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十、海嘯襲來-廣村の盛衰小史-

 我が梧陵の故郷廣村は、紀州有田郡の一巴にして、往昔著しく繁昌したる土地なりき。廣村は蕉荘名にして、東鑑に「紀伊國廣、由良荘蓮花王院領」とあり。其の地は湯淺灣の埠頭の位し、嘗て廣浦と云ひ、和船時代には、船著きとしても相當に繁昌したる場所なりしが如し。水路志の記す所のよれば、『湯淺灣は城崎と宮崎との間にあり。灣勢は爾側順次に狭縮して、灣首に至り湯淺浦となる。浦中水深七尋乃至八尋、泥底の處を錨地とす。西微南より來る風の外、能く各方面の風を防ぐ。灣首沙濱の南端、小村落の附近に一防波堤あり。廣浦と稱する一淺澳を形造り、和船の繫舶地となる。鷹島、刈藻島、及び二三の岩ありて灣面を掩ふ』とあり。吃水淺き和船の船繫りとして、便利なりしを知り得べし。
 古來廣の地は、船著きとして他郷との交通頻繁なりしが爲か、對外發展の氣性の當み、他郷に出でゝ、出稼ぎをなすもの甚多かりき。當時廣村民の出稼地は、下總の銚子、及び外川郷、肥前の五島、日向の六ヶ内等にして、其の大部分は漁業に從事せるものなるが、下總に於ける發展のはその中最も古くして、且最も盛なりき。現に銚子地方に於て、紀州に祖先を有する人々今尚少からず。廣の村民が斯く遠く銚子の地に赴きて、此處を活動の地と定めたるは、最初紀州沖に出でゝ漁業に從事し居たる廣の漁民が、時化などに逢ひて外洋に押し流され、黒潮に乗じて銚子に漂著し、やがて其の儘此處に落ちつきたるに非ざるかと推せらる。それは兎も角、廣村民の銚子に居住する者次第に增加するに從ひ、濱口家の祖 先の如きは此に湯淺醤油の醸造方を𫝊へて、醤油醸造の業を銚子に開始したるが、銚子の氣候は醤油醸造に適したるが爲、其の製品は自ら關東地方に於て歡迎され、醸造業は漸次繁榮するに至れり。卽ち現今同地唯一の生産業として普く知られつ、ある醤油醸造業は、まったく濱口家の祖先の創始せる所に係る。
又是等企業心に富める廣村民の中には、江戸に出でゝ商業を營める者少からず、橋本、古田、岩崎、小林、濱口等の知られたる者を始め、凡そ二十戸あり。此等知名の人々の外、他郷にあつて活動し居たる人々は、たとひ其の地に於て成功すとも、然もいっけを擧げて移住する事稀にて、何れも廣に本宅を有したり。廣の村民が、他郷に於て業を營るもの多かりしにも拘らず、村内の隆昌を來したるは、之が爲に外ならず。又此等の人々が他國より故村へ移入する財貨は、埠頭に於ける出入船の賑ひと共に、益ゝ村内をして富有ならしむるのを因をなせり。されば徳川期中世以前にありては、湯淺千戸廣千戸と併稍され、紀州に於ても隆昌の村邑として知られたり。目下廣の戸數は四百に満たず、極めて微々たる一小村落に過ぎざるも、往昔繁營したる時にありては、僻邑に稀なる呉服屋の興るあり、或は木の下、中勘、角字の如き小間物商の賑へるあり、其の他産物商、肥料商の如きものも出で來り、さらに天然の港灣は各地の船舶貨物を吸収して、一時問屋運送屋の如き貿易囘漕の機關さへ發達したる時代ありき。海荘集中に此地を詠へるものあり。往昔廣浦の光景想ふべし。

竹 枝 詞
南岸垂楊北岸花 春流一帯媚紅霞 絃歌細々微風碎 鴉子津頭臺酒家 
鰐魚風起片帆低 日落孤礁海鹿啼 潮信如斯郎莫渡 就中嶮惡是白犀
江隈十月欲氷時 魚少寒宵上網遲 江柳烟衰痩難掩 江郎生計細如絲
風光入眼忽銷神 紙幟紗燈出閭門 白首翁媼揮涙立 倩增臨水祭冥孫

然るに此の地は古來海洋の災多く、天正年間海嘯の來り襲ふあり。寛永四年海嘯再び來襲して又もや人家参百餘戸を洗ひ去れり。此等被害民中、さゝやかなる農業或は漁業等に依り生計を營み居たる者は、何れも路頭に迷ひ、飢餓と離散との外行くべき途を見ず。又他郷にありて産を成せる人々も、右の海嘯に依りて本宅を失ひ、其の土地を荒されたる者は、其の儘之を放棄するが多く、見るく内に一村は疲弊の極に陥れり。斯くて一時は廣村も、再度の海嘯に因りて戸口現象、土地荒燕、到底昔日の梯を見る能わず。徒の荒れ果てたる田畑は、農作物の収穫甚少きにも拘はらず、年貢米は依然として苛重なりし爲、農民の困苦は愈ゝ其の度を加ふるのみ。土地を所有する者は之を有せざる者に此して、其の負擔の多きだけ、苦痛は寧ろ多大なるものあり。土地を譲り受くるものには酒五升を振舞はんなど云ひて、田畑の貰ひ手を捜し索むる者さへありしと云ふを見れば、海嘯以後如何に村内の疲弊せるかを知るに足るべし。
 斯くの如く一方には出稼人等の全く他に移住し去るあり、一方には土地の荒廢に依りて村民の離散する者增加したるより、往昔千を以て數へたる廣村の個數は年とともに減少し、八百は七百となり、七百は六百となり、遂に半減して更に益ゝ現象せんとするの趨勢を示し來れり。梧陵の少年時代なる天保年間より、其の靑年期に及ぶ弘化 嘉永 前後に於ては、嘗て賑へる呉服屋小間物屋の如きも何時しか衰滅し、村内愈ゝ衰微して、何等かの方法を講ずるに非ざれば、到底廣村の恢復と發達とを望む可からざる有様なりき。
 廣村の衰微殆ど其の極に達し、村民窮迫する者次第に加はりしにも拘はらず、往昔陵盛時代の騙奢の風習は依然として改むる所なく、 盛大なる祭禮を擧行し、股賑なる盆踊等に興ずるの風習尚存し、之が爲に要する冗費の甚少からざりしは、古きに執する人情の已み難き所なりしなる可し。當時梧陵は年三十前後、江戸にありては有志家の間を往來し、銚子に於ては家業に専らなるの時代なりしが、時々郷里に歸りて村内疲弊の状を見、村民窮迫の態を聞くや、之を救濟して活路を與へんとするの念禁ずる能はず。而してその救濟事業が必ずしも救恤のみに非ざるを知れる彼は、一面に先づ村民をして質素勤儉の風を養はさいむると同時に、別に資を給して村民の企業を助け、以て一日も速に廣村をして前日の繁營に歸らしめんと努力したり。其の結果村民に多少の生色を興へ、村に幾分發展の氣勢を見んとしたるが、天、廣村に災する事もう君の虐政に似て、之を虐げ葢さずんば已まざるものゝ如く、安政元年前後三度に捗りて、紀州沿岸に襲ひ来れる大海嘯は廣村に對して最も甚しき惨害を被らしめぬ。梧陵時に年三十五、この海嘯と彼がこの海嘯に對せる措置と、雨つながら傅ふるに足れり、請ふ詳かにその顛末を語らん。

