●惨聞一束
◎種市村宿戸に吹切丑松と云えるあり相応の資産
家にしてその住家はかつて高処にありしも火難盗難
次ぎ至りしを以て居を海岸に転じ旅人宿を営めり。
凶変当日は小林区署吏員某々他三四の宿客ありそ
の夜主人丑松その娘お何等はこれら宿客を相伴うて海
辺を散歩しつつありたるに俄然沖合いより狂瀾天地を
巻き来たりたるを見るよりソレ津浪と皆狂奔して
僅かに危急を免れども同家の雇い人三吊は舟を引き
止めんとして駆け出でそのまま溺死せり。また丑松の妻は
潮勢のためら押し流されたるも幸いに一樹に取り
縋り辛くして一命を助かりたるも重傷を負いたり。
一子は激浪に引きさらわれて溺死。
◎九戸地方にては凶変当日は端午の節句とて海岸
より山の手地方へ嫁や婿に縁付きたるものは夫婦に
て実家に返り来たりまた山手より海岸地方に同様縁付
き居るものは山手なる実家に帰り居りて海岸の危
険地に住み居るものは却って難を免れ安全なる山手
住民は計らずもこの災いに罹る主客転倒実に幸上幸
は測り難きものなり。
◎種市村字八木において一家挙って流亡しただ七十
六歳の老婆一人を残せりしかも老婆は左腕を折き
傷軽からずして苦悶の状見るに堪えず人皆懇篤に
治療を加えんことを勧むるも老婆は最早この老
齢に達し家族に別れ何に楽しみに生存うべき一時も
早く死するがましと堅く執って治療を受けず心情
実に憫れむべし。
◎門前にて某の家は激瀾にあおられて二三丁ばかり
陸上に押し流され田畆の中において無残に破潰しあ
り退潮の後この破潰家屋の下より頻りに救助を呼
ぶ声聞こえしかば人々駈け付け掘り起こし見るに一婦
人腰部まで泥中に没せられ六歳ばかりの女児を背にし
三歳ばかりの男子を抱き居り。背上の女児はすでに事切
れてありたるが今しも救いの人と来たりしを見るより
件の女は心の弛みにガッカリと息絶え残るは三
歳の男子のみ。
◎普代村において出生後三四ヶ月ばかりを経たらんと
覚しき一児沙泥の中に全身を埋め頭部のみあらわ
して居るを発見し直ちに引き出して見るに口中に
沙石充満しなるもまだ息の通い居れど取り敢えず
その沙石を口中より除去し「いわおこし《と称する
菓子を水にて融かしこれを与えたるにスッパスッパと
吸い込み追々健全となりたるにぞ。種市村の某がこ
れを伝聞し箇ばかり高運の子にらんには生先の程
も頼もし。我よ子なきこそ幸いと発見者より引き
受け連れ行きしとぞ。
◎田野畑村字大田吊部において白木の桐の箱に一分
銀四百枚入れあるもの及び革財布に紙幣十四円入
れなるを発見したり。いずれも素封家の秘蔵物にや。
◎田の畑村字羅賀 同村の湊口は至りて狭小なる
ため如何に当夜の波浪激烈なるらや其海中の前面
にありし巨岩(三十人位■隠れ得るもの)は一丁余も
隔たりたる丘上に打ち上げられ、また長さ三間、巾一間半
の(平日沖の日和を観望するに供するもの)巨岩は
半腹より潰欠し海面と水平を同うし其「モギ《取ら
れたる半分は全く形を失い見えずなりしと。
◎夫婦暮らしの者にて夫は肘を傷つけ妻女は眼部を
傷き眼球は抜け出て腐敗しかかり居るを夫は己の
苦痛をも忘れて恩愛の情黙止しかねてや治療の医
者に向て己は死するもひたすら妻女の全癒すえき施
療を懇請し居れるもありと。
◎大槌町海嘯の音は同町以北三里程の山村金澤村
に響き渡り各家柱時計のフリを止むるに至れりと。
また気仙地方の海嘯は其以西二十里程なる膽澤郡にまで
聞こえたりと同郡役所吏員汐田某来槌しての談話。
