体験談1
子どものころ、母から昔話の1つとして、地震のあとには津波がくるまで、ご飯を炊くひまがあるから、そのうち逃げればいいと聞いてました。
そのくらいのことは、だれでも知ってたと思います。にもかかわらず何10人ものひとが逃げ遅れて死に私の幼友達も何人か死にました。生まれて始めて体験する大きな地震なのに、そのとき、私は津波がくることなど少しも考えませんでした。そのとき一緒にいた大人達も同じ考えで楽観的でした。ところが何だか外が騒がしく、津波がくるから逃げたほうがいいと言うことで、2階からおりて玄関まで出たら水がどんどん入ってきて腰まで水につかり、外の溝に足を突っ込み倒れそうになりました。その時水際で大きな声で、逃げろ、逃げろ、と佳民に声をかけている海軍さんが私をみて、水の中に入ってきて私を引っ張り上げてくれました。水から出た時、腰が抜けるとは、こんなことでしょうか、膝ががくがく座り込んでしまいそうでした。気を取り直し、必至で走り続けました。尾鷲小学校の前まで行っても、まだ水がきているようで、後を振り向くこともできませんでした。知人から母が尾鷲駅にいることを聞き、行ったら風呂敷包等かかえて、脅えきった顔で震えているたくさんの人がいて、やっと母に会うことが出来て無事を喜び合いました。
母から「家はもう全部流れてしまったよ」と聞いた時始めて涙がどっと溢れてきました。家を失った人達は、その夜尾鷲小学校に寝ました。タ食に玄米のおにぎり2コとお新香2片いただいて食べた味が忘れられません 今グラッときたらすぐ火元へ飛びます。次に出口をあける。そしてあわてず状態を見て行動します。テレビ、ラジオの情報をしっかり聞いて判断して、逃げ遅れないことです。最後に小学校にいた私共の家族を引取って離れ座敷においてくれた知人の親切が忘れられない1つです。これだけの親切を、今にできるのであろうか。幸な現在何1つでも社会の為にお返ししたいと努めています。
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体験談2
当日は、古戸町の妹の家から米を出すのに、足袋をこしらえてくれんかなと、たのまれたので二階でミシンがけをしておった。地震が揺れてきたので、下におりなあかんと言うので、階段をかけおりた。子どもたちには、なにか、むしがしらせたのか、遊びに行ったらあかんと言うて、表にむしろをひいてそこで遊んでいたので、そのまま子どもを連れて中村山へ避難した。
家の前のお爺さんには、先に逃げると言っておいたら、お爺さんは、わしはもうちょつとしてから行くで、先に逃げておってくれと、いうので、先に逃げた。お爺さんは逃げると奉には、胸のあたりまで、水がきており隣の二階へ上がって、着替えて、屋根づたいに逃げたと言っておった。
中村山から海軍の船とか、小型の船が波でグルグル、舞いよるのを見たけど、水を見ないで逃げた。地震のあと、まだ大きな地震がよってくるさかいに、広い場所へ出よとおめいてきた。他に津波がくると言うこともあって逃げた。前のおばさんは、浜でサイロ網があって、缶詰工陽のとこに船をつけておって、網から、サイロをはずしておって、地震が止り、地割れがしたので、網の上に乗ったと言うことをきいておる。
津波の後自宅に帰ったが、家の中は、どうにもならんようになっていた。
自宅の前には、借家が三軒あったが、それが、私の家の小屋根にかぶさっておって。東建材の庭をとおり家へ帰った。北町は私とこの前まで流れて、隣が残った。波は庭の入口の敷まできた。家の中にはリヤカーが入っているし、ドラムカンは幾つも入っているし、逃げる時に家を閉めんとけと、言うたもんでに、表も裏も開けっぱなして逃げた。
家は流れなんだんやろなあ。津波のあと、古戸の小倉さんのところへ1週間ばかりおいてもらって、その後学校の前の義姉の家で過ごした。姉はこの津波で死んだ。そして、49日が済むまでの間そこで過ごした。 姉は魚売をしていて、学校の前から当時浜へ、行なくても良いのに、市場のとこにいただき納屋があって、そこへ計器を忘れたので、それを取りにいって、私の家の玄関さきで、計器を持ったまま死んでおった。 近所の人で死んだ人もあった。大きな荷物をおいてねて死んでいたが、1度逃げて、荷物をとりにもどって、逃げ遅れてれて死んだように思う。
