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津浪から老婆を救ふ 不撓不屈の警防精神

國土防衛に挺身する警防團員九
名を西野宇治山田署長は團員の
■として知事に表彰方具申した
▲西■己警防員(度会郡南島
村)=■■災害の際津浪にさ
らはれてゆく■村中村タツさ
ん(六四)を身をもつて救助した
▲杉原 忠三部長(神都 河崎
町)山田一郎■(同)辻又次
■警防員(■本町)= 三氏は
災害に自宅が被害をうけたに
も拘らず復興に■■■■した
▲■田保太郎部長(同市吹上
町)中山■五郎(同)出口■
次(■■ ■町)小■ ■■(
■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■
■■■■
■■から罹災地へ

以下五行 不讀

六日度会郡■■村へ一万三千三
百六十四點を發送した

罹災者は割當てぬ

■■■■に全村一丸となつて起
ち上つた南牟婁郡■■内村では
決戰の新春は逞ましくお正月も
返上して麥の■■しを殆ど完了
し更に薪炭の供用■■へ邁進を
見せてゐるがこのほど割當のあ
つた■■■■二万九千八百円は
罹災者の分は難を免れた區で引
受け石に囓りついても完遂しよ
うと村の割當て三万九十円を完
全に攻略した

寒鰤が喰へるぞ

紀北、志摩沿岸に近く冬の陣
魚不足に惱む縣民に鰤を鱈ふく
喰はすぞと新春に嬉しい朗報
縣水産業会では昨年十月七日の
風水害から今回の震災と縣下の
各漁塲は相當な被害を受けたの
でその資材獲得に大童の奔走の
結果漸く見透しがつき、一方多
大■に必要な■工品も新潟縣に
六万貫以上發註したが滯貨とな
つてゐるので昨年末から係員を
出荷先に出張交渉中のところこ
れも新年から續々入荷してゐる
ので十日から五日間各漁業会長
を招きその供■および漁獲高に
よつて資材の■■重點配給をな
し強力なる指導を行ふことにな
つた
現在冬大■網は九木第二号、
阿曾、波切の三ヶ所であるが
これによつて近く相■、■、
方坐、古和、島勝、長島、九
木第一、■田、梶賀その他に
も本月末までに投網を完了せ
しめる豫定で
殊に錦に對しては新品を配給し
て近くこれを投網せしめ三月か
ら■漁獲の見透しを樹て水産王
國三重の眞面目を一票に恢復す

日魯漁業から 鮭網を寄贈

縣下の罹災に
對して日魯漁業から鮭網三網を
縣水産業会へ寄贈する旨農商省
から縣へ通牒があつたので縣水
産業会中村專務理事は七日夜上
京打合せする

献金

【本社紀南支社 寄
託】南牟婁郡西山村平谷前地女
兒分團山本絹代さん外十七名は
罹災者にと二十二円を寄託した

短 信

藝 干魚組合五千円を献金
寄附 白塚村干魚加工
濃 組合では■■未總会の
議決により組合長吉田卯一郎氏
から陸海軍機献納資金、國防献
金、震災地義捐金および同村銃
後奉公会へ各一千円都合五千円
をこのほど村役塲へ寄託した

南 殉職鄕軍の華を表彰
牟 南輪内村鄕軍分会では
婁 故会員榎本■伍長を特
行者として聯合分会を經由津支
部長あて表彰を具申した、同伍
長は賀田郵便局奉職中去る十二
月七日の津浪に際し局長の命を
うけ自己の職責を完うし重要書
類を避難遂に局舎と運命を共に
したものである

