目次
〔I〕伊勢湾台風における水害地形分類と高潮・・・・・1
1.はしがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
2.水害地形分頬図・・・・・・・・・・・・・・・・・3
3.濃美平野の地形・・・・・・・・・・・・・・・・・8
(1)台地・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
(2)扇状地・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
(3)自然堤防・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
(4)河畔砂丘・・・・・・・・・・・・・・・・・11
(5)三角州・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
(6)干拓地・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
(7)埋立地・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
4.高潮の侵入路と地形・・・・・・・・・・・・・・・16
(1)河川にそうもの・・・・・・・・・・・・・・16
(2)澪にそうもの・・・・・・・・・・・・・・・16
(3)旧河道にそうもの・・・・・・・・・・・・・17
(4)堤間低地にそうもの・・・・・・・・・・・・17
(5)街路にそうもの・・・・・・・・・・・・・・18
5.高潮の侵入限界と地形・・・・・・・・・・・・・・18
6.高潮による地形変化・・・・・・・・・・・・・・・19
7.洪水型・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
(1)台地型・・・・・・・・・・・・・・・・・・20
(2)扇状地型・・・・・・・・・・・・・・・・・20
(3)自然堤防・後背湿地型・・・・・・・・・・・20
(4)輪中型・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
(5)デルタ平野型・・・・・・・・・・・・・・・22
(6)干拓地型・・・・・・・・・・・・・・・・・22
(7)埋立地型・・・・・・・・・・・・・・・・・25
(8)海岸平野型・・・・・・・・・・・・・・・・25
8.高潮と河川洪水との比較・・・・・・・・・・・・・25
9.むすび・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・26
-表目次-
第1-1表 地形の分類と定義(国土調査法)・・・・・4
第1-2表 地形の分類と定義(国士調査法)・・・・・4
第1-3表 地形と洪水型・・・・・・・・・・・・・・24
-図目次-
第1-1図 木曽川流域濃尾平野水害地形分類図・・・・6
第1-2図 筑後川流域水害地形分類図・・・・・・・・7
第1-3図 濃美平野における第1れき層の深度分布・・9
第1-4図 木曽川扇状地および自然堤防・・・・・・・10
第1-5図 高須輪中等高線図(高須水利組合)・・・・12
第1-6図 濃美平野遺跡分布図・・・・・・・・・・・13
第1-7図 濃美平野干拓年代図・・・・・・・・・・・14
第1-8図 長島町等高線図・・・・・・・・・・・・・15
第1-9図 木曽岬村洪水状況図・・・・・・・・・・・17
第1-10図 高潮の断面・・・・・・・・・・・・・・・18
第1-11図 桑名北部(後背湿地)の洪水曲線・・・・・20
第1-12図 牧田川洪水状況図・・・・・・・・・・・・21
第1-13図 木曽川船頭平洪水曲線・・・・・・・・・・22
第1-14図 伊勢湾台風による異常潮位曲線・・・・・・22
第1-15図 名古屋市南部浸水状況図・・・・・・・・・23
〔II〕伊勢湾合風高潮被災低湿地の土地利用の現況と問題・・・27
-農村地帯を中心として-
1.まえがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29
2.伊勢湾台風の災害量・・・・・・・・・・・・・・31
(1)一般的概況・・・・・・・・・・・・・・31
(2)農業被害・・・・・・・・・・・・・・・35
3.低地帯の成因と問題・・・・・・・・・・・・・・38
(1)低地帯の開発略史・・・・・・・・・・・38
(2)地盤変動・・・・・・・・・・・・・・・42
4.低地帯における地下水利用の現況と問題・・・・・45
5.低地農業地帯の土地利用現況・・・・・・・・・・47
(1)概況・・・・・・・・・・・・・・・・・47
(2)農業の概要・・・・・・・・・・・・・・49
(3)低地農業地帯の市街地化傾向・・・・・・57
6.低地農業地帯の排水と水利用・・・・・・・・・・58
7.低地農業地帯の復興の問題・・・・・・・・・・・65
8.名古屋市低地の市街地化・・・・・・・・・・・・67
9.高潮対策と関連する沿岸の干拓,埋立計画の問題・・・・71
10.低湿地帯における河川洪水の問題・・・・・・・・・・72
要約・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・74
-表目次-
第2-1表 東海三県被害人員家屋・・・・・・・・・32
第2-2表 東海三県被害額・・・・・・・・・・・・33
第2-3表 全被害額と農林水産被害額(愛知県)・・35
第2-4表 農林水産民間被害額内訳(愛知県)・・・36
第2-5表 全被害額と農林水産被害額(三重県)・・36
第2-6表 農林水産民間被害額内訳(三重県)・・・37
第2-7表 昭和19~21年地震後における一等水準点高の差・・・・43
第2-8表 木曽川水系水源別年間水利用の現況(愛知県)・・・・45
第2-9表 伊勢湾沿岸低地における地下水利用状況・・・・・・・46
第2-10表 農地の概況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
第2-11表 水田区画の状況(1戸当り)(耕地整理前)・・・・・49
第2-12表 経営耕地面積広狭別農家数・・・・・・・・・・・・52
第2-13表 家畜,動力農用機械数・・・・・・・・・・・・・ 52
第2-14表 専業,兼業別農家数の推移(愛知県)・・・・・・・53
第2-15表 農産物生産量と生産額(津島市と海部郡)・・・・・54
第2-16表 愛知県海部郡の米反収の変化・・・・・・・・・・・54
第2-17表 麦類,なたねの収量比較・・・・・・・・・・・・・55
第2-18表 低湿地帯の米生産費の一例・・・・・・・・・・・・56
第2-19表 津島市および海部郡の規模別工場数・・・・・・・・57
第2-20表 海部郡における紡織工場従業者数の増加状況・・・・57
第2-21表 近郊農村と純農村との人口変化・・・・・・・・・・58
第2-22表 排水機設置状況(木曽川下流低地帯)・・・・・・・59
第2-23表 洪水の原因となる降雨の性格・・・・・・・・・・・59
第2-24表 日光川西悪水土地改良区排水ポンプ運転状況・・・・52
第2-25表 名古屋市の人口膨張の推移・・・・・・・・・・・・68
第2-26表 名古屋市内の農家数の推移・・・・・・・・・・・・68
第2-27表 市街地化の著るしい名古屋市西南部低地帯の農業概況・・・69
第2-28表 名古屋市における就業人口と農業就業人口の年令構成との比較・・・69
第2-29表 農地売却代金の使途・・・・・・・・・・・・・・・70
第2-30表 河川洪水位・・・・・・・・・・・・・・・・・・・73
第2-31表 伊勢湾台風時の上流河川の日降雨量・・・・・・・・73
-図目次-
第2-1図 伊勢湾沿岸の浸水状況・・・・・・・・・・・・・・30
第2-2図 干拓地形成略図・・・・・・・・・・・・・・・・・39
第2-3図 木曽,長良川,揖斐川の河道変遷・・・・・・・・・41
第2-4図 愛知県の地盤変動状況・・・・・・・・・・・・・・43
第2-5図 猪高層上限の等深度線(海面下)・・・・・・・・・44
第2-6図 愛知県木曽川平地の水田率・・・・・・・・・・・・50
第2-7図 愛知県木曽川平地の二毛作率・・・・・・・・・・・50
第2-8図 佐屋町大字稲葉附近 A.耕地整理前・・・・・・・・51
B.整理後・・・・・・・・・・51
第2-9図 台風13号による日光川流域湛水状況・・・・・・・・60
第2-10図 1954.8.31~9.3の降雨による日光川流域湛水状況・・61
第2-11図 近年の高潮被害地域略図・・・・・・・・・・・・・61
第2-12図 用水および排水地域区分図・・・・・・・・・・・・63
〔III〕伊勢湾台風による干拓地域の災害に関する考察・・・・・77
1.干拓地域の災害の特徴・・・・・・・・・・・・・・・・・・79
(1)湛水地域の規模にもとづく考察・・・・・・・・・・・79
(2)死者の分布にもとづく考察・・・・・・・・・・・・・80
(a)死傷者を多くした理由・・・・・・・・・・・・・80
(b)農村部の考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・81
2.防潮施設の状態・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83
(1)第1線堤防・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83
(a)海に直面する堤防・・・・・・・・・・・・・・・83
(i)堤防の形態・・・・・・・・・・・・・・・・・83
(ii)破堤の原因・・・・・・・・・・・・・・・・・85
(b)河川堤防・・・・・・・・・・・・・・・・・・・86
(2)第2線堤防・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・86
(a)新干拓の第2線堤防・・・・・・・・・・・・・・・86
(b)明治以前の干拓の第2線堤防・・・・・・・・・・・87
(c)旧干拓堤防の他用途への転用・・・・・・・・・・・89
3.将来の干拓のあり方・・・・・・・・・・・・・・・・・・・89
(1)干拓投資の考え方・・・・・・・・・・・・・・・・・・89
(2)防潮施設のあり方・・・・・・・・・・・・・・・・・・90
(a)既存条件の整理・・・・・・・・・・・・・・・・・90
(b)名四国道予定線を考慮した場合・・・・・・・・・・91
(c)抜本対策との関係・・・・・・・・・・・・・・・・91
(d)第2線堤防の維持管理・・・・・・・・・・・・・・91
(3)干拓と臨海工業用地埋立の関係・・・・・・・・・・・・91
〔I〕伊勢湾台風における水害地形分類と高潮 多田文男 大矢雅彦
1.はしがき
筆者は1954年以来資源調査会土地部会農業水害小委員会の一員として,木曽川流域(資源調査会(1956)水害地域に関する調査研究第1部 付木曽川流域水害地形分類図),筑後川流域(科学技術庁資源局(1958)水害地域に関する調査研究第2部 付筑後川流域水害地形分類図),諫早市周辺(科学技術庁資源局(1959)諫早水害に関する調査一水害地域に関する調査第3部 付諫早市周辺水害地形分類図),石狩川流域(多田文男,大矢雅彦(1959)石狩川流域水害地形分類図 科学技術庁資源局) の水害地形分類図の作製にあたってきた。この水害地形分類図は土地の性質より万一洪水があった時何れの地域がどのような型の被害をうけるかを予想できる地図である。水害地形分類図がこの目的にそうことができるであろうことは理論的に明白であったが,やはり実際の洪水によって実証される必要があった。今時伊勢湾台風による水害は木曽川流域水害地形分類図にとって最大規模かつ高価な実験となった。この時見られた水害の型は水害地型分類図の予想していた洪水の型と一致していた。このことは洪水の型は地形によって決定されることを示すものであり,水害地形分類図を作製しておけば他の地域においても,濃尾平野の場合と同じく,将来おこるかも知れない洪水の型を予想出来ることを示すものである。
以下水害地形分類図について簡単な説明をするとともに濃尾平野の地形と洪水型を高潮を中心として述べたい。
2.水害地形分類図
〔目的〕この図の目的は地形の性質より,万一洪水があった場合,どの地域がどのような型の洪水をうけ,どのような被害をうけるか知ることにある。なぜ地形分類が水害地域の研究に有効であるかと云うと,たとえば平野についてみるならば,日本の平野は大陸の平野が主として構造平野(南北アメリカ大陸の内陸低地やヨーロッパ,ロシアから南イギリスにかけてひろがる大平原などは,ほぼ水平に横わる比較的古い地層が浸蝕面できられている地形である。)であるのとことなり,大部分砂れきが山地より河川によって運搬されて来て海岸にたい積して形成されたたい積平野である。したがって平野の徴細な高低や,砂れきのたい積状態は洪水の歴史を示すものである。逆にこの平野の徴地形を分類することによって,洪水時の冠水の有無,たん水期間の長短,流水の方向,速度,土砂の侵蝕,たい積など洪水の型を知ることができるはずである。
〔土地分類の基準〕土地分類の基準は国土調査法第3条,第2項(総理府令第50号)の地形調査作業規定準則により山地,台地,扇状地および三角洲など成因分類の上に洪水に際しての冠水危険度別の細分を加えることとした。ただし,この地形作業規定は日本全体をもととして作成されているため,地域によってはこの規定のみでは若干不充分な点もあるので,調査対象地域の地形の特色に応じて若干追加した。
国土調査法の規定にしたがえば,第1一1表のようにまず地形を(a)山地,丘陵地(b)台地(c)低地に大分類し,次の台地にあってはこれを構成する物質によって岩石台地,砂れき台地,石灰岩台地,火山灰台地などに区分する。このことは台地という見かけ上の地形は同様であっても構成物質の相違によって地表型態はもちろん表面物質,地表水系および地下水系に大きな相違があつて,土地利用に反映する面が大きく,またこのような相違は洪水時のがけの崩かいの難易の相違の原因ともなり,土地保全に対しても重要な意義をもってくるからである。低地は谷底平野,扇状地,三角洲などに分類し,さらに,(a)いままで通常の洪水で冠水しなかった部分,(b)異状の洪水時に冠水したことのある部分,(c)普通の年の季節的増水時に冠水する部分にそれぞれ分類する。
次にこのようにして分類された地型に附随する地形として裸出砂丘,天井川などは災害をうけやすい地形として土地保全対策上重要な意義をもつ地形であり,自然堤防などは災害をうけやすい地形の中にあっては比較的安全な場所としての意義をもつ地形である。
〔利用〕この図によって,過去におけるその地方の洪水のあり方を推定することが出来るだけでなく,将来破堤氾濫があった場合,堤内地でおこるであろう洪水の状態,すなわち土砂の侵蝕,たい積,流れの方向,速度,たん水深,たん水期間などを図を読むことによって予知できるので,治山治水対策樹立の基礎とすることが出来る。
たとえば木曽川流域水害地形分類図を見ると,木曽川の本川の作っている扇状地,自然堤防は極めて大きく,木曽川はたい積作用のさかんな川で洪水に際して水は本川より周辺へあふれるものであることが分る(第1ー1図)。
これに対し筑後川流域水害地形分類図を見ると本川の扇状地および自然堤防は極めて小さく,支川の扇状地がかなり大きいことがわかる。これは筑後川は本川は侵触作用のさかんな河で支川は土砂流出量が大きく,洪水に際しては水は周辺から本川へ集まってくることがわかり,筑後川の治水には支川にかなり比重をかけなければならないことがわかる(第1ー2図)。
またこの地図でその地形を構成する物質がれき質であるか,でい質であるかも判読出来る。たとえば,扇状地地域はれき質であり、自然堤防地域は主として砂質である。これに対し,後背湿地あるいは三角洲などは主としてシルト,粘土よりなる。
また空中写真の併用によって,それぞれの地形単位における地表近い地下水の状態もある程度推定出来る。たとえば,三角洲,海岸平野などでは地下水は浅くかつ豊富であるが,火山斜面では湧泉以外の地下水はきわめて乏しいのである。
また,この地域で用排水路の設計をする場合,その大網をたてる場合極めて有効である。すなわち,自然堤防,後背湿地,泥炭地などわずかな高低差,砂質が粘土質などの異なった地形の分布状態を知ることは,用排水路建設に極めて必要なことである。また,後背湿地など,たん水範囲が明記してあるため,何mm雨がふれば,大体どの地域にどの位水がたまるかが推定出来,排水機の設置場所や能力を決定するに役立つのである。
このように見てくると,水害地形分類図の作製は,洪水型,被害型の予想に役立つだけではなく,土地保全,土地利用の高度化,用排水計画にも役立つことが明らかとなつたのである。
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3.濃尾平野の地形
