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津浪 高橋龍太郎

目次

第一節 津浪現象 三
第二節 津浪發生の機巧 七
第三節 津浪の傳播 一五
第四節 海岸付近に於ける津浪 一九
第五節 陸上に於ける津浪 二六
第六節 津浪に伴う種々の現象 三六
第七節 暴風津浪 四三
第八節 本邦に於ける過去の津浪 五〇
第九節 津浪に伴う災害の防止 六三

第一節 津浪現象

 津浪と言ふのは原因の如何を問はず海面が急激な異常上昇を爲す事であるが、其の結果として多くの場合海水が陸上に奔溢し、人畜、建築物等に危害を及ぼすので、海水が陸上に溢れる事を津浪と言ふ者もある。
 此處で海面と言ふのは、海には不斷にある所の數秒乃至十秒といふ樣な短かい周期の波を均して終った時の海の表面の事であつて、海上に風が全然吹かなかつた場合に於ける海の表面と等しい。
海面は平素潮汐現象によつて規則正しい昇降を爲して居る。海面が昇りつめた時を高潮(滿潮)と云ひ、海面が降りつめた時を低潮(干潮)といふのであるが、普通一日に二囘の高潮と二囘の低潮とがあり、各地に於ける毎日毎時の潮位即ち海面の高さは潮汐表に豫報されてゐるのである。
 海面の異常上昇といふのは此の推算豫報されてゐる潮位より以上に實際の海面が上昇する事であつて、多くは氣象的原因によるものであり、異常上昇の量も高々三〇糎位なものである。
 然るに、地震、噴火、暴風等の原因によつて、時たま此の異常上昇が數米にも及び且つ其れ數分乃至數十分といふ短い時間内に起る事がある。此の様な現象を一般に津浪と云ふのであるが、其の發生の原因によつて津浪の性質も亦異なる。地震、噴火等に因る津浪の本體は其の地震、噴火等のあつた海洋中の比較的狭い區域から發生して四方八方へ傳播してゆく所の非常に波長の長い、從つて亦周期の長い波の群である。波長と云ふのは波の山から山までの距離であつて波浪の波に於ては此の波長は數百粁にも逹するのである。周期といふのは或地點を波の山が通過してから次の山が通過するまでの時間であつて津浪の波では之は十數分乃至數十分と言ふ長い時間である。
 從つて此の様な波をある地點で見て居ても波の形は決して眼に見えるものではなく、唯だ海面が數十分の周期で何回も上下するのみである。此の様な波を單に津浪と言ふ事もある。
 之に反して暴風颱風等に因る津浪は、其の地點に於ける氣壓の降下風向の變化等によつて發生っするものであつて、決して其自體に傳播する性質を具へて居るのではなく、單に颱風又は其他の氣象狀況の進行につれて、次々の土地に順々に津浪が起つてゆくのに過ぎない。且つ其の海面の變化も何囘も上下する様の事なく、只一二度比較的急激に上昇し、其の後徐々に降下して平上に復するのである。
 此の二つの津浪を區別する爲に前者を地震津浪又は單に津浪と言ひ、後者を暴風津浪、或は風津浪と言ふ。又風津浪の内、海面の異常上昇の緩徐なものを高潮と言ふのである。
 津浪と云う言葉は又以上の様な海底の地震暴風等に始まつて、陸上に海水が溢流し、後平常に復するまでの全體の現象を言ふ場合にも用ひられる。
 斯様に津浪といふ言葉の意味するものは色々であるが、殆ど凡ての場合に於いて、前後の文意によつて、其れが何を意味するか明瞭であるから、殊更に新語を作って區別するにも及ばない様である。
 津浪とよく混同して使用される言葉に海嘯といふのがあるが、此は全く別箇の現象である。此は支那浙江省の銭塘江に於て見られるものが最も有名であるが、其外にも英國のセバーン河、佛國のセーヌ河、スマトラのスンぎ、ローカン河、印度のフーフリー河、ナグナ河、北米のコロラド河、南米のアマゾン河等に於いても見らる。
 潮浪が河口が廣く、上流程段々に狭くなつてゐる様な河へ入ると、波高即ち波山と波谷との高さの差が段々に大きくなり、浪の前面の傾斜が段々と急になつて來る爲と、河水が潮浪の進行と逆方向に流れようとする爲に、潮浪は前面の傾斜の裾が崩れて白泡を立てつつ河を溯るのである。此の現象を海嘯又は暴潮湍と言ふのであつて、全く潮汐の爲に起るものであり、錢塘江のものは每日二囘、其他に於ては大潮期に多く起こるものである。波高の發達の著しくない場合には潮浪の最前部は崩れずに此處に數箇の波を生じて此の波と潮浪の山とが一緒に河を溯る事がある様である。海嘯が來る前には河水が下流に流れ、水位は下りつゝあるが、海嘯の通過と同時に水位は突然上昇し、又流れの方向が逆になり、其後暫くの間は水位は上昇を續け、三四時間の後に高潮に達する。
 海嘯に伴う此等の河水の運動は、地震津浪の或場合に於ける海水の運動とよく似てゐるから、其の爲に或は混同するのであるかも知れないが、此の兩者は前にも述べた通り、全然原因を異にする別箇の現象である。
 津浪に關して最も確實な報道を興へた呉れるものは檢潮儀である。檢潮儀と云ふのは時々刻々の海面の降昇を自動的に記錄する機会であつて、測地作業、土木工事、船舶の運用其種々の事柄に於いて必要な其の土地土地の潮汐の模様、性質、平均海水面の位置、其他の量を求める爲に諸所に裾付けられてゐるものである。
 檢潮儀は其の構造から三種に大別することが出來る。第一種、第二種は共に海と狭い通路によつて連なってゐる井戸の中に浮かべた浮標の昇降を記錄するものであつて、第一種に於ては時計仕掛けによつて一様に送られてゆく紙の上を浮標の昇降に從つて鉛筆が上下するものであり、第二種のものでは記錄紙を卷いた圓筒が浮標の昇降と共に左右に廻轉し、鉛筆は時計仕掛によつて圓筒の軸の方向に記錄紙の上を一様な速度で滑つてゆくのである。第三種のものは主に携帯用であつて、海中一定のところに於ける水壓を、海水又は空氣を媒介して陸上に据ゑた器械に導いて其處でペン又は鉛筆の運動に換へるものある。第一圖には第一種に屬するケルビン式檢潮儀を掲げて置く。

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地震の規模別の表示

第二節 津浪發生の機功

 津浪の原因として考へられるものは前節に述べた様に色々ある。其の一つである海中火山の爆發によるものゝ例は明治十六年八月二十九日南洋スンダ海峽に在るクラカトア火山の爆發による津浪、寛保元年七月十三日(西暦一七四一年八月二十三日)の渡島大島の噴火に因る津浪等である。第二の原因たる地震又は火山の噴火等に因つて多量の岩石土砂が崩潰して海中に轉落する爲に起こるものゝ例は、寛政四年四月朔日(一七九二年四月廿一日)の肥前國溫泉嶽前山の崩潰、一九六六年四月二日の布哇マウナ・ロア火山のカババラ谷の崩壊、一九八三年二月五日の伊太利カラブリア州大地震の際に於けるシルラ岬の崩壊によつて起こつた津浪等を數へる事が出來る。
 第三の原因である暴風雨による所謂風津浪は其例可成り多く、近いところでは大正六年の東京灣の風津浪、明治三十二年の田子浦の風津浪等あり、最近の京阪地方の津浪も亦此に屬するものである。風津浪に就ては第七節にい於て詳説する積りである。
 然し乍ら津浪の原因として一番多いものは地震によつて生ずる海底の地形變動である。地震による海底の震動をも大洋の底は、大陸を形成して居るシァルといふ酸性岩石の層の下に横たはつてゐる所の、シマと謂ふ、より鹽基性な、より密度の大きな岩石より成る層が露出して
ゐるのである。而してシマはシァルよりも粘性に富みよく大きな變形を爲しうるものと考へられて居る。從つて海底に於ては陸上に於けるよりもより大きな地形變動、卽に隆起、陷沈等を生じ易いのである。
 處で關東地震、丹後地震、北伊豆地震等、最近十數年の間に起こつた大地震の後には必ず三角測量及水準測量を行つて、其の結果を地震前に於ける値と比較してゐるのであるが、其れによると、測量の度每に、どの地震についても地形變動が著しく起こつてゐる事を發見したのである。昭和八年の三陸津浪を起した震源が海底であつたから、陸上には恐らく地形變動は生じては居るまいと想像されたにも不關、其の後に行つた三角測量の結果に依れば第二圖に示したような地形變動が生じてゐたのである。此を以て見れば海底には餘程大きな地形變動が生じたであらう事を想像されるのである。
 海底に於ける隆起沈降は其の測量が六ケしいから、さう度々は行はれないが、關東地震と丹後地震の後には海深測量が行はれた。其の結果によれば丹後地震に際しては海底には著しい變動は發見されなかつたが、關東地震の際には相模灣内に二百米餘も陷沒した箇所が發見された事になつてゐる。此の様な大きな値は或は測量の間違であるかも知れないが、陸上に於けると同程度、或は其の數倍程度の變動は確にあつたに違ない。

 図:第二圖 三陸地形變動

 扨此等の地形變動が地震の發生と同時に瞬間的に生ずるものであるか或は其の完了迄に數分乃至十數分間の時を要するものであるかといふ問題は地震學上のみならず、津浪の發生にも重大な關係があるのであるが、關東地震の際に隆起地帶にあつたよこた横須賀等の檢潮儀の記錄によれば、其は瞬間的ではなく多少の時間を要した様に見受けられる。
 扨此の様に海底に或る地形變動が比較的短時間の間に生じた時には其處に波が發生して四方に傅はつて行くに違いないが其の波の波長や周期は如何なるものとなるであらうか。ただしこの場合地形變動を爲す區域は一般に海の深さに比して非常に大きく、其れの終了に要する時間は出來た津浪の周期よりも餘程小さいものと考へられる。斬様な場合に生ずる波の形、出來方等は模型實驗によつて研究するのが一番早道である。
 深さ二-六糎の水層の底に直徑十糎の喞子を装置し之を色々の速度を以って上げ又は下げて海底の地形變動を象つた模型實驗の結果から推して考へるに、海底の圓形區域が陷沒すると、其の區域の眞上の水面は恰も喞子の二倍位の直徑の洋鐘を逆様にした様な形に凹むが、其の凹みは忽ち周圍から流れ込む爲に埋められて淺くなり凹みの中央部は遂に平衡位置を通り越して平均水面より上に出で洋鐘形の山を作るのである。而して此の山の周圍には最初に出來た凹みが環狀に殘つてゐて、喞子から外方へと傅はりつゝあるのである。處で平均水面より上へ出た山は極限に達すると其の中央が凹み初め、遂に再び平均水面下に洋鐘形の凹みを作るので、此時には凹みの周圍には環狀の山が出來て居り其の外側に環狀の谷が出來てゐて、共に外方に進行してゐるのである。喞子眞上の水面は斬様にして平均水面の上下に幾度も振動を繰返すが一囘每に其の振幅を減少して遂に平靜となる。而して其の振動の度每に環狀の波を送り出すのである。更に換言すれば喞子眞上の水面は定常的振動を爲し、其の周圍から環狀の進行波を發生するのである。從つて進行波の第一波は下げ波となり波高は後の波程小さくなる。
 海底の圓形區域が隆起した場合も以上と略同様であるが、只此の場合には喞子眞上の水面は最初に洋鐘形の山となり、次に凹むから外方に進行してゆく波も第一波は上げ波である。
 模型實驗に於ては出來る波の數は二ー三であるが、此は恐らくは模型に於ては水の粘性や水槽の底の摩擦が過大に效く爲に、喞子上の定常振動が早く減衰する為であつて、實際の津浪の場合には波の數は更に多數であらうと思はれる。
 此等の波の發生の模様は第三圖第四圖に於て知ることが出來る。此等の圖は模型實驗にて得られた刻々の水面の形であつて、喞子の中心を通る垂直面の切り口である。

 図:第三圖 陷沒
 図:第四圖 隆起

 斯様にして生ずる波の波長は大體に於て喞子の直徑の二倍程度であつて、其の進行速度は重力の加速度と水層の深さとの積の平方根で表はされ、波長に関係しない。從つて一度出來た波の形は變る事なく何處までもたもつて行くものである。
 海底の地形變動區域の一半が隆起を爲し他の半分が陷沒をした場合には、前に述べた隆起と陷沒の場合を、中心をずらして重ね合せたものになるから其の結果は可成り複雜なものとなるが、隆起地域の方が近い地點に於ては津浪の初動は上げ波となり、叉反對に陷沒地域の近い地點では津浪は下げ波で初まる筈である。昭和八年の三陸津浪の際に三陸沿岸では津浪の初動は全部上げ波であつたのに反し、北海道、本州西部、ホノルル、北米、南米沿岸等に於ては初動は下げ波であつた事は地形變動地域の東側が陷沒で、西側が隆起した事を示すので、此を此の地形變動地域が丁度タスカローラ海溝の西斜面であつた事と綜合して、此の地形變動は海溝を益々深くしようとする造山運動の現れであると考へる向もあるのである。
 實際に海底に起る地形變動は、模型實驗に於ける様な簡單なものではなく一般に甚だ複雜な形を爲した地域内で起り、隆起と陷沒とが錯雜して居り、且全地域の變動が同時に生ずるものではなく、其處に幾何かの時間的差異があるであらうから、其から生じた津浪は恐らく、色々な波長で、上げ叉は下げの初動を持つた幾種もの波が重なり合つたものとなるであらう。從つて津浪は元々色々な周期の波の混合している複雜な波形を持つたもので、其が海岸に到達する時は後節に述べる様な海灣の影響に因つて更に其の複雜さを增すものであると思はれる。
 然し一方波長の短い波は周期も小さいから、海底の摩擦や、水の粘性や波の反射等の爲に、波長の長い波よりも急速に減衰するものであるから、津浪の發源地から非常に遠い場所、屈曲した狹い灣の最奧、狹い灣口を持つた灣内等に於ては、津浪は比較的長い周期の波のみとなり、波形も割合單純となるのである。
 此等の事柄は第五圖・第六圖に示した昭和八年の三陸津浪の青森縣三戸郡蕪嶋に於ける記錄と、同じ津浪の北米桑港に於ける記録と比較すれば容易に諒解しうるであらう。

 図:第五圖 昭和八年三陸津浪の青森縣三戸郡蕪嶋に於ける記録
 図:第六圖 昭和八年三陸津浪の北米桑港に於ける記録

 以上の場合の凡てを通じて、若し海の深さが一様であるならば波の高さは四方へ擴がつて行くに從つて、發源地からの距離の平方根に反比例して小さくなつてゆくのである。
 津浪の發源地に於ける波高は地形變動の大きさと、其が起る速度とによるから一概に言ふことは出來ないが、恐らく數米程度のものであらうと思はれる。然るに津浪の周期は前にも度々述べた通り數十分乃至十數分といふ値であるから、津浪の通過によつて海面が上下する加速度は非常に小さくて、到底人體には感じられないのである。從つて大洋中で汽船等が津浪に出會つても何も感知しないで終ふ事が多い。
 沖に出漁中の船が歸港してから初めて津浪のあつた事を知つて驚いたと言ふ話は度々耳にするのである。
 但し地形變動を爲した地域の極く附近に居つた船は暗礁にでも乗上げた様な非常な衝撃や振動を感ずる事がある。此の様な現象を海震といふのである。此の地震動の内の極く周期の短い部分が、水中を疎密波となつて傳つて來て船を振動せしめるのであつて、殆んど例外なく上下の激動である。
 昭和八年の三陸津浪の際に海震を感じた船名及其の時の位置は次表の様である。

 表:昭和八年の三陸津浪の際に海震を感じた船名及其の時の位置

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第二圖 三陸地形變動
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第三圖 陷沒
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第四圖 隆起
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第五圖 昭和八年三陸津浪の青森縣三戸郡蕪嶋に於ける記録
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第六圖 昭和八年三陸津浪の北米桑港に於ける記録
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昭和八年の三陸津浪の際に海震を感じた船名及其の時の位置

第三節 津浪の傳播

 前節に於て述べた如くにして生じた津浪は次第に四方八方へ傅はつて行くのであるが、津浪の波長は海の深さに比して一般に非常に大きいから、其れは所謂長波の性質を具へて居るものであつて、其の傅播速度は波長に關係なく單に傅はつて行く海の深さのみに依つて定まるのである。更に詳しく言ふのならば、gを重力の加速度、hを海の深さとするとき、其の速度は(√gh)で興へられるのである。gは略980cm/sec^2 であるから津波の傅播速度は海の深さが100mの時每秒31.3m、海の深さ1000mの時每秒99.0mになる。
 從って津波が大洋を傅はる速度は非常に早い。例へば昭和八年の三陸津浪が北米合衆國の桑港まで到達するに要した時間は十時間二十分であり、ハワイのホノルル港まで約七時間であつた。同じ津浪が本州東岸の各港に到達するに要した時間は左の通りである。

 釧路 44分 氣仙沼 69分
 室蘭 85  月濱  54
 函館 78  石巻  71
 八戸 38  調子  51

 此等の傅播速度の公式を用ひて逆に津浪の發生箇所は石巻の東方に當る直徑約六百粁の地域であつて、津浪の波長と略同程度の大きさとなるのである。
 津浪の傅はる速さは斬様に海の深い所程速いから、若し津浪の進行方向に向つて左側の海の方が右側の海よりも深いとすると、波の左側は右側に比して前へ出て來るので、波の進路は右側へ曲るのである。卽ち津浪の進路は海の淺い方へ淺い方へと偏つて行くのである。從つて海底の地形によつて津波の勢力が集注する處と分散する處とが出來るのであつて、募る處では津浪の高さは其の周圍に比して以上に高くなる。北海道襟裳岬附近、岩手縣氣仙郡廣田村根岬附近、宮城縣亘理郡坂元村附近等は其の一例であつて、海岸は平坦或は却つて突出してゐるにも關はらず、津浪の高さはその附近よりも常に甚だ高くなるのである。
 海の深さの變化が割合に緩い場合には以上のような現象が生ずるのであるが、深さの變化が急激である場合には津浪の勢力の一部は其處で反射されて了ふのである。從つて斬様な場所の手前側では津浪の高さは高くなり、其處を通過して向かう側では波高が低くなるのである。若しも海岸に於て津浪の勢力が全部完全に反射されるとすれば海岸近くでは津浪の高さは大洋中に於ける其れの二倍となるのである。津浪の高さが大洋中では意外に小さく、海岸に來て大きくなる事は次節に述べる様な影響にもよるが、この反射の影響も亦多少あるのであらう。
 次に長波の性質として、水の分子の運動速度は海が淺くなる程大きくなる。從つて若し津浪が淺い海を通過した場合には、海底の摩擦の增大の爲に減衰作用を受けて波高が小さくなるのである。此の作用は波の周期の短い程甚だしい。
 昭和八年の三陸津浪は南米イキク港の檢潮記録に20~30cmにも及ぶ全振幅を示したにも關らず、其れよりもずつと近いマニラ、濠州のシドニー、メルボルン、叉はニュージーランドのウェリントンに於ては何等の津浪らしいものをも認め得なかつたのは、南洋諸郡島や其他の淺海に於ける反射、減衰の爲であらう。本邦に於ても此の津浪は伊豆以西の諸港に於ては、三陸、北海道で記録された様な20~30分といふ割合短周期の波は認められず、50~60分といふ比較的長周期の波のみが記録され、然も其の振幅が非常に小さかつたのは恐らく伊豆七島から小笠原群島へかけて横たはる長い海堆の影響であると思はれる。過去の津浪について見ても概して三陸方面に起つた津浪が東海道方面に割合に被害を及ぼさず、叉反對に東海道方面のものが三陸方面、北海道方面で著しく弱くなつているのも同じ原因によるのであらう。

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第七圖 昭和八年の三陸津浪の進路(川瀨理學士による)
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第八圖

第四節 海岸附近に於ける津浪

 兎も角も斯様にいて津浪が海岸に近づくと、海が次第に淺くなる爲に傳播速度は次第に減少する。然るに波の周期は變化しないものであるから、一周期の間に波の進行する距離、即ち波の波長は段々に短くなつて來るのである。
 反射、減衰等の作用がない場合には波の一波長の間に含まれている勢力は增減しない。然るに一般に波の一波長間の勢力は波高の自乗と波長とに比例する。從つて若し波長が短くなれば波高は波長の平方根に逆比例して大きくなるのである。
 海岸近くでは斯様に波高が高くなる計りでなく波の傳播速度も波高の小さい長波としての値よりも大きくなる。前説に於て長波の速度は√ghであると言つたのは、波高が海の深さに較べて非常に小さい場合に限るのであつて、波高の大きい場合には波の各部分は各々違つた速度で進行するようになる。今波の或る部分の平均海面からの高さをηとすると、其の部分の傳播速度は、√gh(1+3η/2h)である。從つて此の様な場合には波の山は波の谷よりも大きい速度を有するから、波の形は段々に變つて來て、波の前面の傾斜は次第に急になり後面の傾斜は次第に緩くなるのである。此の様な状態が次第に進行すると波の最前線は垂直となり基處では波は崩れて來る。海岸に打寄せる磯波の崩れるのも略此と同じ理窟による。從つて津浪は海岸に大きな水の土手乃至板の様な形を爲して押寄せる筈であつて、三陸邊での目撃者の談とよく一致する様である。此の様な場合には海岸では初め水面の緩昇があり次に引波があつてから、水壁が押寄せる。風津浪の場合にも此の様な現象は稀にあるらしい。此等の事柄は西村理學士の實験で甚だ明瞭に見る事が出來る。第九圖乃第十圖は同氏の實験の結果の一部である。