津波の翌日、家を見にきたら、家に入ったとたんに、地震がくるで、逃げ一一て、おめいてきたので、これであかん、と思い。非常に怖った。
当時は、食物に困って、今の工業高校のところへさつまいもをもらいに行ったが、いもは、良い方で、つるや、葉を食べた。救援物資を貰っていたが、子どもは小いので、学生服の破れたものばかりでなにも使用できなんだ。大人の着る物の配給は、何とかまにあったが、子どもの着る物に困った。缶詰工場の前の海岸は地震でひび割れして、人は皆網の上に上ったと言っていた。
地震から津波までの時間があると聞いていたが、流れた人の中には、時間があるというので、荷物をまとめていた人もあったようです。私の家には、海軍さんが2階に泊っていたが、2階のものが。津波に流されなかったが、津波のあと泥棒が入って、海軍さんのものが、皆盗まれていた。
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体験談3
地震のときは捻挫して、学校をやすんでいた。北川沿いに菓子屋があり、その前に左官屋あり、そこで遊んでいた。大きな地震やったなあ。左官屋さんの家の中にいたので、地震の終るのを待ってすぐ自宅に帰ってみると、お婆さんが、干してあった麦がまかってしまったので、拾っていた。海が気になるので、浜へ行って見たら、すごかった。台風の波のように、ゴウーゴウーと鳴ってきて、それを見ていたら、他の人が津波やないかと言うので騒動になり、そんなり家に向って走った。そこで、家にいた妹をおんで、吉ちゃの方へ逃げた。そしたら、すでに北川の橋は、水に浸かってきていた。 川は水が増えてきていた。私のおじさんらは、沖に出ていて、古里の前辺りで、地震にあい、前の石堤防に船を接岸して、おかにあがり話しをしている間に堤防が水に浸ってきたのでそんなり逃げたと言っていた。私は、北川の橋を渡って、新道を上って、寺山の上にでた。それから、津波を見ていたら、波は乳やの前の田圃へ上がり、小型の船は、ひん病院の下の所まできておった。その晩は坂場のおばさんの家で世話になり、その後は知入宅でいろいろ世話になった。津波の状況は天気の悪い時と同じで、波が白くなって、おりかぶさってきた。このへんの人は、家内中で逃げるので、道路は、ヤーヤみたいに、混雑した。逃げるときは、家族と別々であったが、避難所で、一緒になった。
昔から、地震から津波までの間はご飯を炊くひまがあると、聞いていたが、そんなに時間がなかったように思う。当時のことで、思 い出すのは、シラミがわいたことである。風呂屋でうってくるのかそれはものすごかった。ランニングシャヅばシラミの卵でいっぱいやった。あくる日、流された船を捜しに行ったが、弁財のところで見つけた。
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体験談4
昼食を終えてしばらくしたら、地震が揺ってきて、長いこと待とたんやけどな、やまんもんで、これはあかんということで、あもてにでたら、用水桶の水が、流れてしまって、空になっておりました。
八幡神社のとこの、福西製材所の空き地へ逃げた。地震の止むまで待って、おさまったので家に帰ってきいよって、あの八幡橋は昔は土橋やった。その橋の真中にひびが入っておった。 大きな地震が揺ると津波が来ると言う話しなどしておった。今晩は大変なことになるどなと、言うお婆さんの話しを聞いて、何か準備せにゃならんと思い、していたところ、浜の方から津波やと呼ぼてきた。そんなり一番先に新道へ真っすぐ逃げた。 波は底から、温泉のように涌いて来る。その恐ろしさは、目について何日も寝れなかった。家は皆流された。逃げる途中、中井の橋を渡ったが橋と海水の間は1mぐらいの間隔しかなく、泥水になってぼこぼこと涌くようにして、ふえてきており、津波はザーア、ザ一アと流れるようではなかった。逃げるのが遅れた人は、膝まで水に浸った人がたくさんいた。昔から地震が起てから津波がくるまで時間があるので、ご飯を炊いて逃げたらよいと聞いていたが、早かった。昔の津波は遅く来たかしれんが、そんなひまはなかった。