濃美平野の地形は木曽川の優勢なたい積と東高西低の地盤運動によって東に高く西に低い地形をしている。
(1)台地
東部には海抜200m以下の波状起伏をなし所謂悪地(Bad Land)をなす尾張丘陵とこれより西へつづく海抜100~30mの上位段丘(八事面,桃山面),海抜57.5m~10mの中位段丘(熱田面)および下位段丘(鳥居松面)の三群の段丘があるが,西部にはほとんどない。このうち中位段丘(関東平野の武蔵野面にあたると考えられる。) はもっとも広く分布し,名古屋市街地の主要部が位置しており,砂,シルトおよび御岳起源と考えられる軽石からなっている。この台地の西側は海蝕崖をなしており,波触台が沖積層下に埋没している。
(2)扇状地
木曽川をはじめとして各河川が濃美平野に出る所には扇状地が発達している。これら扇状地は各河川が洪水のたびに乱流しながら,上流より運搬して来た砂れきをたい積して形成したものであるから,構成物質は砂またはれきで比較的粗い。
木曽川の扇状地はもっとも大きく犬山を頂点として半径12kmに達する。揖斐川のものが10km,糸貫川,藪川のものが8km,長良川のものが6km,牧田川のものが5km,養老山ろくの最大のものが2.5kmと何れも木曽川に較べて小さい。これは木曽川の流域面積(山地)が4624.6km^2であるのに較べて揖斐川が2973.9km^2,長良川が1527.1km^2で木曽川が最大であること,木曽川の流域は侵蝕に弱い安山岩および花崗岩類が多いのに対し,他の諸川は侵蝕に対して比較的強い古生層が多いこと,流域の山地が木曽川ぞいは高くかつ急な山が多いのに対し,揖斐川,長良川ぞいの山地はこれよりは低くかつ緩かであるなどの理由から,木曽川における砂れき運搬量は他の河川に較べて大きい(オランダのデレーケは木曽川の土砂運搬量は揖斐川,長良川の20倍と述べている。)ものとなっており,これに加うるに東高西低の地盤運動のため,木曽川の扇状地は西部諸川のそれにより広く発達したのである。木層川扇状地の基盤(濃美平野第一れき層(水害地域に関する調査研究第1部)も東高西低であって(第1-3図)このれき層より上部の沖積層の厚さは数mにすぎない。したがって,木曽川扇状地はこの東高西低の基盤の上をうすくおおったのであることがわかる。これに対し,沈降地域にあたる長良川扇状地は岐阜北方において,第1れき層までの深さ24mと推定され,長良川扇状地は厚くせまくたい積している。現在は木曽川は堤防で囲まれているため,堤外地では下流へのびて笠松まで達しており,ここを境としてれきから急に砂にうつりかはっており,このため河床勾配がここで折れまがっている。また,最近は上流に多数の堰堤が建設されこのため流送されてくる砂れきが減少したことおよび水が綺麗になって水速がましたと考えられることなどのため,扇状地地域の河床は低下しつつあり,このため,宮田用水は用水取入困難となり,明治40年より昭和25年までの間に3kmも上流に移動した。現在では砂れき堆の上に草がはえつつある。
木曽川の扇状地は砂れきが主として花崗岩および安山岩の系統であるため粒径は粗く,保水能力乏しく,肥沃でなく,旧流路にあたる浅い谷のみ水田となっているのに対し,揖斐川,藪川,糸貫川などは流域が大部分古生層よりなり,花崗岩などより細かく砕けるため,粒径が小さく,保水力もまさりかつ肥沃なため,畑より水田として利用されている所が多い。養老山ろくの扇状地は上記各川の広大さに較べて小さいが急傾斜をなし,扇頂付近はれき径が荒く松林をなすが中腹では美濃山崎以北は桑畑,南部は果樹園となっている(第1ー4図)。
扇状地の末端は何れも地下水豊富で湧泉がみられ,とくに揖斐川,藪川,糸貫川,長良川,牧田川のものは水量豊富でガマとよばれ,農業用水あるいは工業用水に利用されている。赤坂の大理石工場,養老山ろくのワサビ田などこの例である。
(3)自然堤防
扇状地下より下流側になると傾斜も緩くなり,砂れきの量も少なくなり,扇状地に較べると流路も安定して変化も少なくなる。しかし,洪水の度毎に扇状地ではたい積しなかった細い砂などが流れて来て流路にそってたい積するため,自然堤防とよばれる狭長な砂質の徴高地が流路にそつて形成される。自然堤防と自然堤防,自然堤防と台地,自然堤防と扇状地,自然堤防と河畔砂丘,自然堤防と人工堤防の間は後背湿地となり,洪水の際は長期たん水して,シルト(砂と粘土の中間のもの)がたい積する(第1-4図)。
濃美平野では東部に顕著な自然堤防が見られる。これは扇状地の場合と同じ理由にもとづくものである。木曽川系の自然堤防は(i)羽栗村より岐阜市の南東を経て笠松の北部をすぎ柳津から西小熊に至る現在の境川にそうもの,および竹カ鼻町に至るものと,(i)一宮市より萩原経由津島すなわち,日光川にそうものならびに起より下祖父江経由津島に至るものと,(ii)布袋町南方より千秋村,国府町,清洲町から西枇杷島町すなわち,東海道線の東部を青木川にそって南下するものと,布袋町南部より岩倉,西春を経て小田井へ向うものの三群がある。これらの自然堤防は何れもかっての木曽川の本川または派川であって,(i)は1586年までの木曽川の本川および足近川であり,(ii)は黒田川,三之枝川,小信川などの流路であり,(iii)は一之枝川,二之枝川などの旧流路の下流にあたる。もっとも長大なものは一宮北東部より萩原経由津島に至るもので22kmに達する。この他庄内川,長良川,揖斐川にも自然堤防はあるけれども,木曽川のものに較べてはるかに小規模である。
これら自然堤防間,自然堤防と台地との間,自然堤防と扇状地の間,自然堤防と人工堤防の間は後背湿地をなして低く,また地盤隆起によると考えられる浅い谷が刻まれて自然堤防の比高を高めている。これら自然境防は土地が高く砂質で乾燥しているので主として,畑,道路,集落などに利用されている。葉栗村より岐阜を経て竹カ鼻,西小熊に至る自然堤防と,一宮および起より津島に至る自然堤防および庄内川の自然堤防は主として桑畑に利用されているが,一宮より清洲に至るものは蔬菜畑(大根,ホーレン草など)に利用され,名古屋市の蔬菜供給地帯で,三毛作が行なわれているところもある。これに対し,後背湿地はシルトからなり,排水もよくないので水田として利用されている。また後背湿地には部分的には泥炭あるいは泥炭質土も見られるが関東平野に較べるとずっと少ない。
(4)河畔砂丘
木曽川には本邦の河川としては珍らしく河畔砂丘が発達する。著るしいものは木曽川町,起町南部,祖父江町などである。これらの砂丘は全部木曽川の左岸側に位置する。これは冬季との地方は北西の風が強く,また水位が低下して広く河原があらわれるので,砂が吹きあげられて,河の右岸すなわち,東側にたい積したものである。砂丘を構成している砂は細かい。現在は砂丘は松で固定してあるが,風で侵蝕されつつあり,松の根が露出している。この砂丘は堤防の役を果たしているので,砂丘の変化には注意を要する。
(5)三角州
河川が海に達すると今まで運んで来た土砂を河口にたい積して海を浅くし,ついにそこを陸化して三角洲をつくる。したがって,ここは自然堤防もはっきりせず,極めて低平である。濃美平野では今尾町,甚目寺町を結ぶ線以南はこの三角洲の地帯にあたる。この線より南は恒常的沈下地域であって,これより南と北とではかなり高度に著るしい差がある。高須輪中について見ても第1ー5図のごとく南部は海抜0~50cmであるのに対し,北部は海抜50~320cmと著るしく高くなっている。また地表面下以内に含貝層のみられるのは南部であり,北部は貝を含まぬばかりか,しばしば厚い泥炭質土層をもっており,また南部には弥生式遺跡の分布がなくなるが,北部には多数の遺跡が見られ(第1-6図),北部の海西村,今尾町には旧海岸たい積物と考えられる粗粒の砂からなる高燥地があり条理の遺構も若干の例外はあるが,大体以北にあることなどより,この線は歴史時代の海岸線と考えられる。
三角洲の表面は極めて平坦で最小勾配は1/5000に達し,排水が困難である。しかし,木曽川の現河道にそう部分は1/2000~1/3000の勾配をもって高まっている。これは歴史時代以後における木曽川,長良川のたい積地形であり,砂上,砂じよう土からなっている。この地域の砂の鉱物組成をくらべてみると,木曽川系と考えられるのは,長島の痛村,長島村から鍋田川以東であって,ここで木曽川が南東方面へ土砂を流したことがわかり木曽岬村,伊曽島村,および長島村南部は長良川系あるいは揖斐川系たい積物よりなっている。このように津島以南においては,善太川,筏川,など木曽川の派川が地盤沈下帯にそって南東へ流れるため,これらの河川にそって新しい自然堤防が東西方向に出来たため,只でさえ低平な平野はこれら自然堤防によって盆地状を呈し,排水を困難にしている。
濃美平野の沖積層は第1れき層の上に下部砂層(河口付近の厚さ10m以下),粘土層(河口付近の厚さ20~25m含貝層)上部砂層(河口付近の厚さ13m貝含層),泥炭質上,シルト層(河口付近の厚さ5m以下)の各層がたい積している。下部砂層は河口付近では欠いている所があるが,層厚は大体北東に向うにしたがって滅じ,中島郡長岡村で1~2m,起町でも1m前後である。
河口付近でもっとも厚い粘土層は40mに達するが,北東に向うにしたがって長岡村で17m,濃美大橋で15m位となり次第に砂質となる。この状態は萩原町。稲沢町でも認められる。この層は河口付近では少くも上部より海西下20m付近までは含貝層と含植物層との互層であるが,濃美大橋付近でも海面下10~20mにかけてトリガイ,オオノガイ,マテガイ,ハナツメタ,ウラカガミなど貝化石を含む点からみて,この粘土層は海面上昇期におけるデルタ状湿地または浅海性たい積層であることがわかる。
上部砂層は下部砂層,粘土層とことなって北東へ向って層厚を増す傾向がある。この層は海部郡南部では貝を含む浅海性たい積物であるが,西春日井郡西春村などでは細砂れき層を含み一宮市内にかいてはかなり大きいれき層を含み、扇状地性の陸上たい積の状態を示し,現地表面勾配の基礎をなしている。
上部砂層の表面には1~2mの谷状凹地があり,その部分およびその附近の比較的広い範囲に,厚さ1m前後の泥炭質土がたい積しており,しばしば弥生式中期,前期の遺跡を含む場合がある。この状態はB.C-A.Dごろの小隆起と沈下(海面上昇)を示すものである。この層の上にシルト、砂層が2~3mあり,表土層となっている。
(6)干拓地
木曽川河口から名古屋港にかけては大きな干拓地がみられる(第1-7図)。関西線にそう旧東海道以南は大部分近世の干拓地であって,慶長の頃はこの街道以南は海岸の湿地であった。その後僅か300年たらずの間に南の方へ8000~4000mものびたのである。速度は木曽川河口で192年間に8500m(44m/1年),庄内川河口で179年間に5000m(28m/1年),天白川で83年間に約2500m(30m/1年)であって,木曽川が最大である。木曽川の河口附近は地盤沈下地域であるが,それにも拘らず土地がふえていくのであるから,木曽川の河口での土砂のたい積がいかに大きいかがわかる。しかし,との干拓地の生長は各時期を通じて一様におこなわれたのではなくて,いちぢるしく生長した時もあればほとんど停止していたときもあった。干拓のいちぢるしくすすんだのは木曽川河口では寛永より元禄(1624~1703年)までと享和より天保(1801~1843年)までであり,名古屋市南部では正徳より宝暦(1711~1750年)までと寛政より天保(1789~1843年)までで明治36年(1903年)以降は埋立地が著るしくのびている。
このように場所によって干拓地の生長する速度がことなったり,あるいは時代によってことなったりするのはその地域の河川の土砂運搬およびたい積量の大小,海底の浅深,潮汐干満の大小,沿岸流の状態などの自然条件のことなることと,経済社会条件の相違などによっておこるのである。現地では濃美平野の干拓は有明海などに比べて自然条件は必ずしもよくない。干拓はかなり高価なものとなっている。
この干拓地の高度は極めて低く大部分0m以下で,-1m以下の所もある。したがって満潮時には大部分が海面下になってしまう。逆潮かんがいはこのような所で行なわれて来た。
また干拓地は極めて低平であるが,川ぞいの旧破堤口付近が僅かに高くなっている(第1-8図。)したがって,干拓地は一つの盆地状を呈している。筑後川の干拓地はこれと逆に川ぞいが低くなっている。
(7)埋立地
各古屋港に面する地域は明治以降の埋立地であって,背後の干拓地よりは高度も高く,海抜1.5m~3.5mである。ここは大部分工場用地または埠頭として造成されたもので,防潮堤および護岸で囲まれている。周辺は運河または海面でとりかこまれる。
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4.高潮の侵入路と地形
伊勢湾北岸は全面的に高潮におそわれ,潮位は名古屋港で3.89mに達した。しかし,高潮の内陸への侵入の状態は地形によって著るしくことなっており,高潮の主な侵入路も地形によって推定出来ることが明らかとなった。
(1)河川にそうもの
伊勢湾北岸には木曽川,長良川,揖斐川などの大河川のほか,庄内川,日光川,天白川,などの小河川および中川運河,掘河などの運河がある。これらの河川および運河は高潮にとってもっとも容易な侵入路となり,木曽川,長良川では河口より24kmもへだたった成戸でなお1mの比高をもっており,速度も速やく,成戸・船頭平間12kmの間で最高水位の伝播速度は木曽川で5m/sec,長良川で8m/secに達している。堤防一つをへだてている平行な両河川で洪水波の伝播速度にこのような差の見うけられる一つの理由は,木曽川は土砂堆積量が多く,浅くなっているためで,平常の感潮限界も木曽川より長良川の方が奥まで達している。日光川は河口がラッパ状に拡がっており,高潮は日光川およびその支川の善太川をさかのぼり,それより河川堤を破って海水は津島に達した。名古屋市周辺の運河も高潮にとって好都合な侵入路となり,掘河を溯つた高潮は熱田台地にそってかなり内陸部まで侵入,右岸側にかなりあふれた。海岸をのりこえた高潮に較べて速度も速やく,内陸への侵入はほとんど見られなかった。掘河に閘門を作る計画があるが,中川運河の例から考えれば高潮に対しては効果があると思われる。知多半島基部の干拓地にはノリ採集用の船のための運河があるが高潮はここより侵入,最奥で周辺部へあふれだしている。
(2)澪にそうもの
水路部の調査によれば,澪筋にあたる所がとくに破堤しているとされている。この澪筋は海から干拓地内部までつずいており,高潮はこの澪にそって速やくすすんだ。この現象は鍋田干拓などでとくに著るしく認められた。このことは水害地形分類図の干拓地および干潟に澪を記入することが有意義であることを示すものである。
(3)旧河道にそうもの
木曽岬村ではほぼ中央を北より南南東へ帯状に新しい干拓地がつずいている。これは旧河道であって,周辺部より遅く陸化した所である。また南部に東西へ帯状の新期干拓地がある。これも最近まで川であった所である。南部より侵入した高潮はもっとも速やくこの新干拓地すなわち,旧河道にそってすすみ,左右へあふれた(第1-9図)。
長島町では水路,池沼は最近数年間にほとんど木曽川の砂によって埋められ,耕地化していた。しかし,今回の洪水に際し,高潮はこれらの水路をつたわって,内陸部へすすんだ。
(4)堤間低地にそろもの
長島は木曽川と長良川とにはさまれた細長い島で,周辺を堤防でかこまれている。南部より侵入した高潮はこの提防の間を川のように周辺へあふれることなく北上した。これは木曽川,長良川がともに天井川化しているためである。
このような現象は各古屋市東部の山崎川,大江川間および大江川,天白川間の低地でも見られ,西部より侵入した水はこれらの堤防の間を東方へすすんだ。
(5)街路にそうもの
桑名市および名古屋市南部で直接高潮におそわれた市街地では,高潮は街路にそってかなり方向をかえながらすすんでいる。
また市街地の一部では下水にそって内部に海水がふき出した所もある。
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5.高潮の侵入限界と地形
高潮の高さは名古屋港において中等潮位上3.89mに達したが内陸部へ行くにしたがって急速に滅じ,海抜0m前後で消えさるという興味ある事実を認めた。
高潮は海岸をのりこえて暫くの間はかなりの水深と速度をもっているが,急速に水深を減じ,海抜0m~1m,部分的には海抜0m~1mの所で消えさり,それから内陸へは、破堤口より海水が満潮に乗じて徐々に侵入して行っているにすぎない(第1-10図)。しかも,この高潮が消滅した線は干拓地の北端すなわち1600年またはそれ以前の海岸線であった所である。それより内陸へは破堤口から海水が徐々に浸入して行ったのであって,ここでは水深も浅く,流速もおそいのである。そして,この海水の到達限界はデルタの北端すなわち,自然堤防地帯の南端で停まっており、浸水限界と地形界との明瞭な一致を見ることが出来た。津島市はこのデルタの北限に位置しており,津島市南部へは27日,東部へは28日になって漸く侵入している。
