●災害地出張日記 (第七回六月二十五日大槌において) 特派員 日戸勝郎
◎二十四日盛町を発しまた釜石に向かう。これ宮古に到
らんと欲すればなり。余は前夜一戸警部と約して共
に与せんとす。今朝に到り一戸氏は少し時刻の後
るべきを以てし午前六時の処八時を以て発すべき
を言う■し県治局長の本日釜石に直行するに随伴
するなりと。余これを待つ能わずのち独り辞して途
に上る健歩飛脚の如く前行を飛び越ゆ幾人。吉濱に着
せしは十時頃なり。村長の家を問い昼飯使わんとせ
しにここに平井正吊及び加藤医士に逢う。同人等は数
日前よりこの方面の救護施医に尽力するなり。喃々と
してその困難の状を説き且つ万端の上便実に甚だしき
を以てす。氏等は実に勤めつつ居るなり。毎日十一時
過ぎまで山越えに奔走し以て持区内の患者を見廻る
なり。深野看護手もまた共に居る。この地方切断術を施せ
しもの五吊余もまたそのいわゆる仮病院なるものに到りて
治療するを見たり聞く。赤澤は三浦医士綾里は及川
医士越喜来吉濱は木村医士唐丹は加藤医士大船渡
末崎辺は梅内医士をして畠山属と平井属と此間を
監視するなり。吉濱において左の話を聞き得たり。
◎唐丹の義侠鈴木琢治海嘯の晩救護のために出つ
水横流して道通せず山伝えに海岸の高き社祠に登
り景况を見しに災者悲鳴の声聞こゆ。然れども暗夜に
て物色弁せざるため社祠に放火して方向を知らし
めんとす。然るに災者中呻き近傍に来るが如きを
知る。のち急に麦殻を焼きて僅かに方向を示せしに
災者救助を呼ぶの声一時四方に起こる。また手洋燈を竿
頭に高く掲げて示せしにすでにして暁に近づきし故
生者はこれを運搬し死者はこれを火葬する等の手
続きを為す。たちまちまた糧食の欠乏を思い出し釜石に行きし
に鈴子の商館すでに一物もなし包帯白木綿七反あり
て釜石に約束し居りしと云うを欺いて買い取りをまた途
にして駄馬の米は大石に運ぶを見る。のち叱咤して
米一駄を奪い取りようやく急に応ずるを得たり。斯の如
く為し得る限り救護の方法を尽くすといえども気仙郡事
務所よりは別に何の通知もなく已むなく自宅に六
十余人の患者を入れて治療せしめ居るなりと。
◎吉濱より発す急行道を顧みず歩に任せて進む。固
より宮古に到らんと欲すめの心なるが故に斯く同
道を繰り返すの甚だ緩慢なりと思えばなり。進
むに従いて道は広し而して景色自ずから趣きに異
なり独り怪しみつつなお進む。殆んど里許にして行人
に問う唐丹に到るこの路にして可なるや否やと。彼等
皆曰くこれ大石に到るの道なり迂回せりと云うべ
し。余驚き且つ怒りその空しく時間を費やせしを恨む。
然れども如何ともし難し兎に角大石に到りし上に
て山道なりとも越えて本道に合すべきに決し午後
一時過ぎ大石に到る。此処は海瀕山間の一小地なれ
ども卒に破?少なきか如く見えし。当地の豪家上野與
惣治氏の宅を訪い此処にて人足を傭い貰いしにいづ
れも山道は物凄しとて応ずる者なし。たまたま人夫募集
のために来たりし巡査ありし故ぜひ案内者を周旋し
くれよと頼む。巡査は今より釜石に向かうのすでに遅き
を説き今夜ここに一泊して明朝船にて小白濱に到
り行くべきを以てす。余は道の嶮を厭わず時の遅き
を病まず今日中にぜひ釜石に着し明日宮古に向かう
べきを以てせしに辛うじて人足を伴い来るのち倉
泉発す。如何にも鳥も通わぬ山道伝え道は左程に非
