伊勢湾台風と臨海都市
I 臨海都市の水害対策について 伊藤武雄・高山英華ほか
II 名古屋市の市街地被害 新海悟郎・入沢 恒
III 伊勢湾台風と工業被害 栗原東洋
IV 工場被災の実態 紺野昭
V 名古屋市の市街地形成過程と土地利用について 石倉邦造・笹生仁
VI 都市における防水対策の実態 栗原東洋
VII 都市の防災計画と災害危険区域の指定について 新海悟郎・入沢恒
VIII 干拓地域都市化対策の問題点 新沢嘉芽統
IX 伊勢湾台風災害対策における行政上の諸問題 小関紹夫
X 災害と地方財政 加藤芳太郎
-研究参加者-
安芸 皎一 科学技術庁科学審譏官
紺野 昭 建設省建築研究所第一研究部
伊藤 武雄 政治経済研究所理事長
坂田善三郎 科学技術庁資源局
石倉 邦造 科学技術庁資源局科学調査官
笹生 仁 科学技術庁資源局
入沢 恒 建設省建築研究所第一研究部
新沢嘉芽統 東京大学農学部助教授
大島 幹羲 財団法人野口研究所常務理事
新海 悟郎 建設省建築研究所第一研究部長
小関 紹夫 国立国会図書館専門調査員
平 貞蔵 東北開発審議会総合部会長
加藤芳太郎 東京都立大学法経学部助教授
高山 英華 東京大学工学部教授
川島 芳郎 科学技術庁原子力局調査課
松井 達夫 早稲田大学理工学部教授
木村 三郎 首都圈整備委員会事務局調整官
宮下特五郎 科学技術庁資源局
栗原 東洋 国民経済研究協会
山越 道三 国立国会図書館専門調査員
目次
I 臨海都市の水害対策について
まえがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・31
1 都市水害と防災対策の展開過程・・・・・・・・・・・・33
2 土地利用計画の確立・・・・・・・・・・・・・・・・・34
1)防災計画との関連・・・・・・・・・・・・・・・・34
2)土地利用計画の類型・・・・・・・・・・・・・・・35
(1)既成市街地の体質改善による再編成・・・・・・35
(2)周辺部開発による内陸地域への誘導・・・・・・36
(3)臨海地域の計画的開発・・・・・・・・・・・・36
3 防災施設計画の確立・・・・・・・・・・・・・・・・・37
1)計画の目標・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
2)都市の外郭施設について・・・・・・・・・・・・・37
(1)海岸施設・・・・・・・・・・・・・・・・・・37
(2)河川施設・・・・・・・・・・・・・・・・・・38
3)内部施設について・・・・・・・・・・・・・・・・39
(1)第二線的施設・・・・・・・・・・・・・・・・39
(2)地盤嵩上げ・・・・・・・・・・・・・・・・・39
(3)その他の施設・・・・・・・・・・・・・・・・40
4)地域による各種対策の適用について・・・・・・・・41
(1)臨海地域の計画的開発の場合・・・・・・・・・41
(2)自然発生的な市街化地域の場合・・・・・・・・42
(3)既成市街地再開発の場合・・・・・・・・・・・42
4 都市防災計画の促進・・・・・・・・・・・・・・・・・42
1)防災計画区域の指定・・・・・・・・・・・・・・・42
2)土地区画整理事業の内容拡大・・・・・・・・・・・43
3)特別法の制定と財源の確保・・・・・・・・・・・・43
4)施設の維持管理の強化・・・・・・・・・・・・・・44
II 名古屋市の市街地被害
1 まえがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
2 市街地の被害・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
1)被災地の概況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・45
2)浸水湛水状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・46
3)木材流出状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・48
4)建築物被害の分布状況・・・・・・・・・・・・・・48
5)避難状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
(1) 緊急避難・・・・・・・・・・・・・・・・・49
(2) 収容避難・・・・・・・・・・・・・・・・・50
6)特殊施設の被害・・・・・・・・・・・・・・・・・51
(1)公共建築物の被害・・・・・・・・・・・・・・51
(2)住宅団地の被害・・・・・・・・・・・・・・・51
3 対策と間題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52
1)被害の特色・・・・・・・・・・・・・・・・・・・52
2) 防災計画の方針・・・・・・・・・・・・・・・・52
3)都市計画上の対策・・・・・・・・・・・・・・・・53
III 伊勢湾台風と工業被害
1 伊勢湾台風による災害の概況・・・・・・・・・・・・・54
1)災害とその類型・・・・・・・・・・・・・・・・・54
2)工場災害の総括・・・・・・・・・・・・・・・・・57
3)工場災害とその類型・・・・・・・・・・・・・・・61
2 名古屋港の貯木場と貯木被害・・・・・・・・・・・・・65
1)既往の災害と貯木被害・・・・・・・・・・・・・・65
2)伊勢湾台風と貯木被害・・・・・・・・・・・・・・68
3)貯木被害の検討・・・・・・・・・・・・・・・・・70
3 工業立地と工場被害・・・・・・・・・・・・・・・・・71
1)工業地帯と災害の類型・・・・・・・・・・・・・・71
2)工業災害と輸送問題・・・・・・・・・・・・・・・73
4 工業地帯の配置と防災対策の間題点・・・・・・・・・・76
IV 工場被災の実態
1 まえがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・79
2 工場被災の概要と特徴・・・・・・・・・・・・・・・・81
3 工場の防災措置・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83
1)地盤高と高潮対策・・・・・・・・・・・・・・・・83
2)台風時の緊急対策・・・・・・・・・・・・・・・・85
4 工場被災の実態・・・・・・・・・・・・・・・・・・・86
1)浸水状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・86
2)流木による被害・・・・・・・・・・・・・・・・・87
3)被災の内容・・・・・・・・・・・・・・・・・・・87
(1)工場建物の損害・・・・・・・・・・・・・・・87
(2)機械プラント類の損害・・・・・・・・・・・・88
(3)製品・半製品・部品の損害・・・・・・・・・・88
(4)原材料の損害・・・・・・・・・・・・・・・・88
(5)操業停止による損害・・・・・・・・・・・・・89
(6)敷地・建物の復旧整理・・・・・・・・・・・・89
(7)機械・工作物の復旧修理・・・・・・・・・・・89
(8)従業員などの緊急救援・・・・・・・・・・・・89
5 復旧の状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・90
1)従業員の通勤状況・・・・・・・・・・・・・・・・90
(1)居住先と罹災率・・・・・・・・・・・・・・・90
(2)出勤率・・・・・・・・・・・・・・・・・・・90
(3)通勤状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・91
2)復旧のための搬送・・・・・・・・・・・・・・・・94
3)下請工場の被災とその影響・・・・・・・・・・・・94
6 社宅の被災について・・・・・・・・・・・・・・・・・96
1)被災の状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・96
2)応急復旧対策・・・・・・・・・・・・・・・・・・97
3)防災対策について・・・・・・・・・・・・・・・・98
7 工場被災の問題点と若干の対策・・・・・・・・・・・・99
V 名古屋市の市街地形成過程と土地利用について
1 問題の所在・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・103
2 被害激甚地域の土地環境・・・・・・・・・・・・・・・105
1)低湿な旧干拓地・・・・・・・・・・・・・・・・・105
2)市街地化の過程にある工業地区・・・・・・・・・・105
3)地下水利用の影響・・・・・・・・・・・・・・・・106
3 被災地域の工業化と市街地形成過程・・・・・・・・・・107
1)名古屋市発展の概観・・・・・・・・・・・・・・・107
2)工業発展の過程とその性格・・・・・・・・・・・・107
(1)臨海部への工業展開・・・・・・・・・・・・・107
(2)臨海地域整備の立ち遅れ・・・・・・・・・・・108
3)周辺部の市街化・・・・・・・・・・・・・・・・・109
(1)市街地の外延的拡大過程・・・・・・・・・・・109
(2)戦災復興と宅地開発・・・・・・・・・・・・・110
4 土地利用計画上の間題点・・・・・・・・・・・・・・・111
1)埋立地背後の既成市街地の再開発・・・・・・・・・112
2)西部外延地域の土地利用について・・・・・・・・・112
3)工場地区とその従業員の住宅地区との関係・・・・・114
VI 都市における防水対策の実態
1 都市水害と防水対策の展開過程・・・・・・・・・・・・125
1)都市防水とその契機・・・・・・・・・・・・・・・125
2)内水処理の展開・・・・・・・・・・・・・・・・・126
2 低地防災計画と問題点・・・・・・・・・・・・・・・・128
VII 都市の防災計画と災害危険区域の指定について
1 都市の防災計画・・・・・・・・・・・・・・・・・・・131
2 低地域における建築物の水害対策・・・・・・・・・・・132
3 災害危険区域と建築規制・・・・・・・・・・・・・・・133
4 名古屋市災害危険区域の指定基準案・・・・・・・・・・135
1)要旨・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・135
2)要綱案・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・135
(1)災害危険区域の種別・・・・・・・・・・・・・135
(2)災害危険区域の指定・・・・・・・・・・・・・136
(3)災害危険区域内の建築物および敷地の制限・・・136
(4)特殊建築物および敷地の制限・・・・・・・・・138
(5)構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・138
(6)雑則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・139
5 今後の問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・139
VIII 干拓地域都市化対策の問題点
1 全面的埋立の可能性の検討・・・・・・・・・・・・・・141
2 埋立地域の範囲・・・・・・・・・・・・・・・・・・・142
3 都市化に関する規制・・・・・・・・・・・・・・・・・144
4 干拓計画と埋立計画との調整問題・・・・・・・・・・・146
1)経済価値の比較・・・・・・・・・・・・・・・・・146
2)実現の時期による比較・・・・・・・・・・・・・・147
5 都市計画の問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・148
IX 伊勢湾台風災害対策における行政上の諸問題
1 序説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149
2 問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・150
X 災害と地方財政
1 災害の地方財政に及ぼす影響の性格・・・・・・・・・・156
2 影響の実態と問題点・・・・・・・・・・・・・・・・・158
1)歳出に与える影響と問題点・・・・・・・・・・・・158
2)歳入に与える影響と問題点・・・・・・・・・・・・159
3 あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・161
~~~~図 表~~~~
II-1表 住宅団地の被害状況・・・・・・・・・・・・・・52
III-1表 人的および建物被害(その1)・・・・・・・・・55
III-2表 人的および建物被害(その2)・・・・・・・・・56
III-3表 人的および建物被害(その3)・・・・・・・・・56
III-4表 商工関係被害(その1)・・・・・・・・・・・・58
III-5表 商工関係被害(その2)・・・・・・・・・・・・58
III-6表 業種別の工業被害と復旧状況(愛知県)・・・・・59
III-7表 業種別規模別工業被害(東海3県)・・・・・・・60
III-8表 岐阜県の商工関係被害・・・・・・・・・・・・・61
III-9表 伊勢湾台風による損害保険支払総額・・・・・・・64
III-10表 名古屋港の貯木施設・・・・・・・・・・・・・68
III-11表 名古屋港における木材の輸移入量・・・・・・・69
III-12表 台風直後の国鉄各駅の冠水状況・・・・・・・・75
IV-1表 被災後の従業員出勤率・・・・・・・・・・・・・91
VI-2表 調査工場の従業員被災状況・・・・・・・・・・・92
IV-3表 被災後の復旧状況・・・・・・・・・・・・・・・95
IV-4表 被災後の工場稼動率・・・・・・・・・・・・・・96
IV-5表 社宅・寮の被災状況・・・・・・・・・・・・・・97
V-1表 名古屋市の区別入口推移・・・・・・・・・・・・・115
V-2表 名古屋市の区別産業構成(就業者数)・・・・・・・116
V-3表 名古屋市の区別工業構成(従業者数)・・・・・・・116
V-4表 名古屋市の工業構成の推移(区別・業種別)・・・・118
V-5表 名古屋市工業の規模別構成・・・・・・・・・・・・120
V-6表 名古屋市工業の区別規模別構成(工場数・従業者数)・120
V-7表 六大都市の人口増加率・・・・・・・・・・・・・・121
V-8表 六大都市の産業別人口構成の推移・・・・・・・・・122
V-9表 六大都市の工業構成(工場数・従業者数)・・・・・123
V-10表 三大都市の規模別工場従業者数・・・・・・・・・・124
付図1 伊勢湾台風被害状況図
a 名古屋市部・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
b 伊勢湾沿岸地域・・・・・・・・・・・・・・・・・3
付図2 南部低地域の最高浸水水位図・・・・・・・・・・・・4
付図3 南部低地域の湛水水位図・・・・・・・・・・・・・・4
付図4 南部低地域の床上湛水日数図・・・・・・・・・・・・5
付図5 南部低地域の湛水日数図・・・・・・・・・・・・・・5
付図6 南部低地域の建物被害率図・・・・・・・・・・・・・6
付図7 南部低地域の建物流失率図・・・・・・・・・・・・・6
付図8 南部低地域の建物全壊率図・・・・・・・・・・・・・7
付図9 南部低地城の建物半壊率図・・・・・・・・・・・・・7
付図10 南部低地域の木材流出状況図・・・・・・・・・・・・8
付図11 南部低地域の緊急避難状況図・・・・・・・・・・・・8
付図12 南部低地域の緊急避難における施設利用図・・・・・・9
付図13 南部低地域の避難者収容施設分布図・・・・・・・・・9
付図14 地盤高図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
付図15 干拓・埋立年代図・・・・・・・・・・・・・・・・・11
付図16 土地利用現況図・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
付図17 用途地域図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
付図18 市街化計画図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・14
付図19 市域拡張図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
付図20 市街地発展図
a 明治22年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
b 明治23年~大正9年・・・・・・・・・・・・・・・・16
c 大正10年~昭和7年・・・・・・・・・・・・・・・・17
d 昭和8年~昭和13年・・・・・・・・・・・・・・・・17
e 昭和14年~昭和22年・・・・・・・・・・・・・・・・18
f 昭和23年~昭和28年・・・・・・・・・・・・・・・・18
g 昭和29年~昭和31年・・・・・・・・・・・・・・・・19
付図21 戦災焼失区域図・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
付図22 名古屋港修築工事年代図・・・・・・・・・・・・・・20
付図23 主要工場の時期別設立状況
a 明治20年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22
b 明治21年~明治30年・・・・・・・・・・・・・・・・22
c 明治31年~明治40年・・・・・・・・・・・・・・・・23
d 明治41年~大正6年・・・・・・・・・・・・・・・・23
e 大正7年~昭和2年・・・・・・・・・・・・・・・・・24
f 昭和3年~昭和12年・・・・・・・・・・・・・・・・24
g 昭和12年~昭和20年・・・・・・・・・・・・・・・・25
h 昭和21年~昭和33年・・・・・・・・・・・・・・・・25
付図24 主要工場分布図(昭和32年現在)・・・・・・・・・・・26
付図25 被災調査工場の設立年次別構造別社宅寮分布図・・・・・27
付図26 被災調査工場の区別地区別従業員分布率図・・・・・・・27
付図27 被災調査工場の復旧状況図
a 60%復旧状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
b 100%復旧状況・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
付図28 建築着工面積動態指数図(昭和34年度)・・・・・・・・29
付図29 地価図(昭和33~34年)・・・・・・・・・・・・・・・30
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I 臨海都市の水害対策について 伊藤武雄・高山英華ほか
まえがき
1 都市水害と防災対策の展開過程
2 土地利用計画の確立
1)防災計画との関連
2)土地利用計画の類型
(1)既成市街地の体質改善による再編成
(2)周辺部開発による内陸地域への誘導
(3)臨海地域の計画的開発
3 防災施設計画の確立
1)計画の目標
2)都市の外郭施設について
(1)海岸施設
(2)河川施設
3)内部施設について
(1)第二線的施設
(2)地盤嵩上げ
(3)その他の施設
4)地域による各種対策の適用について
(1)臨海地域の計画的開発の場合
(2)自然発生的な市街化地域の場合
(3)既成市街地再開発の場合
4 都市防災計画の促進
1)防災計画区域の指定
2)土地区画整理事業の内容拡大
3)特別法の制定と財源の確保
4)施設の維持管理の強化
まえがき
この論考は、本会の伊勢湾台風災害調査特別委員会の一環として組織された社会経済グルーブが、昨年11月以来調査を行ってきた諸成果に基づき、都市計画・工業立地の側面から、臨海都市一般についての水害対策とその問題点とを考察し、取りまとめたものである。
しかし、この種の問題には、経済発展の地域的な動向、とくにこのなかにおける臨海部のあり方など、将来の洞察の如何に関連するところが多く、さらに、この調査の手続き的な面から云うと、調査期間が短期日に限られていたため、多くの都市についての事例調査とか、外郭施設の土木技術面での共同討議が不足であったきらいがある。かかる意味において、本資料は、われわれなりの側面でとらえた問題的考察とも云うべきものであり、対策のあり方一般については、今後の組織的な研究に俟つ所が多い。
また、直接対象としたのが今次災害による名古屋市部の被害とその対策であった関係上、水害対策とは云っても高潮の対策が中心となり、災害時の水防対策や応急事後対策に関する諸措置にも殆んど紙巾をさき得なかったことを附言しておかねばならない。
なお、この調査の過程において提出された諸成果も、これとあわせ、付属資料としてそれぞれ掲載してある。個々的はあるが、この報告の論述の基礎或いは具体的見解については、これらの諸資料によって知られたい。
これら一連の諸調査を行ってきた社会経済グループのメンパーは下記の如くである。
(五十音順)
**安芸皎一 科学技術庁科学審議官
*伊藤武雄 政治経済研究所理事長
石倉邦造 科学技術庁資源局科学調査官
入沢 恒 建設省建築科研究所第一研究部
大島幹義 財団法人野口研究所常務理事
小関紹夫 国立国会図書館専門調査員
加藤芳太郎 東京都立大学法文学部助教授
川島芳郎 科学技術庁原子力局調査課
木村三郎 首都圏整備委員会事務局計画第二部調整官
栗原東洋 国民経済研究協会
紺野 昭 建設省建築研究所第一研究部
坂田善三郎 科学技術庁資源局
笹生 仁 科学技術庁資源局
新海悟郎 建設省建築研究所第一研究部長
新沢嘉芽統 東京大学農学部助教授
平 貞蔵 東北開発審議会総合部会長
*高山英華 東京大学工学部教授
松井達夫 早稲田大学理工学部教授
宮下特五郎 科学技術庁資源局
山越道三 国立国会図書館専門調査員
(注)**:伊勢湾台風災害調査特別委員会委員長
*:伊勢湾台風災害調査特別委員会 幹事
なお、この報告の原案を直接担当したものは、小関・木村・新沢・栗原・入沢・加藤・紺野・宮下・笹生の9名であり、グループ全体の共同討議を重ね、最終的に取りまとめたものである。
1 都市水害と防災対策の展開過程
都市水害は、わが国がその都市を河川下流の沖積平野におくようになって以来の、都市経営における大きな問題の一つであるが、とくに近年にいたり、臨海部への工業化・市街化が、急激に進むに伴って大規模な災害が相次ぎ、これが対策は一そう根本的な問題を投げかけるにいたった。
都市防水の最初の事業は、いうまでもなく外水の防禦であった。この典型的な事例は、明治18年の淀川下流の大氾濫と大阪の未曾有の浸水(死者78名、浸水家屋71,249戸、うち流失・損壊等17,122戸、浸水反別15,269町歩)を契機として着工された明治29年以降の淀川改修事業である。その核心は、大阪の市街地に入る前で、洪水を快疏させるための放水路を新淀川として新削したことである。明治43年、この全事業は完成した。
これに続いて、東京の場合では、同じく荒川に新荒川を掘削して放水路たらしめている。荒川下流は、古くから大川と呼ばれる隅田川であるが、その隅田川の洪水を遠く市外に追放しようというのである。これは明治43年の、利根川・荒川における東京をもまきこんだ大水害を契機とするもので、明治44年以降の工事である。
ところで、都市防水としては、このような外水防禦だけでなく、内水排除の対策が問題になってきた。
こうした動きは、一つには、外水防禦の放水路その他の施設にも拘らず、水位上昇のため、内水の排除が困難になったことによって推進された。たとえば、新荒川の場合、旧来からの中川・綾瀬川、さらにこれらの派川を含めた大小の運河および排水路があり、縦横に連繋しているが、新河道の開削はこれらを横断することになり、そのため樋門の設置をみたものの、外水の水位上昇のさいには当然に内水の排除ができがたかった。
もう一つは、主として水田利用の形をとっていた郊外における低湿地への市街地化の発展によって、外水はもちろん内水の場合でも、その被害を激成するに至ったことである。
以上の主として河川洪水によってもたらせる災害とは別に、異常高潮に対する防禦がある。重化学工業の発展に伴い、臨港地域の工業化・市街化が急速に進むに及んで、とくに問題となって来たものであり、典型的な事例として、昭和9年の室戸台風を契機として着工された大阪港復興修築事業があげられよう。
この核心は、風潮防禦陣の第一線として、最も堅牢強固な外郭防波堤を構築するとともに、内港枢要の個所に波除堤を築造して、波浪の破壊力を滅殺することにおかれ、昭和10年から着工された。しかし、この計画は間もなく戦時のために中絶して終戦を迎え、本格的な高潮防災対策が着工されたのは、更に降って昭和25年のジェーン台風を契機とした大阪港湾修築10ヵ年計画といえよう。
この計画で注目されることは、いわゆる港湾諸施設や市内河川・海岸にそう防潮堤の整備と併行して、盛土工事を含んだ区劃整理工事が大規模にとりあげられたことである。ただ、このような全面地上げが施工されえたのには、ここの臨海地帯が、数次の空襲に加えて、昭和9年頃から激しくなった地盤沈下などによって荒廃の極に達していたという事情を見逃すことは出来ない。昭和21年に行われた大阪港水害対策工事での埠頭地区などの地上げは、地盤嵩上げの先駆をなすものといえる。
以上のように、過去の都市水害対策は、主に災害後の事後対策として、放水の開削、河川の改修、排水施設の整備、都市中小河川・海岸における防潮堤の築堤などの形で行われてきたが、それらの多くは、都市計画事業としてではなく、所管する当局ごとに、単独の公共事業として個別に実施されてきた。また、都市計画事業として行われる場合においても、都市の土地利用計画や、全般の総合的な施設計画との関連が薄いままに実施されるのが通例であり、とくに防災面については大災害の度毎に応急的に取り上げられてきたきらいがあった。
この理由は、都市計画は、本来、都市全般に関する総合的土地利用計画や、これを基とした全般的施設計画を本旨とするにもかわらず、従来の都市計画は、これら総合的な計画が十分検討され立案されないままに、現実に当面する都市の部分的改造や拡張の事業に追われ、主として集団的な建築規制を内容とする用途地域制や、部分的な街路事業、土地区劃整理事業が、それぞれ当面の目的にそって別個に行われてきたため、ややもすれば防災的配慮が欠け、土地利用計画や都市施設計画と災害対策との結びつきが薄く、火災についてはともかく、各種の水害対策については十分その効果を発揮しなかったものとみられる。とくに急速に発展を遂げる都市の周辺部では都市計画事業が追いつかず、防災はもちろん、生活環境の整備がきわめて不十分な状況であった。
このような事態のなかで発生したのが、今次の伊勢湾台風による名古屋の大きな被害である。もちろんその被害の原因や経過には、なお検討すべきものがあるにしても、その市街地が長期湛水に至った水害は、これまでのような都市防水対策に対して、きびしい批判を投げかけている。
2 土地利用計画の確立
1)防災計画との関連
近年におけるわが国経済の発展はきわめて著しい。大都市はますます工業や人口を吸收しながら周辺部へ外延的発展をつづけ、地方都市でも重化学工業化への動きを反映し、埋立地を造成してここに大工場を誘引し、これに関連して中小工場群や社宅・一般住宅が埋立地に連担した低地域にのび、臨海部の工業都市化がすすめられている。
このような急激な市街化は、生産のためにも生活のためにも、必要な各種の施設が整備されないままに、低地域のなかに、あるいは農耕地を喰い荒しつつ拡がってゆく。
都市を災害から守るためにはどうすればよいかということを考える以前の間題として,この急激にしてしかも自然発生的に放置される都市化の問題がある。この解決のためには土地利用計画が改めて検討されねばならない。
現在では、すでに自然発生的に作られた市街地や土地の利用から逆に土地利用計画が作られる場合が往々ある。しかし、人間社会および経済の動向の察知の上で今後のあり方が計画として決定されなければならない。すなわち、新しい都市像を意図的に含んだ土地利用計画が確立されねばならない。
ところで、この土地利用計画に対応してたてられる各種施設を防災という点から検討すると災害のための直接的な対策と経常的に人間の生活環境の向上とその防護を目的とするものとでは異なった内容をもっているという点に注意しなければならない。もちろん、どの施設も災害に対して安全であり、かつ人間の生活の向上に資するように設けられることが究極の目標ではあるが、実際には各施設の技術や投資、地域の特性などの諸条件によって、各々に万全を期することはむずかしい。そこでこの二つの目的のものを区別し、その相互補完によって都市の防災性を高めつつ人間生活に役立たせるという考え方が出てくる。
2)土地利用計画の類型
