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雜報・嘯害地實見記

十九日 於宮城縣本吉郡志津川町
特派員 横川勇次
宮城縣本吉郡

雜報・嘯害慘状 巌手縣北閉伊郡

北閉伊郡小本村實況視察者の言に依れバ小本川口
海岸より上流廿餘丁の間一望赭|Kの泥地と變じ荒
涼の状人をして栗然毛骨を寒からしむ海岸に相對
する字中野の山麓を見れハ屋舎家財の堆積丘を爲
して數丁に連り其間点々死屍の介在するを見れバ
死体の多くハ此中に埋没せられたるなるべし酸鼻
の至りなり中野ハ五十八戸の中流亡を免れたるも
の僅かに十餘戸然も傾覆破損を免れず人命を害ふ
三百の多きに至り生存するもの三分の一に過ぎず
又一家皆生命を全うしたるもの二三に過ぎずして
他ハ悉く親を失ひ子に離れ全家滅亡せる者少から
ず尚災害當日生存者に聞くに午後七八時頃地震あ
り而も敢て意に介する程にてもなかりしかバ各ゝ
一家団欒端午を祝するの折りに際し俄然迅雷の如き
激浪怒濤壁を倒し柱を摧きて襲ひ來り戸外に出づ
るの暇もあらバこそ遂に形の如くの慘害に罹りた
る次第なり尚ほ激浪怒濤の河口海岸に於て平水よ
り八十尺以上に達したる以て其猛烈なるを推知す
べく樹木ハ轉覆せるにあらざれバ挫折し枝葉と表
皮とを留めず屋舎の水際以上に押上げられ二階造
りの家屋の下部に突折して上層ハ其侭變異なく観
落せしを見れバ悪浪凶暴の勢ひ人をして寒からし
む人夫不足にて屍体の發掘散亂したる家財の蒐集
等に手廻り兼ね居るハ酸鼻至極中野に通ずる縣道
ハ流潰の家財家屋堆積の爲め通行叶はず小本橋ハ
橋柱二本上流に傾き存し微かに其の位置の名殘り
を留め同處ハ舟便にて往來せり云々右小本村字小
本中野小成の三ヶ所にて流失せし家屋ハ合して百
三十戸死亡人員ハ三百六十七名其他郡内普代村に
於てハ字太田各部ハ四十二戸の内流失せざる者僅
に一戸人員生殘せるもの僅かに十一名同字普代ハ
二十戸流失字澤ハ七戸流失死亡人員未詳田野畑ハ
字羅賀三十四戸の中廿戸流失死亡人員未詳同島の
越ハ流失家屋大凡二十戸死亡人員ハ大凡七八十名
負傷者亦夥多にして救護に手を盡すも部内四名の
醫師の中二名ハ負傷用を爲さず他の二名にて間に
合せ居り慘状云ふべからず

巌手縣東閉伊郡

東閉伊郡内に於て最も慘状を極めたるハ田老村に
して同村内大字田老ハ大凡三百戸人口千八百人大
字乙部ハ百六十戸人口九百人ありしに山間鄕所に
ある戸數大凡七十戸を除くの外悉皆流失死亡者ハ
一千四百餘名の多きに達し生存者ハ僅かに百名内
外に過ぎず其の生存したるものも重傷軽傷を負は
ざるハなし而して生存者の半數ハ當日沖合遥かに
漁獲に出で(沖合にハ何の異状もなかりし由)たる
ものと其半數ハ樹根等に引き掛りて辛うじて免れ
たるものヽみなりとぞ右の如き次第にて駐在巡査
役塲吏員教員等殘らず死亡し伏屍累々目も當られ
ざるの慘状加ふるに一粒の米粟なく又死屍を取片
付くるの人夫なけれバ警官郡吏等の盡力にて宮古
より食料人夫を派遣し又醫師佐々木某が幸ひに此
凶變を免かれたるも藥品なくして負傷者の治療に
從事する能はざれバ是亦宮古より此等を調達寄贈
して一時の救護に盡力しありとぞ同重茂村ハ亦慘
状を極め五十二三戸の家屋建造物ハ悉く流失して
毫も形影を止めず死者二百餘名にして屍体を發見
したるハ三十名に過ぎず家畜全部死亡流失せりと
同字乙部ハ海岸に沿ふたる箇所十七戸流失死亡者
二百餘名死体を發見せしハ二名に過ぎず同字姉吉
ハ全部十一戸流失死者六十五名にして生存したる
ハ二名に過ぎず同字千鶏ハ十七戸流失死者八十二
名同石濱ハ十七戸流失死者六十四人同川代ハ十五
戸全部流失死者六十人にして即ち重茂全村流失戸
數百三十八死者ハ七百名食料ハ同じく宮古より送
り津輕石より醫師大島某出張傷者救護中なりと
磯鶏村ハ流失戸數百二十戸死者八十名負傷者百四
名なりと