 安政元年夏六月十六日、廣の地に強震あり。恰も夏祭の夕暮れなりしが、村民は悉く戸外に逃げ出して、一夜を野天に明せり。其の後誰云ふとなく、本年は海嘯來るべしとの流言盛んにして、人々安き心もなかりしが、超えて十一月四日黄昏、強震再び至れり。この時は前にもまして震ひ方激しく、未だ夕飯前なりし村民は、之をしたゝむるに暇なく、僅に手廻りの大切なる道具衣服などを抱へて、村端に一阜丘をみなせる八幡山、或は中野金屋等の隣村に逃れて其處に一夜を明せり。翌五日は天に雲なく、海全く凪ぎ、再び自身來るべき氣色も見えざりしより、人々は漸く心を安んじて家へ歸れるが、日没後前日と同時刻に至りて激震又もや至り、之とともに轟々として遠雷の如く、般々として連發する砲聲の如きもの、海の彼方より響き來るが聞えたり。此の時村内の井戸水一次に枯渇し、又廣浦の全面なる刈藻島の邊に當りて、高さ一丈ばかえい一抱へもあるべき火柱の立てるを見たる者あり。四圖の有様如何にも見事ならずと見えたれば、梧陵はすはこそ異變の兆なれと直覺し、何事も措きても先づ村民何れにか立ち退かしめんと咄嗟に思い付きしが、此の時早く既に山の如き怒濤は澎沛として陸上に押し寄せ來り、附近一帯の地見るく泥海と化し去れり。
 海嘯の襲來とみるや、彼は先づ家族を安全なる場所に避けしめ、次で番頭茂兵衛と共に、あわて惑ふ村民を一人も殘らず避難せしめんとて、その身の危きも忘れて踏み留りゐたり、その内逃ぐる限りの者は逃げ去りて、最早四邊に一人の影も見えずなりたれば、今は心安しと、彼が最後に身を逃れんとせる途端、波浪は益ゝ高く打ち寄せ來つて、あはや、彼をも一呑みにせんず勢にて迫り來れり。彼は宛がら狂人の如くひた走りに走れり。されども、如何にせん、激浪の追ひ來ること甚疾くして、將に其の顎に捕はれんとせし一刹那、彼は村を通して流る、一條の小川に礑と突き當れり。今は唯之を越ゆるの外に逃るべき道なし。その川幅は凡二丈、平常なれば迚も飛び越え得べきものにあらざりじが、さても神護か、彼は難なく之を飛び越えたり。と見る間に灣は全く此の流に砕かれて、追撃の力を弱めたるより、彼は其の間に小高き山際に走り、漸く生命を完うするを得たり。
 斯くて彼は斯くにして八幡山にたどり著き見れば、村民の大部分も早くも難を避けて其の處にありしも、日は何時しか暮れて、暗咫尺を辨ぜず。唯暗中すいの音と共に、彼方此方に奔馳する人々の怒號と、逃路を失ひて救を求むる老幼の叫喚を聞くのみ。彼は此等の途を失ひたる者を救はんが爲に、壯者を促して松火に火を點じ、別に田の畔に積みある稻村に火を放ち手、道に迷へる者の目標としたり。彼が此の臨機の奇策によつて難を免れたる者その數を知らず。
村民の多數は命を全うしたるも行方不明となれる者尙三十餘人。再び押し寄せ來りし激浪は第一囘のそれより更に高く燃えゐたる稻村も此の爲に押し流され、家屋の倒潰するもの更に多きを加へ、再び住む能はざるもの百餘戶を數へたり。常夜著のみ著のまゝにして、八幡山及び鄰村なる法藏寺境内に羣り集れる被害民は千四百餘人に上りたりといふ。中には水に濡れて打ち頭ふあり、家族を失ひて泣き叫ぶあり、言えなく燈なく、夜は次第に寒くして慘狀目も當てられず。
然も此等の被害民は未だ何れも夕飯を取らざるより、彼は直に法藏寺に起きて住職に益し。その貯藏米を借り來りて一次の飢を凌がしめたり。されど僅に一寺院の貯藏は到底多數村民の糧とする能はず。彼は深夜鄰村なる中野村に走り。年貢米を納めたる御藏を開き、其の米を借りて一時の急を救はんとて、之を同村の庄屋等に交渉したり。然るに庄屋等は上の譴責を恐れて之に廳ぜざりしかば、彼は憤然として『斯くの如き危急の場合は非常手段を要す。上の許可を得ずして卸藏米を出したる罪の負ふべきものあらば、豫は甘んじて之を受くべし』と說き、終に之を說破して年貢米五十石を借り來り、暫く被害民千四百餘人の饑餓を救ふ事を得たり。
 然るに救濟は一日にして終るべからず。辛うじて一夜を野天に明したる被害民は、翌日より家なく食なく、唯慘害の蹟を眺めて茫然たるのみ。中には鄰村の親類を賴り手身を寄する者もありたれど、又中には雨露を凌ぐべきたつきもなく、其の日の食物をさへ得る能はざる者多かりき。彼は此の憐れなる人々の爲に、或は藥小屋を建てゝ之を入れ、或は自ら貯ふる處の米穀を出して之が救濟に充て、又は村内に當める人々を勸誘して救護米を出さしむるなど、切に當面に危急を救はんが爲に努力し、兎も角被害民をして、當座の飢と寒さとより免れしむるを得たり。
 左に揭ぐる梧陵の手記は當時の實況を述べたものにして、海嘯襲來の當日十一月四日より八日に至る五日閒の日記とも見るべく、悲慘の狀、混亂の態、及び此の閒に奔馳して救助に從へる彼が風貌を想見するに足るものあり。

 安政元年海嘯の實況 濱口梧陵手記
 嘉永七年寅(註、同年受遺一月甘七日改元安政元年となる)十一月四日四ッ時(午前十時)强震す。震止みて後直に海岸に馳せ行き海面を眺むるに、竝動く模樣常ならず、海水忽ちに增し、忽ち滅する事六七尺、潮流の衝突は大阜頭の先に當り、黑き高浪を現出す。其狀實に怖るべし。
𫝊へ聞く、大震の後往々海嘯の襲ひ來るありと。依つて村民一統を警戒し、家財の大半を高所に運ばせ、老幼婦女を氏神八幡境内に立ち退かしめ、强壯氣丈の者を引き連れて再び海邊に至れば、潮の强搖依然として、打ち寄する大阜頭を沒し、碇泊の小舟岩石に觸れ、或は破れ覆るものあるを見る。斯くて夕刻に及び、潮勢反つて其力を滅じ、夜に入つて常に復す。然れども民家の十中八九は空家なるを以て、盜難火災を戒めんがため、强壯の者三十餘名を三分し、終夜村内或は海邊を巡視せしめ、且つ立退の老幼婦女に粥を分與し、僅かに一夜の糧に充てしむ。
 五日。曇天風なく稍暖を覺え、日光朦朧として所謂花雲の空を呈すと雖も、海面は別に異狀もなかりしかば、前日立退きたる老幼玆ぶ安堵の思をなし、各ゝ家に歸り自他の無異を喜び、豫が住所を訪ひ前日の勞を謝する者相次ぎ、對話に時を移せり。午後村民二名馳せ來り
井水の非常に減少せるを告ぐ。豫此に由りて地異の將に起らん事を懼る。果して七ッ時頃(午後四時)に至り大震動あり、其の激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵咽空を葢ふ。遂に西南の天を望めば黑白の妖雲片々たるの閒、金光を吐き、恰も異類の者飛行するかと疑はる。暫くにして震動靜りたれば、直に家族の避難を促し、自ら村内を巡視するの際、西南洋に當りて巨砲の連發するが如き響をなす、數囘。依つて步を海濱に進め、沖を望めば、潮勢未だ何等の異變を認めず。只西北の天特に暗黑の色を帶び、恰も長堤を氣付きたるが如し。僅かに心氣の安んずるの遑なく、見るみる天容暗濱、陰々肅殺の氣天を襲壓するを實ゆ。是に於て心竊に唯我獨尊の覺悟を定め、壯者を勵まし、逃げ後るゝものを扶け、興に難を避けしむる一刹那、怒濤早くも民屋を襲ふと呼ぶものあり。豫も疾走の中左の方廣川筋を顧れば激浪は既に數町の川上に溯り、右方を見れば人家の崩れ流るゝ音騷然として膽を寒からしむ。
 瞬時にして潮流半身を沒し、且沈み且浮び、辛じて一丘陵に漂著し、背後を眺むれば潮勢に押し流さるゝものあり、或じゃ流材に身を憑せ命を全うするものあり、悲慘の狀見るに忍びす。然れども倉卒の閒救助の良策を得ず。一日八幡境内に退け見れば、幸に難を避けて玆に集る老若男女、今や悲鳴の聲を揚げて親を尋ね子を搜し、兄弟相呼び、宛も鼎の沸くが如し。各自に就き之を慰むるの遑なく、只『我れ助かりて玄にあり、衆みな應に心を安んすべし』と大聲に連呼し、去つて家族の避難所に至り身の全きを告ぐ。匇々辭して再び八幡志摩居際に來る頃日全散亂の中を越え、行々助命者數名に遇へり。尙進まんとするに流材道を塞ぎ步行自由ならず。依つて從者に退卻を命じ、路傍の稻村に火を放たしむるもの十餘、以て漂流者に其身を寄せ安全を得るの地を表示す。此計空しからず、之に賴りて萬死に一生を得たるもの少からず。斯くて一本松に引取りし頃轟然として激浪來り、前に火を點ぜし稻村浪に漂ひ流るゝの狀、觀るものをして轉た天災の恐るべきを感ぜしむ。波濤の襲來前後四囘に及ぶと雖も、葢し此時を以て最とす。
 夫より隣村の某寺院に至り住僧に談じ貯ふる處の米殼を借り入れ、直ちに之を焚きて握り飯となし、八幡境内其他各所の避難所に配賦し、僅かに窮民の饑餓を充つ。然れども限りあるの米殼を以て數日を支ふる能はざるを察し、深夜馳せて隣村の里正某を叩き、情を告げて藏米五十石を借り受け、翌日の準備をなす。
 六日。風靜かにして日暖かなり。東方の白むを待ち、八幡志摩居際より全村を望み、被害の度夜來の想像より稍輕少なるを知れり。然れども漁舟の覆りたるあり、樹木の根より拔かれたるあり、又田面には屋材家具の流散するあり。行ゝ人家に近づけば流材の堆積辭ゝ甚しく、爲口を杖にして其上を踏み越え、海濱に出でゝ眺むれば、潮水漣波なくして油を流したるが如く、平素に異れり。面して其閒に漂舟流材は汚物と混じて浮べるを見る。海に沿うて西に行けば、人家は槪ね流失又は崩壞して唯二三の舊態を存ずるあるのみ。暛呼、幾百の人烟一夕潮流の掃蕩する所となる。人生の悲慘玄に至りて極れりと謂うべし。
 長嘆未だ半ならず、强震突如として來る。豫驚いて倉皇高知に向つて失踪し、遂に被害地の視察を終らずして避難所に歸り、施米焚出の事を見る。抑も八幡境内と鄰村の一寺内とを以て避難所に充つると難も、唯地上に疊を竝べ、戶障子を以て之を圍ひたる露宿に過ぎす。老幼の内に漸く膝を容るの憂苦離散の寬隱の情を奮起せざるものあらんや。避難所は斯かる體裁にして、到底雨露を凌ぐ事能はざるを以て再び鄰村の里正に至り、假小屋建設の件を依賴し、其の承諾を得たり。
 朝來震動再三に及び、且つ西南方に當りて地響する事數囘、爲に流民は神氣安むるに遑なく、人心動震して百事緖に就くを得ず。故に此際專ら人心慰動に奔走し、傍ら炊事を督す。本夕藩史某來り談窮民賑濟の事に及ぶ。又救米下附の願書を起草す。此夜始めて高地に非常番を置き明日の部署を定め、次で曉に至る。
 七日。町内を普く巡視するに、被害最も甚しきは前日視察を遂げたる西の町と濱町なれど、中町田町の街路に於ても往々流失家屋を發見せり。面して流失せざるものと難も槪ね大破ならざるなく、處々に大材或は漁舟の道路を塞げるあり。以て當時波濤の如何に激烈なりしかを察すべし。
 此日も人心の動搖は依然として靜まらず、之に加ふるに海嘯再襲の流言を以てす。此時に當つてや平日剛勇を以て誇るものも怯懦となり、慳貪なる者も寡慾となり、唯目前の天災を嘆ずるのみにして災後の處理に著手する事を知らず。豫は此閒にありて東奔西走、或は諭し或は勵ます事前日の如し。然れども利に敏き輩は漸く我に歸り、流失品の拾集に出づる者あり、且つ山邊の村民來りて流失品を盜む者ありとの風說を耳にしたるより、警保として村の要路に張番を設けたるも、微震ある每に萬人の逃れ歸るには殆ど困却せり
 八日。村民少しく危懼の度を滅じ、避難所より自宅に歸り、災後の始末に著手せんとするものあり。然れども家屋の全きもの極めて稀にして、傾き壁落ち、家財は大半流失して、殆ど己の家たるを辨ずるに苦めり。就中小民に至りては、住家の破損と共に素より多からざる家財農具を流失し、一朝にして擧家生計の道を失ひ、茫然として爲す所を知らず、玄に漸く離散の念を懐くに至れり。
 本日初めて村役員を召集し、舊僕某の家を以て假役所に充て、日夜事務を執り訴を聽き、人夫配布其他の指揮をなせり。然れども握飯は猶避難所に於て焚出し、豫及び村史と難も此握飯を得て僅かに腹を滿せる次第なりき。豫は流民救助として玄米二百俵を寄附する旨を揭示し、以て有志家に向つて先例を置けり。是に於て本村竝に鄰村湯淺の資產家續々米錢を寄附し來り細民愁眉を開き得たり。
 本日に至り震動漸く輕微となり、海嘯再來の虞も全く村民の腦裏を去りたるを以て、流遺の物品を拾集する者頓に增加し、自他の別なく之を收得するが爲に、往々其閒に不正の行はるゝを察し、各所に吏員を派し、强凌弱の害なからん事を圖る。然れども事情素より平日と異るものあるを以て、臨機の法を用い、煩を去り簡に就く、要は平常に歸するにありしなり。事の混雜は是に止まらず、村民所持の米俵は素より、本年年貢米の民家にあるもの、竝に本村藏米に至るまで、今囘の天災に罹り村内野中に流散するもの多し。依つて第一著手として其の拾集を明治、藏米は田野各所に之を堆積し日夜番人を附して之を守り、各自の年貢米を檢査の上封印をなし、各所有主へ交付し、更に之を其家宅に運ばしむ。
 全段既に述ぶるが如く、窮民は槪ね家財を流失し、日を經て之を拾集するも十が一も得る所なく、平日些少の蓄藏ありたる者も日々業を失ひ、朝夕炊烟を立つる事能はざるの悲境に陷れり。依つて每日是等の輩を使用して散亂の俵物を拾集せしめ、或は道路を開通せしめ、或は番人とし、僅に糊口の道を興へたり。町内の道路三囘の修理掃除に依つて始めて舊に復するを得たり。又拾集の梁柱竹起瓦類は各所に積上げ番號を付し、後日に至り入札を以て賣却其の所得金を村民家屋の建坪に割賦して之を分配せり。然れども漸くの如く整理するまで幾多の日子を費したりと知るべし。