避難してから、子どもを学校へ探しに行った。学校で会った。その後の生活は親戚の家に世話になった。その後、北浦の中岡病院の借家を借て入った。4月に仮設住宅ができて、入居した。被災地は12月30日には既に整理されて、きれいになっていた。余震がえらかったので、浜の方の人達は夜になると津波が来るかわらんというので、布団を持って逃げる日が続いた。あの当時は何も無かった時代で、食べるものに困った。配給は、うどんこをもろたり、そうめんをもろたりした。津波の来るのが早いか、遅いかは震源地が近いかによるやろ。昔は震源地は遠いとこでしたのでしょう。
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体験談5
地震のときは、自宅におったが、広いとこへ逃げなあかんと言うことで、浜へ逃げた。地震が収まってから、家へ帰った。その時は昼食をすませて、さつまいもを買い出しに行くのに準備をしておった。昼の汽車に遅れて、夕食を準備していた。家に帰ると棚のものは落ちとるし、津波が来るかわからんので、米をかしておったら、津波が来たと言うので、そんなり子供を3人かかえて、新道へ逃げた。昔から地震のあと津波がくるまで、ご飯を炊く時間があると聞いていたが、そんな時間はなく、20分ぐらいで、津波がきたように思う。新道から浜の方を見ていたら、八幡神社のところにあった山本鉄工所の建物が大きく傾いて崩れていった。あれだけは、忘れられない。そうこうしているうちに、日が暮れてくるし、泣いていたら、浜の方の人は皆宮の上小学校へ避難していると言うので、学校へ行ってしばらくの間おった。その後、北浦のおじいさんの所で世話になった。学校におった時は炊き出しをしてくれたが、そんなに長くはなかった。にぎりめし3こ、コウコ3こもろた。波の大きいのは3〜4回ぐらいで、あの時は九州の別府温泉へいっとるように思った。ブクブクと潮が川底から涌いてきた。潮が押し寄せてくる前にブクブク涌いてきた。
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体験談6
私は、10月に4人目の子供を出産したばかりりで、昼ご飯を食べて、前の北村さん所が常会長をしていたので、そこで、タバコを分ける作業をしておった時地震が揺ってきた。 北村さん家の前でおじいちゃんが、仕事をしていた。そのおじいちゃんが地震じゃじょ〜と、言うたが、子供を抱いたまま、外へもようでやんといた。おじいさんは入口のガラス戸を持っていた。 地震がやんだもんで、家に帰り、辺りを見たら、でこを2基飾ってあったが、棚から落ちて、割れているし、それを拾っていたら、おとうさんが帰ってきた。当時長男は、幼稚園で、妹は3才、長女は8才、それに生まれたばかりの子供。 地震が揺ったら津波が来るかわからんのやじょ、て言うんさ、津波らきやへんわい、といいよった。そのとき瀬木山に敵機が来たら半鐘を鳴らすとこがあって、何かあると、それを鳴らしておたので そのときも、カンカンと鳴って来たので、敵機がきたと思っていたら、外は、浜から逃げて来る人で、一杯になってきて、なんどなて聞いたら、津波やってゆうげ、と言うので、隣の人は米を持とらいと言うし、わしらは、しめし(おしめ)を持つのに手一杯で、米を持つどころではなかった。 子供らがおらんよって、探さんなんよって、先にいくわいと言って、石や(郵便局の前)さんの方へ逃げた。姉の子はタバコを配給してもろたもんで、ここで分けて、新川原町のじいちゃんのとこへもたしてやっていた。新川原町では、津波がくるというので、皆逃げて人はおらんと言って帰ってきた。外の子供は、小学校へ遊びに行っていると言うので、石やへ行ったらだれもおらなんだ。 学校へ皆逃げたと言うので、学校へ逃げたら、今度は中村山へ逃げなあかんと言う、中村山へ逃げたら、人はよおけおって、今どこ どこは流れた、新町の方が流れたと言うのを聞くが、よう見なかった。