雑報 大海嘯の痕(一) 廿三日於宮古 特派員鈴木巌
宮古、鍬ヶ崎の兩町は海嘯後今日に至るまで既に一週間を經過したれども人材不足にして
押潰されたる家屋建物未だ片付らるヽの運に至らず海岸よたる海岸より山手にかけて其儘
堆く積み重なり今日唯僅に人の通行し得べき一線路に通じたるのみ扨海嘯の度數に就ては
區々にして此地一定の説なし或は三回と云ふ所各異なれども陸上に寄せ來りたるものは三
回若くは四回なりしが如く其最も激烈なりしは最初の一回にて其損害も亦大に漸次緩慢と
なりしと云ふ
屍體の陸上に於て發掘せられたるは皆家屋建物の崩潰によりて壓死したるものにして其傷
は先づ頭部を撲ち腹部を破り脚部を挫く等何れも數ヶ所の重傷にして單に一箇の傷を負ひ
たるものは殆ど之を見ずと云へり海上に捲き去られたるものは其翌日頃よりポツ■漂着し
居れども未だ發見せざるもの少からず是等は大抵深く水底に沈みたるなるべければ更に暖
氣の時を俟つに非れば漂着し來るまじと云へり
赤十字病院は醫員大森英太郎氏主任にて高等小學校を之に充て一昨日より開院し本日に至
るまで重傷者三十六名を収容し尚近村の重傷者にして送院するに堪ふるものは續々入院せ
しむる手筈のよし今日病院を一覽したるに前記死者と同じく多くは皆數ヶ所の傷を負ひ其
慘状は戰時豫備病院を見るより更に甚だし豫備病院には隨分重傷患者もありたれども患者
の年齢は大抵一定し殊に流石は兵士だけありて重き傷を負ひながらも何處かに尚勇ましき
氣色あり且つ國家に對しても名譽のあるとなれども此度の赤十字病院に於ての入院患者は
二三才許の小兒にして頭部半ばを失ひたるにあれば古稀にも及ぶべき老人の脚部を挫きた
るあり男女老幼の區別なく殊に彼らの多くは家を流し妻子を失い親に別れたるものにして
殆んど身を寄するの所なきものなれば枕を並べて苦み悶ゆる樣は何れを向ても酸鼻の至り
なり尚明日は手術の實況を見ん積なり
此度の海嘯は激烈にして且つ損害の廣大なるだけ隨分奇異なるとも少からず田老村に於て
は杉の枝に串刺になり居れる屍體あり爐邊に坐し居たるものが平素信{~の御利益にや突然
,A{~棚の上に突き上げれて不思議に一名の助かりたるもあり中に就ても僥倖なるは此夜鍬ヶ
崎小學校に於ては赤十字社の派出員を聘して校内に幻燈會を開き生徒は勿論其他の來觀者
四五百名も集まり居りしに海嘯のとは其全く終るまで更に氣付かざりしと此學校は山手に
建設しあり市街よりは丈餘の鄕き建物なれば此夜此會なくば子弟等七部の生命は確かに之
を失ひしならん又此夜漁獵の爲め四五哩の沖合に出て居りたる漁夫等は何れも更に海嘯の
らりたるを知らず自村に歸りても一時は異境に漂着したるの感を爲せしと云ふ田老村の前
に横はる松島と呼ぶ周圍二丁許の一小島は海嘯の爲めに一方に傾き或處に於て水面に顯は
れ居たる巨巌は全く顛覆して異様の變体を示す等のとおり概して變事は陸地に近き邊に多
きが如し
一時當地に於て貯蓄米を隠蔽し又は米價を暴騰しめたるものありたるも當局の處置其宜し
きを得今に於ては此の如き奸策を施すものなく且つ函館よりの白米も愈■今日着したれば
先づ當分の間は飢餓に迫ることなかるべし唯目下の急務なるは東海岸凡そ千五百隻の漁船
並びに漁具は悉皆之を失へり然るに若し生き殘りたる漁民にして此等の漁船漁具を購求す
ると能はざるに於て彼等自ら糊口を凌ぐと能はざるは勿論宮古なる東海岸の一都府は之が
爲めに廢滅に歸せんとす故に目下の急務は先づ此漁民に漁船漁具を給與するの道を講する
にありとて有志の人々之が爲めに事務所を設け目下頻りに調査中なり