翼 賛 三 重

聖地農村 に擧る增産凱歌
更に期待される本年への敢闘

昭和十九年を顧みて 山内經濟第一部長談

思へば昭和十九年は大東亞戰爭
の完遂の上から見て極めて重大
な年であつた、すなはち大東
亞戰爭の樣相は眞に決戰中の
決戰段階に突入し皇國の興廢
を決する大決戰が連日日夜を
分たず行はれ皇國の運命は正
に生死の關頭に立つてゐる、
かくて熾烈なる死闘の續けら
れつゝある今日この決戰に勝
ち抜く根底をなす食糧增産戰
の状况はどうかといふにこれ
また洵に苦難の年であつた、
國家全體の主要食糧の需給關
係の窮屈さは今更申すまでも
ないことであるが、本縣の增
産戰の推移こそ苛烈なる決戰
段階にもふさはしい苦闘の連
續と申してもよからうと思ふ
以下少しく過去一年の食糧增
産戰の經過を顧みて見よう

衷心感謝に堪へぬ 産米供出への協力

昭和十九年に入つた最初は土地
改良事業の執行と十八年産米の
供出の戰であつた、この戰も土
地改良事業の着手の遅延や十八
年産米の意外の不作からの供出
困難性などから供出ははかばか
しく行かず他府縣では既に相當
の進度を示して居るに拘らず本
縣の進行成績は余り香しくはな
かつた、事業の執行や米の供出
の隘路を克服して進んで成績を
他縣並にいやそれ以上に擧げや
うとするための擧縣一致の努力
わけても農家各位の國家の要請
に即應せんとする熱意と努力は
實に涙ぐましいものがあつた、
その努力と苦闘は遂に酬いられ
何れも一00パーセントの成果
を相當早期に達成することが出
來た、かゝる間に主要食糧の中
軸をなす米穀の增産準備を着々
進め農家の增産意慾を昂揚し增
産に資するため政府の方針に從
ひ米の生産及供出の事前割當を
行ふなど万端の準備を了すると
共に他方に於て春馬鈴薯及麥の
掘り取り刈取り並に供出の進行
を圖つたのである
不幸にして馬鈴薯は氣候の遅
れたこと跡作稻の植付促進の
ため發育不充分の儘取りを
余儀なくされた所もあり収穫
は豫定通りに達しない、麥は
刈取時期は聖典續きであつた
が大切の乳熟期に雨天續きの
上に■が多かつたこと、病虫
害も相當あつたことなどでこ
れまた収穫実績は意の如くに
行かなかつた、かくて兩者の
割當數量供出も非常に困難に
遭遇したが指導陣の努力と生
産者の熱意とに依り何れも完
遂に近いところまで到達した
豫定生産に對する実収などか
ら考へると百パーセント以上
に達してゐると申してよい

旱魃の克服に發揮 した農村特攻精神

さて次に稻の植付であるが三月
四月の雨天の多いのに對し六月
七月の晴天續きは遂に數十年來
の大旱魃となりこの大自然の力
に依る適期植付阻害を克服して
豫定面積の植付を完了すること
は全く至難の大事業であつた
縣下 官民一體となり 水源確
保新設、揚水灌漑、水利調整
稻苗の保護、稻 苗 の假植実
施、乾田移植の実施などに努
めこれが所要勞務に對しては
國民学校兒童の動員、中等学
校程度以上の学徒、非農家の
勤勞奉仕動員、農家の移動勞
働による應援、共同作業の強
力なる実施など縣下擧げて對
策に努めた結果植付不能面積
も當初案じた程にも達せず僅
少で喰ひ止めることが出來た
稻の植付と時を同じうして甘藷
の植付がある、決戰下の食糧需
給に甘藷の重要性は論ずるまで
もないが特に本縣は麥と共に甘
藷は他縣に比し作付面積の割合
に収量は少ないので特に努力す
ることにより多量の增産を期待
することが出來ると思ふので增
反を計畫すると共に反當収量の
增加を期すべく之が督勵に當つ
たのであるが稻作同樣旱天の爲
挿苗に非常な困難があり多少挿
苗遅延はあつたが兎も角大體豫
定面積の確保を圖ることが出來