 被害の概略
一、家屋流失        百二十五軒
一、家屋全潰           十軒
一、家屋半潰         四十六軒
一、汐込大小破損の家屋   百五十八軒
   合計        三百三十九軒
一、流死人 三十人(男十二人、女十八人)

十一、 大防波堤築造 -築堤の目的と經世的手腕-

 海嘯襲來の後村内被害の蹟を見るに、倒潰轉覆せる家は屋根と柱とを異にして各所に散亂し、海濱の田畑は悉く土砂の蔽ふ所となり、全く荒れ果てゝ耕すに由なく、漁夫は舟と漁具とを失ひて、明日の生計にも窮する者數ふるに逞あらず。
 當時村民の閒には、廣 湯淺 の地五十年乃至百年目舞に必ず海嘯襲來の慘害ありと𫝊へられ、天生寬永に於ける被害の年代を數ふれば、其の言符節を合するが如し。されば饑餓と恐怖とに襲はれたる村民は、早くも行末を案じて移住を企つる者あり。然らざる限りの者と難も、安んじて廣に留まらんとする者は極めて希なり。梧陵はこの形態を視て根本的に被害民の救濟策を講ずるの必要を感じ、先づ家なきものの爲には住宅を建築し、漁夫の爲には船と漁具とを買ひ與へ、或は荒廢せる田畑を改修するなど、殆ど我を忘れて之が救濟に從事したり。卽ち安政二年正月より翌三年正月までに家屋五十軒を新築し、極貧者に對しては無料にて住まはせ、多少の資力を有する者には十筒年の年賦にて貸し與へ、さらに農具の如きも近村の鍛冶職をして造らしめ、家に應じて之を分配せり。
漸くの如く、彼は出來得る限り被害民の爲に力を盡したるが、極貧なる者は住居と農具を與へらるゝも、生活を維持する能はず、又商人に至りては資本なくして其の業に就く能はざるを以て、彼は更に各々身分に應じて此等に資本を貸し與へ、以て自立の途を立てしめんとしたり。
 されど村民の常に危惧する如く、廣いは五十年乃至百年每に海嘯襲來の虞あり。殊に其の地勢は他村に比して低きが爲、被害の激甚なるものありしを以て、將來之を防ぐべき何等かの方法を講ずるの要あり。卽ち永久に村民の安全と幸福とを圖り、根本より村民に安堵を與へんとせば、海嘯の襲來をふさぐに足るべき堅固なる堤防を築かざるべからず。彼は最も痛切に此の必要を感じたるを以て、其の巨資を要すべき大事業なるにも拘らず、獨力に依りて之を計盡し、同姓吉右衞門を說きて其の贊成を得るや、翌二年直に長大なる防波堤工事を起して廣村永久の共濟策を實現せんとするに至れり。
 當時右工事著手の許可を受くるが爲、官に向つて上申したるもの次の如し。

  内存泰申上口上
一、廣村の儀往古より度々高浪の患記錄に申𫝊へ了承御座候處、眼前去十一月五日の狂變に出益候て、銘々產業を失ひ、其巳來途方に暮れ罷在候に付、彼是利害申議し人氣勵し候得共、何分大變恐怖の餘り、今に於て聊かの地震風波にも家財持運び、高見に逃れ候支度の外餘念無之、破損取繕家業の營も手に付き不申候而巳ならず、人情自然に土地を辭ひ、兎も角も相成候者ども迄他處稼ぎに立退き、弱人迄も離散仕候樣成行候ては、元より人少の難村怱ち退轉仕り、一村の人別路頭に迷ひ、誠に不容易仕儀と奉存候に付、先達以口達奉願上候浪除内土手、高さ二閒半、長さ凡そ五百餘閒造築奉豪御免許候。右工費は乍恐渡し如何何樣
にも勘辨仕り、已來る萬一洪浪御座候ても人命は勿論、田宅器財無恙凌ぎ候見留の主法相立候上にて人心安堵爲致、追々村益に相成候愚考奉同上、難村興復の御仁慮成戴き度奉存候。何分にも人心安住とち大切に爲存込不申候ては何の主法も相立兼候儀に御座候。土手場地理早々御見分戴候て、造營奉豪御免許度、厚御取扱被爲成下候樣支度、乍恐内存奉願上。已上。