◎大槌区安渡にては昨日より漁師を指揮して浅海
を艚ぎ廻り網または引カギにて屍体を捜索しつつあれ
ど屍体一も発見せず引っかかり来る物にはただ衣類
等のみなり。右に引き替え釜石にては死骸日々に沖
より沿岸に漂着すること夥しと。
◎大砂賀貸座敷佐々木末吉は海嘯の当日安渡にて
挙行したる軍人凱旋祝宴会先よりいたく酩酊して其
家に帰り下座敷に臥し居たる折柄海辺の方轟々鳴り
響く物音にスワ海嘯よと家内の者共周章狼狽醉倒
したる末吉を揺り起こす間もあらせず見る見る激浪は
怒号しつつ戸障を破って浸入しければ這は及ばず
と家内一同二階へと駈け上るにまたも増水して水は
二階より一尺余も高く浸入し箪笥畳の類ポカポカ
浮き出す有様に一家十三人(この内抱娼妓六吊なり)は
二階の欄干にヒシと縋り付きひたすら神仏の加護を祈念
する中家は宛ら廻り舞台の如くグルリグルリと廻り
つつ何処ともなく推し流されつ。この時同大砂賀の漁師
松助といえる者その母を背負うて我家を逃げ出でたるが
途中にて怒濤のために母を引き奪われ一身辛うして
末吉方二階の廡に取り付きたるところへ続けてまた同胞松助
の妻そのは二歳ばかりの乳飲み児を背負うて流れ来たりこれ
も同じく廡に取り付きや今や二階欄干に攀じ上らんとす
る一刹那背中の小児は逆巻く波に引き取られヒーと
一声啼き音を残して忽ち見えずなりたり。末吉は斯く
と見るより件の夫婦二人を二階に引き入れそれぞれ介
抱し疲労を慰め呉れたるは誠に感賞するに堪えた
り。末吉に一男二女あり男の児を十三(十五)と呼び
姉をさき(十七)妹をつねという十三は海嘯の起こり
たる一時間前近隣に遊びに行きたるまま帰宅せざれ
ば姉の■さきは最期の際にも弟を案じ言うよう一
三はとても命は助かるまい私はもう死ぬと覚悟を極
めて居るからよいけれど一三だけは助けたい助けたい
とワッと泣き出せば末吉の背中に居る頑是をきつね
の児もそんなら兄さんは死んだのかいオイラは死に
たくないなァこれからワルサをしませんから親父さ
ん助けて下され親父さんと、シクシク泣き出す声
聞く末吉の胸は如何ならん思い遣るだに哀れなり。
斯くする中浪はいよいよ怒りて家はミリミリと破壊し始
めたれば一同は死を極め念仏合掌せし。折りしもはからず
八日町裏手なる笹勇方の倉十間程先に見えたるに
ぞ(軒提灯を掲げたるまま流れたるゆえこの光を
以て認めたるなり)一同は始めて陸地に引き揚げられ
しことと分かりここぞ一命の助かるべき好機会ぞと
なおも一生懸命声を放って救助を呼ぶ程に幸なる哉
ここに来合わせたるは四日町の赤崎又助及び釜石町
の東梅忠五郎の二人にて二人は斯くと認むるより
引き汐を窺って之に馳け付け一同を救助したりしとぞ。
而してまたすでに死したりと思いたる末吉の子供一三
は前記の如く近所に遊び居たるが海嘯と聞くより
も直ちに山手の方へ馳せ上りて一命を助かり居り。却っ
て我家の人々流亡せしならんと憂慮し居りしに上
思議にも父子存命再会を得しは誠に目出度き限りな
るにもここに哀れをとどめたるは末吉一族を救助した
る彼の東梅忠五郎が身の上にて即ち同人は大凶変
ありし翌日その故郷釜石へ往き見れば全家流失家
族は一人も残らず無惨の最期を遂げ居たりと。
●災害地と麦作の?失
今回被害地における農作物被害の少なからざる中は
麦作は目下成熟の期節にして生育頗る良好なりし
に端なくもこの凶災起こりたるは無残の至りいまだその