高潮が上陸した時常識的に考えればその海岸での高さすなわち,伊勢湾台風の場合ならば3.89mの高さの所まで水が達するわけであるが,実際には急速に水深を減じ,海抜0m前後で終わっているのである。また破堤口よりの海水の浸入限界がデルタの北限,すなわち先史時代から歴史時代にかけての海岸線と一致していた。これらの重要な事実は今回の高潮だけに見られるだけでなく,かってこの地方をおそった何回もの高潮たとえば1889年,1896年および1912年にも見られたことが当時の浸水状況図から判断出来,さらに昭和2年の熊本地方の高潮,昭和9年の室戸台風の時の高潮でも見られたことである。
このように見てくると,高潮の侵入限界は地形で推定出来るから,水害地形分類図は単に河川の洪水に対して有効であるばかりでなく,高潮の洪水に対しても有効であると云うことが出来よう。
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6.高潮による地形変化
従来洪水と云うと莫大な砂れきのたい積をともなうのが普通のように考えられていた。しかし,今回の洪水ではほとんどたい積はみられず,侵蝕の方が著るしかった。
名古屋市について見るともっともたい積の著るしかつたのは掘河の右岸の千年町付近で,所謂へドロが数十糎たい積した。その他は極めて少なく2~3cmであった。名古屋港周辺でこのたい積した泥を見るとこれは海底の泥であった。このように海岸に泥のたい積が少なく,河をさかのぼった所に多い一つの原因は港では岸壁の水深が急にふかくなるのに対し,川では徐々に浅くなるためと思われる。
侵触はかなり著るしく,破堤口付近および堤防などで高潮の通入路が狭さく部となっている所でおこった。破提口付近には落掘が形成された。とくに海岸堤の落掘が深く大きかった。これは高潮の流速が速いのと,その後の干満の際侵蝕するためである。落掘の深さは鍋田干拓南部で9~10m,長島南部で6m,鎌カ池の旧干拓堤でも3~6mに達した。
長島は北部で幅が広く(2000m),中央部で幅がせまく(800m),南部ではまた広い(1500m)。そして,島の周辺は堤防にかこまれている。今回高潮は南部および南西部より侵入したが,侵入した高潮は北上するにしたがって,堤防の間がせまくなるため流速が速やくなり,ここでは侵蝕をおこした。とくに早期栽培の行なわれていた所は耕土がほりかえしてあったために表土が15cm位流失した。そうでないところでも1~数cm広範囲にわたって流失した。島の中央部でとくに浸蝕が著るしかったのは南部に較べて表面の土の粒子の細かいことも関係するが,主として高潮の通路がここで狭くなっていることにもよる。長島の地盤高は昭和24年の木曽川用水設計当時の測量では北部がもっとも高く-0.2m~-0.8mであり,中央部がもっとも低く-1.0m~-1.2mで,南部はやや高く-0.4m~-1.0mである。この地方には堤防が築かれたのち数回の高潮および河川洪水があった。高潮は南部より河川洪水は北部より侵入しているが,何れにしても中央部は狭さく部となっているのでここを侵蝕し,南部および北部へ泥をたい積することになる。このように長島の地盤高は洪水時の侵触,たい積でも説明がつくのである。
木曽岬村では中央部に南北に新しく干拓された地域が帯状にのび,その左右は旧干拓堤で集落が発達している。この新しい干拓地はかっての水路であり,今回も高潮はここをつたわって北上した。ところがこの部分は南部および北部では幅約500mであるが,中央部の西対海地および東対海地間は約100mにすぎず,ここが狭さく部となったため,ここでもっとも著るしく侵触し,耕土の流失がめだった。
7.洪水型
(1)台地型
名古屋市の主要部は台地をしめる。ここには高潮は達せず,したがって風による被害のほかは下水がつまって内水が牛巻町その他で氾濫したが,大部分床下浸水でおわった。
(2)扇状地型
岐阜市は長良川の形成する扇状地に位置しており,今回の洪水に際し,長良橋付近は一時かなり浸水したが水のひき方は速やく,川の水位低下とともにひいてしまった。一部では岸欠潰がおこった。藪川,糸貫川でも若干欠潰が見られた。普通扇状地の洪水は激しい侵触とたい積がおこるのであるが,今回は破提氾濫がなく,上流に出来た多数のダム群が砂れきの流出をさまたげているため,扇状地形成の過程は見られず,破かいの過程だけ見られた。
(3)自然堤防・後背湿地型
桑名市は一部揖斐川の自然提防,一部町屋川の自然堤防に位置しているが,自然堤防の部分を高潮はこえて後背湿地にたん水した。自然堤防の部分では流速は速やく,27日には全部排水した。後背湿地でのたん水は長期にわたり,10日に達した。
名古屋市の西区の南部および中村区は庄内川の自然堤防と熱田台地およびその波蝕台にかこまれる後背湿地からなっていて,自然堤防ではたん水していないが後背湿地の中央部では最大90cmたん水日数3日に達している。床内川をへだてた枇杷島付近でも自然堤防はたん水せず,自然堤防上に降った水は後背湿地にあつまり,排水路あるいはデルタへと流下した。
(4)輪中型
輪中で破堤したのは多芸輪中と七郷輪中である。多芸輪中は9個の輪中と最近干拓された下池からなっており,旧輪中堤は残っている所が多く,またこれらの輪中堤は自然堤防上に作られている場合が多い。したがって,このような所で破堤氾濫があると破口堤をもった輪中内は急速に浸水するが,次の輪中へは最初の輪中をみたしてのちはじめて浸水し,これをくりかえしながら次第に浸水範囲を拡大して行くのである。1952年6月24日台風ダイナによる降雨で,長良川堤が海西村で切れた時もこの例で,輪中堤ごとにとめられ,最後に海西村に至って長くたん水した。今回の洪水でも多芸輪中ではこの型が見られるはずであつたが,8月13日におそった7号台風の時の洪水で今回と同じ場所の根古地で破堤しており,その浸水で旧輪中堤が破堤したままになっていたので,この現象はやや減殺され,7号台風の時よりは速やかに氾濫区域が拡がり,破堤口の根古地より,駒野新田あるいは岩道まで洪水が達するに要する時間は1/2となっている。洪水の先端は数10cmの滝をなして流れて来たといわれる。7号台風に較べて河川の方は水位が高かったが,氾濫した方の水位は低かった。これは破堤が7号台風の時は根古地一力所であったのが,伊勢湾台風の時は下流の各所で破堤したためと思われる。水深は輪中によってことなり,根古地以南の三角洲地域の輪中は水深4mに達するが,上之郷,下笠など自然堤防付近では2.75m~1mで,島ヵ口,三ッ屋など扇状地の地域では1m以下であった。避難命令が7号台風の経験から速く出されており,全員避難したため被害はなかった。たん水期間が長かったので水稲は全滅した。
(5)デルタ平野型
猛烈な速力と深い水深をもった高潮によつて破られた堤から徐々に海水が侵入,デルタの北端すなわち,津島市に到達した。浸水は極めて緩で津島市東部へ浸水して来たのが27日,南部へ浸水したのが28日もっとも市内へ深く侵入したのが10月3日の大潮の時で11月17日まで長く干満をくりかえした。
10月3日の大潮満潮位の時も市街の西半分は浸水せず,空から見ると津島市は海中に突出した岬に立地しているかのようであった。津島市の位置している所,すなわち,デルタの北限は先史時代から歴史時代にかけての海岸線であって,今回はそれを復元したことになり,地形界と洪水型の限界との一致が見られた。このことは過去の洪水についてもいえることであって,1889年,1896年,1912年にこの地方をおそった高潮による海水の浸入範囲もほぼ津島の線であった。このことは更にほかの平野についてもいえることと思われる。洪水の速度がおそいので侵触などの被害は皆無であったが,海水のたん水が長期であったため,水稲は穂を出している所もあったが,収獲はほとんどなかった。塩害もあるが,河川水もまじったため干拓地ほどではない。
(6)干拓地型
干拓地は今回の洪水でもっとも著るしい被害をうけた所である。この地域は全域にわたって猛列な速度と深い水深をもつ高潮におそわれた地域でたん水も長期にわたり,被害はもっとも大きかった。この干拓地の洪水は,1650年以前に造成された旧期のものと,1651年以後に造成された新期のものとに分けることが出来る。旧期の干拓地はもっとも内陸側に位置し,旧期の干拓地はもっとも内陸側に位置し,海に直面せず,したがって,高潮におそわれているがその速度もややおそく,水深もやや浅く(300cm以下),たん水も16~50日である。したがって,家屋の流水,著るしい水田の侵触などは見られなくなる。ところが新しい干拓地では高潮をまともにうけるため,侵触がはなはだしく,浸水深も深く,5.7m~3mに違し,たん水も長期にわたり,50日~80日の長期に達している。この地域の洪水は旧干拓堤の残されている所ではかなり高潮の勢力を減殺しており,鍋田干拓の背後,城南干拓の背後はその例であり,旧干拓堤をくずして宅地化してしまった飛島村,長島町ではこの効果が滅殺されている。塩害は干拓地全域にわたっていちじるしい。
名古屋市南部は海側に埋立地をもつため,高潮はこの埋立地をのりこえて滝のように干拓地へ流入した。この干拓地は前面を埋立地,両側を自然堤防にかこまれ,満潮位面下であり,排水機の故障も多かったため長期にわたってたん水した。ここは元来は農業用干拓地であったけれども,現在の浸水をうけただけで直接の被害はほとんは市街地となり,工場およびそれに附随する住宅が多かった。長期たん水のため住宅は孤立し,救助活動は困難を極め,また工場で水防対策の不充分なものは海水によってモーターなど重要機械類の損害が大きく,紡績工場,倉庫などでは在庫品に大きな被害があった。しかし,この干拓地内のある工場では室戸台風による阪神地方の経験を生かして工場の全敷地を2mもあげており,更に1.5mの防潮堤がつくられ,掘河ぞいには昔の水防林である竹藪が残してあり,機械はボルトをはずして上へ吊り上げることが出来るようになっていた。このため一時的に1m以下の浸水をうけただけで直接の被害はほとんどうけなかった。竹藪ではゴミのついている浪跡から見ると河側と内陸側とではかなりの水位差があり,効果のあったことが伺える。このほかパイプなど浸水しても被害のないものを下へおきモーターなどを上におくなどの工夫のしてあるのもあり,今後の干拓地での工場のあり方を示しているものと思われる。
(7)埋立地型
名古屋南部の埋立地では高潮を正面よりうけるため,流勢は猛烈で水位上昇速度も速く,築三町では床上浸水開始より軒下に達するまで僅か3分であった。流速も速く,6.7m/secにした。更にこの激流中に流木を多数混んじていたため,家屋の破壊,流失,道路,岸壁の侵蝕が著るしかった。侵触は埋立地の内陸側の水路に面した所の方が,海側に面した所より著るしく,築三町では電車通りより北側全部が幅20m以上削られて大被害をおこした。たい積は道路などで侵蝕された部分の砂が,その前面にたい積した所をのぞいてはほとんどなく,高潮により泥土の運搬たい積はほとんどなかった。排水は速く翌朝にはほとんどひいてしまった(第1-15図)。
(8)海岸平野型
桑名以西の海岸平野では,高潮は海岸の砂堆をこえて背後の低地へ海岸より2km入った。ここでも高潮は地面との摩擦などでかなり低い所で消滅している。内陸の1km位は3時間位ですぐひいてしまっており,それより海岸側が20日間にわたってたん水した。ここでは高潮の侵入速度とともに引く時の速度が大であった。このことは他の地域では見られなかったことであり,引く時の侵蝕がかなり見られた。浸水の際は海岸より一勢に入ったが,引くときは水は数個所へ集ってそれから海へ排水した。
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8.高潮と河川洪水との比較
今回の水害が一部をのぞいて高潮によって発生したものであることは極めて明らかである。河川による洪水と較べて多くの点で相違が見られた。
1)浸水範囲が極めて広範囲にわたり,東は渥美半島から西は紀伊半島までのほとんど全部の海岸が浸水した。
2)内陸部への到達限界は三角洲の末端付近で,海抜高度1m前後であり,それより内部の自然堤防,後背湿地,扇状地および台地の地域ではほとんど被害がなく,三角洲地帯と著るしい対照をなした。
3)高潮の速度は極めて速やく,このため,家屋の倒壊,流失がめだち,かつ,海岸には木場が多いため,流木が著るしかった。
4)高潮による破堤口より海水が干満に応じて出入したため,満潮位下の地域では長期間にわたってたん水した。
5)全般に侵蝕作用が著るしく,たい積はほとんど見られなかった。破堤口附近では堤防の内側に落掘をつくり,その周辺に堤防の土をたい積した。落掘は極めて深く,鍋田干拓地では10mに達するものがあり,長島では6m位のものが多かった。名古屋市内では港付近で1~数cmの泥のたい積があったが,これは名古屋港底のものでは家屋の壁土などであった。掘川ぞいには若干掘河の泥がたい積した。名古屋以西の水田地帯では高潮および干満による耕土の流出がめだった。
6)海水の及んだ範囲とくに干拓地では塩害が著るしかった。
9.むすび
今回の水害によって,水害地形分類図はたんに河川の洪水に対してばかりでなく,高潮の洪水型の予想にも役立つことが明らかとなった。三角洲内の土地の性質の差すなわち,埋立地,干拓地,三角洲平野などの相違によって,高潮による洪水型が定まってくることがわかった。したがって今後の水害地形分類図作製には干拓地と埋立地の区分を必要とする。また高潮の到達限界および海水の到達限界が,それぞれ干拓地および三角洲平野の内陸側の限界の予想に水害地形分類図が有効であることを示すものである。
〔II〕伊勢湾台風高潮被災低湿地の土地利用の現況と問題-農村地帯を中心として-太田更一
1.まえがき
伊勢湾台風による高潮の広地域にわたる長期湛水は,この台風被害が最近の他の台風にみられない大きい特徽であり,またその被害の激甚さは例をみないところである。
台風や高潮の自然現象的な解説や検討は,他の部面で行なわれるであろうから,ことさらこれを述べないが,この高潮がこの地帯における記録にない空前ともいわれる大規模なものであった。災害はそのために起ったものであるにちがいないが,この木曽川河口附近から名古屋南部一帯の約15kmの海岸地帯が,奥行5~10kmの間の土地は標高零米以下か,満潮海面水位より低い土地であったためである。
そのため海岸と河口近くの弱体な河川堤防が各所に寸断され,浸入した海水は堤防の締切と多数のポンプによる排水作業が完了するまで次のように長期間この低地に湛水した。
しかも,ここが海面下の低地であることに,ほとんどの人々が,その時まで気付いていない。
そのため,10月26日の被災後,水が引かないことを奇異に思った人がほとんどであった。新聞にあらわれた多くの記事がこれを裏付けている。また,ここに住む人々のうち,海岸から遠く離れた地域の人々にとっては,全く想像をこえたことであり,過半が水につかった津島市民は,ここが海岸から14~15kmの奥地であるため,全く思いいたることもなかった。
この湛水地帯が,このような低地であることに災害の問題があり防災の対策は低地であることの認識に立って解決をはかる必要がある。
また,このような低地は,単にこの地域だけでなく,日本の土地開発の歴史的過程から全国各地に存在する。これらの低地は,多くの場合旧幕時代から水田開発のために人工的に造成されたところであった。後述するように旧藩時代の水田造成のためにつくられた干拓地は11,780haにも及んで,その一部が名古屋市内の市街地に存在している。東京,大阪,その他の市街地にもこうした低地が多く,この低地の市街地化は顕著に進んでいることに注目しなければならない。
浸水の地域は図に示すように,愛知・三重の海岸地帯に広く分布しているが,ここでは主として問題を木曽川下流地帯から名古屋市に至る最も被害が激甚であった地域を中心としてかんがえてみたい。
いま,この地域を含む,長期浸水地域の面積をみると次のとおりである。
名古屋市8,440ha(海の埋地990haを除く)
名古屋市のうち港区南陽町1,560ha(全域)
名古屋市のうち中川区富田町690ha(富田町の面積1,540haのうち)
海部郡(津島市内及び名古屋市に接続する知多海外を含む)13,280ha(うち知多海岸480ha鍋田干拓640ha)
愛知県計 21,720ha
三重県木曽岬村 960ha
〃 長島町 2,030ha
〃 桑名市(城南干拓190haを含む。)680ha
三重県計 3,670ha
合 計 25,390ha
このほか三重県桑名郡七取村および岐阜県養老町(2,800ha)に長期湛水地域があるが,河川の破堤による湛水であり,これらは一応対象外とした。
長期湛水地域の内6,190haが南陽町,富田町を除く名古屋市の市街地である。
このように,長期湛水地域は約25,000haに及んでいるが,ここでは主としてこのような低地の実態を分析し,今後長期の防災計画を樹立する手がかりの一環として,土地利用のすすめ方の検討の素材を提供するために分析を試みたものである。
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2.伊勢湾台風の災害量
(1)一般的概況
