●災害地出張日記 (第六回六月二十三日盛町において) 特派員 日戸勝郎
◎吉濱、綾里、越喜来諸村は魚類多くしてこれ
を以て生活を立てる村落あれば盛町に到り魚類を交
換して種々の物品を購入し帰る習慣なり。然るに今
回の被害にて諸村悉く荒廃したれば自ら盛町に大
得意を失うに到るなり。今回の海嘯は盛町幸いに免
るるを得たるも得意を失うに到っては間接に海嘯の
害を被る大なるべし。
◎被害せる此憫れむべき人民は今や棲むに家なく耕
すに地なく頼むに財産なし。さればこの地に在りても
生計の立たざるよりいづれ北海道になりとも出稼ぎし
て身を凌がんと志す者もありと余儀なしとは云え
その心情もっとも憫れむべき者に非ずや。
◎福島より赤十字社員三吊ニ師団より軍医七吊看
護夫十五吊気仙に向て来たり診るもよし被害地もと
より医師その人に乏しからざるべしといえども吾等はかか
る地に経験ある人の来たり診せんことを望む者なり。
◎ニ師団より工兵一小隊墟形付けのために被害地気
仙地方に向かい来るよし。
◎唐丹、赤濱、越喜来に盛町役所より四十石送り石
巻より百五十石東磐井より五十石当地方に送るよ
し。而して盛町にてこれを各地に分配する由あり。
◎当地方負傷者は仮病院あるいは私宅において療養し居
り医師も兎に角間に合わぬにあらねども薬品の上
足には閉口し居るよしなり。
◎気仙郡役所の御用達出羽屋虎吉なる者は郡役所
より莚買い上げんとて相談せしに物品を蔵得し以て
高価を貪らんとせるよし。是れ当郡役所出張員より
聞きたる直話なり。
◎磐井より人夫五十吊江刺より五十吊当地方へ来たる。
◎赤十字社員は当地方被害地人民に非常の歓迎を
受け赤十字の旗翻るを見れば人民地に伏して治
療を乞う者陸続として集まる。
◎世田米村長泉田健吉氏は災害の翌日直に義捐金
百円持ち来たりて寄附しニ三日経てまた百円持ち来たり
この回の災害には熱心尽力し居れり同村助役はまた自
ら五十人の人夫を引率して来たり而して一日金一円
宛の賃金を与えて一週間隣村被害地に寄附したる
よし。食料も自ら携帯して世田米義捐の旗を押し立
て各村を巡るなり。
◎盛町東雲寺千葉文三氏は災害の晩より各家を経
巡して米三石を自費にて買い求め被害人民に寄附
したるよし。
◎当郡役所構内に設けあり救恤義捐事務所に寄
附したる分は県庁と新聞との他に在る者にして即
ち左の如し。
六月十七日一金百円 世田米村有志者
六月十八日一金五十円 立根村
六月十八日一金二十円 気仙村上野英俊
六月二十日一金百円 板垣政徳
六月二十一日一金五円 安部芳吉
六月二十一日一金百八十三円五銭 猪川村
六月二十一日一金六十円 横田村
六月二十一日一金四十一円白米八石玄米一石 盛町
◎大船渡村長大西平太郎氏は災害の日百人ばかり救
助せし上に自宅において治療施薬せしが今日まで(
二十二日)に七人ばかり倒れたり。同人の話に傷受けし
者は助かれども水呑みし者は多く死せり様なり。
◎同村長の話に当日は自分の船を出して翌晩より
屍体探さしめしに前夜即ち災害の晩は海中濛々
の中に彼地此地に悲鳴の声聞こえし故必ず多く死体
を見い出し得んと期せしに人夫の中に船中の物品を
盗み取りてその船を絶ち流したる者あり切角の
苦心も為めに水の泡となり了れりと遺恨に物語れ
り。
◎嘉永年間の海嘯には盛町大船渡村の田畑にまで
揚がりしがその時に水は茶碗中の水を左右に動揺せ
しむるが如く静かに押し来るのみ。然るにこの度は水
捲くり来たりてその勢いの猛烈なる中々に嘉永海吹の
比にあらぬなり。想うにこの回の海吹は海吹に非ず
して必ずいづれの地においてか海中の箇所に破烈を来た
せしに相違なしと大船渡村長は物語れり。濤の高さ
は大船渡辺は三十尺位ならんと云う。
◎総ての出張員いづれも優劣なく働き居れども殊に
目醒ましきは赤十字社員にして夜旅宿に来たり衣
?を着易えもせず冷飯を食いてそのまま縁側なり台所
なりと転臥し十二時頃また災地に向かうなど人民の神
の如く脱?するも無理ならぬなり。
◎当地方は石炭酸上足なりとて盛岡に電報打た
るよし。またこの辺気仙地方は到る処山坂のみな
れば運搬上にも困難し居れり。
◎此回の流亡家屋中に天井無き処の家人は皆屋根
を突き破りて上に登り依て助かるを得たる者多し。さ
れば海吹予防として余儀なく将来海浜に家を結ぶ
者は天井を作らざる方が可なりなど語るもあり。