 第九圖
 第十圖

 然し以上述べたのは波高が20m、30mといふ様な非常に大きい場合であつて、左程大きくない場合には、津浪の周期は長いのであるから、波の前面の傾斜が急にはなるが、崩れるには到らない。波高が更に小さければ、津浪は非常に扁平な波形のまゝで海岸に到達するのである。斯様な津浪を海岸で見て居れば最早や波といふ感じはなく、只水面がモクモクと涌昇り盛上がって來るか、或は海面が潮の滿ちて來る様にジワジワと上昇し又潮の干く様に下つて行くのである。
 波高が小さいとこの水の分子の水平速度は、長波の特徴として同一垂直線上では水面から水面まで皆同じであつて、
 数式
であるが、波高が大きい場合には此は
 数式
となる。此の場合には水分子の速度は却つて遅くなるのである。この何れの場合でも水分子の動く水平距離は垂直距離に比して非常に大きいから水の分子の畫く軌跡は非常に扁平な楕圓であつて、水の分子は楕圓の上側では波の進行方向に、下側では其れの反對になる向きに廻るのである。
 波が崩れてから後の水の分子の速度に就て未だ理論的に求められたものはない様であるが、恐らくは崩れる時の水分子の速度と同程度又はっ其より幾分小さくなるのでくあらう。波高を10mといし、深さ10mの處で崩れたとすると、此時の水の分子の最大速度は前掲の公式のより每秒7~8m.となる。波が崩れて終つてからは波の性質は殆んど失はれて終つて、以上の様な流速を持つた水流と同様になるのであるから、此の様な水流に衝突されるのは約衝突されるのは約30mの高さの瀧に打たれるのと同じであつて、一平方米當りの壓力は約5噸といふ大きな値となる。
 然し、乍ら海岸が非常に遠淺であつたり、又は暗礁が多かつた利する場合には、津浪海岸から遠くであるので、其の附近の部落では既に崩れるのと、減衰作用が激しい爲とで岸に於ける津波の高さは比較的小さくなる。此の好例は宮城縣牡鹿郡一五濱村の大須といふ處であつて、此處は沖合100邊まで廣い範圍に暗礁があるので、其の附近の部落では津浪の高さは大抵6~8m.であつたにも關らず、此處では3.8mに過ぎなかつたのである。
 次に海峡、河川等に津浪が侵入した場合を考えて見る。津浪がの一波長間の勢力は此等の場合には深さの外に幅も變るから波高の自乗と、 海峡の幅と波の波長とに比例するのである。然るに波長は波の速度に比例する、卽ち深さの平方根に比例する。從つて津浪の一波長間の勢力は或る常數に波高の自乗、海峡も深さの平方根及び海峡の幅を掛けたものになる。處が波の一波長間の勢力は反射減衰等の作用の行はれない場合には變化しないものであるから、海峡の幅や深さが奥に行くに從つて變化する場合には必然的に波高が變化しなければならない。其の變化は今述べた事から容易に判る通り、海峡の幅の平方根と深さの四乗根とに逆比例するのである。從つて奥へ行く程狭く又は淺くなつてゐる處では津浪の高さは口元よりも奥の方が著しく高くなるのである。
 然し乍ら此の法則は幅や深さの變化が波長に較べて徐々である場合の事であつて、左様でない場合には反射作用が生ずるから事情は稍異なつて來るのである。
 灣内に津浪が侵入した場合にも此と略同様な事になるが、只灣の場合には奥が塞がって居るのであるから、津浪は其の處で反射されて灣口の方へ戻って來る。處が灣を出ると幅が急に變化するので、津浪の勢力の一部分は灣外に逃れるが一部分は其の處で反射され、位相が逆な波となつて又灣奥に進むのである。
 斬様に津浪は灣口、灣奥で反射を繰返すので灣内には津浪の第一波が灣奥に届いた後は灣の自己振動、卽ち灣の靜振が起る。靜振といふのは丁度盥の水が振動する様に灣内の水面が各所共同じ周期で、同じ位相で上下する振動の事である。盥の水は僅か數秒の周期で振動するが、大きな灣の靜振の周期は數分乃至數時間にも及ぶのである。灣の靜振では灣奥は常に振動の腹、卽ち水面の上下が一番大きい處となり、灣口は常に振動の節、卽ち水面の上下のない處になる。灣奥に行くに從つて狹く淺くなつている灣では、振幅は灣奥で非常に大きくなる。靜振の周期は長波が灣口から灣奥まで達するに要する時間の4倍、4.3倍、4.5倍……になるのである。
 津浪が灣の靜振の周期の一つに近い値を持つて居た場合には、灣の靜振は非常に大きな振幅になる。若しも周期が一致した場合には理論上では無限大の振幅になる事になつてゐるのである。此は共鳴の理によつて容易に理解しうる事であらう。
 灣内に於て我々が觀測する津浪は右に述べた様な色々な作用の重なつたものであるが、普通の灣は大概口が大きく奥が狹くなつて居り、深さも口程大きいのであるから、津浪の高さは灣口よりも灣奥の方が大きくなり、灣奥の部落は大なる被害を受けるのである。岩手縣氣仙郡の綾里灣は其の典型的なものであつて、此の灣は奇麗なV字形であつて且つ兩岸が切立つた様な岸になつて居るので、津浪の高さは何時も灣奥で著しく高く、昭和八年の津浪では、灣口附近では7~8m.の高さであつたのに、灣奥の白濱といふ部落では20~23m.もの驚く可き高さに達して居るのである。三陸地方沿岸の吉濱灣、姉吉灣、合足灣、兩石灣、唐丹灣、越喜來灣の如きは皆此の例である。
 此に反し灣奥の方が灣口よりも津浪の高さが低くなる場合もある。此の様な灣は概ね灣口狭いか又は淺いか或は狹長屈曲していて津浪の減衰が大きい為であると思われる。此の場合には灣奥の津浪は比較的長い周期の波計りとなる。此の様な例は三陸沿岸の氣仙沼東西兩灣、大船渡灣、志津川灣等に於て見る事が出來る。灣が多くの小灣を有してゐる場合にも灣奥の津浪の高さは比較的大きくならないのは、灣奥に達するまでに各小灣に於て勢力を消耗するからであろう。

 第二節に於て述べた通り津浪は數箇の波の群である事と、灣の靜振が起る事の爲に、海岸には數囘乃至數十囘も海水が押寄せるのである。而して若し灣の固有振動との共鳴があれば、押寄せる海水の高さは一囘毎に大きくなる筈である。實際に昭和八年の津浪の時、前記の綾里、吉濱等の灣に於ては數囘乃至十囘も海水が押寄せたのであるが、皆で第二囘目のが一番大きかつたのである。第二囘の後は15~20㎝宛波高が減少したらしい。釜石町、大槌町には其等各囘の津浪の高さを示す數條の浸水痕跡の殘つている所が數箇所あつた。各囘の津浪が襲來した時刻の間隔は略其の灣の固有振動周期であつたらしい。此の第二囘が最大であつた事は津浪と靜振との共鳴のあつた事を示すものであると思はれる。吉濱灣、綾里灣の周期が何れも25分以下であり、檢潮儀に記錄された津浪には30~20分、又は其以下の周期の波が卓越してゐる事は、共鳴の起る可能性を示すものである。
 
 第十一圖 津浪の浸水痕跡

 扨以上に於ては灣内に入つた津浪は灣の中線に沿つて進むものと考えてゐたが灣が屈曲してゐる場合には必ずしも其の通りには行かない。前にも述べた通り津浪の水の分子は相當な流速を持つてゐるから、灣が屈つてゐて其の爲に津浪の進路が曲げられようとする場合には遠心力の爲に曲り角の外側の水位は高く内側の水位は低くなる。且此の様な場合には灣の幅の方向の靜振も誘起されるから、津浪はアチコチ衝突しながら進行するかの様に見えたり(例へば大船渡灣)、又は灣の中央に旋潮點の様なものを生じて、津浪は岸にそつて𢌞つて進むかの様に見える。第一波の後に生ずる靜振についても同様の事柄が言はれる。此の様な現象は陸上に侵入した海水についても起こるのであつて、津浪が部落を掃蕩した路順が實際に觀測されてゐる場合もある。一部學者の中には此等の津浪の運動を指して特に𢌞り津浪等と云つてゐる者もある。

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第九圖
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第十圖
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第十一圖

第五節 陸上に於ける津浪

 次に津浪が陸上に侵入した場合を述べる。津浪の前部が沖合で崩れて來る場合には、前述の如く、それは最早や波ではなく奔流となつて押寄せて來る事恰も貯水池の堤防が決潰した場合の如くである筈である。實際岩手縣氣仙郡廣田村集部落では津浪は烟の様になつて來たといふから、非常な速度を持つてゐたものであらう。此の様な場合には水は斜面を馳け上がるから、浸水面は奥程高くなる。
 單にジワジワと海面が上昇する場合の津浪では岸での部分的反射がある爲に津浪は多分に定常波の性質を具へて來るから水の分子の流速は進行波のそれに比して大いに小さくなつているのであるが、海面が岸以上に上昇すると共に海水は陸上に溢れて來るから水は再び流速を得る事になる。從つて此の場合には流速は殆んど陸上の地形によつて支配され、勾配の少ない程流速は大となり又背後に廣大な平坦地を控えてゐる處程流速大となる。
 若し地上に何の障害物もなく又地表と水との間の摩擦がないとすると、陸上を流れる水の流速は海面の上昇速度に比例し、勾配に逆比例する。上昇速度が毎秒1㎝で勾配が1/100であると流速は毎秒1mになる。斯様な假定の下では水面は常に水平であつて水面の傾斜は生じない。然し實際の地面では草木、家屋等の障害物があり又地表との摩擦もあるから水面の傾斜を生じるが其の傾斜は高々1/100位である。筆者は此の様な傾斜を昭和八年の三陸津浪の時に釜石町只越町附近に於て目撃した。蓋し此處では餘り家の破損もなく家並も揃つて居り、地上浸水高も1m内外であつたからであらう。地上浸水高が非常に大きい場合、砂濱や田畑等で摩擦の比較的小さい場合、又は倒壞家屋多き爲に障害の少なくなつた場合等には水面は殆んど水平になる。岩手縣上閉伊郡鵜住居村の水海部落の谷底は砂濱と草原であるが此の谷の两側の山で杉の植林が海水に浸つた部分丈眞赤に枝が枯れて生きて居る部分との境が見事に一直線になつてゐるのを見た事がある。
那須理學士の津浪の後に行つた平板測量の結果によると此等の事情がよく判るから、此の三つの場合の例として下閉伊郡大槌町、氣仙郡綾里村白濱及び鵜住居村两石の谷を掲げる。

 図:第十二圖 大槌町の浸水
 図:第十三圖 綾里村白濱の浸水
 図:第十四圖 鵜住住居村两石の浸水

風津浪の場合の浸水も全く此と同様に考へる事が出來る。昭和九年の關西の風津浪では大阪市内の浸水面は約1/3500の勾配をして居つた。此を家並による摩擦の爲であると考へ、海面の上昇速度を每秒一粍とすると流速は毎秒3.5米となる。
水流が障害物に及ぼす壓力は流速の二乘に比例する。從つて家屋其他の破損は流速の大きさに支配される事が多い。
而して流速は前述の如く地形によつて大方決まつて來るのである。例へば、背後に崖や山のある様な處では流速は極小さいから家屋は相當浸水しても倒壞しない。第十五圖は宮城縣桃生郡十五濱村雄勝部落の略中央にある某家の破損状態であるが、背後に山のある爲、鴨居上(地上2.5米)迄浸水したが倒壞しなかった。但し柱は床下にて挫折し、建具は流されて終つて居る。此の附近の海に近い處の家は皆流失したのである。此に反し流速の大きい處では浸水1.5米位で既に倒壊するのである。又水流の壓力は同じであつても、其れの掛る面積が大きい程働く力は大きくなるから、家屋の破壞すると否とは亦地上よりの浸水高にもよるのである。昭和八年の三陸津浪での經驗によると、流速が數米の程度の時は浸水高が地上2mを越せば木造一階建家屋は倒壞し、二階建では階下が壞れて二階が一階になる。浸水高が1.3mになると、土臺に密着してゐない平家は浮き出して壞れる。又浸水高が1~1.5mでは家は大槪半壞程度に破損する様である。

 写真:第十五圖
 図:第十六圖 釜石町の一部の被害狀況(甲)と地上浸水高(乙)(石本荻原两氏による)

 津波による破壞程度の一番甚だしいものは流失であつて、家は一本一本の柱、一枚一枚の板に分解されて押流され洗ひ掃はれる。中には土臺石まで流れ去つて、四邊一面の砂原となつて終ふ處もある。岩手縣上閉伊郡唐丹村本鄕の如き、又宮城縣桃生郡十五濱村荒屋敷の如き皆比例であつて、其處に前に家があつた事を知らなかつたら只海岸の砂濱のつゞきと思つて見逃して終ふ程である。被害の一番甚しい處は寫眞に撮つても一向被害を受けた樣には見えないものである。

 写真:第十七圖 荒屋敷
 写真:第十八圖
 写真:第十九圖
 写真:第二十圖
 写真:第二十一圖

 第十七圖は前記の荒屋敷の一部であるが土臺石丈處々に殘つてゐる。第十八圖は赤崎村合足の谷であるが、此處は谷中樹は薙ぎ倒され家は洗ひ流されて終つたのである。第十九圖は綾里村港で、此附近はもと家屋櫛比して居たのであるが今は何一つ殘つてゐない。
 流失の次に來る被害程度は倒壞であつて、此が一番寫眞となつて報道される事の多いものである。其被害の状態は筆によるよりも寫眞による方が判り易い。第二十圖は大槌町安渡の某家、第二十一圖は唐丹村小白濱、第二十二圖は釜石町嬉石、第二十三圖は同町松原に於ける某々家であるが、倒壞の甚しいものは矢張り柱は柱、板は板となつて其場に崩壞するのであるが、稍程度の低いものは屋根丈は浮いて流れ又は其場に其儘残るものである。從って屋根に登つたり又屋根裏に逃込んだ爲に助かった例は時々耳にするのである。
 倒壞した家の柱や羽目の一部分は津浪の引くと共に沖合に運び去られるのであるが、一部分は倒壞區域と半壞區域との境界に押付けられ、其處に山積するものである。第二十四圖には釜石町製板所付近にて見掛けたものを掲げた。
 次に來る破損程度は半壞で柱の挫折、建具の流失等の爲に家は全くの伽藍洞となつて終ふ。又家の一部をもぎ取られ、又は階下が其儘一階となるものもある。其の次が床上浸水、床下浸水といふ順になる。既に前掲の寫眞で氣付かれたことであらうが、家屋の破損には單に水流のみでなく、其によつて押流されて來る巨大な漂流物、例へば船、材木等の衝突が重要な役割を演じて居る。此等の漂流物は假令其の速度は小さくとも質量が大きい爲に大きな運動量を有してゐるから其が衝突する時は非常に大きな力を及ぼすのである。第二五圖は釜石町中央尾崎神社附近の被害狀況であるが、煉瓦建の建物までやられて居る。第二六圖乃至第二八圖は夫々釜石町場所前、大槌町海岸、宮古町鍬ヶ崎海岸であるが浸水高が地上2mもあれば數十噸の船も陸上に流される事を示すものである。風津浪の際には後に述べる様に海面が高まる外に風の爲に巨きな浪が生ずるので千噸以上の船が陸上に搬ばれる事がある。昭和九年の京都地方風津浪の際には牟婁丸(一、四〇〇噸)摩耶丸(三、一四五噸)等といふ巨船が岸へ乘り上げた。

 写真:第二十二圖
 写真:第二十三圖
 写真:第二十四圖
 写真:第二十五圖
 写真:第二十六圖
 写真:第二十七圖
 写真:第二十八圖

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第十二圖 大槌町の浸水
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第十三圖 綾里村白濱の浸水
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第十四圖 鵜住住居村两石の浸水
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写真 第十五圖
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写真 第十六圖 釜石町の一部の被害狀況(甲)と地上浸水高(乙)(石本荻原两氏による)
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写真 第十七圖 荒屋敷
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写真 第十八圖
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写真 第十九圖
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写真 第二十圖
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写真 第二十一圖
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写真 第二十二圖
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写真 第二十三圖
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写真 第二十四圖
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写真 第二十五圖
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写真 第二十六圖
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写真 第二十七圖
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写真 第二十八圖

第六節 津浪に伴ふ種々の現象

昭和八年の三陸津浪は、各方面の學者によつて種々な方面から研究されたのであるが、津浪の襲來した時と地震を感じた時との間に於て、遠雷の如き音、或は沖合にて大砲を撃ちたる如き音、或は野砲を發ちたる如き音、或はダイナマイトの如き音を聞いた處が頗る多い。しかも其の様な音を二囘も三囘も聞いた處もあるのである。例へば宮城縣下缺濱に於ては地震後8分後東北東に當つて砲聲様の音を聞き、其後5分にて稍小なる音、更に20分後に於て稍大なる音と三囘も聞えた。此様な音を聞いた時刻は色々あり、殊に音と津浪襲來との間の時間の間隔は實に區々で5分より40分位まであるが、地震後の時刻に直すと割合に整つて、地震の發震後25分乃至30分に大砲様の音を聞いたのが一番多く、發震後5分頃遠雷の如き音を聞いたといふ例が其次に多く、發震後10分で大砲又は遠雷の如き音といふのが三番目に多い。音の聞えた範圍は三陸沿岸は元より、北海道南部、函館市附近、北海道帶廣附近より岩手縣内諸處、靑森縣下數箇所の外、東北本線の沿線、又遠くは秋田縣下の大曲町、花輪町といふ太平洋岸から160粁も隔つた處まで廣がつてゐる。但し海岸の直ぐ近くでは却つて聞いた者少なく、少しく山手に入ると岩手縣下なら殆んど何處でも聞いた者がある様である。音の聞えた時刻と聞えた場所との關係はない様である。
此の音の本姓に就ては、或は津浪が外洋に面した斷崖に打付けた音であると言ひ、又或る者は海水中を傳播し來つた疎密波が空中へ出て音となつたと説明するが、井上理學士の研究によると、此は本震後に起つた餘震後に因る地鳴であるらしい。
一般に震源から出た地震波には非常に周期の短い0.04秒或は其れ以下といふ様な波が混合して居るのであるが、其が地面を傳はつて來た後空中に出て音波となるのが地鳴であつて、東京の様な土層の厚い處では滅多に聞かれないが、岩石地方、例へば筑波山麓、三陸地方、中國地方、和歌山地方の如き處に於ては地震は大抵地鳴を伴ふのである。昭和八年の三陸津浪を起した地震には其の發震後6,9,26,55等分に顯著な餘震が伴つたのであるが、此の時刻は前述の音の時刻とよく合ふ樣である。
 聽音場所と聽音の時刻とに別段の關係のない事、海岸の砂濱にては聞えず、却つて秋田地方にまで聞えた事は、井上理學士の説が事實である事を示す樣に思はれる。
 勿論此等餘震の外本震の時にも、又津浪が押寄せて上陸した時、或は引いた場合にも相當な音がした樣である。
 音の聞えた方向に就ては震源又は海の方向からと言ふのが一番多いが、地中から聞える樣に思つたと言ふのもあり、又八戸市鮫港では町の背後にある崖の方から聞えたと言ふ事である。

