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大海嘯見聞記  山田から宮古へ   (6) 後 藤 生

山田町も、南と北の橋が落ちて連絡を欠き報道者としては大分困らされた処である。丁度本社の松本班が写真の中村君をつれてここに一晩泊ったので災害の全貌は紙上に遺憾ない筈である
 横道にそれるが今回の事件では地方の小新聞ながら随分活躍した積りである。中には大新聞という新聞の記事は、何うかすると本社の記事の焼き直しが多いように思われる。又本社の記事そのまま特派員発とごまかしてやっていたのが大分あった。尚序に申上げて置くが本社では東京の電通と連合の通信を委託されている。全国の新聞及び世界の新聞に本社のうった電報がみんなのってる訳です。ラジオもすべて日報発のものである事を知って頂きたい。本社の整理部は、一方特派員、支局の通信をあつめて、それを簡単なるものに再生産して東京に送ったのです。青森秋田の新聞からは直接本社にきいてくるので、それも同業者として忌避する訳にも行かず知らしてやった事です、その外市内県外からのお訊ねが沢山ありました、こういう訳で随分本社としては号外及び新聞製作以外に大きな努力をしていたことです。

勿論今回の大事件では県庁、旅園、連隊区、病院、郷軍、郵便局、電話局、自動車、男女青年団、消防、青訓、銀行、電燈等の総動員で横にも縦にもの活動があったればこそあの完全な配給救恤が出来たのですが、新聞社もその一員であった事を吹聴しておきたい。

 山田の被害は郡内第一の総額五四二、八八〇円(宮古警察署調べ)で
 流失全潰三〇二戸 半潰一〇三浸水二五一戸 死亡六名 行方不明一 重傷二 軽傷二九 流失小舟三一 破損発動機二〇 漁船一二二
であるが、それで死亡六は雄交換■の殊勲に依るもので、震災記念舘にはゼヒ同嬢の写真なり銅像なりを拵えて後世に残したいと思う災害地を通ってみると、とても惨憺たるものである。命が助かったとしてもサテ家を興し産をなすのには大変な事だろうと思う。世の人々よ、そろそろ救援の熱が冷めて来ては居ないか。見聞記は少し議論になるが、海岸は、全く革命のようなものだ。財産あるものもなきものも同じ境遇になってしまったのである。却って財産のなかったものが、救恤金で腹をふくらして居るかも判らぬ。

 石川町長さんのお話を伺うと『まあ山田としては、残った家もありますので何うやら有無相通ずで生きて居る訳ですが、木炭の配給が思う様でないので困って居ります』という事だった。田老の災害が激甚なので、宮古からその方へ勢力が集中され山田が或は忘れられたのでないかという声もあった。何しろ毛布一千、水兵服五百、シャツ一千、缶詰五百という割当が到着せぬので町役場内は、大騒ぎをして居る処だった。私の行ったのは九日です今頃はもうそんな手落ちがなくなって居るだろうか。これも町長の話しだが『三日の夜までは陸海の連絡がないのですから兎角人心不安定であったが四日朝駆逐艦秋風が姿を湾内に表すとみんなホッと安心した訳です軍艦イカズチから配給をうけたが来るという厳島が来ないのでがっかりして居る』という事だった。山田も大火の後にこの災害である本当に飛んだ厄運であった。然し大工二十人入り込んでバラックを建てるという事でした。人間というものも偉いものじゃありませんか絶望に沈■はしても又更に、再生への強き一歩を踏み出すのです。海岸人の勇を私は推称せずには居られません。山田町の配給状況(役場の調べ)を並べて見ます、如何に混雑したかそれを各種団体の活動で遂行したかをほぼ想像する事が出来ると思う。
   三日から七日迄五日分
炊出し  一日の人員六、五五二
 一日の数量一五石六斗五升 配給延人員三二、七六〇人 同延数量九八石二八〇
雑品 炭二、五〇〇貫 莚二、五〇〇 ゴザ一、〇〇〇 味噌三〇〇貫 沢庵二〇〇貫 梅干二〇〆 魚五〇〆 野菜七五〇〆 衣類二、三〇〇点 鍋一四八 瀬戸物四、八〇〇
莚類一戸五枚 五〇〇戸に 味噌同一二〇匁延二五〇〇戸 梅干同八匁延二、五〇〇戸 魚類同五〇匁延一、二〇〇戸 野菜同三〇〇匁莚二、五〇〇戸 衣類同四点乃至五点
団体の活動は三日から七日まで五日間で
消防七九七 青年団二二〇 女子青年団一五〇 郷軍一二七 訓導教論一二〇(主として児童救護に当る)青訓一四〇
総計一、五四四人である。収容所は八幡宮、山田校、礼昌寺の三ヶ所で家族数一、九七五で全く戦争の騒ぎであったろうと思われる