新町の下に幸運丸と言うのがあって、そこまで潮がきて、あそこから下は皆流れた。 しとかあ、ここにおったが、学校の運動場へ行けと言うので、学校へ行ったら運動場は人で一杯、どこの人は死んだ、と言う話が聞こえてくる。つらいこっちゃなあ〜と言って、タ食はどうするどなて言いよったら、にぎりめしをくれると言うことでした。 私らは、津波が収まったので、石つねへ行った。そのあと家の様子を見に行ったが、警防団の人が街角に立っていて、家に入れてくれなんだ。道は段塚になっていて、屋根が道になっておった。はしごのようなもをもって来て、そこを越えて、家は崩れていなかったので、屋根から降りて、衣類を探した。その前に、こども等を捜すのに騒動した。こどもらはどこまで逃げたんやろと聞いたら、旧女学校の方の竹薮へ逃げたということであった。北村道生さんと子どもらは、新町の方へ帰って行く途中、高町の人達と出会い、今家に帰ったら危いと言われて、その人達と一緒に段々畑まで逃げたそうであった。 私等がほんじ(石つね)に落ち着いて、一段落してから、子もどたちは、帰ってきた。あのときは、川原町が死者が多かった。波に乗って船が家の中まで入ってきて、大変だった。新町では、長屋のお婆さんが、一人死んで、お婆さんは、米を持つのに米を入れていて逃げ遅れたようだった。 隣のおじいさんとお婆さんがおったが、米袋を背中においねたまま私の家の前で死んでいた。 新町へは船が入ってこなかったが、いろいろな、ごみやドラム缶が流れて来て道をふさいだ。コールタンが家の中に流れてきて、家じゅう真っ黒になって手のつけようがなかった。潮は、ここでは、タンスの二段目まできていた。
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体験談7
空襲がだんだん激しくなってきましたので、当時私は四日市にいましたが、仕事を休んで尾鷲へ帰って、2〜3日した時だったと思います。
地震の当夜は余震が次から次へと起りましたので、服を着たまま、すぐ飛び出せるようにして休みました。
翌日から町内会の手伝いとして海岸地区へ約1ヶ月出て後片付けをやりました。北浦の現在の橋のある所から海岸まで、まるで堤防を築いたように家の残骸が重り合って、ひどいものでした。
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体験談8
小学校の校長室で会議中突如の地震に遭い直ちに窓を開け、家路に急ぎ子どもを抱いて中村山へ避難した。15分すぎた頃津波が発生。
尾鷲神社前の橋の上に大型船が乗り上がっていた。新町、川原町、新川原町等はみんな流された。死者も多し。夜になってB29の空襲があるとの噂が広がり、尾鷲の人々は皆尾鷲隧道や北山道路へと避難した。12月8日、避難民は尾鷲小学校の雨天体操場で寝食をとることになった。
私は、その当時尾鷲連合町内会会長として婦人会等を指揮し炊出し等をして避難民を救った。早い人で1週間、長い人で2ヵ月間尾鷲小学校の雨天体操場で生活をしていた。当時は食糧営団の米を積んだトラックが海に落ちた為、その浸水米をもらって、連合町内会で炊出しに使ったことを覚えています。
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体験談9
地震のときは自宅におりました。昼をすませて、外に立っておった。そしたら、地震が揺ってきたので、外を見たら、用水桶から水が地震で溢れて、道路が水浸しになった。子供達が知古町へ遊びに行っていた。私は津波がくる予感がしたので、知古町へ行って津波がくるかわからんで、用意をしておけと行って家に帰ってきた。
そしたら、地震から17〜18分で津波がきた。昔から地震のあと津波はくるのに、ご飯を炊く暇があると聞いていた。あのときは早かった。新町の方から、津波じゃ〜〜とおめいてきて、家内と姉の子と裏の畑をとおって、本家の牛まやまで逃げておけと言って、食糧と身の回りのものをもたして逃がした。私は、警防団第4分団の分団長をしておったので家にはおれないので、そのまま本部(役場)へ駆け付けた。当時は戦時下でしたので、いつもズポンの上には、ゲイトルをまいて、空襲に備えておった。