 図:第二十九圖

 又津浪に伴つて異樣な光を見たと言ふ者が相當にある。武者金吉氏の調査によると、其光を見た場所と見えた方向とは第二十九圖の樣に分布して居る。光の色は電線のスパークの樣な靑又は紫と言ふのが一番多い樣であるが、黄又は赤色といふのも決して少なくない樣である。光つた場所又は物も色々あつて、津浪の波山の薄く光つたもの、海面が一面にギラギラしたもの、海岸に押寄せた海水が靑白く光つたもの、潮が引いた時海底が靑く光つたもの、流星の如きもの、ハツキリした丸い形の光が波山に一列に並んで靑く光つてゐたもの、可成り明るい靑い光が海から探照燈の如く、或は稻妻の如くパツと放射するもの、夕燒の樣に空が一面に明るくなるもの等々、其の種類は實に多い。此等の内一二の例を擧げれば、釜石町の小野寺有一氏は町の高處へ逃げて見てゐた處、津浪が灣の中程までやつて來た時に、ハツキリとした丸い盥か菅笠程の大きさの光り物が三つ程並んで波山の少しく下に在るのを見た。其の色は靑味がゝつた紫色で電氣の放電の樣であつたが、ズツと續けて光つてゐたので波間に揉まれてゐる家の壞れたものや、渦卷く波頭がハツキリと見えたと言ふ事である。釜石水産試驗場の千葉忠二氏の實見談では津浪は眞黑に見えたが丸い形の光り物が數箇等距離に並んで波頭に見えた。そして波と共に激しく動いてゐたが、やがて一つ一つ消え失せた。其の光は行燈の樣であつて、氏は初め波に流された船の檣燈だと思つたさうである。
 同樣な眞赤な火の玉が海上に浮んで居るのを見た漁師も澤山ある樣である。釜石附近に於ては釜石灣口の方角に當つて、地震後で津浪の襲來前に、空がパーツと明るくなつたのを認めたものが甚だ多い。唐丹村下荒川に於ては津浪襲來直前にピカピカと稻妻の如き光が沖合に見えだんだん明るくなつたので、逃げる時足元がよく見えたと言ふ。
 此等の發光現象は昭和八年の三陸津浪に限らず、昔の津浪の記錄にも記されてゐるのであつて、種々な資料の檢討の結果、其の實在は確かであると言ふことである。此の發光の原因に關する寺田博士の研究によれば、此は發光プランクトンの群れが津浪に因る擾亂の爲に一齊に刺激されて同時に持續的發光したと考へるのが一番無理のない説明であつて、プランクトンが一齊に發光すれば、相當な強さの光を發するの事は決して不可能ではないと言ふ。
 津浪に前後して魚類の生態又は魚獲にも變化が現れる様である。明治廿九年の津浪の前には三陸地方は非常な鰯の大漁であつたが、昭和八年の津浪の前にも鰯の大漁があつた。而して津浪の後には烏賊の大漁であつた事も兩囘とも同じであつて、全く偶然の符合ちは思はれない。同地方では言はれている所の鰯でやられて烏賊で助かるといふ言葉も何か未だ知られて居ない原因の存在することをし示すのではなからうか。或は鰯の豊漁の年は鰯の住む暖い、從つて輕い水が比較的北のほうまで流れてゆくので、海底に及ぼす水壓が減少する爲に地震を誘發し易いのではないかと思ふ。
 末廣恭雄氏に依れば昭和八年の津浪の前夕三崎近海の表層で採集された眞鰮は何れも非常に大量の定着性硅藻類を食して居つた。然るに津浪後三日目に八張同じ場所で取れたものは皆適量の浮遊生物を攝取してゐた。眞鰮は常時、少なくとも此の季節では浮遊生物を適量攝取するのが普通であるから、以上の事柄は津浪に先立つて海の表面層に大量の定着性硅藻類が出現した事を示すものと考へられると言ふ事である。定着性硅藻類は一見泥の様な外觀を呈するのであるから、此の事は津浪前に鰯が泥と喰つてゐたといふ三陸沿岸も漁師の言と符合するのである。何故に地震津浪に先立って定着性の硅藻類が表面に浮き出るかは明らかではないが、或は津浪を起す大地震に先立つて海底に何等の變動を生ずるので此の様な現象が起るのではなからうか。
 若し津浪に先立つて多少の地形變動が起こつたのならば、調査に當つて時々耳にした所の、津浪の數日前から小津浪の様なものがあつたとか、潮の干滿や潮流などが常とは異なつてゐた等といふ漁師の話も滿更後から考へてのコジ付けでは無いであらう。津浪前に鰯(主に眞鰮)の豊漁である事も或は斬様な變動によつて食餌の豊富になる事と關係があるのではあるまいか。
 津浪の爲に魚類の廻游路の變化することも亦ある様である。津浪は前にも述べた様に海底まで同じ様に水分子が運動する所謂長波であるから、津浪が襲來すれば當然海底は攪き廻され荒らされるのであるから、津浪の原因たる地形變動と伴つて、海況を變化させる事は容易に考へ得る事であつて、其の爲に魚の廻游狀態が變化する事もあつて然る可きであらう。
 又津浪の數日前より數日後に亙つて井戸水に變化を起す事も事實であるらしい。勿論此等の井戸は津浪に因る浸水は受けなかつた區域のものである。變化は主に減水又は混濁として現れる様である。昭和八年の津浪の調査に當つては、特にしばしば此の様な例に出會つたのである。一例を擧げれば岩手縣越喜來村浦濱の村社新山社社務所の井戸は海面上22米の高處にあり深さ11米で未だ曾て涸れた事が無かつたのに、津浪前四五日から混濁涸渇した。而して津浪數日で恢復した由である。又同村甫嶺にある龍昌寺といふ寺の井戸も涸渇、同村泊部落平田玉男方の井戸は津浪の三日前から混濁、又同村浦濱及川義雄、同じく熊谷與右衛門方の井戸、同村崎濱正源寺の井戸何れも津浪前、或は津浪後に混濁又は涸渇したとの事である。前記、龍昌寺の井戸は明治廿九年の津浪の時にも涸れた由、記錄に見えてゐる。
 此等の變化が何に因つて起こつたかは全く不明であるが、津浪前から何等かの變化(恐らくは地殻の傾斜變化であらう)が地盤に生じて來た爲に地下水の流量、性質等が變化したと考へられぬ事もない。
 地震又は津浪に先立つて地電流や地磁氣に或る種の變化が觀測される事からも、津浪の發生前から地殻内に、或は更に其よりも深い處に何等かの變化を生じてゐるのではないかといふ疑が抱かれるのである。中村左衛門太郎博士によれば、昭和八年の三陸津浪に際しても三日位前から仙臺に於ける地電流に不規則なる變化が表れて居つたと言ふ事である。又同博士によれば三陸地方の磁石氣の伏角は明治二十八年と大正元年との間に第三十圖に示した様な變化をして居り、又大正十一年と昭和八年との間に第三十一圖に示した様な變化は可成り大きく且前囘と今囘とでは向きが反對である。然るに前の期間には明治二十九年の三陸津浪があり、後の期間には昭和八年の津浪を含んでゐる事と、後の期間における仙臺の變化は津浪の前數箇月から現はれて半永久的に續いてゐる事とから考へて、此等兩囘の變化は夫々明治二十九年と昭和八年の津浪に關係して、其の數箇月前から生じたものであらうといふ。又其の變化の向が前囘と今囘では反對である事は前囘の津浪は三陸沿岸では下げ波で初まつたのに、今囘は上げ波で初まつた事と關係がある様に見えると言ふ事である。

 図:第三十圖
 図:第三十一圖

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図:第二十九圖
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図:第三十圖
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図:第三十一圖

第七節 暴風津浪

 昭和九年九月二十一日の大阪灣の暴風に伴つた海水の大氾濫は今猶ほ續者の耳目に新たであらうが、此ういふ風に暴風、颱風等に依つても地震津浪に類似の現象が生ずる事がある。是を暴風津浪、又は風津浪と言つて、地震噴火等の原因によつて起る津浪と區別してゐる事は既に第二節に於て述べた。從つて暴風津浪は海底の地形變動とは全然關係がない。
 一般には暴風津浪の事を高潮とも云ふのであるが筆者は此兩者に多少の區別がある様に思ふ。第三十二圖は明石港内に於ける海洋氣象臺の檢潮儀の記錄であるが、圖に就いて見れば明かである如く、此の曲線は(イ)平常の潮汐、(ロ)比較的緩慢なる海面の上昇及沈降、(ハ)比較的急激なる海面の上昇及沈降から成り立つてゐる。筆者は此等の中(ロ)の如きものを高潮、(ハ)の如きを暴風津浪と言ふのが適當であると思ふ。それは津浪といふ概念が海面の唐突、急激なる異常上昇及沈降を内包とするものであるからである。勿論此の兩者の中間に在つて何れに屬するか判然しない場合もある。

 図:第三十二圖

 今低氣壓が大洋の上に在る場合を考へて見る。一般に靜止せる海水中の或一點に於ける水壓は、今考へてゐる點から上に在る海水の重量と、其處の海面に働いてゐる所の大氣の壓力との和である。
 從つて甲といふ地點の氣壓が乙といふ地點の氣壓より高いとすると、甲といふ地點の或る深さに於ける水壓は、乙地點の同じ深さに於ける壓力よりも大きい。從つて氣壓の高い甲地點に在る海水は氣壓の低い乙地點へ押やられ、其の結果として乙地點の海面は盛上り、甲地點の海面は凹む事になる。而して盛上り又は凹んだ海水の重量が氣壓の不均衡を補ふ樣になれば其處で釣合の状態に達するのである。此の時の水面の凹凸は水銀柱の高さで言ひ表はした氣壓の不均衡の13.6倍になる。例へば甲地點の氣壓が七六〇粍で、乙地點のが七五〇粍であれば、甲乙兩地間の氣壓の差は一〇粍であるから其れに因つて起される海面の高さの差は136粍になる。
 然し乍ら以上は低氣壓が一箇所に止まつてゐる場合又は其の進行速度が其處に於ける長波の傳播速度に比して非常に小さい場合にのみ成立つ事であつて、低氣壓の移動する場合には其の進行速度が長波の傳播速度に近づく程海面の凹凸は大きくなる。低氣壓の進行速度と長波の傳播速度が一致した場合には、若し海底の摩擦や海水の粘性による減衰作用がなければ、海面の凹凸は頗る大となる。斯る場合には氣壓の谷と海面の山とは最早一致しないで氣壓の谷は海面の山の前面の傾斜に來るのである。
 更に低氣壓の速度が大きくなつて、長波の速度を越した場合には氣壓の谷は海面の谷と一致する樣になる。而して海面の凹凸は波と低氣壓との速度の差が大きくなる程小さくなる。此は一見甚だ奇異の觀を抱かしめるが、低氣壓の進行する海面が無限に廣い場合には此樣な現象が起つても差支ない樣である。
 低氣壓が其の直徑に比して割合に小さい海灣の上を通過する場合には、其の灣の靜振を誘起するのである。殊に低氣壓の進路が灣の長さの方向である場合、更に又通過に要した時間が靜振の周期の半分と同程度の大きさである場合には、其の靜振の發達は著しくなる。
 以上は單に氣壓の影響計りを述べたのであるが、低氣圧には必ず強風を伴う。從つて若し風が沖の方から岸に向かつて吹けば風と海面との間に摩擦力が働くので其の爲に海水は岸に吹寄せられて、岸の海面を高める作用が起る。風が岸に直角的に連續的に吹いてゐる場合には海岸に於ける海面の上昇は風速の二乗と對岸までの距離とに比例し、海の深さに反比例する。其れは風速が每秒30米、對岸の距離55粍、海の深さを27米とすると海面の上昇は約44糎の上昇となる割合である。又此の風は前條の靜振を誘起する事にも與かつて力あるのである。
 更に又風が吹かなくても巨浪が海岸又は灣口に押寄せる事の爲に海岸又は灣口の海面は上昇するものである。風浪が平均海面の上下に對稱的な、正弦曲線の形をして伝播するのは、其の波高が極小さい間丈であつて、此が大きくなると波の形は山が尖つて狭くなり、谷が廣く緩やかになるから最早對稱的ではなく、トロコイド波と稱せられるものと似て來る。海面が其の様な非對稱的な振動をする時には水の分子の平均位置は次第に波の進行の方向に移つて行く、換言すれば水自體が波の博はつて行く方向に流れてゆくのである。從つて此の為に灣内又は海岸には海水が堆積し海面が上昇するのである。此の水自體の流速は小さいものであるが其が長時間繼續する時は海面の上昇は相當の大きさになり得る。又當が淺く、海底の摩擦の効く場合には此の影響は更に大きい。
 昭和九年九月の京阪地方の風津浪を起した颱風は珍らひき颱風であつて進行速度が非常に早く且つ其の前方に著しい不連續線を持つて居つて、其の兩側に於て風向が正に反對であつたのである。從つて颱風の通過による風向の變化は非常に急激であつたので、颱風の中心が通つた神戸附近等では約五分の無風狀態の後に忽ち風向は逆となり風速も再び大きくなつたのである。斬様な急激な風向の變化によつて、今まで海岸から吹き除けられてゐた海水が今度は逆に吹き寄せられる場合には海面は急激なる上昇を爲し、本格的に風津浪を生ずる。
 以上氣壓の降下によつて海面の言はゞ吸い上げられる事と、風及波によつて海水が岸に押し付けられる事、灣の靜振が起る事、及び平素の潮汐による海面の昇降と、此の四つの原因に因つて海面は徐々の上昇も爲すが其に重なつて可成り急激な上昇をも爲し得るのであつて、昭和九年の風津浪に際して中央氣象臺大阪支臺の金鎭汶氏の觀測によれば八時八分より同10分に到る二分間に浸水面は役八〇糎上昇して居るから每秒〇.七糎の速度である。神戸に於て土木出張所員の觀測された値では每秒約〇.三糎であつた。
 此の上昇速度は地震津浪の場合の比較すれば餘程小さいものであるが、其れでも猶陸上に溢流した場合には、地震津浪の場合と同様に第五節に述べたような破壊作用を建造物に及ぼすのである。
 風津浪の有する破壊力には此等の現象の外に今一つ地震津浪の場合には存在しない重要な事柄が手傳つてゐる。其は強風に因つて巨大な風浪が起る事である。
 風浪の周期は殆ど凡て三〇秒以下といふ極短かいものである。従って家屋其他の障害物によつて急速に減衰されて終ふから、陸上内部までの浸水の高さを高める作用はないが、其丈にその持つて居る勢力は大きく、且其の勢力を急激に失ふのであるから、其れが打ちつける物に及ぼす破壊力は非常に大きい。
 家の破損状態から見た地震津浪と風津浪との差異の一部は、風津浪の場合には一般に地震津浪の場合に比較して海面の上昇が緩い、從つて陸上に溢流する水の速度が小さいので浸水の割に家屋の破壞が少ない事にあるが、他の一部は、風津浪の場合には風浪の爲に直面する家屋のみ破壞せられる事にあつて、甚だしい場合には同じ家の海に面する側ばかり滅茶滅茶に破損して裏側は何ともない事さへある。

 写真:第三十三圖

 第三十三圖に示した大阪税關看視所建物は此の好例であつて、此の前は道路一つを隔てゝ直に海になつてゐる。
 昭和九年九月の颱風に因る高知縣沿岸の津浪の被害と言はれてゐるものは、殆んど凡てが此の巨大な風浪によるものであつて、浪を除いて終つた海面の異常上昇は恐らく1米前後であつたらうと思はれる。實際比の樣な浪は豫想外な高さにまで届くものであつて、淡路島東岸等では浪は高さ10數米の斷崖を登つて其の上の道路を洗ひ、其を決潰せしめて居つた。
 風津浪の場合に今一つ見逃せない事は船舶の被害の多い事である。昭和九年の津浪の際には大阪港内で千噸以上の船が十七隻も遭難した。海面が急昇、急降し、其の爲に潮流が生じても、繋留さへ確かりして居れば船には影響が少ないのであるが、風津浪の場合には強風が此に伴ふので船が大きい程其の受ける風壓が大きく、其の爲に浮標の錨まで引ずり、或は錨鎖を切斷して漂流し、其の結果岸に衝突して沈沒したり、又は海面の上昇と相俟つて岸に乗上げたりするのである。

写真:第三十四圖 大阪櫻島海岸に打上げられた牟婁丸

暴風時には汽船は港内に出て風に向つて走るのが原則ださうであるが、風津浪を伴ふ樣な急激な暴風では危險を感じてから汽罐に火を入れたのでは間に合はないであらう。
 然し此は津浪の被害と言ふよりは風による被害と言つた方が適當かも知れない。
 風津浪による陸上溢流の速度は前述の如く一般には可成り小さく、胸まで水に浸つて逃げたとか遊いで逃げたとか言ふ話を屡々聞くのであるが、場所によつては可成り流速が大きかつたと思はれる處もある。其の一例は昭和九年の風津浪に際しての堺市三寶海岸である。
 此處は地盤が甚だ低く、全地域の大部分は平均海面上1米未滿の高さで滿潮面と殆んどすれすれであり、海岸に3-4米の堤防を築いて海水の侵入を防いでいる。且つ土地は非常に平坦で家並は疎である。此の様な地形の處へ海岸の堤防が決潰したので恰も貯水池の堤防が潰れた時の如く海水はドッと流れ込んで來たものらしい。遭難者の談によると初めの波は膝位まであり地上の物を巻込み乍ら押寄せて來たが二度目の波で頭を越す程浸水したと言ふ。

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写真 第三十二圖
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写真 第三十三圖
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写真 第三十四圖 大阪櫻島海岸に打上げられた牟婁丸

第八節 本邦に於ける過去の津浪

 本邦に於ける津浪の最古の記録は續日本紀に、「天平神護二年六月乙酉朔、乙丑、大隅國神造新島、震動不息、以故民多流亡」とあるものではないかと思はれる。此は恐らく火山自身によつて津浪を生じたものであらう。此より先、天武天皇(白鳳)十二年甲申十月十四日壬辰(西暦六八四年十一月二十九日)に「土佐國田苑五十餘萬頃、沒爲海」といふ土佐其他諸國に亙る大激震があつたのであるが、此の「沒爲海」といふのを地形變動の爲土地沈降して海となつたのでなく、津浪を覆つて流失したものと解釋すれば此が最古の記録となる。
 叉風津浪の最古の記録は日本書紀に「天武天皇十二年十一月三日土佐の國司より言ふす、大潮高騰、海風飄へる、是に由て運調船多く沒失す」とあるものであらうか。震災豫防調査曾報告第四十六號甲、乙の大日本地震史料其他から津浪に關する記録を拾集して見ると其數約三十あり、其内三つは東北地方の日本海岸に起つたものであり、他は北海道より臺灣に到る太平洋岸に起つたものである。此等の津浪特に地震津波につき其の概要を次に掲げる。