 前にも記したる如く、廣の海濱は古來高浪の襲來する事度々にして村民は其の都度慘害を豪り居たるが爲、年代は不明なれど、石垣を以て海濱に防波堤を築きたるもの、常時尙存せり。されど此の石垣は高さ一閒位にして、大波濤の押し寄せ來る時は、之を超ゆるを常とし、今囘の如き大海嘯に防ぐが爲には、何等の力なきものなりしを以て、梧陵は常時襲來せし海嘯の高さを硏究し、是非とも堅固にして長大なる防波堤の能く大海嘯にい耐ふべきものを築造せんとせり。彼の計畫は、舊波除の背後に當りて高さに二閒半、根幅十一閒、上幅四閒、延長五百閒に瓦る大防波堤を築造せんとするものにて、官の許可を得ると共に、直に右宏冶を著手し、堤防完成の曉は、廣村の永久に安全なるべきを說きて村民を慰撫したり。
 彼が漸く俄に工事を起したる所以のものは、必ずしも工事の急を要したるが爲に非ず。海嘯の襲來は古來の經驗に依るも、踵を次いで至る者に非ずして、之に對する築提工事の如きは、十年乃至二十年計書を以て、徐々に進行せしむるも逞しとせず。殊に海嘯被害の後を受けて村内疲弊したる際、俄に之を敢行せんとしたるは、一見甚無謀なるが如きも、是には極めて深き意義の存するものあり。
 當時耕すに田畑なく、漁するに綱なき多數の被害民は、其の窮狀慘澹たるものにして、此の儘放任せんか、饑餓に陷るに非ざれば、離散の外途なき狀態にあり。彼は是等窮民の爲に或は米殼を頒ち、或は資本を與へて百萬救濟に努力したるも、漸くの如き救恤は殆どその止まる所を知らず、又單にに救恤に馴れしむるの弊あり。卽ち慈善的救濟は、彼等に依賴心を起さしむるのみにして、永久的安心を與ふる所以の道に非ず。梧陵が俄に築提工事を起こしたるは、全く其の起行に依りて村民に職を與へ、生產的に窮民救濟の實を擧ぐると共に、積極的に廣村將來の安全を圖らんとしたるもの。工事免許の事を願ひ出でたる上申書中にも「右工事は乍恐私如何樣にも勘辨仕り」と云へるが如く、之に要する工費は最初より其の負擔を覺悟し居たるものにて、實に大防波堤築造は、工事の爲に工事に非ず、救濟の爲の工事にして、工費の支出も亦救濟の爲の支出なりし事明かなり。
 築造に要する費用の如きも、彼は最初より正確なる豫算を立て居たるや否や不明なり。されど彼が後に作りたる見積書に依れば、人夫合計五萬六千七百三十六人と、其の費用合計銀九十四貫三百四十四匁とあり。是れ豈輕々しく著手し得べき事業ならんや。されど漸くの如き大事業は、漸くの如き慘害の刺戟新たなる機會を利用して、之を斷行するに非ずんば、完成を期し難し。且窮民救濟の爲に單なる救恤費を支出せんよりは、事業を起して職業を與ふるの一層有意義なるを知れる彼は、此の爲に私財を投じて悔ゆる所なかりしなり。之を今より見るも、一村の計畫としては甚だしき大事にして、又假令後世海嘯の襲來を想像するも、到底一個人の企て得べき事業の非ず。以て彼が落々たる心事を察すべきなり。
 安政二年春二月、築堤工事の開始と共に、日々之に從事するもの四五百人、農業の期節未だ至らず、窮民の職なき者は悉く此處に集れり。老幼婦女と雖も多少の勞働に堪へ得る限りは之に使用し、衆人の羣れ集ひて大工事に勵むところ、元氣自ら潑刺たるものありき。殊に一日の勞働を終れば、それぞれにその日の日當を急したれば、村民の喜び一方ならず、生計に困難なる者も之に依りて蘇生し、他村に逃れんとせる者も漸く安堵して離散を思ひ止るに至りぬ。漸くての農繁の時に至れば之を中止し、冬期閑散の時機を見て再び之を繼績したれば、村民は倦怠に苦しみ愚癡をこぼすの暇もなく、繁忙と共に收入も從つて增加し、敦も皆嬉々として其の業に從へり。
 梧陵の計畫は、築堤の延長五百閒、廣河堤まで迂廻せしむる豫定なりしも、其の後國いえ多事、異國船の渡來、攘夷論の沸騰
其の他添加の風雲漸く急なるものあり。邦國の大事を憂ふる彼をして終に此の築堤工事に專心ならしむる能はず、安政五年十二月一度此工事を中止するに至れり。此の閒月を閱する事四十七筒就き、役四筒年に瓦りて、工事の成りたるもの、海嘯正面に當りて三百七十閒、豫定の計畫には達する能はざりしも、之にて今後の海嘯襲來に對し、之を防禦し得るの見込は十分に立ちたり。現に大正二年高浪の襲來したる際、舊波除は波浪の超ゆる處となりて其の一部分を破損したるも、彼が築造せる此の大防波堤は儼として之に堪へ、波浪は徒らに其の堤腹を甞めたるのみ。豫定には及ばずと雖も未成品には非ざりしなり。
 築堤工事成るの後、彼が自ら誌せる「海面王大土堤震築原由」は海嘯被害當時の慘澹たる狀態より述べて、防波堤工事を起すに至れる理由に及べるものにして、最も詳細に彼の同情ある心事を知るに足るものあり。前に其の一節を引用したれば、多少之と重複するの嫌あれど、左に其の全文を揭載すべし。

  海面王大土堤震築原由
 廣村の地たる 西北 海に面し、北三里にして宮崎正面に斗出し、霧崎丹崎は田村栖原に屬して右岸に墓差たり。左望南洋に對して三里强、白崎西に屹峙たり。「なばえ」崎、「めど」崎は近く我が陸地に連接す。宮、白の距離殆ど四里、其の閒海鹿島、鶴島、黑島は日高郡海に隸し、漸々東して鷹執り、刈藻、無毛の諸島星羅布置、一望の中にあり。暗礁には平瀨(瀨は礁か姑く俗稍に從ふ)白崎脈脚の遠く海に走るものなり。「をしご」瀨は宮崎の脚根にあり。伯母瀨、「そかみ」瀨は刈藻の西北に散在し、其の他大少無數の暗礁沿海里許りの閒に點々沈在す。如斯海面の狀景は内灣潮汐の運流に如何なる關係を持つ歟、測衞家の推考を要す。面して住民の居は灣曲極まる所岸の沿うて部落をなし、背後平田百餘町の西南段の職阜に沿うて八幡社叢に達す五六町復四五の小村部落を隔て、明神、鹿ヶ瀨、靈嶺の諸嶺東南に屏列す、東北は湯淺村に界して廣河あり。河は源を日高郡界山脈卽ち鹿背、小山、岩淵等の諸山に發し、婉曲殆ど三里にして海に注ぐ。西南は山本村嶺山手に接して江上川あり。涓々の流れ用惡水路の稍大なるものなり。
 爰に古老の𫝊話を稽ふるに、地勢の然らしむる歟、往昔より海嘯の災ある每に其の術に當り慘害を被むる鄰村に比して殊に劇甚なり。往昔は姑く措き、近古天正年閒該災のため現戶(千七百餘戶ありしと云ふ)の四部を流滅すと口碑に存するも、尙九百餘戶を留めて寬永四年十月の災に罹り、現戶過半流亡し、瀧死三百人あり、(此の際我が家の先代下總銚子出店にあり。留守の家族等幸に死を免れしも、家宅流潰し、資財器仕は盪畫せり。民圖帳記す所の濱口屋舗は今の土下西端にあり)現在住民舊家なるものは皆此の災餘の遺族なるも、天生爾後の古記舊物は此の災ため殆ど掃畫せり。以來漸次に戶數滅卻し、嘉榮安政の黏度は僅々三百餘數戶未滿に至る。
抑も如斯の衰狀を來たす所以のものは別に原因あるも、單に海嘯の慘害を被ぶる他村の比にあらざるがために、住民其の土に安んぜず、他方に移轉するもの多きに由る。現に余安政元年寅十一月五日海嘯の災變に遭遇し、波を潜つて活路を就き、善後の所置は奮つて自任し、時の荘官雁仁兵衛等を提督勵し、股眩の壯漢數名を驅使し、倂走拮据流離の窮民を收集して、風寒雨露を凌ぎ衣食に就かしむる等の方法を畫し、慰撫安堵に心軀を營痒せしは今人皆記憶する所なり。
 抑も此の日や天氣異常、雲無くして日㬒に、風沈んで氣ぼれ、暗澹糢糊苑も暮春瀨時の天に髣髴として、腦重く神に濁り、起坐快々意樂まざるを變ゆ。是れ變態空氣の壓窒を感受して爾るなり。時將に申牌卒然地大に震動し、慌起顚躓地に籍して抱持し、人に生色なく氣息奄々たる耳。頭を擡ぐれば屋傾き塀倒れ、黃埃街を掩ふ。震後は萬籍寂閱 人影蕭瑟 怪雲垂れ覆ひ、黑氣地を抹す。震怖の景、肅殺の氣、陰々神に迫りて復た天柱地軸の支擦し能はざるの變象を感想せり。此の時に方つて西南洋大砲連發の如き響きを聞くこと數次、倐怱にして驀然巨浪揚り、咄嗟の際□□を問はず。挺身勵呼東西に馳囘して村民を叱驅逃避せしむるも、尙狼狽淹殺するもの三十六人、幸にして老を扶け幼を抱き、辛く生命を保つことを得るも、闔村家として全きはなく、田として荒れざるはなく、況んや資財器仕をや。免れて八幡叢と法藏寺内に麕集するもの無慮千四百餘人、闔家亂離、骨肉彷徨、互に哀喚泣□、寒を叫び饑を號ふ。現時の慘狀歷々眼に在り。此時日掻く沒し。新月光なく天地慘澹。東西濛冥。由て慮ふ、急卒の變壯者俗稍に從ふ)白崎脈脚の遠く海に走るものなり。「をしご」瀨は宮崎の脚根にあり。伯母瀨、「そかみ」瀨は刈藻の西北に散在し、其の他大少無數の暗礁沿海里許りの閒に點々沈在す。如斯海面の狀景は内灣潮汐の運流に如何なる關係を持つ歟、測衞家の推考を要す。面して住民の居は灣曲極まる所岸の沿うて部落をなし、背後平田百餘町の西南段の職阜に沿うて八幡社叢に達す五六町復四五の小村部落を隔て、明神、鹿ヶ瀨、靈嶺の諸嶺東南に屏列す、東北は湯淺村に界して廣河あり。河は源を日高郡界山脈卽ち鹿背、小山、岩淵等の諸山に發し、婉曲殆ど三里にして海に注ぐ。西南は山本村嶺山手に接して江上川あり。涓々の流れ用惡水路の稍大なるものなり。
 爰に古老の𫝊話を稽ふるに、地勢の然らしむる歟、往昔より海嘯の災ある每に其の術に當り慘害を被むる鄰村に比して殊に劇甚なり。往昔は姑く措き、近古天正年閒該災のため現戶(千七百餘戶ありしと云ふ)の四部を流滅すと口碑に存するも、尙九百餘戶を留めて寬永四年十月の災に罹り、現戶過半流亡し、瀧死三百人あり、(此の際我が家の先代下總銚子出店にあり。留守の家族等幸に死を免れしも、家宅流潰し、資財器仕は盪畫せり。民圖帳記す所の濱口屋舗は今の土下西端にあり)現在住民舊家なるものは皆此の災餘の遺族なるも、天生爾後の古記舊物は此の災ため殆ど掃畫せり。以來漸次に戶數滅卻し、嘉榮安政の黏度は僅々三百餘數戶未滿に至る。
抑も如斯の衰狀を來たす所以のものは別に原因あるも、單に海嘯の慘害を被ぶる他村の比にあらざるがために、住民其の土に安んぜず、他方に移轉するもの多きに由る。現に余安政元年寅十一月五日海嘯の災變に遭遇し、波を潜つて活路を就き、善後の所置は奮つて自任し、時の荘官雁仁兵衛等を提督勵し、股眩の壯漢數名を驅使し、倂走拮据流離の窮民を收集して、風寒雨露を凌ぎ衣食に就かしむる等の方法を畫し、慰撫安堵に心軀を營痒せしは今人皆記憶する所なり。
 抑も此の日や天氣異常、雲無くして日㬒に、風沈んで氣ぼれ、暗澹糢糊苑も暮春瀨時の天に髣髴として、腦重く神に濁り、起坐快々意樂まざるを變ゆ。是れ變態空氣の壓窒を感受して爾るなり。時將に申牌卒然地大に震動し、慌起顚躓地に籍して抱持し、人に生色なく氣息奄々たる耳。頭を擡ぐれば屋傾き塀倒れ、黃埃街を掩ふ。震後は萬籍寂閱 人影蕭瑟 怪雲垂れ覆ひ、黑氣地を抹す。震怖の景、肅殺の氣、陰々神に迫りて復た天柱地軸の支擦し能はざるの變象を感想せり。此の時に方つて西南洋大砲連發の如き響きを聞くこと數次、倐怱にして驀然巨浪揚り、咄嗟の際□□を問はず。挺身勵呼東西に馳囘して村民を叱驅逃避せしむるも、尙狼狽淹殺するもの三十六人、幸にして老を扶け幼を抱き、辛く生命を保つことを得るも、闔村家として全きはなく、田として荒れざるはなく、況んや資財器仕をや。免れて八幡叢と法藏寺内に麕集するもの無慮千四百餘人、闔家亂離、骨肉彷徨、互に哀喚泣□、寒を叫び饑を號ふ。現時の慘狀歷々眼に在り。此時日掻く沒し。新月光なく天地慘澹。東西濛冥。由て慮ふ、急卒の變壯者