土地利用計画の作成に当っては、単に一都市市域内における市街化・工業化の過程や動向のみによらず、全国的視野にたった工業や都市の地域的発展の動向とのつき合せの上になされなければならない。また、例えばすでに市街地になっている地区、市街化が進行しつつある地区、近く市街化が予想される地区、市街化の見込みの少い地区など、同一地域内においてもいろいろの性格をもった地区がある。それを画一的な手法や手順によって行ってゆくことは無意味であり、条件に応じた計画が導かれなければならない。
計画の内容やその狙い、手法などから考えると次の三つのものが基本となる。すなわち
a 既成市街地の再編成
b 内陸地域への誘導
c 臨海地域の計画的開発
である。
(1)既成市街地の体質改善による再編成-市街地再開発-
都市化の伸展につれて、既成市街地では宅地の細分化、利用の混合化がすすみ、より密集市街地へとすすむ。住宅地として居住環境を確保することを目的として改善する地区であるのか、エ業地として生産環境をととのえるべき地区であるかを明らかにし、また、それぞれの地区の災害危険度に対応して、外郭施設の強化と併行して、土地建物その他の規制と指導とを行い、都市の体質改善を実現して行かねばならない。
ところで、この場合に問題なのは、京浜の江東地区にしろ、中京の中川運河地区にしろ、低湿地には中小或いは零細な企業が多く定着しているということである。つまり、自主的な防災措置の能力の低い企業を主としており、それらの集った市街地もまた、全般的にこの能力が低い。都市防災の上からいうと、このような工場・住宅の立地を規制するとか、或いは増改築にさいして防災化をはかることなども必要となろうが、このためには単なる規制では容易に実現する箸がなく、行財政的な措置が伴わなければならない。
(2)周辺部開発による内陸地域への誘導
市街地の外延的発展は、水運の便や地価などに誘引されて臨海低地に指向しがちであるが、この場合、急速な市街化は農地を蚕食することになり、このため農業経営上の問題が生じ、他方新らしく立地する住宅や工場にとっては環境が整備されていないために生活や経営上の問題が生ずる。このような地域が農業の面からも都市施設の面からも放置されるからである。このような現象は都市周辺一般にみられるが、とくに臨海低地の場合には災害に対して無防備な状態に陥り易くなる。
臨海低地への無計画・無統制な発展を排除する一つの方法として内陸周辺部を開発整備することによってこれらに市街化を計画的に誘導することが考えられねばならない。
事実、京浜の場合、未だ顕著とはいいがたいが、内陸部の高燥地帯が工場適地として注目され始めており、城西の内陸部は八王子市や相模原市など新興工業地域として発展しようとしている。これを促進したのは、昭和34年4月に制定された「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」である。
このような内陸化の傾向は必ずしも京浜のみの現象ではなく、中京の場合でも同様である。例えば、最近豊田地区へのトヨタ自動車の関連部門の諸工場の集中があげられよう。
もちろんこのような傾向は必ずしも災害対策として発生したものではなく、また、現状では比較的大中規模のものが多いのであるが、内陸部の方が企業的にも有利な業種も少くないのであるから、今後の工業開発に当っては内陸部への分散配置を計画的に促進する必要がある。
ただ、この場合においても、問題なのは低湿地に定着しがちな中小工場の誘致であり、このためには、目的に応じた事前の投資と規制・指導などが必要となる。また、このような誘導も、ある部分は急速に、ある部分ではかなりな時間を要する場合があるから、これに対する手法もまた条件に応じ段階に応じた計画がたてられなければならない。
(3)臨海地域の計画的開発
重化学工業化に対応して、臨海部の工業地域化は、今後ますます進展すると考えられる。
工業地域が臨海部にあっても、それらの工場従業員の居住適地として、通動上支障が少くなく、地盤が高く、水災に対して危険のない地域を求めうる場合には、これは積極的に開発すべきである。臨海部の工場地域には水災防止の対策が必要であるが、住居地域にはその必要がなくなるからである。
前面臨海部に埋立による工業地域が造成され、工場従業員の住宅地、あるいは関連中小工場などに対して、安全な地域を求めることが困難であって、どうしても埋立地背後の低地域を開発しなければならない場合がありうる。
前項の如く水害のおそれのある地域の市街化をやめ、内陸部を開発するといっても、土地を有効に利用する面から、あるいは経済活動の利便の上から限度が出てくる。このような土地をも積極的に改造し、計画的に開発することが考えなければならない。
このような地域に対しては、とくに外郭施設に留意して、内部への工業および人口の誘引を容易にするべきであるが、土地利用のあり方としては、将来、工業地として開発される場所をできるだけ工業専用地区として住宅等を禁止することは防災対策上からも望ましいことである。また工業地と工場従業員のための住宅地との配置関係を考慮して、工業地域や住居地域を計画的に配置・指定すること、さらには従来の用途地域制が単に消極的な建築規制・都市計画制限にとどまっているのを、積極的に、工業地域であれば、道路・工業用水などの施設を事業化し、住宅地域であれば、宅地の造成、上下水道の整備、学校の建築とかを事業化していくことが考えられねばならない。
3 防災施設計画の確立
1 計画の目標
都市の高潮防除施設は、堤防をその基幹とし、それに埋立を組合せ、その他の施設は補助的手段と考える。
これらの施設の計画目標は、すべての防災施設と同様、関係地域の住民の生命・財産を保全することにある。この目標を達成するためには、高潮の侵入を完全に排除することが理想である。しかし、最悪の場合、浸水を許しても、被害程度を短期間の床下浸水の線にとどめることを限界とする。
都市水害に対する過去の調査研究によって、われわれは、床下浸水程度の被害の場合は、生命・財産に対してさほどの打撃が生じないという確信をもっている。
2)都市の外郭施設について
(1)海岸施設
高湖の破潰力は波浪と潮位によるものであるから、波浪を減殺するために、都市前面に防波堤を築造する考え方がある。地形的に可能なところは、有効な方法であり、これによって、海岸堤防や埋立地の負担は軽減される。他面、防波堤の完成までの過渡期の問題、防波堤の前面地域の防災を如何にするかなどの問題がある。以下の記述は、これらの防波堤に関する複雑な諸問題については一応捨象している。
海岸堤防は、越水しても決潰しない構造にしなければならない。とくに上部が破壊しても、天文潮の満潮位以下は残るような構造がのぞましい。下部が残る場合には、高潮の退潮までの2~3時間の流入に止めることができるから流入量は少く、全面的に溢水しないかぎり、建物への浸水も局限される。
今次災害の経験によれば、前面に洲のついているところの決潰は少なかった。洲の存在が波のエネルギーを消耗させたことを示すものである。
また埋立地の鉄筋コンクリート造建物の無傷なことは、埋立地により波のエネルギーを消耗させ、その背後の堤防により潮位のもつ位置のエネルギーを防ぐという組合せを示唆するものである。
前面臨海部に例えば臨港工場地域など埋立地を造成し得る条件のところでは、この埋立地と堤防とを組合せ、その補完的性質を利用して防災効果をたかめるようにすべきである。この場合は、万一異常高潮により一部が決壊しても、前面の埋立地が完全に流失することはなく、埋立地は天文潮の満潮より高いから、高潮の退潮するまでの2~3時間だけの流入にすぎず、背後地の湛水は床下浸水に止る。かかる堤防は前面に埋立があるから、平常は波浪にさらされないから、維持管理さえおこたらなければ弱体化されない。
ただ、この場合問題となることは埋立地と背後地の交通である。また、理立地は工場あるいは港としての利用上連続させることができず、入江により切断される場合が考えられる。その部分に面する堤防はとくに強固にしておかなければならない。
(2)河川施設
地域の側面を流れる河川に対する対策である。洪水量が大きく、したがって洪水位と平水位に極端な差があり、かつ、土砂の流出の大きい大河あるいはその分派は別として、内水排除のための小河川の場合は、前面を埋立てて工場地区とし、その背後に河川堤防を設置すれば、背後地の安全を期することができる。
大河の場合、あるいは諸種の事情により、前面に埋立のできない場合には、堤防だけで護らなければならない。しかし、今次災害の破堤の状況を検討すると、河川部では波のエネルギーの影響は、海に直面する場合のように大きな破潰原因になっていないことが判明した。堤防の構造を工夫すれば、経済的に十分安全性の高いものが建設できよう。
なお、高潮の場合には河口から上流へ、広い部分から狭い部分に流れる。流水は埋込められる形になり、それによって潮位は異常に上昇する。この原因による決壊が各所に見られる。かかる個所をとくに強固にするなど、この要因を十分考慮する必要がある。また、橋脚などによる堰上げにより、橋に接する下流部の提防の決壊も少くない。これも見逃すことはできない。さきづまりの入江の奥が決壊しているものも多い。高水位の計算法の再検討が必要である。
3)内部施設について
(1)第二線的施設
埋立地と堤防の組合せ、河川堤防の強化によって、内部低地域の安全が期せられるが、万全を期するためには第二線的施設を考える必要が出てくる。
これについては、海岸に平行な、最も海に近い幹線道路あるいは鉄道を地上げし、第二線堤防の役割を果させるようにすべきであろう。高さは、利用の便を考えると高潮の潮位ほどにはできないが、少くも天文潮の満潮位以上にする必要があろう。
このような第二線施設が存在しても、第一線施設を弱体化することはできない。第一線施設が全面的に破潰して、高潮の位置のエネルギーが消耗していない場合には、高潮の潮位は天文潮の満潮位よりも相当高いから、第二線施設を容易に溢流し、その背後地に侵入して、長期湛水を生ずるからである。
(2)地盤嵩上げ
①内部地区の地上げとその規模
低地域は平常時でも排水が不良で不衛生となりやすい。台風時の浸水はもちろん、平常時のこのような排水不良を防ぐための方策として敷地地盤面の地上げがある。
地上げで問題となるのは既成の市街地では建築物の移転や種々の補償が困難なことである。また対象となる敷地が私有地であれば、地上げ事業だけでは、現状では公共事業の対象となりがたく、未開発地の場合でも埋立てる土量が容易にえられることが条件となる。これらの諸点がまず解決されることが必要である。
そこで経済的に見ると、第二線施設と組合せて、地上げの範囲を必要最小限に限ることがのぞましい。第二線施設がないかぎり、天文潮の満潮位の及ぶ範囲まで全面的に理立てないこと、第一線が破堤すれば、埋立地の背後に長期湛水の生ずることを避けえないからである。また、第二線施設と組合せて、背後に浸水しない体制をとる場合には、地上げの範囲をそれほど広くする必要がなくなる。つまり、第二線施設と第一線施設の中間を地上げすることで十分であろう。
地上げの高さは天文潮の満潮位に近くすることがのぞましいが、それができなくても、それとあまり差がありすぎては、防災という見地からはなんの意味ももたなくなる。
しかし、低地といっても平坦なものでなく、局部的に特に低いところがあるのが着通である。このような土地の地上げの問題は、ここでの記述と関係がないことを附言しておかなければならない。
なお、内部地域を地上げするとしても、前述と同様、第一線施設を弱体化することはできない。第一線の破壊が局限され、高潮の退潮までに、流入水によって内水位が危険水位に違しない程度に、第一線を強化することが必要である。
②内部地区の地上げと排水の関係
また、地上げが生活環境をよくすると共に防災を兼用しうるとしてもその意味に区別があることを知るべきである。これを混同して適用する場合には、甚だしく不経済になる恐れがあり、かつ、両方の目的から中途半端な状態になり、防災としては役に立たなくなる恐れさえある。
地上げをしなくても、地下水位の低下が可能な程度に排水条件をよくすれば、生活環境はよくなる。都市としては、地表水を排除し、地下水位を低下させるに必要な排水条件を与えることは、地上げのいかんにかかわらず必要であるから、生活環境の改善を目的とするならば、排水条件の改良と埋立とを比較し、経済的に安価で、効果のある組合せを検討すべきであろう。
(3)その他の施設
①道路等の地上げ
災害時の避難救援活動あるいは産業復興を容易にする必要から、幹線の道路・鉄道の地上げあるいは高架化が考えられる。
第二線施設としての機能をもたす場合は別として、道路の路盤を高くすることは、他の街路との取付けや道路に面する建築敷地との高低差などの問題があり、住民に多大な負担をかけることになるから、防災に重点を置くべきではなく、住民の経済活動を中心に計画すべきであろう。
②公園縁地の活用
都市の公園縁地は、水害のみならず地震・火災等の場合にも避難救援の基地となるものであるが、水害に対して考えると、市街地内の公園緑地はその敷地の全部または一部を平時の利用や費用の許す範囲内で地上げすることが必要である。また一方局部的にきわめて低地域な場所は低地域のまま空地として残し平常時は公園とか縁地として利用するが、出水時にはこれを遊水地とする方法も考えられる。
③建築物の強化
今次の風水害においても、中高層の耐火建築物はきわめて安全であり、また避難施設として利用され、その効果を如実に示している。単に風水書のみならず、地震や火災等に対しても安全である耐火造建築物は都市の建築物の構造として最適であることはいうまでもない。
しかし、現実には建築費が高いので直ちに一般化することは困難であり、また、建築物の大部分は民間・個人のものであるから、これら一般建築物の災害対策を考えるためには建築物の集団的地域的な規制を行い、また堅牢建築物の奨励が必要である。このためには火災に対する防火地域制のように水害のおそれのある低地域には災害危険区域を指定して、建築物の敷地・構造・用途等について建築規制を行うことが考えられる。ただ、建築規則は民間、個人の経済や財産に直接影響するところが大きいので、あまり厳重な規制内容では実現が不可能となり、かえって違反建築物が出てくるおそれがある。
なお、一般に官庁を安全地帯に建築する傾向があるが、むしろ、前面に出し、その安全を期することにより、背後地をも護るというのも一方法であろう。少くとも学校・病院・その他官公署の公共建築物は二階建以上の耐火構造とする必要がある。また公共投融資による住宅はできるだけ鉄筋コンクリート造等の中高層共同住宅とすることが望ましい。
④地下水の汲上げ規制
臨海工業地域では工業用水等の地下水の過剰汲上げによる地盤沈下がおこりやすく、せっかく強化した堤防も用をなさなくなる。
このため適当な水源を求めて工業用水道を積極的に整備し、また下水処理水の再利用をはかり、地下水の汲上げを制限することが必要である。
4)地域による各種対策の適用について
臨海都市あるいは低地域の防災計画をたてる場合、基幹となる提防や埋立地はもちろん、通路その他の公共諸施設、各種の建築物の構造・配置、あるいはそれらが集団化した住宅地・工業地の配置等についても、土地の合理的利用を考え、全体として総合化された計画と実施の順序が必要であり、地域全体の管理が一元的に整備されねばならない。
また、総合的な防災計画をたてるとしても、各施設の安全度や経済効果からみて、どの区域にはどのような施設をほどこして、最大防災効果をあげるようにするかを判断せねばならない。このためには具体的な地域に即して基礎的な調査が必要であるばかりでなく、評価方式について研究が積まれる必要がある。ただ、ここでは今次の災害の経験に徴して、考えられる地域についての一般的なあり方について論述することとしたい。
考えられる地域の類型は、前章で述べた如く、土地利用計画としては、a 既成市街地の再開発、b 内陸地域への計画的誘導、c 臨海地域の計画的開発の三つであった。高潮防災の面からは、bは問題とならないが、自然発生的に臨海低地が市街化してゆく場合もありうるから、これを加え三つのタイプについて述べることとしたい。
(1)臨海地域の計画的開発の場合
臨海部の工業地域は、海面あるいは海に接する海岸を埋立てて造成することがのぞましい。
埋立地の工場施設は、建築構造や内部施設などに防災的配慮を加えること以外、高潮災害に対して特別の対策を必要としない。
問題は、埋立地背後の低地域をいかに守るかである。この基幹は云うまでもなく、外郭施設の強化にまたねばならない。前面は高潮防波堤・海岸提防、側面は河川提防を強化することとなるが、これは海岸堤防・河川提防の構造・位置の問題であり、これらと理立地の組み合せ方につきる。
埋立と提防の補完的性質については前述の如くであり、高潮に対する防災の見地からすると埋立地と非埋立地の境界には海岸提防が必要である。
この境界をなす海岸提防は、工場地域と背後地との交通上支障となるが、防災上必要であり、またこの提防を道路として兼用する方法も考えられよう。
河川堤防についても条件の許す限り埋立地と組合せるべきである。
いづれにしても、これらは基幹的施設であるだけに時期的におくれてはならない。
内部諸施設も万全を期する意味で充実すべきである。ただ、その適用の範囲および内容については、経済負担の多寡、住民の経済活動の便・不便等を十分に考慮して決定されるべきである。
(2)自然発生的な市街化地域の場合
前項の諸方策を、逐次、あまり手おくれにならぬよう計画的に推進すべきである。
この場合、前面に埋立地を造成して工場地域にすることができない場合がある。かかる場合には、ある程度市街地化しているのに、なお古くからの干拓堤防のままであってはならない。海に面する提防は、溢水しても破壊しない構造に改築しなければならない。万一、一部が破壊しても天文潮の満潮位以下の部分は流失しないようにしなければならない。
また、旧干拓の残存物たる第二線堤防の弱体化を防止しなければならない。(「干拓地域の災害に関する考察」参照)
(3)既成市街地再開発の場合
すでに危険な市街地となっているところを再編し、水災に対して安全にすることは、甚しく困難な事情にあるが、今次災害の経験から、思いきった対策が必要である。
まず第一に、外郭施設の整備である。最少限度として、防潮堤で囲うことが必要である。できれば、その前面に理立地を造成すべきであろう。
河口に逆潮防止樋門を設置することにより、河川からの潮害を防止することも有効である。
道路計画に第二線的意味を持たせることも必要である。
地上げを出来るかぎり推進することが望しい。
公園その他の公共施設を退避施設にすることも有効である。
建築制限も必要であろう。
以上のものを個別的にでもやれるだけ実現すべきであって、全体を計画的にやれる①の場合とは区別して考えなければならない。
4 都市防災計画の促進
1)防災計画区域の指定
臨海部あるいは低地域において、津浪・高潮・出水等による危険のおそれが著しい区域は防災計画区域とも称する区域に指定することが適当である。これは常時、地域住民にも当局にも、当該地域の危険を十分に認識させるのにも役立つ。
現在、都市計画区域内においては、都市不燃化の目的から、市街地で延焼危険の多い主要地域には、都市計画法の定める手続きによって、都市計画の施設として建築基準法(第60条)に規定する防火地域を指定し、地域内の建築物について構造制限を行うことにより、都市の火災対策を行っている。また高潮や出水のおそれがある区域についても、同じく建築基準法(第39条)によって、地方公共団体はその条例で災害危険区域を指定し、区域内における住居の用に供する建築物の禁止その他、建築物の建築に関する制限を定めることができることになっている。
しかしながら、防火地域の場合には火災の性質上、建築物の構造制限すなわち木造の禁止等の手段によって目的を達成しうるが、水害の場合においては、水害の性質上から単に建築物の制限のみではその目的が達せられず、敷地・道路・堤防・排水施設など各般の都市施設について、適当なる水害防止の対策が立てられなければならない。
このような意味から、現在建築規則の内容のみをもっている現行の災害危険区域の制度は、都市の各種施設を対象とした都市計画内容をもつ防災計画区域に拡大することが考えられねばならない。
2)土地区画整理事業の内容拡大
つぎに都市において各種の公共施設の建設が行われる場合、それに必要な公共用地は買收されるのが通例であるが、都市計画事業として既成市街地を改造しあるいは再開発し、また未開発地を開発して宅地造成を行い、道路・公園・運河その他の公共用地を取得し、公共施設を整備改善する場合においては、土地区画整理事業がもっとも有効な手段として活用されている。
しかしながら、一般に行われている土地区画整理事業においては、保留地処分金が事業費の主要部分に充当されるため、公共用地の確保や宅地の利用増進といっても市街区や計画地の形状を整えるに過ぎない場合が多く、真の公共施設の整備、宅地の造成は十分に行われないのが現状である。
とくに出水のおそれある低地域では、現制度や事業内容からでは、水害防止上必要な道路や宅地の地上げは行われず、また遊水池その他防災上必要な公共用地をとることは、滅歩率の高くなることによって不可能に近い現状である。現行の災害危険区域を指定しても、全面地上げを土地区画整理事業にともなって行うことはいちじるしく困難である。
以上の意味から、前述の防災計画区域の指定と関連し、この区域内の開発・再開発においては換地方式による従来の土地区画整理事業の内容拡大が考えられる必要がある。また地上げのための融資措置、公共用地の確保のために補助をあたえる特別な制度、さらに土地買收方式による事業促進のため、現行土地收用法における超過收用の問題の解決等が考慮される必要がある。
3)特別法の制定と財源の確保
前述のように防災計画区域を指定し、この区域内において各種の防災計画事業を統一ある計画性のもとで行うためには、現行の都市計画法、土地区面整理法・土地改良法・建築基準法等の関係法令の適用では十分その目的を達成することが困難である。
したがって、防災計画区域の指定、計画区域内における各種の防災計画の総合的立案組織、事業施工にともなう土地の收用と使用に関する特例等、新しい制度と方法とが必要であって、そのめには都市防災に関す特別法の制定が望まれる。
とくに現行諸制度で問題となる点は、防災に関する諸施策が各機関ごとに統一なく行われ、その総合的成果が不十分であることである。都市防災に関係のある海岸・河川・道路・建築物等の諸計画、土地利用計画、さらに避難を含め、防災対策を総合的かつ強力に行うためには、国家的な規模における機関により、組織的に調査され計画され、事業が推進される必要があろう。このため防災を含む国土の開発・保全を目的とした強力な機構の整備と、それにともなう特別法の制定が必要である。
総合的な防災計画を推進するために、さらに、特別な財源確保の努力が国と地方を通じてなされねばならない。
事業費にたいする基準財政需要額算定上の優遇措置、補助金・起債等にかんする特別の配慮が必要であるのはもちろんであるが、場合によっては、地方財政上、防災にかんする目的税を考慮するなど、抜本的な財源確保の努力が必要に思われる。
またこれとともに、不幸災害を蒙った場合には、その後の復興を容易にするため、災害に対する国の救済制度(災害保険制度を含む)の再検討が望まれる。以上のような点からも、防災に関する特別法の制定が必要である。
風水害のみならず、震災・火災と多くの災害の危険があるわが国において、とくに人口と産業が集中し、経済文化の中心となっている都市の防災は、今後ますます都市計画さらには国土開発の基盤として考えられなければならない課題である。
4)施設の維持管理の強化
都市の諸施設が複雑多岐にわたり、しかもこれの維持管理のあり方に欠陥のあることが指摘される。
このような欠陥は、災害の場合にはっきり現れることになる。例えば、干拓地の旧堤の如きは農村部から都市への発展の過程で、農村部としては必要と考えられていたものが、都市としては日常活動に支障があるというので、その必要性が忘れられ、管理者の性格も変り、ついには取払われてしまうごときである。そこまでゆかなくても、都市文化が進んでいるのに、海岸堤防は依然として、農村地帯だったままで止っていることもある。
地域全体としての防災施設の均衡とその維持は、諸施設の建設ばかりでなく、日常的な管理の一元的実施にまたなければならない。
II 名古屋市の市街地被害 新海悟郎・入沢恒
1 まえがき
2 市街地の被害
1)被災地の概況
2)浸水湛水状況
3)木材流出状況
4)建築物被害の分布状況
5)避難状況
(1)緊急避難
(2)収容避難
6)特殊施設の被害
(1)公共建築物の被害
(2)住宅団地の被害
3 対策と問題点
1)被害の特色
2)防災計画の方針
3)都市計画上の対策
1 まえがき
災害の国とはいえ、昨年も相次ぐ風水害によって各地に多くの災害が発生したが、その中でも昭和34年9月26日夜に愛知・三重・岐阜等の各県下を襲った伊勢湾台風(15号台風)は超大型台風であって、とくに中京工業地帯の中枢である名古屋市においては、瞬間最大風速45.7m、最低気圧958.5mbを記録し、また風雨のみならず、名古屋港の最潮位は5.31mの未曾有の記録を残し、海岸や河川堤防の決壊によって多数の人命と財産を失ったことは、今後の臨海工業都市に多くの問題を提起するものである。
これに対して、各方面から科学技術的な問題の解明や対策が考えられているが、この報告書においては、被害の中心である名古屋市の低地域についての調査結果の概要を記すこととする。
2 市街地の被害
1)被災地の概況
名古屋市において浸水・高潮による被害のとくにいちじるしかった南部低地域は、付図15のように、16世紀当時は多くは海面であり、17世紀より後、伊勢湾の干拓によって次第に土地造成が行われ、20世紀に入ってはじめて埋立による土地造成が行われている。
この地域の標高を名古屋港朔望平均干潮位基準(以下N.P.という。東京湾平均海面より1.412m低い)でみると、付図14のように、上記の干拓地は現在でもN.P.+1.4以下(海抜0m以下)の部分が相当に広範囲に残されており、これに対して近年に造成された臨海部の埋立地は、すべてN.P.+3.4m(海抜2m)以上となっている。
これらの干拓地もしくは埋立地における市街化の発展過程は、付図20のようであって、19世紀の末まではまったく市街化しておらず、わずかに農漁村の集落が干拓堤防に沿ってみられる程度であった。名古屋港の建設は明治29年に着手され、明治40年開港場として指定されたものであるが、築港その他埋立が行われてきた大正初期になって、中心市街地はようやく堀川をこえ、また築港附近に、港湾施設を中心とした小規模の市街地が中心市街地とは独立して形成されてきている。しかし低地域が急激に市街化され、また埋立地に大工場が続々進出しはじめたのは昭和5年頃以降、わが国の工業が軍需を中心として次第に盛んとなった時期であって、とくに第2次大戦中の軍需工場とそれら従業員の住宅地、および戦後の経済回復、技術の進歩にともなう化学工場等の進出、あるいは住宅難解決のための住宅団地の建設によって市街化が促進された。しかしながら、干拓地の部分は耕地整理あるいは土地区画整理は行われたが、地上げ等による土地造成がなされないままに市街化が急激に進んできた点に問題があった。
この地域の土地利用現況の大略は付図16のようであって、埋立地である臨海地帯・河川沿いはすべて大工場用地ならびに港湾用地として利用されており、この背後にそれぞれの関連中小工場地や従業員の住宅、あるいは社宅・一般市街地が発展中であって、南区天白川附近の一部や西方の荒子川・庄内川附近はなお農地・水田地帯として残されている。
この土地利用現況に対する都市計画上の用途地域指定は付図17のようである。これらの地域の大部分は水田地帯の非市街地区をふくめて工業地帯であり、住宅地域・商業地域・準工業地域は広大な工業地域の中に分散配置されている。臨海部の埋立地あるいは中川運河沿いは工業専用地区に指定され、かつ大規模工場用地であるため、土地利用は専用化されているが、背後地の工業地域・準工業地域は住商工が混合した一般市街地となり、ときには住宅団地が建設されている場合もある。なお付図18に示すように都市計画として、幹線街路計画のほか、工業地開発を目的とした運河計画とそれらの沿岸の土地区画整理事業が計画されている。
最後に、この地域の地価(昭和34年10月の時価)をみると付図29のようである。主要街路沿いや駅前附近の商業地では3~10万円の場所もあるが、一般的にみると工業地では5千円~1万円、一般既成市街地では1~2万円、農村地帯では5千円以下となって、低湿地は交通不便等のためもあって比較的低価格である。
2( 浸水湛水状況
名古屋市低地域における592カ所の調査地点の調査結果、大工場の調査結果、その他の資料より、浸水最高水位・湛水水位・床上湛水日数・湛水日数の地域的分布をえがくと付図2~5のようである。
臨港地帯の埋立地は、直接約4m(N.P.+5.31m)の高潮をうけたが、地盤面の標高は約2~3m(N.P.+3.5~4.5m)であり、海岸沿いに堅牢な防潮堤や建築物などの施設が並んでおり、かつ背後地が低地域であったため、最高水位は必ずしも高くはなく、1.5~2.5m程度であり、その継続時間も2~6時間程度で背後地に流れ去った。したがって、湛水水位は0であり、床上湛水日数・湛水日数も1日に満たない少時間である。
