●南部伯爵来盛
当藩主従三位伯爵南部利恭君は今回の一大凶変
については旧君主の情宣殆んど寝食を忘るるまでに痛
心配慮せられ罹災民慰問惨況調査として昨日の下
り列車にて来盛。神子田の邸内に到着あらせら
れたるが御着の際には旧藩士の当停車場に御出向かい
として出張したるもの多く見受けられたり。なお伯
爵には取り敢えず一時御見舞いとして本県管内の罹
災民へは米三百俵。青森県内なる旧領罹災民へは同
百俵を恵与あらせられたり。なお承る処によれば伯
爵家家令嗣利祥君にも来月初旬を期し罹災民慰問と
して被害地方面を巡視せらるる由に承る。
●和泉艦の派遣
一昨夜因州網代軍艦橋立乗組の常備艦隊司令長官
坪井中将より本県知事に宛て左の電報ありたり。
遭難地へ救助のため軍艦和泉を送りたるに依り
救助の件は直ちに高木艦長と協議ありたし。和泉
は二十四日夕か二十五日朝は宮古湾へ着の筈。
●阿部佐藤両代議士
両代議士には昨日の下り直行列車にて来盛せられ
たるが阿部代議士は群馬県知事の職にあり県治務
上到底被害地視察の運びに至らざるべけれど充分
惨況調査の上帰任せらるべく。また佐藤代議士は南部
伯爵と共に専ら別項掲載の旧藩内罹災者救恤事務
所に尽力する趣なり。
●谷河代議士
谷河代議士は昨日当市出発。八戸を経て被害地各地各方
面を巡視する趣きなり。
●奈良眞志氏
休職海軍主計総監奈良眞志氏及び江刺清臣二氏は南部
伯爵と共に昨日の直行列車にて来盛せしが奈良氏
は宮古、釜石間。江刺氏は宮古以北をいづれも伯爵の
代理として本日出発巡視せらるる由。
●若槻大蔵書記官
には今回の凶変につき備荒
儲蓄金及び荒地等に関する用件を帯びて不日来盛せ
らるる由。
●栃木県医師出張
栃木県宇都宮共立病院副院長吉永峯九郎医師平松
厚之の二氏は今回の災害に特志を以て救護のため
昨日直行にて着盛三番列車にて花巻下車直ちに被
害地釜石に向け出発せられ県庁よりは澤田属同行
出張せられたり。
●遠野青年者の救恤
西閉伊郡遠野町にては今
回の津浪変災の報を聞くや直ちに山奈宗眞氏率先
して青年会なるものを設け青年者を手分けし町内各
戸に就■誘導し味噌あるいは漬物等を樽詰めまた莚包み
となし各店頭に出さしめ置き荷車を以てこれを蒐
集し直ちに被害地に向け輸送せりと。
●大学総長の発電
医学士六名他二名昨日直行にて出発本日午後着盛
の趣濱尾大学総長より本県知事に宛て電報ありたり。
もっとも着盛の上は医学士三名他一名は盛地方へ他医
学士一名は釜石地方へ向け出発せらるる由。
●惨聞一束
◎大槌町凶変当日は前号にも掲載せし如く軍人凱
旋祝賀会開会中にて花火等を打ち揚げ一同歓笑に
余念なかりし折りからの事とて当日の賓客にして敵
地において牽旗斬将の功を奏し勲八等の栄を担うて
勇ましく凱旋したる近衛歩兵一等軍曹佐々木留吉
海軍三等機関兵中村由太郎の二氏は無残や激波中
に形骸を没し去りたりとぞ。
◎吉里吉里において家族を挙げて流亡せしは田中駒吉
東谷半兵衛、三浦九右衛門、崎梅蔵、梅谷勘五郎、前
川コマ、岩間鐡三郎の七戸なりと云う。
◎小本村字小本に年頃三十二三の兼ねて妊娠中の一
婦人この凶災のために辛くして逃げ出でたるがそ
の途中において出産し母はその子の顔をも見ずに怒
濤に打ち上げられ赤子のみは?々の声高く山の中
腹にありしとはアア惨の極。
◎同村附近における激潮は八十尺に達したり。その
証拠は岩上八十尺の処に流失家屋の残留しあるを
認むればなり。
◎大田名郡の某数人の家族皆流亡し某独り免る。
而してその妻女は猛浪にもまれたるため面皮悉く
剥ぎ去りてその誰たるを知るに由なかりしも僅
かにその頭髪止に依りて妻女たるを知り泣く泣く
引き取りて埋葬したりと。
◎普代村の某水練に長ず激潮を避けて岸に至る水
中?々の声あり引き寄せて見れば出産後四五ヶ月
の乳児なり。救へ置きたるもその誰の子たるを知
るに由なし。
◎濱岩泉の某一家十三人の家族なり皆この凶変に
死す。独り長男某(十六七)一人牧馬の逃走せるを尋
ねんとして他処に行き居たりしを以てこの変を免れ
たれども全家流亡せしを以て帰来途方に暮れ啼き
居るのみなりと。
