんよくとんでく
ださい。のせたぶんには学用品(がくようひん)をおくります。
おばあちゃんの死 大船渡市大 船渡中三年 新沼 知也
空がうっすらとなった朝四時ごろ
付近の人の「津波だ」と呼ぶ声に目
がさめた。見たとたん「あっと」声をあ
げてしまった。
海に水が少ししかなかった。ゴー
ッゴーッという水の引いていくうな
りが身体をふるわせる。
家へもどってみると、みんな荷物
をもっててんやわんや。だが僕は
「地震もなかったんだから、津波が
来たってたいしたことはないだろう」
と思って少しゆっくりしていた。
それでも皆、駅の近くへ行く
ので僕も走った。父も母も皆、先を
走っていた。
波はまだ来ないだろうかと思って
ちょっとふり向くと、もう「岸際」
をのりこえていた。
ふとみるとおばあさんが、並みの来
たのを知らないで後から歩いてく
る。みんな先に行ってしまったと思
っていたのにおばあさんがまだうし
ろにいるのをみたとき思わずドキッ
となった。
父もそれを見てもどってきた。波
のくるのの早いこと。そのときはも
うおそらく、波が足もとをぬらしてい
た。どんどん水はふえて勢いが強く
なってきた。
父と僕でおばあさんの手を引いて
走ったが、おばあさんは波にすくわ
れるようなかっこうで、倒れてしま
った。その時は水が腰まできてい
た。
父と僕は、おばあさんをかかえ、
波に流されるまあま、どんどん流され
た。なんども水を飲んだ。背のたた
ないくらい波がきた。父ともいつし
かはなれてしまった。
たいして泳げない僕は、おばあさ
んをかかえて、もうむちゃくちゃに
手足を動かした。
おばあさんは、かすかな声で「逃
げろ、早くいきなさい」といったよ
うだった。
僕の身体に丸太、ドラムカンなど
つづけざまにぶつかってきた。身体
がずきずきいたみ、手足を動かして
いられなかった。なんど沈んだのだ
ろうか。気づいた時はおばあさ
んも手からはなれてそばにいなかっ
た。僕は半分倒れかけた家の屋根に
無意識でしがみつき、おばあさんを
捜したが、どこにも見えなかった。
あしがふらふらして立っていられな
かった。
やがて水が引き、父や母も集まっ
てきた。誰もしゃべらないで、まだ
うずのまいているところ、おばあさ
んのみえなくなったあたりを長いこ
とみていた。
知らない間にほおを涙がつたって
流れた。おばあさんがかわいそうで
ならなかった。しばらくは沈黙がつづ
いた。
「天災は忘れたころにやってく
る」津波にはもんくもこごともいえ
ない。
水にのまれた大船渡の町を元のす
みよい町にするのは僕たちの尊い仕
事だ。
僕は、身体に気をつけ、強く正し
く生き、二度とこのような、ひさん
なことのおこらないことを願い、お
ばあさんのめい福を祈りたいと思い
ます。
ぺちゃんこになった おうち 塩釜市浦戸第二小二年 うつみみつひろ
「みつひろ、
はやくおき
さいん、つ
なみだよ」
とかあちゃ
んにむり
むりおこさ
れました。
ぼくは、ね
ててゆめを
みていたの
です。はま
べであそん
でいたゆめ
でした。ぼ
くはかあち
ゃんにおこ
されて、び
っくりして
とびおきました。そして、むりに目
を明けて、海のほうを見たら、海の
水はすっかりひあがって、しまのほ
うまで、おかのようになりました。
ぼくはおもしろくなって、海のほ
うへ行こうとしたら、「みつひろ、
早くばばちゃnのうちさいかえん」
と、かあちゃんにおこられました。
あんちゃんと、ひであきと三人で、
ばばちゃんおうちへはしっていきま
した。ぼくたちがにげたすぐあと
に、山のようなつなみがきでぼくほ
うちはぺしゃんこにつぶされてしま
いました。とうちゃんたちがにげた
ときは、もう水がどうろまで一ぱい
で、ふねでにげてきました。
つぎの日、ぼくは、はまべのもと
のうちのところまで行ってみました。
うちは、ぺしゃんこになって、ずっ
とうしろのほうにながされていまし
た。ぼくはかなしくなってはまべを
むちゅうではしっていきました。な
んだかとても海がおっかなくなった
のです。でも、ぼくのうちは、あた
らしくもうたてはじめています。ぼ
くはとてもうれしくなってはやく、
あたらしいうちができあがればいい
なあとおもいます。がっこうの本
も、ぜんぶあったし、まい日たのし
くがっこうに行っています。そして
はやくあたらしいうちができあがる
のを、まっています。