これに対して東南部の天白川沿岸の白水地区は、標高は海抜以下0~1m程度であるが、直接風上が海に面して高潮をまともに受け、さらに同時に天白川の決壊による急激な浸水のために、最高水位が3m前後、局地的には5~6mという低地域中最高水位の浸水を被っている。その後の湛水水位は1~2mとなり、床上湛水(水位約50cm)日数は堤防の仮締切や排水状況によって変るが、10~20日と比較的短い。しかし、局地的には30日間の場所もある。また全湛水日数、すなわち水が完全に引くまでの期間は15~25日間となっている。
山崎川と大江川とにはさまれた地区は、さきの白水地区にくらべて、やや標高が高く、平均海面上0~1mの部分が多くなっており、また河川堤防の決壊破損も比較的軽徴であった。隣接する白水地区にくらべ、浸水最高水位は低くなっているが、それでも2~2.5mとなっており、湛水水位は白水地区と同じく1~2mである。また床上湛水日数は10~20日間、湛水日数は同じく10~20日間となっている。
山崎川と堀川とに囲まれた道徳・豊田地区は、標高約0~1mであるが、このうち道徳地区は三方が工業地・幹線道路・鉄道など地盤が高い盆地状をなしているため、南側の山崎川の決壊や西側の貯木場を越えた高潮によって、浸水は最高水位約3~4mとなっており、また排水が不良のため湛水水位は2~3mであった。なお床上湛水日数は15~20日間、全湛水日数は15~25日間となっている。
堀川と中川運河とに囲まれた低地域は部分的に標高0m以下の部分があるが、おおむね海抜0~1mであり、かつ河川ぞいは埋立もしくは地上げがしてあり、護岸の破損も比較的軽徴であるため、港に近い方の築地・港楽地区は浸水の最高水位が2m前後であるが、その背後地である船方地区は1~1.5m、さらに内陸部になると1m以下と浅くなっている。湛水水位も海抜以下の地区が1~2mであるのを除けば、侵入した水はこれらの低地域に集まったため、大部分の地区は0.5m以下となっている。なおこの地区でも排水がおくれたため、床上湛水日数は長い所で10~20日間、全湛水日数も10~20日間、局地的には25日間となっている。
中川運河と荒子川間の昭和橋・大手地区、また荒子川と庄内川の荒子地区は大部分が水田地帯で海抜以下であり、その南部はとくに海抜以下1~2mの低湿地となっている。しかし、浸水の状況は、前面の理立地を洗った高潮、および時間的にややおくれた庄内用川の決壊による浸水と、また浸水区域がきわめて広いため、前記の白水地区や道徳地区のように局地的に水位が高いということはなく、浸水最高水位は南部の宝神・港西・大手方面で1.5~2m、その北側の旧東海道までの間は1~1.5m、さらにその北側の国道1号線両側は0.5~1mとなっている。また湛水水位は港西・高木地区で1~1.5m、大手・小確地区で0.5~1m、国道1号線以北はおおむね0.5mとなっている。しかしながら床上湛水日数は大部分の区域が15~20日間で、また局地的には30日に近い所もみられる。また庄内川の堤防復旧に相当の時日を要したので、湛水日数は全低地域のうちもっとも長期にわたり、20~30日間という地区が相当部分にわたっている。
庄内川と新川とにはさまれた狭隘な下之-色地区は古くからの集落で約1~2m地上げされているため、浸水最高水位は0.5~2m程度で湛水した部分も0.5m以下、また床上浸水日数・湛水日数とも0~5日前後であって浸水による被害は少い。
新川から西の南陽町地区は水田地帯で標高は海抜以下0~2mの干拓低湿地であり、また伊勢湾の高潮をまともに受け、干拓堤防・河川堤防の決壊がいちじるしく、このため全面的に、浸水最高水位は3m前後、湛水水位は1.5~2m、また堤防の仮締切が著しく遅れているため、床上浸水日数は約30~40日間、湛水日数は約50~60日間という長期間にわたっている。
3)木材流出状況
今次の災害では、貯木場より流出した木材が人命をはじめ建築物その他の施設に与えた被害はきわめて大である。
当時における各貯木場の貯木量、それらの高潮による流出量、さらに流出区域を図示すると、付図10のようになる。これらのうち最も大きな被害を与えたものは8号埋立地の約36万石を貯木していた貯木場で、高潮を正面から受けたために1万石が港内に流出したほか、28万石が理立地の背後にある低地域に流出し、その市街地に対し広範囲にきわめて大きな被害を与えている。
この他流出量の多い貯木場は8号地先の名港木材整理場の4万石、加福貯木場の5万石、木場貯木場の2万石流出であって、それぞれの附近の低地域に流出し被害を与えており、南区の低地域の大部分は流木流出区域となっている。
これ以外の貯木場は貯木量・流出量ともに少く周辺に低地域がないため、流出区域も比較的狭い範囲に限られている。
4)建築物被害の分布状況
建築物被害の原因は、強風や高潮、長期浸水、地盤の崩壊のほか、今次の場合には、貯木場より流出した流木によるものが目立っている。低地域の全建物(大工場を除く一般市街地)の被害状況を、流失(基礎や土台は残っているが、上部が完全に流されて現敷地にならないもの・全壊(柱や小屋組が折れ、建築物が地上に倒壊・傾斜した場合、基礎や土台からはずれた場合、屋根が小屋組とも飛散した場合などで、そのままでは修理が不可能の状態のもの)・半壊(柱や小屋組の一部が破損していても、建築物が倒壊・傾斜していない場合、壁が落ちていても柱や小屋組などの軸部が健全である場合など、修理が可能な状態のもの。瓦が飛散したり、壁の一部が落脱したり、建具の破損は小破とし、半壊とはみなさない)に分けて、それら被害棟数およびそれぞれの棟数の既存の全棟数に対する割合、すなわち建物被害率・建物流失率・建物全壊率・建物半壊率を地域的に図示すると付図6~9のようである。
地区別にみると、白水地区では流木による直接の流失・全壊・半壊との被害がきわめて大きく、全被害率でみると、70%程度のブロックが相当の範囲にわたっている。なかには100%被害というブロックもあり、1個の重さが5~6トンもする流木の恐ろしい偉力を示している。
この白水地区以外の地区では、若干のブロックを除き、貯木場に近い道徳地区、あるいは主に運河・河川に隣接するブロックでは、建物被害率が約5~10%.その他の地区やブロックでは約5%以下となっているが、港区大手地区の築三町のブロックは建物被害率が30~50%を示しているのは、河川浴いの建築敷地が理立地をこえた高潮によって地盤が崩壊したため、流失・全壊したものである。
建築物の流失は港湾・河川に近いブロックなど地区的に限られているが、建物の全壊・半壊は被害率の大小はあっても、全区域に発生しており、木材流失による被害の多い地区を除けば、その被害は主として風によるものである。
海岸に近い稲永町地区の建物(主として住宅)は屋根瓦の飛散や外壁の破損程度で、高潮による被害が少なく、建物の流出・全壊・半壊の被害率が0であるのは、高湖が海岸埠頭にある鉄筋コンクリート造の倉庫群によってさえぎられたためである。
なお、臨港理立地の大工場においては、建築物の規模に大小あって棟数割合から建物被害率が求めがたいので図示していない。しかし、多くは建築物が鉄骨造の大規模なものであり、その被害は屋根や壁のスレートが飛散した程度であるが、小規模の木造倉庫・車庫等の粗悪建築物は風によって全場もしくは半壊している程度で、全般的にみれば建築物被害は直接高湖や流木を受けていながら軽徴であった。
5)避難状況
避難については9月26日夜半(21時から22時の間と推定される)堤防が決壊する前後における緊急避難と翌27日に開始された収容避難とは、その様相が明らかに異るものであって、今後の対策を考える上からも二つに分けてその実情を究明すべきであると考えられる。
(1)緊急避難
地点別避難状況調査ならびに避難所調査の結果からみると、26日夜半における避難については次のように推測される。すなわち、居住者一般はこれまでにこのような災害の経験もなく、また避難命令も伝達されず、停電によるラジオ等の警報も途絶えたためもあって、たまたま過去の経験から自主的に事前に避難したわずかの人々を除いて、ほとんどの人々が突如として濁水に襲われ緊急避難を迫られたとみることができる。しかし、その様相は地区の位置・地形・周辺施設の条件等による高潮浸水状況の差異によって著しく異っている。すなわち、大きく分けて避難できなかった地区、避難できた地区、避難しなかった地区に分れる。(付図-11)
「避難できなかった地区」は大体最大水位2.5m以上の地区であって、瞬時にして濁水と流木に呑まれた南区白水・千鳥・道徳(一部)の各学区であって、建築物の流出・全壊するもの多く、緊急避難が不可能に近かった。このため、附近は全市中で死者の数が最も多く、生命をとりとめたものも、おそらく自宅あるいはその隣接地において辛うじて避難しえたものと思われる。これらの地区には白水小学校および同分校をはじめ若干の公共施設があったが26日夜半にこれらの施設に避難できたものは僅かである。
次に「避難できた地区」は、南区では宝・大生・道徳(一部)・明治(一部)の各学区、港区では港西・西築地・大手・小碓(一部)・港楽・中川の各学区、中川区では昭和橋学区、熱田区では船形・白鳥(一部)・千年の各学区など最大水位約1m以上の地区である。
これらの地区における避難先は小中学校が大部分であるが、千年学区では熱田高校(鉄筋コンクリート3造階建)、白鳥学区では熱田警察署に避難したものが多い。このほか区役所・保育所・病院、農村地区においては神社・寺院などの大規模施設をはじめ、競馬場・堤防・国道・鉄道線路敷等附近の比較的高い場所はほとんど緊急避難に利用された模様である。
付図12は緊急避難に当った利用した施設の分布を表わしたものである。地域の諸条件によって差はあるが、避難しえた最大距離は500m程度になっている。しかし、せいぜい200m程度の範囲からの避難者が多かったのではないかと思われる。
(2)収容避難
收容所に当てられた施設の分布は付図13の通りであって、施設の種類としては小中学校が圧倒的に多い。これは小学校区が平常から町会の連合区としての活動を続けてきていたことと、小中学校の施設が地域的に人口に応じて分布する唯一の2階建の大規模施設であって、收容力の点からも適当であったためである。小中学校以外には高校・病院・警察・社寺などのほか民間の事業所などもこれに当てられた。しかし多くは後日、区役所や小学校等の收容所に移されている。
收容活動は警察・消防・自衛隊その他によって27日朝より開始された各所とも收容者数が急激に増加し、港区の港西小学校や三重火力寮の如きは1カ所で4,000人にも達した。
收容所における救護活動は各区とも区役所が本部となって行われたが、食糧・衣料品・日用雑貨の配給、巡囘診療など多岐に亘っている。
收容関係の当事者の意見を総合してみると、施設の設備で共通に困った点は給水・便所・電灯(小学校などは2階に設備のなかったものが多い)などで、水はバケツによる給水、便所は仮設、電灯は臨時灯を引込むなど、応急処理に苦労をしている。また、いずれの施設も臨時に收容所に当てられたため本来の業務に支障を来しているが、警察署・郵便局など事務施設においてはこのことがとくにいわれている。
收容所に当てられた施設は公共施設が多いが、構造別にみると鉄筋コンクリート造の施設がきわめて少ない。幸にして今回の災害は公共建築物の被害が少なかったので收容所に当てることができたが、小学校などには木造で老朽している校舎も多く、また平家建であったために收容所に当てることができなかった校舎もかなりあり、これらの点は問題とされる。
(9 特殊施設の被害
(1)公共建築物の被害
調査地域には各種の公共建築物が分布しており、建築構造からみて木造のかなり老朽化した施設が少なくなかったにもかかわらず、被害は比較的僅少であった。すなわち、市場上屋・車庫・附属家などにはかなり被害の大きかったものもあるが、大部分の公共建築物は流出・全壊・半壊と記録されるものはほとんどなく、大体小破程度に止まった。
学校についてみると、とくに小中学校は木造校舎が大部分であり、鉄筋コンクリート造は校舎のごく一部に限られている。全校舎が鉄筋コンクリート造のものは、熱田高校など一、二の例に過ぎない。幸にして木造校舎でも致命的な被害を蒙ったものは皆無で、渡廊下・屋根・瓦・壁・窓・床天井などに損傷を受けた程度であった。
しかし、公共建築物は今回のような災害時には一般市民の避難所ともなり、救護活動の中心ともなるものであるから、特殊なあるいは小規模なものとは別として堅牢な耐火建築物であることが必要であり、とくに老朽化した木造小中学校は避難所として危険であるのでその改築が望まれる。
(2)住宅団地の被害
住宅団地としては市営住宅・県営住宅・住宅公団住宅・社宅によるものなどがある。このうち社宅の団地については工場との関係において別項で述べる、県営住宅・公団住宅は団地数も少なく、またほとんど耐火建築の団地であったのでほとんど被害を蒙らなかった。したがって、ここでは市営住宅団地について述べる。
市営住宅は名古屋市全市で総戸数約15,000戸、そのうち南・港・中川・熱田の4区に建設されたものは47団地7,600戸であって、全体の約51%に当っている。このことは市営住宅に対する需要がこの地域に高いこととか団地用地の取得難や用地費問題に起因すると考えられるが、このような建設戸数の4区への過度の集中がまず問題とされる。
次に4区内の団地について構造別にみると、木造が大部分を占め89%に当っており、そのほとんどが平家建であった(簡易耐火造約9%、耐火造は約2%にすぎない)。この点から、市営住宅は防災的にはほとんど無防備であったといってよい。この点が第二に問題とされる点である。
したがって、今次の水害を受けた場合、一般市街地と同様かなり手痛い被害を蒙ったのは当然の結果といわねばならない。最大水位2.5m以上を記録し、流木による災害の最もひどかった南区の地域において団地居住者にかなりの死者を出したことは遺憾である。
なお、工場と社宅の被害状況については別項「工場被災の実態」に詳記してあるので参照せられたい。
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3 対策と問題点
1)被害の特色
伊勢湾台風はその経路と規模においてまれにみるものであり、したがって、それによっておこされた人的物的災害もまた特異な様相を示している。
すなわち
a 風雨による被害よりも、高潮・浸水・流木の与えた被害がきわめて大である。
b 名古屋周辺の土地は臨港工業地帯(埋立地)を除いては干拓により陸地化したものであり、そこに木造低層の建物による市街化が行われていたため、広汎な地域にわたり浸水し、かつ長期間湛水し、災害を拡大した。
c 被害地が主として臨海工業地帯であるため、生産施設およびその関連施設の被害も大きい。
d 高潮被害の経験が乏しかったため、緊急避難に必要なる適切な措置が欠けていた。とくに安全な避難所となるべき施設が距離的にも構造的にも少なかったことが指摘される。
e 貯木場(当時約100万石貯木)から巨大な木材が高湖とともに低い市街地に流入し、おびただしい量の人命と建物とを損傷した。
2)防災計画の方針
a 臨海都市の防災計画をたてる場合には、堤防のみならず、敷地・道路・公共施設・住宅・工業地などすべてにわたって高潮災害を想定して総合的に計画する。
b 防潮堤・河川堤防の強化が根本的に必要であるが、不幸にしてこれら堤防を越して浸水を許す場合を考えて市街地の浸水対策を講ずる。
c 施設の被害は避けられぬとしても、最小限人命の被害は避けうるよう防災計画および避難を考慮した施設計画をたてる。
3)都市計画上の対策(名古屋市を対象として)
i 今回の高湖浸水災害の実情にかんがみ、災害危険区域を指定し、次の措置を講ずる。
a 臨海埋立地帯は高潮による直接の被害を受けるため、原則として木造建物および居住用建物の建築を禁止する。
b 臨海理立地帯の背後地にある開発市街地は防潮堤・河川堤防の整備とともに、都市計画事業として地上げを実施し、地区としての体質改善をおこなう。
c その他の出水のおそれある既成市街地は河川堤防の整備にまち、居住用建物については
その一部を予想浸水水位以上とし、かつ耐水構造とする。
d 低地の農村集落地は防潮堤・河川堤防の整備によるほか、各戸で地上げその他の方法による耐水措置を講ずる。
ii 臨海工業地帯の被害状況から考え、生産施設に対し次の対策を必要とする。
a 直接被害をうける可能性のある地区の建築物は堅牢な構造とする。
b 産業関連施設を災害からまもるため、主要な幹線街路の路面および鉄道引込線の路床の地上げ、ならびにエネルギー基地の防水対策を講ずる。
c 災害危険区域に止むなく社宅を建設するときは、地上げをおこなうかあるいは堅牢な防水構造とし、従業員の安全をはかる。また、災害後の復旧に支障をきたさない程度の要員を確保できるよう考慮する。
iii 避難計画は災害時の緊急避難と災害後の收容避難とに分けて計画し、その配置施設を考慮する。とくに低地域の密集市街地にあっては、緊急避難所に当てうる建物の配置を密にし、緊急避難の安全を期する。
收容避難所としては、学校とくに小学校が配置・規模などの点から最適な施設として利用されるため、設計・計画に当りこれに必要な考慮を払う。
iv 災害危険区域内の公共建築物は地上げをおこない、原則として2階建以上の耐火構造とす
る。
v 災害危険区域内の住宅団地は直接海に面する区域内では禁止し、他の区域内にあっては敷地の地上げをおこなって建設する。ただし、地上げをおこなわない場合は2階建以上の耐火構造とする。また、既存木造平家建団地は少なくとも一部を2階建以上の耐火構造アパートに改築する。
vi 貯木場からの巨大な量の流木による建物および人命の被害が甚しいため、貯木場の位置および貯木施設を規制する。
III 伊勢湾台風と工業被害 栗原東洋
1 伊勢湾台風による災害の概況
1)災害とその類型
2)工場災害の総括
3)工場災害とその類型
2 名古屋港の貯木場と貯木被害
1)既往の災害と貯木被害
2)伊勢湾台風と貯木被害
3)貯木被害の検討
3 工業立地と工場被害
1)工業地帯と災害の類型
2)工業災害と輸送問題
4 工業地帯の配置と防災対策の問題点
1 伊勢湾台風による災害の概況
1)災害とその類型
伊勢湾台風による災害を、とくに愛知・岐阜・三重の3県に即し、その主たる原因から区分すると、三つの類型に分けることができる。第一は海の側からくる高潮によるもの。第二は高潮の被害と同時に、これによって海岸堤防や河川堤防等が破堤し、その結果として発生した浸水によるもの。第三はこの浸水がさらに内陸に及んだものである。
これを被害の内容でいうと、第一のものは主として死者・重傷者の人的被害と、家屋では全壊・流失・半壊等の被害。第二の類型では人的被害に加えて、家屋では全半壊等のほか床上・床下の浸水が追加される。第三の類型では、人的被害は主として軽傷者であり、家屋関係もむしろ浸水被害の方が多いというのが一般的である。いわゆる洪水型河川災害の形をとっているといってもよかろう。もちろん、ここでの類型区分は理念的に想定したもので、これを現実の実態や行政区画で処理すると、必ずしも期待通りにはいかない。ただ、今次の大災害を考えていく場合、こういう形で再整理しないと、事態を正確に認識できないのではなかろうかということを問題にしたいのである。
以下、この点を具体的にみよう。第一の高潮被害であるが、これは従来いわゆる津波等の場合に発生したケースに近いものである。伊勢湾台風によるものには、こうした形の被害は典型的に出てはいないが、他の地区との比較で相対的にいうと、渥美半島に囲まれた、渥美湾北岸地区の海岸にそれらがみられる。東から豊橋市・小坂井町・御津町・蒲郡市・形原町・西浦町・幡豆町・吉良町・一色町・西尾市等がかぞえられる。渥美半島では渥美および田原の両町も含めてもいいだろう。
ここでの被害は、しかし人命の損傷が非常に少なく、これに対して家屋関係で浸水被害との比較では全半壊の多いのが特徴的である(尤もそのうち蒲郡および渥美町では浸水も少なくない)。このように、いわゆる高潮被害の形をとっているにも拘らず、人的被害の軽徴だったのは、その理由をいま明らかにしえないが、おそらくは、一つには渥美湾の特殊な地形やここでの高潮工ネルギーの存在形態、さらに緊急避難の在りよう、もう一つつけ加えるとその住居立地という点も考えられるだろう。
しかし、これらの地区での将来の姿として、姫島港(豊橋・姫島・蒲郡・御津地先)の建設とこれに関連する埋立や干拓による一大工業地帯造成を念頭におくと、今後の防災対策を抜きにしてだが、このような形の被害を示すかどうかは、なお検討すべきものをもっている。
つぎにこれを愛知県の発表(昭和35年1月9日現在)によってみると、III-1表の通りである。なお、ここでは伊勢湾の西部沿岸の被害をみていないが、三重県下の津市より南部の地点でも、この類型にかぞえられる被害地が少ないようである。
つぎに第二の類型についてみよう。ここでは高潮による直接的な被害に加えて、その後の浸水のなかで多様な形をとっているが、これを地形で区分すると、その内部が低湿になっている場合と、丘陵地に接続していく場合とでは大きなちがいをもっている。前者の典型が、名古屋市の西南部のいわゆる干拓水田地帯で、飛島・弥富の各地区がこれに当る。この海岸および河川堤防を破った洪水は、この区域を越えて、佐屋・津島・一宮の地域まで拡がり、同時に破堤部のしめきりをみるまでは、長く湛水せざるをえなかった。このほか名古屋の東南部に当る港・南区でも同様である。
これに対して後者の場合には、高潮による直接の被害を受けたのちには、ほぼ3~4日のうちに退水をみている。知多半島西岸の常滑のほか、半田・碧南等の衣ケ浦地帯がそうである。しかし、とくに後者では沿海部での埋立による衣ケ浦臨海工業地帯の造成にともない、名古屋東南部におけるものと同じような被害の形を示しうることは、その地形からみても明らかであろう。
同じく愛知県の報告で、これを表示するとIII-2表の通りである。ここでも三重県をのぞいた(川越村は部分的に追加)がこのなかには、もちろん桑名・四日市を含めることができるが、しかし、この場合、この臨海工業地帯化は進行中であり、また帯状都市の形態からして若干のちがいをもっていよう。
最後に第三の類型についてみてみよう。ここでは、人命や建物等に対する高潮による直接の被害は軽微で、むしろ、長期間に亘る浸水被害をその特徴としている。
名古屋市の場合では、港区や南区の後背地をなす中川区や熱田区がそれに当る。人的被害では軽傷者が、家屋では半壊も少なくないが、床上・床下の浸水による被害が圧倒的である。このほか、飛島・弥富等の干拓農村の背後にある低湿の、佐屋・蟹江・津島についてもいえるだろう。
同じく愛知県の報告によって表示すれば、III-3表の通りである。
2)工場災害の総括
伊勢湾台風による以上の一般的な被害に続いて、ここではとくに工場・工業関係の被害を概括しておこう。
まず被害額についていうと、当初の発表から2次3次と時が経つにつれてその額も大きくなっているが、同時にその内容が変化していっている点が注目される。この辺に今次の工場・工業災害の特徴の一つが観取される。その意味で、経過的なこの推移を、同一の資料によってではないが、みておくことにしたい。その第一は、名古屋通産局による、業種別被害種類別にみた報告(第一報)。第二は名古屋商工会議所の発表になるもの。第三は被害後2カ月ののち(昭和34年11月24日現在)に集計されたものである。これらをつぎあわせてみると、以下のような特徴がみいだされる。
第一点は被害額において、愛知県の工業だけをとると、242億円 450億円 379億(ほかに公益関係が27億円で合せて406億円)という経過を辿っていること。
つぎに第二点としては、機械・金属の被害において、95億円 124億円 48億円(重工業関係)というの推移を辿っている点が挙げられる。今度の災害では、当初に臨港部の機械・金属・化学など重工業関係における巨大工場の被害が主として大きく報道されていた事実を反映し、その被害額も予想外に大きなものとなっている。しかし結果的にみると、もちろん3次発表分を容認しての上だが、むしろ過大評価ではなかったかと思われる。この点は新三菱や大同製鋼などの個々の企業についてくわしく検討すべきであろうが、これらはのちにふれることにしたい。
第三に重工業関係のこのような被害額の推移と全く対照的な経過を辿っているのは繊維関係の被害である。同じく65億円 207億円 244億円という推移で分かるように、3次発表で大きくふえているのはとくに注目していい点だろう(このほか化学工業も、8億 10億 17億円とふえている)。繊維関係はいうまでもなく、主に中小企業によるもので、衣ケ浦東岸の織布をのぞいては殆んど内陸低湿地に所在している。高潮による直接の被害こそなかったが、その後の長期湛水によって、じりじりと被害を大きくしていったことがうかがわれるのである。しかもこれらの繊維関係では、設備のうち機械および部品についていうと、重工業関係のそれに比べて耐塩性が低く、おくればせながら復旧・操業に進んでいるというものの、耐用年数の著しく低下していることを考えると、その被害額はもっと大きいのではないかと思われる。
いずれいにせよ、台風・高潮の直後、臨港地帯の大災害が異常にまで強調されたのであるが、蓋をあけてみると主としてその臨港部に位置している重工業関係の被害がようやく48億円(ほかに化学が17億円で、合せて65億円)に対し、繊維部門のそれが244億円という結果になっている点は注目されてもいいだろう。そして今後の防災を考える上でも、絶対防水が前提にはちがいないが、内陸低湿地の工場・工業の立地には適切な方法のとらるべきであることを示唆するものである。
つぎにこれを電力需用の側面から、工場の被害を検討してみよう。この点については、中部電カの『伊勢湾台風の被害と今後の対策』中に、簡単な報告があるので、これに基づいて検討してみよう。
中部電力の、災害直前になる34年8月末現在で、契約電力500kW以上の大口需用家(特約、深夜契約を含む)の総件数は402件、125万7千kWであるが、このうちとくに被害の大きかったのは、伊勢湾臨海工業地帯の約80~90工場、42万kWとなっている。件数では2割から2割2分契約電力量では3割3分という割合である。大口のうちで特約工場についてみると、とくに名古屋支店管内の11工場、津支店管内の2工場に被害が集中している。
その被害程度だが、被災した大口工場のうち60工場(契約277千kW)は、罹災後2週間後の10月9日現在でも操業不能の状態、また20~30工場(1,434kW)は50%の操業度に低下している。また特約工場では、台風の翌日(27日)には、前週平均に比べ10.9%に低下したという。
ところでこの復旧状態もついでにみておくと、大口需用家では、10月20日現在で、未使用あるいは保守電力使用にとどまる23件(47千kW)を除いて操業を開始し、さらに11月4日に至って復旧率50%未満は未使用の2件(津島毛糸、東海製鋼)を含めて19件(354kW)となり、このうち復旧率10%未満は3件(近藤紡津島、横井製機、伊藤機工)を残すのみとなっている。
また特約関係では、直後の10.9%が、9月30日で25%、10月10日で49%、20日で65%、10月末で82%と急テンポに復旧し、11月4日現在で復旧率50%を割るものは、大同製鋼(星崎工場)の24.7%と、三菱化成(四日市工場)の33.4%の2工場だけである。
なお業種別についていうと、被害の最も大きかったのは繊維関係で9月27日の使用電力量実績は、9月22~23日の平均使用電力量に対して僅かに0.8%、同じく0.6%の鉄鋼もこれに劣らない。そしてこの復旧は、11月4日現在で、繊維93.5%、鉄鋼80.6%となっている。
3)工場災害とその類型
前項でみたように、伊勢湾台風による工業・工場災害は、総額にして1,000億という大規模なものである。未曾有のものといっていいだろうが、わが国経済の、年成長率10%前後の伸びと、そしてその相当部分が今後とも臨海工業地帯に依存するものであることを考えると、同じ程度の高潮・台風をもってしても、その被害が、これをはるかに上廻るであろうことは予測に難くない。そこから強力な防災対策の必然性も生れるが、それと同時に、工場災害といわれるものの実態や性能・特徴をも明らかにしておく必要もでてくる。しかし、このような災害については、農業・農地の場合とはちがって、従来まだ充分な検討をなされていないし、またそのための材料も不足しているので、ここではその問題点を主としてとりあげてみることにしたい。
工場災害といっても、その種類や程度・規模、そして性質は種々雑多である。復旧・復興も同時に多様の形態をとる。したがってこれを被害額という形で、単に金銭評価するだけでは、あまり意味をなさない場合が多い。たとえば、道路・河川等の公共施設被害の場合、この被害額は、その実数と単位当の復旧費という二つの単純な因子に分解することは容易であるが、工業の場合には、必ずしも容易ではないし、また適切でもないのである。以上の点を念頭において、以下具体的に考えてみることにしたい。
工業の被害は、一般に、あるいはせいぜいのところ、施設・商品の二つに区分されていることが多い。前項にみたのがそれである。施設のなかから建物が別にとりだされている場合もある。そしてこの内訳が集計され、被害総額だけが公表されることも珍らしくない。ここでは建物被害を別に出している岐阜県下の商工被害の数字を掲げてみよう(III-8表)。工業だけをとれば建物被害が29億、施設被害は16億、商品の損失は12億円、合せて59億円となっている。建物が大体50%の割合である。愛知・三重両県の場合、この割合がどうなっているか、まだ資料を手にしえないので正確なことはいえないが、若干のききとりでは大同小異とみてもよさそうである。いずれにせよ、この点は、すくなくとも今次災害の一つの特徴とみなしてもいいように思う。