その後の發育状况は旱魃のた
め若干思はしくない地域もあ
つたが、天候は甘藷としては
先づよい方であつたので水害
に依る被害にもかゝはらず豫
期以上の収穫を擧げ得たこと
は洵に幸ひであつた

天災を超えて麥類 增産に掉尾の努力

次は麥類の增産問題であるが右
に述べたやうに本縣の麥作はま
だ大いに延ばし得るのみならず
米穀に次ぐ重要食糧であり且旱
害による稻作の減収補策とし
ても麥類こそ昭和十九年の最後
を飾るに相應しい食糧增産戰で
あるので既に早くから思ひ切つ
た增産を圖る考へでをつた所へ
八月末の地方長官会議に畏き■
りの有難き御言葉を賜りました
ので縣としては御聖旨に奉答す
べき實踐事項に付愼重考慮の結
果麥類の增産を取り上げ擧縣一
致の大運動として強力に植付面
積の擴充に反當収量の增加に邁
進することとした
右の方針に基く麥類增産對策
要項の眼目として■期植付四
万町歩の確保を期すべく努力
したのであるが、不幸にして
雨天續きと未曾有の水害、震
災津浪による被害など加はり
植付は幾分遅延し十二月末に
至り漸く目標に近づき■少な
がら一月に■■さざるを得な
かつた、しかしながらこれは
全く不可抗力による已むを得
ないことであつて麥植付の促
進に付ては先づ最大の努力を
したと申して差支ないと云ふ
麥類の植付と殆ど■■して■■
られた農家の努力は■■の■■
り供出であるがこれまた作柄良
好とは言ひながら水害、津浪に
よる被害も甚大に上つたため地
方によつては割當數量の供出に
は非常の苦心を要したことと思
ふが、被害のない地方からの超
過供出も相當數量に■し生甘藷
に付ては年内に殆ど割當數量を
完遂した、干甘藷の供出は生甘
藷より何時も供出時期は遅くな
るのであるが割當數量を最小限
度として完遂出來るものと確信
する