巌手縣氣仙郡

氣仙郡小本村の慘状實見者たる千葉某の急信に曰
く六月十五日午後八時雷の如く地震の如き響俄然
として起り次で叫喚の聲凄じく起れるにぞ豫ハ蹶
起して之を望めバ東方に當りて煙焔空に冲り次で
警鐘の音鏘々たり是れ非常事なりと豫ハ夫より勇
を鼓し豫が家を距る二百間餘即ち長洞平田方面に
到れバ海濱を距七十間の處に波濤の痕を見る進で
海灣に近けバ路傍一老婆の深泥の中に蠢動し居る
を見る豫之を扶起し偶ゝ隣翁某來けれバ之を負は
しめ他の叫喚の聲を目的として田疇の間を徒渉す
れバ十一二の男兒十三四の女兒裸体の侭田中に蠢
動しあり豫之を扶け起し傍らの人を喚て一兒を負
しめ他の一兒ハ豫之を扶て岸頭に到らしむ而て又
他の叫喚者を救はんとして進行するに蘆沼の中
に一人の蠢動するを認む此時家弟某來合せ泳ぎ至
りて之を救ひ出せバ氣息奄々たる一老翁なり即ち
之を扶けて安所に置き更に他の叫喚者を救んとせ
しに海中なれバ救ふに由なし而して此邊一体ハ家
なく土藏なく木材散在して容易に歩行すべからず
還て旧路に引返せバ麥畑となく田となく汚泥満々
たる間に穀俵あり箪笥あり皆散亂収拾す可らず長
洞東方進出に進んとして路を辿り行けバ木材屋根
等の流寄るもの算を亂して山の如く到底進行に由
なし更に路を轉じてロンデン(原文の侭)崖上に
到れバ崖下一面波の爲に洗ひ去られ曾て一宇の全
きものなく八十有餘の家屋跡方もなし崖上にあり
て暫し休息するに唯遙かに叫喚の聲の夜陰に凄じ
きを聞く崖路を下り進んで叫喚者を尋ね行けバ一
老婆一孫を擁して頽屋の下に悄然として控へ居た
り即ち老婆を負ひ一友其の孫兒を扶け先づ崖上に
上らしめたり此時対對炬火十餘点を認む潮水漸く
退くを待ちて行く時に一材木の下に五六歳の男兒
の横倒したるを見る豫之を抱き起し塵芥を拂ひ之
を介抱するに尚ほ体躯に微温あり之を摩擦するに
稍口を動かし氣息あるに似たり依て一學生をして
負はしめ之を附近の醫院に送り到れバ他に二名の
絶息兒童を治療しつヽありき一老翁ハ已に死して
起たず他の一壮丁ハ重傷を負ひたるも元氣頗る壮
んにして罹災當時の慘状を説きつヽありし云々

宮城縣本吉郡

本吉郡氣仙沼町中井久七氏の通信に曰く郡内歌津
村ハ戸數八分流失死者三百有よ就中伊里前の如き
ハ一入の慘状なり、御嶽村ハ少しく海濱を去を以
て格別の損害なし、大谷村ハ非常に慘状を極む死
屍ハ路を塞ぎ傷者ハ數を知らず中にも平磯大谷ハ
最も甚しく家屋の殘る僅に二三のみ死者凡三百
八九十名戸數百以上流失、階上村亦大慘状字明戸
の如きハ殆ど一戸の殘るなく潰家亦多し死者四百
有餘戸數百以上流失せしなるべし今や死者を壞屋
泥中等より發掘しつヽあり臭氣鼻を撲つ、松岩村
ハ深く内灣に在るを以て格別の損害なきも田畝に
ハ海水充滿し小舟其上に漂ふ破壞家屋最も多く死
者二名傷者未詳、氣仙沼町ハ三面山岳を以て囲み
一方少しく鼎浦灣に面す鼎浦灣ハ最も大海に遠く
加之ならず前に大島を控へたれバ灣内少しの音あ
りしのみ無事、新月村ハ四方山野一方だも海に瀕
せず海嘯の夜も快く眠りしならん、大島村ハ一小
島にして四面海なれども損害割合に少なく死者百
餘戸數五六十流失せり、唐桑村ハ非常の慘状にし
て中にも只越小鯖等ハ人家皆無となり死者殆ど一
千に達し傷者ハ挙げて算ふ可らず氣仙沼仮病院に
送る、小原村も大損害ある由なれど未だ確なる取
調付かず

雜報・内相の歸京

 目下京阪地方巡視中なる板垣内
相ハ三陸大海嘯の警報に接し俄かに同地方の巡視
を中止して昨日午前八時五分品川着の汽車にて歸
京し直に馬車を驅りて|K田臨時總理代理を三田小
山の邸に詫ひ夫より内閣に出頭したり

雜報・内相の嘯害地巡視

 内相ハ京阪地方の巡視を
中止して歸京するや昨日午後二時三十分上野發の
列車にて直ちに海嘯被害地に向ひたり随行員にハ
小野田警保局長栗原秘書官其他二三の人々なり