(1)嘉祥三年十月十六日庚申(西暦八五〇年十一月二十七日)出羽(庄内)
 三代實録によると此の日出羽國に大激震があつて山崩等が多く起り、且津浪を伴つたらしく、「加之海水漲移、迫府六里所、大川崩壊、去湟一町餘、兩端受害」とある。府といふのは出羽國府である。
(2)貞觀十一年五月二十六日癸未(西暦八六九年七月十三日)陸奥
 三代實録には「五月二十六日癸未、陸奥國地大震動、流光如晝隱映(中略)海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝回漲長、忽至城下、去海數十百里、浩々不弁其涯涘、原野道路、惣爲滄溟、乗船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無孑遺焉。」とある。夜の地震で震動猛烈を極め倒壞顚覆等の家屋無數にて、津浪のみならず地震に伴ふ發光現象も著しく、海鳴もあつたらしい。今村博士に依ると人口稀薄なりし上古の陸奥に於て千餘人の溺死者を出した事は此の津浪は如何に劇しかつたかを物語るものであり、慶長十六年の津浪と共に三陸津浪の双璧であると云ふ。
(3)仁和三年七月三十日辛丑(西暦八八七年八月二十六日)攝津
 此の地震は午後四時頃で、山城攝津以下五畿七道大いに震動し、其の餘震は八月末まであつた。津浪は攝津が一番劇しかつたらしく三代實録に「海潮漲陸、溺死者不可勝計、其中攝津國尤甚」とある。
(4)仁治二年四月三日辛酉(西暦一二四一年五月二十二日)鎌倉
 此の日は晴天であつたが午後八時頃大地震起り、且つ津浪之に伴ひ、由比浦大鳥居内の八幡宮拜殿壊れ引潮にて流失した。
(5)正平十六年六月二十四日癸卯(西暦一三六一年八月三日)攝津、阿波
 此日拂曉午前四時頃攝津、大和、紀伊、阿波、山城の諸國に大地震あり、攝津、阿波は津浪に襲はれた。此の津浪の際には「難波浦、數百町一時間計り潮干上り」、叉鳴門の潮も涸上つたと云ふ。難波浦の死者數百といふ。
(6)明應七年八月二十五日己丑(西暦一四九八年九月二十日)東海道全般
 午前八時頃東海道全般に亙つて大地震あり海岸地方は何處も津浪の害を受けた。餘震は翌月に到るも猶止らなかつた。此の津浪にて伊勢大湊全滅し千戸、五千人程流亡、鎌倉にては海水大佛殿堂舎を壊し溺死二百餘を生じた。濱名湖が切れて海と連つたのは此時であると言ふ。
(7)永正七年八月八日(西暦一五一〇年九月二十一日)攝津、河内
(8) 同 八月二十七日(西暦一五一〇年十十日)遠江
 濱名湖今切の生じたのは此時であるとも傅へられている。
(9)慶長元年閏七月九日甲辰(西暦一五九六年九月一日)大分
 此日晴天、午後八時大地震あり、豊後、薩摩激震し、豊後國府内附近に大津浪があつた、由原宮年代略記に「慶長元年申酉閏七月九日戌刻、大地震、當社拜殿囘廊諸末社悉顚倒畢、叉此日、府中洪濤起テ府中並近邊ノ邑里、悉成海底、黄昏時分也、同慈寺本堂斗相殘ル、大波至三」とあり、死者七百餘といふ。
(10)慶長九年十二月十六日辛酉(西暦一六〇五年二月三日)東海、南海、西海諸道
 此夜薩摩、大隅、土佐、遠江、伊勢、紀伊、伊豆、上總、八丈島の諸國嶼に大地震あり。夜半に到つて、津浪襲來し、臨海の地悉く被害あり、遠江國橋本にては百軒中八十軒流失、八丈島谷ヶ里の在家は残らず波に取られ、五十七人死す。叉土佐にては崎濱にて五十餘人、東寺西寺の浦々は四百餘人、甲浦は三百五十餘人、宍喰にては無慮三千八百人餘の死者を出したが、野根浦では被害無であつたと言ふ。上總國小田喜領海邊は人馬數百人流死し、七村跡形もなくなつたとある。
(11)慶長十六年十月二十八日丁酉(西暦一六一一年十二月二日)蝦夷及三陸
 此日朝仙臺、南部、津輕、松前諸領に大地震あり、午前十時頃津浪襲來した。駿府記に「十一月晦日、松平陸奧守政宗獻初鱈、就之、政宗領所海涯人屋、波濤大漲來、悉流失、溺死者五千餘人三十日津浪云々」とある。南部津輕の海邊にては人馬三千餘死すと云ふ。白晝の出來事であり、且つ人口稀薄の地であるのに五千人の死といふのは此の津浪の餘程大きかつた事を想像させるものであると今村博士は述べて居る。
(12)寬文二年九月十九日己丑(西暦一六六二年十月三十日)日向大隅
 此日夜子の刻日向、大隅二國に大地震あり、日向の佐土原、縣、秋月、飫肥の諸城邑破潰し、人畜の死傷多く、且つ津浪俄に襲來して那珂郡下加江田、本郷の諸村は沒して海となつた。其の面積は周圍七里三十五町、田畑八千五百石餘に及び、米粟二千三百五十石餘流失した。「潰家千二百十三ノ内陷テ海ニ入ル者二百四十六戸、其人員二千三百九十八ロノ内溺死十五人、牛馬五頭」と云ふ。
(13)延寶五年三月十二日戊子(一六七七年四年十三日)陸中南部
 此日陸中南部に大地震あり現今の大槌町、宮古町、鍬ケ崎等被害あり、延寶日記によれば「大鎚浦と申所十二日之夜大地震仕、子刻、浦より四五町程間御座候在家へ潮あげ、六十軒程有之家、二十軒餘り汐押込破損仕候、人馬は波より以前山々へ逃げ上がり、十三日の朝迄山に罷在候(中略)宮古浦同十二日子丑刻迄大波三度上り申候」とある。此津浪は餘り大きくなかつたらしい。
(14)寶永四年十月四日壬午(一七〇七年十月二十八日)東海道、畿内、南海道
 此の地震は最大級の地震であつて、大和、攝津、紀伊、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、近江、長門、阿波、讃岐、伊豫、土佐、豊後、日向等激震し、屋舎の頽潰二九、〇〇〇、人畜の死傷四、九〇〇と云ふから其の震域の廣大、震動の猛烈であつた事驚く可きである。此の地震に伴つて、土佐、伊豫、阿波、豊後、日向、長門、攝津、伊勢、三河、遠江、伊豆等に大津波あつた。地震のあつた時刻は未上刻といふから午後一時半頃であらう。震央は紀潮岬沖あたりであつたらしく、谷陵記の依ると「未下刻津浪打テ海邊ノ在家一所トシテ殘ル方ナシ、未ノ下刻ヨリ寅ノ刻マデ晝夜十一度打來ル也、中ニモ第三番ノ津浪高ク、山ノ半腹ニアル家モ多ク漂流ス、國中(土佐)ノ死人二千人餘人」とある。津浪の高さは土佐にて二十米餘、津浪の範圍は西は九州南東岸より東は伊豆に及ぶ。但し關東は地震ばかりであつたらしい。
(15)享保三年九月二十日丁巳(一七一八年十月五日)
 此日信州飯山に激震あり、叉伊勢、鳥羽風雨激しく、「藤堂和泉守領地二ヶ所、松平三之助領鳥羽高汐指込」、風津浪である。
(16)寶暦十二年九月十五日戊戌(西暦一七六二年十月三十一日)
 佐渡國に激震あり、未刻より申刻に及ぶ、同時に津浪あり鵜島村二十六軒流失した。
(17)明和六年六月九日(一七六九年七月十二日)琉球慶良間島
(18)明和六年七月二十八日(一七六九年八月二十九日)日向
(19)明和八年三月十日(一七七一年四月二十四日)琉球石垣島宮古島
 津浪の爲役人八十九、島民九千四百餘流亡した。
(20)安永九年四月(一七八〇年三―四月)得撫島
(21)寬政四年四月一日(一七九二年五月二十一日)溫泉嶽附近
 此年一月より溫泉嶽活動を始め、四月一日酉刻城下近き前山崩裂し泥水奔流して海に入り津浪之に加はり、島原城下數十村蕩盡した。肥後、熊本海岸も被害あり、島原にて「在町高波打上候里數凡十三里四十八町九間但五十町一里、幅七百二十軒より五十三間迄、汐高は平汐より三十間より十九間餘、死者一五、二〇〇、潰家一二〇、〇〇〇」と言ふ。
(22)文化元年六月四日辛酉(一八〇四年七月九日)出羽
 此は所謂象潟地震にて、六月四日夜のこと、七日まで餘震續き、羽前羽後兩國大に震ふ。本庄城頽破し、海岸には津浪あり、象潟の海隆起して平地となつた。此の津浪については記録が少ない。潰家五、五〇〇、死者三三三。
(23)天保四年十月二十六日癸亥(一八三三年十二月七日)
 此日申上刻佐渡刻强震あり、續いて津浪襲來し田畑用水等被害を受けた。佐渡年代記に「天保四年十月二十六日、申上刻地震强く、半時餘も震氣未止、打續相川海邊磯際より二三町、叉は一町半程、海中俄に汐干いたすに付、津浪致可哉と海邊町のもの共一同恐怖。山寄叉は地高之場所へ家財雜具等持運ぶ處、高波數度打揚候得共人家四壁裾通り汐濡、所々破損候迄に而怪我人は勿論、潰家流失等無之」とある。
(24)天保五年一月一日丁卯(一八三四年二月九日)石狩
 石狩國强震あり、午後一時頃沿海の地に津浪兩三度至り、人家數十流失したるも人畜被害なし。
(25)安政元年十一月四日己巳(一八五四年十二月二十三日)
 此の日辰下刻大地震にて東海、東山、北陸道激震した。此の地震の震央は静岡縣御前崎沖らしく久能山東照宮大破し江戸より京都まで潰屋あり、岩淵、蒲原、原宿、三島の各宿は何れも殘らず倒壞した。此の地震に引續き伊豆より遠江まで大津浪あり、大井川は常水より二尺餘增水、富士川は洪水を起した。中にも伊豆下田港は津浪の被害最も甚しく、津浪は九度程あつたが「二度目大津浪にて大半流失、三度目にて不殘山際七八ヶ寺のみ殘る。」と記録にあるから此時の津浪は恐らく波高數米のものであつたかと思はれる。
(26)安政元年十一月五日(一八五四年十二月四日)
 此日申半刻(七ツ過)叉々大地震あり、此の地震の震央は室戸崎沖らしく、南海、西海、山陽、山陰大激震に沿海諸村殊に土佐、紀伊、阿波は津浪の被害甚大であつた。大阪にては津浪の襲來は暮時五ツ過で、安治川橋、江ノ子島橋、龜井戸橋等落ち、船舶悉く道頓堀へ流入した。流失家屋一五、〇〇〇、半潰四〇、〇〇〇、死者三、〇〇〇、此の外丹後宮津、伊勢山田、神戸、四日市、鳥羽、田邊も皆大津浪に掃盪された。尼ヶ崎では民家六十餘流失した。
 津浪の範圍は房總本島から九州東岸に迄及んだ。
(27)安政三年七月二十三日戊寅(一八五六年八月二十三日)
 此日正午頃大雷雨中大地震あり、渡島膽振兩國大地震あり、日暮に到つて津浪が襲來した。津浪の他kさは函館で三米餘であつた。津浪前海水が十餘町引いたと云ふ。
(28)慶應三年十一月二十三日(一八六七年十二月十八日)臺灣
 此地震にて基隆全市倒潰し且つ津浪が襲來した。
(29)明治二十七年(西暦一八九四年)三月二十二日
 此日午後八時ニ十分頃岩手縣沿岸一帶に小津浪があつた。襲來前に潮が干退した。
(30)明治二十九年(西暦一八九六年)六月十五日 三陸
 此日午後七時三十二分頃三陸沿岸に緩き微震があつたが、其後約十八分を經て同七時五十分頃から海水大いに減退し雄勝では對岸船戸へ渡渉出來る程となつた。然るに其後十分、即ち午後八時頃增水し暫時にして稍減退し、同八時〇七分に至つて最大激烈な津浪が襲來し、其後八時十五分、八時三十二分、八時四十八分、八時五十九分、九時十六分及九時五十分の六囘に著しき增水があつた(以上何れも宮古に於ける時刻)。其後波高は漸次遞減したが翌日正午頃まで海水の動搖があつた。津浪の範圍は北海道日高幌泉海岸から南は福島縣沿岸に迄及んだ。此の津浪の前三日から仙臺の地磁氣に著しい變化があつた。叉津浪前の音響、井戸水の變化、魚獲の異状等も氣付かれた。流失全半潰家屋一〇、三七〇、死者二七、〇〇〇、各地に於ける津浪の高さは次の通りである(單位米)。

 表:各地に於ける津浪の高さ(單位米)

(31)明治三十二年十月七日(一八九九年)田子浦風津浪
 此日正午頃大颱風駿河灣中央を通過して午後二時長津呂附近に到つた。此に伴つて小田原附近及駿河灣北岸に激浪押寄せ害を及ぼしたが、田子浦邊が一番甚しかつた。津浪は北强風のやゝ衰へた時に來襲したものらしく、其時刻は大凡午後三時乃至三時半である。激浪は第三囘目のもの最大にて其の高さ大凡一〇米と思はれる。此の風津浪の爲潤川に砂礫充塡して河水の氾濫を起した。靜岡縣下にて流失家屋一〇一、浸水九九九、死者七二、傷者九五を出した。
(32)大正六年十月一日(一九一七年)東京灣風津浪
 此日大颱風が伊豆半島から東京の北部を通り仙臺方面へ抜けた。東京にては午前三時三十分頃最低氣壓七一四・六粍を示した。此の颱風に伴ひ東京灣内各所に風津浪を起した。津浪は多く二囘あり、第一囘目午前三時四十九分頃で其高さ一・六米餘、第二囘目は五時三十分頃で高さ一・五米程であつたが第二囘目は滿潮時に當つた爲、第二囘目の方が潮位は高かつた。横濱では津浪の高さは〇・七六米餘であつた。其他小松川一・六米、浦安二・四米、行徳一・七米、向島一・七米にて浦安、洲崎方面は最も被害甚しかつた。勿論以上の高さが平常の潮汐に加はつた上に二―三米の激浪が重なつてゐたのである。此の颱風の爲東京、千葉、茨城三府縣下にて死者及行方不明者一、三〇一、傷者二、二一五、流失二、三九九戸、全潰四三、〇八三戸、半潰二一、〇一〇戸、床上浸水一九四、六九八戸を出した。
(33)大正七年九月八日(一九一八年)得撫島
 大津浪が千島に起り、岩美灣にて高さ六―一二米に及び、溺死者二十四名を出した。
(34)大正十二年九月一日(一九二三年)相模、伊豆東岸、安房
 此日十一時五十八分關東一帯に亙る激震があり、全潰家屋一二八、二六六、半潰家屋一二六、二三三、焼失四四七、一二八を出した。此の地震に伴って、湘南地方及房聰半島南部は一-二米の隆起を爲した。又同時に津浪が起り伊豆東海岸安房日岸は其害を被り檢、全國檢潮儀に記録を残した。又東京灣は其の南部の土地隆起の爲著しき静振を爲した。各地の津浪の高さは次表の如くであつて(單位米)、何れも二つ乃至三つの浪を認め第二は乃至第三波が最大であつた。檢潮記録によると隆起地帯の外は皆上げ波で初まつてゐる。津浪の發現地は恐らく此の隆起地帯であらう。此の津浪による流失家屋數八六八。

 表:各地の津浪の高さ

(35)昭和八年三月三日(一九三三年)三陸
 此日午前二時三十一分三陸地方に激震があり、其の震央は東經百四十四度北緯三十八度半と推定された。此の地震の後約三〇-四〇分にて北は北海道幌泉より南は福島縣まで津浪が襲来して被害を及ぼした。此の津浪は又南米イキク港に迄及びハワイにては多少被害があつた。三陸沿岸にては津浪は最初海面の緩昇があり、次で大なる引潮があつて後第一の津浪が襲来、第二囘目又は第三囘目のものが最大であつた。其の周期は處により異なるが大凡二〇-四〇分であつた。又此の津浪の前に以上の發光減少、音響、地磁氣の變化、漁獲の變化、井泉の變化が氣付かれた。此の津浪による流失家屋四、〇八六、溺死二、九八六人である。各地に於ける津浪の高さは次表の如くである。(單位米)

 表:各地における津浪の高さ

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表:各地に於ける津浪の高さ
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表:各地の津浪の高さ
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表:各地の津浪の高さ

第九節 津浪に伴う災害の防止

 津浪といふ自然現象を予知する事は或は將來科學の進歩によつて出來るであらうが、其を起らぬ様にする事は先づ不可能の事である。然し乍ら如何に津浪が海岸に押寄せようとも、其に因つて災害が生じない様にする事は決して不可能ではない。例へば日本全土に標高五〇米以下の低地が無い様に盛土したとするならば、日本は殆んど永久に津浪の被害を被る事はないであろう。然し此の様な方法は考ふ可くして行ひ得ざる事は論を俟たない。我々は如何なる施設を爲せば最も僅小の費用を以て、最も大なる効果を擧げ得るかといふ事を研究せねばならぬのである。
 此の研究に當つて最も大切な事柄は、津浪の習性は土地によって略一定である事である。此は津浪の高さ、周期、浸水の型等は前述の通り、海岸及海底の地形、灣の形、深さ等によつて定まるものであるから寧ろ當然の事であつて、ジワジワ型の浸水を爲す處は何時もジワジワ型であり、崩れて打付けて來る處は常に崩れて來る。明治二十九年の津浪の發源地は昭和八年のものよりも少し北寄りであつたにも關らず、各所について此の兩囘の津浪に際しての浸水の模様、浸水の區域等を比較して見ると、其の餘りに似てゐるのに驚かされるのである。
 岩手縣氣仙郡綾里村白濱の様な津浪の高さが二〇米餘にも及ぶ様な處では海岸に種々な施設を施しても先づ無駄であつて、住宅を津浪の及ばぬ様な高所に作るより外には策は無いと思われる。白濱に限らず何處の海岸に於ても、出來得るならば高所に住む事が一番望ましいのである。
 然し此は地理的關係、經濟的或いは職業的關係から何時も實行し得るとは限らないから、他に防禦手段を考へる必要を生ずるのである。
 先づ第一に考へられるものは防波堤である。沖合に防波堤がある場合には津浪は其處で一部分反射される爲に岸では弱勢となる。而して防波堤の高さが同じならば、波高の低い時程反射の率はよくなる。又津浪が防波堤に及ぼす壓力は後述の如く、沖合である程小さい。從つて此の點から言へば防波堤は沖合に作る程効果があるのであるが、又一方から見れば深い處へ作る事は多額の費用を要するのであるから、餘り感心出來ないのであつて、寧ろ淺い處へ高い防波堤を作つた方がより効果的ではないかと思はれる。
 津浪は防波堤にて反射される時は、其處で一度崩れるが、防波堤の内側が未だ相當の深さを有する時には防波堤を越してから又波を形成するのであつて、一部學者に信ぜられてゐるやうな、一度崩れゝば後は渦流になつて終つて、勢力を早く減衰するといふ事は必ずしも事實ではない。此ういふ渦流の影響を一番働かす爲には、灣内又は港内を一面に差支ない程度に淺くして置く事である。灣口、港口等を相當な幅だけ淺くして置く事も可成りの効果があるであらう。
 海岸に沿うて陸上に土提、擁壁等を作る事も又有效である。然し津浪が海岸附近に於ける構造物に及ぼす壓力は其の周期にもよるが、大凡毎平方米につき數噸乃至一〇數噸といふ大きさであるから土提は餘程堅固なものでなくてはならぬ。弱い構造の土提などは一溜りもなく破壊されるから何の效もない。風津浪の際には此上に風浪が手傳ふから其の破壊力は更に大きいものと思はれる。昭和八年の三陸津浪に際して、八戸港の防波堤に装置してあつた波力計は三・九噸毎平方米という壓力を示した。松尾工學士の計算によれば、周期三四五秒水深一〇〇米の時に波高三米の波が及ぼす水平壓力の波の進行と共に變化する有様は次表の通りであつて、壓力は深さの減少と共に急激に増加する。

 表:周期三四五秒水深一〇〇米の時に波高三米の波が及ぼす水平壓力の波の進行と共に變化する有様

 堅固な土提が津浪の被害を輕くするに大いに役立つた好例は岩手縣九戸郡種市村海岸であつて、此處は明治二十九年の津浪では非常な損害を被つたのであるが、其後海岸に沿うて鐵道の土提が出來た爲に、昭和八年の津浪では損害は非常に輕微であつた。土提が浸水を防いだのである。
 防波堤、土提等は一般的には以上の様な効果はあるが或る場合には海水の流動方向を限定する爲に一局部丈却って被害を增大せしめる事も皆無ではない。設計に當つて特に注意すべき事柄である。
 津浪の勢力を海岸に於て消費せしめて終ふ爲に、海岸に松、其他の林を作る事も處により又有效である。殊に下生の多い林が幾段もある場合は津浪を減衰せしめるには頗る理想的であると思はれる。又此は漂流物を喰止める働きがあり、且撓ってジワッと止めるから、細い樹でも重い漂流物を止め得て頗る妙である。家の周圍に杉、槇等の並木、垣根等があつた爲に家の倒壊を防いだ例は可成り多い。此等の並木は多くは一列で、とても津浪を減衰せしめる作用はなかつたであらうが、船等の衝突から家を救つたものであらう。
 津浪の虞のある様な土地に於ては海岸に直角に走つてゐる道路を多數作つて置く事が肝要である。岩手縣田老村田老の一村殆んど全滅したのは、主道路が海岸に並行であつて、海岸と直角な大道路無く、避難に手間取つた爲であると言ふ。昭和九年の京阪風津浪に際しても堺市三寶小學校では其の直ぐ前に海岸と直角に走つてゐる三寶、淺香山新國道が出來ている爲に、多數兒童の貴重なる命を救ひ得たのである。
 更に又一方に於ては津浪の警報機關の完備と其の怠らざる活動とを期さねばならぬ。風津浪の虞ある場合には氣象臺から其旨を誰にでも判る様に時機を失はずに警報すればよいのであるから此處には主に地震津浪の場合を考へる。地震津浪が灣口を通過してから部落の多い灣奥に到るには約十五分―二〇分の時間を要する處が多い。此の様な処では岬の先に檢潮設備と警報設備とを具へた見張所を作り、地震後に津浪來襲の兆が見えたら卽時警報を發する様にしたならば、灣奥の部落等では充分家財を纏めて逃げる位の餘裕があり、又人畜の被害も輕減するであらうと信ずる。
 以上述べた諸施設の完成によつて、假令津浪はあつても、其の被害は皆無といふ日の一日も早く來らん事を切望する次第である。(終)

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周期三四五秒水深一〇〇米の時に波高三米の波が及ぼす水平壓力の波の進行と共に變化する有様

波浪 鈴木雅次

目次

一 波の暴威 七一
二 波の一般的の形 七三
三 特殊の波浪 七五
四 波高 七七
五 波力 八二
六 防波堤の配置 八四
七 防波堤の構造 八六
八 防波堤の材料 九一
九 防波堤設計の要點 一〇〇
十 防波堤の工費 一〇一
十一 海濱の護岸 一〇二
十二 砂止提 一〇五
十三 海岸の堤防 一〇六