◎乙部田老村は両村にて家屋僅かに二戸を残して
その他は悉く流亡し生存者(漁猟者の遠洋にありし
もの無事に帰り来たのしものを合わして)七十名に
過ぎず同村医の説によれば負傷者は目下ヨシ余喘
を保ちあるも十中の八九は到底鬼籍に上るべしと
云へり。負傷者の多くは脳掀衡肺炎肋膜炎の類なり
是れその局部に甚した打撃を受けたるためならん。
加之傷部には悉く砂を注入しあり耳目口鼻皆然
らざるはなし。仮令探針を以て除去せんとするも悉
く腫を生じて充分の手術を施すに由なし云々。同
附近の死者は積んで堆を為し面皮剥げ頭骨砕けて
何人たるを知るべからずと。
◎小本村に某々夫婦あり鯨波の猛勢に恐れて屋
外に飛び出たるもその父母は避けて二階へ(水災を
避けて二階に上るは古来の例ありとす)に上がり頻
りに助けを求めつつあるを見る。如何はせんとためら
う中その身等は濤勢に押されて数十尺の松樹の梢
上にあり二人は力を極めてこの■樹に取り縋りつ
つありたるに激浪のために打ち上げられたること
およそ三回に及び已に力尽きて幾度か梢を離れんと
せしも必死となりて堪え忍びたるを以て辛くして
この大難を免れ引潮の後他のために救われようやく
にして一命なきを得たりと。
◎小本元駐在巡査たる中島愛恒氏は身老いたるを以
て退職して同村村役場の書記となり居たり。而して
同居は妻女と次女の何子にして長男愛三氏は北岩手
郡沼宮内町なるある学校の訓導とありを在職中(目
下第二師団へ六週間現役服務中なり由)今回の凶
災にて愛恒氏は変に死し妻女は脛を折りき災後までは
存生なりしも数日にして治療叶わず死亡せり。次女
何子は悲嘆の涙に胸ふさがり取り敢えず右の次第を
仙台なる阿兄愛三に申し送りたるも氏は職務上
仮葬するを得ずその姉(他縁の人)なる人同村に至
りようやく送葬したりとぞ。同胞の心事察しやるたに涙
なり。
●外人被害地視察
昨日クロニクル社記者ビー、エー、ヘール及び独逸
人某一名被害地視察として着盛宮古に向け出発せ
り。
●看護婦盛町に向かう
今回三陸海嘯罹災民救助
事務所より看護婦十名医師一名派遣下り直行列車
にて本日水沢に着。直ちに気仙郡盛町に向け出発せ
らるるよし。
●看護婦の来盛
日本赤十字社より派遣の看護
婦六名は一昨日の下り列車にて来盛。直ちに宮古方
面へ向け出発せり。
●罹災民に給与の単衣
各地罹災民に給与すべ
き単衣は至急を要する場合なるを以て高等付属松
翠盛岡の各学校において日夜裁縫に従事しつつあり
て一昨日より本日に懸れそれぞれ送付したりと。
旧南部藩内海嘯罹災 者救恤事務所の設置
今回三陸殆ど百里に渉るの大津浪大惨害たる言
語筆紙の其の万が一を尽くし得べきにあらず将来水
産業上実に長嘆大息に堪えざる事はしばしば本紙上に
おいて訴うる処なるが就中旧南部領に属する陸中陸
奥に跨る一帯地方は東北唯一の水産区に係り以て
居民概ね漁業者にしてその産出額年々数百万の多
きに達し地方有力なる財源たりしに今や一朝の凶
変より肝腎なる漁業を始めとし船舶魚網漁具等一
掃して空しく前途の事実に塞心に堪えざるものな
り。さればこれを救恤せんとするにおいて単に目前一時
の姑息手段に止まらずこれら生業に必要なる器具を給
し産業回復の道を与えざるべからず。是に於いてか数
百年来経つべからざるの情誼隠然として存しつつ
なる処の旧藩主南部伯爵を始めとし旧藩出身在京
者一同この惨状を坐視するに忍びず相奮うて標題
の如き事務所を京地南部邸内に設置し岩手青森両
県における旧南部領内罹災漁民に一切の漁具を購求
給与し以て永久自活の道に就かしめんと期し発企
人各自は及ぶ限りの資を醵しまた広く江湖の志士仁
人に義財の寄送を仰ぐこととなしたる由是れ実に
刻下の急に応ずるの美挙なりしと云うべし。
●白米四百石
は来たる二十七日函館発にて宮古に
送らるる筈。
●石津収税長
は罹災者慰問として各被害地巡
回中の処昨日帰庁せり。
●真宗大谷派本願寺
にては今回の大凶変に付き
罹災者慰問として本局録事金町空賢師を派遣し各
被害地を視察せしめらるる筈にて同師は本日来盛
直ちに被害地へ向わるる由。なお右に付き当市六日町同