十二、 救濟家としての梧陵 -獨禮格と濱口大明神の計畫-

 海嘯被害民の救濟を策するに當りて、梧陵は積極的に自ら巨額の費用を投じて、大防波堤築造の工事を起しゝが、同時に一面消極的に村民の負澹輕減とに就て畫す所ありしを忘るべからず。
 從來廣の村民は、年貢の比較的高率なるに應じ居たるが、海嘯被害後一層その甚しきを加へ、相當田畑を所有せる富有のものと雖も、到底正式の年貢米を上納する能はず。殊に海嘯に依りて泥土の蔽ふ所となりし田地の如きは、之が修覆に多大の日子と費用とを要し、容易に元に田地を有するが爲に、卻つて過大なる年貢の負澹を負はされ、其の困厄一層大なるものありき。當時定められたる廣い村の年貢米は、上々田一石九斗、上田一石八斗、中田一石七斗、下田一石六斗、下々田一石五斗の掟なりしが、上田と雖も下田の年貢を納むること困難なるは勿論、海嘯被害の翌年度の如きは、全く年貢米上納不能の者を生ずるに至れり。
 されど、當時官民の聯絡甚疎にして、下情容易に上に達し難く、俄に免租の恩典に浴せんことなど思ひも及ばざる狀態にあり。如何にして此の難局に處すべきかは、當時彼の最も焦慮したる點なりき。多少の費用を支出して救助し得べきものは、彼の獨力を以て解決し得べきも、年貢米の如きは永久の負澹にして、今にして之を輕減するにあらずんば、村民は永遠に疲弊より免るゝ能はず。梧陵が防波堤の大工事を起すに至れる目的の中には、是に依りて年貢米の重き田地を其の敷地となし、以て租稅の免除を得せしめんとするの意もありし位なり。されど梧陵は詳に被害の狀況を陳じて、之を官に上申し、公平なる救護的處置を乞ふと共に、年貢米の高き場所は、出來得る限り防波堤の敷地とせんことの認可を求めたり。彼は此の目的を達せんが爲に、あらゆる方面より努力したる結果、漸くその目的を達したるものゝ如し。勝海舟が特に記して『君以謂く海嘯の防は提障を設くるに在り。固より一日も之なかる可からず。然りと雖も、居民の重歛に苦む水火よりも急なり。亦以て速に除かざる可からず。今若し堤防を氣づく田圃の名を取り、移して以て其の敷地と爲さば、則ち民は重歛を免る。是れ一擧爾得の計なりと。乃ち同族吉右衞門ろ謀り、諸官に白し、率先以て鉅資を投じ自ら董役す。日ならずして竣工せり、提の長さ凡十五町、廣さ八閒、永く租稅不輪の地となる。闔邨一時に二割を免るゝを獲たり』とて、其の功業を讃へたるは卽ち是なり。此等の事躓によりて彼が單純なる慈善家にあらずして、卓越せる政治的手腕を有せる經世家なりし事を知るべし。
 廣と湯淺との雨邑は、廣川を以て境し、雨者を聯絡する唯一の廣橋は、古來廣村の負澹にて修繕し、十年目每に之を架け換ふつを慣例となし居たり。其の外江上橋、川端橋、三位端等も亦、廣村の負擔する所なりしが爲、村内の費用益々多く、村民の苦痛一方ならざるものありき。海嘯襲來以前より彼は村民の負擔を輕からしめんが爲、此等の架橋工事をすべて自ら引き受け居たるが嘉永五年彼が歸國したる時は、恰も廣橋架橋の近く迫り居たる頃なりしを以て、彼は私財を投じて新に材木を伐り出し、之が架橋も準備中なりき。しかるに此度の慘害に依りて、右の木材は端梁と共に悉く流失し、其の形蹟をさへ止めず、廣橋を失ひたる村民は全く湯淺との交通を絕たれ了んぬ。彼は之を見て。一日も棄ておくべからずとなし、再び人夫を督勵して新に木材を伐り出し、一方築堤の一工事を始むると共に、廣橋の架橋工事に著手したり。斯くて右の架橋は、襲に流失したる木材と合算して約二倍の財力を費し、安政三年二月漸く竣工したり。當時紀州にありて此の實況を見たる海上胤平が之を敍して彼の德を讃へたるもの今尙濱口家に珍藏せらる。

紀伊の國の湯の湯淺の町廣の里など、嘉永七年十一月四日五日とひきつゝきなゐふり、つなみぅちあげて人々あまた死にけり。その折流れ失せる家いくらかかず知られず。殘れるは打ちたふされ、みるめあはれなるありさまにて、人々さまよひわびたるを、濱口梧陵ぬしがいたく悲みて、そこはくの黃金を費し、波よけの提を築き、荒れはてたる田畑をつくろひ、家もたて、舟もつくりてあたへしかば、すなどるあまも、たがやす民も、元の如く營むことゝはなりけり。かばかりに思ひはかれるは、實にありがたき業になむ。さて又往き來する人の爲に廣川の大橋をさへつくりぬ。
此の橋の渡りぞめの日よめる歌
世の人になさけをかけし君が名は
廣の川橋ひろく知られむ