 それから大沢重茂村は残して津軽石役場によると村長も助役も船越に行ったとて不在この村の被害は流失三浸水九戸に過ぎぬ盛合光蔵さん敬意を表して磯鶏に急ぐもう夕の六時であるが、村長初めまだ仕事まっ際中であった。ここでは生徒の履モノが足りないという事だった。寝具は無論の事下駄靴もほしといっていた。被害は
   流失  半潰  浸水  死亡  流失
   全潰              舟
磯鶏  七   五   八   一  一〇
高浜  七  一八  一八   六  二〇
金浜  四   一   六   〇  一〇
白浜  〇   〇   〇   〇  二〇
太田浜 〇   〇   〇   〇   二
 破損船は発動機一六漁船九七
    ×
 宮古橋が落ちて、ここから二度渡し船に乗る熊安旅舘につくと熊谷平助氏中島前町長伊東町長その他有力者がかけつけてくる夕めしをすましてから支庁に佐川支庁長を訪ねて郡下の状勢を聴く。それから警察に行って平賀サンからいろいろ説明を拝聴した。宮古は築港のおカゲで被害少なく死者二、流失三、全潰一〇、半潰二九、浸水六一。(写真は山田町)

火保会社の  不誠意をなじる   釜石町代表者上京し

(東京発)釜石町火災保険金支払い要求の代表者加茂、沢田、斎藤、菊池(巳)、野崎、長沢、岩井、藤沢、大久保、日下の十氏は七日午後二時半から丸の内海上ビル八階大日本連合火災保険協会本部に於て各務会長、波多野書記長以下十二名の協会員と会見し先ず釜石町代表者加茂、斎藤、沢田、藤沢の諸氏より協会側と左の一問一答があった。
 問『会社ではいつ保険料を支払う決心であるか』
 答『仙台地方会より未だ正確な報告が来ていないのでこの際確認が出来かねる』
 問『今回の三陸地方に於ける災厄に際し見ず知らずの他人からまで多額の同情金を寄せられ見舞状を受けているにも拘らず会社側は災害後二週間を経過している今日ハガキの見舞状さえ寄せぬ不誠意を何んと見るつもりであるか』
と詰寄り吾々は千円の契約高に対し十八円という全国最高率の保険料を支払っているが今回の災厄に於て保険金の払戻しが出来ぬ以上絶対に帰町しないと強行談判に出で口くせに会社側の不誠意をなじったところ協会側は廿日午後三時に確答すると言質をあたえたので一行は目的貫徹まで帯峡することとし午後五時会見を終った。

全国市長へ  救援を懇請   知事議長市長   連名で

石黒知事、佐々木県会議長、中村盛岡市長、細川町村会長の連名にて全国市長に東海岸震災の救援を懇請十八日左記書状を発送した。
 本月三日払■突如本県を中心として三陸沿岸地方一帯に来襲仕候強震に伴う海嘯はその被害激甚を極め罹災地の惨状筆舌に難■もの有之候処早速各方面より深厚なる御同情を■うし洵に感謝に不堪次第に御座候。
 その後調査の進むに従い被害の程度は予想外に甚しく人畜の死傷、家屋の流失、倒壊は申までも無之、漁場の破壊、養殖場の全滅、殊には沿岸一帯に於ける漁船漁具の流失等惨禍枚挙にいとまなく全滅せる部落すら多数有之状態にて且罹災者中には目下皇軍の第一線に在って熱河の掃匪に奮戦しつつある将兵の家族も頗る多く洵に痛心に不堪次第に御座候加之罹災地方は今尚寒気烈しく時々降雪を見、感冒の流行、急性肺炎の続出等真に深憂すべきもの有之候御承知の事とは存候えども固々天恵薄く民度未進の本県は昭和五年以来連年の不漁、凶作に加えて県内全銀行の破綻に伴う金融硬塞より疲労困憊の極に有之候折柄骨肉を奪われ家を失い生活の資を喪い、ぼう然唯天意の難きに怯えつつある三万罹災民をして安意生業に就かしめ復旧復興の大業を完成可致事真に容易ならざるもの有之一に国家並同胞各位の深厚なる御同情に依縫するの外途なき状態に有之候就而甚だ勝手なる申分には候えども罹災地復旧復興の資として広く江湖に義捐金の御■出方懇請致度既に各々御尊意相賜居候こととは存候えども今後共一層の御尽力相仰度謹みて得貴意候。