私は、いま岐阜県の工業被害の実態を明らかにしていないので、5割を占める建物被害が何を意味するか、ここではこれ以上に吟味することができないが、必らずしも岐阜県ということにとらわれず、建物被害の中味を問題にしてみたい。
今次災害で最もポピュラーな工場災害といえば、もちろん第一に建物被害が挙げられる。そのほかの被害をうけなくとも、工場建物の倒半壊や一部破損という例は珍らしくない。一般民家では、不動産・動産を含めて一番大事な資産であるが、工場では-もちろん工場の種類や規模にもよるが-そう重みのあるものではない。それ故あまり問題にされなかった。しかしこれには、部分的かもしれないが、しかるべき理由のあったこともみのがしえない。
まず岐阜県の例として、岐阜市菊地町にある岐阜機器製作所の場合をみよう。製品は自動扉や遠心噴霧機それに車両部品などで、昭和23年の設立、資本金が600万円という小工場(従業員85名)であるが、伊勢湾台風で、本社工場のおそらくは木造の1棟が倒壊し、5,000万円の被害という。
600万円の資本金、年間売上が6,000万円をもってして500万円の被害といえば大分傷手であろうが、ここでは早速総工費250万円で、新工場の建設に着手している。新工場は倒壊工場跡の約300m^2に軽量鉄管工場を建設するもので、2月末に完工といわれている。この場合、償却すみであっても、必ずしも更新時期にあったとはいえないかもしれない。しかし機器等の設備の近代化は、ここでも当然に新らしい皮袋を求める時期になっていたと考えてもいのではなかろうか。その意味で、いちがいに被害といえるかどうかには多くの疑問があるように思う。もちろんこれは一例であって、これだけから5割を占める岐阜県の建物被害をきめつけるつもりはない。
さらに、桑名市の日立金属桑名工場(昭和31年10月、日立製作所より分離、可鍛鋳鉄製管継手生産)では、伊勢湾台風による被害として、工員食堂(300坪)の被害がある。屋根スレートがむしとられ、使用不能となっている。再建費を坪当り5万円としても1,500万円の被害額である。しかし、この建物は昭和17~8年ごろの軍の建物で、終戦に払下げを受けた償却ずみの老朽施設である。組合(従業員数1,300人)から、それまで何回も改築を求められていたから、これを機会に新築に至るものと思われる。こういう形の建物被害は、今度の場合は数多い。
この典型的な事例は、愛知県の刈谷市にある豊田自動織機の場合である。ここでは、高潮による浸水被害はなかったが、おそらく強風によるものとして、刈谷工場の木造建物は全部倒壊、大府工場は3棟倒壊が、当時の新聞に伝えられている。刈谷工場は敷地が38,384坪、建坪は21,870坪(ほかに社宅がそれぞれ39,256坪、9,670坪)。大府工場の方は、27,393坪、6,223坪、社宅221坪となっている。これらのうちどの部分がどの程度に倒壊したものか明らかでないが、この豊田自動織機はトヨタ系統のいわば発祥の会社で、大正15年(11月)の設立である。その後建増しはあったろうが基幹的なものは、おそらくその当時のものであったろう。そして償却ずみの更新時期にあったわけである。この点について「豊田自動織機の本社事務所は、創設者故豊田佐吉翁の意を体して、まことに質素なもので、木造の二階建。どうみてもそこいらの町工場並み」といわれる通りである。こうして台風を契機にして、その近代化が促進された。「昨年の伊勢湾台風により、木造建工場などに相当の被害をうけたが、その後最も被害の大きかった鋳物工場を鉄骨建にするなど、建物の近代化をすすめている。こんどの新事務所建設も、建物設備の近代化計画の一つで、鉄筋コンクリート建、地上3階、地下1階、建面積延8,000m^2程度。ほかに全工場の木造部分を鉄骨化するなどの計画」(1月10日、日刊工業新聞)が進行中といわれている。
また、トヨタ自動車に自動車部品(ほかに工作機械の生産)を供給している豊田工機でも、同じような木造建物の倒壊を契機に、その直前から計画されていた建物の近代化が促進されている。「34年度の設備合理化計画として、昨春より総額5億7千万円を投じて、工場の建設や設備機械の充実を中心に、合理化を行なっている。こんどの自動車部品工場の増築は2,000m^2程度建増ししようというもので、4千万円をつぎこみ、3月までに完工の予定だが、新工場の一部には、昨年の伊勢湾台風により倒壊した倉庫などの設備を移す」計画であるという。
建物災害として、以上にみてきた事例はもちろん局部的であり、また特殊的なものも含まれていようが、この大きな被害額にもかかわらず、復旧・更新ともからみあわせるとき、そう致命的ではないように思う。
これに対して、建物に被覆された機器等の施設の被害はより本質的な問題をはらんでいるのではなかろうか。もちろんこの場合でも、工場の種類や規模によって、その影響の度合いのちがうことはもちろんである。以下、この点を具体的にみてみよう。
まず総括的にいうと、建物を含めて、各工場につきその有形固定資産がどの程度に上り、またその割合の増減の傾向がどうであるかを、いま述べることはできないが、最近の設備近代化の過程で、機器等の内部資産の急上昇のあることは推測に難くない。これらを反映して、いわゆる損告保険が、その対象を拡めつつある。つまり、従来は単に建物一本の保険が、民家の場合でも建物のほか動産をも対象とするように、機械設備を別個に処理している。もちろん、この額はまだいまのところ少ない。III-8表にみる通りである。支払総額にして45億円だから、被害総額の5%足らずというわけで、まことに徴々たるものである。そのうち機械損傷はようやく1,000万円利用率はまだ低い。しかし、今後の傾向としてはもっと利用されるようになるだろう。なお、風水害保険が別に計上されているが、このなかに、外資提携会社として水害保険を要請していた三菱モンサント化成四日市工場の分がどの程度に含まれているか明らかでない。いずれにせよ、エ場被害を考えるときには、建物近代化と設備の合理化投資の傾向のなかでは、機械・モーターが一番の問題である。こうした形の工場災害が、伊勢湾台風を契機にして、始めてわが国に襲ってきたという事実が、このさい注目されてもいいだろう。これは、従来の単なる都市災害とはその性質を異にするものである。したがって、それへの防災対策も、高潮や台風から都市をまもるということで終るものではないことを知らなければならない。
ところで機器等の施設被害を区分すると、一つはモーター類、他の一つは機械類の二つに分けることができよう。工場の動力化、とくにオートメーション化の進行過程で、モーター等動力機構は、工場施設のなかで最も重要なものとなっている。浸水被害の工場の殆んどすべてが、このモーターを冠水させ、そのために操業停止となったことは周知のところであろう。当時の報道もこのことから復旧の困難を指摘したのである。たとえば、「殆んどの工場は、工場の心臓部であるモーター類が浸水したため、修理などに手間取り、生産の再開をおくらせている」(10月6日毎日新聞)とある通り。あるいは、さらに東亜合成の名古屋工場(第七号地)をみると、「硫安合成塔やナイロン原料製造装置などの主要設備に被害はないが、モーター類が水をかぶったため使用不能となっている。運転までに2週間とみる向きや3週間と予想する向きなどさまざまで、はっきりした見通しはまだ立っていない」(10月10日ダイヤモンド誌)とある。ここでも問題は動力装置である。このモーターが施設資産のうちでどのくらいに達しているか明らかでないが、いま貸借対照表(第32期、34年12月現在)によると、有形固定資産の総額65億円(全資産は144億円、うち流動資産61億円)に対し、建物が13.9億円、構築物2.1億円、機械装置が42.1億円、ほかに建設仮勘定2.3億円となっている。この42億円という機械装置のうち、主要設備に被害はないといわれる点は、臨港部の化学工場として注目してもいいところであろう。当初の被害報道はまさにその主要設備にかかわっていたのである。
なお、ここで化学工業における建物と機械資産の割合(13億に対し42億円)に対し、大同製鋼のそれをみると18億円と31億円(全資産は流動の130億円を含めて212億円、有形固定資産は70億円)という割合で、この場合には建物の比重が相対的に大きくなっていることがわかる。また、ついでに織維関係で尾西毛糸紡績をみると、建物の2.3億円に対し、機械装置が3.2億円(資産総額は22億円)となっていて、建物資産の占める割合は圧倒的に大きい。このように、工場の規模が大きくなり、また設備投資の拡大が進むにつれ、機械装置資産の比重が段々と増大する。そしてオートメ化の進行は、そのなかでのモーター類の意義が重要になっていくのである。
この点でさらに石原産業の四日市工場をみると、「工場全体にわたり1.5mから2m近くの浸水このためモーター約400台(全体の約1割)が水びたしとなったほか、原料・製品・半製品も流出したり、浸水のうきめをみた」(同前)といわれる。被害額は前者がモーターを主として1.1億円、後者は8千万円というところである。また、大協石油の四日市の製油所では設備の直接的な被害としてタンク1基(重油タンク)の倒壊とモーター350個の浸水。この被害は製品流出を合せて1億円といわれるが、設備の方はその7~8割に達するものとみてもいいだろう。そしてむしろ問題なのは、モーターの修理と入手状況によっていつごろ操業に入れるかという点であるといわれていた。
モーター類の被害は、こうした大工場の場合だけでなく、中小企業においても同じである。たとえば、紡織・織布で著名な衣ヶ浦の半田では、高潮により浸水し、大きな彼害となっているが、そのうちの小杉紡については、「高さ1.8mまで浸水、4万錘の紡機、1,300台の繊機が全部冠水。30日やっと水洗いを終ったところへ海水の浸水にあい、機械類はさびて使いものにならない」(10月6日毎日新聞)といわれ、さらに「損害は10億円を下るまい。モーター類が全滅しているので、復旧のメドがつかめない」といっている。
以上のように、台風・高潮による冠水被害では、機械もさることながら、モーターの被害がその後の復旧・再開に当って一番のネックとなっている。そのことから、こうした被害を受けた阪神地帯の臨海工場の多くでは、その吊上げ装置を設けるようになったことは知られている通りであろう。したがって、この吊上げの準備さえあれば彼害は軽徴に止められえたし、また急速な再開も可能となったろう。そして工場にとって何よりも必要なことは、工場の急速な再開である。
この点で、たとえば完全操業まで200日以上(来年3月まで)を要するだろうといわれた新三菱重工の大江工場および名古屋航空機製作所(第六号埋立地)では、冠水モーター(8,000台)の分解修理をおなじ三菱系の救援(三菱電機の名古屋工場や伊丹工場等)によっており、被災後1カ月の10月末にはフル操業に入っている。また被害の最も大きかった大同製銅(楽地および星崎工場)でも、三菱のほか日立・東芝・富士の各電機メーカーが積極的に応援したため、モーターの分解修理は予想外に早く、したがって、事業再開もピッチを早めたのである。これに対して中小企業の場合には、電機メーカーによる応援があったとしても、それは大企業のモーター修理が一段落してからが多く、その上からも復旧のおくれが顕著であった。
いずれにせよ、今次の災害に当って、工場被害としては、おそらく10万を越えるモーターの冠水したことは一つの大きな特徴とみていいだろう。
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2 名古屋港の貯木場と貯木被害
1)既往の災害と貯木被害
伊勢湾台風による被害のうち、とくに名古屋東南部での被害を激甚にしたものとして、貯木場における材木の流失散乱が挙げられている。当時の新聞報道もその点を特筆大書したことは周知のところであろう。その結果として、のちにもくわしくふれるが、貯木場の移転問題も出てきたのである。しかし、この点について事態の真相は必ずしも充分に究明されているとはいいがたい。以下、これを明らかにしてみようと思う。
その前にまずこの前史をみると、名古屋の場合、この前例は数度もある。そのために最新式の貯木場(第8号地)設置となったのだが、それも充分ではなかった。ここに念のため既往のものを簡単にふれておこう。
名古屋築港工事中、大正元年に大きな高潮による被害があった。このときの災害について、「名古屋築港誌」によると、「台風の極であった23日(9月)の午前4時20分の風向は南南東、風速28.2m、最低気圧728.6mb、海津の最高潮位15.33尺(約464m。従来観測の最高潮位は11.9尺)であった。この台風は海嘯を伴ったためにその被害が甚大であった。なにぶん各埋立地護岸の高さは、満潮面上4~5尺であったのに、高潮はそれより1~2尺も高く、かつ波浪を伴ったから、各埋立地とも全部水中に没した」という。そして
「稲永新田(庄内川の左岸、荒子川の右岸の出洲)
大江新田(堀川の左岸、山崎・大江河口の出洲、いまの六号地、新三菱等所在)
作良新田(堀川右岸、いまの住友金属)
などにあった旧来の海岸堤防も、その一部が破壊せられ、中川ロや荒子川口の堤防も危険に瀕したが、必死の処置によって辛じてことなきを得た」(400頁)とある。当時まだせいぜいのところ出作水田で、この辺には人家も大してなかったから、そう被害の出なかったとしても不思議ではなかろう。むしろ問題なのは木工都市として古くから名高い木材の暴走による被害である。「当時、堀川は中央に通路を残したから、水面は材木で充満していたし、その両岸の満潮位線以上にも、材木がすき間もなく山と積み上げられてあるのが常」だったのである。台風の襲来時にも同様である。「このときの高潮は、堀川をも逆流して満潮位線をはるかに突破し、浮流する材木筏は揉みに揉んで両岸の材木の山の裾を激しく衝いたので、材木は悉く河中に崩れ落ち、河面はこれらの材木で埋めつくされた」のである。こういう満潮時の所へ、今度は干潮である。「退潮になって、この夥しい材木は港内一面に拡がったが、この退潮は平常のとは異り、充分退潮せずして早くも漲潮に変じ、再び海岸一帯へ波浪と共に荒れ狂って押し寄せた。このために波浪、護岸の破壊はもとより、桟橋・上屋・民家など、建物という建物の腰部は悉くむざんに推破せられ、船艇もまた無数に破壊あるいは沈没させ」られるに至ったのである。このときは、文中にあるように高潮は堀川を進み、その河岸にあった木材を流し、その周辺を荒していったのである。
つぎに昭和9年9月、大阪を襲った室戸台風のときについてみよう。
台風とくに高潮による、さきにみた大正元年の災害、さらに10年、つづいて14年の事故といい、ともに材木の暴走によることが多く、他方名古屋の発展にともなって、名古屋港への木材の入津量も激増(大正12年以降400万石)し、この荷捌きが困難となり、業者の強い要請もあって、第8号埋立地およびその前面を貯木場として整備することになったのである。それに至る経過をみると、「大正6年と10年の大暴風のとき、木材散乱のため大損害を受けた。今はそれにもまして大量の木材が入津するので、暴風があったらどんな被害を被るかもしれない。それで前記暴風雨のときの惨状を撮した写真を生きた資料として要路の人に説明した結果、大正13年の夏、山脇知事の現地視察となった。そのとき堀川口あたりはもう筏が一ぱいで、紀南橋(堀川の左岸名港貯木場の堀川への水路橋)まで行くと、船は全然進まれなくなり、25分ほども動けなかった。知事もこれでは捨てておけないと認められ、整理場を設けることになった」(186頁)のであると。
以上のような理由で、暴風時にも安全なようにと第8号貯木場および木材整理場が設けられている。
すなわち、この貯木場は昭和8年の完成で、その水面積71万m^2、そして第1号(前面・西方第2号(側面・北方、運河によって第7号地に接する)の幅10間の水路を持った閘門で、外洋海水と場内とを遮断し、場内の水位を動かすことなく、潮の干満にかかわらず木材の入出庫ができるようになっていた。またこの四周には当然海岸堤防がある。外水と場内とを断することである。そのうち南側の堤防は明治29年に建設した防波堤の一部を利用(のちにかさ上げ、補強し、その上に臨港鉄道敷設)したものであるが、東・西・北の三方、すなわち埋立地に接する所には、木材引揚用の土堤を築いた。その構造は、干潮面上8尺までを直接護岸し、13.8尺の理立地にいたるまでは4割勾配の斜面で才土粘土張りである。さらに貯木場の内部には桟橋兼用の仕切堤(長さ100間、仕切間の間隔60間)が設けられた。これは風のため筏が一方に吹き寄せられないためと、作業用の道路としてである。それとは別にこの前面(西方)に、第1号閘門を出て間もなくに木材整理場を港内に作っている。
この貯木場は、当時としては最新式、名古屋港自慢のもので、「名古屋築港誌」によると、「かように簡易で完全な貯木方法を発見し、これを大規模に応用したのは、本港が全国における嚆矢であって、これにより、海岸に水面貯木場を設けることは絶望であるという、従来の考え方を全く覆えしえた」(406頁)のであるといわれている。この当初の計画通りということになるのであろうが、昭和9年、大阪・神戸一帯を吹きまくった室戸台風にさいして、名古屋では臨港部はもちろん港域および貯木場等についても殆んど被害が出なかったのである。このことについて、同じく「築港誌」によると、「20日の天気図と暴風警報とをみて、大正元年に異った台風と酷似しているのに注意して、この風は必ず当地を襲うであろうと考え、20日の夕刻、船員や人夫の非常召集を行い、経や小舟は陸に引上げ、小蒸汽船・浚渫船・ポンプ船などは帆船溜に容避難せしめる」と同時に、「貯木場の警備を厳重にしたり、上屋倉庫などは風上の入口戸を厳重にするほか、万一の場合には、風下の戸を開放しうるように注意」したとある。材木や筏の流走を防ぐ手段をとったことはもちろんである。このときに警戒の注意を指導したのは、明治33(1900)年の8月の赴任(愛知県土木技師)以来、名古屋港に終始し、当時名古屋港港務所長であった奥田助七郎氏である。その奥田氏の長い港湾生活の結晶が、私の利用している「名古屋築港誌」(昭和28年3月刊)である。
2)伊勢湾台風と貯木被害
以上のように、名古屋港では既往の経験にかんがみて、第8号埋立地内に広い貯木場が設けられたが、いわばそれが逆に今次大災害の要因をなしたといわれている。この点について、10月8日から始まった読売新聞の連載記事、「水害」は、その初回に、「集団殺人犯」と題し、「貯木の殴り込み」という副題をつけ、次のように書いている。すなわち、南区役所の或る課長のことばとして「まるで原爆級の集団殺人といえます。もちろん犯人は台風なんですが、その手足となって実際に暴力をふるった主犯が港にいた。あいつさえいなかったら、南区からこんなに死者は出さなかったはずです」というのを引き、それが貯木場と貯木であるとしている。
名古屋港のこの貯木場としては、前表の通り、営業用が2ヵ所、専用が15カ所(うち陸上から3カ所)で、この年間貯木能力は総計119万tで、この8割に近い80万tが、船見町(第8号地)および加福(第6号地の奥)の二つの営業用の貯木場に占められている。面積も121万m^2のうち71万m^2だから、同様圧倒的割合を示している。このほかの大規模なものでは、熱田営林署の堀川中流西岸に沿う二つの貯木場(合せて15万m^2、20万t)と、同じく堀川の下流、その東岸(住友金属の対岸)に沿う名港貯水場(27万m^2、10万t)がある。その他は5千t以下の零細なものとなっている。
ところで、この貯木場への木材の輪移入量、したがってその貯木状況だが、昭和30年の739千t、31年の877千t、32年の861千t、3年の951千tと累増の経過を辿り、さらに33年後半から34年に至り、合板界の好況とくにアメリカ向けの輸出好調で、34年9月までの入荷で前年水準に近い状態を示している。月別の入荷量をみても、台風の月である9月をのぞけば、10万tをはるかに突破するいきおいである。これを、災害の一大要因といわれた、8号地・加福町の営業用貯木場についてみても全く同様である。そしてこれらの大部分は巨大なラワン材を中心とするものとなっている。
加えてその貯木状況たるや、各貯木場が市内各地の零細なものをも含めて收容能力を越したため、各河川や運河にもひろがり、また問題の船見町にしても、貯木場前面の整理場に浮かしてあったというしまつである。
なお、台風直前の各貯木場その他における筏繋留石数は付図10でみる如く、総計1,023石となっていた。
以上のような状態のところに、15号台風が伊勢湾の奥深く押しよせ、強風と高潮による潮位の上昇で、「この四周にある堰堤を軽く越え、貯木場内の材木艦隊を陸地に押し上げた。一本直径1m、長さ5m、重さ7~8tというラワン材は波に洗われ、まっすぐ北の埋立地にぶつかったが、ここは倉庫群や大工場で突破」(34年10月8日、読売紙)できなかったという。ここでの四周の堰堤とあるうちとくに問題となるのは、いうまでもなく直接に外洋に面する南側の堤防である。この提防は、さきにもふれた通り、明治29年の、当初の熱田築港にさいして設けられた防波堤の一部である。その上に、のちに臨港鉄道を敷設し、同時に補強(高さ4.80m、幅6~7m)してあるというものの、表法はコンクリート割石固めであるのに対し、裏法は土固めにすぎないという、いわば老朽堤防である。したがって、外洋からの高潮をまともにうけ、一瞬にして破られるに至った。このことは第9号埋立地の、同じく外洋に面した新名古屋火力の地先が、のちにみるように単に冠水したのと比べると、大分大きなちがいのあるところである。鍋田干拓における前線堤防と同じように、ここでも表法ばかりでなく、裏法についても同じように補強され、破堤に至らなかったならば、貯木流失による被害は最少限度にくいとめられたのではないかと考えられる。
ところでこの第8号地の貯木場では、南側堤防の破堤に前後して、木材整理場を前面にもつ西側堤防でも、同じように高潮に洗われたが、ここには倉庫・臨港線・貯炭場、そして宿舎(愛知県厚生寮等)があり、高潮も充分な力を発揮できなかったようである。この北側についても同様である。すなわち、同じく8号地内の貯木場に続く埋立地で、西から東に細長く昭和製函・名古屋木材倉庫・東亜合成樹脂工業があり、さらにこの北には7号地等からくる臨港鉄道が走っている。とにかく、これらのコンクリート塀を持った倉庫群を打ち破れなかった木材は、「東側の南区元柴田町、白水町の密集住宅地へ流れ込んだ」のである。この流木が多くの小住宅の表戸やガラスを打ち破り、さらに人命までうばったことはあとでみるが、被害後1カ月、10月下旬になっても「南区白水町一帯は流木の山が積まれ放した。白水小学校の校庭付近の材木の下からは、いまだに死体が連日発掘されている」(10月26日読売紙)とかかれているのである。白水小学校というのは、のちにみるように大同製鋼のうちで最も大きな災害を出した星崎工場の南、天白川寄りにある。被害児童の多かった学校である。
3)貯木被害の検討
ところで、伊勢湾災害、とくに名古屋市部の災害について、この貯木場がどの程度の意義をもつものであるか。それのもたらした事態があまりにも深刻なため、必ずしも充分には検討されていない。ここでは、この問題を考えてみることにしたい。
まず、第8号地の船見町の貯木場とその貯木の散乱がなかったとして、その散乱の影響を一番強くうけた柴田・天白地帯の被害は、どういう姿を呈したであろうか。被害総数から、純粋な貯木被害を区分することは困難であるが、港区所在の船見町貯木場も名港貯木場の機能をうけたのは、これらを丁度区界にした南区の側であるが、その港区と南区との被害を比較することによって、この影響の度合いが一つ明らかにされるのではなかろうか。
前出III-2表でわかる通り、南区の行方不明を合せた死者の計1,488名に対する港区の378名というのは、これはどうみても、当時の新聞報道が伝えたように、貯木を直接間接の加害者としてもいいような気がする。さらに南区の被害のうちわけをみると、南区の8学区のうち、白水学区の死者は350名に達しており、また所在4,000戸ほどのうち1/3までが流失全壊となっているのである。したがって、この貯木場が現在の中央商港埠頭位置や、あるいは稲永埠頭地先にでもあれば、この背後にある港区の商店・住宅街に、南区の場合以上の大被害となったのであろうことは推測に難くあるまい。この点、防災対策としての貯木場の移転計画のように、飛島・鍋田干拓地の前面に押しだされるようになれば、背後地には人家の密集がないから、もちろん被害が軽微になろうが、それとてこの背後地の将来の土地利用の進行如何によっては、同じような危険をともなうことは考えられなければならないだろう。
もっとも8号貯木場の被害が、何よりも第一に外洋に面した南西の老朽堤防の破堤を直接の契機としたものであることを知れば、問題はその保全方法だということにもなろう。倉庫群で被覆するとか、あるいは第一線堤防を押しだすとかが考えられてもいい。その意味で、「台風がまともに上陸するような、そして破堤したら災害が大きくなるような、こうした危険な施設を港の前面に設けたこと自体が問題だ」というところまで問い詰めなくてもいいのではないかと思う。
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3 工業立地と工場被害
1)工業地帯と災害の類型
前項では、とくに愛知県を主として、災害救助法に基づく被害統計により、災害の形を三つの類型に分けてながめてみた。ここでは、それらのうち、代表的な臨港工業地帯である名古屋と四日市における災害を、それぞれちがった類型という認識のもとに検討してみよう。
名古屋の工業地帯は、別に詳しく述べるように名古屋港を包み、その第一線の臨港部、これに続く低湿地、さらに内陸部というようないわば半円形をなし、それぞれが各業種・各規模の工場によって構成され、さじずめ有機的なつながりを濃くしている。そしてこれらは同じように社宅・一般住宅を含む住宅街・商店街を発展させている。これをさらに区分すると、臨港部での巨大工場の一群、低湿地における一部の大企業のほか中小企業の集団と住宅・商店街、このなかには最大被災地の7号・8号理立地内になる天白地点、5号地奥の道徳・観音地点、1号・2号地の奥に当る中川運河周辺地点等がかぞえられる。これらの低湿地を経て、内陸部工場に至る。
このような工業地帯の形成からして、名古屋での災害は、臨港部における巨大工場が高潮により一時的な冠水をうけたことに続き、この奥の低湿地では工場・住宅とも、排水機能の不備で長期の湛水を余儀なくされている。もちろん、このほか8号埋立地の奥では、貯木場の木材の散乱により、人命に大きな影響を与えた点は特記すべき点であろう。しかし、この特殊なケースをのぞくと、一般には低湿地の洪水現象の事例と解してもいいだろう。
なおここで考えておかなければならないことは、もし臨港部に巨大な工場群を欠いていたならば、その内陸部に高潮・台風のどんな影響があったかということである。もちろんこれは理論的に推定さるべきことであろうが、これを欠く地点との比較で吟味されてもいいだろう。そういう地点の一つとしては、庄内川と木曽川との間にある飛島・鍋田地点が挙げられる。ここでは、周知の通り、海に出された干拓堤防の破堤で、これに近接していた住宅は一瞬のうちに流出、爾後、海水は奥地へと拡散していったが、もしその前面に強固な海岸堤防、あるいはさらに大きな構造物があれば、当然にその内部は風下になり、被害を軽徴にしたものと考えてもいいだろう。もっとも、河川堤防の決壊で、内部から襲われれば話しは別であるが、これはこれで防止の方法を検討すべきであろう。
飛島・鍋田地点に続き、衣ケ浦の半田地点でも同じことがいえそうである。ここには、川崎製鉄(半田工場)や日本碍子などの大工場もあるが、もともとこの地区は紡績・織布の軽工業地帯で、中小業者が圧倒的に多い。そして海面埋立による工業地帯造成についても計画中で、この帯状の埋立地への、おそらくは臨海大工場の立地も今後のことに属する。したがって、海の側はいまのところ、いわばガラ空きの状態であるから、高潮が一部中小工場で支えられたとはいうものの、市街地をまともに襲い、前項でみたような大被害に至ったものと考えてもいいのではなかろうか。この点は半田の対岸にある碧南の場合でも同様である。
もっとも、この西地区の場合、埋立の前進がなお過渡期にあるのと、もう一つはもともと奥行のない海岸平野で、すぐに丘陵地の発達があるので、その間に低湿地の存在がないといってもよく、したがって名古屋の東南部・南部にみたような長期湛水の現象を起していない点には注目していいが、これとて埋立計画が進んだ場合に、防壁になる工業地区ができたとしても、その内陸は下手をすると低湿地と化し、災害の場合、長期湛水の危険のあることは正しく予想しておかなければならない。
ところで、以上の名古屋型あるいはその原型と対象をなすのは四日市の場合である。四日市の工業地帯は、あるいはまだ発展過程にあるのでその地域構造といってもいいかもしれないが、三つあるいは四つに分けられる。すなわち、この都市は、名古屋の場合とちがって帯状の海岸都市で、北から富田・富洲原地区、中心市街地区、塩浜地区、それに中心市街地の内陸、広くは海岸部の内陸、その西側の平坦部に農村集落が散在している。