伊勢湾台風による東海三県の被害は第2-1表,第2-2表のとおりである。まず人的被害が過去のどの災害をもこえるものであるが,この表から死者4,330人,行方不明359人計4,689人,負傷者32,765人と大きいことがわかる。このうち,名古屋市が死者,行方不明者あわせて1,925人と全体の41%にのぼっている。
これは高潮被害によるもの,洪水によるもの,および風による家屋倒壊によるものを含むのであるが,名古屋市港区,南区,半田市,四日市市,桑名市,桑名郡木曽岬村,長島町の死者と行方不明者の多くが高潮によるものとみればその合計は,3,968人と全体の90%もしめている。人的被害の大部分が高潮被害にある。とくに一地域で大きいのは名古屋市南区で死者1,415人,行方不明73人,計1,488人と名古屋市の82%に及ぶのは貯木場の大量の大型木材が高潮に乗って附近の住宅地帯へ侵入し家屋を破壊し去ったためである。
家屋被害も全壊が3県合計で32,017戸にのぼっている。これは多くは風のためであるが,高潮によるものも存在するだろう。これの分離は困難である。愛知県の流失3,209戸の多くは高潮侵入によるもので,愛知県だけをみると名古屋市,半田市,海部郡で2,547戸と79%に及んでいる。
家屋への浸水は床上95,057戸,床下106,838戸,半壊119,838戸の外一部破損も極めて多く風と洪水,高潮のひどさをあらわしている。
次に人命を除いた被害全額は3県の合計4,832億円に達している。3県の割合は愛知県62%(名古屋市26%)三重県28%,岐阜県10%と愛知県が圧倒的に多い。愛知県のうちの名古屋市は41%を占めている。
被害総額のうち公共被害は19%で,民間の被害が81%であることは今回の被害の一つの特色でもある。
公共被害905億円のうち土木彼害が62%,農地被害が12%で農地被害の少ないのも特色である。
民間被害3,927億円のらち,家屋被害が60%,商工被害が22%,農林被害が17%となっている。
民間の農林業漁被害は3県の合計668億でそのうち農業62%,林業24%,漁業14%,となる。
商工被害は被害そのものの外に休業による損失もあるが,一部長期湛水地域を除いては,好景気を反映して回復は早かったが,とくに農業では長期海水侵入のための耕地の荒廃や水田裏作の作付不能等の直接被害額以外の損失は少なくない。
(2)農業被害
湛水地域のみの況状を数字的に明らかにできないので各県毎に,検討を加える。
まず,愛知県については(昭和34.12.22現在)の概数は次のとおりである。
すなわち,農林水産公共施設については総被害額の25%であるが,民間被害については16%で,この地帯の被害が市街地に大きかったことを示している。
公共施設被害のうち土木被害は372億円(57%)である。そのらち,河川150億,海岸118億,計268億と土木被害の72%を占める。
農地関係被害のらち,干拓,開墾施設が126.6億円で,全被害の84%で,これに愛知用水事業の被害77,578千円を加えたものが127.3億円となり,既存農地に対するものは24.8億円と農地被害の16%であり,公共施設被害の3.8%にすぎない。河川洪水の被害と性格が著るしく異っている。
農林水産の総被害のうち,民間被害71%,公共被害29%であるが干拓等の施設を除いてみると大部分(97%)が民間被害となる。
次に農林水産の民間被害の内訳は次のとおりである。
このように,農産物被害が最も多く47%でそのうち水稲の被害が60%に及んでいる。次いで林業の21%,農用施設の17%である。
これを施設等と生産物等(家畜,林木を含む)に分けると,施設が158億円(39%)で,生産物等が245億(61%)である。また公共,民間をあわせ施設の被害は339.16億円と農林被害総額584.48億円の58%となる。
三重県の場合を昭和34年11月10日の県資料に基づいて,愛知県の形に集計しなおしてみると次のとおりである。
すなわち,この内訳の割合は愛知県の場合とほとんどかわりない。すなわち公共施設の23%(愛知25%),民間被害は愛知県の場合同様16%である。
公共施設のうち,農地,林地,水産の関係が愛知県と異なり,開拓,干拓が農地の3%にすぎない。(城南干拓の堤防が建設省所管の海岸と河川堤となって木土災害に含まれている。)したがって一般既耕地の施設の災害が大きい。これは,三重県ではこの低地だけでなく河川による洪水氾濫が各地にあり,被害を受けたためでもある。また荒廃山地が多いので林地の公共被害が多いのが目立っている。漁港は愛知県と差がない。
民間の被害についてみると次のとおりである。
このように,三重県では水産被害が大きい。その内訳は,漁港や民間施設では愛知県とあまり金額の差はないが,生産物のうち,真珠被害が54億円と82%も占めるためである。
農産物被害のうち水稲が64%を占めているのは愛知県と同様である。
このようにみると生産物被害は水産が最も大きく,次に農作物と林業の順になる。
農林水産被害313.83億円のうち,公共民間あわせた施設被害は158.57億円(51%)である。
以上愛知,三重の被害の内容は三重県の真珠被害に特異性がある以外はほぼ同じ傾向を示している。すなわち農林水産被害では
1)民間被害がほぼ70%を占めている。
2)農作物被害では水稲が60%以上を占める。
この直接被害の外に農業では長期海水の湛水により,土壌の悪化,裏作の作付不能,除塩作業等が更に加わっている。
さらに,この低地農村地帯の被害の大きい特徴は,
1)人命の被害が大きかった。
2)農家の住宅に長期浸水し,生活の根拠が失われた。
3)農作物と中小家畜がほとんど全滅した。
4)除塩作業のため用水の不時の確保が必要になった。
等をあげることができる。
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3.低地帯の成因と問題
(1)低地帯の開発略史
木曽川水系と庄内川河口地帯に広がる約25,000haの高潮による長期浸水被害地帯は,地盤が満潮海面以下である。
この大部分は上記河川が上流から洪水時に土砂を流下させて形成された三角洲か,遠浅の海面をそのまま干拓して水田を造成したところである。
したがって,そこのほとんどが自然に陸地化したところではなく,人工的に陸化したところである。
第2-2図に示すように,この干拓地の開発は1600年の初めから行なわれていた。
まず,この干拓地の面積をみると次のとおりである。
名古屋市 4,810ha(うち南陽町全域1,570ha,南陽町を除いて3,240ha,他に埋立地990haあり)
愛知県海部郡 5,200ha(鍋田干拓640haを含む)
愛知県知多郡 480ha(伊勢湾のみ)
小計 10,010ha
三重県木曽岬村 960ha
〃 長島村 970ha
〃 桑名市 180ha(城南干拓)
小計 2,110ha
合計 12,120ha(外に名古屋市埋立地990ha)
このように12,120haの干拓地と990haの埋立地の合計13,180haが1600年以降に造成された陸地で,埋立地を除いては水田造成のためである。
このうち11,300ha(86%)が旧藩時代の造成になるものである。
水田目的につくられたこの低湿地帯のうちでは,南陽町を除いた3,240haの大部分が市街地化している。
この干拓地は,全部今回の高潮被災の激甚地であって,総湛水面積25,390haのうち48%になっている。
この干拓地の成立は旧藩時代,三重県を除いた9,370haは尾張藩に属して,その時代に開発されたものである。その開発史をここに述べることはできないが,まず尾張藩成立前,すなわち1600年以前の木曽川水系の姿のあらましを知っておく必要がある。
この時代には,河川堤はなく,濃美平野に入った木曽川,長良川,揖斐川と庄内川は,第2-3図のように,この低地を乱流していた。
現在の日光川,新川および木津用水,宮田用水の幹線水路の一部も当時の木曽川河道派川の一部であったといわれている。また,当時木曽の山地は著るしく荒廃していたといわれ,洪水による土砂流下も少くなかったであろうと考えられる。
徳川の初め,尾張藩が成立すると,この木曽川の治水が初まる。木曽川が平地に入る犬山市から当時これを御園堤といった。尾張平野を流れた幾条かの木曽川派川は断ち切られ,この平野は洪水から安定したのである。この築堤の意義は軍事的に論議されているが,木曽川の洪水防禦による稲作生産の安定と干拓の成立を可能にした経済的意味が大きいのである。この洪水防禦の計画は,当時の江戸に対する利根川の関係と対比して考えることができるのである。すなわち,利根川は荒川,渡良瀬川等と共に大体現在の中川と江戸川附近の関東平野の低地を流下して東京湾に入っていた。これを,1600年代に荒川を入間川に流下させ(現在の荒川),利根川は台地を堀り鬼怒川とあわせて現在の河道にかえて,この低地を洪水から安定させた。
利根川と,木曽川は河川の性格も流域の地形も異るが,この二大河川は同じ人によって同じ構想の下に治水が行なわれたことが,今も注目すべきことである。
この治水の意味は,徳川期の財政,経済の基盤である米の増収と安定のための大きい低地の開発事業であったのである。ただ,この平地を洪水からまもるだけでなく,米作の安定化を通じて海へ向って土地の開発が,この時期以降に,急激にすすんだことである。
この干拓地の背後にある耕地の成立は古く,またその成立過程は明らかでないが,この背後地(標高最低1m程度から上部)は荘園史に多く記載されているところである。
木曽川河域の低湿地帯は今回の高潮災害の地城に止まらず,木曽,長良,揖斐の3河川がこの平地に合流し乱流した,平地の中流部,扇状地末端から始まっている。これらの低地は今まで,年々の河川の洪水によって被害を受けたため,古い時代にここに住んだ人々は,洪水からまぬかれ,稲作生産を確保するために所謂論中(ワジユウ)と称する堤防を築いて河川の洪水からまぬかれた。
この間,下流の海岸地帯の低地は高潮による被害もあったが,圧倒的に多い河川の洪水の防禦がこの地域の主要問題であった。
したがって徳川期における宝暦治水(1754~55)における3川分流の構想は,明治の木曽川改修において完成し,現在の如く木曽,長良,揖斐の3川が海まで分流された。
前記第2ー2図の干拓は1600年以降尾張平野の木曽川治水以後次第に成立したものであることを知るのである。ここで特に注意すべきことは,現在の名古屋市内の人家密集する低地が当時の干拓地の水田であったことである。
明治22年10月に名古屋に市制が敷かれた当時の名古屋の人口は157,467人面積は1,334haで,現在(昭和32年)1,429,201人,面積25,015haまで,人口は9.1倍に面積は19培に増大しているが,この間に次々とこの干拓地の水田が市街地化され,市域にくり入れられていった。
(2)地盤変動
濃美地震(明治24年1885)に際して,この低地の地盤は沈下している。(水害地城に関する研究第1部 昭和31年3月総理府資源調査会,p.64 第24図参照)すなわち当時の測定結果によると桑名附近-8.1cm,弥富附近-20.8cm,日光川下流左岸-17.2cmが大きく,庄内川下流左岸で-4.3cmの沈下が示されている。
最近の地震では,昭和19年12月7日の東海地震,昭和20年1月13日の三河地震,昭和21年12月21日の南海地震によって著るしく沈下し,この低地の排水機能が低下し,なお自然排水のきかなくなった低地を生じて増設,新設が行なわれ,地盤沈下の対策として地盛や堤防の補強も行なわれた。
この後に行なわれた一等水準点の仮成果表によると,この低地帯の地盤沈下は次表に示す如くである。
このように大体30cm~70cmの沈下を示している。
愛知県下における全般的な沈下の概況を示すと次の図の如くである。(前掲表の注と同じ資料より)
すなわちこの図から,木曽川河口地帯および三河湾の矢作川河口地帯に大きい沈下を示していることがわかるのである。
このように木曽川下流地帯は地盤変動が大きいことが注目すべき特色である。
木曽川下流平地の台地,丘陵地の状態あるいは沖積地の状態から,木曽川の堆積が揖斐,長良の堆積より大きいことが知られるが,さらにこの低地の地形成形は東高西低の造盆地運動が行なわれているためでといわれている。すなわち濃美平野は一つの構造盆地と考えられその中心は大体海部郡にあると推定されている。
このように考えて,濃美平野の地下地質構造を示すものとして,八事層,高山層の下部を猪高層またはそれに相当するものと考えて,猪高層上限の等深度線を示せば前図の如くなる。(木曽川水系利水実態並びに対策調査報告書昭和34年3月,愛知県,三重県,岐阜県,P.320より引用)
この図から上記,構造盆地の状況を推定することができるであろう。
地盤のこの急激な沈下は,この低地に深刻な問題を投げかけた。すなわち河川,海岸堤防のみならず橋梁,道路,港湾,農地,排水施設の各部問に亘って対策が行なわれた。昭和32年度までの地盤対策に投ぜられた費用は,愛知県では次のようになっている。
土木関係 2,529,598千円
港湾関係 226,269
農地関係 2,075,302
計 4,831,169
このような地盤沈下の現象は,長期のこの地域の土地開発利用計画に際して重要な問題を提起するものである。
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4.低地帯における地下水利用の現況と問題
木曽川河域内の水利用の状況は次のとおりである。
このように,この地域の水源別の利水は,地下水が最大で年間使用量の48%,これに続いて河水44%となっている。これを用途別で示せば工業用水44%,農業用水43%,水道用水13%である。
このように,ここで最も注目すべきことは地下水の利用が極めて多く,その大部分が工業用水につかわれていることである。また水道がこの地帯にはよく施設され,町村でも多く施設されているが,その大部分が地下水に依存しているのである。 地下水の利用が多いことは,地域的には,地盤沈下に大きい関係をもつ。特にここで注意すべきことは地盤高が零以下の低地で取水されている場合である。
いま,この低地における地下水利用状況をみると第2-9表のように,この低地帯には工業用水のみならず,水道用水,農業用水のために800余本の井が堀られている。
これらの利用の競合による地下水位低下の状況は,地域によって異なるだけでなく,その実態は調べられていないのが大部分であるが,名古屋市,四日市市,桑名市における工業用水に対しては,地下水低下が深刻にあらわれている。
これら市街地の状況はここで述べないが,この地帯の農業用水については,今回の除塩や今後のかんがい用水の取得のために,さらに地下水が堀られている現況にある。
市街地については,すでに調査がすすめられているが,海部郡や木曽岬,長島等の農村地帯については全く放任されているが,市街地と同様に,観測施設を完備して,十分に長期に亘る調査を実施することは急務であり,農村地帯の注意をかん起する必要がある。特に木曽川河口附近一帯の最も地盤構造の弱いと考えられる地帯については,用水取得について早急に対策をたてることが望ましい。
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5.低地農業地帯の土地利用現況
(1)概況
1)低地帯の大部分は,かって農地であったところであり,現在も農地-水田-が大きい部分を占めている。しかも,ここの水田は低地であるための幾つかの特色がみられる。すなわち,
イ 海面以下の部分が多い。しかも,地殻運動によって地盤沈下がしばしば起っている。例えば明治24年(1891)の濃美地震,昭和19,20年の三河,南海地震の前後には沈下が測定されている。
ロ そのため,海岸附近では稲の塩害が激化しているだけでなく,用水取得や排水を一層困雑にし地下水利用を増している。
ハ 排水および用水施設が前時代的である。特に排水ポンプは近代的であるが,排水系統は全く不合理のままである。また,用水の水源は不備で,用水系統は非近代的のままである。
ニ 区画,農道の多くは未整備で,農地は分散し,一筆は極めて小さい。多くの農道は単に歩道で,車の通行はできない。運搬は舟運による場合が多い。
ホ 水田は湿田で,水田裏作には過重労働を必要とする高うねをつくって行なっている。湿田である原因は排水路およびポンプの不備とともに舟運のため,水路の水位を比較的高く保つ必要があるからである。
このような,生産基盤としての農地が,これ程広い面積に亘って未整備である現状は,他に例が少ないことであり,またこの現実に甘んじて改善に積極的でない農家の意識には十分検討を要することである。
この生産基盤の未整備は,今回の伊勢湾台風に際して,特に愛知県海部郡一帯の広地域の被害激甚地帯の復興に際して多くの問題を投げかけている。すなわち
イ 除塩に際して用水確保に多くの困難を来した。
ロ 用水排水地域が分かれているので除塩の排水作業を地域的に困難にしている。
ハ 水稲早期裁培を奨励しているが,そのための用水確保と共に末端の耕地区画の不備により実施に種々の困難を生ずるおそれがある。
ニ 除塩と早期栽培の用水を確保する必要から新たに深井が堀られ,地下水汲上げのため地盤沈下のおそれがある。