それから、町をみまわれてというので、回ったら、何回目の津波かわからんのやけど、ちょうど、前は吉田さんとこと、もう1軒あって吉田さんと長谷川さん宅の間が1mの空き地があった。(細屋)から潮がぷ〜〜とふいてきた。隣に仲ときゑさんがおって、町を逃げたら危いさかい、本家をとおって、中村山へ逃げよと言ったおぼえがある。
ここらは、今の小島たばこ店ぐらいまできたかいなあ。中井町は大鷲舘ぐらいまできておった。それから、各分団は位置につけと言うので4分団を受け持っていたので調べたら、家の裏まで潮が来ておりましたわ。林町10番1号は水浸しで、缶詰工場(中山冷蔵第2工場)の麦や醤油樽が流れて、ここまできていた。。この家の裏座敷がありそこに東さんが住んでいて、その家のタンスの引き出しの1段ぐらいまで海水がきておったそうです。ここらは道にのった 程度であった。前から潮が入った訳ではないが、溝をとおって裏から入ったが5寸程度であった。今道路になっているところが病院でして、車庫がありそこまで、ドラム缶が流れ着いていた。新町は低いので、今の山崎米やさんの前に1丈ぐらいごみの山になって、道をふさいでいた。念仏寺のとこでは、北門の前にてんま船が1ぱい浮いていた。今の丸三のとこが、細い道で、そこにもドラム缶がごろごしておった。あとから調べたのですが、船が53隻陸へ上っていた。
高町は奥保さんの倉庫になっているとこまで、船がきておった。尾鷲製氷(今の石川商工のあたり)に南丸(早田の船)が米を積んで打ち上げられていたが、その警備に行った。缶詰工場も相当痛んだ。警防団から夜警に出て各町の角に立った。津波の後片付けにも警防団が出てやった。一番困ったのはやはり食糧です。警防団が出動するとご飯を食べささんなんし、町役場には何もないしほとんど手弁当のような形で出た。
川原町、新川原町が一番えらかった。くらがり屋は新川原町におりまして、当時は缶詰を仕入れていたようで、それが流れて北浦の橋のところに積み重なっていて、それをあっちの分団の人が拾いに行ったと言うことでした。畦地増三さんは昔町会議員をしたことのあるひとで、浜の方に住んでいたのですが、波に涜されて、屋根に乗って、北浦の橋の所まで川をのぼった。当時の死者は川原町、新川原町でだいぶ出たと思う。警防団の消防車で焼きに行くのに、今の電源の方へ行った。一旦寺に納めて、寺から焼くのに運んだ覚えがあります。わしらは、内を出てから1っ月ぐらい帰えらんと、夜警をせんなんもんで町町の入り口に警防団を配備して、物資のどろぼうが、頻繁に出没するので、団員を2名づつ付けて、夜警に当った。今同じような津波が来たら、相当海水につかるのではないかと思う。地盤も沈下しているように思う。3尺ぐらいは、沈下している地震後国市へ行ったが、1メートルは沈下しとるんでは。
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体験談10
昭和19年の大地震、津波は戦時中の災害であったにもかかわらず、いざという時の事前準備例えぱ非常袋の用意などが出来ていなっかた。体一つで逃げただけだったが幸い私達の区域には被害が無かったので事無きを得たが平素の心構え、いわゆる「常に備えよ」という事が大事だと思った 当時は風を引いて寝ていました。突然家が揺れるので外に飛び出し、津波が来るのではと思い、服に着替えておると、間もなく高町の方から津波だと大声をたてて大勢の人達が走ってきたので、私も一緒に尾鷲小学校の校庭へ避難しました。津波は、土井周平さんの家の北側の溝のところまで来たように思います。避難場所で、川原町の方で大火災だというデマが飛んで恐怖を感じました。妻は学校勤務、母は家にいましたので、避難を促し尾鷲小学校校庭まで逃げた後、タ方近く家に帰りましたが皆無事でした。 地震の直後、近所の主婦連中が町中で集まって雑談して「津波が来るぞ」という声にも全然耳をかさず「わいわいがやがや」、そのうち青くなって避難しました。非常時にはつきもののデマが広がって当時の町民に相当の不安と恐怖心を与えたことは事実である。当時は情報施設も活動も不備だったので、止むおえなかったと思うが、今後もし災害が起ったときは的確なる情報を流して市民に不安と動揺を与えないよう希望します。 当時は車がなかったので、避難するのにかえって都合がよかったと思いますが今後あのような事態が起ったとしたら車の通行は被害に一層の拍車をかけるのではないかと大いに気になります。
