大海嘯大惨害義捐金の募集
今回管内南、東、北閉伊郡。気仙。南、北九戸。
各郡の大海嘯たる人命を害うこと実に二万
二千有余全町村覆没流離その形跡を留めざ
めるものまた少なからず。幸いにして万死の中一生
を得たるものもあるいは傷痍に悩みあるいは飢餓
に迫られ鰥募孤独その恃頼する処を失い居
るに家なく食うに食なく着るに衣なく悲
惨の極酸鼻の至り実に前代未聞の大事変
に属す。いやしくも帝国臣民たり同胞たる者は
豈袖手傍観するの秋ならんや。いわんや同一
の治下にあり同一の県民たるものをや奮
うて賑恤扶助の事真に剥下焦眉の急務た
り。本社自ら揣らず率先もって義金募集の労
を執りいささか同胞相恤の微旨を徹底せんと
す。仰ぎ願わくは大方慈仁の諸氏切に此挙を
賛成せられ多少に関わらず続々義捐あらん
ことを。即ち義金募集の手続きは左の如し。
一 義捐金額は各自の随意たるべき事。
一 義捐金募集の期は来たる七月十七日迄
とす。
一 義捐金は義捐者の姓名とその金額と
を本紙に掲載して受領済みに換える事。
一 義捐金は一括して本県庁に配付の取
扱方を依頼する事。
明治二十九年六月十八日 岩手公報社
●被害地通行案内表
今回本県下沿海海嘯被害
地の実況視察のため来県の諸氏は左の停車場より
下車せらるる方便利なり。
気仙郡盛町附近
(其一)一関停車場下車気仙沼街道筋宮城県気仙
沼を経て気仙郡に入りそれより気仙郡盛町に至る。
此里数およそ二十三里(一関より気仙沼に至るおよそ
十三里間は人力車通ずるのみ他は馬背による)。
(其ニ)水沢停車場下車岩谷堂町世田米村を経て
盛町に至る。此里数およそ二十一里(水沢より大股までおよそ
十二里間は人力車通ずるのみ他は馬背による)。
盛町より釜石町まで此里数およそ十里半(此間馬背による)。
南閉伊郡釜石町大槌町附近
花巻停車場下車遠野及び仙人峠を経て釜石町に
至る。此里数およそ二十四里(花巻より遠野まで十二里
余は人力車。遠野より甲子村大橋まで六里は馬。大
槌橋より釜石まで五里余は馬車鉄道による)。
釜石町より鵜住居村を経て大槌町に至る此里数
およそ三里半(馬背による)。
東閉伊郡山田町宮古町田老村附近
盛岡停車場下車宮古町に至る此の里数およそ二十八里
(人力車通ず)。
宮古町と山田町に至る里数およそ五里(馬背による)。
宮古町と田老村に至る里数およそ四里(馬背による)。
北閉伊郡小本村附近
盛岡停車場下車岩泉村を経て小本村へ至る此里
数およそ二十六里(馬背による)。
南九戸郡久慈町附近
(其一)福岡停車場下車大野村を経て久慈町に至
る。此里数およそ十五里(馬背による)。
(其ニ)八戸停車場下車大野村を経て久慈町に至
る。里数およそ十三里(八戸より大野まで八里間は人
力車通ず■その他馬背による)。
●釜石通信(六月二十二日発)
◎死骸取り片付けの状況
這回の海嘯のため釜石市
街において死亡したる遺骸は累々として至る処に散
在し傍より腐敗して甚しき悪臭を発するを以て速やかに
之が取り片付けを為さんと欲せしも全市街の被害
なるがため人夫とては一名も無之十六日より十八
日までは遺族者または親族の者にて三百五十名余の
死体を取り片付けたるがしたいの大部分は家屋または木
材の下に埋没しあるがため之を発掘するに頗る困
難なり。よって十八日は遠野町消防夫百名ばかりにて死