2)このような,不完全な基盤の上に立って行なわれる農業は,前時代的な要素が多く残っている
イ 農作業の多くは手労働で,役畜も機械の利用もほとんど行なわれていない。特に水田裏作のための高うね作業は,重労働であるにもかかわらず行なわれている。
ロ したがって稲作に多くの労力を必要としている。
ハ 家畜飼養が少ないのは,飼料生産を行なうことができないためである。
二 水田利用の合理化ができないので,稲作のみに依存するので,農業の発展に期待をかけ得ない。
ホ この地域,特に愛知県の低地では,徳川時代における干拓事業の成立過程から,小作地が多いところであったので,戦後農地解放の結果,農家の多くが所得を増し,海岸地帯では加うるに,のり収入が増加して現状に安住する傾向が大きい。
3)このような農家の現況から,この災害を契機として,農業の発展を農作業の共同化を通じて積極的に行なうことに期待がかけられたのであるが,県指導者の積極的な指導にもかかわらずこのことに対して,農家の反応は極めて消極的であって,現状への回復程度以上にでない。
もちろん,復興のために高率の助成があれば,行ない得るかも知れないが,従来から補助金依存に慣れ,農民の自ら立ち上がる意欲に欠け,特に共同的な意識の少ないこの地域の農家に多くを望むことができようか。
山村地帯と異なって富ゆらなこの地帯の農家は,その富ゆらの要因が,のりと農地解放とやみ米の収入であった点、また湿田のため,比較的経営規模が大きいこと,等であり,企業的なセンスに欠ける米作農作の一般的な姿をみるとき,一部のすすんだ農家を除けば営農の発展を積極的にすすめる芽に乏しいのである。
極めて動勉ではあるが,そこにみられる非近代的な生活態度はこれを裏書きしている。
イ 住居の新築,造築が各所に行なわれていたが,その内容は,毎日の生活の場として快適な住居ではなく,客間や仏間だけを立派なものにして外見の競争を行なった。
ロ 農業所得をこのような非生産的な部分にのみ多く投下して営農の改善のための投資は少ない。相当の貯金を持つ農家が多いが,生産への投資は,助成金に依存して,自発的に行なわない。特に,水利その他の共同施設については,その傾向が顕著に伺い得る。
この生活意識は生産に対する意識に反映しているのであるが,名古屋市と四日市市の著しい発展によって両市にはさまれたこの低地農村地帯の将来の発展に暗影を投じている。すなわち両市を結ぶ交通の改善,国鉄,近鉄および国道のバスとまた近く海岸線に沿って新設される名四国道によって,近郊農村的色彩を強めていくのである。
かつては,近郊農村地帯では農村として優れた地位にあつたが,都市の収入,生活,文化の向上と対比して近代化がすすまない近郊湿田地帯の農業は自滅の傾向をたどるのが通例である。しかしながら,この低地が,低地のまま無計画に都市化することは,今回の災害を省みても反省を要することである。
(2)農業の概要
まず,この地帯の農地をみると,第2-10表のとおりである。
これを図示すれば第2-6図の如くで,海岸部は水田率が全般に極めて高いのである。
しかしながら,この水田は湿田であって,機械排水が次第に完備されたが,稲作期の洪水防禦のためと舟運にさまたげられて乾田化していないので,高うねの重労働による裏作が行なわれているが,この地帯は第2-7図にみられるように,上流地帯に比べて一般に低いのである。
これに加えて,水田の区劃や用排水は全く非近代的であって,農業の発展を行なうことは,このような状況では全く不可能といってもよい。いま,一例として,昭和32年に調査したこの郡内のものからその1,2をみると,第2-11表の如くである。このように,耕地は分散して,1団地は極めて小さく,かつ農道や用排水路に接していないので,田ごしに用水を取り入れる田が多い。この水田は一筆毎にあぜがないので,各自が,自由に用水をとり入れたり,排水することができないので稲作の裁培改善すら思うようにできない。
農道は人が歩く程度の巾のものが僅かに存在し,運搬は舟で行なっているところが多い。
その状況は第2-8図佐屋町の例に示すようである。このように小区劃の水田が農道や用排水路に沿わずに細かく区劃されているのがこの地域の一般の姿である。
次にこの地帯の農家の経営規模の概要を示せば第2-12表のとおりである。
すなわち,市部は零細農家が多く,津島市,桑名市では5反以下でそれぞれ52%,35%であるが,海部郡,桑名郡の純農村の多い所では5反以下がそれぞれ29%,23%であり1町以下がそれぞれ36%,43%となっている。
また,これらの地域の家畜,農機具の台数は次表の如くである。
すなわち役用家畜および動力機械は極めて少ないのは湿田であるからで,また飼料基盤に恵まれぬため乳牛,豚の飼養は極めて少ない。
このように,この地域の農業は稲作中心の特異な営農形態を示している。経営規模が比較的大きいとはいえ,次第に兼業化は進みつつある。いま愛知県海部郡の状況をみると,上流の一宮市を含む中島郡および愛知県全体と対比してみると第2-14表の如くである。
すなわち県全体の兼業化に比べれば,その進度は低いとはいえ,次第にこの地域の兼業化はすすみつつある。
このことは,この地域の農業生産の実態と対比して考えてみなければならないことである。昭和30年の海部郡の農業生産総額は第2-15表の如くである。
すなわち,昭和30年の農作物総生産額42億8,629万円のうち,水稲は74%を占めている。これに続いて麦類2億4,080万円(6%),菜種2億2,267万円(5%)れんこん2億1,226万円(5%)とで全体の90%を占めている。
したがつて米の生産の伸びが,この地域の農家の収入を増す大きい因子となる。
米の反収の変化をみると次のとおりである。
このように県全体の増加傾向に比べれば,この低地の生産は伸びているが,その増加は最近の45ヵ年に僅か13%にすざない。最もよい1946~50年平均をとっても25%である。したがってこの地域の農業は極めて沈滞したものであると云い得る。
麦作,なたね作はいずれも水田裏作であるが,これは高うね栽培を行なっており,その収量は次のように低く,米価との価格対比を考えても,また貿易の自由化の問題をひかえて将来全く期待できない。
このように,現在まで稲作にのみ依存した農家は,その稲作の改善に対して,積極性を欠き,次の表に示すように,多くの労力を費して,生産費が高い。
このように蟹江の低湿地の米の生産費は一石当たり 5,575円と安城に比べ24%,全額にして1,061円多くなっている。この差は主として労賃の差で,これが1,675円となる。反当家族労働時間にして,蟹江163時間に対し安城122時間と34%も多くなっている。これは,この地域の稲作労働がほとんど手労働で,家畜や機械の利用が極めて少ないからである。
かくして,農業地帯として,この広い地域の農業には,営農の工夫も行なわれず,進歩の跡がみられない。
(3)低地農業地帯の市街地化傾向
この地帯の農家は,農地解放とやみ米のり収入のために豊かになっただけであるとみてもよい。
この間,交通の便利な町村は,次第に名古屋の近郊的性格を強めて,人口は膨張し,繊維を中心とする中小企業がいり込み,また名古屋市への通勤者が著るしく増加していく。
その工場の内津島市では82%が紡織工場である。その従業者数の増加は紡織工場で,海部郡では次の如くである。
このように昭和10年(1935)に比べ昭和29年(1954)では倍に増加している。かくて,工業の生産総額は,昭和30年で津島市 1,218,657万円,海部郡 1,354,298万円,計 2,672,955万円と農業生産額 428,629万円の16倍にも達している。
このような工業の増大は各町村の人口を著しく増大し,そのため市街地化する町村は名古屋への通勤の便利な,また地元に工業の発達した町村の人口増大は著るしく,一方純農村は今も交通不便な一部地域にのみ個乗っていて人口の増大は目立たない。
その状況は次の如くである。
このように交通の便利な地域では,とくに戦時中から戦後にかけて流入した人口と,その後の増加が著るしい。
その増加は30年間に135~251%に亘っている。これに比べると純農村の人口は111~118%の間にあり,とくに戦後一時増大した人口は最近では滅少の傾向がみられている。
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6.低地農業地帯の排水と水利用
伊勢湾台風による長期湛水地域の標高は,全地域に亘っては明らかでないが,最も低い地域は愛知県海部郡十四山附近で(-)1.50~(-)1.60m程度で,津島市附近で0.0mとなっている。また桑名市南部の城南村で(-)0.95mである。満潮面標高(+)2.70mに比べると著るしく低い陸地である。
いま,愛知県海部郡のみをみても,
標高 0.0m以下 2,900ha
0.0~(+)0.2m 1,700ha
(+)0.2~(+)0.6m 4,300ha
(+)0.6~(+)1.0m 2,900ha
計 11,800ha
この地域の潮位は
朔望平均満潮位 1.034m(東京湾中等潮位から)
〃 干潮位 (-)1.156m
平位潮位 0.054m
である。
この低地は昭和19~21年の地震による地盤沈下のために一層排水が不良となり,現在この地帯の排水機は次のようになっている。
これらの排水機に支えられて豪雨による内水停滞水が排除され,稲作の安定化をもたらしたのであるが,これらの排水機はいずれもほとんど稲作が目的であり,この地域の乾田化には役立っていない。
元来,この低地の水に対する防禦は,この地域内の降雨の内水排除にあり,また,その被害が年々最も大きかったのである。
この地域に洪水をもたらす雨は次表の如く,6~7月の梅雨と9月の台風が最も多い。すなわち,この30年間合計84回の洪水に対して,台風を主体としたもの22回,低気圧と不連続線によるもの62回で74%を占めている。
古い時代は,木曽川の氾濫による被害が多かったが,河川改修の結果は,次第に内水排除に重点がおかれ,明治末からこの地域に,蒸気機関による排水機が地主の手によつて設置されはじめた。
現在,第2-22表のように,この低地に134台,排水計画量129m3/sの排水能力を持ち1万馬力の原動機が据付けられているが,なお内水湛水による被害は跡をたたない。
昭和28年13号台風および29年の豪雨による海部郡の湛水状況は第2-9図,第2-10図の如く全地域に及んでいる。
これに反して高潮による被害は,今回の如きものは経験がなく,近年の例をみても第2-11図の如く1896年(明治29年)が最もひどいが,これもすでに60余年を経て記憶にうすれている。
豪雨による内水の排除が一般に最も関心が持たれるのはこのためである。
しかしながらこの内水排除の組織は古い自然の形態のままの地形で,排水系統は複雑である。その状況は第2-12図の如くで,用水の改良とあわせこの実態をこの機会を通じて再検討する必要があろう。
さらに,昭和19~21年の地震による排水の悪化はどのように地域にあらわれるかは明らかでないが,一例として日光西悪水土地改良区における排水機の運転状況を示せば第2ー24表の如くで,昭和9~19年までの11ヵ年平均では,電力使用量で1ヵ年平均336,063kWHに対して,昭和22~31年平均336,088кWHと,194%の増加となっている。
この内容は全部地盤沈下のみに帰することはできない。稲作栽培技術の変化や,裏作事情も反映するにしても地盤沈下による排水の悪化を見のがすことはできないのである。
用水に関しては,日光川東部地区は宮田用水の流域であるが,この用水系統内の水配分組織が旧態のままであるため下流地帯は極めて不十分で地下水の汲上げを余儀なくされている地域が少なくない。
日光川西部地域から下流の排水は特に複雑であるが,用水利用は一層困難な問題が多い。それは
1)日光川の悪水利用区域があるが日光川の水質が汚だくされて利用できなくなっている
2)海岸附近は鍋田川から逆潮を利用していたが,地盤沈下で利用できなくなっているため地下水利用に切りかえた
また用水区域と排水区域が同一でないので用排水利用に困難な地域がある。特に除塩作業についても問題が多い。
海岸地帯の一帯は常襲塩害地域が広く存在している。その面積は580ha(愛知県403ha,三重県178ha)を占めている。
塩害の原因は,感潮河川からの用水取り入れに原因するものでなく,地下水中の塩分の地表への上昇にある。したがって,その解決のためには,用水補給とともに地下水位の低下を行ない得るような排水施設も関連する。
しかし塩分除去には用水が必要で,用水源になやむ海岸地帯では,そのために地下水の利用が増加している。
一方,河口地帯の河川利用地域においては、用水中に塩分の混入が多く,とくに地盤沈下後には,河川利用を不能にしている地域が少なくない。
以上この地域の用排水の実態の複雑さの一たんを述べた。この実態を検討するには広範な資料と実態調査が必要であるが,この複雑な用排水の現状が,乾田化をはばみ,農業の停滞の大きい原因の一つであることを注意しなければならない。
将来この地域の用排水の間題は
1)乾田化と塩害除去のために地下水位を下げ得る排水組織を持つこと。
2)舟運を陸運にかえ農地区劃を整備し農地交換分合を行ない集団化すること。
3)地下水利用地域を地表水に切りかえ得るように水源の整備を行なう。
4)用水と排水の分離を行なう。
5)用水地域内の水の配分の現状を明らかにして用水組織の近代化と配分の合理化を行なう。
6)特に宮田用水については,地域全般に亘って,水利用実態を明らかにする基本調査を行なう必要がある。
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7.低地農業地帯の復興の問題
(1)以上の実態と,さらに復旧の現況から今後の長期的な問題として検討を行なってみたい。
まず,この地帯の復旧についてみる。
長期湛水地帯の排水は鍋田干拓地を除いて12月中旬にて一応完了している。さらに,これに引続いて,海岸堤の復旧をすすめるのであるが,海岸堤の技術的問題については,別に述べられるであろう。
復旧の問題は
イ 家屋の復旧
ロ 農業施設の復旧
ハ 農地の復旧
であるが,農地の復旧には除塩の問題がある。除塩作業は長期復興の方向に密接に関連するため一応その概要にふれる。
除塩作業は灌漑水の問題であるが、現在ここに行なわれている実態から多くの矛盾を見出すことができる。
その用水取得について次の方法がとられている。
a 上流地域区域外を主としてかんがいする用水に依存する地域一日光川東部,宮田用水,日光川西部,佐屋川用水,いずれも木曽川を水源とする。
b 地区内の河川を水源とする地域-長島,木曽岬,弥富町の一部,木曽川。
c 地下水利用地域-bの海岸よりの地域。
d 水路が不備または破壊されて早急に間に合わない地域-各地に小部分あり。
さきに述べたように,この地域の用水源は不備であり,その取得には今の場合に上流の水利権とからんでむずかしい問題をひかえている。
除塩は水田に湛水した水を(約3日)早急に排除し再び湛水し,これを3~6回田植期まで繰返すことになっている。この際の排水も用水と同様不完全で,特に排水樋門の破れている地域等また排水地域と用水地域とが同一でないところは湛水をめぐって多くの困難がある。
特に末端の用排水および区劃の未整備の多い海部郡では合理的な湛水を行ないにくいであろう。地下水利用により地盤沈下の問題を生ずる。次に早期栽培を現在奨励しているが,そのため除塩期間が短縮される。
これらの多くの問題は農業基盤としての水田の状況が,今まで未整備であることによる。さらに用水については将来この地域に用水の確保と地下水利用の廃止をな行なう必要がある。
(2)農村地帯の住居は一部は散在し,あるいは旧堤防沿いに家がたてられている。これらは,集中して,公共施設(農業倉庫,学校,集荷場等)とともに相当の盛土をして建築することが必要である。干拓地にはこの方法がとられるが,これより低い旧村もより一層その必要がある。さらに,家屋は現在の木造からコンクリートブロックあるいは鉄筋コンクリート等にかえるか,床を高くする必要がある。また現在の生活様式から来る家屋の不合理な広い面積のものから,近代的生活様式に切りかえるように農家の反省を求めたい。
この意味で,新しい構想の下に農地の改良とあわせて,部落の配置,あり方,散在する農家の集中化,宅地の地上げ等を一つの計画として推進することを望みたい。勿論,これには農家の頭の切りかえが必要である。
(3)営農の発展を阻害して,停滞する原因は次の事項をあげることができる。
1)稲作収入に多く依存する穀作中心の水田農業である。
2)水田裏作に重労働の高うねつくりを行なっている。
3)営農発展を行ない得る土地の基盤が未整備である。
4)戦前小作地が多かったこの地帯では,戦後の農地解放によって自作農となって収入が増加し,加うるに最近までのやみ米収入によって著るしく収入が増して,営農の発展への努力をしない。
5)したがって,農業所得を農業の再生産へ投下することが少なく,家屋その他の非生産的なものに投入している。また生活内容が近代的でない。
