●災害地出張日記 (第二報)(十八日午前釜石において) 特派員 日戸勝郎
◎十八日■遠野を発す。馬にて仙人峠の麓まで到る予
定なり。旅宿の主人謝罪して曰く至て御粗末なり併か
し斯かる場合ならば致し方なしと自ら万事を量るべ
し余馬上熟々想い起こしたり往日(十五日)夕方より
掛けて盛岡に数回の震動なりしは人の知る処あり
この夜余は三浦傳導師の楼上に在りしに宛も一震地
を揺かし来たりしかば師と語りて斯く屡々するは上
思議のことよと云い居りしにその時令息傍らに在り
て是れ或いはいづれの地方に激烈なる破壊あるに非
らざるかと無心に言いたりしとは今となりては事
実となれり。
遠野方は毎日の様に二十石十石宛米災を害地へ運
び居る。また消防夫も百人余釜石に出張手伝いし居り
その他にも人夫二百余人も招集したりと途中屡々釜
石行の人馬を見たり郡役所附きの兵糧送るを見たり。
葛掛にて馬を下り昼食整えて徒歩仙人峠に撃ち登
りぬ。余と前後して数十人の人夫等鳥鷹の串杖つき
つつ釜石の募集に行くを見る。峠下りて大橋に着け
ば馬車数台あり人々群集して車中寸隙なし乗り遅
れて「トロッコ《(鉄炭用車)に直立しつつ乗り行く
もありけり。百余人の旅装皆大槌釜石その他の災害地
に向かう人のみ余と共に同車せし人の中に家族十三
人皆倒れたりとてその惨状を訪うに行くもあり。車中
甲乙の話し中に当日災害の一遇許り前なりし遠野の
某雲際を望みつつありしが雲間恰も煙火の破裂せ
るか如きを見る人々相議して万一の異変もなけれ
ば好いかと話しせしに果然今回の上思議ありしと
途中は往くもの来たるもの類々相合う車中より首出
して意気あり誰某が生きているかなど声限り叫ぶあり
およそ気狂いの体采左もこそと思われたり。
馬車ようやく鈴子に到る。鈴子は釜石を去る十日町許りこ
こじつに異臭鼻を打つ家々の屋上に衣?布団乾かし
あり後にて聞けば鈴子に在る人等殊に田中製鉄所
の役員等は当夜非常に救護に尽力したりと同所に
は余の知人も二三居るなり。
余は鈴子館(旅店)に片荷投げ下ろし部屋なしと断
るらるるを無理に注文して参事官の留守部屋を借
り飯を食わず「ビール《片手に鞄嚢提げて釜石に
馳せ向かいぬ。橋上堤下悉く是れ人馳行の間にも殊に
耳に留まりしは婦人等の互いの挨拶にていづれも同じ
調子もて別世界の人にでも再会せし如く顔見合わせて
能く助かりしよと述べしのみ情緒筆に書き難し。
間もなく釜石の亡骸を見る無残と云はじ是なる
べし見渡せど水天一碧海水洋々として更に平日に
殊ならず静かに漣を弄ぶのみ。吁誰か図らん此知
ぬ顔■■■此水■即ち是天下を驚動せしめたるを。
陸に打ち揚げられし大帆汽船の如きもの二艘並ぶを
見る限り家も壊れ地に碎破し粉末せ
られて処々布団もあり神棚の片割れもあり屋根その
まま地上に「ベタ《付くもあり箪笥の泥土に打ち臥すも
あり生き残れる人ならん襤褸着て棒あるいは鍵様のも
のにて無残の趾を掘り起こしあり。
余は此の間を踏み越えつつ「クグリ《抜けて行きし
に突如として目の前に一頭の大馬が横になり足天
に頂して張り居たるを見る屍体を見し第一着あり
き一面異臭胸に徹る溜るものに非らずビール倒ま
に傾けつつ走って町役場に到りぬ。
ここには役員警吏世話人等集合せしを知ればなり
土足のまま内に入るに知るも知らぬも声掛けて無残
だろうと語りぬ。いづれも皆戦場の思付きにて昼夜を分か
たぬ狂奔尽力の色面色に見わる。
小軽米汪氏は「ドー《だと聞きしに確かに死せりと。
この日は小軽米氏の家に?部町長山口警部相会して
丁度海嘯時刻頃に盃酌み交わして明朝小軽米氏が
盛岡に出立の小宴を開きぬ。然るに盃に手を掛く