このうち工場地帯として、いまのところ最も発達しているのは、最南端の塩浜地区である。以前の干拓地が大部分で、戦時中に海軍燃料廠として埋立をみたものであるが、戦後にその跡地が日本肥料(東海硫安)・三菱化成・モンサント化成・昭和石油四日市などが設けられた。なお戦前からこの塩浜地区をだきかかえるようにして、岬状の埋立地に石原産業の四日市工場があり、またこの対岸に、塩浜には属さないが大協石油の四日市製油所もある。いわば化学工業地帯をなしている。
この塩浜地点の災害についていうと、その広い敷地内に、堅牢な工場構造物がたちならび、また石原産業の建物全体が海岸堤防とともに大きな防潮堤の役割を果しているので、これらの敷地内に1m前後の浸水をもたらしたものの、この内陸部には大した被害を与えていない。被害が、いわば臨港部工場で支えられたわけである。もちろんこれには、内陸部とのつなぎ目に、商業・中小企業・住宅等の市街地の密集化現象のみられなかった点も加味しなければならないだろう。いずれにせよ、臨港部での発展がなかったならば、高潮が遠く内陸に及んだであろうことは推測に難しくない。
なおこの点で同じ四日市といっても、いま埋立計画中の富田・富洲原地区には、将来、八幡製鉄等の鉄鋼関係の進出が期待されているが、ここでは臨港部の障壁を欠くため、高潮は内陸に押しよせ、大きな被害を与えている。その一つは、海岸線から400~500m離れている東洋紡績の主カ工場の一つである富田工場が挙げられる。地盤の低いことも関連し、浸水2mに達している。その北方にある平田紡績の四日市本社工場でも同様である。この点で、塩浜地区で、埋立地に接する東洋防の塩浜工場の健在であったことが対比されるのである。
ともあれ、四日市の場合には、名古屋とちがって帯状の海岸都市の形態をとり、臨港部は巨大工場によって占められており(あるいは占められたことになる)、これらの関連・下請の企業がまだ未発達なこと、そして従業員が周辺の農村からの通勤者の多いこととも関連し、その災害がじめじめとした形をとることが少なかったのは、大きな特徴としてみてもいいだろう。そして、将来の姿からしても、住宅地は、住宅専用地区として丘陵地への発展が可能であり、したがって、臨港部付近への過度集中の危険は少ない。その意味で、四日市(桑名を含め)と名古屋との災害の姿を実証的に吟味して、その差異やそれぞれの特徴を描き出し、今後の対策に資することが必要だろう。
2)工業災害と輸送問題
一般に工業地帯といわれるものが、各業種の大小工業が互に有機的に関係しあっていることはさきにみた通りである。したがって、ここでの災害が局地的なものならいざ知らず、広い地域に亘るときには、その経済活動の麻痺し停滞することは当然であろう。その場合に何よりも第一に問題となるのは輸送上の障害である。従業員の通勤や資材の輸送はもちろんであるが、さし当っての復旧に必要な人員・物質の輸送すら、事欠くに至るからである。伊勢湾台風による災害の場合でも、その早急の復旧をはばんだのは、この輸送の障害である。この点から、とくに工業地帯における防災を考慮した輸送手段や輸送網の整備がとりあげられるようになった。以下、この問題を具体的に検討してみよう。
その前に交通施設の被害状況をみると、まず鉄道では、国鉄の被害が、台風直後の47線、219カ所、それが10月の始めには6線、17区間、このうち中部地域では、
関西線(四日市-八田間7区間)
紀勢線(德和-多気間)
越美南線(深戸-北濃間3区間)
名松線(伊勢竹原-伊勢奥津間4区間)
の4線となっている。このうち一番問題なのはいうまでもなく関西線である。名古屋から桑名・四日市に至る幹線部分の不通だから大きな傷手である。もちろん、浸水から湛水を続けていることと路床の流出等に原因している。それに海水に浸かった枕木もその寿命を著しく弱めているだろう。国鉄のこの幹線と同時に、この地区では優勢を占めている私鉄の被害も非常に大きい。すなわち、近畿日本鉄道でも桑名から名古屋に至る区間、さらに名古屋鉄道では、
名古屋から常滑に至る常滑線(熱田-聚楽間)
西中金から興田・刈谷・碧南・吉田に至る三河線(中畑-旭間)
名古屋から沖島を経て弥富に至る津島線(柴田-津島間)
津島からの一の宮経由玉ノ井に至る尾西線(町方-弥富間)
等の各線が、それぞれ大きな被害をうけている。
さらに道路では、名古屋から桑名・四日市に至る国道1号線の浸水。二級国道では、名古屋-平内線、名古屋-塩尻線。このほか県道等は多数をかぞえる。とくに名古屋から放射状に出る津島・岡崎・今尾等の各線の不通には手痛いものがあろう。そしてこれがどうにか通れるようになっても、ここに車が集中するため、その効率は著しく低くなるのである。
以上のように、輸送手段の破壊で、人員も物資の運搬も、ともにはかばかしく進まなかった。この点についてその一例を挙げてみると、「知多郡上野町にある愛知製鋼は、台風13号のときに護岸を補強、こんどはわずかの浸水で6日から完全操業に入れるというが、杉田総務部長は、"輸送が最大のショック"、と嘆いている。名鉄常滑線の復旧がおくれているし、名古屋からの道路も上野町に入ってから荒れて混雑ぶりはひどく、トラックの出荷は思うにまかせない」(10月7日、朝日新聞)とされている。たしかに、大都市化の傾向が不可避であり、また工場地帯が互いに関連した工業地帯として発展し、人員・物質とも輸送密度が高まることを考えると、台風・高潮を問わず、あらゆる災害の対策として、輸送を確保することは最も緊急なことであるといわなければならないだろう。
このようにして、防災輸送ということがつよくいわれるようになった。これには輸送施設と輸送網の二つの側面がある。まず輸送施設でいうと、道路・鉄道等のかさ上げ、地盤高のかさ上げである。その周辺よりも高くして冠水を防止し、災害に当り輸送だけは確保しようというのである。そうした対策の一つとして、名古屋市の災害対策協議会では、国鉄臨港線のうち、西部低湿地の一部の高架化をとりあげている。
また国鉄では、関西線の名古屋一桑名間の水没という事態に対し、この実態を明らかにするため、この区間および駅の地盤調査を行なっているが、国鉄岐阜工事局の中間発表によると、次の通りになっている。
これによると、被害の最も大きい地区である弥富町の弥富駅は、海抜-0.756mと、全国の国鉄駅のうちで一番低く、最高潮位時には1.756m、最低潮位時でさえ1.026mも冠水している。この弥富駅は、開通当時には+1.075mにつくられたが、開設後64年間に1.831mも沈んだわけである。
このほか地盤高が海抜以下の駅としては、蟹江・永和の各駅。すれすれのものに八田・長島・桑名等の各駅がある。この原因や年次別の沈下量は明らかでないが、今後それがさらに進むことは当然に考えられる点である。こうして、これらのかさ上げはもちろん、もっと根本的な対策が必要となるのではなかろうか。
もう一つは防災輸送としての輪送網の整備がある。今次の災害では、迂囘輪送による方法がしばしばとられたことは周知のところである。最も著名なのは、国道1号線の不通により、21号線経由の方法で四日市に向ったことである。
また名古屋から知多半島、さらに平田への場合も同様である。名古屋-常滑線、名古屋-平田線は、ともに名古屋東南部の臨海工業地帯の中心部を通り抜けていく。その部分が被災地であり、また冠水で不通。こうして、「鳴海街道に延々と車が行列をつくっていた。名古屋市から天白川千鳥橋を経、知多郡上野町へ入る道は水没して途難、愛知郡鳴海町を囘って大府に抜ける以外、知多への道はないからだ。2時間余りかかって平田市に入る」(10月14日、毎日新聞)という状態になるのである。この鳴海街道というのは国道1号線のことだろうが、間もなく大府経由で平田に入ったものと思われる。
このように、その災害輸送は無事だった路線の外廻りなど、迂囘的な方法で目的を達しているが、これをもっと計画的に整備しようというのが防災輸送網である。すなわち、名古屋一半田間は以上の方法で可能だったが、他の地区をも含めて、これにのみ依存することは容量突破になる。たとえば、平田から岐阜、四日市への輸送がかちあっては、にっちもさっちもいかなくなろう。そういう考慮があったかどうか、最近二級国道に編入になったものに、蒲郡から岡崎・豊田・瀬戸経由の岐阜線がある。今度の災害では、どうにか被災を免がれた路線である。もう一つ、木曽特定地域開発計画の一環に岐阜(大垣)-桑名線がある。この旧線は大きな被害を受けたが、こうした路線の新設・改修などの整備が問題となろう。
ここでは、そうした路線として、二、三の事例を挙げたにとどまるが、その輸送網としては、単数あるいは複数の基幹工場地帯とその関連地帯とをつなぐため、放射状および環状の路線を計画的に整備することである。そしてこれは単に防災ということにとどまらず、都市の過度集中や都市交通の麻痺を防ぐためにも不可欠のものであることは周知のところであろう。
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4 工業地帯の配置と防災対策の問題点
伊勢湾台風による災害は、直接的には高潮による大きな波浪で埋立地に溢れ、また、海岸堤防を破壊したことから生じたものである。これは、名古屋・桑名・四日市等の伊勢湾の臨港部はもちろん、知多湾の衣ケ浦区域や幡豆町から豊川・豊橋に至る渥美湾においても同様である。そのため、臨海工業地帯なかんずく臨港部工業のあり方が、まず第一番に注目された。臨海公団が出発しようとし、また日本経済飛躍のため最も期待されているものであるだけに、その被害も大々的に報道されたことからして当然かもしれない。
しかし、ふたをあけてみると、さきに述べたような好況下とはいいながら、その復旧の予想外に早い点が世の注目の的となっている。そしてそのなかから、災害対策上、最も問題にしなければならないものが意識されてきた。それは、個々の工場の被害を軽減し防止するという側面と、もう一つは工薬地帯としての生産活動を災害から全体として護り保全するという側面の二つ、とくに後者が、工業都市の防災における要点だということである。というのは、いうまでもないことだろうが、工業都市あるいは都市群といわれるものは、大工場と中小工場、親工場と協力工場、素材・組立工場と部品生産工場とによって構成されている。これらは、それぞれ適切な交通手段により、相互補完の関係にある。またそういう関係をつくろうとしている。このタイミングは循環の確保、その災害からの防衛を抜きにしては防災の意味が薄いのである。この点は農業における防災が農地保全を本命にするのとは大分ちがっているところである。
都市防災におけるこのような認識は、臨港部における巨大工場の急速な復旧、これを可能にしたもの、また前提となったのは、さきにみたように、30億 100億といったその大きな資本力と高い收益力である。加えて損害保障等の各種保険の設定によって必ずしも実害をうけていない場合も多いが、巨大工場におけるこのような復旧の進渉に対して、これに接続する低湿地、とくに中川運河周辺の零細工場の復旧遅延、したがって部品不足という現象からもたらされたものである。
それにもう一つ、内陸部の豊田市のトヨタ自動車の場合、その部品生産の協力工場の相当部分が同じく内陸部にあって、そのため災害が軽徴に終ったことも挙げられるだろう。このようにして、関連部門の諸工場の内陸部への分散が、最近の傾向として看取されるのである。たとえば、この点について、豊田市への工場立地についてみると、「最近トヨタ自動車の本社工場および元町工場の所在する豊田市へ、同社の協力工場が工場を進出させるという傾向が目立ってきている」(34年12月12日、日刊工業新聞)といわれている。すなわち、トヨタが新館を誇る完全にオートメ化された元町工場の完成に相前後して、最近フタバ産業・荒川鈑金・三栄工業・加藤鉄工などの工場のほかトヨタ自販・大阪トヨタといった会社も、それぞれ元町工場の南東側に当る緑ケ丘町などの地域に進出、現在すでに操業を始めている。これらの工場に続いて、名古屋市の港区にある高津製作所でも、同じく緑ヶ丘に敷地3,500m^2を買收してプレス金具の製作を中心とした工場を建設する計画をたてているし、自動車用シートを製作する林テレンプ(中区)も同じく緑ケ丘で工場建設が設画されている(敷地8,000m^2)、あるいは東海道理化電機・明道鉄工も同様である。さらに農地転向の申請中で、進出の決定的になったものとして、神戸電機・三興教材・堀江金属・三井屋商店の4社があげられている。ともに元町工場の北約1kmの広久手町・三軒町の地域に、神戸電機および三井屋が約5,000m^2、三興教材と堀江金属とが17,000m^2を予定している。このうち、神戸電機は自動車用のバッテリー(蓄電池)の生産を主とし、トヨタのほかダイハツ工業などと取引している。本社は大阪で、ここに蓄電池および合成樹脂の工場がある。資本金は2億4千万円で従業員は628人という中規模工場である。また三興教材は京都でピアノ線など各種の金属線を製造する会社で、資本金6千万円、従業員313名という。堀江金属と三井屋はともに名古屋市(昭和区および中村区)に本社をもつ小工場で、今度の台風では被害軽徴にとどまっているが、それらが、今後の基盤を豊田に確立するのは興味ぶかい。以上のような中小会社のほか、大会社およびその系統のものとしては、旭硝子・湯浅電池・古河電池・小糸電機の4社の進出計画がある。旭は5万m^2、湯浅も1万5千m^2というようにその規模も一段と大きいのである。
このように、豊田には、一流メーカーから下請企業にいたるまで、自動車工業に関連のあるあらゆる種類・規模の工業が、非常な勢いで進出し、進出が計画されつつある。もちろんこのような傾向は、必ずしも台風災害への対策として考えられたり発生したものではないが、今次災害がこうした内陸部への立地を促進した事実はいなみがたいだろう。この点は、あえて豊田の工場地帯のみにとどまらず、名古屋市域や桑名・四日市における今後の工業立地、とくに各種産業の配置に当っては、防災を考慮した吟味が必要である。
しかし、いずれにせよ、名古屋市域についていうと、直接的に大被害をうけた臨港部での巨大工場における外部的・内部的の防災対策と並行して、これらの背後地の低湿地については、既存の地区の充実をはかるほか、他の地区では、むしろ臨海型の巨大企業あるいは商港地区の形をとり、それらとの商品循環に支障ないような中小企業の団地を設定することが望ましいと考えられる。これは次の機会に工業地帯における産業都市配置の問題として検討してみたいが、このうち前者の点を簡単に述べておくと、この問題については、名港管理組合による、庄内川右岸に当る名古屋市の港区南陽町および海部郡地先の西南部臨海工業地帯の土地造成計画(2,410万m^2、733万坪)のうち、次の通り災害後の改訂分として、ここに木材港および貯木場やその関連工場を移す計画があるが、その関連工場の規模を適正に配置しうるならぱ、木材港計画というのは興味ある立地ではなかろうか。
IV 工場被災の実態 紺野 昭
1 まえがき
2 工場被災の概要と特徴
3 工場の防災措置
1)地盤高と高潮対策
2)台風時の緊急対策
4 工場被災の実態
1)浸水状況
2)流木による被害
3)被災の内容
5 復旧の状況
1)従業員の通勤状況
2)復旧のための搬送
3)下請工場の被災とその影響
6 社宅の被災について
1)被災の状況
2)応急復旧対策
3)防災対策について
7 工場被災の問題点と若干の対策
1 まえがき
昭和34年9月26日夜、伊勢湾周辺地方をおそった伊勢湾台風は日本台風史上最大の被害を残した。名古屋市においてさえも、瞬間風速45.7m、最低気圧958.5mbという状態に加えて、満潮時に近かったこともあり、最高潮位5.31m(N.P.)に及ぶ高潮がおしよせ、護岸堤防(N.P.4.8m)さえも約40分にわたりオーバーした。さらに前日から164mmの雨量が加わって、海水は堤防をのりこえ、河口附近の河川堤防を寸断して、名古屋市南部一帯はたちまちにして水中に没し去り、多くの人命と財産が失われたのである。
また、この地域の多くが地盤も低く排水も不良な上に、堤防の決壊口が数多く、しかも長い距離におよんだために、仮締切に時間がかかり、排水作業も完全に行われ得ない状態であったため侵入した水が長期にわたり滞留し、加えて潮の干満によって、いわゆる湛水が広範な地域をおおう結果となった。
被害の概要として発表されたものの中からぬき書きして記すと次のようである。
10月22日現在(名古屋市のみの数字)
人的被害
死者不明 2,053人
重傷者 5,597人
住家の被害
全壊 11,012戸
流失 978戸
半壊 42,472戸
10月24日現在(愛知・三重・岐阜の3県合計)
死者行方不明 4,896人
重傷者 33,309人
全壊 38,731戸
流失 3,231戸
半壊 11,3618戸
10月27日現在(愛知県のみ)
死者不明 3,397人
負傷者 27,004人
全壊 29,042戸
流失 2,596戸
半壊 100,578戸
なお、10月27日現在における愛知県の被害額は、公共的施設被害580.4億円、民間被害2,550億円と発表されている。
民間被害のうち主要なものは住宅関係約1,500億円、商工関係約650億円、農林水産関係約370億円である。
このような甚大な被害を与えた伊勢湾台風を特徴づけるものとして次の如き諸点が指摘されている。
a 高潮が既往最大値を1mも上廻り、港湾護岸・河川堤防を越え、また河川堤防が寸断したために、多数の人が死亡し多くの財産が失われた。
b 臨海部の貯木場(当日の貯木量は約100万石といわれている)から巨木が流れ出し、家や人の被害を増大させ、また復旧作業をも困難にした。
c 名古屋市南部の工業地帯が流木による破壊や浸水による被害によってしばらくの間その機能が麻痺してしまった。
d 港湾施設が破壊し、さらに泊地の埋没や沈船によって海運が杜絶した。
e 名古屋市だけでも浸水区域面積約120km^2、長期湛水区域(3週間以上)面積60km^2におよび市域(250km^2)の約25%が水没した。このために水没地区との交通は勿論のこと、名古屋市を経由するすべての流通はしばらくの間ストップし、一そう被害を大ならしめるとともに復旧を困難にさせた。
今次の災害が多くの死傷者を出したということばかりでなく、水没した地域がわが国における工業発展の主要な担い手になると考えられている中京工業地帯のかなりな部分を含んでいたことから、一般には伊勢湾台風は工業地帯を壊減させたものとして強く印象ずけられたのである。一部の有識者の間にさえも埋立などによる工業地の造成というような自然の人為的な改造がいかに自然の猛威の前には無力なものであったかと思いこませ、埋立を即時中止すべしとまで極言する人さえ現われる結果となったのである。
しかしながら、現実にはこのような思い過し、あるいは誤解や心配をはねのけるようにして中京地域の工業は立直ってきている。
これは何故なのだろうか、あるいはどのようにして立直ってきているのだろうか、さらにまた工場の今回の被災のしかたに何等か特異点があったのだろうか、そしてこれから工業地を災害から守るための対策や問題点はどのようなところにあるのだろうか……等々のことについて、被災工場の実態と照らし合せながら述べることにする。
被災工場の実態については、建設省建築研究所が昭和34年11月末および35年2月に行った名古屋市における建築物の被害に関する各種調査およびその一環として行われた被災工場実態調査を資料として用いた。
災害復旧その他に種々御多用中にも拘わらず、調査に協力して戴いたのは次の14工場である。
大同製鋼(星崎工場・築地工場)、住友軽金属、東邦ガス金川製造所、日本車両大江工場、東洋レーヨン名古屋工場、愛知時計電機船方工場、新家工業名古屋工場、日産化学名古屋工場、中部電力名港火力、東亜合成名古屋工業所、帝人名古屋工場、名古屋造船、日本ハードボード
2 工場被災の概要と特徴
名古屋市南部における工場の被害を考える上で次の三つに大別して考えることが妥当と思われる。すなわち、第一には埋立地に立地している大工場群、第二には埋立地の背後部の干拓地に立地する大工場群、第三にはそれらを取り巻く中小企業による工場群である。
第一のグルーブの特徴は地盤高・防潮堤その他、事前の恒久対策がなされており、浸水水位も浸水時間も他のグループに比して甚だ小さい。そのために直接高潮を受けたにも拘わらず敷地内建築物の被害は割合に少なく、プラント機械類の浸水と製品・原材料の流失被害がとくに大きくなっている。また、このグループの工場の建築物被害は主として工場地外の社宅や寮の倒壊あるいは損傷によることも特徴の一つである。
第二のグループはさきの台風13号時の浸水の経験などによって50cm程度の敷地や機械類基礎の地上げを行っているほか排水系統の整備その他の対策を行っていたグループである。しかしながら干拓地にあるために地上げの効果もそれ程大きくなく、10日~20日にわたり1m程度の湛水があった。このグループの被害の特徴はほとんどの工場が流木の侵入によって建物・プラント類に被害を受けたこと、機械装置などが長期にわたって冠水し、復旧作業手入れがおくれたこと、操業停止による損害や復旧整理に要した費用がかなりの比重を占めていること、被害総額が各社とも非常に大きくなっていることなどがあげられる。
第三のグルーブとしては、中川運河沿いの中小工場や熱田区・瑞穗区(高辻方面)・南区(笠寺方面)にわたる中小工場群である(ところどころに大工場が含まれているが)。このグループは中川運河沿いを別として殆んどが海抜0m前後の地域にあるが、既往に冠水の例が殆んどなかった上に資力的に恵まれていないためか、全く高潮や浸水に対する考慮がなされていない。加えてこのグループの工場では建築物に対する投資や管理も充分でなかったために、機械類・原材料・仕掛品・製品などの冠水ばかりでなく、建物の倒壊・損傷による被害とそのために侵入した雨水の冠水による被害が大きく、さらに従業員の被災に対する対策もたて得ない状態で復旧修理や整理がおくれ、出荷額あるいは附加価値額と比較した被害額の率が非常に高いグループである。したがって、このグループに属する工場は、大資本の資本系列なり生産系列に属している場合を除いては、自力による立直りに苦労するグループともいえる。
これを更に類型化して考えるならば、工場の被害の受けかたや復旧能力は次のようになる。
このように伊勢湾台風による工場の被災状況は経営規模的にも、立地地点によっても、また業種的にもそれぞれことなっている。しかしながら、大きく工場被災の状況を展望すると、今回の伊勢湾台風が工場に与えた被害の状況から次のような特徴を指摘することができる。
a 干拓地が長期にわたって水没したために、道路輸送・鉄道輸送が完全に長期間麻痺状態になったこと。
このために復旧資材の搬入や機械類の復旧手入・取替などの搬送が非常に困難となり、また従業員の通勤や復旧整理要員の輸送の障害となった。復旧工事の遅れによる操業停止期間の延長は総被害額のなかでかなりの比重を占めている。
b 干拓地において流木による被害が甚だしく、単に工場建築やプラントを損傷したのみならず、工場敷地内に推積し、それが復旧作業を甚だしく遅延させた上に清掃費の出費を大ならしめたこと。
c 工場における生産施設の被害に比して、原材料や製品・仕掛品などの流失・損傷による被害と厚生施設すなわち社宅・寮・病院などの被害が特に大きかったこと。
d 台風による被災地域が非常に広範であったために、各工場の従業員に被災者が多数でて各社とも従業員の救済にかなりの日時と費用を使った一方、従業員の出勤率が極度に低下して復旧作業その他の障害となったこと。
以上4項が伊勢湾台風による被害の特徴とみなされる。このような台風の被害を現実に個々の工場がどのように受けたかについて、実態調査から種々の項目について検討を加えよう。
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3 工場の防災措置
1)地盤高と高潮対策
名古屋南部工業地帯の地盤高を類型的に図示すると次図のようになる。
すなわち、埋立地の工場では平均地盤高がN.P.3.5m程度である上に、防潮堤を設けているか(調査8工場中3工場)、モーター類やプラントベースの地上げを行っていたり(調査8工場中3工場)、建築物による防潮対策(窓・扉の補強2工場、腰コンクリートによるもの1工場、計3工場)や排水設備を考慮(8工場中2工場)しており、何等の対策や施設をもっていなかったのは、現在休止中の日本車両大江工場1工場だけであった。
伊勢湾台風の潮位の時間的変化を比較してみると、地盤高N.P.3.5mの場合、最小限3時間程の浸水をみることになる。浸水の深さも1.8m程度になるわけであるが、図にみるように後背部とかなりの落差があるために水の滞溜はなく、台風通過にともなって水は流れ去ることになる。埋立地に立地している工場は既往の経験から考えて高潮対策を十分に実施していたといえよう。
干拓地に立地している大工場は先の13号台風その他の経験によって新らしい建築物やプラント機械類の地上げを50cm程度は行いつつあった。平均地盤でみても一般市街地部分に比較して1.0m~1.5mの地上げを行っており、各工場ともN.P.2.0m程度の地盤高となっている。しかしながら、周辺部一帯が余りに低いために、この程度の地上げをしてもなおかつ海抜0mよりごく僅かしか上っていないということを十分意識していなかったともいえる。とくに既往の台風その他による浸水の場合には、前面埋立地をオーバーフローして海水が侵入するという例も少なく、一般には堤防の決壊や干拓地特有の河川の浴水による浸水(注)の場合が多かった。
(注)水田地帯が急速に宅地化すると農業用水路がそのまま市街地排水路として利用されるようになる。しかし、極端な表現をすれば業用水路系統は上流に太く下流に細くなっているとみなされるが、市街地の排水路として利用する場合には必らず上で細く下で太いものが要求される。水田をそのままに市街化した場合、とくに低湿地では下水路の改修を行わない限り排水路の溢水は当然のものといえよう。
そのためにN.P.2m前後すなわち満潮時の潮位面すれすれという地盤高程度にしか地上げが行われなかったのであろう。干拓地の工場でも河口部に近く立地している場合ほど地上げ量は多く、干拓地基部に至るほど少ない。とくに住友軽金属は干拓地に立地しているにもかかわらず新しい埋立地と同程度(N.P.3.5m)の地上げを行い、さらに埋立地に立地した工場でさえも設けていない場合のある防潮堤を天端高N.P.5.00mという名古屋一の高さで構築していた。これによって住友軽金属は浸水時間といい浸水の深さといい最小限の被害しか受けなかった。これに対して干拓地基部の工場では(機械・紡績工業が多い)地上げを殆んど行っておらず、13号台風や大雨時の浸水の結果地盤沈下対策として新築部の地盤を若干かさ上げ(約30cm前後)しはじめたに過ぎない。
このグループの工場における地盤高以外の経常的な措置としては、化学・ガス関係の工場かモーター機械類のペース高を上げていることと、訪績関係工場での排水系統整備と逆流防止装置を施していることが目につく程度であり、機械工場での恒久対策は全くみられない。住友軽金属は地盤以外でも十分な対策をもっていたとみなされる。すなわち機械に附属する電気設備は可能な限り高所に設け(13号台風以前に釣上げを実施していた)。排水路や排水系統の整備、逆流防止などの対策がなされていた。
内陸部立地の工場は干拓地基部の工場と同様であり、対策としては何も行われていなかったと考えられる。幸にしてこの地区では排水が干拓地に比して良好なため、浸入した水の滞溜は殆んどみられなかった。
要約すると、問題は干拓地基部の工場がとくに海・河口よりはなれるに従って極端に無防備状態になること)しかもなをこの地区は災害後の復旧も他に比地して遅れがちになり、また浸水時に運ばれた木材泥土などが集積する地区でもある)、干拓地における排水系統および排水能力を再検討の上で早急に改修を行うこと、できれば地盤高を満潮位面程度まで嵩上げすること、工場の業種や規模・位置などに応じた防災対策を緊急に検討し指導改良を計ることなどがあげられる。なお工場建築物の恒久対策については後述する。
2)台風時の緊急対策
今回の伊勢湾台風が未曽有のものであったにしても、これ程までの規模をもつものとは各工場とも考えていなかったのが実情である。埋立地における工場は台風が激化する以前の17時を前後して操業を中止し警戒態勢をととのえている。その主たる内容は
a 主要モーター・製品類の吊上げ
b 工場建築の補強(窓・扉など)屋外機械類のクランプ
c 工場の計画的統制的操業中止、(例えば機械、新規原料の装入中止など)
d 工具・測定器・書類などの高所置換
e 排水ポンブ等の所定位置への据付
f 土のうの作成と配置
g 速距離通勤者及び女子の早期退場
h 警戒要員を残留し、潮位調査や自家発電機の整備を行う
火力発電所は18時45分に送電を停止している。
台風最中時においては、むしろ退避あるいは避難者の誘導などに追われ、警備員の活動は殆んど不可能であった。とくに鉄筋コンクリート造の建物をもち、あるいは殆んどが周辺一般市街地部分より若干地盤が高いこともあって、工場は台風時における緊急避難所化したところさえあった。例えば名港火力には約4,000人の避難者が收容され、帝人なども約600人を收容している。
また、工場のみでなく、独身者の寮や鉄筋コンクリート造住宅をもった会社では、寮や社宅附近の一般市民(従業員やその家族を勿論含めて)を救済した事例は枚挙にいとまがない。