水浸しの町 八戸市小中野中二年 高橋 敦子
二十四日朝五時、突然「津波だ」
と母に起こされた。驚いて外に出た
ら粟の水がすかりかれて無気味
に川底が見える。私は、ただ着のみ
着のままで、姉や弟と高台の館鼻を
目がけて逃げた。*橋の中ごろまで
きたら、海水が恐ろしいびょうぶを
立てて、すごい早さでおそってき
た。そのとたん「かっちゃん達どう
したべな」と思った。母は父の死後
いろいろと私たちのめんどうをみて
くれた。私たちにとって一番頼みに
なってくれるのは母だ。私は津波に
母をさらわれたくなかった。
母のことを心配しながら、姉と手
をつないで高台の館鼻に上った。高
台には多くの人がふるえて立ってい
た。海の水は真っ黒に濁り、荒い波
を立てて逆流してくる。家の前には
大きな船が四、五そう頭をならべて
今にも店におそいかかろうとしてい
る。次から次へと大波が押しよせるた
びごとに、船は木の葉のように左右
にググンと大きく揺れ、いつ家がつ
ぶれるのかと恐る恐る見守った。今
までチラホラ見えていた人の影はな
く、波の大きなうねりだけが無気味
にくり返している。長い長い時間だ
った。みんな恐ろしさと憎らしさの
ために顔をおおって「もうだめだ」
と、ため息をついていた。海水はグ
ンと伸び出し、町中は水浸しで全滅
のように見えた。生まれてはじめて
津波の恐ろしさを、この目で実際に
見た。
私たちは姉の勤めている会社の車
に乗り、八戸の親類に行った。それ
から数時間後、母は腰までびっしょ
りぬれ、今までにない恐ろしく気の
ぬけた様子で帰ってきた。家の商品
は大部分波にさらわれたことを母か
ら聞き、みんな目をつぐんだまま一
言もいう者がなかった。私も泣きた
くてしょうがなかった。が、「家族
みんな無事で生きていたのは何より
しあわせだ」という母のことばに、
うれしいやら悲しいやら、変な気持
ちだった。
海に石を投げつける 石巻市東浜小五年 奥田隆一
その日、ぼくがねていると、なん
だかお母さんたちが話しをしているか
ら、聞くと津波がきたというのだ。
いつもねぼうしているぼくと思えな
いほどに早くおきてしまった。時計
を見ると五時だった。お母さんは竹
の*へてつだいにいくといって、す
ぐにでていった。僕は学校へ行く
よういをしてただ立ってばかり
だった。それからお使いにいったと
きに見ると、ある家のえんがわに水
がはいっていた。家に帰り、ごはん
をたべ、山門で見ていると、そこへ
お母さんが帰ってきた。お母さんは
「見ていられなかった」といいなが
ら、はあはあ息をならしていた。そ
こへぼくの家のすぐ下にある家のお
ばあさんが来た。お母さんはおばあ
さんを家に入れ、いろいろ話をして
いた。
僕はもう一度山門へ行って見る
と、あちらこちらにぽつんぽつんと
赤い色のふとんがあった。お母さん
の話によると家がこわれ泣いた人も
あったという。それから二時間後、
おとうさんが竹の浜へいって来ると
いった。由美子が「いっしょに行っ
てもいい?」といだした。おとう
さんは「あぶないからだめだ」とい
った。まもなく、おとうさんがかえ
ってきた。おとうさんは「はあ」
と、大きなため息をついた。この大
つなみにあい、学校もみんなで休み
が三日もつづいた。さいわいぼくの
家は高い場所にあるのでひがいはう
けなかった。
津波がおさまった時、行って見る
とめちゃめちゃにつぶれた家もあっ
た。おとなの人たちは「こんな大つ
なみなんてこりごりだ」という。つ
なみがおさまり、じえいたいの人も
てつだいにきた。ぼくは心の中で
「もうこんなつなみなどおこしちゃ
だめだぞ」と海にどなり。石をボトン
と投げた。あとは水の輪が、うかん
でいるざい木にぶつかっていただけ
だった。それから十一日めのきょ
う。浜へ行って見ると、まだかたづ
かない家もあった。「ほんとうにつ
なみというのはおそろしいなあ」と
思った。
波にさらわれた 森田君 宮城県鮎川町鮎川中三年 佐藤伸子
私の家は海から相当はなれている
ところにあるので、五月二十四日の
日も何も知らないで学校へ出かけ
た。途中、うしろから来たおじさん
に「津波のため十八成(くぐなり)
の海岸ぞいはみな水びたしだ。早
く帰れ」といわれ、私は夢中で家に
帰った。すぐにラジオのスイッチを
入れて聞き入った。一時間どとに臨
時の津波ニュースが放送されたが、
親類のいる女川の被害が大きいとい