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体験談11
地震が揺ってきたので、外へ飛び出したが、屋根から落ちるものがあるから危いというので、広場のある浜へ逃げた。浜に日吉丸と言う屋号の家があって、そこの屋根の棟が2つに割れて、子供を産んだばかりの人がいた。3人が助けを求めておめいていたがなあ。 屋根から土が落ちて来るし、地震が収まってから下に降りていたが、何か知んが、家中流されたようやがなあ〜。地震が収まってから家に帰ったが、神さんのものが落ちていて、私の親が、落ちた物を拾っていた。私の家の傍を流れている堀を見たら波がチョボチョボと音をたてて来た。私は、地震の後は津波がくると、本を読んで知っていたので、隣の人に言うてそんなり逃げた。弟を背中におんで、西へ走り、中井の橋を渡る時には橋の下には水が何もないのに波が地下から吹いてきて渦を巻いて、赤土になってもうてきた。 それを見たら1ぺんに腰を抜かして、どんなにして山へ登ったかしらん。新道へ上らないで西の方へ逃げると良かったたけど、こっちの方が近いと思ったので、こっちへ逃げたが、橋を渡ったらあかん、と言うのはこのことやなあ。皆近い山へ逃げようとする。 昔の津波は、地震から1時間余り間があるって聞いていたが、20分もなかったように思う。ご飯を炊く間なんて全然なかった。逃げるとき、近所のおばさんは、2階から外を見ていたので、津波がくるよってはよう逃げよいと言っておいたが、おばさんが逃げるときには津波は、腰まできていたということやった。
新川原町は、中井町まで流されて、吉ちゃだけ残った。北浦の方も皆流された。逃げるときは何も持たずに、下駄をはいて逃げた。 一旦宮の上小学校へ逃げて、宮さんの近くにこころやすい家があっ たので、1週間ばかり世話になった。その後、今の主婦の店のところにおいてもらった。食べるものは、学校で、にぎりめしをくれたので、助かった。寺へ泊った人もあるし、いろいろあるなあ。この辺りだけでもよおけ死んだ。この裏の夫婦とか、八幡大橋を病人をおんで渡っていて流された。親子で流された人もあった。 地震の後余震がひっきりなしに揺ったので、恐ろしかった。
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体験談12
当時は戦争の末期で、食糧事情は一番大変なころで、そのころから学校給食が始まったように思う。それは現在のようなものでなく、せめて子どもには、ご飯を食べさせようと言うことで、1椀1汁であった。米はなく、昼食は、米ぬかをまるめて、小判のようにして網焼するのが主食であった。私は小学校5年生で、昼過ぎて家に帰りつくなり、地震が揺ってきた。家にはたばこの陳列棚がいくつも置いてあたが、それが倒れて来るので恐ろしかった。そこでなんとか揺れるのをしのいだ。母は大きな声で悲鳴をあげていた。弟等は幼稚園へ行っておったので、迎えに、高木たばこ店、清水眼科の所 を走って行ったら、今の幼稚園のところで、2人に出会った。それで、2人をつれて今の郵便局(旧町病院)の所まで来たとき石恒のおばさんが、ちとみを家に帰すのと出会った。それでちとみを預かり4人で、家に帰るべく今の内山病院の前まで来たとき、何人かのおばさんが、つくなっとるのに、出会った。おばさん達は壁にもたれてハーハー言っているので、僕はびっくりして、どしたんと聞いたら、自分達のことは言わずに、あんたらどこへいくん、と聞いてきた。家に帰ると言ったら、今帰ったらあかん、津波がくるんで、逃げなあかんと言われて、始めて津波のことを知った。
