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世に残る文集「津波の子ら」  志津川小児童の作文  ”もう逃げられない”   胸うつ生々しい恐怖の姿

チリ津波で死者十二人、負傷者五百人を出し、全国的な被害を
受けた志津川町もいまでは一応目抜き通りの町並みは整ったが、
五十世帯余りがまだ学校に仮住居を続けるなど、津波のツメ跡は
まだ生々しい。こうした中にあって小、中学校はさる九日から開
校したが、全校児童千二百四十四人のうつ死者三人、被災児童
八百人を出した志津川小学校(鈴木亮逸校長)は、開校早々の課
題として津波の感想、体験談を全校児童に書かせた。”サイレンが
なるので火事だとおもったら…”一瞬後にはこの世の生き地獄。つ
たない文字に書きつづった子どもたちの作文は、混乱の中に生死
の間をさまよったあの日をいたましいまでに再現している。学校
でもこれを文集「津波の子ら」(仮*)として長く保存するという。
 お母さんが”逃げろ”というの
 で逃げました。しかしランドセ
 ルが心配になり家にひき返して
 もってきたら、もうお母さんは
 いません。いつも通る学校への
 道を通っていたら大きな波がき
 て、よその窓のところまで流さ
 れました。二階の人に助けられ
 ました。お母さんを捜している
 うちに先生に会いうれしくなっ
 て初めて泣きました。しばらく
 してお母さんに会い「お母さん」
 と抱きついたらお母さんも「す
 みこ」といって泣きました。
 (二年一組・はせがわすみこ)
一機にランドセル、カバンをとり
に引き返している子どもたちの姿
がいじらしく描かれている。
 ”きたぞ、逃げろ”というので
 由幸(弟)と二人で逃げようと
 したら、となりのおじさんが由幸
 を抱いて家の中に入りました。
 「なぜ逃げないの」ときいたら
 「もう逃げられない」といい、
 由幸を抱いたまま屋根をこわし
 始めました。もう泣いても誰も
 いません。屋根に上がったらお
 父さんとお母さんが向うの屋根
 の上にいました。お婆さんが見
 えません。お父さんが屋根をこ
 わして助け出しました。三回目
 に水がひいたとき屋根伝いに逃
 げました。(六年・川村恵美子)
 ”津波だ”という声にお母さん
 と一緒に二階にかけ上がりまし
 たが間もなくミリミリという音
 がして家が流れ始めました。水
 が二階まできたので皆で屋根へ
 上がりました。大森の方から家
 や木や人が流れてきました。私
 はお母さんと正子姉さんと妹と
 しったり抱き合って水のひくの
 を待っていました。まだ高校の
 特別教室に住んでいます。(六
 年・・菅原道子)
警報が遅すぎた。一瞬にして生き
地獄の中にたたきこまれた子ども
たちの恐怖の姿が人々の胸を打
つ。
 ぼくはあんちゃんと、くみこと
 高等学校に逃げました。お父さ
 んとお母さんが「家はペチャンコだ」
 といったらくみこが泣きまし
 た。お父さんはケガをしていま
 した。私たちはじっか(実家)
 へ自動車でいきました。あんち
 ゃんが盲腸になり病院へいきま
 した。夜になるとお父さんやお
 母さんが帰ってくるのでうれし
 かった。あさになって家をこわ
 し(整理のこと)にいきまし
 た。お母さんは泣きながら木を
 かついでいましたが、ぼくは
 泣きませんでした。(二年一組
 くどう・けいじ)
津波は去ったが、その回復に大き
なツメ跡が残された。子どもたち
は津波に大きな怒りを感じてい
る。ある子どもは「津波はにくら
しい」と次のように書いている。
 ほりごめさんの家の前を通った
 らほりごめさんのお父さんが、
 つぶれた家の勝手の窓をこわし
 家族を助け出しでいました。津
 波はなぜ家をこわすのだろう。
 私は津波がにくらしい。津波は
 まっぴらだ。ほんとうににくらし
 い。(六年・須藤ふみえ)

窓  救援物資の 割り当て

 チリ津波で被災した知人の話を
聞き、救援物資の配分のあり方に
考えさせられました。大人家族の
ところへ幼児の洋品がきたり、そ
れと大同小異のことがままあると
のことです。もらった方はせっ
かくいただいたのだから被災しな
い知人にでもと役に立つ方にまわ
してしまうそうです。
 なんでもかんでも割り当てだか
らというお役所仕事的なやり方は
反省すべきだと思います。同程度
の被災者であっても、家族の勤務
先、その他の協力によし、すでに
立ち直られた方も一部にはあるは
ずですし、まだ住む家なく、き
ょう食べる食物にもこと欠く被災
者もたくさんあるはずです。
 全国津々浦々から寄せられる善
意を無にすることなく、たとえ、
一円、一物であっても心をくばっ
て善処してほしいと心から当事者
たちに切望いたします。(塩釜市
神の前・一市民)