梧陵は更に広村を窮境より救ひ出さんが爲に、あらゆる方面より村内の經費節減に努力せり。前に述べたる如く、往弱同村は戶數多く、村民比較的富裕にして、僻地の村落としては甚般賑なるものありしより、宇田組、北組、南組、濱組等何れも庄屋を有し、之に要するところの村費も從つて少からず、又宮掛りの如きも他村の比し、甚多かりき。彼は此の際斷然是等の冗費を省かんと企て、庄屋の如きも出來得るものは之を倂合して一とし、以て村内に於ける事務の簡便と費用の輕減とを圖れり。されど彼は徒に村内の機關を縮小して、消極的政策を事とせるに非ず、廣村發展の爲に必要已むを得ざる費用は常に東濱口家(詿、同族吉右衞門の一家を東濱口といひ、儀兵衞卽ち梧陵の一家を西濱口といふ)及び岩崎家等と協力して支出し、殊に其の大部分は彼の喜んで負擔する所なりき。
梧陵の敎育事業は不幸海嘯の爲に一頓挫を來せりと雖も、一たび靑年子弟の開發に志したる彼は、被害後各般の救濟に忙殺されつゝある閒と雖も、一日も念頭より此の志を去る能はず。四圍の事情は到底前日の如く總てを復興し、之に沒頭する能はざりしも、災害に依りて學問の萎微頺廢せん事を恐れ、出來得る限り村内の子弟を慫慂し、文武修業の途を開かんとしたり。乃ち稽古所の如きも自ら支出して之を修復し、又靑年子弟の進んで修行を希望するも、其の家貧にして餘裕なき者に對しては、師家の謝禮其の他の費用を支辨し、以て其の志を遂げしめたり。されば一時閉鎖されたる稽古所も漸く開かれ、廢れんとしたる學問の途も再び興る事なれるが、當時彼の世話に依りて修行する事を得たる貧家の子弟常に五六人あり。斯の如き災害に會し、衣食の途さへ容易ならざる閒にありて、廣村の靑年子弟が、兎も角學問修行をなすを得たるは、全く彼が人材の養成と後進の誘掖とを重んじたる熱誠の賜ならずんばあらず。

 梧陵が村民を憐み慈む事斯の如く深く、彼はあらゆる方面より被害後の
救濟と、廣村恢復の爲に其の全力を傾倒したるを以て、人々此に漸く安堵を得、窮民は離散の憂目より免れて、村内次第に舊態に復するに至れり。此の事世に與はるや、𫝊はるや、何人も之を美談として欽仰せざるなく、遂に安政三年有田の代官某をして、梧陵が海嘯襲來前後に於ける事𫏏を詳述し、以て紀州候に上らしむるに至れり。前段記す所と多少重複するものあれど、其の素撲なる記述は更に異りたる方面より、彼の救濟的精神と、之に對する村民感謝の念とを審かにし得べきものあるを以て、左にその全文を揭ぐべし。

 代官の具狀書
 廣村往古は、江戶店持或は五島邊へ魚仕入れ元致し候者とも多分にて、繁昌の處、近來段々沽卻に及び、作方は本田畑にて御年貢高多にて、自然難澁者多出來、人別家數も減じ候由の處、右儀兵衞儀は元より田畑山林相應に所持致し、江戶表深扇橋邊に出店有之、地面所持少々の金貨致し、下總國銚子荒野村と申所にも出店有之、造醤油商ひ大店にて多人數召抱、追々繁昌に付當時身上宜數候得とも、儀兵衞儀は家宅衣服共諸事質素にて、篤實なる上慈悲深く、兼て困窮之者共を救ひ遣し候に付、自然同村之者共都て尊敬致し候由。右廣、苛追々哀微に付、儀兵衞豫て工夫も致し置候哉、拾筒念程已前より同村難澁之漁師共へ漁船綱仕入遣し、猶股近浦にて難澁の漁師共をも呼寄住居爲救、漁事有之の節は相應之口錢納めさせ候得共、當時は右口錢も納不申、船綱共無料にて漁事爲相働、餘分有之候節は元廻しの都合致し候に付、追々潤澤に相成。付ては作方小前の者共迚も同樣にて村内も賑ひ居候處、嘉永七虎年十一月五日夕同村津波にて人家百軒許流失、死亡の者貳拾六人許有之、田地も多く流失致し、前段漁師共住所は勿論、綱漁船道具類迄不殘流失に付、漁事等も難出來難澁致居候に付、右漁船二十八艘綱道具共元の如く儀兵衞より仕入遣し、猶又近浦にて困窮之漁師共入込漁事爲相働候事之由。前段より當地迄仕入遣し候高凡九十八九貫目餘出銀之由。叱る處津波の節は夕方にて老若共周章候處、儀兵衞村役人下人共四五人連れ、逃場所差圖致し、頓智を以て道端に積有之藁五箇所ほど程へ爲付燃立候て、多人數の者を同村氏神八幡宮社内竝に實藏寺等へ爲立退、猶溺死なすべきをも儀兵衞働きにて命助けたるもの多分の由。夫より同組鄰村中野村へ罷越、庄屋へ掛合御園米八拾俵餘拜借致し所々にて焚出し、握飯に致し夫々へ爲給、三四日の程は救合致し居候内、親類其他へ引取らせ候得共、行處無之者共は矢張救合致し遣し、且つ藁小屋等建て入置き、其後米二百俵村中へ救合に出し、尙同人同姓にて同村住居地士濱口吉右衞門と申者も、儀兵衞同樣二百俵救合米差出候に付、同村にて相應に致居候者共(合三十四人程といふ)よりも五俵十俵宛救合致樣に付、作方働きも出來がたく難澁につき、儀兵衞より近村之鍛冶職之者へ申聞け、耕鍬、唐鍬、鐮之類多分爲打立、百姓等持高に應じ二挺三挺づつ遺し爲働、此の出銀貮貫五百匁目餘といふ。溺百姓之内にも可成に自分住所を建候者ともへは、二百目三百目程づつ普請料之足し可致由申聞、救合、此の入用三貫四百目程也。
 廣村は近村より餘程低き土地に付、此度の津波より大に恐れ候哉、近村へ住所替へたく申者も有之に付、儀兵衞より申聞候は、此の上如何樣の高浪參り候共、流失無之樣丈夫なる波餘土手築立候閒、外へ參り候には不及旨申喩し候上、願差出し、村役人も彼是世話致、右願相濟候に付、萬代不易之波餘土手根足幅十五閒七步、高サ貮閒半、上幅凡三閒程にて、廣村濱手折曲り六百閒餘許の内三步通り築立かけ有之、右全く出來迄の工數凡六萬之積にて、入用高い壹工壹匁六分之筈にて銀九拾六貫目ほど、當時三步通築立懸け有之、入用高疲六貫五百目出銀之由。右は儀兵衞、吉右衞門爾人にて出銀致候筈、右は同年十二月より救ひ普請に取懸り、廣村住居難澁者老若男女に不限、右土手築工之爲に土砂を運び候者日日四五百人罷出相働、相態(當か)の日雇錢を遣し候故全く救に相成、難澁者内手大に潤ひ候事之由。且又去る卯正月比より當正月迄健家凡五拾餘出來致し、極難澁者へは無料にて住居爲致、又は右建屋普請料を十筒年之年賦にて貸渡有之候由。右入用高凡四拾に三貫目出銀之由。尙又商人百姓方小前之者共身柄相應に元手を仕込遣し、夫に手業爲致、右銀高二拾二三貫餘り右は年四朱の利分にて貸渡候由。
 儀兵衛、右之通色々救合諸事行居世話候に付、同村住居之上下共神佛之樣に尊敬し、愚昧好事之者共了簡にて儀兵衞を濱口明神とかに祝ひ込候趣相談致し、材木等を調へ社を拵懸候處、儀兵衞聞𫝊へ『我等儀神にも佛にも成りたき了簡にては決して無之、當時此度之大難に付、諸人迷惑致候に付ては、人別も減り不申樣諸事都合宜數致、且つ上樣にも忠義其の未冥加にも相成、且は昔の廣村に致度了簡故、斯く世話も致候事故にて候。社抔拵へ右等之儀相知れ候はば、御上へも恐れ多き事に付、此の上世話も致すまじく候』と事を分けて申候故、皆々得心致し止に相成候由。
 然る處廣橋と申す橋先年大損しに付、儀兵衞より建立致し有之候處、少々損じ候に付普請可致由にて材木調へ置候處、去寅都市之津波にて材木流失に付、猶又去卯八月比より當二月差入之此迄に橋普請出來致し候由。右之橋は海邊迄に懸け有之故、出水高浪之節々損じ候に付、此の度は橋杭足固め存外之入用にて凡二拾四貫目餘出銀とぞ。然る處江戶持店銚子持店共去卯年地震にて大損し、其外商買向損亡多分有之、且は江戶高順念に付當二月晦日比江戶へ出立、其節村内之上波餘土手普請成就爲致候上、何卒工夫此上繁昌爲致可申閒、夫々働候樣との儀、敎論之上出立候に付、一統も悅び見送り候由。且つ廣橋南の方土手土地低に付、當時上より提御普請に相掛り日雇之者五十人許にて取掛、此の入用貮步通は廣村より御手𫝊可仕元極に付、右之出銀儀兵衞一人にて差出候筈、村役人共へ賴置出立候由。且つ又難澁者之倅にて稽古事望有之とも雜費に差支へ候者は、同人より師家謝禮等迄取計致し遣し可申と夫々へ申聞候に付、其砌より大體稽古に參り候者有之、當時にては世話致し候者五六人程之由。前段之桃李二百七八十貫目(四千六百六十五爾計)程救合致し、右之外不表向一存にて救合致有之由候得共、同人儀吹聽不致候心得に付、其の高更に難知。何分諸事行屆世話候に付、同村は勿論鄰村役人等始め、小前一統學て難有がり以降趣、取沙汰に御座候。