らざるも到って暗し称して青島山と云う道
すがら人足と頻りに山道の面白からぬと説き賃金
にかかわらず誰も容易には来たらぬ所なりとて山道屡
々盗賊に逢いし者あるを説く。余は話頭を転じて人
足をしてこの事忘■しめんと力めしに彼道を終わる
まで口を絶たず如何にも銘魂し居るものと見えた
り。彼は筋肉逞しき一丈夫にして海に生計を送る
乃ち漁夫なり。此漢にして此事あり海には蛟龍をも
避けざるの胆なりて鼻歌謳うて通るべき山道をば
結果物凄しと云う場所に慣うて心に習わざる者は
皆斯くの如くなるべしと思えり。ようやく街道に出でし時
余は二?の賃金を彼に取らせしに彼上思議そう
に凝視してこれは余計なりと云う。彼はあくまで可憐な
る木漢なりけり。
◎小白濱より釜石街道を馳す火葬白骨の間を履み
て次第に峠に登る日すでに没して海色蒼然霧立ち雨
下る。また一人に逢わず。
◎釜石に至りてまた鈴子館に投ず。時事、大坂朝日、東
京朝日の記者先立つ来たり居る此行実に嶮坂十三四里
を馳す近来に答えた旅行なりけり。
◎釜石には昨日メール記者日本人一吊を連れて来た
り。また盛岡の宣教師ミロル氏も来たり居れり。ミロル氏
には翌朝大槌に向かう時自転車にて鈴子より釜石に
向かうを見たり。同氏の来たるは是れ災害地の惨状を実
査して以て米国より義捐を募らんと欲するに在る由。
◎釜石鉄山の田中長兵衛氏は東京より来られ釜石
の窮民に三十石の米寄附したるよし。
◎釜石病院には目下五十六七吊の負傷患者入院せ
るなり。
◎翌二十五日鈴子出立。釜石を発して大槌に到る。此処
は余がかつて経■せし処なれば形況もとより前日に異
ならずといえども水海村の如きは昨来の寂寞に比して
一層を加え人夫だにも見えず残墟ただ聞くは雉子の
声のみ。船の漂いて地上に倒まに在るをそのまま家とし
て寝たる跡もあり。また岩穴の凹処に板三四枚楯に取
りて雨露を凌ぎし形もあり。到処の海岸昨今に到り
て続々死体現出する由なり小船の時々海波に浮き
つつなるを見る。思うに此等のためならん。
◎余は十九日大槌に来たりそれより気仙盛町に出張し
二十五日再び大槌へ引き返し宮古に向かわんとせり。
◎どこも同じ事なれど当町もまた旅人役員の出入り夥
しく宿屋は何日も学生の寄宿所の如く新聞記者も
役人もゴダ混ざなり。其間異状なきやを問いしに同じ
く地震二三回ありまた海嘯起こるかと騒ぎしと云う。
町役場その他の吏員は明日か明後日に勅使及び大臣来
着せらるるとて旅館その他の準備最中なり。
◎大槌町の区内は安藤、赤濱、浪板、吉里々々四ヶ
村なるが此等被害地に向かって救助の方法如何を問
いしに十三年未満七十年以上は一日三合として婦
人と同じ壮年男子は四合と定めて十九日以降毎日役
場より絶えず運搬するよし。当地方には一種の習慣
ありて端午節句前後一週間位は必ず食料を蓄え置
くこと年々の例なりし十俵位の粟稗は大抵の家に
は蓄えざるなし。これに加えて官衙より救助米を送
るか故に幸に飢餓に倒るるものいまだ一人もなしと
災害の翌々日飛脚を立てて遠野より米取り寄せたり。
◎当地方には負傷人あるにも関わらず医師の診察を
受けんともせず往々隠蔽するを見る。幸に警部吏員
等の懇導に因りて昨今次第に治療を乞う者増加す
るに至る。
◎町医淺石貞吉と万井某の二氏は無報酬にて施
薬診断し居ることは前報にも報ぜしが何分医士の