一波の暴威

 春の日麗かなるの時恰も油を流したるが如き靜かな海面も、一度暴風の吹き荒さぶや、忽ちにして物凄き怒濤の港と化し、海神ポーサイドンの振ふ三叉の鉾の偉力は、屢々小さな人間の眼を驚かす。例へば、アルダーニーの港では嘗て九瓲もある大きな石塊を實に十三米の高きに吹き上げ、又ゼノア港の防波堤に於て四十瓲の大塊を五十米の遠方へ飛ばし、尚ほ和蘭のエムイデン港にては、二十瓲のコンクリートの大塊を三米半の高きに持ち上げた、次にエゼストンの燈臺にては、滿潮面の上二十米の高所にある六十瓲の構造物を破壊せしめた、更に記錄的の暴威は、スコットランド北端の漁港ウィックに於て、二千六百瓲もある石塊を押し倒したものである。
 以上は外國の文書が傳える實例であるが、我國もさすがに海國だけあつて、此等に劣らざる波力發現の顕著なる實例がある。卽ち北海道の留萌港と網走港との防波堤にては、一箇の目方二千瓲もあるコンクリートの大函塊を破壊し、又昭和三年土佐の室戸崎に近き室津港の防波堤が大破した跡の調査によれば、目方三百五十瓲のコンクリートの大破片が、約二十米の遠方へ飛散されて居た。
 その外に防波堤が波に依つて破壊せられた著しき例は、網代、串木野、能生、浦河、沓形、稚内、高雄、新潟、瀧多度津、鞆、船川、横濱、等であるが、更に最近、大阪港、岡田港などの防波堤破壊もそれぞれ世人の注意を惹いた。
 以上は主として港を護る防波堤の實例であるが、更に陸地を護る護岸と海岸堤防等が波に依つて破壞せらるゝものは年々その數多く、その中でも熊本の干拓地の堤防、今治埋立地の大護岸、滑川町の護岸、三陸海岸の防浪堤などの破壞は之が著しき實例げあつて、或は廣大なる耕地や宅地を流し、時に多くの人命を奪つた。
 而して、今この講座は如斯く暴威を振ふ波浪の正體を先づ科學的に究めて、之が對策、卽ち防波堤、護岸、海岸堤防に就て、順次述べんとするものである。

 写真:第一圖 留萌港の巨浪
 写真:第二圖 大破せる防波堤(網代漁港)

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写真 第一圖 留萌港の巨浪
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写真 第二圖 大破せる防波堤(網代漁港)

二 波の一般的の形

 一般に水面は風の衝撃と、吸揚との作用に依つて起伏の現象を表はす、卽ち之を吾々は波と呼ぶ、但し波の主なる原因はこの風であるが、稀には海底地震や低氣圧などに依つて起る津浪、或は灣や湖に特有の振動波等の波もある。
 一般的で又代表的の津浪とも言うべき深海に生ずる波の形状は、略ゝトロコイド曲線の形を呈する、卽ち水の各部分の分子は、それぐ其の場所で何れも圓周運動をなしつゝあつて、之等が綜合し遂に表面に波形を表はすのである(第三圓参照)。
されば波の形は、明らかに傳播して進行し來るのであるが、其の内部の水自體は殆んど進行せずして、一個所に略ゝ停滞して圓周を𢌞轉しつゝあるのが一般的津浪の原則と見做されて居る。
 深海に於ける、波長と速度と時間との關係を參考迄に記せば、先づ波長は、一つの波の進む時間、卽ち波の週期の一・五六倍ほどに當り、又其の週期は波の速度の約〇・六四倍である、尙此の速度は波長の平方根を一・二五倍したものに相當する。
 此の場合に於て、水分子が廻轉する圓周軌道の半徑、卽ち分子軌道の半徑は、水面に於て最も大きく、深くなるに從つてその半徑は小さくなる(第四図參照)、従つて波の力も亦深くなるに從つて著しく減少する。
 以上の關係は深海部に於ける一般的の波浪に關するものであつたが、淺海部に於けるものは、此等と多少その趣を異にする、蓋し淺海部に於ては、水底の摩擦抵抗が水分子の運動に影響を及ぼして、其の分子軌道の形は圓ではなく、漸次楕圓形となる(第五圖參照)。

 図:第三圖 トロコイド曲線形の波
 図:第四圖 深海部に於ける水分子の廻轉
 図:第五圖 淺海部に於ける水分子の廻轉

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写真 第三圖 トロコイド曲線形の波
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写真 第四圖 深海部に於ける水分子の廻轉
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写真 第五圖 淺海部に於ける水分子の廻轉

三 特殊の波浪

 今まで述べた波の形は、一般的な普通の波浪であつたが、此の外に種々なる形狀を呈する波がある、卽ち次に夫等の主なるものを述べる。
 碎波 深度が急に淺くなる時には、海底の摩擦抵抗が急激に増大する爲め、下部の水分子の運動が停滞し、上部の運動の如く速くなく、平衡を失つて、遂に波の頂が、前に墜落するに至る、此の現象を碎波と言ふ、卽ち海濱に寄せては返す波、或いは防波堤又は護岸に激しく押し寄する波は、碎波の形を呈するものが多い、従つて人間が築いた臨海の工作物に暴威を振ふ波は、主として此の種のものである(第六圖參照)。
 普通の波が碎波の形狀を呈する時は、著しく其の波頂の高さを增す、卽ち、碎波の高さと普通波の高さとの比は、一・五倍乃至二倍ほどであつて、昭和四年九月伏木港に於て實測した所によれば、防波堤近くの碎波は、沖合の普通浪に比して一・八倍であつた。
 進行波 旣述の普通の波と異つて、水分子が漸次移動し、多少の流速を有する特種の波であつて、此の進行性を帶ぶるに至つた原因は、、水底の摩擦或は障害物と上層を吹きなでる風などに依つて、上部の水が次第に前進するが爲めである。
 尚ほ波を打つ風力が益ゝ加はれば、波頭を吹き碎いて、海上に白波の立ち騒ぐをみる、即ちその昔海神の鞭打つ白馬の躍ると見たは、此の白波であつた。
 餘波 直接風に吹かれて起る波でなく、他所に起つた波動を遠く傳へ來る波を餘波叉はスヱル或はウネリと稱する、即ち風無きに襲ひ來る波長の特に長い巨浪例へば土用波の如き、或は風向と反對の方向より寄せ來る波等は何れも此の餘波の現象である。
 尚ほ此の餘波の一種であるが、外の波が港口或は灣口より内部へ深く侵入し來る波を、特に侵入波或はフレコミと呼び、叉岬或は防波堤の突端より廻り來る波を廻廊と稱することがある(第七圖)。
 跳波 波浪が障害物にぶつかつて、水煙を高く跳ね上げるものを跳波或はスプレーと呼び、荒天の日防波堤によつて打ち上がる跳波は恰も天に冲するが如き壯觀を呈する(第八圖)。
 反射波 波浪が障害物に當り、其の返し波に依つて、異形の波形を現はすことがある。之を反射波と言ふ、若し障害物が波向に直面するならば、其の反射波の形は略ゝサイクロイド曲線に近くなる、叉障害物と波向とが或る角度を以て衝突する場合には、所謂三角波が立ち騒ぐ。

 図:第六圖 碎波
 図:第七圖 廻廊の一例
 図:第八圖 跳波(室津港)

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写真 第六圖 碎波
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写真 第七圖 廻廊の一例
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写真 第八圖 跳波(室津港)

四 波高

 大洋に於ける波高の最大なるものに就いては航海者などの觀測に依つて、或は十八米にも達したと言はれる、然し之は恐らく波が重複して特別に高くなつた場合であつて、單形の普通波にては其の高さ十五米に及ぶものは稀であらう。
 但し今この本文に於て知らんとする波の高さは、臨海の人工的構造物に被害を與へる波、即ち海岸近くに押し寄する波の高さであるが、夫れは前述の大洋の眞たゞ中に波高よりも勿論小さいはずだ。

 表:本邦港灣最高波高表

 我が國の港灣に於て實際に觀測した波高の最大なるものは、上表に示すが如く島根縣の江角魚港の八米八であつて、北海道の留萌と網走及び高知縣の室津にては七米半前後の巨浪を見た、又酒田と八戶とにては六米の波高が觀測された。
 以上は外海に面する地點へ押し寄する巨浪であるが、例へば四日市や小松島の如き灣内の港では最高が約二米半止りであり、又更に内海に入つては最高二米以下に過ぎない。
 但し比較的短期間の觀測による是等の最高波は、安全の爲め上記の觀測波高より更に一層大なるものと假定する。
 試みに本邦港灣に於ける設計用の最高波に就いて、著者が其の大略の見當を付けたものは、およそ次こ如くであつた。
  (イ)外海に面する港 六米乃至十米
  (ロ)外海に近き灣内の港 四米乃至六米
  (ハ)内海及び灣内の港 ニ米乃至四米
 勿論この標準は大略の槪念を示したに過ぎなくて、實際に或る地点に於ける、設計用の最高波を推定するには、後に述ぶる、對岸距離、海底の深度、卽ち水深、その他の環境條件を充分考慮して定むるのである。而して海岸に押し寄する波高の大小に影響ある諸種の原因を列記すれば次の如くである。
  (イ)對岸距離(ロ)水深(ハ)波の狹搾(ニ)波の轉向(ホ)海中の障害物(へ)風の强弱
 以上列記せる諸原因と波高との關係は以下順次に記すが如きものである。
對岸距離と波高 こゝに對岸距離、卽ちヘッチとは、向う岸ち至るまでの海上の距離を言ふのであつて、其の遠近は、波高の大小に至大の關係を持つ、從つて此の對岸距離の問題は専門技術家に於ても最も重視して居る。卽ちスチブンソン氏の説に依れば、浬を以て表はした對岸距離の平方根へ、〇・四五を乗じたものが、其の地點に起り得る最大波高になる、尚ほ其の波高の單位はメートルである。
 例へば假に對岸距離が六十四浬の地點に於ける最大波高は、六十四を平方に開いた八へ、〇・四五を乗じて、三米六となる。
 但し此等の關係は三百浬以上もある對岸距離の特に遠い所へは通用しない。
 水深と波高 との關係も前記の對岸距離に次いで重要な問題である、卽ち一般に水の深さより大きい高さの波は起り得ないと言ふのである、從つて假に對岸距離が如何に大であつても水深の淺い所の波は小さい。例へば假に前記の實例の如く對岸距離よりすれば三米六の波高を得ても、若し其の場所の水底までの深さが二米の所ならば、其所に起り得る最高波は二米を以て限度とする。
 狭搾と波高 外海より押し寄する波浪が、若し港口或は灣口などの狹搾部を通過して、港内或は灣内の稍々廣い面積の所へ散布する場合には、波高は著しく減少する、而して其の減少率は港口の幅と、港奥の幅、並にそこまでの遠近の距離等によつて異なる。
 例へば大阪港の防波堤の如く恰も徳利の斷面の様な形に配列された港内に於ける波の高さの大小を論ずるには主として此の理論に依るのである。
 轉向と波高 岬或は防波堤等の突端よりの𢌞浪は、其の轉向の角度が大なれば大なるほど、波高を減ずる、卽ち其の關係は轉向の角度を二百四十度で割つた數を一から引き、その結果を元の波高へ乗ずれば、轉向後の波高となる。四日市港の如く、半島のやうな唯一本の防波堤によつて港内を護るものは、主として此の原理に基づいて設計せられた。
 海中の障害物 波を減殺する上に於て防波堤或は露礁の如く名波浪を殆んど遮斷するものの效果は言ふ迄もない、其の他水面以下に沒してをる暗礁や砂州の如き障害物の效果でも亦著しきものがある、卽ち後者に於て越波が多少あつても、波の下部の勢力が此の障害物のために消滅する結果として、大いに波の高さを減少せしむる。例へば、茨城縣久慈町の海濱が前面に何等遮ぎるものの目に見えないにもかゝはらず、實際は案外比較的に波の靜かなのは、沖の方に當って、海岸線に平行した、一文字形の細長い磯が水の中にかくれて發達して居るが爲である。
 風の強弱 が波高の大小に影響するは勿論である、そして海洋上に於ける此の關係は風速の數値を三で割つたものが大體の波高となる。例へば秒速三十米の風が吹く時の大洋中の波高は大略十米に達するわけである。
 但しこの風と波との關係は總ての場合に適用せしむることは出來ない、卽ち海岸近くの波は既述の對岸距離、水深、その他の影響に負ふものが多いから、單に風速のみにて波高を決定することは困難である。
 尚ほ風の吹く持続時間が長ければ、波高が次第に高くなるは言ふまでもない。
 波高の觀測 には海中又は岩礁、或は防波堤等の上に目標を立て、これを目當にして、波頂の高さを、肉眼或は望鏡等を以て測定するのが普通である、また時としては海上に浮標を浮べ、これが上下を目標として測つたこともある。

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本邦港灣最高波高表

五 波力

 波の力が極めて強大であつて、港灣その他臨界の工作物に對して屡々其の暴威を逞しくすることは、本文の冒頭に於て之を述べた。但し言ふ迄もな此の波の力は、場所によつて之が強弱を大いに異にするのであるが、今本邦に於ける大略の標準を示せば次の如くなる、その單位は1平方米當りの強さである。

(イ)外海に面する港    九瓲乃至十五瓲
(ロ)外海に近き灣内の港  六瓲乃至九瓲
(ハ)内海及び灣内の港   三瓲乃至六瓲

 然し之は大體の見當であつて、實際には後に述ぶるが如く、波高、水深、波向などかたその波力を求め、或は觀測に依つて知る事もある。

 波高と波力 波が高ければ波力も亦之に正比例して大きくなる、從つて波力の算出は、この波高より之を求めるのが最も正確で又最も普通である。而して其の兩者の關係はメートルで波の高さへ一瓲半を乘じたものが平方米の面積へ當る大略の波力を表はすこととなる、例へば前に記した波高三米六の波力は平方米當り五瓲四となる勘定である。

 波力と波向 前記の關係は波向が防波堤線に對し垂直に押し寄する場合のみに、これを直接用ひ得るが、若し波が或る角度を以て斜に來るときには其の力は著しく低減する、而して其の低減率は防波堤線と波向とのなす角度の正弦の二乘の割合である。たとへば前記五瓲四の波が若し六十度の角度を以て防波堤を襲ふとすれば、堤體が受ける力は、此の關係に依つて四瓲○五に減少する。さればすべて工作物はなるべく波に對して斜に配置するほど受ける力は減少して工作物自身は益々安全となる。然し後に述ぶるが如く、斜に配置すれば、工作物が保護すべき被覆の面積はそれだけ縮小されることとなる。

 波力の觀測 以上は計算によつて波力を推定する方法であつたが、尚ほ直接に波力を測るには、波力計と稱するものを岩礁又は防波堤等の側面へ取り付けて計るのである。

 此の波力計の装置には、彈條式と液體式とがあつて、いづれも波力計の前面のゴム板のに衝突する波の力を傳へて之を記録するのである。(第九圖)

 図:第九圖 波力計

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第九圖 波力計

六 防波堤の配置

 これ迄、述べ來つたところは、主として海岸近くに押し寄する波の實体をたゞ明かにせんとするものであつた、そして愈々これから其の波に對する防災の具體的の方法に就いてそれぞれ記述して見よう。
 波に對する防災的工作物の第一は言ふ迄もなく防波堤である、卽ち防波堤は強大なる波浪の侵入を防止して、船の碇泊や荷役の爲めに靜穏なる泊地の水面を護るを以て其の目的とする。
 防波堤の種類と様式とは、之を平面的に見た配置上のものと、立體的に見た構造上のものとによつて、それぞれの名稱を異にする。先づ玆では順序として防波堤の平面的の配置に就いて述べる。
 防波堤を配置上から大別すれば、半島提と島提とになる、前者は大阪港や今治港の防波堤の如く陸岸から突出したもの、後者は川崎。鶴見の工業港に於けるが如く陸岸から全く離れたものである、そして實際は此の二種の防波堤を種々組合せて配列して多種多様の港の外形を形造るのである。但し此等多様の港形も若し小異を捨て大同に依つて分類すれば、第十二圖の如く約十五種となる、尚ほ此等の各種類を二重三重と配置した防波提もある。
 試みに此等の代表的の実例を列記すれば、A1は船川、A2は今治、Aは九龍浦、B1は擴張前の大阪、B2は江角と擴張前の横濱、B3は敦賀と留萌、Bは室蘭と釜山、C1は鶴見・川崎の工業港、C2は博多、Cは英國のプリマウス、D1は小松島と濱田、D2は枕崎、D3は鹿児島、D4は高松と釧路、Dは小樽。
 尚ほ二重以上に配置した重複式のものには、沓形、浦河、八戸、波切などの漁港がある。實際に當つて、此等の様式を選択し或は防波堤配置の方向を定むるには、波浪の方向や強弱を先づ考へるは勿論、更に風、潮流、漂砂、地勢、工費などの條件を多方面に考慮して之を適切に又經濟的に設計すべきである。
 その中で波浪に對する防波堤の方向は、一般的に港内を最も靜穩に保ち、又なるべく廣き水面積を被覆するが如く定むる。
 この如く靜穩と面積との効果を充分に期する爲めには、其の港の強風の方向に對し之と垂直の方向になるべく近く防波堤を配置すればよい、但し如斯くすれば一方に於て防波堤自身の安危に就いて之が堤體に及ぼす波の力が既述の如く強大となつて、防波堤崩壞の虞れが比較的に多くなるのを免るゝ事が出來ない。

 図:第十圖 防波堤に取り圍まれた商港(今治港)
 図:第十一圖 防波堤に取り圍まれた漁港(江名港)
 図:第十二圖 防波堤配置の大別

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写真 第十圖 防波堤に取り圍まれた商港(今治港)
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写真 第十一圖 防波堤に取り圍まれた漁港(江名港)
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写真 第十二圖 防波堤配置の大別

七 防波堤の構造

 防波堤本來の目的から考へて、其の構造が強大なる波に對抗し得べきものたるべき事は言ふ迄もない、而して其の形状と波浪との關係は大略次の三つに分ち得る(第十三圖参照)。

 図:第十三圖 波浪と防波堤との關係

  (イ) 波浪を堤體の傾斜面へ奔流せしめて波の勢力を漸次減殺するもの
  (ロ) 波浪を略々直立の堤壁面へ衝突せしめて波の進行を阻止するもの
  (ハ) 前記の兩者を並用して下部に傾斜面、上部に直立面を置いて波を防ぐもの
 傾斜面へ波を奔流せしむる(イ)は港内への越波の傾向の多い事が缺點であるが、堤體に及ぼす波の力の影響は小さい、又(ロ)の直立面にて波を阻止するものは、越波の害を少くし得るが堤體に及ぼす波力は激發されて大きくなる、而して(ハ)に於ては越波を稍々防止し得るが、波力激發の傾向は之にも亦多少殘つて居る。
 以上三つの對波作用の原理に基づいて設計された、防波堤構造の三樣式は之を次の如き名稱を以て呼ばれる(第十四、十五、十六、十七圖参照)。
  (イ)捨石防波堤 (ロ)直立防波堤 (ハ)混成防波堤
 捨石堤とは、石やコンクリートの塊をうづ高く山形に盛り上げたものであつて、此の堤體の兩側は勿論傾斜面をなす。
 直立堤とは、コンクリートの塊(方塊と呼ぶ)や、石枠や、鐵筋コンクリートの函(函塊と呼ぶ)、或は石材などを以て、其の兩側を殆んど直立に近く築き上げたものである。

 図:第十四圖 捨石式防波堤
 図:第十五圖 直立式防波堤
 図:第十六圖 混成式防波堤(髙基式)
 図:第十七圖 混成式防波堤(低基式)

 混成堤とは、下部が捨石式で、上部が直立式のものであつて、其の直立部の基礎が略々干潮面より上に在るものを特に高基混成堤と名付け、下の深い所に直立部の基礎のあるものを低基混成堤と言ふ事もある。
 次に此等三様式の適否を記せば、先づ波力の著しく大ならざる所、例へば波の高さ約三米以下の港にして、石材の運搬や供給の便多き場合、若くは地質柔弱の所などには、捨石堤を有利とする。之に反して、海底が固い岩盤なるか、或は石材の高價なる所、又は波力の強大なる港等にては直立堤を選ぶがよい。次に水深の大なる所、或は波力の大なる所、又は地質が柔弱の所等にては、混成堤を可とする。
 是れ迄は防波堤を構造上より分けた種類を記したが、更に進んで横斷面の形状に就いて述べて見る。
 捨石堤の斷面 一般に防波堤の横斷面の形は波の大小等によつて甚だしき差異があるが、其の見當を以下順次に記する。
 先づ捨石堤に於て、其の頂面の高さは、大潮の平均滿潮面より二米前後高くする、但し稀には其の滿潮面と略々等しきもの、或は滿潮面の上へ四米以上も高くする場合もある。
 又頂面の上幅は、普通四米乃至五米位の者が多い。
 次に捨石堤の兩側面の勾配の緩急は、波に面する外側に於て、上部を最も緩にして、例えば三割(水平十に對し垂直三上りの意)乃至四割に始まり、下部に至るに従つて之を急にし約一割五分位に止める、但し港内に面する内側の勾配は、一般に外側より 急であつて、例へば、二割前後に始まり、最下部では一割乃至一割五分のものが多い。
 直立堤の断面 先づ直立堤の頂面の高さは、大潮の平均滿潮面の上へ一米乃至一米半位出すのを普通とする、然し稀には滿潮面と略々すれすれに低くしたもの、又反對に之を滿潮面上四五米も高くした例もある。一般に地中海の港に見るが如く防波堤の内側を或は船を横付けにする埠頭岸壁に兼用する場合には特に高くする。之を要するに、頂面を低くすれば越波が多く、高くすれば波力を激發する傾向が多くなつて堤體は危險となる。最近大阪の新防波堤の高さが問題になつたのも之が爲めであつた。
 次に直立堤の幅員は、一般に波力の大小に依つて計算して其の厚さを設計するのであるが、普通の實例によれば、内海に於て防波堤の上幅には三米乃至五米前後のものが多いが、荒れる外海では六米乃至十米などの廣き上幅を取る、尚ほ堤體の幅員は一般に下部に至るに從つて稍々擴大して、波力に對してなるべく安定度を增大瀬しめたものが多い。