6)海岸地帯ではのりによる収入が増加し米作以外には魅力がない。
7)従前から利己的な気風が強く共同的な事業への関心がうすい。
8)交通条件のよい所では通勤者が増加して市街地化の傾向があり,零細農家の兼業化がすすみつつある。
等,営農発展のための阻害要因が極めて多い。
今回の災害を通じて,この低地の農業復興の基本的問題は,将来営農をどのように進展させていくかにあるが,農家には積極的な考え方が乏しい。ただ一つには早期栽培の導入がある。
これが長期にどのように受けいれられるかは未知数であるが,これを通じて,営農の発展を期待し得ることである。早期栽培を通じて,営農の発展を期待し得るのである。早期栽培を通じて穀作中心農業からの展開が期待できるからである。そのために何をおいても,この際,土地条件の整備こそ第一に必要なことがらである。
(4)今回の災害に当って古い時代の干拓地にあった海岸堤防がどのような役割をはたしたかは興味ある問題であった。しかし,現在の海岸線からはるか後方に存在したこれらの二番堤,三番堤の大部分は取り払われ道路の敷地にされたり,部分的に残っても全く管理されず斜面が耕作されたりして散在しているに過ぎなかった。勿論,この異常な高潮の浸入に対して,弱体な古い堤防が有効な役割をはたすことは考えられないが,復興過程には恐らく有効であったろうと考えられる。古い堤防を再現することはできないが,少なくともこの低地に対する対策としては,これに類するものが望ましいことである。これら河川の中流部にある輪中堤も現在では荒廃し全く管理されていない。
これら海岸および河川流域に現存する旧堤については,改めて検討することも必要であろう。また,ここに各種の計画がなされている海岸の土地造成計画が実現する場合,背後地になる現在の海岸堤の保全,あるいは国道一号線や名四国道についても海岸低地保全の役割についても,さらに道路の造成や改良に際しても浸水時の交通確保と復旧に対する役割を重視して計画をすすめる必要がある。
8.名古屋市低地の市街地化
さきに述べたように,名古屋市内で,高潮による長期湛水した市街地の大部分は徳川時代に水田造成のために行なわれた干拓地であった。
最近合併された南区南陽町は現在はなお農村地帯であるが,庄内川以東の中川区,南区の中川運河にはさまれた地域は,区画が整備されて,都市化が最も進行していく地域である。水田と住宅が交錯する最も不合理な形態が,ここにあらわれている。この地域の具体的内容は調査できなかったが,市街地化は低い水田を個別に埋立てて住宅,工場,商店が建てられているので,田面よりは高くなるにしても低い市街地となるのは当然である。南区南陽町,中川区富田町も市街地化が無計画にすすめば,同じ状態になるのである。
現在名古屋市内における農業の実態の概要を示せば,一部を除いては,近郊的色彩の強い集約な農業形態は全く見られず,稲作依存度の強い農業である。
このことは名古屋市の農地の多くが干拓地であるが,またはこれに続く河川下流の低地帯の農業で水田が多く,しかもこれが多く湿田であるためである。
いま,旧市域から新市域への人口膨張を次の表で比較してみよう。
大正9年までの市域面積の増加は明治40年以降(当時3,192ha)極めて少ないので当時1km^2当り11,512人に達していた。したがって大正9年から昭和30年の35ヵ年の間に現在合併された21,285haの周辺農村地帯は221,599人の人口から906,793人と685,194人(4.1倍に)が増加している。
したがつて,その間に農地は著るしく潰滅して農村人口は滅少していった。昭和12年以降昭和33年までの豊家の推移をみると次の如くである。
このように農業の零細化と兼業化をたどりつつ農業が衰退して行くのであるが,さきに述べたように名古屋市内の耕地が昭和33年で7,497haのうち水田5,216haと約70%の水田率を示している湿田地帯で,稲作以外への展開が行ないがたいところでもある。
都市化の傾向の強い中川区と港区のうち,昭和30年に合併したそれぞれの区の富田町および南陽町の農村地帯を除いた部分の低地の農業をみると第2-27表のとおりである。
この残りの地域の農地は主として両区共,庄内川と中川運河の間に残った耕地で、港区が海岸地帯の旧幕時代の干拓地,中川区の部分は一部は干拓地でない部分も含まれて,港区に比べて都心に近く,より都市化がすすんでいる。また富田町は,国鉄関西線,近鉄,国道と通じて便利な地帯で市街地化しやすいが、南陽町は交通に恵まれぬ純農村地帯である。
この表でみられるように,新合併町村は専業率がそれぞれ44%,55%と高く一戸当り平均も59アールと86アールで比較的多い。
いずれの地区の耕地も水田率が高く中川区で81%,港区で92%,しかも一毛作田がそれぞれに60%と80%をしめている稲作中心農業の低湿な地帯である。
中川区,港区の旧市内も戦前までは多くは水田地帯で,港区の全域と中川区の過半が徳川期の干拓によって造成された土地であったのである。
今回の水害によりこの2区は全域湛水したところである。
都市化がこの低地にすすむにつれて,経営面積は零細化するも,集約農業へ向い得る耕地の基盤がないため,兼業化せざるを得ないのである。
その過程では農業経営者の老令化により,一層経営合理化への意欲を失わせていく。それを名古屋市の就業人口の年令構成からみると次の如くである。
このように,農業においては20代の若い層が少なく50才以上の人が多い。特に65才以上が12%を占めることは注目しなければならない。
また就業者の男女比率についても,特に30代では女が働く割合が著るしく高い。男女の比が半々になっているのは,老人の男が多く働くためであって,農業は老人のひまつぶし程度のものか,兼業の片手間と女の仕事になっている。恐らく都市で経営規模が縮少し,兼業化がすすめば,どこもこの様な構成となるであろうし,かくして農業を益々無気力化していくものと考えられる。
このように,低地の水田地帯が都市化していく場合に起る過程は,無計画であるため,地価の騰貴と相まって農業からも都市化のため好ましからざる過程をとっていくことがわかるのである。
この水害から,低地のこのような形の都市化は反省さるべきことである。
また,この問題は,4-(1)に述べた低地帯の農村の人口増加と市街地化の問題とあわせて考えねばならないことである。
農民層の都市化への対応は,名古屋市内にある。このような旧態のままの農業地帯では,特に上層地主層が積極的であるといわれているが,果樹,そさい等で集約経営の企業的農民とは著るしく異った反応がみられる。
農地売却代金の使途について調査された結果は次表の如くである。
この調査地域は低湿地帯ではないが,そさい地帯の稲沢と米麦農業地帯の守山の農民の考え方を示すものとして一つの示唆を与えるものである。守山では,明らかに農業から脱落する方向を示すもので,農業へ投資する考えは全く認められない。これに反して稲沢では,家畜購入や換地を欲する農家が多いことを示し,営農に対する意欲を示している。
この表が総て停滞的な水田地帯の農家の意志でないにしても,交通条件が改善されて都心への時間が短縮されるに従って,現在の農業を続ける限り,次第に営農への努力が失なわれていくことが暗示されるであろう。
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9.高潮対策と関連する沿岸の干拓,埋立計画の問題
伊勢湾台風による海岸対策と将来の沿岸地帯の浅海の開発計画とは複雑な問題であるが,次の関連を考えて具体的な総合計画をたてる必要がある。
1)豊業用地あるいは工業用地のどちらをとるとしても,開発される土地に対する水利計画が必要である。
2)現在の海岸地帯の農業用水,飲料水および,工業用水計画とあわせて考える必要がある。これらの地帯は用水が不足し,地下水利用が行なわれているのでこれを他の水源に切りかえる必要がある。
3)これらの土地造成計画には地盤沈下と地盤の支持力の問題は十分検討する必要がある。とくに地盤の弱いと考えられる木曽川河口附近の場合には工業用地造成には十分注意が必要である。
4)名古屋港,四日市港の防潮堤計画と木曽川,揖斐川,長良川への逆潮の影響,河川改修計画との総合計画。
これらの実態を明らかにすること,現在の海岸対策の間に如何にタイミングをあわせるかが問題である。
さらに,現在の広面積の低地帯の安全のためにはに現在の堤防を高く強くすることだけで十分解決されたわけではないはずである。
海岸地帯に埋立地ができたり,前面に広い干拓地ができれば,背後地の安全度は増すことになるので,海岸の開発は早急に実施することが望ましい。
この場合に農業用地とするかあるいは工業用地として埋立てるかは
1)工業の発展の速度と具体的な内容とを見合って考えるべきである。
2)農業用地として干拓したものは,無計画な工場あるいは宅地への転用を行なってはならないのみならず,この場合には必ず関連地域と同じ高さまで埋立を行なうことが合理的であろう。
干拓や埋立における海岸提防に関する土木技術的な問題は別に検討されるであろうが,ここで一応提起したい問題は干拓地の営農についてである。
すでに述べたように,農業生産基盤としての農地は,海部郡の旧幕時代に開かれた水田地帯では近代経営に適さない状況にあるにも拘わらず,農家は今も積極的に改善を行なう意欲に乏しく,外見は米作にかける主要農業地帯のようにみえるにしても,実質的には最も後進的な性格のところである。
名古屋市の農業実態で示したように,稲作中心の殻作農業は都市化に対して何等の抵抗を示さないだけでなく,誘致を積極的に行なう傾向すら示す。地価の値上りのためである。
このことは,水田農業においては稲作中心で,新しい営農発展の魅力がないことにあろう。
オランダの例をみるまでもなく,低地の農業については稲作にのみとらわれない農業形態を,個々の農家の工夫で行ない得るような農地の基本施設を行なっておく必要がある。
従前から干拓農業は歴史的に稲作農業であり,現在も戦後の食糧増産施策にはばまれている。オランダに見ならうのは干拓堤防技術だけでよいのであろうか。
名四国道に期待をかける海岸地域の農家も少なくないといわれる。このことは,単に交通が便利になるという意味ではなく,地価の値上りと市街地化への期待であろう。
農業地域と工業地域を区分する必要があるが,そのためには,農業地域の営農を引き上げる努力こそ,むしろ重要なことである。
また都市の立場からみれば,市街地形成は市街地として必要な施設,道路,交通,上水道,下水道等の完備を待って,漸進的に市街地化していくことが必要であろう。
都市の膨張は名古屋では特にめざましい。しかし,ただ,そのために周辺の地帯をかかえ込んだり,埋立の机上計画のみを進めることなく,東京都の悪例を見ならわないよう近代都市の建設へ進む努力が必要であろう。
農村と都市,愛知,三重とそれぞれの立場からでなく,幾つかの計画を,伊勢湾のこの地域の最も合理的な経済発展を行ない得るような土地と水の計画を樹立するための立場と組織こそ,この機会に最も必要なことである。
10.低湿地帯における河川洪水の問題
伊勢湾台風によるこの低地帯の災害は,高潮による激甚な災害であったため,木曽,長良,揖斐の河川の洪水は忘れられがちであった。しかし,揖斐川における岐阜県養老町の破堤による2800haの湛水と三重県多度町(旧七取村)360haの湛水被害を見のがすことはできない。特に養老町は8月13日と2回に亘る破堤によって長期湛水受けている。
また岐阜市における長良川の破堤や氾濫による湛水被害も,今回は全く注目を引いていないのである。
これら河川の洪水はここにその資料が十分でないので検討できないが,まず,今回の洪水による河川水位をみると次のとおりである。
すなわち木曽川は、台風進路からはずれ降雨も少なかったので問題にすべき点は見出されないが,長良川については,既往最大洪水位5.80mを突破し,5.90mとなり,墨俣では,7.74mと計画洪水位7.45mをこえている。また,揖斐川,牧田川については,各地点で計画洪水位も,既往最大もこえている。
しかも,この場合の上流の降雨量をみると第2-31表の如くである。木曽川と飛騨川の流域の降雨量は少なく,洪水の出水も少ないのであまり問題はない。長良川では既往の最大降雨量に比べて今回はそれを越えるものではないが,その洪水量は大きい。揖斐川についても同様である。揖斐川では根尾川と牧田川流域の降雨が大きいが,特に,牧田川については,養老町の破提の原因になっている。しかし長良川も揖斐川も降雨との関係をみると洪水が異常に大きいように見える。
河川の洪水については,今回の出水によって危険が極めて大きかったことをここで改めて反省し,また,今回以上の降雨が起り得る可能性は決して少なくないので、将来この低地全体の問題を考えるときは十分に対策を考えておく必要がある。
要約
以上述べた諸問題について,これを伊勢湾台風の教訓として,将来,長期問題としてこの地域の防災対災に焦点をあわせてまとめれば次のとおりである。
1 この台風による最大の被害は未曽有の高潮によるものである。
2 しかし,この被害の激甚であったのは,広い地域が海面以下の長期にわたって人工的に造成された土地に起ったためである。
3 この低地は濃美平野の形成が構造盆地運動によって現在の形をなしていることを想起し,地形,地質の観点から十分に科学的なメスをいれてかかる必要がある。
4 低地に続く浅海の土地造成も現在の土地も地盤の低下を来たすような利用はさけ,少なくとも住居地帯に対しては地盤をあげる努力が,行政上からも財政的にも必要である。
5 特に木曽川河口両沿岸沿いの土地造成に対しては,工業的利用を行なうか農業的利用を行なうにしても,十分基礎調査を行なう必要がある。特に農業的利用を行なう場合には将来無計画な利用転換を行なわないような措置が必要である。
6 この地域は現在も工業用水,水道用水,農業用水の水源を多く地下水に求めているが,これは地盤沈下に促進するものであり,早急に他の方法で水源確保をはかる計画をたてると共に,新たに造成される土地に対しても同様に考える必要がある。
7 この低地帯は水源の確保が不十分であるのでそのために,さらに水源について十分計画をたてる必要がある。その際,上流地帯の,現在の古くからの習慣的な利用を行なっているにすぎない農業用水の不合理を是正するような基本調査を行なう必要がある。
8 今回の災害は高潮にあったが,木曽川水系の揖斐,長良両川の降雨状況にもかかわらず両川とも中下流で破堤被害を及ぼしており,揖斐,長良両河川の洪水処理に目を向ける必要がある。
9 災害の実態から,低地の市街地化が無計画に行なわれていったことに反省をする必要があり,低地の農村地帯の都市化を行なら場合計画的に漸進し,防災対策を先行させる必要がある。
10 海岸の保全は堤防の強化のみに依存することなく,低地内の住居の安全化を計ることも積極的に考え,低地の土地保全計画を広い地域にたてる必要がある。
11 低地の停滞的な農業については現在の如き稲作依存から,早期栽培をとり入れる等によって営農方式の積極的な改善をはかる必要がある。干拓地の農業についても同様である。またそのためには生産基盤の整備が必要である。
参考資料
1 伊勢湾台風による災害の概要 昭和34年12月 愛知県
2 伊勢湾台風災害の概要と応急措置(改訂版) 昭和34年11月15日 愛知県
3 伊勢湾台風による災害状況及びその対策 昭和34年11月 岐阜県
4 被害状況及び応急対策について 昭和34年9月 岐阜県
5 伊勢湾台風による災害対策の概要と対策 昭和34年11月 三重県
6 伊勢湾台風による名古屋市の被害と要望 昭和34年10月 名古屋市
7 伊勢湾台風による災害の概要並びに要望書 昭和34年10月 愛知県
8 伊勢湾台風被害概要 昭和34年10月 三重県
9 伊勢湾台風による市町村別被害状況(人と建物) 昭和35年1月 愛知県
10 伊勢湾台風気象概報 昭和35年1月 名古屋地方気象台
11 中部日本新聞伊勢湾台風縮冊版 上下 中部日本新聞社
12 伊勢湾台風農地災害の概要と応急対策について 昭和34年12月10日 農林省名古屋農地事務局
13 伊勢湾台風災害の経済的分析-復興計画のための問題提起-佐藤武夫 国民経済昭和35年1月
14 伊勢湾台風と臨海工業地帯の災害 栗原東洋 国民経済昭和35年1月
15 伊勢湾台風被害調査速報 運輸省
16 干拓事業に関する基本方針 農林省地局資料 昭和34年12月 科学技術庁資源局
17 伊勢湾台風について 建設省土木研究所資料
18 伊勢湾台風について 昭和34年12月 科学技術庁資源局
19 伊勢湾台風災害対策調査報告書 農業土木学会伊勢湾台風災害対策特別委員会(中間報告) 昭和34年12月 科学技術庁資源局
20 海部海岸保全開発計画構想-伊勢湾高潮対策として 農林省農地局資料 昭和34年12月 科学技術庁資源局
21 四日市市防潮対策事業計画書 三重県四日市港務局
22 伊勢湾台風の教訓 新沢嘉芽統 昭和35年1月 科学技術庁資源局
23 愛知県地方計画書第2巻 総合振興計画水政部門及び農林水産部門 昭和34年1月 愛知県
24 中京工業圏確立に関する勧告-資源調査会勧告5号-昭和34年9月 科学技術庁資源局