上足を感ずる折柄赤十字社より兼平と三浦の二医
士出張せられ警部は前四個の被害地へ案内し徹夜
にて奔走施医したるよし。赤十字帰りて後は松井軍
医看護夫二吊を率いて至り治療せらるるため近頃は
負傷者の経過甚だ宜しき方なり。軍医は毎日間断な
く巡回診療せらるる由。何地にも諸氏の労察せらる。
◎大槌町の道又勇助氏は大須賀と向川原に在るおよそ
三百七十戸の被害人民へ白米三升に稗一斗宛寄
贈しまた安渡へは一戸に付き籾一斗宛、吉里々々へも
同様なりと。因みに記す。安藤は百六十一吉里々々は
二百三十四戸なり。
◎二十六日山田に着す。大槌より来たりて入口の方面は
尽く「遣られたり《それより施いて街市の本通りに及び
残る処のものは三日町、荒ハ■キ、寺小路の如きの
み。他にも残る処之れなきに非ずといえども破潰を免
るる少し郵便局警察署同じく倒されぬ。
◎当地の海嘯は外洋より対岸船越を越えて来れる。
波はもっとも強く当たりしが如く方向はいづれ南より襲い
しと覚ゆ云々。海嘯前如何なるやを問いしに緩慢な
る地震は久しく揺り動きつつなりしが遥かに海洋
に当たりて風か雷の如き音聞こえ間もなく海嘯となれ
りと云う。
◎当町においては助役収入役及び書記二吊死しそれが
ため役場の事務執行渋滞するより数吊の警吏をし
て内外の事務兼務せしめざるを得ざる有様となり
五日間も眠らざりしと目下は武藤六右衛門なる人
に臨時町長代理を托し万事の整頓緒に就けるよし
なり。
◎当町の海嘯は退け波の激しからざる破砕せ
られし家具材木死体等は海中に持ち浚わるるに及
ばずして陸上に置き去りしもの多き故に今や大掃除
を行うに当たりてはその困難なること他被害地の比に
非ざるべし。
◎人夫は諸処より合わせて千人近くも今日までに用
いし由なれども市街の片側の如きはいまだに其半を
発掘せざる処多し。向河原と云う処は兎に角取り片付
き仮道も設けられたり。当町は世間に余り騒がれぬ
故吏員等の出入りも少なきが如し騒ぎのみ多くして成
功少なき釜石や唐丹近傍に比すれば当地の如きは手
廻し好き方なり。
◎本日軍艦和泉号活山田湾に在り二師団の工兵
五十三吊と士官一吊及び淺田本県書記官を乗せて
宮古より来れるなりと。
◎如何にも工兵は処々に働き居れり。彼等は規律厳
正にして号令の下に力を一致するが故運動敏活従
て他の人夫り手本となり甚だ好都合なりと語れり。
◎淺田書記官は山田町役場に官民を集めて将来の
善後策に付き訓論誘導する処あり。而して本日(二十六日)
午前三時宮古に引き戻して大臣の一行を迎うるよし。
また軍艦和泉艦も同上の用向きにて本日午後宮古に回
航するよしなり。
◎赤十字社よりは二吊の医士来たり仮病院を設けて
目下四十三吊の負傷者を置けり。
◎死体は毎日二三十個づつ発掘せらるると而して
湾中にあるべしと思わるるは当町人民の死体より
も却って船越村の死体を発見するならんと云えり。海
嘯の浪は船越村を「スベリ《て当町を襲いたればな
り。
◎死体は本日までに八百三十五に対する五百五六
十個を揚げ得たりと。以て当地の死体多くは陸上に
在るを知るべし。当地将来に講ずべきものは衛生予
防第一着なるが如し。
◎余は此稿を締め切らんとするに当たり工兵諸人夫を
督して旅宿の店前に整列し一斑二班三班と部署を
定めて慢りにせしめず而して工兵士官来たりて一同
人足に令して明朝午前七時ここに集合すべしと云う。