 図:第十八圖 防波堤の頂面(鹿兒島港)

 混成堤の断面 此の混成堤の中で、その上部の直立部と下部の捨石部との各々の形状は、前記の直立堤や捨石堤の記事に依つて之が大略を想像し得る、又其の境目の高さに就いて、高基と低基とのある事は既に之を述べた、即ち高基に於ける直立部の基礎は、堤體の工事の施工をなるべく水上にて行ひ以て作業を容易ならしむる爲めに、之を干潮面より高くする、之に反して低基混成堤に於ける直立部の基礎の水深は寧ろなるべく之を深くして、直立部の前面へぶつかつた波の力が上下に分れて其の下方に向つたものの洗掘力に對する水のクッションを厚くする様に設計すべきである。尚ほ此の直立部と捨石部との境界を定むるのに、工費の單價を少くする事にのみ重點を置いて設計する事もある。
 次に混成堤に於ける直立部が捨石の中への根入れは成るべく深くするがよい。例えば荒海に面する所では、普通之を二米以上も入れて、波の洗掘を防ぐ、尚ほ其所へは、特に大きな石やコンクリートの塊を置いて、直立部の根本を固く保護せしめる。

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写真 第十三圖 波浪と防波堤との關係
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写真 第十四圖 捨石式防波堤
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写真 第十五圖 直立式防波堤
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写真 第十六圖 混成式防波堤(髙基式)
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写真 第十七圖 混成式防波堤(低基式)
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写真 第十八圖 防波堤の頂面(鹿兒島港)

八 防波堤の材料

 防波堤を築造するに使用した材料に依つて分けた防波堤の名稱を記せば、捨石堤の種類の中に、粗石堤、捨方塊堤、土砂堤などがあり、又直立堤に屬するものには、石張堤、石枠堤、方塊積堤、函塊堤、矢板堤、單塊堤などがある、而して混成堤には、前掲の各種を組合わせて出來ただけの種類が有り得る。以上の中で本邦に於て最も多いものは、粗石或いは捨方塊の上部へ方塊積堤、或いは函塊堤、或いは石張堤なとあを置いた混成のものである。
 粗石堤 とは不規則形の石の破片卽ち、粗石を山形に盛り上げた捨石式の防波堤であつて、最も簡易に施行し得るが爲めどこの國でも古來最も廣く行はれた、但し旣に述べた如く大きな波に依つては粗石がばらゝに散亂する傾向を持つ事と、粗石は之が切り出しや運搬に取扱ひなどの關係から其の大さに限りある爲めとに依つて、此の様式は最大波高が大略四米以上もある様な波力强大な場所には不適當と思ふ。
 粗石の大さは時に十瓲以上のものもあるが、普通は五瓲以下のものが多い、又粗石の品質は重く硬く崩壊せざるものがよい。例へば安山岩、花崗石等は最も上等である。若し柔質の石を用ひる場合には之を中の方へ用ひ、外は硬質のもので被ふ。
 海底の地質が柔弱の所では其の柔き泥を相當の深さまで掘り取つて其の跡へ荒き砂を置き換へて耐支力を人工的に増さしめ以て粗石堤の基礎とする場合が多い。
 一般に石山を崩すには、小さな坑道を横から掘つてその終端に小部屋を造り其所へ多量の火薬を詰め之へ電流を通じて爆破する。斯くして切り出された粗石は小棧橋等から岩運搬へ積み込んで所要の所へ運ぶ、岩運搬には甲板張の小さなものや、舟底の開く様に出來た大きなものなどがある。前者は舟を傾けて粗石を海中へ滑り落とし、又後者は底を開いて落す。尙ほ提體の表面の粗石は簡易な起重機や、潜水夫の力をかりて稍〜丁寧に石と石とがなるべく互ひに噛合ふ様に施行して、對波力を増火せしむる。又粗石堤の頂面へはコンクリートを詰める事もある。粗石堤の實例は、伊東港や三國港などにある(第十九圖參照)。

 図:第十九圖 粗石捨石堤

 捨方塊堤 とは粗石の代りにコンクリートで角形に造つた塊、卽ち方塊或いはブロックと稱するものを堆積した防波堤であつて、前の粗石堤よりは耐波力が强くなる。
 堤體の殆んど全部が方塊が堆積から成たものもあるが、普通は第二十國に示す大阪や四日市の實例の如く堤體の上部の表面だけに方塊を被せて其他を粗石としたものが多い。尙ほ伊太利の港では此の上部だけの方塊を階段形に規則正しく盛り上げたものがある。
 方塊の大さは大阪八瓲、四日市十瓲、マルセーユ三十三瓲等波力の大小に依つて一様でない。方塊の製造場は築港工事の中でも最も重要な設備の一つとなってゐて、これを方塊工場はブロックヤードと呼び其の中にはコンクリートの混合機を始め、或は型枠、又は方塊の運搬積出用の起重機など種々の機械が裝置されて居る。この方塊工場から防波堤築造の場所へ方塊を運ぶには、陸上から出來上つた防放堤の上へレールを敷き臺車へ載せて送り、夫れをタイタン(第二十一圖參照)と稱する起重機などで水中へ落するのと、今一つは、方塊工場の積出場から舟へ方塊を載せて水上を進んで、浮起重機で水中へ釣り下ろすものとの二種類の工法がある。

 図:第二十圖 捨方塊堤
 図:第二十一圖 タイタンにて釣り下す方塊(新潟港)

 石張堤 とは直立部の外側面を割石や間知石(菱形に切つた石)等の石材で張り詰め其の中部に粗石を詰めたもので、直立堤としては、構造は最も簡單、施行も容易、工費も低廉
であるが各々の張石が波の爲めに拔け易い缺點を持つがため、波の小さい内海の港に限つて採用せられる。卽ち鞆や高松、其の他瀬戸内海の港に其の實例を多く見る、而して近年のものは、石張の隙間ヘコンクリートを充して幾分强くなって居る。

 図:第二十二圖 石張堤

 石枠堤 とは堤體の周圍に石枠卽ちクリブを用ひ中に粗石を詰めたもので、其の枠には木材、鐵筋コンクリート、鐵矢板等がある。卽ち木村の石枠堤はバルチック海やナイヤガラ附近の五大湖の沿岸等に多いが、本邦の海岸には木村に對する海蟲の害が甚だしく、又木材が安くない爲め好適の様式ではない。次に鐵筋コンクリートの枠はセルラーブロックと稱して加奈太の港で屢々用ひられる、又鐵矢板のものは其の矢板を外側に打ち並べて中に砂を詰めたもので名古屋の港内の小防波堤に造られた。
 コンクリート單塊堤 とは堤體の全部が略々一體のコンクリートから出來たものであるが水中に於けるコンクリートの施工が困難のため近時の大防波堤には餘り行はれない。
 然し岩盤が干潮時に露はれる様な淺い所の小堤、例へば漁港の船澗の防波堤には今日盛んに用ひられる、言ふ迄もなく、之は防波提築設の場所へ型板を假に建て、其の中へ練りたてのコンクリートを流し込む、斯の如き工法でコンクリートを施工するものを場所詰コンクリートと稱する。此の工法は水上の部分は樂だが水中の部分は作業極めて困難である。從つて其の昔英國のアバデーン港の大防波堤に於て、此の水中の部分は大きなズックの袋にコンクリートを詰めて之を積み重ねた。

 図:第二十三圖 コンクリートの單塊堤

 方塊積堤、とは多數の方塊を高く積み上げ以て直立部を形造つたもので、次の函塊堤と共に最も重要な種類である。卽ち其の特徴は波高の大なる所にも使用し得る、又前記のコンクリート單塊堤の如く水中で困難なるコンクリートを造る必要がない爲め一般に施工が容易確實である。
 方塊積堤の大きな實例である釧路港では一個毎の目方四十七瓲の方塊を用ひた、其の他小樽港では二十七瓲、又第二十四圖の小名濱漁港では十六瓲、靑森港では十一瓲、大分港では八瓲の方塊をそれぞれ使用した。
 この方塊積堤に要する方塊の製造場や積出運搬などの事は卽に述べたものと全く同様である、又積疊の作業には同じく浮起重機或はタイタンを使用するのであるが、前の捨方塊が場合に比して、据付の他置を一層正確にする爲め潜水夫を多く用ひる。尙ほ方塊と方塊との間の結合には、凹凸を造つてこれを互ひにはめ込み、或は縦の小溝を造りその中へ鐵條やコンクリートを入れて連結を强固ならしむ。尙ほ基礎の地盤が平でない所にては、小さな袋詰のコンクリートを敷き均らして其の上へ方塊を積む。又この方塊積堤に於ても、干潮時に露出する上部のみは、其の場所で直接コンクリートを詰める。又其の頂面は波の落下によつて强くたゝかれる所であるからなるべく上等のコンクリートを施し、又下から押しつゞまた波力
を上へ抜く爲めに水抜穴を所々に設ける。尙ほ船を繋ぐための小さな杭を立てたものもある。

 図:第二十四圖 方塊積堤

 函塊堤 鐵筋コンクリートで造つた巨大なる函舟卽ち函塊或はケーソンと稱するものを水中に沈め、その中にコンクリート或は石や砂などを詰めたものであつて、今日本邦に於て最も流行を見つゝある様式である。
 此の様式の犠徴は堤體の全部が前の方塊積と異なり殆んど一體となるが爲めに耐波力は他の如何なるなる様式よりも強い事である。又施工に於ても各部分を局部的に總て水上で造るが爲め其の作業は必ずしも困難ではない。
 此の實例の中で第二十五圖に示す敦賀港の新防波堤に用ひた函塊一個づゝの目方は九百瓲(長十三光九、高六米七、幅七米)あつて、其の中にコンクリートを塡充した後の目方は一個三千瓲に餘る、卽ち之が多數相連なつて一直線の防波堤を海に畫いて居るのだ。
次に小樽港に於ても函魂一個の目方八百四十餘瓲(長十三米九、高六米七、幅七米九)、塡充後の目方約二千二百瓲のまのを用ひた部分がある。又留萌港、網走港、八戸港、神戸港、室蘭港、鹿児島港などにも、相當大きな函塊を用ひて防波堤やわ造成した。尚ほ此の外串木野港、第二十六圖の横濱新堤、大阪の新堤、小名濱の新堤ら油津港ら尼崎港、宮古港、土崎港、網代港、三崎港、平潟港等その實例は頗る多い。
 函魂は單に防波堤ばかりでなく、その外に或は岸壁や後に述べる大護岸なのまにも廣く用ひられるら従つて築港の工事に於いて、此の函塊の製造は前に記した方塊の製造と共に重要な仕事となってゐる。而して函塊の製造のやり方に三種類がある、卽ちその一つは、之を舟架(スリップウヱー)の上にてその鐵筋を組みコンクリートを施して函塊を造り、硬化の後にドック中へ水を注入して函塊を浮べて引き出すもの、第三は函塊を大きな製造臺の上で造り之を浮ドックで水上へ引き下ろすものである。其の中で船架の設備は比較的に簡單のために、最も普通に行はるゝ方法であつて、門司、淸水、東京の如き大規模のものから、平潟、網代の小規模のものに至るまで、其の實例は我が國に最も多い。次にドックによるものは最も安全であるが其の設備費は高くなる、實例は網走と横濱とにある。尚ほ又浮ドックに依るものは設備費が最も高い爲め神戸の外には本邦にその例を見ない。この函塊の製造場は造函工場或はケーソンヤードと稱して前記の船架或はドック等が中心になつて、その外にコンクリート混合機、同運搬用の鐵塔、起重機など種々の機械装置がある。
 函塊の進水後に之を所定の場所へ運ぶには、水上に浮かべて曳船で持つて行く、而して小樽から留萌まで運んだのは遠距離曳送の記錄であつた。
 次に函を沈めるには、先づその位置を潜水夫等の力をかりて正確に定めて、或はサイホン等で水を入れ極めて徐々に沈める、一度水を充して据ゑ付けた後再び其の水を函塊内の中仕切を利用して小部分づゝかへ出し空にして、其の代りにコンクリートを順次填充する。此の函塊提の場合にも方塊積提にて述べた如く、函より上の方へは同じく場所詰コンクリートを施して之が頂部を形造る。

 図:第二十五圖 函塊堤
 図:第二十六圖 函塊堤
 図:第二十七圖 ドック内にて製造せし函塊(横濱港)
 図:第二十八圖 船架より滑り函塊(東京港)

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第十九圖 粗石捨石堤
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第二十圖 捨方塊堤
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写真 第二十一圖 タイタンにて釣り下す方塊(新潟港)
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第二十二圖 石張堤
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第二十三圖 コンクリートの單塊堤
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第二十四圖 方塊積堤
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第二十五圖 函塊堤
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第二十六圖 函塊堤
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第二十七圖 ドック内にて製造せし函塊(横濱港)
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第二十八圖 船架より滑り函塊(東京港)

九 防波堤設計の要點

 防波堤を設計するには前に記した波の理論等から、先づ其の地點に起り得る最大の波高を推定し、更に之による最大波力を算出し、其の力に耐へ得る構造となすべきである。而して其の際の計算要項を参考にまで記せば次の如くである。

(イ) 波の押す力の爲めに堤體が後ろへ倒れる恐れなきや
(ロ) 波の押す力に依つて堤體が後方へ水平に滑り出す恐れなきや
(ハ) 波の力と堤體の重さとの組合せによる合力の爲めに堤體後方の基礎に多分の力がかゝり、是れに依つて基礎が傾いて沈下するの恐れなきや

 以上三點の計算に依つて不安ある時は更に堤體の幅を增して再び之が檢算を行ひ、以て堅牢にして經濟的な防波堤を設計するものである。

十 防波堤の工費

 最後に防波堤の常識として必要なる工費に就いて附記し度い。
 言ふ迄もなく、防波堤の築造に要する工費は、其の形状、用材、環境、時期等によって著しき差異がある。
 一般に防波堤の單價は、其の長さに於て一米當りの平均を以て表はす、卽ち高松港の石張提は長さ一米につき約百六十圓、名古屋港内の矢板提は約五百圓、四日市港の捨方塊提は約二千圓、船川港は下部が捨石で上部が方塊積のものにて二千圓、神戸の下部が捨石で上部が函塊にて約千四百圓、敦賀の下部が捨石で上部が函塊のものにて三千百圓、小名濱漁港の方塊積の直立堤で千九百圓かゝつた、又留萌の直立堤に至つては約四千圓、更に淸津港、高雄港にては一米當り實に五千圓以上に及んだ、されば海上に唯細く引いた白線の如く見ゆる防波堤も、水中深くかくれた部分の巨大なる構造に依つて、欺の如き莫大の工費を要するのである。
上述の如く防波堤の單價は大小種々の差があるが、之を要するに大略の見當としては、水深約十米の所にて長さ一米當り約二千五百圓、水深七米程の所ならば約千五百圓、又水深が更に小なる所に於て鐵矢板堤の如き簡易のものならば約五百圓、尚ほ石張の小堤ならば二百圓以下でも出來る。

十一 海濱の護岸

 浪によつては陸岸が侵蝕せらるゝのを防ぐ爲めには護岸を築く。護岸の形状は、直立形のもの、傾斜形のもの、並に其の兩者を並用するものとがある。
護岸の堤體の主なる材料としては、粗石、割石、間知石、コンクリートの方塊、鐵筋コンクリートの函塊、矢板、石枠等であつて、此等各種の用材が、護岸形状、波高、潮差、水深、地質、工費等の條件に應じてそれぞれ適切に選檡せらるゝは言ふまでもない。
 又護岸堤體の基礎の部分へは、主として粗石を堆積する、但し其の外に、地盤が柔弱の所には、地杭、胴木、粗朶、置砂などを用ひて堤體の沈下や滑り出しを防ぐ。
一般に言へば港外の波の多い海濱では、地盤が波でたゝかれて相當に固く締つて居るから、護岸の基礎は卽述の如く單に粗石の堆積で足りる場合が多い。
 尚ほ堤體の基礎は、防波堤に於けるが如く祖石の捨石部の中へなるべく深く根を入れる方が安全であるし、又波の强いところでは其の根元が波に依る洗掘を防ぐ爲めに、大きな粗石や方塊を捨てて置く。
 堤體にぶつかつた波のしぶきが陸地内を侵さない爲めにはら護岸の上を特に高くする、之を胸壁卽ちパラペットと呼ぶ、尚ほ又陸地上へ落ちるしぶきの爲めに護岸の裏が掘れて破壞するのを防ぐために、護岸の後ろの陸地面の若干を第三十ニ圖に見るが如くコンクリートなどで鋪裝する。尚ほ其の後方へ落ちた水を集めて流す爲めの溝や水抜穴なども造る。
 護岸の築造費の大略を記せば、木柵こ簡易なるものでは、間口の長さ一米に就いて約二十圓乃至五十圓、鐵筋コンクリート矢板のもので五十圓乃至八十圓、木枠石詰のもので五六十圓、石張のめので二十圓乃至百圓、又方塊と場所詰コンクリート等による大型護岸では百圓乃至二百圓、更に函塊を用ひた大護岸では二百圓乃至五百圓にも及ぶ。
 尚ほ海濱が著しくかける場所には、海岸線から垂直の方向へ尚つて、簡易なる突堤を所々に出して其れの間に砂の留まる様に設計する事がある、其の構造には、石張防波堤を小さくした様なものが多い、但し稀には木柵や鐵矢板の柵を突出させたものもある。例へば米國第一の冬の盛場であるフロリダのマヤミ海岸に於て、鐵矢板製の長大なる砂止堤を見た。

図:第二十九圓 石張護岸(燒津海岸)
図:第三十圓 護岸の構造
図:第三十一圖 石張護岸の構造
図:第三十二圖 方塊を使用せる大護岸

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写真 第二十九圓 石張護岸(燒津海岸)
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第三十圓 護岸の構造
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第三十一圖 石張護岸の構造
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第三十二圖 方塊を使用せる大護岸

十二 砂止堤

 尚ほ海濱が著しくかける場所には、海岸線から垂直の方向へ尚つて、簡易なる突堤を所々に出して其れの間に砂の留まる様に設計する事がある、其の構造には、石張防波堤を小さくした様なものが多い、但し稀には木柵や鐵矢板の柵を突出させたものもある。例へば米國第一の冬の盛場であるフロリダのマヤミ海岸に於て、鐵矢板製の長大なる砂止堤を見た。

十三 海岸の堤防

 海岸堤防或は防浪堤、又は防潮堤と稱するものは、干拓地その他の低地の周圍等に築かれた堤防であつて、之によつて荒天時の波の侵入や津浪の侵入を防ぎ、或は常時に於て滿潮の浸水等を止めるものである。
 海岸堤防の最も有名なるは和蘭のものてあるが、本邦では、九州の西岸や、瀨戸内海の沿岸、伊勢灣等に於て古来之が素晴しき發達を見た、又三陸沿岸や紀州沿岸などには、津浪に對する巨大なる防浪堤がある。
 海岸堤防の形状は、内方の陸地が比較的に低い爲めに、其の斷面の形は大略、梯形に近いものとなる、そして堤防の前面は前に述べた護岸と全く同じ構造であるが、後部は普通の土堤の形をなすものが多い。
 我國古来のものは前面は石張の直立護岸であつて、其の石張壁の根本には更に一重或は二重以上の鞘堤と稱する根固堤を被せてある。又堤の上面には胸壁を置き、又は茅を繁茂せしめて波のしぶきを止める、尚ほ近年に至つて石張の外に、方塊、函塊、場所詰コンクリート等を此の海岸堤防へのも利用する様になつて盆々強固の構造となす事が出来た。
 津浪に對するものは、特に上面にも石張を施し、更に後方へ松を繁茂せしむるがよい、蓋し防潮林は、津浪に對して最も効果あるものと思ふ、即ち本邦海岸の特徴である白砂を色どる青松も決して伊達には茂つて居ないのだ、そして其の防潮林の幅員は勿論廣いほどよいが、三陸沿岸などでは約四十米以上を要する。