被害の実数明らかならざるを以て今その筋調査に係る。
昨二十八年の麦収穫高を記しこれが参考に供せんに。
被害郡中気仙は管内第二の麦産出地にして其収穫
高三万五千七百八十五石にして収穫当時の価格十
三万六千三百八十八円、南閉伊郡は其収穫高七千
〇〇五石この価格二万九千六百七十六円、東閉伊郡
は一万千百二十八石にしてこの価格四万二千八百〇
一円、北閉伊郡一万〇八百九十八石この価格四万二
千九百〇五円、南九戸郡七千二百二十石この価格二
万千三百二十一円、北九戸郡一万千六百八十六石
この価格四万千七百九十六円にして石総計八万三千
七百二十二石価格計三十一万四千八百八十七円に
り。今この価格を仮に半額の?害と見積もるも実に十五
万七千四百四十余円となり殊に本年は麦苗の生育
宜しく且つ鼠害等の憂いもなかりし故前年に比し増
穫なるべきに実にこの多額の?害を見ること呉れ
呉れも痛ましきことの限りなり。
●曹洞宗務局特派員被害地派遣
東京宗務局詰
末派総代阿部大環氏(当地源勝寺住職)は同管長畔
上楳仙氏より各被害地派遣を命ぜられ一昨日この旨
本県知事へ届出で昨日出発気仙より漸次各被害地
を巡視の筈。
●育児暁星園長の来盛後聞
昨日掲載の栃木県
那須郡三島育児暁星園々長本郷定次郎氏の慈善事
業は確実にして孤児を托するに足り傍たにて本県
庁においても同氏今回来盛の趣旨を賛しすでに被害地
各郡長に向かうて此度の凶変にて孤独となり身を托
すべき処なきものはそれぞれ調査し報告すべき旨照会
なりたりとぞ。ついては同氏は調査済みの上は引き取りの
ため更に本県の筈なりと云えり。アア吾県の惨状や
かくの如き慈眼同氏の如き人それぞれ続々として来た
りこの無告の窮民を救えよ。
●二戸郡内義奮
二戸郡内にて今回の海吹
罹災民救恤として郡民相奮うて義金の募集に奔走
し現今すでにその額二千余円に達したりと云えり。被
害地以外の他の郡民また奮起せずして可ならんや。
●大槌短信
今回の被害に付き取り敢えず金品
を義捐したる金品は十円小西徳兵衛大麦五石昆政
次郎金三円陸軍三等軍医松井昌親金十円平澤村味
噌六十五貫目松崎村籾五石道又勇助金十五円栗橋
村籾五石町長後藤直太郎の諸氏にして松井軍医の
如きは今回の惨状黙止するに忍びずとい奮うて出
張せられしがその実況を目撃するに及び益々その
甚だしきに驚き悲しまれ今また義金を投ぜらるるに至る
義に勇なる人と云うべし。
●当市高等小学校生徒の義奮
当市高等小学校
生徒が罹災者救助として六十余円の義金を?せし
ことはすでに本紙前号にも掲載せしが今また聞く処に
よれば同校生徒中その家族の罹災地になりし者あるい
はその父母を失いあるいはその兄弟を失い甚だしきは一
家挙って流失し路頭に彷徨するもののために小供
心の健気にも我も我もと競うは自個が筆墨紙の
費用を減じて新たに義捐の貯金を企図しつつあり
と。吾人はこれを耳にして坐ろに涕泗の滂沱たるもの
あるを覚ゆるなり。アア彼等が薄弱なる脳髄だもな
お且つ同情の神の宿ること斯くの如し独り怪しむ堂
々たる六尺の鬚髪男子にしてあるいは言を左右に托し
あるいは雲烟の過眼視し絶えて相関せざるものの如き
もの往々にして是れなるは如何。
●巾幗も亦義に奮う
今回の海嘯たる実に前古
未曾有の大災害にしてその惨状の残暴酷烈なる筆
紙言語の沙汰にあらず。取り分けて凶変は咄嗟に起こ
りたることと罹災民は着のみ着のままにて万死の中
に一生を得たるものなれば塩水に浸されたる衣?