う。
私は家にただ一人、心配している
と昼近く村の中を見回りに行ってい
た父母が帰ってきて、村中の様子、
被害状況を話し合った。とくに目立
ったのはタバコやあたりで、あのじ
ょうぶな石塀がこわされてあとかた
もなくなったり、そのうしろの家で
は、残されたのは母屋だけで、ふろ
場も物置も流され、出向かいの**
屋では寝ていたとのことで、逃げる
のに首まで水につかってようやく公
民館まで行ったそうである。***
の大部分は水につかったので大損害
だとのことでした。とにかく海にそ
そぐ川ぞいの家々はどこでも相当な
被害を受けたらしい。
そしてまた級友森田君の死。森田
君は潮がひいたというので海へ遊び
に行って波にさらわれたのだ。すぐ
水中から上げられたのだが、その時
はもうすでにおそかったのだ。その
ことを聞いていて、本当なのかどう
か、信じていいのかわからなかっ
た。二、三日たって村へ行ってみる
と悪臭がすごく、母が話したとおり
だった。橋が流されて一ヶ所だけはし
が残っていず、向こう側へは行かれ
なかった。畑には水の浸入した所が
堀のようになっていた。田には石が
はいっていて、津波のものすごさを
知らせているようだった。
母のため息 宮城県鳴瀬町 富声小六年 鈴木 礼子
五月二十四日のあさ、私がねてい
ると、おばあさんが青くなって私の
まくらもとにきて、「礼子、たいへ
んなんだよ、はやくおきろ」と私は
いわれたもののなにがなんだかわか
らない。ふと、おじいさんのねてい
るところをみると、おじいちゃんが
いない。私はあわてて、「おばあち
ゃん、おじいちゃんがいないがどう
したの」とおばあちゃんにきいた。
すると、おばあちゃんは「そんな
こといいんだ、はやくおきろ」といっ
たまま、おかっての方へ行ってしま
った。私はそれから、なにもきかず
におきた。
それから少しして、おとうとた
ちをおこした。「かずじおきろ、は
やぐおぎろでば」と私は声をかけた
が、いちばん小さいおとうとは、ね
ぼけた目を、手でこすり、こすり、
「ねえちゃんなにや」と私はおとう
とにきかれた。でも私はなにもしら
ないから、だまっていた。すると、
おかっての方で、おかあさんと、お
ばあさんが、話をしていた。私は、
それをきいていて、おとうとにおし
えた。おとうとは、それをきいてえ、
おどろいたように「ねえちゃん、
つなみや」といった。私は、おばあ
ちゃんと、おかあちゃんのいってた
ことが、やっぱりほんとうだと思っ
た。
それから、ごはんを食べて、おば
あさんが、ひょっこり外に出たとた
んに、おばあさんは、大声で、さわ
いだ。「あららら、てへんだわ、早
くみろ、はやくみろ、なみが、いっ
かいで、上にあがってきたがら」と
おばあさんが、いったので、みんな
で、外に出てみたら、木につないで
おいたふねも、みんなうかんだ。み
んな、なきそうに「ああ」といって
いる。おじいさんは「もう、ありっ
たけのことをしてあるんだからなに
も、手がだせないんだ」といった。
そのことばをきいて、みんなははら
はらしていた。
ずっと見ていると、こうみんかん
に、ふねがぶつかっている。その音
は「ばがんばがん、ぎーぎー」とな
ったと思うと、見る見るうちに、波
が、ひいていった。みんなはおどろ
いた。でも、もう、いまになってか
ら、どうしようもありません。少し
おちついてから、みんなで、はまに
おりていって見たら、ふろばは、め
ちゃめちゃにこわされ、ごみはいっ
ぱい。口にはいいあらわせない、よ
うすでした。そして、またみんなで
よその家は変わりないかと、出てい
ってみたら、私の家のしんせきが、
三軒も、こわされたり、ゆか上に水
や、ごみが上がり見るのもきのどく
な、ありさまでした。母ちゃんの顔
を見たら、みよこおばちゃんは、す
ぎ去ったようすを、泣きながら、は
なしています。ほんとうに思い出す
のもいやなほどです。
家では、しば、材料にする木など
たくさんどこに流れたのやら、か
げもありません。母ちゃんなどは、
いくらくりかえしても、どうするこ
ともできないといって、ため息をも
らしています。いくら天災とはいい
ながら、もう二度と、こういうこと
が、なければ、どんなにか、たのし
い生活ができるでしょう。
「津波だよ!」 宮城県志津川町 志津川中二年 佐藤ひで子
雨のような音のなかに、かすかに