◎兎角災害地は沿岸距離長延する故に巡査の配置
も間に合わず従って盗賊の横行し残墟を掻き廻して
物品を持ち去るものなるにて始末付かぬと警部等物
語れり。
◎末崎村辺は人夫百五十人もあれども彼地此地よ
り日々傭われ来たりその日にまた家に帰る故その間の働
き時間は二時間位なり。むしろ五十人なりともその地に
滞留し居る人夫なれば朝より夕まで使い得る故却っ
て都合好し。然れども斯かる人夫甚だ少し。
◎人夫の使い方如何を問いしにまず倒家を発掘し
てその中より死亡人と財産を探し出しそれより雑物
を焼却せしむるよし。
◎前報に気仙郡の死亡流失表を贈りしが其は実際
に付て調査したるに非ずして戸籍上に付て総員
を見それより残民を差し引きしてその数を算せしなればな
お実際を査す時は他より寄留したるものあるいは出稼ぎ
せし者にも多きし由なり。されば末崎の如きもすでに
前報六百六十人より八十二人を増したりと。
◎二十二日盛町に滞留して一戸警部が大船渡村末崎
村の二個災害地に向かうに伴い朝日新聞の横川と共
に巡視しぬ。途中多くは磯路にして岸を噛むの海波
は穏やかに漣打つのみなれど波上今に大なる屋
根を浮かべ幾千万の材木を揺り廻して坐ろに当日の
偉観は想像しぬ。
◎牛馬の死体半ば海面に浮かび出る者数頭風に異臭
を送られて鼻掩はずんば通り難し。路傍の人夫あるいは
巡査に聞くに海中材木の下を探ればなお幾多の
死体を発見し得べきに似たり。然れども働き手足らざ
るより今は陸上の掃除に尽力するの外なしと。なるほど
陸上は上束ながらも道路開かれ家材も片端より取り
片付けてあり。
◎災害地善後の処分についてはもっとも世間の注目する
処なれば災地出張の吏員警官及び郡町村の役員諸
氏力を尽くして一日も成効の速やかならんことを期
図し気仙地方と閉伊郡とは自ら競争の観を呈し気
仙郡方面の吏員等は釜石その他の地方が能く整頓し
居りし由あるが当郡は余り行き届かぬと遺憾がりまた
釜石方面の人は気仙郡は左程の事もなかるべき吾
地方の被害甚だしきに比して人夫世話人の上足には
閉口なりと互いに自ら罵れり。されぞ気仙地方に出張
したその残墟を見同行の警部某に向かって能く斯
くまでに片付きたしと云う時に彼は満腔の歓喜を以
て余の言を迎えたり。余は親しく各地を巡回して諸
氏がその職掌に熱心なるを謝するなり。
◎昨夜十二時より山越して足は棒の如くなりしと言
うもあり昨日は一向に寝られぬとて目を拭いつつ
叱咤するもあり。なんでも自分の受け持ち区は他に譲ら
じと競争する処ば災害地の人民に取りて幸なる事
なり。
◎事もとより急迅には行かぬ者なり急迅にせんとすれ
ば必ず粗雑にせざるを得ず今回の事豈容易にニ
三ヶ月の短時間を以て処分を終わり了すべけんや。
人民は寄る辺無なき捨て小舟となり彼等に向かってその将来の
処世如何を問えば彼等は何の思慮も之れ無き如
くいづれ御役人がドーかなさるだろうと答うるのみ
言の簡単ある中に無限の絶望を意味し而して此絶
望を挙げて尽く所謂御役人に一任して亦疑いを容れ
ざるを見る人民の心情むしろ憫れむべき非ずや。さ
れば御役人たる者ここにおいて自己の責任は現在の残
墟取り形付けと目下の救助のみ止まらずして此上幸
人民の生計を双肩に負担するの余儀なきに到れり。
災害沿岸の地は皆漁業を以て家を立つより今日
に到るまでこれがために本県の経済を■うせしこ
て幾許ぞ一朝今日の災害に罹る本県経済の?失
少々ならさせるなり。
◎今より三年間も立たぬ間は奮の如く漁業を専らに
する能わざるべし。もし漁業を事とせざれは彼等は
何を頼んでこの惨余の地に永滞すべけんや人民にして
此地を去らばこれ知りつつ将来漁業の利を失う
なり。今や遠洋漁業盛んなるに当たりて沿岸此上幸に
逢うもし江湖有志之れか扶?を図り呉れずんは遂
に此巨利の実業を挙げて水泡に委する外なかるべし
今において講する処のもの此人民をしてこの地に永
住せしむるの策に過くるなし。
災話片々
◎末崎村のある家流亡せし時家族六七人皆死せしが
中にニ三歳の小児は布団に包まれしまま一度は波浪に
持ち行かれしも再び波に送られ来たり他の縁側
の上に坐り居りしと。人の運命は奇体なるものなり。
◎また一人あり当日疲困して「グッスリ《寝込み居り
しが海吹の吾家に来るも知らず家の破潰して自分
か外に吹き揚げられしも知らず寝たるままにて樹影
に打ち伏し居れり冷気身に徹して覚め来たれば即ち此