 図:第三十三圖 今治港外の大護岸
 図:第三十四圖 海岸堤防の一例
 図:第三十五圖 日本古来の海岸堤防

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写真 第三十三圖 今治港外の大護岸
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第三十四圖 海岸堤防の一例
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第三十五圖 日本古来の海岸堤防

津浪・高潮避難心得 今村明恒

目次

一 はし書…三五三
二 津浪の暴威…三五八
三 津浪襲來の常習地…三三
四 津浪警戒…三六一
五 津浪避難…三六八
六 浪災豫防…三七一
七 高湖…三七七

一 はし書

 津浪なる言葉には廣いのと狭いのと二通りの意味がある。廣い意味に於ては地震津浪と風津浪との兩方を飲んでゐるが、狭い方は地震津浪だけを含んでゐる。此の後の場合に於ては、近頃風津浪の代りに高潮なる言葉を用ふるようになつた。本書に於ても此の狭い意味を用ふることにした。海嘯なる漢語が津浪の代りに用ひられることがあるが、これは誤である。支那では海嘯を或は海笑とも書き、特別な川の口に於て、新月或は滿月の頃、大量に、而も水壁を立てゝ溯つて來る滿潮のことをいふのである。
 吾が國の津浪に當る漢語は海溢である。元來津浪は海水が陸地に溢れて來るような現象だから、海溢なる語は能く其の實際を形容してゐる。しかし吾が國の津浪なる名稱はもつと能く其の實際の性質を表はしてゐる。やがて説明するように、津浪は外海では其の存在すら分らぬぐらゐ浪の高さは小さなものであるが、港灣、特にV学形或は漏外形のものに進入したとき、始めて著しくなり、甚だしき災害を惹起すようにもなるのだから、港の浪卽ち津の浪として最も能く實際に當て嵌まつてゐると言はねばならぬ。今日海外の學界でも此の津浪なる語を使用する位なのに、津浪の國、又は津浪の學間の國といはれる吾が日本に於て、今猶ほ海嘯なる漢語を誤り用ふるが如きは不見識の極と言ふべきであらう。
津浪も高潮も海水が陸上に漲り溢れる點に於ては共通である、昔津浪に出會つた人の書いたものに、海岸線を固定して置いて、沖の方を持ち上げるように海底を傾けたならば、かうもあらうかとしてある。實に其の通りである。
かように津浪と高潮とには共通な點があるが、他の方面に於ては著しい相違もある。
先づ原因に於て、津浪が主に海底に於ける大規模の地變に基づくのに對して、高潮は著しき氣壓の低下や風力などの氣象上の異常に基づくのである。
次に海水漲溢の緩急・大小に於ても一般的に著しい差がある。卽ち高潮の場合に於ては浸水の高さが平水上數米に過ぎないのに對して津浪の場合は數十米の高さに達することもある。又高潮は低氣壓の中心の移動に伴つて增水し、其の通過後次第に減水する關係上、海水の漲溢は槪して一囘に泊まり、潮の差引も比較的に緩漫であるが、之に反して津浪は海水の一體としての振動なるが爲、潮の差引が幾度も繰返され、且つ比較的に急激である。尤も高潮の場合は風に因つて起る激浪が加はるのも其の一つの特色である。
更に其の害を及ぼす作用を比較して見ると、高潮の場合では浸水が主であつて、此の爲に輕い低い家は流され易いのであるが、津浪の場合はこの外に、潮の急激な差引に因る破壞作用が加はつて來るのである。尤も高潮に於ても潮の差引が皆無なわけではないけれども、津浪の場合に於けるが如き、差引の速さ每秒二三米乃至十米などに比べては、論ずるに足りない程度のものである。

昭和九年九月二十一日の室戸颱風は大阪市及び其の附近の沿海地域に高潮を惹起し、非常な災害を與へたが爲、高潮なる現象は一躍して世人の注意を喚起してしまつた。大阪はかような高潮や津浪の爲に、幾囘も悩まされた經驗を有つてゐるので、今囘の被害地域の如きは明治維新までは海水の漲溢を覺悟して、決して町家を建てたり、橋を架けたりなどしなかつた土地である。今囘は水位が平水上三米餘に上り、沿海地域に於て多數の家屋を流し、川口に架かつた橋も三個ほど損じたが、若し市街の區域が昔の通りであつたならば、大した損害は無かつたのであらう。之に反して津浪の害は比較にならぬほど大きい。安政元年十一月五日のときは川口での浪の高さ五米、落ちた橋の數二十五、寶永四年十月四日のときは同じく浪の高さ少くも六米、落ちた橋の數五十を下らなかつたので、其の大槪の模様が察せられるであらう。
之を要するに、高潮は浸水の高さに於ても、亦潮の差引の速さに於ても、津浪以下のものであり、且つ其の原因たる氣象變化は幾時間も前から其の徴候を示すのであるから、其の警戒・避難・災害防止は津浪に比較して遙かに容易でなければならぬ。恐らくはこれについての對策は大體津浪に關するものによりて盡されるであらう。
前に述べたように、本書に用ふる津浪たる語は狭い意味のもの、卽ち地震津浪を指すのである。地震津浪なる名稱は或は地震に因つて起される津浪との誤解を導くかも知れぬ。之に就いては少しく辯明して置く必要がある。
湖水・河水或は池水などは氣象上の變化や地震などが原因となつて、桶の水に見るような動搖が起ることがある。これをセイシュと名づける。
 セイシュはたゞに内陸の水に於てのみならず、港灣内の海水にも起ることがある。地方によりては之を「よだ」ともいひ、或は「あびき」とも呼び、其の高さ敷十糎に及ぶこともある。
前に、津浪は主に海底に於ける大規模の地變に基づくことを述べて置いたが、かような地變は同時に大規模の地震を惹起す原因ともなるであらう。以前に於てはかような地震に因つて津浪が起るものと考へてゐたが、其の後證據立てられた所によれば、地震はたとひ如何に激しくても津浪の主な原因にはなり得ないものであつて、漸く港灣のセイシュを起すに過ぎないとのことである。しかし津浪と大規模の地震とが相伴つて起ることには誤はないのだから、此の種の津浪を地震津浪と呼ぶに何等の不都合はないのである。
陸地地震に於ては其の大小に従ひ、之に相應する地盤の上下變動のあることが陸地測量によりて證明せられたが、海底地盤に於てはかような上下變動が一層大規模に起るらしいこと、これ亦海深測量によりて證明せられるに至つた。
若しかように海底に上下の變動が起つたならば、其の上に位する海水も亦之に應じて上下變動をなし、それが四方に擴がつて津浪の現象を呈するに至るであらう。
池に石を一つ投げ込んだとき、其處から四方に波が擴がつて行くことは能く見る圖である。此のとき、投げ込んだ石は唯一つでも、波は一つではなく、後から幾つも幾つも追ひかけて行く。かような場合、波の山と谷とが見られるであらうが、其の山の平水面上からの高さを波高と名づけ、一つの山と次の山との距離を波長と名づける。
欺く波は四方に擴がつて行くけれども、池の水が横に動くわけではなく、若し一滴の水を見つめてゐたならば、それは槪ね上下に動くのみだといふことに氣づかれるであらう。つまり水滴は一上一下を繰返すわけであるが、其の一たび上りつめてから次に上りつめるまでの時間を此の波の週期と名づける。
池の波でも、それが淺い岸に近づくと、水滴の上下振動は次第に水平の振動に變ることを氣づくであらう。此のことは、海濱の波について一層明かに觀察し得られる。隨つて波の週期はかような一進一退を見て之を計るのも一の方法である。
津浪も一種の波である以上、池の波や、日常海濱に寄せる波と同じ性質を有つて居る。しかしながら其の波長や週期が普通の波に比較して非常にに大きい。唯其の高さだけは普通のものに比較して大した相違はない。
此の事は津浪を起す海底の廣さと其の上下變動の大きさとを考へたなら、直ぐにわかる筈である。
實際此の種の海底の變動は其の區域のさしわたし數十粁に及ぶことが珍らしくないから、之に因つて惹起された津浪の波長も亦極めて長く、數十粁はおろか、甚だしきに至つては數百粁或はそれ以上にも及ぶことがある。隨つて津浪の週期もそれ相應に長く、二三十分位を通常とし、大なるものは二時間にも達することがある。
吾が三陸の太平洋沖合に起る津浪は二十分から三十分位の週期のもの最も多く、隨つて其の波長は太平洋の深い處では五百粁にもなるのだから、十數回もうねると對岸のアメリカへ届くことになる。これ一箇處に起つた津浪が同じ大洋のみならず、隣りの大洋のはてまでも擴がつて行く理由である。
津波は、其の週期と波長とはかように格外に大きいけれども、其の波の高さは、外海では數米若くは其れ以下のものである。随つて外洋を航行く中の船舶はたとひ津浪に出會つても全く之を氣づかないことが通常である。
明治二九年六月一五日の三陸大津浪は夜八時頃に起こつたのであるが、沖合に夜の漁獵に出てゐたのは自分の村が留守中に全部流されたとも知らず、翌朝歸つて來て變り果てたありさまに夢かと許り驚いたといふ。又大正一二年九月一日關東大地震のとき、熱海では高さ一二米の津浪に襲はれて四苦八苦の眞最中、沖を走る三艘の石油發動機船は何の苦もなく、穏かな航海を続けてゐたさうである。

二 津浪の暴威

 津浪は外海に於ては船舶に對して無害なこと前に記した通りであるが、それが人畜・船舶・家屋などに對して暴威を奮ふのは専ら陸地に接近し、陸上に侵入して來たときだけだといつてよい。但し津浪に伴つて發生した海底地震は海水に傳はつて海震となり、附近の海上を航行する船舶に感ずることがある。此の爲に、船は鋭い振動を感じ、器物を顚倒せしめなどするので暗礁に乘り上げたのではないかとの疑が起るさうだが、しかし船は停止することもなく、以前からの進行を續けるので、始めて其の疑が晴れるのださうだ。海震が激しいと昔は難破する船もあつたが、造船術が進歩した今日に於てはかようなことが無くなつてしまつた。
 津浪が陸地に近寄つて來て其の暴威を奮ふようになるのは一つにはそれが其處で急に其の高さを增すからである。
 今假りに、海岸線に凸凹がなく、又海底が沖の方へ次第に深くなるものとしたなら、遙かの沖合、例へば六千四百米の深さの所で起つた高さ一米の津浪は四百米の深さでは高さ二米となり、二十五米の深さでは高さ四米となる筈である。
 かような次第だから、凸凹の少い海岸では津浪は多少えらくなつても大した高さにはなり得ない。三陸の沿岸に於ける經驗によれば、五米位がかような地形の場處に於ける最大の記録であらう。但し寬永四年十月四日南海道沖大地震津浪に於ては土佐の種崎に於ける高さが七十尺に及んだとしてあるが、これは土の場合に似て非なるものゝ例である。
 海底が上に記したように沖の方へ次第に深くなり、且つ海岸線がV字形卽ち漏斗形をなし、漏斗の入口が津浪の起る方へ向つて開いてゐるならば、津浪の高さの增大に最も適してゐる。若し漏斗の開き口が十六粁であつて、其處での津浪の高さが一米であつたし、且つ浪が崩れずに奥の方へ進行するとしたならば、幅四粁の處へ進入したとき高さは二米となり、幅一粁の處ではでは高さ四米となるべき筈である。しかし、若し波が崩れて津浪が漏斗の奥へ向つての流れとなつたらば、幅四粁の處では高さ四米となり、幅一粁の處では高さ十六米となるべき筈である。
 津浪は右のように、灣の形状に因つては、急に其の高さを增すようにもなるのだから、これと同時に、前に記したような深さの關係まで加はつて來ると、其の高さの增大する割合は一層甚だしくなるわけである。
 大正十二年關東大地震のとき、相模灣の沿岸は彼方此方に津浪の襲來を見たが、熱海に於ては其の港の奥の處では十二米の高さに逹し甚だしき損害を被つたに拘はらず、港の两翼の端に當る處では高さ僅かに一米半、中間の船着場の處で高さ四米半に過ぎなかつた。
 三陸の沿岸に於ては綾里灣が理想的に近いV字形を備へりて居り、V字の間口が三粁、奥行が四・五粁ある。從つて此の地方が津浪に襲はれるたび每に、綾里灣は浪高の最高記録を出し、明治二十九年六月一五日の大津浪に於ては實に三十米といふ驚くべき數字を示してゐる。
 集の灣も亦V字形をなし、間口奥行共に約千二百米ほどある。此處での浪高は明治二十九年のとき二十七米であつて、昭和八年のときは二十三米であつた。此の後の場合に於ては、灣の一翼の端に當る椿島に於ての浪高は僅かに三米であつて、中間にある靑松島に於ての高さは八米に過ぎなかつた。
 港灣が上に記したようなV字の理想形を備へ、且つ其の口の津浪の起る方へ向かつて開き、又海底が沖の方へ次第に深くなるような場合に於ては浪の增大に最も適してゐるわけであるが、此の形式から次第に遠ざかるに従つて浪の高さの增し方も亦次第に減ずるのである。U字形のものはV字形のものに次ぎ、開口狹き袋型のもの更に之に次ぎ、若し袋の口が一層狭きとは浪は灣内に於て却つて低くなる位である。
 大灣の内に小灣が寄生してゐるとき、其の小灣に於て津浪の增大する狀態は、丁度上に記したと同じ傾向を取るのである。例へば大阪灣は袋形であつて南方から侵入する津浪に對しては紀淡海峽を袋の口に有つてゐるわけだから、灣内に於ての浪の高さは比較的に低いのであるけれども、灣の北端に近き、大阪市から尼崎・西宮邊に至る沿岸は、U字形の小灣を形作つてゐる爲、大阪灣の中では浪が比較的に高くなる場處である。
 津浪が淺い海岸がに近づくと水の動きは主として横の振動となるので、海水全體が一體となつて前後に振動するようになる。海水が陸上に溢れるのもこれに因り、其の進退の速さが每秒數米、甚だしきは十米に上るのも之に因るのである。海水が陸地に高く上る半面には、沖合遥かに退却して、平日見得ない暗礁まで露出することがある。
 津浪の破壞作用は浸水丼に海水の激しき進退に因るのであるが、若し灣の底面或は側面に凸凹が多いときは、其の進退の速度は多少緩かになる。かような海底が淺く且つ沖合にまで擴がつてゐるときは此の働きが一層著しい。

 図 第一圖

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第一圖

三 津浪襲來の常習地

 津浪は何れの海岸にも起るとは定まつてゐない。先づ大規模の海底變動の起る海に面してゐること、言ひ換ふれば、沖合に大規模の地震を起し勝ちな海岸なる事が第一の條件である。
 かような地方としては第一に太平洋の沿岸を學げることが出來る。吾が國の太平洋沿岸も亦此の内に含まれてゐる。
日本海の方では海底變動が起らないこともないが、しかし、たとひ起こつても、太平洋側に比較しては規模が大きくない。言葉を換へて言へば、日本海側でも津浪が起こらないこともないが、それでも規模は小さく、被害も海濱の小屋、小型な船舶を流失せしめるに過ぎない。
 第二に海底が海岸を距るに從つて次第に深くなることが必要である。急に深くなつてもいかぬ。又次第に深くなるにも餘り遠淺であつてもいかぬ。例へば臺灣の東海岸の如く、たとひ第一の條件に適つてゐても、海が急に深くなる爲、津浪の大した被害はない。又陸中の大船渡灣、陸前の松島灣の如く、遠淺なるが爲、此處では津浪は大きくない。
 津浪が發達するに要するに第三の條件は、海岸の地形が沖の方へ向かつてV字形に開くか、若くは之に近き形を取つて居ることである。
 以上記した三つの條件を最も能く備へてゐる爲、津浪常習地として世界に冠たるの土地である。
 紀伊・伊勢・志摩・土佐の沿岸に於ても右に近き條件を備へた處がある。伊豆・上緦・安房の海岸にも此の種の小形な港灣がある。
 次に規模の稍大きな港灣として、V字形成或はU字形に近きものに、夫の家戸崎と蹉跎岬との間に展開してゐる土佐の入海がある。前には賓永津浪が種先で七十尺を記錄したことやわ述べて置いたが、若し海岸線を小觀すれば直線形であるけれども、大觀すれば此の入海は漏斗形に彎入して種崎は其の底の邊き相當するのである。
 大規模の灣で口の稍狭いものに相模灣・東京灣伊勢灣・大阪灣等がある。瀬戸内海と亦此の類に近く、時々津浪に侵入された例がある。
 北海道に千島列島を含み其の太平洋海岸は、著しき彎入に乏しいけれども、大規模の海底變動に緣の深い深海溝に近い爲、津浪の襲來は其の頻繁なること、三陸沿岸と同様である。唯三陸沿岸に見るようなV字形の港灣がない爲、非常に大きなものを經驗しないといふに止まるのである。
 南海道沖・東海道沖は三陸沖に劣らぬ津浪の發生場處であるが、九州沖はそれ程ではない。しかし絶對に發生しないわけでもない。琉球石垣島の如き、明和八年大津波に襲はれね、ニ禺の住民中凡そ其の半數を失つた例もある。

 図:第二圖 10米の津浪に一物をも留めぬ唐圓本郷(石本博士撮影)

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第二圖 10米の津浪に一物をも留めぬ唐圓本郷(石本博士撮影)

四 津浪警戒

 津浪は其の起る前に之を豫知することの困難なこと地震の場合と同様である。但し其の發生の場處は概して海岸から遠く、其處から海岸に來るまでに二三十分か一二時間はかゝるのが通常であるから、その發生を察知して到着前に、警戒・避難につき、何等かの方法を取ることはさ程に困難ではない。
斯くいふものゝ、しかしながら津浪の發生を未然に察知する方法は、絕對にないといふ意味ではない。前に述べたように、津浪は海底に於ける大規模の變動に因つて起されるのだが、此の變動は其のつゞきの部分が陸上にも現はれることがある。但しそれは津浪發生と同時に現はれるのみならず、その前觸れの變動が數年或は數十年前からも現はれるものゝようである。かような前觸れの變動が氣づかれた地方に於ては、津浪につき多少の警戒を加へて然るべきであらう。
津浪を發生すべき大規模の海底變動は大規模の地震をも發生するのが通常だから、之を津浪警戒の目的に利用し得ること勿論であるが、若し津浪襲來の常習地に於て、かような地震と共に海岸に數十糎或は十二米程度の上下變動、卽ち海水にそれだけの急な干退若くは增水を認めたならば、一層警戒を加へて然るべきである。
關東沖や南海道沖で起る津浪は浪原が海岸から餘り遠くない爲、津浪發生時の變動が海中に突出た半島の先端に著しく現はれて來るのが普通である。卽ち此の場合、半島は南が上り、北が下るような傾動をなすのである。
讀者は大正十二年關東大地震に津浪が伴つたことや、半島傾動のため、房總半島南端では二米、三浦半島南端では一・四米隆起したことを承知して居られるであらう。之に先だつ二百二十年、卽ち元祿十六年のときの關東大地震津浪は一層大きかつたが、此の時、三浦半島南端では一・六米隆起し、房總半島南端では六米隆起し、地震前までは一の小島に過ぎなかつた野島が陸續きとなつて、今日の如く名稱を野島崎と改めた次第である。
南海道沖には安政元年と寶永四年とに大地震大津浪が起つたが、此のときの半島傾動により、紀伊半島の南端は兩度共に一・三米位隆起し、室戸半島の南端では安政年度に於ては一・三米、寶永年度に於ては二米隆起した。
津浪發生に關係ある大規模の變動が半島傾動として氣附かれたことは、前に記した通り、其の例に乏しくないが、しかし、かような變動の續きが事件發生以前に現はれ、且つそれが氣附かれたのは單に大正十二年の場合だけである。これは、かような現象が外の場合では起らなかつたといふ意味ではなく、昔は學問が開けてゐなかつた爲、たとひ其の現象が起つても氣づかれずに終つたといふに過ぎないのである。
三陸沖や北海道沖に起る津浪は其の浪原が海岸から割合に遠い爲、海底變動が陸地に現はれるほどでない。從つて陸地の變動によりて津浪の發生を察知することは此の地方には適用されない。
津浪の警戒に利用すべき事柄として見落してはならぬ副現象は大規模の地震である。若し地震計の設備があつたならば申しぶんはないけれども、たとひかような設備がなくとも、單に身體の感覺だけで、かような種類の地震と、さうでないものとの區別ぐらゐはつけられる。
地震が小さければ固より問題にはならない。震動がたとひ大きくても大搖れが數秒間續くか、或は十秒間位で終るようならば局部性の地震たることを意味し、大したことはない。しかしながら、若し大きな動搖が十數秒以上十一二分も續く場合に於ては津浪襲來の常習地には嚴重な警戒を加ふべきである。
此の種の地震の動搖の緩急については地方によりて多少の相違がある。それは主として震原までの距離の遠近に因るのであつて、例へば三陸沖や北海道沖に起るものに於ては震原距離遠い爲、震動も緩慢であるが、關東沖に起るものに於ては震原距離比較的近い爲、震動割合に急激である。南海道沖に起るものに於ては震原距離に遠近兩様の區別がある爲、或る場合には緩漫であるが、他の場合は急激である。
之を要するに、三陸及び北海道地方の津浪に於ては、沿岸地方でたとひ大搖れの地震に襲はれても被害は輕微で濟むが、關東地方の津浪に於ては地震の被害却つて著しく、南海道方面のものに於ては被害の原因が地震・津浪兩方の場合と専ら津浪だけの場合とがある。
以上のような大規模の地震があつた場合、それが如何にして津浪警戒の役に立つか、それは次の說明によりて明白となるであらう。
同一の海底變動から發生した津浪と地震とは、實際的には同時に同一の場處に發生したと見てよいであらう。しかし、それが陸地に向つて進んで來るのに、進行の速さに著しき差異がある。それは雷鳴と電光との遲速にも比較すべく、地震は電光に、津浪は雷鳴に相當するのである。
地震波の進行速度は縱波が每秒五粁、横波が每秒三・二粁位なること、別な場所に於て述べた通りである。膸つて沖合百粁の處で起つた地震は其の先鋒が海岸に到着するまでに二十秒を要し、沖合二百粁の處であつたならば四十秒を要するわけである。
之に比較して、津浪の進行速度は頗る緩かである。卽ち