この緊急対策に当っての問題の第二は、停電による混乱と自家発電設備の停電によって、すべての対策が空になったことであり、第二はやはり干拓地基部および干拓地に接した内陸部工場が殆んど対策がなされなかったことであろう。つぎに名港火力や住友軽金属など平常における災害訓練の実施が緊急に際して、単に工場だけでなく一般市民のためにも参考となり、相当に有効であったことがある。災害を考慮した要員の確保という点からの問題を考えると(後に詳述する)独身者寮をむしろ工場附近に設けることが必要であろう(現況ではむしろ一般世帯用社宅が紡績を除き独身寮より近接している例が多い)。
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4 工場被災の実態
1)浸水状況
この地区における浸水状況は付図1~5にみる通りである。浸水時間は干拓地に立地した工場以外は2~8時間程度であり、一般民家に比して遙かに短かかったといえる。前にも記したように,工場敷地が殆んど多かれ少なかれ地上げをしていて一般市街地より地盤が高かったために侵入した水が周辺に流れ去ったためである。干拓地内の工場は干拓地が全域にわたって湛水したため、その深さが工場敷地地盤高に滅少するまで水につかった。それでも周辺部分と約1m前後の高低差があったため、内陸寄りでは約10日、海岸寄りでは約5日程度、一般市街地部に比して排水が早められたと考えられる。
被害の内容でみると、工場の建築物や工作物・機械類が波浪によって破壊した例は皆無といってもよい。むしろ工場においては風による家屋や工作物の倒壊・損傷が多くみられたが、これはむしろ老朽建物であったり、車庫・置場・上屋のような一時的な建物であったものが倒壊している。また工作物についてもクランプの方法如何によっては損傷を防ぎえたと考えられる(例えば走行クレーンの転倒などの場合)。極端な表現をすれば建築物に対する投資額の大小によって建築物の被害が決ったともいえよう。
しかしながら、一部地区においては流木によって建築物(工場・社宅・寮その他福利厚生施設を含めて)・プラント機械類が甚だしい被害を蒙ったところもある(これについては後述)。一般的にみて工場の浸水による被害は、各種プラント・機械・計器・電源・電動機などの冠水による被害と原材料や製品・仕掛品などの冠水や流失による被害のみと考えてよい。
この他、紡績や精密機械など、工場に床張りを必要とするかあるいは床張りした上で機械をセットするような業種では(すべての業種の事務所その他についても同様である)、床の損傷による被害が復旧費でも,また復旧時間でも目立っている。
2)流木による被害
流木による被害を受けた区域は付図10に示されている。被災直前の貯木量は大凡100万石といわれるが、その中で8号地貯木場にあった36万石の約80%が白水町・星崎町附近に流れこんだのをはじめ、加福町貯木場の約23万石のうち約20%、木場町貯木場約21.5万石のうち約5%がその背後部に流れだしたものと考えられている。
この流木の流出区域内にある建築物・工作物などは例外なく何等かの被害を受けている。
工場関係で流木による被害がとくに甚だしかったのは東亜合成樹脂・大同機械・大同製鋼星崎・三井化学・三井木材・東洋レーヨン・愛知時計電械船方などの工場である。(社宅については後記、なおここで流木といっているのは貯木場に貯木されていた原木であって、建築物の流失などで生じた木材や木片ではない)
実態調査の結果からみると、流木被害のとくに甚だしかった大同製鋼星崎工場では工場敷地内に残留した流木の量が約1万石(そのうち建物内に500石)といわれている。大同製鋼星崎は敷地面積約13万坪であり、残留した流木の仮りに2倍程度が敷地内を流れたものとすれば、13万坪の土地へ2万石の流木が来たことになり、6.5坪当り1石の木材が通ったことになる。また愛知時計電機船方工場では敷地内残留約1,500石(うち建物内105石)、東洋レーヨン名古屋工場では敷地内約1,000石(建物内に約20石)、東亜合成では敷地内に約50石の残留流木があった。工場・社宅・一般市街地を含めて流木被害が甚大であったことが今次台風の一つの特徴でもあって、災害直後の写真や各種記事によってその惨状はよく知られている。
3)被災の内容
高潮や長期湛水・流木の被害をもう少し詳しく検討するため被害金額の内訳についてもう少し述べてみよう。総被害額でいえば浸水区域内で干拓地と埋立地に立地している工場では略々1カ月の売上高と同額程度の損害を受けている。この総損害額は防潮対策や冠水状態、流木被害の有無、製品・原料・社宅の損害、運転停止日数、業種や工場の経営規模など、いろいろの条件が総合されており、金額的に同額であったとしても、被害の内容や被害の痛手ということからみればそれぞれことなっている。これを詳しく検討しながら工場被災の性格にふれてみたい。
なお工場の受けた総損害額の月間売上額に対する比率は、調査12工場のうち、住友軽金属がとくに防潮対策がすぐれている故もあって月間売上げ平均7億円に比して損害約2億円であった(約30%)のが最小であり、大同の150%、日産化学の約300%が最高、その他は大約90~100%であった。
敷地当りの被害額としてみると、とくに被害の甚だしい工場で坪当り約5,000円、被害が軽少にすんだ工場で1,000円以上となっている。
(1)工場建物の損害
これらの総被害額のうちで工場建築物の被害は大同製鋼の1億5,440万円(総被害額の25%)を最高にして、木造・鉄骨造建屋を主とする工場で坪当り2~3千円、平均では4~5千円、鉄筋コンクリート造を主とするところでは坪当り500~1,000円、平均では1千円前後と考えられる。また工場建屋の損害額以外では社宅その他の福利厚生施設の損害が大きい。調査工場のなかでは東亜合成の1億3千万円、大同製鋼の7,462万円、東洋レーヨンの5,712万円がとくに被害が甚だしかった。
社宅1戸当りでいえば、仮りに流失・全壊戸数が全戸数に対して10%以下とすれば1戸当り平均15万円~20万円程度であり、全壊流失戸数が10%以上であれば、1戸当り平均30万円~35万円程度の被害を蒙っていると考えられる。
工場建築物の被害を業種別に類型化すると、被害の程度は金属→機械→紡績→化学→火力発電の順で小さくなるものと考えられる。
(2)機械プラント類の損害
機械プラント類の損害額は金属関係工場では工場建築物の被害額とほゞ同額であり、化学・機械・紡績関係工場では約3~4倍と考えてよい。
機械・金属関係工場では保有機械の90%前後は何等かの補修手入れを行っているが残りの約10%前後は廃品として棄却している。とくに電気関係機械設備の程度に比例した損害があったということができよう。化学関係工場ではプラントやパイピングの破損(流木などによって)がない限り、損害の大半はやはり電気設備であり、とくに計器盤・制禦盤の冠水をみた場合には損害額が飛躍的に増加している。
(3)製品・半製品・部品の損害
製品・半製品・部品の損害額は東亜合成の1億600万円、愛知時計電機の約5,400万円が大きい。この種の損害は製品の性格との関係(すなわち、ストック量1日生産量製品の質など)で大約が決ってくると考えられるが、実態調査の数値から類型的にいってオートメーションの度合に比例して被害を受けている。
今回の台風による浸水時には浸水区域の殆んどが海水をかぶっているので、機械・プラント類や製品・半製品・部品などの大半が塩害を受け、また塵埃や砂などの混入によって使用不可能になったものと考えられる。
(4)原材料の損害
原材料の損害は化学関係工場がとくに多く、この約60%は流失による損害であり、他は格下げ使用によるか廃棄による損害である。機械その他の工場では80~90%まで廃棄あるいは使用不可能による他工場への払下げなどによる損害であり、冠水地域内工場の原材料は災害前の使用目的からみれば殆んど何等かの被害を受けたといえよう。東亜合成の3,000万円、住友軽金属・東洋レーヨン・愛知時計電機のそれぞれ1,500万円程度が抜んでており、他は大約500万円前後であった。製品の被害に比較して金属関係工場ではむしろ原材料の損害が大きくでてくる。
(5)操業停止による損害
操業停止による損害は1日当りの生産額と操業停止日数および復旧の速さによって決ってくるものであり、いちがいには表わせない。公共的性格の強いガス・電力関係工場では前記のような被災状況であったにも拘わらず、ガスでは操業続行、電力は1日間の操業停止にとどまったことは偉とせねばならない。操業停止期間の長かったのは日産化学の42日、東亜合成・大同星崎の22日、帝人の19日などである。
操業停止を余儀なくした原因については、第一には浸水が長期間続いた上に水が引いた後の残留物が甚だしく、その取片づけに日時を要したこと。第二には工場内のとくに電気系統機械類の冠水を早急に修理する工場が附近になく遠距離まで搬送して修理したこと、加えてその搬送方法が困難をきわめたこと、第三には従業員の罹災率が高く、従業員対策に追われる一方これらの仕事に当るべき従業員の絶対数(仕事の能率も含めて)が不足したことなどがあげられる。
(6)敷地・建物の復旧整理
一般には建物被害のなかに加えて考えられるが、今回の台風には浸水をみたために流木・泥土などの残留物が甚だしく、工場や社宅その他施設をも含めて復旧整理のための費用がかかった。とくに流木被害のあった工場や紡績・精密機械・通信機・電気計器などの工場の清掃費は総損害額の2~3%程度、金額にして1,000千万円前後となっていることは注目に値する。
復旧整理作業の大半は、東京あるいは大阪に本店をもつ大手建設業者の手によって行われており、とくに清水建設・大林組・鹿島建設など大組織をもつ会社の特命によってなされた。従業員のみによったと考えられるのは内陸部に立地する工場、とくに紡績・機械・金属関係の工場である。
(7)機械・工作物の復旧修理
冠水による機械類とくに電気機械の復旧修理はその大半が主要電機会社(製造元)によって行われた。しかしながら、名古屋周辺地区にはもともと電機関係の主要工場が少ない上、地元の産業機械関係工場はいずれも被災している状況であったので、名古屋南部工業地帯内にある主要機械の殆んどは関西・京浜地区において修理された。とくに日立製作所・東芝・三菱電機・安川電機・富士電機・東洋電機・神戸製鋼・横河電機などに修理業務が集中したものと考えられる。
なお、復旧整理に当っては、水没中を搬送した上に国鉄・国道1号線などの混乱のなかを輸送したわけであり、その輸送問題は今回の台風を特徴ずける一面でもあった。
(8)従業員などの緊急救援
従業員の災害直後の救済のために見舞金・食料品・医薬品・衣料品・交通費・家屋補修用品などの支出があったが、調査工場の平均でみると、従業員1人当り6,000円~10,000円程度の支出がなされている。このうち、1/3が見舞金として支給され、残りの半分(すなわち全体の1/3)は食料品・衣料品・薬品購入費として用いられ、残りは見舞品や補修用品頒布のための交通費・補修用品購入費にあてられている。
5 復旧の状況
このような非常の災害を受けた直後から、各工場はその復旧に全力をそそいで立ち直りの努力をした。従業員の多くが被災し、工場は水中に没し、流木にうずもれた機械設備を少ない労力で分解し、水の中をいろいろな方法で修理工場に運ぶ一方、従業員の救済、敷地や建物の清掃など八面六臂の活動をした。
伊勢湾台風直後に人々は「もろかった工場地帯」あるいは「工場は全滅した」という表現を多く用いた。たしかにその通りで、災害直後には工場は勿論のこと道路も鉄道も周囲の街並みもすべて水中に没し去り、あたかも全滅したようにみえたのである。しかしながら、この痛手を蒙ったにもかかわらず各工場はたくましく復活の一途をたどり、外見上では100%災害直前の状態にもどりつつある。
ここでは災害直後の工場の復旧活動について明らかにし、復旧の段階における災害に対する問題を明らかにしよう。
1)従業員の通勤状況
(1)居住先と罹災率
名古屋南部工業地帯における主要工場について、その従業員の居住先をみると付図26のようである。
すなわち港区・南区がこの地域内にある工場の従業員の主たる居住先であり、これに熱田区・中川区を加えると少なくとも各社従業員の80%以上がこの区域内に居住している。この地区の大半は浸水区域内にあり、工場のみでなく従業員自身の家も被災した。前記調査工場でみると、大同製鋼星崎は2,100人中約820人、同社築地は1,300人中700人、住友軽金属は1,970人中960人、東邦ガスは455人中172人、東洋レーヨンは2,900人中800人、愛知時計電機は1,021人中308人、新家工業は212人中46人、日産化学は192人中173人、名港火力は446人中377人、東亜合成は2,643人中1,320人、名古屋造船は約2,000人中約1,400人、日本ハードボードは約400人中約300人となっている。名古屋港の西部にある工場の従業員の罹災率は約80%と高いが、これいは付図25~26にみるように、交通条件などから南区・中川区などの低地に居住する従業員が多かったためである。その他の工場(内陸部を除いて)。では40%前後の罹災率であり、内陸部では最高30%、平均20%前後であったろうと思われる。(ここで罹災者と見なしているのでは少くとも床上浸水以上の被害をうけた人である)
(2)出動率
従業員の被災状態に比して従業員の出勤率は若干変った形となっている。各社の出勤状況はIII-1表に示す如くである。10月初旬に急に出勤率がたかくなるのは、従業員の家の応急復旧ができて工場にでてくるのと、従業員の家の復旧の見通しがたたないために家にいるよりむしろ工場に出た方がよいからでてくるのとの両極端が重なって、数としては高くなったのが実際である。
しかし、現実には集った従業員の殆んどが合風の被害により放心状態におかれた上に、救済業務や後片ずけ・修理などのために運転再開は時期的に若干おくれている。
(3)通勤状況
名古屋港東部地域は湛水と流木によって交通が杜絶し、災害直後にはわずかに前浜通りから笠寺、堀川右岸通りから熱田、千年から熱田、港新橋から埠頭、中川左岸通りなどがわずかに可能な程度に過ぎなかったので、工場は従業員の通勤のために船・バスなどの対策をたてた。とくに市電・国鉄・名鉄・近鉄などすべての輸送機関が杜絶した上に、干拓地・埋立地に立地している工場の周辺が湛水していたため、とくに脚部の高い大型トラックや一部に船などが活用された。各工場の関係工場や関係会社が被災地域外にあるところでは7トン車やボートなどの応援を送っている。一般に用いられた通勤方法は、名港東部各社は主として観光バスをチャーターして不通箇所を廻って従業員をあつめ、熱田駅あるいは笠寺駅でトラック(大半が7トン車か8トン車)に乗換えて熱田神宮一堀川右岸を経て各工場に定時運転する方法がとられた。笠寺駅西南附近でも流木が甚だしかったためにこのコースが利用されたのであろう。名港西部では中川運河沿いと港新橋堀川右岸道路が主となったが、名港東部・西部ともに一部水中輸送を余儀なくされた。社宅団地内や工場内作業、あるいは工場と社宅、工場間などの連絡や輸送はすべて和船・ボートなどを利用したが、なかには流木により筏を緊急作製して利用した工場もある。とくに災害直後の交通に困難を感じたのは全く水中に弧立した日本ハードボード工場であったと思われる。工場の災害後の復旧は熱田駅を中心としてはじめられたといっても過言ではあるまい。
2)復旧のための搬送
前述の通勤に利用された道路のみが唯一の交通路であり、修理のための機械類の搬送もすべてこれに依存した。調査した工場の大半は大型トラックを運送会社からチャーターして使用しているが、その他で目だっているのは関係会社その他からの救援物資の搬入車の帰り車が非常によく利用されていることである。とくに機械類の修理先(つまり機械製造業者)からのトラックは一石二鳥であった。
搬送先は主として関西と東京であったが、国道1号線の不通のためもあって、むしろ東京の比重が高かったといわれている。
東亜合成その他の工場で船便利用の可能な工場では、船によって関西に直送するか、四日市港を経由して富士電機三重工場や国道1号線によって関西方面へ送ったところもあった。一般に鉄道引込線は早期に利用可能になったが、低地域では路床が流失したり、堤防附近では堤防補強工事や仮締工事のために路床の砂利が利用されたためにそれ程有効に利用できなかった。
また、後片附けや応急復旧に当って建設会社が各社で大型トラック、フォークリフト、ブルトーザー、クレイン車などや労務者を全国から集めて道路の復旧整備や物資の搬送などに大いに活躍したことも見逃せない。
とくに名港東部地域では一般に冠水による搬送障害が大であったといわれているが、これとともに流木の障害と路肩表示がなかったことも大きな原因といえよう。
なお、災害後の復旧作業の内容とその進渉の度合を各会社ごとに示したものがIV-3表である(付図27参照)。これと比較する意味で工場の稼働率をIV-4表に示した。
3)下請工場の被災とその影響
調査工場のうちで下請工場をもつ4社についてみると金属関係工場の下請工場は南区・港区・熱田区内に、機械工場の下請工場は南区・熱田区内に集中している。これらの大半は浸水しているが、床上以上の浸水被害、あるいは風などによる建築物被害を受けた工場がそれらの約50%程度(総数179工場中89工場)である。このうち約10%弱が全壊または流失被害を受けており、約25%が半壊以上の被害を受けた。
しかし、これらの調査工場は大企業の系列下に組織されたものが多く、資金繰り・復旧資材・一時金などの点で系列下にない工場に比べると立直りが早かったといえよう。とくに下請工場を多く持つ新三菱重工やその他の機械関係工場などについて調査していないので何とも云えないが、一部にいわれている下請工場の被災が大工場の立直りにブレーキとなったということについては疑問があるように思う。むしろ大工場の立直りの早さに教われた中小工場が非常に多かったとみるのが妥当なのではなかろうか。ただ、親会社(納入先)が被災地外にあって、その下請工場だけが被災地域内に集中立地しているような場合にはむしろ中小下請工場の被災が親工場の生産を阻害したことは十分に考えられる。
台風被害による工業の構造的変動と被害の相互伝播、あるいはこれと関連した工業地帯内における工業の構造のあり方などについては、今次災害のより深い検討の上に十分研究されなければならない課題として残されている。
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6 社宅の被災について
1)被災の状況
この地域は、とくに戦時の軍需工場の社宅が東南部干拓地の地域に建設されるようになって以来、急速に工場労務者の街と化していった。第二次大戦末の空襲によってかなりの部分が焼きはらわれたものの、戦後、名古屋中心部から溢れた人々の家がこの地域に建ち並んでいった。このような一般的趨勢と同じように、社宅もまたこの地域内の焼跡に再建され新築され、付図25にみるように、かなり大きな団地が随所に作られたのである。名古屋南部の主要工場別に社宅の所在地・建設時期・構造をあらわしたのが付図25である。この図はいかに干拓地部分に社宅が集中しているかを示している。
これを更に検討してみると、古い社宅は軍需生産の名のもとに工場附近に与えられた家であり、戦後食料難から住宅難へと問題が移り、労務者の欲求や生活の向上に刺戟されて会社が安く沢山家を作った時期に(昭和27~8年がとくにさかん)干拓地の社宅建設がとくにすすんでいることは注目に値する。これはまた別のいい方をすれば朝鮮動乱後の好況によって支えられた建設活動であったとの見方もできよう。(しかし、これらの住宅はいずれも老朽化が甚だしく、更新を考えていた工場も2~3あったほどで、わずか10年にも満たない木造住宅が老朽化した原因については、まだ検討をしていないが、かなり低質な建築物であったものと思われる。)
これに対して昭和30年以後の社宅には鉄筋コンクリート造が多くなり、この間の事情は付図25にみる通りである。今次の災害を契機として社宅の鉄筋コンクリート化はますます進むことと予想される。
このようにして作られた社宅の多い地域が今次の災害をとくに激しく受けた地域であることは各種資料にも明らかさあるが、その被災の概要について調査した結果はVII-5表の通りである。表の限りでは、被害を受けたのはすべて木造社宅の、しかも平家建のものであり、鉄筋コンクリート造のものは全く被害がなかった(構造的な被害)ということができる。(社宅被害の金額その他については前掲被害の内容の項参照)
2)応急復旧対策
社宅や寮がこのような大被害を受けたために災害直後の従業員の掌握は大変な仕事であった。社宅の被害と復旧に当って不幸中の幸とみられたことは、各社とも社宅・寮の更新を計画し、一部実行に移りつつあったので、手持ち社宅の空家を若干づつでも持っていたこと、工場敷地では水の引きが早かった上に各社宅が工場に近接していたため、災害直後から従業員および家族を工場内の建物に收容し得たこと、被災地域外に何等かの施設をもっており、それが応急收容所となったこと(関係工場・教育施設・寮・病院など)などがあげられる。
このようなことから社宅や寮の救援対策は比較的円滑に行われ、被災者を一時他に收容して一部の従業員や建設業者の手によって応急復旧がなされた。住宅の応急復旧は社宅・公営住宅の順に早く、一般民家の復旧がもっとも遅れている。
応急復旧の状況は、被災の程度、(工場・社宅それぞれの)、会社の資本力、従業員の質や組織力などによってことなるが、各社とも屋根瓦・トタン板・ベニヤ板・床板・疊などを支給し、家質の徴收免除と住宅融資制度による融資などを行っている。
もっとも、大同製鋼では最小限一室を応急復旧、東亜合成は全室にわたって復旧修理を施したなどの差はみられた。
各社宅の応急復旧はいずれも10月下旬から11月初旬までにいずれも完了し、一時收容所から社宅に戻っている。応急復旧に継続して壁塗替をはじめ本格的な修理を行い、被災前以上の状態までに復旧した東亜合成・東邦ガスなどでも12月下旬までには完了している。社宅や寮の復旧は一応年内には落ついた状態になった。
社宅の彼災および復旧に関係して問題となったことは、大同製綱・住友軽金属・名古屋造船などこの地に古くから立地している工場では、社宅団地内の古い社宅を従業員に分譲したところがあったが、この個人持住宅の復旧が問題になった。とくに会社持住宅と個人持住宅が混り合った団地があり、一応会社から復旧資材の購入などについても手配や融資を受けたにもかかわらず、資力がなく、一部では会社で仮設住宅を作ってそこに收容したが、この方法を一般個人持住宅に用いた会社もあった。
住宅融資は1戸当り5万円~7万円程度であり、仮設応急住宅は各社とも10~30戸を建設している。
3)防災対策について
さきにふれたように、被災した各工場では住宅の更新計画をいずれももっていたので、災害後の応急復旧に続いて社宅の再建が徐々に行われている。その計画方針と内容についての概要を示すと次のようである。
a できることなら冠水の考えられない地区に建設することが理想と考えてはいるが、被災工場はいずれも従業員数や社宅数が多く、新規に土地を求めて住宅を建設してゆくことは資金的に負担になる。そこで現保有地をそのまま利用することが原則になっている。
b 名鉄半田線・常滑線附近丘陵地に土地を物色はしているが、土地の投機がこの開発を阻止している。
c 地上げは余り考慮せず、むしろ鉄筋コンクリート造とすることを第一の建設方針としている。
d 地上げはむしろ中川運河西部地区にみられ(N.P.3.3mにより実施中の例が現にある)東部地区では嵩上げではなく、鉄筋コンクリート造アパートをいわゆる下駄ばきとする(一階部分を倉庫など居住以外に利用する)傾向も現れている。現に東洋レーヨンでは70戸をこれによって建設中である。
e とくに社宅の被害の甚だしかった東亜合成・大同製鋼・東洋レーヨンなどの各工場は、住宅公団特定分譲を中心として3カ年で半数以上を高層不燃化計画を実施中である。なお、これら工場では地盤面もN.P、2.5m程度には嵩げを考慮している。
f 今回の被災の経験から、団地内における建物の配置や木造と鉄筋コンクリート造の混合などによって現団地の防災化をはかる。
g 小数単位による防護訓練や退避訓練、平常の災害対策教育の実施など。
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7 工場被災の問題点と若干の対策
工場の被災についての個々の問題についてはさきに記したので、ここでは一般的な事項について述べる。
今回の伊勢湾台風による工場被災の実態から考えると、第一には被害を受けないような方策について十分な防護対策を実施すること、第二にたとえ被害を蒙ったとしても被害を最小にするための方策を検討しておくこと、の2点が中心になる。第一の点に関しては、大企業の工場では、先にも述べたように、一応十分と考えられる対策を行おうとする努力もし実行もしている。今後もなお万全の準備を尽すであろう。この対策が如何にあるべきかを指導してゆくことが必要なのである。業種や工場の規模などによって、地上げによるか、防潮堤によるか、あるいは誘水路やその他建物の防護、機械類の基礎上げなどによるかなどのつきつめ方が今後要求される一方、防護のためにはいろいろ施設に対する投資が必要となるので、埋立地や臨海部の対策の必要なところには、いままでのような雑多な工場の混り合った工場地帯としてはならない。万全の防護も一部の弱点を持てば崩壊することは重要である。しかし、考えようによってはこの心配は今後新らしく作られる臨海工業地帯では危惧かもしれない。埋立地を十分に防護能力をもつように作るために立地が制限される可能性があるからである。第二の点は中小工場の問題と考えてもよい。今回の被害は、埋立地の工場より後背地の工場が大きかった。この埋立地の後背地での自力による防護対策や整備は不可能に近いが、これを放任することはできない。これは公共的な投資によらなければならないことであろう。このためには投資効果のもっとも有効に働くと考えられる方策を見つけ出してそれを行ってゆくことが必要となるが、一方、市街地の中では、低湿地や生活のための施設がととのっていないか、ととのえることのできないようなところしか、中小企業にしても一般庶民にしても家や土地を求められない現在の土地問題や社会問題を十分反省してみる必要がある。中小工場が今回の台風によって受けた被害の痛手は大工場のそれの比ではない。すでに閉鎖を余儀なくしたもの、まだ整理もできないもの、災害後の状態そのままで生活しているものなど、依然としてその傷跡が残っている。このような例は全国いずこでも起りうる可能性があり、その対策を考えなければならない。
伊勢湾台風の被害からいえば、低地域の危険度は高く、地上げその他によって低地域の居住をなくすことが理想といえる。しかし、現実にその実現性は低いとすればどうすればよいだろうか。少なくとも中小工場についていえば、国や地方公共団体などによって早急に市街地における土地利用計画を確立し、公共事業や融資などによって危険度の低い地帯に安くしかも施設が整った土地を開発し、そこに誘導立地させることが恒久策として必要であろう。この新規開発による誘導と併行して危険度の高い地区の防護基準を明らかにし、その基準に合致するような建設がすすめられるような指導を必要としよう。本質的にはこのような手段によってわが国の工業地帯の体質を改善してゆく以外に抜本的な防護対策はないのではなかろうか。
低湿地は、一般に高潮ばかりではなく洪水に対しても、地盤にしても防護能力が低く、結果としては各種投資の浪費となりかねないことも十分考えなければならない問題である。
また、危険度の高い地域に特定業種や特定能力を集中して、それらが被害を受けた場合には、その影響は甚大となり、前述の意図ともからんで工業配置に対する今後の検討が重要な事項となる。
いずれにしても計画的な政策とそれに基づいた計画的誘導や指導のもとに建設がすすめられるということが人々の生命や財産を守るための最良の方策であるということを認識しなければならない。
防潮堤の嵩上げも、河川堤防の完備も、排水路の再編成も、地上げも、道路や鉄道路床の蒿上げも、いずれもが必要であることは勿論であり、このいずれの事業でもすすむことによってそれだけ危険度が低くなるものと考えてよい。ただ、これら相互が補足し合って十分安全なものとなるのであり、相互に調整されながら建設されればされる程その効果を高めるということを知る必要があろう。
この段階に至るための経過的な措置としては、まず可能なところから低湿地の体質改善を行ってゆくこと以外に方策はないように思う。
建築物とくに工場や社宅についての対策について最後にふれよう。