「津波だよー」「津波だよー」という声
を夢うつつの中で聞いた私は、はっ
と目をあけてあたりを見まわした。
隣に寝ていた姉も気づいたらしく起
きて行った。祖母も母も起きるけは
いがした。すると玄関の方で姉の声
は、耳に深く残って二十一日すぎた
今でもはっきりと聞える。
ツァーツァーとぶきみな音をたて
ながら水は、家へはいってくる。前
の畑には、たるや木材が浮いてい
る。津波だ。すぐしたくをしてかば
んをひっぱり出すと、いとこに*お
われていった祖母のあとを、水につ
かりながら追った。祖母に追いつく
と、いとこは、ひきかえして行っ
た。四時をすぎたばかりなので町は
眠っていた。ただ朝の早い人たちが
立って目の見えない祖母をつれ、片
手にかばんをもって避難していく私
をびくりして見ているほかは、こ
の時、だれが人命まで奪い、志津川
をあんなにまでした大津波を想像し
たであろう。
祖母と夢中で高台の高校に上った
時、第一回目のサイレンが町になり
ひびいた。家に残してきた母と姉は
きただろうか。懸命に二人を非難し
て来る人たちの中からさがした。ま
だ見えない。どうしたのだろう。あ
そこは海の近くなのに…。変な予
感に胸をしばられながら、流されて
行く家が目にうつるとたまらなくな
って祖母の手をにぎりしめた。やっ
と二人を見つけたときには、ほっと安
心して母にしがみついた。下に見え
る町の家々は流されたり動いたりし
ている。
恐怖のうちに一夜を過ごした私た
ちは、次の日、家の跡に立ってア然
としてしまった。家の近辺は無残な
姿に化している。でも、いつまで沈
んでいても仕方がない。私たちは何
もできないが、人々の灯になること
だけはできる。この灯で打ちひしが
れた人々の心をなごやかにし、一刻
も早く立派に復興させたいと思う。
大変なこと 宮城県女川町女川一小四年 高橋順子
急に「みんなつなみがくるから服
をきなさい」というさけび声で目を
さました。お母さんの顔がまっさお
だ。「早く、早く。すぐ山に逃げなけ
れば」…わたしはおどろいてしま
い、ねむさもふきとび、体がガクガ
クしてくる。つなみはどんなものか
わからなかったが、おとうさんやお
かあさんのいうなりに妹や弟たちと
山に逃げた。
みんなむちゅうで山に走ってく
る。なきながらくる子どももいる。
どこかのおばあちゃんがころんだ。だ
れか知らない人がすぐ起こして手を
引いてくれた、はんしょうがジャン
ジャンなっている。アッ水だ!町
の中にドンドンはいってくる。水と
一しょにざい木がごうごうとうなり
をたてて流れてくる。そのざい木が
家をこわして中にはいってくるのが
みえる。町がすっかり水の中にうか
んだようにみえる。生まれてはじめ
て見るつなみ、おどろいて口もきけ
ない。どの人の顔もまっ青だ。きゅ
うに家が心配になってきた。
おとうさんは会社に走って行った
がだいじょうぶだったろうか。おと
なの人たちがおりて行った。水が引
いたのだ。家に帰ってみたいがおそ
ろしいし、家もしんぱいだ、しばら
くたってから家に帰ってみると店が
メチャメチャにこわされている。家
の中のものがみんなひっくり返って
いる。おかあさんがなみだを流して
いる。わたしはつなみのおそろしさ
をはじめて知った。どこかのおじさ
んがもうふをかぶり、ショボショボ
と歩いてくる。わたしも知らぬまに
なみだを流していた。大変なことに
なってしまったものだ。おかあさん
は口もきかない。
海はいらなくなった 陸前 高田市 小友小四年 近江俊郎
五月二十四日の朝、ぼくは、津波
だ、起きろというお父さんの声で目
をさましました。そうしたら、もう
水は玄関のところまできていまし
た。一回目の津波は弱かったので、
お父さんたちは荷物をとりにいきま
した。そしたら、すぐ二回目の大き
な津波です。また波が来たぞーーと
上の方から呼び声がします。あたり
の人はみなきのみきのまま、なかに
は、はだかの人もいました。
まず道路がめちゃめちゃ、そして
家のたおれるバリバリという音、私
の家も、よその家もみんな、しょう
ぎだおしのようにつぶれ、みるみる
うちに沖の方へさらわれてしまいま
した。板ぎれや舟や竹など山の近く
の方の田んぼまで流されていきまし
た。そうしているうちにも、大きな
波が二度、三度、四度とくり返して
おしよせてきます。さっき流れた
家々の屋根が海の遠くの方に、ぽか