右具狀書の和歌山藩に達すると共に、君候その善行を賞し、特に獨禮各を賜ふ。其の文に曰く兼々心得振宜敷且つ村内世話等行屆厚骨折候に付獨禮各を賜ふ
安政三年十二月二十日
 封建時代に於ける官民の階級的差別は甚嚴格にして、殊に御三家の一なる紀州侯の如き、士格を有する者にあらざれば容易に近づく能はず、それ以下の輩に至りては、多少身分あり功勞あるものと雖も、君候拜謁は僅に多數一團となりて一瞥を與へらるゝのみ。斯る時代にありて、梧陵が救濟事業の功勞に依り、單獨にして拜謁し得るの資格を與へられたるは、實に破格に恩典なり。
 思ふに、彼の救濟的精神は、安政元年の海嘯に當りて、特に未だ海嘯襲來の事なき以前より、廣村の衰微を嘆き、之が救濟と復興とを圖り居たる事明かなり。彼が「同村難澁の漁師共へ漁船綱共仕入遣し」たる時は安政三年より十箇年以前なりと云へば、卽ち弘化三四年のころにして、年未だ二十八歲
に過ぎず、今より見れば學業に餘念なり一靑年のみ。然も此の時代より村内の衰微に心を惱まし、之が復興の爲に努力し居たる彼が、海嘯被害に際して奮然を挻して、勞を惜まず危きを恐れず、私財を傾けて之が救濟に從事したるは、自ら發露したる彼が天性の慈悲心ならざる可からず。
 海嘯被害の前後に亙りて、村民救濟の爲に彼が支出したる費用は銀二百七八十貫目(四千六百餘爾)に上り、此の外「吹聽到さざる心得」にて内々支出したる費用も少からず費用も少からずと云へば、其の額は莫大なりしなるべし。況や當時「江戶持點、銚子持店共、卯年安政二年の地震にて大損し、其外商買向損亡多分」なりし時に於て、彼が斯くの如き莫大なる義金を支出したるは、已を空うして他を救ふの犧牲的精神と、村民を憐むの大慈悲心とにあらずして何ぞや。
 斯くて物質精神兩方面より彼の救濟を受け、或は命を助かり、或は飢餓を免れ、生計の途を得て、祖先の村に安住する事を得たる多數の村民が禮佛の惠にも優る濱口家の大恩に感激して、遂に濱口大明神として彼を祀らんとし、逸早く神社建立に要する材木をさへ調達したるも亦宜なりと謂つべし。かくの如くして神社建立の企は村民が衷心感激の餘り、茲に出でたるものなるを知らば、豈代官の所謂「愚鯵好事の者共」がはしたなき了簡より出でたるものとして、一槪に嘲笑すべきものならんや。しかるに此の計畫を耳にしたる彼が態度は如何なりしか。彼は先づ『我等儀、神にも佛にも成りたき了簡にては決して無之』と之を否定し、此度の大難に付き、諸人迷惑致し候に付ては、人別も減り申さざる樣諸事都合宜數致し、且上樣にも忠義其の身の冥加にも相成り、且は普の廣村に致し度了簡故、斯く世話致し候事にて候』と一意廣村恢復の爲に努力して些の名聞を希ふの念なき心事を述べ『社など拵へ右等の儀相知れ候は、御上へも恐れ多き事に付き、此の上世話も致すまじく候』と叱り付けたる、何ぞ夫れ態度の謙讓にして心事の高潔なるや。斯くて濱口大明神建立の企は、彼が事を分けて申聞かせたるが爲、終に沙汰止みとなりたるも、此の一事に依つて鄕當に於ける梧陵の德風如何に高く、村民崇敬の念の如何に高調に達せるかを知るに足る。
 斯くて安政三年は「江戸高順年」となり、被害民救濟事業も畧ゝ一段落を告げたるを以て、梧陵は後事を村内の重立ちたる人々に託し、同年春出府せり。久しぶりにて出府したる彼は、江戶に於ても亦銚子にありても、甚しく繁忙を極めたり。卽ち、先年養父の殘後家業に對する責任も多少重きを加へ、且前年江戶の大地震に依りて、損害を受けたる持店の後始末もあり、殊に對外問題は愈ゝ切迫して、國論沸騰したる時代なりしを以て、彼は常に東西に奔馳し、殆ど寧りしが如し。されど此の閒にありても彼は決して故鄕の憐れなる村民を忘るゝものにあら子より廣の庄屋に宛てゝ送れる左の書翰は、彼が如何に村民の爲に憂慮せるかを示すものなり。

【梧陵書翰】
一筆啓上仕候。嚴暑の節に御座候所、先以御揃愈御壯榮可被成御座珍重の儀奉賀候。偖而下拙事早春より痔疾相惱、未前囘に及不申候得共、追々快氣、其外壯健に罷在候閒乍憚御休意可被成下候、其已來久々愚書相認不申、實に背本意候事、日々多事とは乍申御無沙汰の段平に御容免可被下候。昨年中より御病氣の御樣子も段々宿元より承之、一形ならず御案申上、宿元迄は每度𫝊言申上候樣加筆いたし候計り、御尋書も差上不申、是又背本意候、失敬御容怒可被成下候。段々御本快の御樣子も宿元より承知大慶申上居候得共、猶無油斷油斷御厭御養生大切の事を御祈申上候。
村内の事に付ては申上度事承度事如山如海に有之、日夜浸透に懸り罷在候德共、早春にも歸村心懸候所、段々延引に及、是非共無程歸村致し度心中に御座候閒、何事も共節可申承奉存候。
何分村内の始末申上候迄も無之候へ共、萬端深く御配慮御行屆被遣候樣吳々祈願罷在候。麥作實入よく天氣都合も無申分存分の取入に有之候樣承之。實に何事にも難替大慶申居候。續而稙付も水都合よく形付、其後も水澤山の樣子に承知いたし、水の御世話は少く一段の事に存候へ共、炎天の節は照込第一に候得ば、作柄は暑中の順氣大切に被存候。當方は暑前より内續雨天折々は大雨も有之、近邊川に出水し破損も不少候。之三四日は照込暑氣も强く此の分にて爲續度祈居候。順氣に連、米も時々多少高下、此の節は上米五斗壹貮升位に御座候。
一、同組大庄屋數見殿病死被成候旨承之、可惜殘念無限事に御座候。後役は如何被成候事歟、大切の役儀に候得ば宜數人物に被仰付に可相成樣祈居候。
一、土手普請久數相休候ても不都合、且米價も不安事に候得者、農業夏仕事行屆候は盆後よりそろそろ相始、秋仕事前に飯米たくはへさせ候樣致度存居候。相談の上緩々と御取懸可然奉存候。久保田氏と御申合之上市場近邊有來小口より湊へ懸、御納所藏の裏手御都合宜數樣相談可然奉存候。先は久々にて御尋申上度如此御座候。御病後暑中別て御自愛可被成御座候。餘は期後便の時候。恐々謹言。

六月廿一日 濱口儀兵衛
鴈野仁兵衞樣 貴下
尙々御同役衆竹中氏始呉々御𫝊話御願申上候。以上。
内 章
極祕取扱の儀御申越具に承知仕候。衆人の爲筋に相成候事、定て諸人の悅察居候、極内御取計の段は承知いたし候閒、誰へも他言いたし不申御安意可被る下候。御地にても其の御心得大切、紐新へも得と御申聞可然奉存候。早々以上。

 右の書翰は其の文意より見て、出府したる翌年銚子に於て認めたるものゝ如く、村内の始末に就ても手落なき樣庄屋に依賴し、春作の事より、天候にまで心を配り、夏仕事の片付きたる後にて、築堤工事に取り懸るべき事を命じたるなど、容易周到、村民を思ふ懇篤新設の情紙上に溢るるものあり。