そのとき僕は国語の教材に[稲村の火]と言うのがあって、それを思い出した。それでこれは、大変やと言うことで、今度は3人をつれて逃げることになったが、どこへ逃げて良いものかわからないので、どんど上へ逃げた。
今の尾鷲高校の入口に竹薮があって、そこまで逃げたら、たくさんの人達が薮の中に座っていた。そこで、夕方まで過ごして、家族と連絡をとるため、家の方へ向かった。清水眼科の所まで来たとき 警防団の人が立っておって、浜の方へは、そこから入れてくれなんだ。尾鷲小学校の講堂へつれて行ってくれた。 そこは、避難した人達でごったかえしており、母を捜すことが出来なかった。3人の子どもは寝てしまうし、座り込んでいたら、母もあっちこっち捜しておったのだと思うが、あんたら、どこへ行っとったん、と声をかけられた時は、恐怖心にかられ、母にしがみついて泣いた。暗い天井の低い講堂は足の踏み場もないくらいで、1晩過ごして、家に帰った。新町は米屋のあたりから、ごみが一杯で入れない状態で2階の高さまでごみが道路をふさいでいた。それを越えて、2階から家に入ることができた。家は流れていなかったが1階部分は30度ぐらい傾いてい、裏の借家は全部流された。 波は1.30mの所まできていたが、2階は浸からなかった。翌日流木をあらけていたら、飛行機が白い線を引いて飛んでいるのを見て、敵機がやられて、今にも落ちると漁師の人が言っていたのを覚えている。
その年は尾鷲湾で鰯の大漁があったのか、キンカラ箱の中に鰯の煮干が、一杯詰まっていた。岸壁は旧缶詰工場の前だけ残ったが、あとは、市場までの全滅した。 それにうなぎが、わいて1日に6〜8匹ぐらいづつ釣れた。水産 試験所の前の岸壁は、石積であったが、崩れなかったが外のコンクリート造りの岸壁は皆崩れた。 当時の中学校の月謝は、4円50銭、映画は、45銭で、大盛座東宝劇場があった。大鷲舘はなかった。タバコは、配給であったがマッチも1本づつの割り当であった。
経験上から、当時は避難所も決められていなかったこともあって親との連絡もなかなかとれなかったが、今は避難所も決められているので、その心配はないが、各自が常日頃から、認識しておるかと言うことである。避難所を住民に徹底させるためには、一斉訓練を やるのも一つの方法ではないか。例えぱ、今までの避難訓練は防災の日に浜から逃げてくるのであるが、子ども達は、ウイー一クデーの昼間であれば、学校におるので、子どもと親が確実に連絡とれる避難所を決めて、避難訓練を繰り返し繰り返しやれば、そのことを認識させることができるし、パニック状態をおさえる1方法でもある。
学校としては、地震の際は学校に避難させて、地震が収まってから、状況を見て、集団下校、学校内解散をさせるが、親に渡すことは、考えていない。
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体験談13
私は、当時5才で家族で古江へ行くために、巡航船に乗り込んで出港を待っていた。急に大きな揺れと音がしたので、エンジン音だと思ってそのまま船に乗っていました。津波やということで、大人たちが騒いでいましたが、どうすることも出来ず、そのまま船に乗っていました。しかし、いつの間にか機関長が乗客をほったらかしにして自分だけ逃げてしまっていた。1回目あ津波では、つないであったロープは切れなかったのでそのまま船に乗っていたが、2回目の波で船は陸へ押し上げられて、現在の第3銀行のあたりまで流された。2回目の引き潮のとき竹が道路をせがえていたので、船はそれにひっかかり船が流れなかったので、運よく助かった。
家が野地町にあったので、大鷲舘の横を通って大盛座の前から家に帰った。
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関連文献
・東南海地震体験談集(昭和19年12月7日),尾鷲市立中央公民館,平成7年3月
・昭和十九年十二月七日東南海地震津波 体験談と記録集, 海山町郷土資料館 海山郷土史研究会, 1994.12.7
・昭和十九年十二月七日発生 東南海地震体験談集, 尾鷲市総務課, 1984.12
・津波写真展(パネル展示),尾鷲市役所 郷土資料室,平成14年(2002年)11月