とくに大工場の場合にある程度の建築物に対する投資も可能であり、今回の災害を契機としていずれの工場でも防災的措置がすすむことは明白である。さきに述べたように今後の理立地には建築物に対して高い投資能力をもつ工場しか立地してこないと思われるので、かなり程度の高い建築水準になってゆくと想定される。一般的な傾向としては今後の埋立地に立地する工場は敷地の面積に対して建物の面積の比率(これを容積率という)が段々下っている。これはいいかえれば建物の全投資に対する比率が下っていることであり、これらのことからいえば建物投資を増加させたにしてもその影響は少ないものと考えられる。問題はむしろ港を必要施設として立地してくる工場の中には容積率の高い業種がある。造船や産業用機械などがそれである。これらの業種では建物をよくしてゆくことはそれだけ総投資額が増大するのでその改良は早急には進行しない可能性がある。この業種はまた土地についての投資も少なくないと考えられ、地盤高を上げ、防潮堤を完備するということも困難であろう。さらに問題となることは、埋立地に今後入ってくる工場はいずれも専用埠頭をもつ必要のある業種に限られてくるものと考えられるが、専用埠頭を持つ場合には地盤高や防潮堤の高さや構造に制限があり、それが弱点となる可能性があることである。このようなことから考えて対高潮のための工場建築(とくに埋立地における)の形を予想すると、容積率が20%以下であるような業種(石油精製工場や化学関係工場などのプロセス工業)の建築物はすべて鉄筋コンクリート造にすることが可能である。これらのうちでとくに化学肥料その他のように倉庫の占める比重の高い業種の工場では倉庫を鉄筋コンクリート造として出入口の耐水化を考慮するか、床高を高くすることが必要である。これは搬送設備の考慮だけで解決し得ることと考える。
なお、この他に制御室・計器板・原動機の据付を高くし、できれば2階に移すことが望ましい。
造船工場では海に開くことが立地上の条件となり、ある程度以上に地盤高や防潮堤を上げることは不可能である。また建築物も開放した形で作られねばならない。この対策としてはできれば敷地を若干拡げて傾斜路によって床高を上げること、それとともに建築物の腰廻りおよび屋根構造を検討すること、原動機のベースを上げることなどが主たる対策となろう。
容積率の高い機械工業や金属工業関係工場ではある程度の地盤高や防潮堤の築造が可能なので、原則的にはそれによることが望ましい。しかしながら、防潮堤と埠頭との関係などから一部扉などの弱点がでることは必定であるから、建築物はすべて腰コンクリートを持ち、出入口を耐水戸にする程度の考慮は必要である。さらに、受電変電室は鉄筋コンクリート造で床高を高くする必要がある。また電動機その他とくに重要な機械類は基礎を高くして据付ける必要がある。
同じく容積率の高い一部化学繊維などの建築物への投資の比重の高い工場では床高を上げることによって解決するのが最良である。また、この業種ではとくに排水施設を完備して逆流防止を計る必要がある。
その他の業種の工場についてもこれらの手法あるいはその組合せで建築的には対処できるものと考えられる。
共通事項として総括すると、第一に地盤高を上げること、第二に防潮堤を作ること、第三に建築的補強をすること、第四に電気系統の防護、とくに原動機ペースの嵩上げと受変電室の不燃耐水化、第五に排水路排水設備の整備と逆流防止、第六に運搬設備の再検討と原材料や製品ストックの方法の検討による対策などである。
低湿地における工場についても基本的には埋立地の工場と同じであるが、むしろ、今後は公共的な内陸部の工業地開発によって、ある程度の集中をしながら各地に分散するような立地政策がたてられてゆくべきものであり、これが個々の工場の対策ともなることが望ましい。中小企業工場については現況のまま以外に方策はたてられず、むしろ公共事業による防護策によらざるを得ないであろう。
社宅について記すと、加工度の高いしかも利潤率(従業員数に対する)の高い業種ほど不燃高層化(つまり鉄筋コンクリート造アパート化)がすすむと考られる。また今次の災害を甚だしく受けた地域内における社宅の高層化はすすむであろう。しかしながら、今回の経験から注意を喚起したいのは、工場の周辺に社宅を作るという考えを改める必要があるということである。工場に社宅を近接させることは保安や非常時あるいは夜勤のためであればその考えは誤りであるといわなければならない。むしろ、独身者寮を近接して多く作る必要があるのではないだろうか。今回の独身の青年の活躍や社宅の死亡者や重傷者、災害後の従業員の動きや各種対策などから考えて、社宅を危険度の低いところに新設し、社宅跡地を独身寮や夜勤その他の厚生施設として利用することが望ましいのではなかろうか。
同じ鉄筋コンクリート造のアパートを作るにしても、従業員数が多くなる上に被害も減少するであろうし、鉄筋コンクリート造で社宅を作りかえる費用から考えれば、新規に土地を求めて木造社宅を作っても、費用的にはそれ程の負担にはならないのではなかろうか。
社宅を低地域に団地として建設する場合にはとくに土地造成、排水施設その他の公共施設、建物配置などについて十分な監督指導が必要となろう。
低地域における社宅を災害から防護するためには、建物の高層不燃化と各種施設の整備によらなければならないが、このために住宅公団の特定分壊あるいは住宅金融公庫の資金を低地域の再開発にも積極的に役立たせることについての検討も必要であろう。
V 名古屋市の市街地形成過程と土地利用について 石倉邦造・笹生 仁
1 問題の所在
2 被害激甚地域の土地環境
1)低湿な旧干拓地
2)市街地化の過程にある工業地区
3)地下水利用の影響
3 被災地域の工業化と市街地形成過程
1)名古屋市発展の概観
2)工業発展の過程とその性格
3)周辺部の市街化
4 土地利用計画上の問題点
1)埋立地背後の既成市街地の再開発
2)西部外延地域の土地利用について
3)工場地区とその従業員の住宅地区との関係
1 問題の所在
今回の災害は、死亡者5,200余名というかつてない大きな犠牲を出したこと、相当な面積が湛水1~2カ月におよび海没した面積も少なくなかったこと、大都市をもろに襲い都市災害が目立ったことなど、きわめて甚大かつ特異なものであった。
被害のもっとも激甚であった木曽川上流部から名古屋市部に至る地域は、17世紀以降、ほぼ木曽川の築堤が整い、河身が安定した頃から、遠浅の海岸を次々と干拓し陸地化して来たところであり(太田更一「伊勢湾台風高潮被災低湿地の土地利用の現状と間題」昭35.2.25資源局)(奥行は4~10kmにおよんでいる)、殆んどが海抜0m前後の低地帯である。急速な名古屋市の発展は、かかる低地を都市化し、中京工業地帯の心臓部を形成してきたのである。比較的大きな水害にあわなかったのが、かえって患いし、室戸・枕崎と並ぶ超大型の台風が、しかも最悪のコースで襲い、名古屋市南部の工業地区のみで、一挙に1,800名もの人命を呑み、海岸から14~15km奥まった津島市にも海潮が侵入して長期湛水被害(水位80~90cm、日数14日)を受けたのである。鍋田干拓地などはまったくもとの遠浅な海面に戻っている。
干拓地が次々と前進し、新しく人々が住みつくようになるにつれて、そこが海面すれすれの低地であるという認識がうすらぎ、このことが今次の災害を一そう大きくし、広汎な長期湛水地域を現出した要因と指摘されている。(「伊勢湾台風災害についての考察」昭34.12.19資源局)このようなことは、干拓地が農地として利用されている場合よりも、市街地として発展する場合に、一そう重大な事態を招来しがちである。流入する人口が格段に多く、かつ急速であるから、これらの人々には地域のおかれている環境について知ることが少なく、密集しており、地域的紐帯も比較的弱いために各戸毎の防衛にも限界があることなどから、非常の事態には多数の死傷者を出すような危険をはらみ易い。また企業あるいは勤務先の企業の規模や種類、被害後の経済状勢の如何などによっては生計の根拠を失い、悲惨な失業者が簇生することも考えられる。
したがって、このような地域が工業化され都市化される場合においては、とくに公共的な観点からの周到な配慮が必要なのである。各般の防災対策が都市づくりの基底的な要素としてとり上げられ、合理的な土地の利用区分とその発展方向とが把握されていなければならない。
しかし、都市自体についていえば、その変容に対応すべききわめて多面的な事業があり、市民の経済的な文化的な欲求を充足すべき、一面魅力的な事業に忙殺されがちである。また合理的な土地利用計画の実施には経済的法制的な制約が多い。このため、とくに膨張過程にある周辺部においては、かかる基底的な配慮や諸施設の整備に先行して、ゆがめられた形の発展を結果することになりがちである。
今回の災害における名古屋市南部のいたましい事態は「現実の発展に対し、われわれの計画性が追随し得なかった事実」(前掲資料)としてあまりにも貴重な教訓であったが、このことは決して今次災害の特異なものとして受けとられるべきも注のではない。むしろ、名古屋以上に危険な状態の上に都市化・工業化が進められている地域が数多く、また、今後の急速な工業化・経済発展は、かかる事態を一そう醸成しがちな趨勢にある。都市における土地利用とこれに対応する合理的な防災対策の確立は、きわめて重要な今日的課題といわねばならない。名古屋市の災害は、わが国で都市災害が始めて本格的にあらわれたものとして深く注目される必要がある。
今次台風の被災地域は、いうまでもなく、わが国のもっとも重要な工業地帯の一つであり、将来に対しても、全国的な工業発展の動向とここがもつ資質とから大きく期待されており、今後ますます発展すべきところである。名古屋市部は、中核地域として早急に復旧し、さらに積極的な開発計画が推進されねばならない。この場合、今次災害の教訓を計画のなかに反映させて、合理的な土地の利用方策と防災対策を確立し、真に健全な都市として発展させて行くことは、この地域の将来についてはもちろん、他の類似の諸地域に対しても具体的な開発の姿を示すものとして大きな意義をもつものである。
2 被害激甚地域の土地環境
1)低湿な旧干拓地
名古屋市内において、台風当日漫水した区域は、
港区・中川区の全域
南区・熟田区・中村区の大部分
瑞穗区・西区・北区の相当部分
が主であり、面積的には市域(250km^2)の半ば120km^2に及んでいる。
昭和区・千種区・東区は一部分が浸水、中区は全く浸水していない。
3週間以上の長期湛水をみた区域は
港区・中川区の大部分
南区・熱田区の西南半分
であり、被害もまた最も激甚を極めた。面積は約60km^2で市域の1/4、常住人口は約30万人で全市の1/5に達している。
ところで、被害激甚地の地盤高は大部分が海抜0m以下(N.P.1.4m以下)であり、殆んどが、水田造成のために行われた干拓によって陸地化した地域である。とくに荒子川沿岸は-1m以下(N.P.0.4m以下)の低湿地々域であり、海抜+1mを超える地積は中川運河べりのごく小部分に限られている。
臨港部は、海抜2m以上(N.P.3.4m以上)の埋立地であり、このため高潮の激流はうけたものの退水が早く、長期湛水をまぬがれている。
したがって、被害激甚地(長期湛水地区)は、背後の洪積台地と臨港部の埋立地にはさまれたかなり広い低地帯であり、もともと地形的に劣悪な環境にあったわけである。
2)市街地化の過程にある工業地区
被害激甚地は、戦時中から戦後にかけて新しく発展をみている地域であり、とくに西部の中川運河以西や南部の天白川沿岸は、なお農村的色彩を残している新興地域である。これらの発展は、主として名古屋港の築港工事、臨港工業用地の造成事業、堀川・中川運河工事などに先導された工業化によって促進されてきたものであって、名古屋市のもっとも重要な工業地区を含んでいる。
名古屋市の工業は、大別して北部工業地区(東区・北区・西区の庄内川左岸地区)、中川運河工業地区(中川区)、熱田工業地区(熱田区)および南部工業地区(南区・港区の臨港およびその背後地区と瑞穂区の一部分)に区分出来る。(V-2.3.4.6表および付図25参照)
北部工業地区:繊維・軽機械・窯業・食料品などいわゆる軽工業によって特色づけられ、一部の紡績・機械・窯業の大企業を除いて、中小企業が広く分布している。
中川運河工業地区:運河を利用して製材等の木材工業が最も盛んであるが、臨港工業地区および内陸部の大企業に関連した機械・金属工業なども少なくない。多く中小規模の工場であり、運河にそい典型的な帯状工場地区を形成している。
熱田工業地区:各種機械・金属など大小の重工業部門の工場が密集しているほか、中川工業地区に次いで木材工業が発達している。
南部工業地区:臨港埋立地に立地している化学・鉄鋼・重機械等の大規模工場によって代表されるが、背後には繊維・木材・窯業・機械などの諸工場が分布し、性格のやや異った部門を包含している。概して中小規模の工場は少ない。
このうち、長期湛水をみたのは中川運河工業地区と南部工業地区の背後地区とである。いずれも周辺に社宅・一般住宅が建っているが、商店等は少なく、なお市街地化の過程にある地域である。
南部工業地区の臨港工場は、地盤が高いために湛水はまぬがれたが、相当期間孤立したところであって、一部、港湾関係地区とそれにつながる商店街を含み、いわゆる臨海工業地域を形成している。
北部工業地区・熱田工業地区は、短時日の浸水のみに止った地域であり、既成の密集市街地である。とくに熱田工業地区は封建時代以来の町柄であるだけに、街路に沿い商店街が発達している。
3)地下水利用の影響
名古屋市での工業用水使用状況は、昭和33年、従業員30人以上の工場についてみると、次表の如くであり、地下水がもっとも多く約27万m/日、全体のほぼ半ばをしめている。工業規模から見ると、東京都の約62万m/日よりもかえって重用されているといえよう。このことは、比較的地下水に恵まれていたともいえるが、近年の地下水位の状況をみると、急激な低下傾向を示し、その速度は年々1.3m以上という。(黒沢俊一「災害と工業立地」昭和34.10.22資源局)
一般に地下水位の急激な低下は地盤沈下に対する危険信号とみられているが、この地域では、濃尾・東南海・南海道の地震によって地盤変動が見られたことと、水位低下が近年になって一般に認識され出したためか、精密な水準測量がなされておらず、地下水の汲上げによりどの程度の沈下をみているのか詳かでない。しかし、その間に何らかの関係があることは否定出来ない。低地の工業地区で地下水利用がとくに盛んであり、水位低下も著しいことは注目されねばならない。
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3 被災地域の工業化と市街地形成過程
1)名古屋市発展の概観
いうまでもなく、名古屋市はわが国第3の大都市であり、中京工業国の中核をなしているが、本格的な生産都市として登場したのは第二次大戦以降であり、とくに急速な伸長を示したのは昭和の、それも10年代に至ってからである。
人口増加はほぼ東京と並ぶ率を示し、六大都市の中で群を抜いている。(V-7表)
また、産業構成の推移を昭和年間についてみると、戦時を除き、ほぼ第1次:5%、第2次:42~43%、第3次:52~53%の割合であり、他の五大都市に比べて第2次人口の比率が相対的に高い特徴をもっている(V-8表)。都市の発展が工業化によって主導されて来ているといえよう。
2)工業発展の過程とその性格
(1)臨海部への工業展開
名古屋市の工業規模は、ほぼ、東京都の1/4、大阪市の1/2程度であり、重化学工業の占める割合が相対的に低く、中規模企業層の薄いことなど、質的にもなお若干の隔りがあるように思われる(V-9・10表)。しかし、このことは必ずしも立地的資質の低さを意味するものではなく、むしろ、近年に至って工業化のテンポをはやめ、格差を縮めつつあることに注目すべきである。事実、ここの重化学工業が本格的発展の様相を示したのは昭和初期以降であり、この時期に繊維・窯業・木材など、軽工業的な色彩が、機械・金属などの重化学工業へと塗りかえられて来ている。(V-3表)
このような工業規模の拡大と構成の変化とは同時に工業の地域的分布の変化を意味する。区別の職工数の分布は下表の如くであり、都心部から北部へ、更に一転して南部へと発展の動向が変化している。(詳しくはV-4表参照)
この間の事情は各時期における主要工場の設立状況をみれば、一そう具体的に理解出来るのであって、今日の南部臨港工業地区が形をなしたのは漸く昭和に入ってからであり、それも10年代のことに属する(付図23図参照)。それに接続する背後地の工業化はさらにおくれ、中川運河地区は今次大戦中、南区のそれはむしろ戦後といってよい。
(2)臨海地域整備の立ち遅れ
このように重化学工業部門の立ちおくれ、いいかえれば、臨海部の工業地区形成の立ちおくれは、港湾およびこれにつらなる臨海工業地域造成諸工事の時期と密接な関係をもっている。
そもそも名古屋港(当時は熱田港)築港工事が初めて行われたのは明治29年であるが、これは日清戦役の勃発に際して、名古屋は水運が悪く軍隊や軍需品の輸送に著しく不便を感じたのに反して、広島県の宇品が一躍重要港として活用され、同県の先見が讃えられたことによって刺激をうけたためといわれる。(「名古屋港50年の歩み」名古屋港管理組合 なお本項はこの資料によるところが多い。)しかし、その後の進捗はたびかさなる水害による県財政の窮迫や経済恐慌などのために必ずしも順調でなく、近代港としてほぼ体をなしたのは第2期工事(大正10年終了)第3期工事(昭和3年終了)の完成したころからである。この両期の工事により、今日、臨港工業地区となっている第6・7・8号地の埋立用地が造成され、漸く重化学工場進出の基盤が出来上ったわけである。埋立地の造成過程については次表および付図22に明らかである。
臨港工業地区と都心部とを結び、あるいは背後地への展開を意図する工業用地の造成・整備事業もまた、これに続いて施行されている。堀川および堀川口改修工事(昭和2年~昭和14年)、中川運河開さく工事(大正15年~昭和8年)がこれである。(付図22参照)
すなわち、被災地域の基礎的諸施設は、満州事変前後に骨格が出来上ったばかりであって、間もなく大戦に突入するに及んで多数の軍需的工場が進出し、地域としての整備が十分行われないままに膨張してきたのである。今日の大半の工場や社宅・寮なども当時に建てられたものが多い。(紺野昭「伊勢湾台風による工場被災の実態」昭35.3.17資源局)戦後の復興過程においても、関心は多く戦災地域(主として旧市街地)の復旧に向けられ、この地域が再び注目されるようになったのは、東洋レーヨン・帝国人絹などの大企業が進出した昭和26年以降である。ごく最近まで都心とを結ぶ交通路も十分整備されていない状態であった。再興の過渡期に今次災害に遭遇したともいえる。
3)周辺部の市街化
(1)市街地の外延的拡大過程
明治中期以降の市街地拡大の過程は名古屋市街地発展図(付図20)に見られるように、時期的には第一次大戦から満州事変までと今次大戦中がとくに顕著であり、地域的には、北部および西部への発展が自然的社会的な条件(北部は庄内川、西部は低湿地かつ水田地帯)から制約が多く、いきおい東部の高燥な丘陵地(住宅地区)と南部の臨海地区(工業地区)とが顕著であった。
対象を今回の被災地域に限ってやや詳しくみよう。
さきにふれた如く、この地域の発展は港湾と工業とに主導されたといってよい。名古屋市域への編入は、熱田から築港地区を結ぶ一帯が明治40年、西部および南部が大正10年であった。
しかし、大正中期に市街地化しているのは埋立地(1.2.3.4.5号地)のみである。6.7.8号地が埋立てられ、大工場が進出するようになった昭和7年頃でも、工場周辺は一帯の農村であり、一般市街地は熱田附近まで伸びては来たものの、主体は東部丘陵地の開発であって、わずかに築港附近と道徳地区とに小規模な市街地が中心市街地とは独立して形成されていたにすぎない。一方、北部から北東部一帯への漸進的拡大もみられる。この状態は昭和13年頃でも大きく変っていない。
ところが、今次大戦期に至ると、港湾地区はもちろん、中川運河沿岸および東南部の低地域にも、大小の工場や従業員の住宅がたち、これに主導されて急激な市街地化がおこってきている。これらの低地(干拓地)は、耕地整理あるいは土地区画整理が行われたとはいえ、発展があまりにも急速であり、かつ戦時でもあったため、本格的な土地造成がなされないままに市街化されたわけであり、このことが今回の災害を大きくした要因ともなったのである。
戦後に市街化されたところは、星崎町附近(東南部)・稲永新田(西南臨港部)、および中川運河から荒子河にいたる地区なのである。
(2)戦災復興と宅地開発
終戦前まで一貫して続いた周辺部への市街化傾向は戦災によって一たんとだえた。罹災面積は全市の23%、しかも主要罹災地区が市の中枢部であっただけに、戦後の再建は何よりもこれら中枢部の復興に関心が向けられた。とくに旧市街は都市計画街路を除いて殆んど土地区画整理が進んでおらず、旧態依然の極めて雑然としたものであったから、これを理想的に改造するには絶好の機会でもあった。このため、市当局は、戦後直ちに広汎な計画を樹立し、新しい都市づくりに取りかかった。
墓苑(平和公園)・100m道路で象徴される雄大な名古屋の都市計画は、この戦災復興事業を契機として進められたのである。
都市計画事業の進捗とともに、一般的な経済状勢も漸く生気をとり戻し、これに伴って流入する人口も急速に増加し、住宅難が大きな問題となってきた。旧市域の收容には限度があるから、宅地開発は郊外を指向し、ここに再び周辺部が注目されるに至った。
工業は南部臨海地区への大工場の進出と共に、中川運河周辺における木工業の発展、さらに熱田を中心とし、国道1号線に沿って西方および東南に向う中小機械工業の拡大とが特徴的であった。これに対して宅地化はまづ東部丘陵地帯を指向し、市営千種台団地に続いて星ケ丘・弥生ケ岡などの大規模な団地を中心として開発された。都市計画の文化的諸施設の中心地であり、住宅環境や都心部との交通の便などの好条件をもっていたためである。これにややおくれ、開発の方向は北部および南部に二分されている(付図20.28.29参照)。北部のは志賀団地によって代表され、都心部からの流れとさきに開発された東部からの流れとが結びついたものと考えられる。性格的には東部(ホワイトカラー)に近い。これに対して南部の発展は臨港地区の工業化によってもたらされたものであって、小住宅であり、居住者も筋肉労働者が多い。これは、東部が開発の進むにつれて地価が上昇したことと、これからの南部への交通が不便であったため、低家賃住宅の需要に応ずるためには、低地ではあるが勤務地に近く、地価も安かったこの背後地が選ばれたものと考えられる(付図28・29参照)。西部への動きは、水田地帯であって農地転用に難のあること、開発に要する公共投資が大きいことなどのためにあまり顕著でなかったが、中川運河から埠頭にかけては南部と同様な動きがある。
昭和33年9月現在における市営住宅4カ年連続申込者のうち南・港・中川の3区に動務地のある者は全体の約1/3であり、とくに港区が多い。また、実際の建設戸数についてみると、総戸数5,000戸のうち、上記3区に建設されたものがほぼ1/2に達している。
これらの地域が比較的低家賃の(市営)住宅に対する需要が高いこと、団地用地の取得や用地の関係からも建設が誘引されていること、などがわかる。
しかし、このように、勤務地への交通の便や家賃(地価)の制約の許で開発されたこれら低地域の住宅がもっとも手いたい災害にあう結果になったわけである。最近の傾向として鳴海・大府・それに名鉄沿いの白神などの知多地区や北部の守山地区など、市の外郭部への開発が目立って来ている。これらは前述の東部あるいは北部の流れが延長されたものであり、直接に主として旧市街地につながるものである。今次の災害に徴しても、これらと南部および西南部の工業地域との結びつきを強める方策がとられる必要があるように思う。
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4土地利用計画上の問題点
前章において、とくに被害の著しかった南・港・中川の3区に焦点をあてて、災害の態様と市街地化の過程にふれてきたが、そこから、工業化あるいは都市化が、この地域のもつ自然的な環境をのり越えて急速に進んできたために、被害の範囲や度合を一そう大きくした面が感ぜられる。
旧市内は殆んど被害をまぬがれているのに対して、大正末期以降に市域に編入された周辺地域、とくに市街化の過程にある西南部・東南部がいちちるしく被害を受けていることは、この端的な現れといえよう。
もっとも、このような地域に市街地が形成されてきたのには、その発展が戦時中であり、他をみる余裕を許さなかった時期であったこと、戦後においても、戦災復旧のために関心は主として旧市街地に向けられ、ここが再び注目されるに至ったのはごく最近になってからのことであったことなどのため、計画的な配慮がなされ難かったという事情もある。
しかし、結果的には、土地利用の計画が現実の発展に即しえなかったと見られてもやむを得まい。したがって、今後の対策に当っては、都市構造のあり方自体にまで問題を掘り下げ、地区ごとの自然的環境と産業立地・住宅立地とから画かれる土地利用像と対応させつつ、合理的な形のものに接近させて行くことが考えられねばならない。
今次の災害に徴して、土地利用上とくに問題となる点は、次の3項に要約出来るように思う。すなわち、第一は、臨港埋立地(運輪および大規模工場地区)背後の中小工場を主体とする既成市街地の再開発問題、第二は市街化の過程にあるが、なお農村的色彩の強い西部低地域の土地利用のあり方、第三に工場地区とその従業員の住宅地区との配置、とくに臨港埋立地と背後地とを含む南部工業地域に勤務する人々の住宅開発に関する問題がこれである。
1)埋立地背後の既成市街地の再開発
今次災害でとくに被害のいちぢるしかった地域は、南部臨港埋立地背後の工業地区および熱田工業地区(一部)・中川運河工業地区を含む工業的色彩の強い市街地である。これら一連の工業地域は、中京工業圏のなかで最も強力な中小工業の拠点を形成しており、南部臨港地区の大工場はもちろん、圏内外の工業地区と深い関連をもっている。このように総合的な業種によって構成される中小工業地区は、性格上、大都市において初めて発展しうるものであるから、中京工業圏の発展とともにその存在意義は一そう大きくなるものと考えられる。
したがって、これらの地域の再開発は積極的におし進められねばならず、外郭施設の整備にまつまでもなく、地域自体の防災措置を講ずる必要もある。しかし、再開発は市街地が密集しているだけに本格的に土地条件を改善することには困難が多い。少なくとも人命や財産のよりどころとなる家屋の基礎や構造に新しい工夫がなされ、道路の巾員・高さの改善および地下水の利用制限とこれに代替する用水源の確保などが検討されねばならない。ただこの場合、一般住宅はもちろん、工場も中小企業が多く資本力は弱いから、単に建築基準を厳格にすることだけで問題は解決されず、補助金などで誘導させる如き措置が必要であろう。また、公共施設の改良も、町全体の条件整備と出来るだけテンポを合わせ、円滑にはこぶよう配慮さるべきであろう。
2)西部外延地域の土地利用について
周辺部の都市化・工業化は今次被災地域の市街地形成過程に徴しても、周到な配慮を必要とする。市街地化の段階から荒子川沿岸地区と庄内川左岸地域とを区別して考えることが出来る。
荒子川地区は南部・熱田・中川運河という名古屋工業の心臓部を構成する一連の工業地区に接続する地域であり、また、地先には11~12号地さらに13号地と埋立地の造成が進んでいる。これらの刺激によって市街地化は必然であり、国道1号線に沿う機械工場群の外延が荒子川に達して運河の両岸に展開する一方、木材・金属などの工場が運河々口から北上してひろがり、国道南部に両者の混合した工業地区を形成することも考えることが出来よう。とくにかねてから計画されている荒子川運河開さく工事が実施されれば、かかる工業化のテンポは急速に早められるものと考えねばならない。土地条件の改善が先行される必要がある。ただこのために地価が異常に高騰すると、これから工業化のテンポやその内容が規定されることも考えられる。立地上高次な加工工業あるいは中小工業の発展が期待されるが、これらの誘引は一つには地価の安いことが影響するからである。また地先の埋立(計画)地は工業地としての色彩をもつ一方、大名古屋港として整備するために商港的機能を集約させるべきだという考え方がある。(資源調査会勧告第5号「中京工業圏確立に関する勧告」昭35.9.23)いずれの見解に立つかによって、背後地に当る荒子川沿岸地区の土地利用の方法もまた異って来る。これらの内部的外部的諸条件を長期にわたる地域の発展動向と合せて考慮し、具体的な土地の改善方法と利用計画とがたてられる必要がある。
庄内川右岸地区はなお農村的色彩が強く、庄内川を隔てていることからも、名古屋の中心部から都市化してくる力は弱い。都市化するとすれば、荒子川地区以上に工業化の条件によって支配されよう。この地区の工業化には中川運河地区・荒子川地区と市工業の中心部から外延的に拡大する流れと、11・12・13号地の埋立(計画)地から名古屋西部埋立計画にいたる臨海工業地域開発の影響によるものとが考えられる。
前者の発展力は、中京工業圏における名古屋市工業の組立工場的性格からみて、この地域にまで延びて来る可能性もないとはいえない。しかし、中京工業圏全体からみると、これと同様な条件をもつ地区は、例えば市北部の庄内川左岸地区や大府・刈谷地区などがある。これらとの比較が問題となるわけであるが、その場合には圏域全体の工業地区配置政策如何がこの地区の規模を規定することとなる。後者については、一応、埋立地に立地が考えられる工業の種類が問題となる。しかし、関連工業といっても、立地範囲はかなり広く、位置的にこれ程背後の地区にまで影響をもつとは一概にいえない。前面に臨海工業地域が造成されるからとか、名古屋と四日市とにはさまれた地域であるからという理由だけから、このような背後地まで含めた巾広い工業地帯を期待することには検討の余地がある。(前掲資料を参照されたい)いずれにしても、この地区の工業開発には問題が多く、今ただちに土地利用の方向を見出しがたいと考えざるを得ないし、工業化するとしてもかなり将来の問題となろう。市街化を予想する場合と然らざる場合とでは地区計画を含めた防災対策の方法も当然異って来るが、問題はその中間にある地域の計画である。この場合にはすぐれて広域な地域の開発政策と結びつくものであって、この地区はその一つの例といえよう。考えられる方法の選択については、出来るだけ工業化の時期および規模・内容を見通して決定されねばならない。