体の発掘に従事し翌日よりは他郡村の人夫一千余
名にて死体を発掘し傍より之を公葬墓地に運搬せ
しめ本日まで外部に現れたる分千余は取り片付けた
るもなお泥中または木材の堆積らる下には多数の死体
あるべくそれ等らは目下発掘中。
◎釜石町大字平田嬉石松原等においては遺族者及び
被害なき地の住民にて日々死体取り片付けを為し居る
も今に埋葬済にならず目下取り片付け中なり。
◎鵜住居村にては遺族者親族並びに被害なき地の住
民と栗橋村の人夫とにて十六日より死体の取り片付
けに従事し昨二十日までに陸地にある死体は悉く
埋葬せり。
◎大槌町の内大槌小槌安渡等においては遺族者及びその
地方並びに他郡村の人夫にて死体の取り片付けを為し
十九日までに陸上の死体を悉く埋葬したるも吉里
々々の分は目下取り片付け中なり。
◎生存者救助の状況 釜石町の生存者は被害の
翌日より釜石尋常小学校及び石應寺に避難せしめ
田中製鉄所及び村井辰五郎の所有米を給与し負傷
者は釜石町及び甲子村の医師をして治療せしめ翌十
七日よりは赤十字社派出医と共に治療しつつあり。
鵜住居村及び大槌町の生存者もそれぞれ救護しあり。
●小友村通信(六月二十二日発)
◎本村海嘯被害今日までの調査に係る統計表は左の
如し。
一 流失戸数 五十四戸 一 破壊戸数 十三戸
一 土蔵流失 五 一 浸水戸数 十一戸
人死亡二百三十人 男七十八
女百二十五人
同負傷ニ十九人 男十二人(重十五人)
女十七人(重十四人)
(村吏一名、村会議員一名、小学校教員一名)
馬死 二十頭
船流失 三十六艘(魚舟)行方不明
橋梁 十一ヶ所 堤防流失浸水千三百間
道路浸水 千四百間 田浸水 七十五町歩
畑 同 五町歩
宅地 同 二町歩
被害流失遺族へ救護として寄贈金品左の如し。
寄贈品名 寄贈者氏名 寄贈品名 寄贈者氏名
丸飯 ●島村清左衛門 白米一石 高田町
同 ●金澤佐左衛門 草鞋百足 佐藤治右衛門
同 ●金澤卯右衛門 籾 五石 ●戸羽中徳
同 ●戸羽中徳 人足四十人 横田村役場
同 ●佐藤和平 同 二十人 日頃市村役場
同 ●華蔵寺 味噌一石 ●荒川田泰一郎
漬物四桶 小友村有志婦人 玄米一石 ●及川譲之助
梅漬若干 ●松平秀憲 精白稗五斗 ●荒川田鶴蔵
金五円 ●佐藤淺治 玄米ニ石 ●金澤佐左衛門
玄米一石 ●華蔵寺 同ニ石 ●佐藤和平
丸飯 ●荒川田菊右衛門 丸飯 柴田又右衛門
味噌一石 ●荒川田菊右衛門(●印は小友村なり)
六月十五日午後八時ごろの微震あるや暫時にし
て轟々たる響きと共に怒濤山をなして来たる。アワヤと
言う間もなく激浪屋上を越え一瞬間にして人家潰
れ浮かび人畜其の間にあり其勢の猛烈なる譬うるに
物なし。次て来たる大浪に乗じ小坂を越えて陸上数百余
間の遠きに流失し人畜其間に無情の死を遂ぐ。ある者
は海中に流失しあるなり木材の下に潰さるるあり
道路に横死したる惨状目もあてられぬ其状筆
紙に尽くし難き次第にてありし。翌十六日村人夫総出
村吏の指揮を以て死屍の取り片付け家財の散乱したる
を纏め不用物は焼棄し務めて清潔に注意を要せし
も時節柄追々臭気を発し目下数百の人夫を以て諸
事取り尽くし中。また被害者遺族は災害翌日村倉より出穀
救護しその他別記調べの如く有志者より寄贈品あり
食糧欠乏等の憂いなし。なお負傷者の如きは当地佐藤
高橋の両医院において懇篤なる治療を受けつつあり。