額更生措置には 共助と公正を期す

年内の最後の大事業として最も
苦心を要した大問題は米穀の減
額更生問題である、既に述べた
如く十九年産米の供出に付ては
事前割當を行ひ割當後多少の變
化があつても割當數量は變更し
ないことにした、而して生産者
が定められた生産及供出數量を
目標として努力しその結果增産
目的を達成し供出割當數量の九
割から十割の供出に對しては石
當り生産者四〇円、地主一五円
の奨勵金、十割を超えた供出の
塲合には石當生産者一〇〇円、
地主七五円の報償金を交付する
ことに定められたのである
かやうな政府の增産■■■■
施設と相俟つてひたすら增産
準備を整へたが不幸にして未
曾有の大旱魃、更に十月七日
八日の 暴風雨、續いて 十二
月七日の地震および津浪によ
る被害などを蒙り稻作の減収
並に収穫、籾の流出などの爲
當初割當の供出は極めて困難
となり主務省に打合せの上災
害に因り減収顯著な地方に對
しては夫々の実情に即應する
減額を行ふこととし適期植付
を了し灌漑順調なる作柄良好
地帶に對しては超過供出をお
願ひすることとして隣保共助
の精神を強調すると共に極力
負担の公正を期するの措置を
講じたのである
さてこの減額更正と超過供出の
性質に就てであるが米穀の事前
割當の本質から考へて災害に依
る著しい減収の塲合の減額は當
初割當の變更であるから、變更
された數量が新しい供出割當數
量となるのである、たヾ多少當
初割當に異なる點は變更のない
塲合は前述の如く割當數量の九
割から十割迄の供出には奨勵金
十割を越えた供出には報償金が
交付されるのであるが減額更正
割當を受けた塲合はその數量の
十割以上を供出した塲合でも報
償金は交付されない、九割以上
の供出に對して奨勵金が交付さ
れるだけである
超過供出は假令各農家に對し
當初割當のほか更に何石と供
出の依賴があつてもそれは何
處までも超過供出の依賴であ
つて當初割當の增産更正では
ない、これは事前割當の性質
から當然の結果である、從つ
て超過供出の割當があつても
當初■■數量が■■となりそ
■■■の九割から十割迄の■
■には■■金、■■■■えた
供出に際しては■■■が交付
されるのである
超過供出の■■は以上の如くで
あるが本年の如き不慮の災害に
因る減収に惱む地帶に對しては
出來るだけ實情に即した減額を
なし供出を円滑にすると共に負
坦の輕減を圖りこの供出減は作
柄良好地帶の超過供出によつて
これが欠陷を補することこそ
決戰下の國家の食糧需給の絶對
要請に應へる途であると考へる
ので縣としては政府より認めら
れた減額數量に作柄良好地帶の
超過供出豫定數量を加へたる數
量の減額を行つた次第であるか
ら超過供出數量も當初割當數量
と同樣に供出の絶對完遂を農家
各位にひたすらお願ひする
尚事前割當當時政府の■心と
して考慮された割當供出後の
自由處分の問題に付一言した
い、自由處分の取扱に付ての
政府の指導方針は極力抑制す
るにある、すなはち自由處分
と言ふても親子兄弟等近親間
の贈與に限り數量も僅少その
上地元市町村長の証明がなけ
れば出來ないこととされてゐ
るが、減収數量に比し供出減
■數量の少ない状態では事実
自由處分の余地もあるはずが
ない、また減収著しい地帶の
食糧事情の窮屈さを考へたと
き多少の余裕があるからとい
つて自由處分をすることもど
うであらうか、彼此考へ合せ
て東海四縣ではこの際自由處
分は徹底的に自粛しよう、縣
からなんらかの指示あるまで
市町村長におかれては証明書
の發行を■控へて貰ふことに
申合せ をした、此の點 特に
市町村長各位におかれては諒
とせられ指導上御協力を願ひ
たい

勝つためだお互 を去つて戰はう

かくして國家の食糧需給の見地
より最も重大なる昭和十九年■
米穀の供出促進の前提となるべ
き事前割當の更正問題も年内に
大體處理することが出來た、尤
も部落や農家の■■への■■は
新年へ入ると思ふが早々に全部
決定を■■されるはずだ
減額更正數量■■■供出■■
とも部落や個々の農家から見
れば滿足の數字ではないと思
ふが、現下食糧需給の逼迫せ
る実情を御■■下され且農家
こそ大東亞戰爭に勝ち抜く原
動力たる食糧■の戰士たる使
命に鑑み是が非でも一日も■
に割當の供出完遂は勿論進ん
で超過供出をも予定數量の達
成を圖られんことを祈つて已
みません
以上の如く昭和十九年は食糧の
增産供出に■■する諸問題の■
■にかゝはらず、先づ大過なく
經過した、これ全く指導者をは
じめ農家、非農家の一致協力に
よる努力の■であり衷心より■
■の意を表すると共に本年は食
糧事情の上から見ても前年に勝
るとも劣らない重大な年である
から更に決意を新にして食糧の
增産に挺身御奉公の■■を■げ
んことを■■ひすると共に■■
の各位におかれても■■■■■
■■■られんこ■を■へ■■■
ひ■上ぐる次第である

震災義捐金寄附者芳名 七日正午現在

三千円、東京都麻布区新龍設土
町柏木秀茂▼一千円、東京都神
田区須田町蛭川鉄之助▼一千円
東京都品川区上大崎瀬古孝之助
▼一千円、大連市榊町大連窯業
会社社長金森英一▼一千円、新
京市崇智胡同岡野精之助▼一千
円、大連市西通中西進▼一千七
百七十六円(二〇人分内 一件
村民一般)

累計金
五十八万六千四百六十一円三錢