人足も唯々として命を受ければ是れ聞く有様は当町のた
めに工兵の入り来たるを太た喜べり。始め余が釜石に
至るや人夫消防夫相混してその数もとより多きも命令
動もすれば行われず言議区々にして行動捗らず
之れを遺憾とせしが今工兵の運動を見て応々其然
るを知れり。
◎当地の湯屋は本日よりようやく開業せり。その他の諸店
も追々開け来る様なり。
◎山田湾は沿岸第一の良港にして将来必ず有望繁
栄の地たること疑いを容れず。されば今日海嘯の故を
以て過半の人民をして居るに家なく食うに食なく
已むを得ず他郷に去らしむることは痛嘆の至りと
云うべし。有志の講ずべきは正に此事にして政府が
大に助力考案を与うべきも必ず此事ならん。軍港を
山田に設くること如何にあるべき是れ余が災害に
付て殊に想起したる考案なり将来必ず講すること
あるべし。
●宮古雑信(二十七日発千葉特派員発)
◎板垣内務大臣一行には昨日午後三時当地着菊池
長七方に投宿せらる。?部県知事は高橋岩雄方に宿
せらるる。同日鍬ヶ崎被害地及び仮設病院を巡視せら
る。
◎東園侍従一行には樋脇警部長随行二十六日山田
に一泊せられ本日午後二時同町へ着せられ菊池長
七方に宿せられ直ちに鍬ヶ崎宮古等の被害地を始
め仮設病院を見舞われ明日は田老より各被害地を
順次に廻らせらるる由。侍従には鞋脚袢がけの軽
装なり大御心の辱けなきに感泣するもの皆然り。
◎当仮設病院へは日増し沿岸被害地より重傷患者
を送付し来たる。なお警察官の婦人一同は看護婦助手い
たしたき旨申し出たり。
◎南部家の慰問使江刺清臣氏本日着郡役所に出頭
せらる。
●訂正 工兵は災害地に出張して人夫を指揮し
号令厳明ために仕事の運ぶ事二?■なお本紙前号
に死体埋葬にまで従事すると掲載せしは全くの誤
聞に出でたり此に訂正す。
大海嘯大惨害救恤義捐人吊
一 金十銭 盛岡市呉?丁 砂子善吉
一 金五十銭 無吊氏
一 金七十銭 同三戸丁 高橋勘太郎
一 金三十一円 東和賀郡黒澤尻敷教育会
金二円 和賀高等小学校教員 佐藤竹治
金一円五十銭 同同 問屋三平
金二円 二子尋常高等小学校教員 蛇口大八
金一円 同同 今淵逸楼
金一円 同同 及川佐吉
金二円 滑田尋常小学校教員 小原文豪
金一円五十銭 黒澤尻尋常小学校教員 千田宮治
金一円 同同 阿部吉次郎
金一円 同同 小澤荘次郎
金一円 同同 平野嘉助
金一円 同同 軽石小一郎
金五十銭 同同 小田島べん
金一円 江釣子尋常小学校教員 渡邊泰助
金一円 藤根尋常小学校教員 工藤賢治
金一円 長沼尋常小学校教員 小原久治
金一円 後藤尋常小学校教員 小原三太
金一円 相去尋常小学校教員 高橋吉夫
金一円 六原尋常小学校教員 松田八百八
金一円 鬼柳尋常小学校教員 千枝謙治
金一円 北鬼柳尋常小学校教員 齋藤豊治
金一円 媒孫尋常小学校教員 及川忠兒
金一円 山口尋常小学校教員 問屋岩太郎
金一円 巌崎尋常小学校教員 竹村宗孝
金五十銭 同 大内榮七
金一円 黒巌尋常小学校教員 藤原運七
一円 平澤尋常小学校教員 岩澤禮太郎
金五十銭 立花尋常小学校教員 櫻庭綱條
金五十銭 下鬼柳尋常小学校教員 阿部重夫
金一円 本郷尋常小学校教員 本堂力次郎
小以金三十二円三十銭
最初より通計金四百四十五円二十七銭七厘
◎訂正 一昨日掲載義捐者姓吊中女■宗とある
は女鹿宗の誤?。