布教事務所より所員石森敦一氏同行する由。
●当市よりの寄留者四百人
今回の各被害地へ
当市より寄留届を為し居るもの殆ど少数にして
その他はいまだ何等の消息だになしと云えば多分死亡
したるものなるべく。なおその他の届出でざる寄留者
もしくは旅行者等は合算し来たらば是れまた少なからざ
る数なるべしと云う。
●被害地実見記 (千葉特派員第二報二十一日久慈町において)
二十一日久慈町に入る山手なる農家に警察所員郡
町吏員出張。死体の捜索破潰家の取り片付け負傷者の救
護人畜死体の埋葬人夫の募集配置等必死となりて
奔走尽力中。凶変当日は細雨蕭々としてガス一面に
蔽えかかり小地震ありしも町民意に介さず節
句の祝いとて家族打ち寄りて酒を呑み餅を食え余念
なく歓笑しありしに同午後八時に至り俄然百雷の
一時に轟くが如き凄まじき響音と共に山の如き鯨波
滔々として襲え来たり看る看る中に人畜家屋を捲き
引くその有様言語の及ぶ処にあらず。海岸は海面上
よりおよそ一丈余も高く俗にこれを峠と云う。この峠を
距ること一町ばかりにして湊川あり。同川は湊町の北
方夏井村山中より発源し海に注ぐものにして北方
夏井山南方長内山の間に介在する十余町の間に湊
町あり町の中央を貫流して久慈町の北裏を通り久
慈町は海岸よりおよそ三十町も隔たりあるが鯨波は峠
を苦もなく打ち越えて湊川を圧して湊の人家を浸
し来たれり。湊は字門前と称し今回の惨害衝路に当た
り惨状云うべからず。山手なる高処になる僅々三戸
を残して九十二戸流失破潰死亡二百十二名に出で
負傷者六十四名土蔵ニ棟学校一棟。峠にある五十集
小屋五十棟漁船七十四漁具(未詳)電柱三十本耕地
四町八反余損害破潰家屋一棟皆烈浪三回襲入の間
に流失せらるる。潰破の家屋木材等は南方の窪所に重
なり合うて狼藉雑乱云うべからず。久慈町においては
その裏手なる湊町に激波押し寄せ来たりて三ヶ橋梁
の中一橋を押し流さし土手を切り破りて田圃へ悪浪
盛んに注入し来るを看るよりスハ湊は津浪なるぞ
と町民一同驚き騒ぎ同警察署員は宙を飛んで駆け
付け折りしも湊を距る十九八町ばかりなる村田炭山に
おいて炭を運輸のため湊海岸に桟橋を架せんと工事
着手中にて工夫も数多入り込みなりければこれら
の中難を逃れたるもの百余名を現場に出張せし
の手早く救護に尽力したるために漂流者を助け
得たるも多かりし。この九十二戸流失の中全家族こぞ
って流失したるもの六戸あり。数なる惨聞のうち十
四五才の男女ニ少年が漂流の木材に取り付き沖合い
遥かに押し流されしも自然に浪にゆられて陸地
に漂着して九死を免れたるは何より何より。赤子をヒ
ッシと懐中に抱きたるもの三四歳の小供を背負え
たるなどの婦人死体は実に目も当てられざりし。炭
山人夫の中桟橋工事に従事し湊に宿泊してこの凶
変に出遭えたるもの三十六人の中十六名の死亡八
名は負傷。この人夫の受負頭は市外厨川村片原町元
同野消防組の頭取山崎市太郎その妻せり同手下の
人夫同村齋藤亀吉須田敬二後藤辰五郎及び厨川片
原町長澤忠吉同三ツ■町村井太郎等はいづれも死亡。
その他本県雇吏佐藤内蔵治氏も死亡酒井技手は負傷
目下常町病院にて治療中。今以て沿岸に死体の漂着
するもの多くまた破潰家屋取り片付けの際縁の下等より
続々死体を発見せり。不幸の重なる折には仕方のな
きものにて本年二月頃同湾より北海道漁業に出稼
ぎしてこの度満期帰宅したるものにしてこの凶変に
罹り財産人命を失えたるもの少なからず。炭山執行人
村田幸七郎氏は凶変当日より翌日まで人夫百余名及
び金百円を救護費として差し出したり。なおこの凶災
のため同氏の損害は石炭六百噸を始め同場に備え付け
の器械レール等悉皆流失しこれを金額にすれば殆ん
ど一万円に達すべしと云えり。目下生き残りたる人
々はしおしおとして衣類や夜具等の埋没しいる
ものを掘り出し堰や川筋等にて洗濯中潰破家屋の
木材や諸家具等山の如く丘の如くこれを取り片付けと
して難を免れたる者より一戸一人づつの人夫を募集
し必死となりて働き居れり。淺沼郡長は昨日郡内各
町村長を招集して災余の取り片付け人夫の募集罹災民
救護等を協議の筈。