十三、リヸング・ゴッド  -ハーン著中の梧陵-

 海嘯の當時に於ける梧陵が獻身的努力は、永く後世に𫝊ふべき一條の美譚にして、他の英雄𫝊中にも、容易に見出し難き所なり。されど、通信機鬭の極めて不備なる安政年閒に於て而かも南海の邊隅に起れる事とて、遂に廣く世に𫝊へらるゝに至らず、折角彼が崇高なる事𫏏もあはや將に世人の記憶より逸し去らんとせしが、點此に世界的の一文豪をして、之を世に𫝊へしめぬ。
世界的文豪とは誰ぞ、ラフカヂオ・ハーン是なり。ハーンは日本を愛し日本のロマンスを愛し、大和民族の美しきかずかずの物語を綴らんが爲に、殆ど其の一生を捧げたる人。彼は希臟に生れ愛蘭に育ちたる英人にて、後日本に住し、日本婦人を娶りてつま年、日本に歸化して名を小泉八雲と改め、日本を謳へる文藝界の第一人者として其の名聲を四海に馳せたる後、遂に日本の土となつて逝きぬ。彼が千八百九十七年に著したる「佛田の落穗拾ひ」(Gleanings in Buddha's Field)の其の最初に「生ける神」(Living God)と題して記せる物語は、實に梧陵が海嘯被害民救濟の事を聞き𫝊へて、彼が獨得の纖麗なる筆に上せたるものなり。
ハーンの「リビング・ゴッド」には事實に多少の誤謬あり。例へば儀兵衞と記し、其の死を百年前としたるが如き是なり。殊に此の物語を「リビング・ゴッド」と題したるは、之も事實に非ざる事は前に既に說けり。さりながら、當時彼の爲に救はれたる村民が、敬慕の餘り「濱口大明神」と呼びたるは確かなる事實にして、梧陵は社殿の中に納めてこそ祀られざれ、「生ける神」として神の如く尊崇せられたる事は事實なれば、之を此の物語に題せるは、ふさはしからずといふべからず。ハーンの名著に依りて不朽なるべき梧陵の名を斯く名づけして何とか言はんや。

敍して斯くハーンの著を及べば、如何にしても小說的一事實譚の逸すべからざるがあり。梧陵の息濱口擔嘗て英國に留學中、一夕倫敎の日本協會に於て「日本の女性」に關する講演を試みたる事あり。演題が演題なりければや、此の日は聽衆中に婦人に數常にもまして多かりしが、講演喝采裡に終り、例の通り慥意討論に移りし時、講演に關し質問百出せし中に、一婦人會員の質問と之に對する濱口氏の答辯とは當夜の講演會に講演以外の一色彩を加へ、正に滿座の聽衆をして一種言ふべからざる感興を催さしめたり。婦人の名をステラ・ラ・ロテッツ孃といふ。彼女は極めて愼ましき態度を以て講演者に向ひ、先づ自分の講演の主題に對しては何等論議すべき能力なき事を斷りたる後、他の人々が此の耳新しき日本の女性なるものに想を走つゝありし閒に、自分はひとり講演者の名が「ハマグチ」なる事に無限の興趣を漢字居たりと述べたり。斯く語りて後、彼女は更に聽衆一同の方に向き直り、ハーンの著「佛田の落穗拾ひ」の中に「生ける神」と題せる美譚ありしを說き、件の生ける神とは、會て紀州の沿岸に海嘯の襲ひ來れる時、身を以て村民を救ひたる濱口五兵衞の事𫏏なる由の語り、さて最後に曰く『自分はこの書を讀みて以來、五兵衞の侠勇に推服すること多年、未だ一日も五兵衞の名を忘れたることなし。現に自分の家に藏する日本書中の可憐なる一見を戲れに名けて「小濱口」とし、常に我が家に來り訪ふ者も亦いつしか之を小濱口と稱するに至れる位なり。斯くまでハマグチの名を慕へる自分が、今講演者の名のハマグチなるを見て、豈無限の感懷なからんや。敢て問ふ、講演者のハマグチとハマグチ五兵衞とその閒に何等かの關係ありや』と。言ひ了つて彼女が座に復せる時、衆目期せずして濱口氏の身に集まれり。彼は感極つて言ふ所を知らず。卽ち當日の司會者アーサー・ディオシー氏は、講演者と少時問答の末、『今夕の講演者こそ正しく「生ける神」の主人公濱口五兵衞の實子なれ』と答へたり。斯くと聞きたるロレッツ孃及び竝み居る人々の驚は如何ばかりなりしぞ。湧き返る拍手と歡呼とは怱ち場の四隅を壓して起り、知る知らぬ孰も其の奇遇を言はざるはなかりきといふ。是れ千九百三年五月十三日の事なり。
 當夜の質問者ロレッツ孃が、其の後濱口氏に與へたる書面あり、左に之を譯出すべし。

【ロレッツ嬢書翰】
 濱口様
 私は此の上もなき興味を以て、貴下の御手紙を拜見しました。私の尊敬してゐる御尊父のなされた篤く可き事𫏏の眞相を御禮の申上げ樣もない位喜しく思ひます。
 正直に申し上げれば、最初私は御手紙を拜見いたすまいかと思つたのであります。それはラフカヂオ・ハーンの書いた「リビング・ゴッド」に對して、私のもつてゐる憧憬と信仰とが、御手紙を讀む事に依つて攪亂されはしないかと、心配したからであります。そして、長い年月の閒に其の主人公に對する尊崇の念が積り積つて、何時しか私の胸の奧に、一つの幻像を築き上げたのでありますが、御手紙を讀む事に依つて、少しでもそれが傷けられる事を恐れたからであります。
 然し私は思ひ切つて御手紙を拜見しました。すると事實は全く意外で、御手紙を拜見した爲に卻つて更に新しい事實をも知り、赫燿たる一幅の彩色書を見せていただいた樣な氣がいたしました。一度び彼の暗擔たる、そして恐怖に充てる夜の事に想を走せますと、心臟の鼓動も爲に止まるかと思はれる位です。實に御尊父の行爲は神祕的とでも申しませうか。斯の如き氣高い行は衆生は憐れむ慈悲の觀念に充ちた、淨き心理にのみ湧き來る、最も尊い人柱の發動であります。常に硏ぎ磨かれた一點の曇もない淸い心に對して一度び神藤の對象が映り來る時、光明は皓々として放たれるのでありますが、御尊父の行爲も全く此の淸淨なる心の反映でありました。
 平生私は、私の心に定めた、世界的成人の目錄を作つて居ります。其の中には其督敎徒もありますし、佛敎徒もありますし、又ペルシャ敎徒もあります。そして其の中に或るものは、自ら文明人を以て誇りつつある人々が、野蠻人と呼んでゐる人々の中にもあります。倂し私の信じてゐる聖人は、貴下の講演にも述べられた如く、何れも美しい德を有つてゐる點に於て一致し、例へば貨幣の樣なものでありまして、鑄造の相違こそあれ、其の實質が黃金-四海同胞と云ふ黃金-たる點に於ては、少しも變りがないのであります。
 未だ見ぬ遠い國に生れ、其の血統に於ても、其の風習に於ても、又其の信仰-神學者等が區別しつゝある信仰-に於ても我々と全く異なる人種に屬する彼の名は、私の成人目錄中に於て私の最も頌揚せんとする者の一人であります。圖らずも今度其の人の令息と握手する事を得たのは、私の身に取って何と云ふ喜でありませう。只一つ遺憾なのはハーンが彼の爲めに神社を建立された樣に誤り𫝊へた一事であります。何となれば、私は他日機會を得て、日本へ旅行する事が出來たら、是非其の神社へさん見ぬ遠い國に生れ、其の血統に於ても、其の風習に於ても、又其の信仰-神學者等が區別しつゝある信仰-に於ても我々と全く異なる人種に屬する彼の名は、私の成人目錄中に於て私の最も頌揚せんとする者の一人であります。圖らずも今度其の人の令息と握手する事を得たのは、私の身に取って何と云ふ喜でありませう。只一つ遺憾なのはハーンが彼の爲めに神社を建立された樣に誤り𫝊へた一事であります。何となれば、私は他日機會を得て、日本へ旅行する事が出來たら、是非其の神社へ參詣し、其の拜殿に額づきたいと、友達に向つても常に申して居たからであります。それから私は、彼の海嘯襲來の事件が百年以前-私は今手許にハーンの書物を持つて居りませんから、正確には分らないけれど-に起つと云ふ事を改めて、令息たる貴下が立證された御言葉にも叶ふ樣に、是非何とか手續をしたいと思ひまして、ディオシー氏(日本協會評議員會長)に宛て手紙を出して置きました。尤も當夜の熱誠な會衆の喝采は右の事實を承認したものとも見られますけれど、出來得るだけ御尊父に關する事𫏏の眞相を正しく發表して置きたいと思ふからであります。
 恁んな遠く離れた異鄕に於て、公衆の前で話されつゝある物語の主人公が、外ならぬ御尊父の事だと分つた時、激越なる感情の爲に擒となつた貴下のお心持は、十分御察しする事が出來ます。然し、あの晚、會衆はどんなに感動したでせう。拍手喝采の聲はほんとうに割れる樣でした。私は日本協會に於て、あんなに嬉しかつた事はなく、あれに似寄りの事さへ、未だ曾て見聞した事がありません。實際小說の一輪でした。(中略)
 貴下のお手紙の中に、貴下は御尊父の爲に敢て當らざる喝采を受けた樣に書かれて居りますが、若し因果の說に眞理があるものなら、兩親のした行に依つて、其の子が報いらるゝのは當然だろうと思ひます。
何れにしても御尊父に關する物語を聞くほどの人は御尊父の靈に對して必ず、尊崇相慕の念を起すに至ると云う事は、貴下の喜ばねばならぬ事であります。
最も興味ある貴下のお手紙に對し、謹んで謝意を表し、茲に筆を擱きます。
 一千九百○三年五月二十二日
 ステラ・ラ・ロレッツ