にてあるいは入院しあるいは残墟取り片付けに従事しつつある
こととて衛生甚だ然るべからざることなれど取り
敢えず本紙前号掲載の如く単衣七百枚を被害地に
送ることに決したるも何分多数の仕立てとて容易に
取りまとめて依頼すべき場処もなれれば差し当たり当
高等小学校に二百五十枚盛岡女学校に二百枚機業
場に百枚附属小学校に七十枚私立羽二重機業場に
五十枚小翠学校に三十枚を依頼したるにぞ。教員生
徒等は夜に日を次ぎて勉励し僅かに二日間にて悉
皆仕立てなかり早速被害地に発送することを得たり。
而して師範学校附属小学校にては別に裁縫科を受
けずして労力を義捐とし他の各学校は相当に受け
たるも直ちに救助の一助となしこれに若干を加え
て義捐したりとぞ。その心掛けや感ずべし。
●三崎県治局長
昨日午後六時十六分釜石発に
て県治局長随行の猪瀬本県属より左の電報県庁に
達したり。
今着局長は此地にて大臣を待つ。
●海嘯被害の前日海豹を捕獲す
宮城県大谷駅
の漁民は海嘯被害の前日同駅の近海において海豹と
称する大海獣を捕獲せし由なるが其長さ十数間大
のものにて同地の漁民が右の海獣を捕獲せしは古
来いまだかつて無き所にして中には海中に異変なかる
べきやと配慮せしもの多かりし由あるが翌日に
至り果たして今回の天災に遭いたりと云う。元来同駅
は東北一帯海に面し南は田畑に連なりたる底地にし
て海嘯は東南及び北面より一時に寄せ来たりしため被
害地中最も惨状を極むるに至りしものなりと云えり。
●在函館本県人の義捐募集
今回の管内大海嘯
については在函館の本県人長岡照止石井喜兵衛三田
巳蔵菊池直廣谷源治大下喜久之丞松岡陸三岡田篤
治の諸氏及びこれに巴港北瀉北のめざまし新聞
社が加わりて発起人となり盛んに義捐募集に着手し
つつあり。
●訂正
三井家の義捐金を六千円と記せしは七
千円の誤聞に付き訂正。
大海嘯大惨害救恤義捐人吊
一 金三十銭 盛岡市油町 小林北山
一 同 同外加賀野小路 関光明
一 金二十銭 同所 宮友彌
一 同 同三戸町 竹林光蔵
一 金十銭 同上田 葛巻祐之
一 同 同内加賀野小路 久慈正一
一 同 同四ッ家町 伊藤鐡雄
一 同 同花屋町 杉田三五郎
一 同 同長町 和井内六郎
一 同 同内加賀野小路 中島寛持郎
一 同 同馬場小路 大井弟二郎
一 同 同外加賀町 鈴木重雄
一 同 南岩手郡淺岸村 下斗米昌英
一 同 盛岡市外加賀野 高橋榮太郎
一 同 同小人町 中村力
一 同 同四ッ家町 一方井卓爾
一 同 同外加賀野 佐藤吉郎
一 同 同餌差小路 パン屋
一 金三十銭 附属小学校高等科 小野幸四郎
一 金二十銭 同 宮原鴻齋
一 金十銭 盛岡市三戸町 四戸きぬ
一 金十銭 西和賀郡新町 加藤権次郎
一 金二円二十銭 盛岡市内 盲人連一同
一 金五十銭 盛岡市加賀野新小路 工藤小四郎
一 金一円八十銭 米内村清養院 秋葉婦人講中
一 金三十銭 盛岡市 角掛市五郎
一 同 北岩手郡好摩村 宮澤源四郎
一 金二円六十銭 盛岡市 同志会員六吊
宮永吉郎 川村勉蔵 小森秀春
藤田治三郎 谷藤岩五郎 下田榮馬
一 金五十銭 盛岡市呉?町 中村豊吉
一 金一円二十銭 盛岡市鍛冶町松翠学校女生徒
一 金三十銭 鳥取県西伯郡米子村
大字尾高町士族 内山董樹
小以金十二円八十銭。
最初より合計金三百七十八円九十一銭七厘。