25 木曽川水系利水実態ならびに対策調査報告書(利水実態の部)
昭和33年度総合開発調査 昭和34年3月 愛知県,三重県,岐阜県,長野県
26 水害地域に関する研究 第1部 昭和31年3月 総理府資源調査会
27 愛知県西部低湿地帯の農業における水処理の諸間題 太田更一 昭和32年12月 愛知県
28 名古屋市統計書 昭和34年 名古屋市
29 愛知県農林水産統計年報 昭和30年度 農林省愛知統計調査事務所
30 三重県農林水産統計年報 昭和34年度 農林省三重計統計調査事務所
31 中京地方の都市化と地域計画 伊藤郷平 地理5の1
32 鍋田干拓建設事業の概要 昭和34年1月 農林省京都農地事務局鍋田干拓事業所
33 名古屋市の発展過程と都市計画 附 名古屋市の工業 昭和35年1月 科学技術庁資源局
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〔III〕伊勢湾台風による 干拓地域の災害に関する考察 新澤嘉芽統
1.干拓地域の災害の特徴
(1)湛水地域の規模にもとづく考察
伊勢湾岸の広く湛水した地域の経験から,干拓との関連で考慮すべき諸事項をあげる。
1)湛水したデルタ地帯は古く干拓によって形成された地域である。海との間に海水の浸入を阻止する堤防がなければ,今日でも干潟となって,満潮には海面となり,干潮には干陸する土地である。干拓は河川から海に流出した泥土が潮流に流送され洲を形成するにしたがって順次形成される。デルタ地帯は木曽川など三大河によって形成された洲づきのよい干拓適地をなしたのである。
2)干拓によって形成された土地は決してここだけの特殊的なものではない。肥沃な沖積平野はすべて河川の流送泥土によって形成されたものであるが,海面干拓では潮の干満の大きいことが条件となるので,特に西表日本の河川の河口を中心に発達する。例えば,大阪市の市街地の西半分は古い干拓地であって室戸台風の高潮によって大害を受けた。岡山市の市街の南端から海岸まで児島湾一帯,それから倉敷市を包んで海にいたるなど,いわば岡山県下の最も良好な平野の大部分は干拓地域である。広島市の大部分もそうである。広島県から山口県の瀬戸内海に面する耕地の大部分も干拓地である。九州に入るとさらに顕著で,有明海に面した佐賀,福岡の平野のほとんど全部,佐賀市の北まで干拓地である。熊本県の海沿いの広い平野も大部分はそうであり,昭和2年の高潮によって大災害を受けた。これらは特徴的な事例であるが,西表日本の海に面した広い平野の大部分は古い干拓地なのである。ところが人は,海岸の堤防が欠潰すると海面と化す危険なところだと思っていなかった。実際は,農村はいうまでもないが,これらの地域にある都市も交通機関のような諸施設も,ことごとく昔の干拓地の上にあるのであり,これを基礎として発展したのである。伊勢湾の教訓は,他の広範な諸地域にもあてはまるのである。
3)干拓で形成された沖積平野を護る施設としては,海に面する堤防とその平野の側面を護る河川堤防が最も重要な施設である。感潮部の河川堤防は,はじめ干拓堤防として築造されたものであるが,干拓の前進にともない河川堤防化し,後に河川堤防らしく修築され県が維持管理している。それよりも重要な,海に面する第1線堤防は,新しい干拓を造成するために築造されたもので,海岸法の制定されるまでは,府県の維持管理の対象とはならず,その干拓だけの公共施設にすぎなかった。しかもそのような堤防が,実際には背後の広い沖積平野を護る最も重要な施設としての役割を担わせられていたのである。小さな目的で築造された施設が,他の大きな目的を担わせられるというこの矛盾こそ,今回の災害からの大きな教訓でなければならない。
4)特殊な現象が見られることにも注意しなければならない。高潮の潮位は満潮位より約3mも高いものであった。ところが,湛水の及びえた限界はところにより相違があるが,大体満潮位の線によって限界され,それよりあまり広くは及ばなかった。潮位の極端に高い時間はほんのわずかの間で,そのエネルギーは破堤のためのエネルギー損失,地面との摩擦,障害物のためのエネルギー損失などによって消耗したのであろう。この点は室戸台風の大阪府下,昭和2年の熊本県の潮害の場合にもある程度いえるように思う。海水が高潮の潮位に等しい地盤高のところまで達したならば,被害には大変な違いがあったろうと思う。
5)浸入水のエネルギーを消耗させた途中の障害物のなかで最も重視すべきは,第2線堤防(旧干拓堤防の残存物)の存在であった。災害後の復旧過程を見ると,干陸化するためには,部分的に締切り工事をやって,その内部の湛水をポンプ排水するのである。締切り工事には,第2線堤防の欠潰カ所の締切りが重要な意味を持っていた。この第2線堤防が,とにかく,海水の浸入に対し,ある程度抵抗し,抵抗することによって,高潮のエネルギーを消耗させたのである。第2線堤防がなかったならば外潮位の低下を見ない間に,浸入水はその潮位の及びうる,より広大な範囲まで急速に達し,被害を拡大したに相違ないのである。
6)三河湾に面した地域,例えば平坂,碧南,衣力浦などの干拓地の第2線提防は欠潰していない。また,津島市の西に位する立田輪中地域には侵入しなかったが,これは,木曽川の旧派川佐屋川の廃川の旧堤跡と,その自然堤防が海水の浸水をよく阻止したからである。立田輪中の場合は必ずしも第2線堤防とはいえないが,これらの事実は第2線堤防の重要性を示している。
(2)死者の分布にもとづく考察
(a)死傷者を多くした理由
死者,行方不明者が多かった大きな理由は,名古屋市が被災したからである。愛知県下のほぼ2/3に近い。この点は室戸台風の場合にも同様で,大阪市の死者928人,行方不明29人,堺市の死者405人,行方不明12人,両都市の合計1,374人で,府下全体の6割に達した。昭和2年の熊本県の潮害の場合は,都市が一つも含まれていなかったため死者は413人に止まったのである。
名古屋市内の被災地は古く干拓によって形成された干拓地域であった。現在では完全に都市化し,ほとんど耕地を残さない地域もあるが,住宅地の地盤は,耕地だった時代とあまり変らない。したがって、このような地域を護る施設としては,農村部の干拓地域と同様に,第1線堤防と,被害を最小限にくい止めるための第2線施設でなければならない。これらが現実にどんな状態であったか。
干拓は部分的に年代を追って前進するものであるから,現在完全に都市化してしまっているところにも,工場地帯や住宅地帯になる前には,古い干拓堤防が第2線堤防として存在していたわけである。ところが都市化してくるにしたがって,街のまん中に土堤があることが邪魔になり,次第に取払われて,ついには全く見られなくなっていた。そういう点では,都市部の方が,農村部よりかえって安全性を失っていたわけである。
このように,干拓地域が次第に都市化する場合,災害防止のため都市化をいかに規制し,またいかに計画的に都市化するか,その計画の構成条件としての第1線堤防のあり方,第2線的な諸施設と,それらの相互関連の問題は,都市計画上重要な研究課題である。
(b)農村部の考察
農村部で最も被害の激甚だった地域は,愛知県海部郡,すなわち日光川と鍋田川に狭まれた地帯,鍋田川と木曽川に狭まれた木曽岬村,木曽川と長良川に狭まれた長島町の三地域である。このうち主として愛知県海部郡地帯をとって考察することにしよう。
海部郡の海に面する弥富,飛島,十四山の3ヵ町村内の部落別の死者,行方不明者数を表示すれば表の通りである。
死者10人以上の部落が9部落あるが,うち7部落はすべて最先端の干拓地の部落であって,そうでない第2線堤防の背後の部落は弥富町の操出と境の二部落だけである。
集中的に多くの死者,行方不明者を出した部落は,鍋田干拓126人,新政成104人,西末広48人,東末広38人,操出25人であるが,これらのうち第2線の背後にあった操出を例外として,すべて第1線堤防は,風向に真正面に面していたということに注意しなければならない。
鍋田干拓は西側の堤防を除き,全面的ともいえる倒潰を見ている。新政成新田では延長460mに達する欠潰であった。末広新田では2カ所360mと410m総延長770mに違している。
この地域における他の欠潰ヵ所は40カ所近くあるが,1カ所の延長では最長132m,100mを越すものは5カ所しかない。海に面して風を真正面から受け,高潮と同時に波のエネルギーを最高度に受けた堤防は欠潰状態は激烈で,その干拓の死傷者は圧倒的に多くなったのである。同じく水におそわれたといっても,破堤が大きく,浸入水が潮位と波のエネルギーを失っていない場合には,被害はまったく別なものになるのである。死者と行方不明者の数が6人以上の部落は17ある。前記9部落を除くと8部落である。内5地区は第2線堤防によって護られていなかったのである。
このような特徴は,三重県木曽岬,長島地区でも見られる。木曽岬村死者247人,行方不明81人,計328人,長島町死者353人,行方不明28人,計381人に達する。これらの死者の分布も,大体,海に近い南部ほど多く,しかも第2線堤防で十分に護られていなかったところに多い。木曽岬村では源緑,藤里,松永,脇村,雁カ地などであり,長島町では松蔭,白鶏,横満蔵,福吉,都羅などがそうである。長島町ではこの外に鎌カ地,葭カ須,松カ島に多数の死者を出したが,これらはいずれも木曽川あるいは長良川の破堤カ所のすぐ背後に位置していたからである。ただ,例外は木曽岬村の藤里の一部にある。この部落の一部は最南端に位置するが,前面に広大な洲が形成されている。洲つきの状態からあたかも部落の位置が自然堤防の観を呈し,洲の上には見渡すかぎりアシが生えている。高潮と波浪のエネルギーの大部分は,この障害物によって消滅し,部落に達した時には,ゆるい潮位の上昇が見られたにすぎず,床上浸水の程度ですんだのである。もう一つの条件は,鍋田川を狭んで鍋田干拓が前面に出ており,強い波浪を直接受けなかったということもある。
桑名市は死者198人,行方不明4人,計202人である。市域は最近完工した城南干拓の第1線堤防で護られ,旧堤はその第2線堤防としてそのまま存在していた。城南干拓は死者55人を出し,その背後城南地区(旧城南村)は132人の死者を出した。その原因は,城南干拓の第2線堤防たる旧堤が欠潰したからである。一見第2線堤防が存在しても大きな被害を出したように見えるが,もしも,城南干拓がなく,旧堤が第1線堤防であったならば,その大欠潰により桑名市の市街地が直接襲われ,今回に数倍する大災害になったと思われる。
衣カ浦湾岸で死者の特に多かった半田市(死者287人,行方不明3人,計290人)の事例を見ると,康衛町(50人)とその背後地日出町(161人)で2/3以上に達している。康衛町(康衛新田)の干拓は明治初年に行なわれ,その後第2線堤防の維持が悪く,堤防の用土をけづって宅地化していた。またこのような不完全な第2線施設の背後に,市街地が進出していたためである。名古屋市の場合とまったく同様である。
第2線堤防が欠潰しなかった事例について述べておこう。
三河湾岸の碧南干拓で第一線に大破堤を見たが,450人の入植者中死者は2人であった。昭和28年の13号台風の経験を生かし,退避したからである。この干拓の第2線堤防は切れていない。碧南干拓の背後地たる前浜新田に浸水したのは,前浜田の西側を流れる小河川の河川堤防が破堤したからである。
碧南干拓に矢作川を狭んで東に隣接する平坂干拓の場合も同様で,入植者180人はすべて退避し,第1線は破堤したが,1人の死者も出さなかった。第2線も破堤したが1人の死者も出さなかった。第2線も破堤しなかったのである。背後の小栗新田に浸水したのは東に接する小河川の堤防が欠潰したからである。
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2.防潮施設の状態
(1)第1線堤防
干拓によって形成された地域の第1線堤防には,海に直面する堤防と側面を護る河川堤防と二種類ある。しかし,干拓地が前進して,その干拓堤防が次第に河川堤防化したという意味,したがって,外海の潮位によって堤防の構造が規定されるという意味で,同じ範疇に入れられる。
今回の災害に特徴的に現れたように,海に直面する堤防は,高潮と波浪の合体したエネルギーにさらされ,被害は激甚になる。河川堤防の方は波浪のエネルギーは小さいから,破堤しても海に直面する堤防ほどのことはない。このことはすでに見たように,長島町の一部を例外として死傷者数の相違にかなり明瞭に現れている。
(a)海に直面する堤防
(i)堤防の形態
農林関係と建設関係の堤防には,形態上の相違がある。この地域の海に直面する堤防は,昭和28年の13号台風による被災後,大部分補修されたり,計画変更を行なって実現したもので,その結果,はっきりと横断面形に2つのタイプが現れるようになった。標準的な形で示すと図のごとくである。
標準的な横断面形状はこの2つに整理できるが、部分的な材料,形態については千差万別である。
海に面する護岸にはコンクリート,石張コンクリート,コンクリートブロック張コンクリート,練石積などがある。
護岸の基礎には栗石,コンクリート,無底函設置,基礎杭のあるものとないものなどがある。パラぺットも形態的に少しずつ違っており,支持杭のあるものとないものとがある。天端にはコンクリート張,アスファルト張,粘土張などがある。内法にもコンクリート張,アスファルト張,粘土張などがある。内法にコンクリートを張りながら,天端には粘土張にしているもの,極端なものでは同一海岸堤で危険度はあまり違わないと思われるのに,ある部分はコンクリート張であり,他の部分は粘土張になっているものさえあった。
内法尻の構造にも各種のものがある。
重視すべきは提体の用土であって,あるものは砂であり,あるものは山土である。サンドポンプを使用するようになってから築造された新干拓補修部分には砂が用いられている。古い干拓の堤防は山土である,古い干拓堤防を補修して笠上げしたものは下部は山土で,上部は砂の場合が多い。
13号台風後の補修で,古い干拓堤防の護岸を新しい護岸の内部に巻込んだものもある。堤防の前面に捨石のあるものとないものとある。
このような区別を生じさせる理由としては,予想される外力に相違があるということもあるだろう。潮位,波浪,これらはその海岸の位置,方向,対岸までの距離,前面の深浅,洲のつき具合,地盤の支持力などによって相違があるだろう。
しかし,この区別は外力の相違だけでは説明できない。担当技術者に認識の相違があり,堤防の形態と材料,施工は,外力とそれに対応する堤体の応力,あるいは水理学的応対を一様な形で認識していないためである。技術者が勝手な想像によって,自己の最も良しとするものを築造しているような様相を呈しているのである。つまり,海岸の堤防技術はおくれているのである。そうでなかったら,形態上に2種類のタイプが現れることさえありえないことである。
護岸,法保護に竹藪を使っている古いタイプも少なからずある。日光川の両岸,木曽岬村,長島町の河川堤防に多く見られる。河口に近い海岸堤と考えられるところにもいくらかはある。その破堤の状態を見ると,特に現代式の堤防より弱いような感じがしないのである。もちろん,河川堤防は波浪のエネルギーを受けることが少なかったためでもあるが,考慮すべき点があるように思う。
もちろん,古いタイプがよいなどと断定するのではない。現代的なタイプにも明確な設計上の基礎がないということである。
農林関係では古くからの干拓堤防の慣行的なタイプを重視し,建設関係ではそういうことがなかったためでもある。しかし,もっと重大なことは,細部の材料や施工法の相違にいたるまで,予算上の問題がからんでいたということである。
13号台風の復旧工事を見ると,農林関係の復旧費堤防1m当りは90,000円,建設関係では一色海岸の場合178,800円,全潰堤防については,農林関係113,800円,建設関係(一色海岸)245,000円と大きな開きがあるのである。堤防の背後法面までコンクリート巻立をやっていたものは強く,そうでないものは弱かったといわれているが,工事費の少いもの,あるいは予算事情で工事が遅れたものなどが弱かったといつてもよいのである。
一見,技術者の堤防の構造に関する考え方の違いから,その構造の違いに伴って,費用に相違が出てくるように考えられるが,海岸堤防のような危険性の大きな構造物でありながら,支出できる費用の限度の方から構造がきまるという,矛盾した結果になっているのである。工事の遅れは別として,一方は干拓の経済効果から支出限度が決められ,他は治水効果によって支配されるのである。
(ii)破堤の原因
第1線堤防の破潰機構については,それぞれの機関で,カ学的,水理学的検討が加えられているものと思う。ここでは個々の堤防の破潰の原因については述べないことにする。しかし,概括的にいうと,三つのタイプがあるようである。
1.堤防上を完全に溢流したと思われるもの
2.溢流はしていないが,砕波が堤防天端あるいは背面に落下しそれが原因だと思われるもの
3.動水圧が加わって倒潰したと思われるものとある。