りぽかりと浮いています。
ぼくは、はじめて津波というもの
を見ました。ぼくは、考えました。
この津波は、どうしておこったので
あるかを。そしたらラジオで「チリ
で大地震がおこったため、太平洋沿
岸では大津波」というニュースで原
因がわかり、本当におそろしいなあ
ーーと、つくづく思いました。
鉄道のレールは、めちゃくちゃに
曲がり、遠くへ波にもっていかれま
した。午後になって、やっと津波も
おさまりかけたようなので、下の方
へ行ってみたらどこの豚やらブーブ
ーとあわれな声でないていました。
私の家は、土台石だけ寒そうに残っ
ていました。
ぼくは、あと津波がこなければい
いなーーと思いました。でも、私の
家では、土地のつごうで、またも下
の方に家をたてるそうです。海はも
ういらなくなりました。今、ぼくに
おそろしいものが五つあります。そ
れは「地震、かみなり、火事、おや
じ、それに津波」です。その中で一
番おそろしいのは津波だと思いまし
た。津波は、なにもかも、みんな
さらっていきますから。ああ、本当
におそろしかった津波でした。
ふねとたる 釜石市白山小二年 たきさわおさむ
ぼくがねていると、おかあさんが
「つなみ」といったから、ぼくはお
きてみると、みんながみていまし
た。うみをみるとたるがいっぱいな
がれていました。みずがずんずんふ
えてきました。みつびしのふねがひ
っくりかえりそうになって、きてき
をならして、おきのほうににげて行
きました。ひくとき、うみのそこの
岩がみえました。
川の水がごうごうとおとをたてて
うみのほうにながれました。だれも
のっていないふねもながされていき
ました。すこしすると、うみの水が
いっぱいふえてきてがんぺきに水が
上がるところでした。がんぺきのそ
ばのモーター・ボートも、がんぺき
に上がるところでした。みんながい
ろいろつなみのはなしをしながらみ
ていると、わんのなかにたると木が
いっぱいになってしまいました。み
んなおかの上にあったものがうかん
でながされたのです。どこかのおう
ちからながされたのでしょう。さが
すのにたいへんだろうとおもいまし
た。たたみもよごれたでしょう。ふ
とんもぬれたでしょう。
あさごはんをたべているときの下の
じゅうたくに、ふとんをしょったよ
そのおばさんとこどもがきたのがみ
えました。ぼくのくみの人でした。
あくまのどうくつ 八戸市江 陽小四年 大前利夫
五月二十四日にきたチリ地震津波
のあとを、ぼくは、お父さんと、二
十五日の朝、見に行きました。
新しい魚市場のまわりの家は、め
ちゃめちゃになっていました。水の
上がった家は、ふくやきものがよご
れてさびしそうにあらっている人も
ありました。魚市場の船のつく所は
コンクリートが、真二つにわられて
まるであくまのどうくつのようにな
っていました。
みなと橋の方へ行くと船ががんぺ
きに、のり上がってこわてれいたり
家がばらばらになって道のまん中に
ころがっていたりして歩けないほど
でした。「なんでもみなとの鉄橋が
こわれたそうです」と、通りがかり
の人がいっていました。
この津波は、昭和八年の三陸沖の
津波より大きくて、高さが五メートルもあ
る津波がおしよせてきたということで
す。「もっと津波のけいほうが早く
出れば」と、あとかたづけにいそが
しい人たちは、口々にいっていまし
た。みなと橋には、流されて行っ
た船が二そうぼつかっていまし
た。おかし屋の家は水がはいってお
かしは、全部ながされていました。
これを見てお父さんはため息をつ
くように「ひどい津波だなあ」とい
いながら立ちどまってみていまし
た。ぼくも、たよげてしまいまし
た。ぼくは、生まれてはじめてこん
なことを見ました。
お父さんは、「津波って、あっと
いうまにくるんだ」と、ぼくにおし
えました。きのみきのままにげた人
も、たくさんあるそうです。
この津波は、太平洋岸の町や村
を、全部おそったとラジオではいっ
ていました。大きな鉄の管もながれ
てきていました。すっぽりと、津波
のために、家をもっていかれたとこ
ろもありました。
「たたみやたんすなどいろいろなく
なった人は、どんなにこまることで
しょう。わたしたちながされない人
は、一円でもいいからきふしてあげ
ましょう」とラジオでは、しきりに
いっていました。津波は、おそろし
いつめのあとをのこしていきました。