るや否や廊下より「旦那サーン《と叫び上げぬ三人
に事起これりと立ち上がりしに?部町長は火事だと
云う様職掌柄炊き出し用意せんとて後ろの山に掛け
登りぬ。山口警部も之れも職務上火元確かめんとて
外に出でしに戸袋に水音高く打ちぬ「ポンプ《の水
あらんと戸少し明けしに豈図らん海水「ドッ《と
入り来たりしかば始めて海嘯なるを知り引き返して逃げ
入りしに四十五六の婦人山口警部の腕捕らえて
助けてくれと縋る手放さんと「モガク《中に早
水に捲かれしも辛うじて負傷しつつも泳ぎ逃げた
り。汪氏は戸袋の辺まで山口警部と一所に出でし様
なるかその後は知れずと。また?部氏は早く山に登りし
ため雨に濡れつつ見てありしに波浪轟々寄せ来たり
て船なり家なり釜石町を引きつ戻りつ三度許り波
打ちしが波の引き去りし後は寂寞としてただ一時に号
泣の声起こるを聞くと。
町役場詰員は昨日より屍体発掘に取り掛かり余の着
せし時も山田警部人夫数十人巡査若干を伴い石炭
酸下げて死体形付けに行きぬ。北村収税署長その他と余
もまた伴えり町役場の中はまるで戦場の営内とも云う
べく土瓶に冷酒酌みて人夫役員の隔てなく飲み交
わしいづれも元気付けて協同尽力の体なり。
消防の親方等小言付きつつどうも人夫が弱くて
困る死体を見い出せば往々逃げ去りて手を下すもの
少しなど言えり。昨今人夫上在せるため釜石街道の土
木工事より人夫を臨時徴発したりと山本技手は語
りぬ。
村上参事官美松属木村属及び一倉郡長は本日(十
八日)唐丹を経て気仙地方に廻れりと。
本日の死体発掘は天気炎暑のため臭気例え難く昨
日に比して一層困難なる由。第一着に雑具の下に見い
出したるは大男の死体なりし。山田警部自ら両足を
引き上げて巡査人夫等相添い筵にて運び出しぬ。それよ
り彼地にて三人あり此地にも婦人の死骸あり抔処
々に分かれて見つけ次第に験を付け置き後にて片端
より持ち運ぶ手続きなりし五千余人の死体少なくも一千
以上は市中に埋まり在るべし。これを発掘し尽くす容
易の事に非らざるべしと思う。殊に日に増し炎天腐
敗し来たればいよいよ以て溜まらぬ勿論死体のみなからば
如何様とも仕末早かるべきも屋根柱壁の砕け重あ
りし下より発掘するため手数多くして割合に渉取
らず役員人夫の労も想い遣らる。死体は運び次第寺
の門前に持ち行きて暫く曝し置き以てその何人た
るを遺族者に示し後に葬るなり。余も石願寺なるこの
寺に行き見しに幾個の屍体塁々と横たわりて生あるも
のは皆それぞれ白布を以て纏い抔し。而してその向きの人夫
等傍らより葬り去るなり。実に嫌な臭いがするなり。此処
宛然屍体の陳列場何を以てこの惨状を形容すべき。
門内二翁媼あり若き婦人の屍体に白木綿着せて手
当てしつつ居るを見たり。いずれも眼に涙にて生きた人
に物言う如く之を持て行けとか帯占めよとか言
々真情ならざるなし時々その吊を呼びて念仏する処
余は手帳持ちしまま佇立して流涕横泗に耐えざりし
覚えを切歯して皇天の無情を恨みたり。思うに災地
の生者皆此翁媼一般の消息ならん釜石大槌等にて
恐らく一個の笑声をも聞くこと能わず余は実に此
後の救助に付て大に江湖諸彦の同情を望むなり。
悲話片々
◎盛岡四ツ家町の宣教師仏国人某氏は加藤治と云
う宿屋に泊せしが当夜海嘯なりと聞いて急ぎ逃げ出
せしその時同県会の某と云える人も同じく逃げ出で
しに払人は入口にて靴着け居る間に自分は先へ出
たり。その時波すでに追っ掛け来たりし故十歩を一歩に馳せ
つつ後見しに佛人は二間ばかり後れ来たれり。間もなく
波来たりて自分の腰及び脚部を甞められせし故一生懸
命逃げ終わせて自分はようやく助かりしがその時払人は浚