の体裁なるに自ら驚きたりと。
◎末崎巡査駐在所にては山口巡査が一人残りしの
みにて家族一同を殺したる処なるが同所は家の縁
側直ぐに海に瀕せし処なれば同人は確かに見たりと
云うを聞くに始めはただ大雨の音甚だしとのみ聞き居
たるに余りに激しき故障子を開き見しに縁前の水
退くことの急甚なる目にも止まらぬ凄まじき勢いに
是れ海吹相違なしとて直に飛び出しがその間一切
夢中なりと。
◎高田の写真師千葉俊二郎氏及び一の関同業者共
に来たりて末崎辺より写真取り始め居れり。
◎大石村の上野與惣治氏は残家四十戸の人民を引
率して毎日海上を巡視し唐丹湾内を探索し死体を
発見し居るよし。もっとも此人は平素慈善の聞こえ高き人
にて此回の費用も大石全村にて負担するよし。され
ばこれを義捐寄附に加入するよし。
◎小友村の医師高橋氏は自宅に病院を開いて妻をし
て看護せしめ居れりと。また今泉の医師大枝氏は高橋
医師を助けて治療し居るなり。而して高橋氏の宅を
ば赤十字社の仮病院となせり是れ敢えて赤十字社の
薬品その他を仰くに非ずして単に赤十字の信用を
仮りて人民を救済するなり。
◎小友村は学校長遠藤政記氏は看護長となり教員
は皆看護士となりて働き居ると職掌換えもまた時節の
然らしむ処いづれも諸氏の労察せらる。
大船渡の某店に休憩する時に当たりて図らずも本社
の会計員栃内氏に逢えり。栃内氏は言うまでもなく
その実況たる山口巡査を訪い見舞い且つ同巡査と共
に末崎駐在所に在りし親父の屍体を捜索するため
なりけりただ吊意を述うる外なかりし。
◎余の此行も一は山口巡査を見ん為めの巡回なり
れり。よって栃内氏が盛町近傍に到らんとするを止て
再び路を返えして余等の一行と行きぬ。すでに末崎に
到るに向かうより人夫を引率して此方に来る者あり。隔
つること町余顔目もとより判明せざれども余は一見
したその山口巡査たるを知れり。相逢うて互いに驚き且
つその無事を祝す横川氏もまた同巡査と応知人たり。劈
頭遭難の顛末を問う山口氏は前面に土塊崩れて海
となる処を指して曰く此は即ち余が遭難の場所に
して駐在所の在る処たり今や斯の如しと喃々して
当時を説く実況目に写りて毛髪慄然なりし。
余は何事も言わずただ同人の顔色を見詰めまた些か
に容態の如何を問いしに彼は元気強く甚だ壮健な
る旨を答えり。
◎当時生命さえ覚束なき場合なれば官?はもちろん簿
書も殆んど失いたり去る故に身には巡査?を着くれ
ども頭には麦藁帽を戴きて剣をも佩びず働き居れ
り。もとより斯かる場合格式に拘泥すべくもあらず却っ
て氏等が斯の如く平生にも?して勇ましく奔走す
るを喜んで見たり。同巡査もまた死屍運搬の任を終わって
余等の行を追って末崎役場らしき処に到る。
◎ここに佐土原警部もあり人夫数人居り赤十字の記
章附したる快活たる医師もありまた末崎村長も来たり
会せしかば互いに実験談を説き出して休息二時間に
及びぬ。諸氏意昂がりて膝の進むを覚えぬ。是れもとよ
り変事を喜びしには非ずして変事のために自己
の身心激刺しあるを知らざるなり。
◎其れより応路をまた盛町に帰りぬ。帰れば隣室騒然と
して万朝、都、中央、国民諸新聞の記者来たり投宿す
るなりけり。当日はなお出羽屋に東京日々の佐伯氏
三田常置委員と共に投宿しまた街端櫻亭には昨日同
行せし時事の都鳥氏を他に同新聞社員もありしこ
となれは横川氏が余と加えて都合九人の記者を盛
町に置きたりしなり。この中中国民記者松原氏は大舟渡に
身心の疲労を慰し翌朝盛に到れり郡役所及び出張
員等は忙殺中にも出来得るだけ諸氏のために便を与う
へし。
◎早朝三田義正氏草鞋を着けて余等の寓を訪ぬ曰く
常置委員の資格として綾里その他気仙全郡の災地を
廻るなりと。
◎本月二十三日は東園侍従一行臨ませられまた県治局長
も来たらるる由にて盛町は朝より国旗を家々に掲げて
これを迎えり。またこれについて事務所の多忙一方から
ぞ郡長始め皆草鞋を着けて部署出張の相談せり。
●イーストレーキ氏
在東京博言博士同氏は本
邦駐剳米国公使の代理として昨日来盛県庁へ出頭
村上参事官に面晤したるが右は今回の事変に罹り
釜石地方において行方上明となりし米国宣教師ワイ
ルド氏そに当市四ッ家天主教宣教師佛国人アン
リールスバル氏の死体捜索のためなりと。なお同氏
は青森県下八戸より本県下久慈迄の間を実地探検
せしも発見せざりしとの事なり。