堤防に作用する外力としては,普通高潮の位置のエネルギーに,波の運動のエネルギーが考えられている。この外に,今回の高潮は,波長の極端に大きな単独波であり,その前進に伴う水の運動のエネルギーが考えられる。今度の高潮の各地の観測結果を総合して見ると,高潮は秒速10m以上の速度で前進していることになるので,高潮の内部の水分子がいかなる運動を行なっているかは明らかではないが,普通の波の外に,ある程度の運動のエネルギーを持っているわけである。しかし,このエネルギーは転化して観測された潮位のなかにある程度現れていることも考えられる。このエネルギーの相互転化の機構とその程度は明かでない。
高潮の位置のエネルギー(潮位)は比較的よく観測されている。ところが,波については1~2の観測の外,事実をたしかめることができない状態である。それも波高程度で,波圧については観測は一つもなかったようである。最後の高潮個有の運動のエネルギーについては,要因として考える必要があるのかどうかさえ議論されたことがない。
破潰の第1のタイプは,運動のエネルギーが位置のエネルギーに転化したということが当然考えられ,第3のタイプは運動のエネルギーが圧力のエネルギーに転化した点を重視しなければならない。十分実体のつかめない運動のエネルギーこそ,破潰力としてどのように作用したか,まずたしかめなければならない要素である。
以上を総括すると
1.破堤の状態を調査分析し,その結論にもとづき外力の性質を,理論的実験的に確定すること。
2.研究の結果確定された外力に対応する最も理想的な堤防のタイプ,ならびに材料施工法を決定すること。
3.農林,建設など官庁間で設計条件の重要要素を統一すること。
4.干拓を入植,増反農家だけのものとみなさず,背後地の治水効果を大きく認めることなどである。
(b)河川堤防
河川堤防は波の影響を考慮する必要が少いためか,基本的なタイプには,海に直面する堤防のような相違はない。しかし細部には各種の相違がみられる。
やはり,海に直面する堤防あるいは従来の河川堤防との接続部の設計条件を均衡させるためにも,あまりに単位予算額に相違があってはならない。今回の災害においても,第2線堤防が無傷なのに,背後地に浸水したところが少なからず見られる。碧南干拓の背後地をなす前浜新田西測小河川堤防,平坂干拓の背後地たる小栗新田の入江堤防などは欠潰しているが,このような小河川堤防が軽視されていることは,干拓の側面の堤防とともに問題である。
知多半島の西側北部に位置する上野,横須賀両町地元の数個の干拓を見ると,大部分は13号台風後補修し,海に面する堤防は切れなかったのに,側面堤防が切れたところが多い。その状態を見ると,堤防を明らかに溢水(波頭が越えたのではなく潮位が堤防より高くなって)したもの,側面堤防の背後地堤防との取付部が低くしてあって,設計条件が不整いで,その部分から切れたものなどが見られるのである。
知多半島の東側,衣ヵ浦に面した半田市を中心とする干拓にも,干拓と干拓の隣りあう間の側面堤防が切れた場合が多い。小河川や入江に侵入してくる高潮は,波高は小さくても次第に盛上るという事実を十分認識していなかったように思われるのである。
長良,木曽,鍋田,日光,新,庄内川などの大きな河川の堤防にも数多の欠潰が見られるが,それらのうちには,堤防が元干拓提防であって,その上に家屋が建てられていたため,思うように補強できなかったものが少くない。特に鍋田川左岸堤は特徴的である。
また,すでに指摘したように,長島町,木曽岬村,日光川の両岸のように,堤防が竹藪で保護されているような旧堤のままのところが広く存在している。竹藪が十分に生長し法面を保護していたところは,抵抗力が強かった。
とにかく,感潮河川の河川堤防は統一的な設計基準を持っていなかったような感が深いのである。
今回の被害が発生した時間には,なおいずれの河川も流量は少なかった。そういう点から考えると,高潮を大きなフアクターと考えていなかったようにも感じられるのである。
(2)第2線堤防
(a)新干拓の第2線堤防
戦後造成された新干拓の背後堤(第2線堤防)は,新干拓が着工されるまでは,最前線の第1線であったわけで,極く最近になって第2線堤防になったものである。このような第2線堤防は,第1線の新干拓の場合を除き,欠潰していない。碧南干拓,平坂干拓,衣カ浦干拓と第2線堤防は切れなかった。その理由はいずれも伊勢湾奥に位置しなかったということもあるが,第2線になってからの日が浅く,今日でも第1線だったときとほとんど変らない強度を維持していたからである。
碧南干拓の第2線堤防にはほとんど護岸らしいものはなく,平坂の場合でも,法面下部に腰石垣(空積)があるきりで,決して強固な堤防ではなく,古い様式のものだったが欠潰していないのである。衣カ浦の場合も同様である。例外をなした鍋田干拓の背後堤は,東半分は末広新田の旧堤で,西半分は明治以前の旧干拓地の前面堤防だったものである。欠潰したのは西部背後堤の部分で,東部背後堤たる末広干拓の旧堤は破損はしているが,基礎まで欠潰するにはいたらなかつた。末広新田の堤防は,前述したように2ヵ所延長770mという大欠潰を見たのであるが,これは直接海に面していた部分で,鍋田干拓の背後堤になっていたところは切れなかったのである。
切れた西部背後堤も,比較的大きな欠潰は鍋田干拓と旧堤の取付部たる境部落付近に延長76mと70mと2ヵ所あるが,他は基礎までの欠潰ではない。末広新田や新政成新田のような大欠潰は生じていない。大欠潰の生じなかったところは,多数の死傷者を出すような激烈な破潰力を示さない。
城南干拓の背後堤は,西側は全面的に欠潰が大破損を生じている。北側はほとんど破損さえもしていない。西側と北側の堤防の高さに差があり,西側は低く完全に溢流したのではないかと思われる。城南干拓の第1線堤防は全面的に欠潰しているから一時に干拓地に侵入した大量の水は,脆弱な西側背後堤を溢流し,その背後旧城南村に激甚な被害を与えたのである。しかしこの背後堤の存在は,桑名市の市街地の被害を緩和するには大いに役立ったのである。
鋼田干拓と城南干拓の背後堤が欠潰した究極の原因は,伊勢湾奥で高潮のエネルギーが最大になるところに位置しており,第1線堤防の欠潰が全面的であり,エネルギーの消耗が十分でなかったからであるが,背後提の存在が,その背後地域の被害を縮少するに役立っていることを見逃してはならない。
(b)明治以前の干拓の第2線堤防
1.弥富町末広新田の背後堤
末広新田は明治26年に完成した。その背後堤は,大谷新田(明治13年完成),操出新田(明治5年完成)の旧堤,それに筏川沿いの右岸河川堤である。
末広新田の第1線堤防が大きく2ヵ所延長770m欠潰するや,上記背後堤はいずれもなんの抵抗力も示さず,越水破堤した。その原因は,背後堤をきりくずし,宅地と道路敷にしてしまっており,堤防がないに等しかったからである。大谷部落10人,操出部落25人もの死者を出した。
筏川はもとの木曽川の派川であったが,明治年間の木曽川改修工事の結果廃川となり,入口は木曽川堤防で締切られ,海への出口には樋門が築造され,海と遮断された。そして内水排除だけを受け持つ河川に変ったのである。ところが,その後,筏川は従来のような大きな断面も堤防も不必要であるとして,その堤防の一部を切りくずし,旧川の一部の開墾用土に使用した。その結果,河川堤は,今回の浸水に対し,なんら抵抗を示し得なかったのであった。
2.島村対新政成新田の中堤
新政成新田は明治14年に完成した。その背後堤は筏川の左岸河川堤防と政成新田(文化9年完成),飛島新田(享和1年完成)の旧堤(中堤)である。新成府新田の第1線堤防は1カ所460mという大欠潰を生じた。第2線堤防たる筏川の左岸堤がなんの抵抗をも示さなかったことは,末広新田の筏川右岸堤の場合と同じことであった。
政成新田と飛島新田との境界をなす中堤も結局は抵抗できず,越水大破した。聞取りによると新政成新田の第1線が欠潰し,同新田が満水した時も,隣接飛島新田には浸水していなかったという。飛島新田の日光川に沿う第1線堤防が欠潰する前に,中堤の方が先に欠潰したのである。この中堤の一部も宅地化して低くなっていた。
3.上野町名和前新田背後堤
名古屋市と天白川と狭んで隣接するこの新田は元録年間に完成した古い新田である。この第1線堤防は延長欠潰した。背後堤をなす南柴田新田の旧堤は抵抗を示さず越水した。旧堤の残骸のごとき状態になっていたのである。
4.半田市康衛新田の中堤
康衛新田は明治13年に完成した。康衛新田第1線堤防は3カ所延長357mの大欠潰を見たのであるが,この背後堤たる中堤は欠潰はしなかったが,なんの抵抗もなく越水し,前述したように,その堤上にあった多くの家屋,背後地にあつた市営住宅など多数の家屋を押流し,半田市内の死者の大部分を出してしまったのである。
以上見てきたように,程度には差があるとしても新干拓の背後堤がその背後堤としての機能を果しているのに,古い干拓の背後堤はほとんど抵抗を示さず越水している。このように背後堤は年月の経過とともに強度を失っており,維持管理は不充分になってゆくのである。殊に,上野町名和前新田とこの例が示すように,付近の都市化が著しいところでは,背後堤が宅地化するなど,その機能を失いやすいのである。
第2線堤防を第1線堤防のごとく強化する必要があるという意見がある。半田市の康衛町ではそういう考えで計画している。市街地に近いというようなその場所の特殊性から必要なところがないといえないが,そういう考えを一般化し,第1線堤防を軽視するようになっては行きすぎである。しかし,第2線堤防も強度を落さないように十分に維持管理する体制が,行政的に確立することは,最小限度に必要である。
また,第2線堤防といっても,個々なものではなく,第1線堤防が全体として大きな地域を保護するために均衡をえた全体計画によって統制される必要があるように,第2線堤防も全体計画の構成部分と考えられねばならない。一部が極端に強度が落ちているために,全体としての防備体勢に穴があくようでは困るのである。
(c)旧干拓堤防の他用途への転用
これまで見たように,第2線堤防でも堤防の機能を失いがちであるが,一応堤防の形を残しているものの方が多い。第3線となると大抵,切りならし宅地化したり,畑成りとなっており,ほとんど堤防の機能を果さなくなっている。干拓地帯では用土の取得が容易でなく,多少でも宅地を高めたいとか,畑が少いことからである。宅地化したり,畑成りとなった旧堤が第2線堤防の欠潰したあと,浸水に対しなんら抵抗を示さなかったのは当然である。
第2線堤防でも,河川堤防の背後の第2線堤防は,概して宅地化し堤防の機能をまったく失っていた。河川からの浸水に対する防備はまったく不充分であった。
これもまた,全体地域としての総合的な計画と,その維持管理の体制の必要性を示すものである。
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3.将来の干拓のあり方
(1)干拓投資の考え方
今回の災害を契機として,低いところに無理して耕地を造成する必要はないという議論があらわれた。わが国の最も肥沃の平野の多くが,われわれの祖先のたゆまぬ努力と,たびたびの災害にも屈しない意慾によって次第に拡大したものであることを知らないからである。
また,海岸線にそつて洲がつき,次第に高まってくると,その背後の干拓地の排水が悪くなる。また,前面に新しい干拓が造成されると,背後の干拓は災害に対し著しく安全度を増す。こういうことから,徳川時代でも,領主は新しい干拓からの年貢取立ての目的だけでなく,干拓の前進を望んでいた。ところが明治以降になると干拓は,ただ干拓起業者の私企業とのみ考えられるようになり,全体としての地域計画的な観点が見失われるに到ったのである。
干拓起業者の計画の主眼は,入植小作人からできるだけ多くの小作料を取ることであり,投資を必要最少限に切りつめることである。堤防は脆弱なものにならざるをえなかったのである。
ところが実際は,今度の災害が明白に示したように,干拓堤防は,自身を護るばかりでなく,背後の広大な古い干拓地域全体を護っているのであり,護るべく運命づけられているのである。というのは,前面に新しい干拓が造成されると,背後の従来の干拓地は安全になり,高潮のようなまれな災害はなかなか起きないから,古い干拓堤防の維持管理は次第におろそかになるからである。
戦後政府は干拓に対し財政投融資の道を開いたのであるが,今回のような大災害を防止することを目的とは考えていなかった。入植増反農家に関する経済効果の外に、国土保全効果も考慮せられてはいたが,施設の維持管理費の軽減程度を見込んでいたにすぎない。農家の入植増反については,今日では,商工業が発達し,一見これらの産業に就業の機会を求めればよく,特に干拓による理由がないように見える。しかし,これらの産業部門が全国民の就業と生活を保証しないかぎり,干拓による生活基礎の拡大を止めることはできない。干拓で人口問題が解決されるわけではないが,堤防で囲めば,ただちに安定せる生産が確保できるということは,わが国のような経営面積の狭い農家にとっては,大きな魅力なのである。
国土保全を大きく考慮して,農民の要請に答えること,これが干拓の進むべき方向であろう。
(2)防潮施設のあり方
(a)既存条件の整理
長良川から新川までの区間,三重県桑名市,長島町,木曽岬村,愛知県海部郡,名古屋市の一部の基本施設の配置について,
1.鍋田川を廃川にすること。
2.日光川の河口樋門を早急に建設すること。
3.海に面する第1線堤防としては,城南干拓,長島町,木曽岬村の前面,鍋田干拓,末広新田,新政成新田,飛島新田の日光川河口樋門までの部分,南陽町膝高前新田の海岸堤を同一設計条件で十分な強度を持つように修築すること。
4.河川堤防としては,桑名市,長島町沿いの長良川堤,長島町,木曽岬村沿いの木曽川堤新川右岸堤を海岸堤防と均衡のとれた構造にすること。
5.第1線堤防の万一の欠潰に備えるための第2線堤防としては,まず,廃川にする鍋田川の左岸堤を残し,その強度を維持するため十分な管理を行なうこと。
6.日光川両岸の堤防は河口樋門が完成しても存続し,第2線堤として強度を維持すること。
7.海に面する地域の背後第2線堤としては,桑名市城南干拓の背後堤,長島町の松蔭部落の背後堤,木曽岬村の藤里松永部落の背後堤,鍋田干拓の背後堤,末広新田の背後堤と筏川の右岸堤,新政成新田の背後堤たる中堤と筏川の左岸堤,南陽町藤高前新田の背後堤の強度を維持すると共に古い弱体化した背後堤を他と均衡のとれるまで補強すること,つまり第2線までは堤防の機能を失わせてはならないということである。
以上を総括すると図のごとくなる。
(b)名四国道予定線を考慮した場合
将来敷設される名四国道に第2線堤防としての目的を持たせる場合には,上記のうち第2線堤防のあり方を多少変更しなくてはならない。海に面する地域の背後堤は,第1線堤防と予定名四国道を結ぶ区間に限定できる。その場合,名四国道の高さは,背後堤の高さと均衡し,少くも満潮位に等しくなければならない。
(c)抜本対策との関係
この地域の抜本的対策としては,運輸省,建設省,農林省からそれぞれ案が出されている。このような案のいずれかが実現する場合には,今日の第1線堤防あるいはその一部が第2線化することも考えられる。かかる場合には,第2線のあり方は大きく変更できる。それにしても,かくて第2線化する今日の第1線のあり方は,全地域としての統一のある計画に沿って立案しなければならない。
(d)第2線堤防の維持管理
必要な第2線堤防を河川堤防同様,地方行政として維持管理する体側をつくる必要があることを強調する。
(3)干拓と臨海工業用地埋立の関係
戦後企業の大規模化に伴い,内陸部に用地を取得することが困難となったこと,工業原料,製品の輸送上港湾施設を必要とすることなどから,大都市の周辺の浅海を埋立て,工場用地と港湾施設を造成する。いわゆる臨海工業地帯造成計画が大規模に計画されるようになった。都市近郊の良好な干拓予定地は,また工業用地としても最適な立地条件をそなえているのである。
今後わが国の工業的発展は,主として臨海部の工業的発展によってもたらされると考えられる。干拓がこれを阻止し,計画をゆがめる条件となることは好ましくない。
しかし,各地の臨海工業地域計画を見ると,府県や市町村までが,勝手に,それぞれの希望的観測によって,十分な検討も加えないで,立地条件の欠けていることもかまわず,また,わが国全体としての工業の成長の確たる見通しも持たないで計画し,ペーパー・プランだけで,工場誘致にやっ気になっているとも見える。こういう傾向が農地開発を阻害し,地元農民の発展をはばむこともよろしくない。
さらに,行政官庁の各部局で勝手な計画を立案し,予定地の取りあいをやっているようにも見られる。このようなゆき方は,全体としての計画に均衡を欠く結果となり,将来に大きな禍根を残すこととなろう。
干拓地を工業用地や宅地に転用する場合,干拓入植者や増反者に不当な不利益や利益を与えないこと,農業のために投下された財政支出が無駄になったり,工業用地のために支出されたような結果になったりしないことなど,農林行政として,具体的な対策が立案される必要がある。
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