い去られしならんと。
◎一人の男は寝ているまま波に打ち揚げられて山坂ま
で持っていかれその時急に目覚めてさては海嘯なるか
と驚きて樹の枝に取り付き生き残りたり。
◎またもっとも奇なるは十五日の当夜これも波に打ち揚げ
られしならんが布団に包まれたるままにて三歳ばかり
の赤子樹梢の上に載せられ玩具を撚くりつつ余念
なく笑い居るもありたりと。
●宮古通信(六月十八日発)
◎大災の前兆については大いに査覈を要すべきか勿論
にして生存者に就き実況取調べたるも確たる原因を
認むべきものなきも当時異状を認めたる事実は鍬
ヶ崎漁夫女遊戸沖に漁業し居りたるに沖合い鳴動幽
かに聞こえ気味悪しきを以て帰家したるに同所より鍬
ヶ崎へは常に二時間半ばかりを費やすに非れば到着し
能わざるに僅かに三十分ばかりにして帰着せり甚だ
奇怪なりと言い居たりに果たして海嘯ありたりと。また
当日田老村に林壮蔵なる者同業者十二吊と小湊に
網引きに赴き居りたるに午後九時前と覚しき頃俄然
海水の引き退くこと三百間余陸地は暗黒咫尺を弁
ぜさるに海面及び退潮せし海底は恰も月光の如き
蒼白なる光輝を発し諸物を明視するを得たり此れ
ただ事に非らずと吃驚周章傍への高所に攀じ登ると
ようやく二間ばかりの瞬間およそ十丈余り尖濤屏風の如く屹
立非常の速力を以て浸襲し来たり同人も辛くして引
きさらわるるを免れたり伹し同行の八吊流死せり
と。田老崎山等の被害現況にして宮古鍬ヶ崎と趣を
異にするにて宮古等にあっては怒濤ようやく五六丈に
過ぎず且つ浸襲力の大なるに比し退潮の緩慢微弱な
りしは家材の陸上に押し上げたるまま堆積せしも
の多きをもって知るべし。然るに田老等にあっては太
平洋に面したるためか濤も大にして十丈余なりし
如く断崖数丈の高さにおいてなおその徴を存す。而して浸
襲力退去と共に強大にして田老避病院裏沿岸にあ
りし松木いずれも二抱え以上のものおよそ百本余一撃の
下に挫折提去せられ痕跡だも止めず僅かに樹根を
存するのみ。また小湊より同日船卸しせんとし風帆船
一隻山腹中央(海岸浪打ち際去る二丁)に打ち上げら
れ転覆し居るを視る。斯る強勢なる浸襲に伴いその退
去力また予想に及ばざる程にして樹皮を剥ぎ落とし大木
を転倒せしもの無数。而してその方向皆退潮に従い海
に向かえり且つ家財破壊材は概ね海上に流亡し陸上に
存するもの僅かに五分の一ばかり。田老小湊等において生
命を全うせるもの最僅なる死屍発見の少なさまた怪し
むに足らず実に悲惨の極県下またその比を見ざるべし
と信ず。
田老村全村流亡同翌朝直ちに宮古署詰の熊谷警部巡査
一吊を率い出張救護に尽力したり。十八日同米良署
長直接の調査する処左の如し。
崎山村字大澤十戸の内九戸流失。二十吊生存三十一
人死亡。
峯島十戸の内五戸流失。海岸にて二戸を余すのみ
五十吊生存二十三吊死亡。
女遊戸二十戸の内十八戸流失。三十吊生存五十三
吊死亡。
田老村字田老及び乙部全部流失。
死者千五百人以上(十八日まで死に死体発見百八
十三人)。
生存者百六十五人。
内出漁中にて助かりしもの六十人。
負傷者五十人。内重傷五十五人。
小湊全部流失(九戸)。
死者五十吊。
内二十八吊は船卸式臨席のため宮古その他より来た
りしものにて総数三十八吊の内なり。
■待十二戸流失。死者五十五人。
崎山村罹災者救護については同村は無難なる家屋陸
上に多く海岸罹災者を有志団欒救助中村役場より
支出せし米ようやく一石二斗昨日を以て達せしは幸いな
りし田老村その他へ米穀等を郡役所より送遣し救助
し居れり。
●一致教会宣教師
米人ミロー氏は今回凶変惨
況視察として自転車にて本日被害地へ出張。