深さ[一〇、一〇〇、一〇〇〇、四〇〇〇、八〇〇〇]米では 秒速[一〇、三一、九九、一九八、二八〇]米

であるから、津浪は沖の深い處だけは早く進行し得ても、岸に近い淺處に來て著しく其の速度を減ずることになる。津浪の襲來を海岸で氣づいてから、それが岸に着くまでに二三分もかゝるといふのはこれが爲である。
實際、地震を感じてから津浪が到着するまでの時間差は、三陸及び北海道沿岸に於ては三十分間内外であるが、南海道地方に於ても最も近い沿岸に於てそれ位の餘裕がある。其處から灣内の方へと次第に遠ざかるに從つて此の時間も亦次第に延びるわけだが、特に大阪市の海岸は最も遠い距離にある爲に、此の時間が最も長く、津浪が由良海峽を通過してからでも、三四十分の餘裕がある筈である。
しかしながら、關東方面の津浪に於ては此の時間差が餘り大きくない。十分或は五分しかない場合もある。但し、かような場合に於ける津浪は大したものでないのだから、餘り悲觀するに及ばない。
津浪が本格的に海岸に襲來するまでには猶ほ此の外に二三の副現象がある。
先づ、遠方の雷が、或は大砲の音のような鈍き轟を一囘或は二囘聞くことがある。これは地震後、津浪前に聞えるのだが、早いときは地震後數分の後、晩いときは津浪に先だつ數分といふのがこれまで多く經驗された例である。
 地震直後に、震原の方へ光物が現はれるといはれてゐるが、しかし、これは毎囘さうだと斷言するわけには行かない。
 最後に、津浪が本格的に暴威を奮ふ直前に於て、海水が輕微な干退若くは增進をなすことが多い。若し上記のような副現象が備はつた上、此の輕微な海水異状が始まつたなら、津浪の本格的襲來は二三分の後に迫つてゐるものと覺悟すべきである。
 いよゝ津波が本格的に襲來したとして、其の最初の大浪の退去を見て安心してはいけない。津浪は其の固有の週期を以て幾囘も繰返し、而も二囘目或は三囘目の方が却つて最初のものよりも大きい場合があるからでる。
 以上詳説したことによつて警戒の方法も自ら了得せられたであらう。若し其れ津浪を早く感知すべき位置を選び、其處を前哨として人爲的に、或は器械的に、津浪の接近或は到着を察知すべき施設をなし、有線或は無線電信を以て重要な開港或は市街地へ速報するような手段を取るようにしたならば一層有効な警戒が實行し得られるであらう。

五 津浪避難

 津浪に對する避難は地震の場合よりも容易である。先づ其の襲來の虞れある場所が海岸或は海面の限られた狭小な面積たる許りではなく、津浪の達し得る高さが是れ亦限られた水準、即ち海面上數米或は十數米程のものであつて、如何に高くとも三十米以下のものであるといひ、避難には極めて都合のよい條件を備へてゐるからである。
 高地は避難の場處として最も安全である。津浪の特に高くなるのはV字形・U字形の港灣の奧の方であり、かような港灣は其の側方に斜面を有することが通常であるから、其處に適當な避難場處を見出すことは容易であらう。平日かような場處や、之に達し得るに好都合な避難道路を物色して置くのも良く、若し其のようなものが見つからぬときは新設しても良いであらう。
 種々の副現象によりて津浪の虞れありと認めたならば、老幼虚弱のものは先づかような安全な高地に避難し、其處に一時間、或は其れ以上、辛抱することが必要である。此のような場合、强健なもの、特に健脚のものは海面を警戒し、必要に應じ、警鐘・電話等によりて警告を發するなどは望ましいことである。

 図:第三圖 11米の津浪に襲はれた唐丹小白濱 低地は浚はれ高地は無難(石本博士撮影)

 嘗つて安政大津浪のとき、土佐の海岸地方では最初の地震にそれと心づき、寶永大津浪の寄せて來た水準以上へ避難し、其處へ二時間も辛抱してゐた爲、幸に無事なることが出來た。又昭和八年三陸津浪のとき、居民は最初の地震に津浪を恐れて一旦は高地へ避難したが、或るものは寒さの爲辛抱が出來ず、十分から二十分かの後再び危險區域内にある自宅へ立歸り、其處で遭難したものが多かつたといふ。一は學ぶべく、一は戒むべきことであらう。
 海濱の平地で津浪に追はれることがないとも限らぬ。津浪は川筋のような低地を先𢌞りするから、それに心を配り、手近の小高い處を志して逃げるが良い。勾配の急な處では津浪の進行も多少緩かになる。昔の人はかような處で津浪に追ひかけられたならば浪を後ろにして逃げよ、右或は左に見て逃げてはいけないと敎へてゐる。
 津浪に捉えられた場合、若し游泳の心得があつたならば、絶壁のある方へ向つて泳ぐ方が有利だとしてゐる。大正十二年關東大地震のとき、熱海で津浪に捉はれた漁師二人が無事に伊豆山に泳ぎついたことがあつた。前に記した通り、熱海の港の奥では高さ十二米の津浪が襲來し、引續き幾囘も激しい一進一退を見たのに、港の両翼の端では高さ一米半に過ぎないのみならず、其處を越えた伊豆山の邊では津浪の現象が殆んど無かった位であつた。
 他へ避難の爲、海岸の家屋を退去する場合には、津浪到着までの餘裕を目算して、火元用心・重要物品の携帯など機宜に適する處置をなすとよい。雨戸を開放して置くのも津浪の破壊力減殺の爲、多少の効果がある。
 明治二十九年三陸大津浪のとき、雄勝町で浸水した一家屋があつたが、家族一同二階に避難して無事なるを得た爲、昭和八年津浪のときも此の方法を應用したが、今度は家が流され一家遭難した。之によりても高地避難を最上策とし、貧弱な經驗に基づく冒險は排すべきことがわかるであらう。
 船舶は若し岸から二三百米以上も離れた海上にゐたならば、更に沖へ出ることが安全である。若し汽船が港内碇泊中、津浪或は高潮の虞れありと感じたならば、直ちに汽力を增し港外に出でゝ機宜の處置をなすべきであらう。
 港灣に開く河川は津浪襲來に當りて特に多量の海水流入を許し、之れが爲、附近の海岸地區の被害を多少緩和し、緩衝地區としての役を勤めるのである。若し船舶が岸に近く居て、而も沖の方へ逃げ出す餘裕がないときには、岸に固く繋留するも良く、若し又緩衝地區へ流れ入る見込があるときは投錨のまゝ浪の進退に任せることも亦避難の一法である。

 図:第四圖 水火の難にあった釜石町

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写真 第三圖 11米の津浪に襲はれた唐丹小白濱 低地は浚はれ高地は無難(石本博士撮影)
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写真 第四圖 水火の難にあった釜石町

六 浪災豫防

 津浪を警戒したり、或は其の難を避けることは、津浪に襲はれる虞れを有つ海邊に住むものゝ、老幼男女を問はず、等しく心得べきことであるが、津浪の災害を免れんが爲、豫め其の施設をして置くのは、寧ろ大人共のなすべき責任であらう。
 浪災豫防の方法として最も推奬すべきは安全な高地へ移轉することである。尤も漁業或は海運業等の爲に納屋・事務所等を海濱から遠ざけることの困難な場合もあらうが、しかしながら、住宅・學校・役場等は必ず高地へ設けることにして置きたい。
 高地移轉に對して往々猛烈な反對を唱ふるものがある。漁業者の仲間にそれが多い。或は漁業者を高地に移せとは、其の生業を奪ふに等しとか、轉業を強ふるものだなどゝ極論する人もある。一應は尤もなことである。若し外に浪災豫防の簡易な、而も完全な方法が見出されるならば必ずしも住所を移轉するにも及ぶまい。しかし前に説明したように、津浪の高さが十數米或は二三十米にも上るような場處に於ては、高地移住を除いては外に適當な方法は皆無だといつても過言ではあるまい。
 高地移住は實際不便には相違ないが、其の不便を緩和する方法はいくらもある。例へば漁業者・海運業者等は其の業務上に必要な施設を共同にし、且つ此處と住宅地との間に適當な道路をつけるが如きはそれである。
 津浪の特に發達する海岸に於ては、津浪侵入の正面を外れた側面に於て、適當な住宅地を求めることが容易である。津浪に惱まされながら、其の邊に手を着けないのは恐らく因襲に捉はれてゐるが爲であらう。
 香港を見るがよい、急傾斜の山が全部住宅地となつてゐるではないか。長崎や神戸も間もなく香港化するであらう。
 もつと適切な例が三陸の津浪地方にいくらもある。陸中國船越村の山の内部落や小谷鳥部落がそれである。此處は二十米或は二十五米程度の高さの津浪に襲はれたことが幾度もあるが、村が側面の高地にある爲、嘗つて甚だしい浪災を被つたことなく、唯僅かに漁船や製造場等を損ずるに過ぎない。
 同じ陸中國綾里村湊部落では明治二十九年の津浪に於ても、昭和八年の場合に於ても、浪は十米内外の高さに上り、全滅に近い程の慘状を呈した。最近の津浪のときのこと、灣の西側の臺地に各々一軒の第宅が頑張つてゐた。一つは醫院と其の住宅、他は土地の成功者の別莊である。空氣は淸淨であるし、眺望はよし、平日から村人の羨望の的となつてゐたのであるが、夫の津浪の襲來を被るや、村は前述の通り非常な慘状を展開したに拘はらず、兩方の第宅では寸毫の損害も被らず、文字通り高みの見物に終始したのであつた。かような事實を見せつけられた村人は考へざるを得なかつた、災後直ちに村會を開き、住宅の高地移轉を即決したのである。即ち事務所・製造所等は共用のものとして海岸の便利な位置に殘し置き、住宅地として西側の臺地を開拓することにしたのである。三陸の被害地方に於てはかような計畫を企てた町村は數多くあつたが、しかし其の先鞭をつけたのは綾里村であつたと稱して良いであらう。
 吾が同胞はとかく高地の住宅を好まぬ癖があるが、津浪に惱まされ勝ちな土地に於ては、何はさて置き、先づ此の祖先傳來の因襲を捨つべきであらう。これは自己一人の幸福のみならず、子孫千萬年の爲にも決行すべきである。
 津浪災害豫防の爲には高地への移住が第一策であるが、其の他にも種々の方法が考へられる。次に之を列擧して見る。
 緩衝地區を設けること。津浪の侵入を正面から喰止めようとすると、必然の結果として、其の場所に於て增水を見るのみならず、波の反射や增水の氾濫等の爲、隣接の地區まで迷惑を蒙るようにもなる。川の流れ路、谿谷或は其の他の低地を犠牲に供して、こゝを緩衝地區とし、津浪が自由に侵入し得るようにして置くなら、隣接地區の被害を多少輕減することが出来る。若し錨地についてゐる船舶をこゝへ流入する津浪に委ねるようにしたならば其の被害も多少緩和されるであらう。津浪に襲はれた船舶が町に上陸して家を破壞し、其の殘骸を街路上に横へるのは能く見る圖であるが、之を轉向させるだけでも相當の效能があらう。
 防浪堤を設けること。津浪の高さが五六米の程度に止まるような場處に於ては防浪堤を設けるのも良い。但しこゝに謂ふ防浪堤とは津浪除けの堤防をいふのであつて、風波のみを除ける防波堤とは違ふ。普通の防浪堤は津浪に對しては殆んど何等の效能もないのである。
 防浪堤は海中に設ける場合もあり、陸上に設ける場合もある。和歌山縣廣村に於て義人濱口梧陵が設けた防浪堤は現今吾が國に於ける唯一のものかも知れぬ。若し防浪堤を津浪の方向轉換の爲に設けるならば、其の位置に於ける浪高を凌ぐに足れば良いのであるが、若し津浪の侵入に對する正面の防禦の爲に設けるならば其の位置に於ける浪の凡そ二倍の高さに築くことが必要である。廣村の防浪堤前者に屬し、川筋を巧に利用して其處へ津浪を外らすようにしてある。
 防浪堤は理論上から何處に設けても差支えないのであるが、津浪の高く上る場處にはそれ相應に高く築くを要するのみならず、其の幅も亦之き相當しなければならぬ關係上、實際上から見て實行困難な施設である。
 防潮林を設けること。防潮林は津浪進退の勢力を弱める效能がある。海岸に廣い平地があるときは海濱一帶に之を設けるが良い。但し一列に樹木を植ゑただけでは大した效能はない。出來るだけ厚くすべきである。
 植樹或は土塀は住宅の周圍に設けても、浪勢を殺ぐに多少の效果がある。
 護岸を設けること。津波が三四米を越さないような場處に於ては浪を阻止するに足るべき護岸を設けるのも一法である。
 防浪地區を設定すること。繁華な市街地に於て五六米程度の津浪の侵入を覺悟しなければならぬ場合に於ては海岸に防浪堤を設けるのも一法ではあるが、防浪堤の代りに、津浪に抵抗し、若くは之を阻止するに足るべき高さの堅牢な家屋を竝列せしめるのも一法である。
 防浪地區に建てる家屋は耐浪建築でなければならぬ。耐浪建築として最も推奬すべきは鐵筋コンクリート造であらう。成るべく基礎を深く重く堅固にし、浪の侵入或は退却の方向に面する壁を稍厚くするが良い。これは防浪地區の前面に用ふべく、同じ地區の背面には木造の耐浪建築を代用しても良いであらう。凡て津浪の破壞作用は地震の場合と同じように、下層に激しく當る爲、二階建は平屋となり、三階建は二階となることが有り勝ちである。從つて木造家屋を防浪建築として役立たせるには基礎を深く堅固に築き、土臺を基礎に緊結した耐震建築たることを必要とするのである。
 大阪の西部地區の如く、津浪の侵入を阻止すること實際的に困難な場合に於ても、人名保護の目的を以て膸處に耐浪建築を設けることは望ましいことである。小學校を斯く施設し、兒童通學區域内に於ける住民の避難所とするも一策であらう。


 図:第五圖 対象十二年津浪後の伊東町
 図:第六圖 樹木のために無難であった谷川の一民家
 図:第七圖 津浪に耐へた廣田泊のコンクリート造

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第五圖 対象十二年津浪後の伊東町
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第六圖 樹木のために無難であった谷川の一民家
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第七圖 津浪に耐へた廣田泊のコンクリート造

七 高潮

 高潮卽ち風津浪と普通の津浪卽ち地震に伴ふものとの區別は前に述べてある。高潮は陸上への海水の漲溢が槪して一囘限りであつて、而もそれが幾時間もかゝつて徐々に起るのだから、其の進退は比較的に緩く、破壞作用は主に浸水に因るのである。但し其の原因には風の作用も加はってゐることだから、激浪と稱すべき高波が、夫の漲溢した海水の上に重なり、之れが爲、破壞作用を增すことがある。此の種の激浪は普通の風波に比べて週期が稍長く、稀には數分に達することもある。
 高潮は間々日本海沿岸にも起るが、しかし多くは太平洋側に起り、其の襲來の常習地としては凡て南乃至南西に大きく開いた入口を有つ灣であつて、中にも有明海、大阪灣、駿河灣、東京灣などが有名である。今日本海の場合を除き、以上の諸沿岸に於て高潮が如何なる順序で發達するかを説明して見る。
 高潮の第一の原因としては颱風性の低氣壓の急速なる中心移動を擧ぐべきであらう。此の種の低氣壓に於ては其の示度七二〇粁に下ること珍らしくなく、昭和九年の室戸颱風の室戸での示度は六八五粁といふ驚くべき數字を示した。これ等の示度と平壓との差は五五糎乃至一〇五糎水壓に等しく、若し低氣壓が一箇處に停滯してゐたならば、海水は其處に上記の高さだけ盛り上がつて平均が保てるわけだが、しかし事實はさうでなく、南から來た低氣壓は九州或は本島に近づくに從ひ、概して北東乃至北々東の進路を取り、移動の速さも毎時二〇粁、甚だしきは一〇〇粁の程度になるのである。隨つて盛り上がつた海水も之に伴つて急速な移動を始めるのは當然であるが、若し其の前方に陸地があつて其の前進を遮つたなら、其處に氾濫がが捲起されるのである。此のとき、港灣の地形や、海底の深さの關係等に因つて、水位の高さが變化を被ること、津浪の場合に解説した通りである。
 東京灣や大阪灣の西側の沿うて低氣壓が北上すると、高潮の高さは氣壓の中心示度から大阪灣高潮に於て氣壓の最低示度はそれぞれ七一五粍及び六八五粍であつたのに、大阪に於る高潮の水位は一六七糎及び三八〇糎に達した如きがそれである。
 此の高潮の水位が低氣壓に平均すべき海水の盛り上がり量の三倍程度に增大する事實は颱風の風力をも考慮に加へて説明すべきである。いひ換ふれば風力は高潮の第二の原因である。
 凡て右のような低氣壓が北上して本州若くは九州に近づくとき、中心の東側には風速毎秒三四十米にも及ぶ南風乃至東南風が吹き、西側に於ては反對に北風乃至西北風が強く吹く。これに中心移動の關係が加はつて、東側は西側に比較して風力は一層強いが、西側は其の代りに雨を多量に降らす傾向がある。
 かような關係にあるが爲、低氣壓の進路が灣の西側に當るときは、南乃至南東の強い風が高潮の發達を助ける爲、水位は一層增大するが、反對に、灣の入口の東側に當るときは、北乃至北西の強い風が高潮の發達を妨げる爲、比較敵に安全である。
 このことは高潮の警戒に役立つであらう。若し颱風性の低氣壓が九州或は本州に近づき、而も其の中心が有明海・大阪灣・駿河灣・東京灣等の各西側通過するときは其れに相當する場處を警戒し、若し東に遠ざかつて通過する場合はかような注意を必要としないであらう。
 前に高潮の最も發達し易い數箇處の例を擧げたが、太平洋の沿岸地方に於ては、地形並びに其の他の關係によりて、これ等に次ぐべき箇處がいくらもある。即ち伊勢灣、相模灣特に其の小田原沿岸、石卷灣等があり、又紀伊半島や四國の太平洋岸に於ても之に相當する小規模のものが數多くある。九州の八代灣や播磨の沿岸も亦之に準ずべきものであらう。
 日本海の沿岸に於ては高潮の起ることは少いが、しかし絶對にないわけでもない。昭和四年一月二日越後の沿岸に起つたこともある。これは低氣壓が概ね海岸に沿うて東に移動し、北よりの強い風が增水を助けた結果と解せられる。
  前に高潮の二つの主原因を詳述したが、猶ほ此の外に高潮の水位を左右する二次的のものがある。一は平常の潮汐で、他は灣のセイシュである。即ち高潮はその時刻が潮汐の干滿特に新月・滿月の頃のそれと一致するか否かによりて相違が起る筈であるが、此の事は氣象的變動によりて起されたセイシュに就いても同様である。
 高潮は津浪に比べて低いこと度々説明した通りであるが、有明海の東沿岸遠淺の地方、大阪灣の大阪・尼崎邊、東京灣の城東・深川・京橋・芝など間々四米に達することもある。恐らくは五米以下のものと見てよいであらう。
 明治三十二年十月七日駿河灣内田子浦に襲来した高潮は明治以後今日に至るまでの最高記録であらう。確かではないが、高潮の水位は凡そ六米に上り、此の上に更に五米位の高さの激浪が加はつたらしい。昭和九年室戸台颱風のとき、室戸半島の南西沿岸に於ては水位六米程に上つた所もあるが、これも亦、高潮の上に激浪が重なつてかような結果になつたらしく思はれる。(終)
 備考 地震津浪に因る災害統計は第二巻拙文震災避難心得末尾に添付の日本大地震表(慶長以後)に加へてある。