3)工場地区とその従業員の住宅地区との関係
従業員の罹災による出勤率の低下や復旧要員の手不足などによって操業再開が遅延したことは、今次災害のきわめて特徴的な現象であるが、これを契機として作業員住宅問題の重要性があらためて認識されるにいたった。
この面で顕著な被害を受けたのは南部臨海工業地区である。名古屋南部の工業地区は先にもふれたように、昭和初期にかけて形をなし、戦時の軍需工場とその労務者住宅の開発を軸として市街化がすすんだと考えられ、各社の社宅・寮・徒員住宅および一般住宅地も、多くこの背後の低地に分布していた。
また、戦後の宅地開発も、ここ数年、再びこの低地に集中した。これらが今回の災害で殆んど壊滅的損害を受けたのである。戦時中はともかく、戦後の集中要因としては、勤務地に近いことや地価が比較的安かったことの他に、近接している鳴海・大高などの丘陵地の開発が、名古屋市の都市計画地域にも拘らず行政区域が違っているために比較的低家賃の公営住宅が十分建設されず、また、これと結ぶ道路整備も行われがたかったという事情が影響しているのではあるまいか。とすれば、都市計画区域指定の実効のあがるような方策が講ぜられるべきであり、今後の方向として、知多半島基部は南部工業地域と関連した住宅開発の場として考慮されるべきであろう。
西南部の工業地区に対する住宅対策は、南部のように背後に丘陵地をもたないだけに問題は複雑であり、前2項でのべたような地域全体の土地条件の改善とあわせて建築物の耐水構造化をすすめるということとなろう。この場合に問題なのは中小企業の従業員住宅であり、これについては公営住宅の役割が極めて大きいと考えられるから、構造とともに需要者の経済能力に適合した工夫がつくされる必要がある。
いずれにしても、工業開発は、工業立地の側面からのみでなく、住宅立地をも含めたものでなければならず、また、都市計画上産業地区と住宅地区の配置およびそれを連絡する道路網の整備が重視される必要がある。もちろん、それらの根底には防災に対する配慮が十分くみ入れられたものでなければならない。
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VI 都市における防水対策の実態 栗原東洋
1 都市水害と防水対策の展開過程
1)都市防水とその契機
2)内水処理の展開
2 低地防災計画と問題点
1 都市水害と防水対策の展開過程
1)都市防水とその契機
都市防水の最初の事業は、もちろんいうまでもなく外水の防禦である。この典型的な事例は、明治18年の淀川下流の大汜濫と大阪の未曽有の浸水(死者78名、浸水家屋71,249戸、うち流失損壊等17,122戸、浸水反別15,269町歩)を契機とする明治29年以降の淀川改修事業である。その核心は、大阪の市街地に入る前で、洪水を快疏させるための放水路を新淀川として新削したことである。明治43年にこの全事業は完成した。
これに続いて、東京の場合では、同じく荒川に新荒川を堀削してその放水路たらしめている。荒川の下流はいうまでもなく古くから大川と呼ばれる隅田川であるが、その隅田川の洪水を遠く市外に追放しようというのである。これは明治43年の、利根川・荒川における東京をもまきこんで大水害を契機とするもので、明治44年度以降の工事である。こうした一環として、同時に中川には新中川、さらに、昭和4年にいわば利根川治水の一環として着工されたが、戦時中の中止を迎え戦後に至り、昭和22年の利根川大水害対策の一つとして取り上げられた中川放水路の開設工事が挙げられるだろう。24年に再開、36年春には通水をみるという(予定は32年)。
ところで、都市防水としては、たんに外水防禦だけでは充分の効果を期待できない。内水の排除も問題になってきたからである。こうした動きを推進したのは、一つには外水防禦の放水路その他の施設にもかかわらず、この水位上昇のため、内水の排除が困難になったことである。というのは、たとえば新荒川の場合、その新河道開削に当り、旧来からの中川・綾瀬川、さらにこれらの派川を含めて大小の運河および排水路があり、縦横に連けいしていたもので、これを横断することになり、そのため樋門の設置をみているものの、外水の水位上昇のさいには当然に内水の排除ができない。もう一つは、主として水田利用の形をとっていた郊外における低湿地への市街地化の発展によって、外水はもちろん、内水の場合でもその被害を激成するに至ったことである。
以上のような内水対策として、排水樋門の設置に加えて排水ポンプの設置が挙げられる。このような排水ポンプが東京に入ってきたのは、外水防禦の治水事業がほぼ一段落した昭和初年以降といってもいいだろう。関東大震災(大正12年)後の復興を通じて、郊外地区の発展が急激であったあらわれの一つでもある。これらのポンプ場としては7カ所が決定し、その大部分が完成している。東京以外では、このポンプ導入は若干おくれているが、その機場は増加の傾向にある。
2)内水処理の展開
ところで以上のような郊外地帯の市街地化と、そのなかでの防水対策のなかで、いわゆる都市計画事業がどのように進んだかであるが、これは、都市計画区域の拡大と道路網の整備、それを前提にした土地区画整理事業の範囲を出なかった。この要点は、新市街地の都市環境整備というよりは、何よりも第一に都心(旧市街地)と外郭地域(新市街地)とを、放射状・環状の道路によってつなぐことにより、都市を単に外延的に拡大するだけであったといってもいいだろう。そのほか、外郭地域における補助道路の構想もあるが、これらはともに防災という意義は全たく持っていなかったのである。もっとも、都市計画事業の一環として、あるいは単独に、都市化にともなう雨水・下水の流出量の増大対策として、中小河川の改修事業も計画されはした。
たとえば東京に例をとると、中小の河川および用排水路は5千余をかぞえるが、これらのうち舟航はもちろんであるが、汜濫防止のため、戦前ころから河川改修計画が立案され、その若干は都市計画事業の一環をなしている。この一つに、33年9月の台風で、東京では稀な都市水害をみた東京西部の神田川地帯がある。この上流は善福寺川(水源は杉並区の西端善福寺池)、これと千川上水が妙正寺川(同じく杉並西部)に合流し、さらに神田上水(三鷹市井ノ頭池)に入り、ついに江戸川、さらに神田川となる。この関係市区は、三鷹市・杉並区・中野区・新宿区・千代田区等である。この区域の改修事業として、上流からみると、妙正寺川上流、神田上水並び善福寺川、神田上水上流、江戸川、神田川上流の五つの地区に分割された計画となっている。いま妙正寺上流改修の計画によれば、「妙正寺川は、その流路は迂余曲折著しく且つ幅員狭く、河岸には殆んど護岸工無く、全く都市河川の形態を備えざるに拘らず、流域は大東京の膨張に伴い、急激なる発展を見つつあるので、雨水の流出量ははなはだしく増大し、各所汜濫の被害」(『東京市土木読本』による)がすくなくないとあり、そのため延長1,295mの区間を幅員8.5~10mに拡大、河底勾配は1/500に統一し、両岸にはコンクリート護岸とを建造せんとするものという。昭和10年の計画である。普福寺川についても同様である。こうした事業を要請するに至ったのは、もちろん急速な市街地化で、この地域についていえば、旧井荻村(旧豊摩郡)の884町歩における土地区画整理事業で、大正14年9月から始まり昭和9年にほぼ登記を終っている。その面積は266万坪に達した。その『「事楽誌」(昭和10年3月刊)には、「本地区に水源を有する善福寺川および妙正寺川は、いずれも湧水、夏期なお滾々として沿線の旧水田を灌漑して余水があり、又西川は地区内の排水に使用せられ、自ら地区の凹所を地形に従いて流下し、一種の風致を為すを以て、なるべく現状に於で改修し、その幅員を4間乃至5間となした。そのほか地区内数条の細流は、前記西川に注ぎ、いずれも地形に応じて自然流下せしむるよう配置改修し、以て地区内排水に便なるようにした」となっているが、これが必らずしも充分でなかったことは、これらの河川改修を要求されたことによっても明らかであろう。いずれにせよ、上流部での市街地化は、排水の増大をもたらし、これはその排水路を詰まらせ、逐次下流におよび、水系としての河川改修に至った経過が、以上により分かろうが、この事業は、戦前にも、さきにみた計画により進められたとはいえ、必らずしも充分ではなかった。というよりその市街地化の方がより急速であったというべきであろうか。いずれにせよ、ここに無秩序な都市化の姿がうかがわれるのである。
この善福寺川-妙正寺川-神田川地区についていうと、その排水事業は、昭和33年9月の台風22号による豪雨被害を契機に、中小河川の改修事業として、昭和33年度以降の事業計画がたてられ、現在進行中である。
このような不完全な都市排水は、東京南部における、呑川や立会川の水系についても同様である。呑川は、世田谷区の玉川用賀町に発し、目黒区の自由ケ丘・緑ケ丘を経て大田区の羽田空港北方で東京湾に注ぐ。立会川は同じく目黒区の三谷町三谷池に発し、品川区の旧鈴ケ森刑場の北方で海に入る単独河川である。ともにこの地区における重要な排水幹線である。
これらの地区では、昭和22年9月の台風出水があり、これを契機として呑川・目黒川などが中小河川改修事業の対象河川にえらばれ、事業施行中である。同じように、虫くいの形をとった市街化の外延的拡大による排水の不備が問題だからである。
なおこのほかの当時に計画された都市排水事業としては、道路事業の一つに街渠(おもに暗渠)があり、またこれとは別に同じく道路の側溝の事業がある。もちろん下水道事業と深い関係をもつものであるが、戦前には余り関心の払われなかったことは周知のところであろう。
もう一つの都市排水として高潮対策がある。これは、高潮等による海水の侵入、洪水による被害対策である。地盤沈下の傾向もこれを促進した。東京でいうと、昭和初年以降、とくに8・9・10年における異常高潮により、多くの浸水家屋(10年に4.4万戸、うち床上が10,564戸)が生じたため、高潮防禦施設事業をみている。この要点は、河川および河岸提防のかさ上げによる外水の防禦、河川水門による内水の排除があり、これと関連して在来下水改修事業による排水ポンプの新設がある。いまその一例をみると、「江東方面とか浦田の羽田町附近の低地一帯は在来下水の水位が、大体河川のそれよりもかえって低いので干潮のときでさえ排水が意の如くでない。いわんや高潮でしかも満潮といった場合などには、逆に河水が在来下水を通じて、道路といわず民地といわず、附近一帯の低地に氾濫する状態であるから、適地に圦樋を設けて、河水の逆流侵入を防止せねばならない。ところが圦樋を閉ざしている時、雨が降ったりして水量が増加すると、在来下水では收容しきれず、雨水や汚水は流れ場所がないため随所に氾濫するので、かような場所では、いきおい圦樋の附近にポンプをすえつけて圦樋を閉ざしたまま流れる下水を、一旦ポンプの力で汲み揚げて河海に放流」(『東京市土木読本」による)することが必要であると。この事業は、その後、小規模ながら継続して今日に至っている。
一方、大阪では昭和9年の室戸台風による高潮に対して、その被害が激甚であっただけに、東京の場合以上に徹底的な手段がとられた。防潮堤はもちろんのこと、河川および海岸堤防のかさ上げ、水門の設置のほか、さらに低湿地の地上げまで進めるようになった。戦後における戦災復興は、さらにこれを強力に推進している。しかしこのような事態は大阪に特殊にみられるだけで、前記の東京をも含め、多くの海岸都市でも、充分な高潮対策をみていない。もちろんこれは高潮だけではなく、その後背地における低湿地の内水対策をも含めてである。
都市計画事業におけるこのような事態のなかで発生したのが、今次の伊勢湾台風による名古屋の大きな被害である。もちろん、その被害の原因や経過には、なお検討すべきものがあるにしても、その市街地の、長期湛水に至った水害は、これまでのような都市防水対策に対するきびしい批判といってもいいだろう。
2 低地防災計画と問題点
伊勢湾台風を契機として、臨海低湿地をもつ大都市では、いちように防水対策を強化しつつある。
たとえば東京都における今年度の重点施策の一つに「低地防災」がある。ここで低地というのは、東京東部にあたる江東・江戸川・葛飾の3区、あるいは墨田区も含めた4区をさしている。隅田川と江戸川との間にはさまれ、そのほぼ中央(下流部では江東と江戸川の区界)を、荒川および中川の両放水路が走っている。いわゆる江東地帯(江東4区)である。海抜ゼロ前後、そして古くは大正の初期より今日に至るまで、若干の停止時期をのぞき、継続して地盤沈下をみせている地帯で、昭和10年代以降に高潮対策の展開をみている。
ここでの防災計画の要点は、いうまでもなくまず第一に沿岸防潮堤の建設で、戦前にはみられなかったものである。東京港海岸保全事業計画(特別高潮対策)がこれに当る。35年度以降の新規計画である。この防潮堤とは別に、32年の水害を契機とし、33年度から始まる、江東地区の「外郭堤防事業」がある。5カ年計画、75億円の大工事である。これは江戸川・荒川放水路に入る各小河川の護岸の補強と水門の改新築である。それらは低湿地への溢水・氾濫の防止を目的としている。また氾濫や内水の排除には、当然のことながら排水ポンプの増強がある。
以上の防災対策のうち防潮堤をのぞくと、さきにもふれたように、戦前から広く採用されている方法である。たしかに低地防災としては、第一に外水の防禦、第二に内水の排除が基本的な方法であるが、これだけでは充分でない。というのは、一方では堤防のかさ上げ、護岸の補強をみながら、他方地盤の沈下があり、そのことから、いたちごっこの状態を示すと同時に護岸の亀裂なども伝えられている。たとえば江東区が昨年末に発表した区の「水防白書」によると、地盤沈下により北砂町一帯の提防に亀裂と漏水があり、また江戸川区でも蒲島水門南側の防潮堤が亀裂、高潮にさいしては海水が吹き出すといわれている。こうなると、防水ということだけでは、必らずしも適切な手段にはならないだろう。
一方、伊勢湾に立地する名古屋での防災計画をみると、個々の事業はまだ最終的に決定されているわけではないが、その構想としては、当然に外水と内水との防水対策を主軸としている。
すなわち外水(海水・河水とも)の防禦としては、
a 高潮防波堤の建設
b 海岸堤防・河川堤防の強化(道路使用)
が挙げられている。これに附随して、昨年の高潮災害の一つの要因をなした貯木場(主として第8号埋立地の貯木場)の設備の規則や位置の再検討がある。波浪による流失・散乱で、臨港地帯の後背地が荒らされるのを防止するためである。この事業内容は明らかにされていないが、貯木場破壊の原因の一つとして、海側の南堤防が古い脆弱な防波堤の一部を利用していた事実からきていることを考慮すれば、その設備、とくに施設・構造の強化が要請されるであろう。次に内水防禦としては、この点は東京の場合とすこしちがうところだが、それでも「排水施設の整備と防護」がとりあげられている。しかし、この場合の特徴的な対策として、
a 土地区画整理事業による低地域の地上げ
b 都市公園の地上げ
c 幹線街路の地上げ、高架道路の建設
d 低地域の鉄道の高架化
という地上げ方式に注目していいだろう。この地上げ方式は、大阪の場合にも採用されているが、第一線堤防(高潮堤をも含めて)のあり方やその規模とを関連させ、どれだけの、またどういう意味をもちうるものであるか、さらに防災建築の場合どの程度に必要なのかなど、種々と吟味すべきものをもっているが、ここではただその事実の指摘にとどめておこう。
ところで、東京の場合、この江東地帯に立地している工場の殆んどがいわゆる中小企業あるいは零細企業だという点は注目されてよい。つまりこれらは自主的な防災措置の能力の低い企業である。これらの集まったこの市街地もまた、全般的にこの能力は低いのである。一方それでいて、東京の場合、横浜・川崎を含めてだが、まだそれほど顕著とはいいがたいが、内陸部の高燥地帯が工業適地として注目され始めており、大あるいは中規模程度の工場進出が活発である。これを促進したのは、昭和34年の4月に制定された「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」である。これによって城西の内陸部は、八王子市を中心とする新興工業地帯として発展しようとしている。以上の、内陸各地に立地し、立地しようとしている工場の多くは、江東地帯の工場と比較すると、殆んど大企業といってもいい種類のものである。
こうした内陸化の傾向は、必らずしも東京のみの現象ではなく、伊勢湾を中心とした中京地帯の場合でも同様である。もちろん、このような内陸化そのものは、何ら否定すべきことではない。むしろ内陸の方がより適地である業種もすくなくはない。ただ問題なのは、低湿地には中小あるいは零細の企業のみが定着する傾向のつよいことである。都市防災の上からいうと、このような工場立地を規制するか、あるいはその増改築にさいし防水建設を強化しうるようにするか等の諸施策が必要であろう。一般民家の場合でも同様である。これらの前提が補足されないと現行の外水や内水の防禦・排除の方法を以てしてだけでは非常に不充分である。ここに低地防災に総合施策の必要なゆえんがある。
VII 都市の防災計画と災害危険区域の指定について 新海悟郎・入沢 恒
1 都市の防災計画
2 低地域における建築物の水害対策
3 災害危険区域と建築規制
4 名古屋市災害危険区域の指定基準案
1)要旨
2)要綱案
(1)災害危険区域の種別
(2)災害危険区域の指定
(3)災害危険区域内の建築物および敷地の制限
(4)特殊建築物および敷地の制限
(5)構造
(6)雑則
5 今後の問題点
1 都市の防災計画
今回の台風、高潮による低地域市街地の被害が未曽有の規模であったことは、種々の悪条件と悪原因とが重なったものであるが、とくに重要な点は被災地における都市計画が十分防災を考慮して、総合的に行われていなかったことにあると考えられる。すなわち、空前の大災害を出した原因には、異常な高潮という自然の要因のほかに、人為的な原因の一つとして、海岸護岸や河川堤防の弱体のほか、海面より低い干拓地に、十分防災を考慮しないで住宅や工場が建てられ、無防備のままに市街化したことである。
毎年のように震災・火災あるいは風水害など種々の災害が起るわが国では、とくに人口と産業が集中し、経済の中心であり、文化の中心である都市では、つねに防災ということに重点を置いて、都市の諸施設の計画や建設を総合的に行わなければならない。
いま問題を低地域における水害防止という点にしぼって考えてみても、堤防・道路・住宅をはじめ、各種の建築物・排水施設など都市の施設のすべてにわたって水害対策を考え、それらを総合的に計画し、最大の効果をあげるようにしなければならない。
もちろん水害を防ぐ第一の方法は、市街地の最前線にある堤防の強化であるが、絶対に破堤しない堤防は技術的に可能であっても経済的にはきわめて実現困難である。したがって、万一堤防が破堤する場合の対策として、第2第3段の対策を市街地自体において考えるべきである。
とくに公共的な施設、道路や鉄道や公共建築物等は何にもまして防災的でなければならない。また同時にわれわれの生命や財産を守る基地となり、生活や活動を行う場所である一般建築物も、つねに防災的でなければならない。
2 低地域における建築物の水害対策
低地域における水害対策として堤防のみに依存することが危険であることは、今回の災害からみて明らかである。この点から現地の名古屋においては、提防以外に、道路のかさ上げ、排水設備の整備、その他種々の防災計画が立案されているが、市街地を構成する主要素である建築物について考えてみると、建築物の敷地・構造・設計等の面において水害対策をたてておくことが必要である。
第一に建築物を建てる場合には、まず敷地の選定が考えられなければならない。今回の災害の場合を結果的にみると、住宅や工場の立地に際して、高潮や出水を無視していたことが指摘されるが、国土の利用という面から考えると、臨海の低地域を未開発のまま残しておくことはできない。低地域でも施設の整備や土地の造成によって、積極的に改造し、人々が安心して住みかつ働ける場所とすることが肝要である。したがって、建築物についてはまず敷地が浸水しないようにまた浸水しても浸水水位をできるだけ少なくし、少なくとも人命が安全であるように、地盤面の地上げをすることが第一要件である。
しかしながら、実際の場合には、附近に地上げするための適当な土量がない場合があり、また個々の敷地の地上げが可能でも、前面の道路が低いため、自分の敷地だけを高くすることは、とくに店舗などの場合に困難であり、さらにすでに市街化した場所では建築物の移転、その間の営業中止など種々の困難性をもっている。
このためには、既成の市街地やこれから開発されて市街化する区域では、広い範囲にわたり、区画整埋などの公共的な事業によって、一つの地区が道路も敷地も、一せいに同時に地上げされることが望ましい。また一団として開発される住宅団地では、公共的な地上げをまたずとも、敷地全面の地上げをすることは、個々の敷地を別々に地上げすることよりも容易である。
ただし、現行の土地区画整理の制度によって地上げをする場合には種々の難点がある。従来の土地区画整理の方式では、道路・公園等の公共用地を換地によって生み出し、また地方公共団体等が行う一般の事業においては、その財源の大部分が保留地処分金によるものであるが、滅歩率の関係からそれには限界があって、一般用地の土地造成までは十分に行われ難い点があった。とくに低地域の農地を区画整理する場合には、一般用地は換地され敷地の形状は整えられても、直ちに建築敷地として利用し難いものがある。また防災的な見地から遊水池を設けようとしても直ちに滅歩率に大きく影響する。このような点を考えると、低地域の土地区画整理は従来の方法にとらわれず、地上げを主体とした事業方式、防災を考慮した設計、また、それにともなう事業費・財源の支出方法に特別の工夫がなされなければならない。
建築物の水害対策として第二に考えられることは、地上げをしても、予想される浸水水位より敷地の地盤面がなお低く浸水のおそれがある場合、また種々の事情から地上げがいちじるしく困難な場合、さらに地盤面が相当に高いときでも高潮やはげしい水勢をうけるおそれがある場所では、次善の策として建築物の構造の強化が考えられる。
建築物の耐火構造は、この場合には耐水構造になる。直接高潮のはげしい波浪や水勢をうける場所では、鉄筋コンクリート造やブロック造が適当であるが、ただ浸水にとどまる区域で、かつ経済力の面からこのような堅固な建築物を建てることが困難な場所では、木造もやむをえないこととなる。ただ木造とする場合には、従来の木造構法に加え、若干の耐水性を加えることが必要であって、たとえば基礎を布コンクリート造とし、主要柱を太く、また主要な仕口を鉄物で補強するなどの方法を講じることである。しかし、学校・病院その他の主要な公共建築物は、避難用施設や收容施設、救援の場合の拠点として役立たせるため、2階以上の鉄筋コンクリート造やブロック造とする必要がある。
つぎに非常に低地域であるため、あるいは市街化していて建築物が密集しているため、十分に地上げができない場合には、第三の方法として居室の床面を安全な高さまで上げることが考えられ、その方法には布基礎を高くするとか、階下部分は柱のみとする高床式構造があり、また避難に重点をおいて2階以上とするとか、安全な床高をもつ避難室を設けるとかの方法もある。
3 災害危険区域と建築規制
水害対策をたてる場合には、その地域における水害の危険度を知り、その危険度に応じて適切な対策をたてることが肝要である。
建築物の水害対策においてもまた同様であって、さきに述べた
a 建築敷地の地盤面の地上げ
b 建築物の構造の強化
c 居室床高の制限または避難室の設置
という方法を、危険区域の危険度に応じ適宜組み合せることが必要である。
名古屋市の低地域について、今回の被害結果、被害の原因、あるいは土地の利用形態などから考察してみると、低地域を次の5区域に分け、それぞれの建築規制を行うのが適切である。
A区域:この区域は名古屋の臨海埋立地であって、他の区域が干拓地で地盤面がいちじるしく低いのとちがって、大工場の立地する埋立地であるため、地盤面が高く、名古屋港の大潮における平均干潮位基準、すなわち、N.P.より約3.5~4m、平均満潮位より1~1.5mの地盤高であるが、直接高潮の波浪と浸水の被害をうけるおそれのある区域であるので、今後も埋立地は現在以上の地盤高とし、また木造建策物や住宅などの居住用建築物を禁止するのが適当である。
B区域:海岸や河川に囲まれ、現在の地盤高が約N.P.+1~2m(海抜0m前後)で、浸水水位が現在の地盤上3~4mにもなり、きわめて大きな被害をうけやすい市街化地域である。対策としては床上浸水をしない、また床上浸水をしても人命に危険を及ぼさないため、敷地の地盤面の高さをN.P.+3m以上とすることが必要であるが、これが困難な場合には、浸水としても危険のないようにN.P.+3.5m以上の床高の居室または避難室をもった耐水構造とするのが適当である。
C区域:現在の地盤面がN.P.+1m前後であり、近い将来開発が予定される低地域であるが、やや内陸部にあって、地形・地物から浸水水位が現在の地盤上約2~3mで、土地区画整理によって地上げが可能な区域である。しかし、この区域は面積が広く、また現在の地盤面がきわめて低いので、浸水を完全に防ぎうる高さまで地上げをすることが困難であるので、地盤面の高さはN.P.+2mとするかわりに、浸水を予想してつねに床高がN.P.+3.5m以上の避難室を設ける必要がある。
D区域:現在の地盤面がN.P.+1~3mで、浸水水位が現在の地盤面上より約1~2m程度であった内陸部の既成市街地である。すでに建築物が密集し、現状では地上げがきわめて困難であり、かつ被害はあまり大きくないので、地盤面は現状のままでよいが、そのかわり床高がN.P.+3.5m以上の避難室を設ける必要がある。
E区域:現在の地盤面がN.P.+1m前後で浸水水位は現在の地盤面から約3~4mであった農村集落地で、近くに避難場所がなく、また非市街地で水勢をさえぎる障害物が少ない区域であるので、敷地地盤面は各戸ごとにN.P.+3m以上とすることを原則とし、建築物はすべて耐水構造とし、さらに避難室を設けるのが適当である。
以上の各区域別の敷地の現況ならびに建築物および敷地制限の関係を図示すると次図のようである。
なお、以上のような対策・構想を実現する方法として、現行制度では建築基準法第39条に基づく災害危険区域の制度が適切である。
しかしながら、堤防や他の公共的事業の対象となる道路やその他の都市施設の計画や事業とちがって、建築物の多くは民間個人の手によって建築され、また現在すでにこれらの区域において建築活動が始まっているので、災害危険区域による建築規制は一刻も早く、他の防災対策の実現をまたずに実施する必要がある。
前記の構想によって、直ちに災害危険区域による建築規制を行おうとすると、地上げ等につき他の公共事業に期待している点があるので、その事業費、事業実施の時期、事業の内容などの点で困難な問題に逢着する。そこで現在計画されている他の防災計画を考慮し、さらに実現の可能性を検討した結果作成したものが、次に示す災害危険区域の指定基準要綱である。
4 名古屋市災害危険区域の指定基準案
1)要旨
前提として防災計画に関する次の諸事項が満足される条件のもとに、災害危険区域指定基準案を作成する。
a 鍋田干拓地先と横須賀地先を結ぶ延長約9kmの高潮防波堤が早期に建設されるものとする
b 天端幅と被覆が十分で、溢水に対し破壊しない河川堤防・海岸堤防が早期に建設され、その維持管理が十分行われるものとする。
c 災害時にも運転しうる強力な排水ポンプ場が十分整備されるものとする。
d 荒子川地区開発計画にともない、荒子川地区は土地区画整理事業によって、N.P.+1.3mまで埋立されるものとする。
e 横須賀町地先の埋立地が早期に建設されるものとする。
f 貯木場は将来西部臨海工業地帯に移設されるまで、築堤その他木材流出施設が施されるものとする。
上記の諸条件が満足される場合においても、南部低地域は高潮による直接被害、また高潮河川増水による溢水、集中豪雨による浸水など、比較的短期の湛水は避けられないものとして、次項に示す建築物の防水対策を考える。
a 原則として、所定標高まで地上げさせるため、敷地地盤面の最低高さを制限する。
b 高潮のおそれのある区域は、建築物の構造・用途の制限を厳にする。
c 河川堤防・海岸堤防が未完成で、破堤のおそれがある附近、または溢水のおそれのある区域は、堤防が完成するまでの間、建築物の構造・用途を制限する。
d いちじるしく浸水のおそれのある区域は、高床式または2階建以上の耐水構造とする。
e 浸水のおそれのある区域は、高床式か2階以上の構造または所定の避難施設を有する構造とする。
2)要綱案
建築基準法第39条の規程に基づき、名古屋市南部低地域に災害危険区域を指定し、水害防止上必要な建築制限を行う。
(1)災害危険区域の種別
災害危険区域は次の5種とする。
第1種区域 地盤面が高いが、直接高潮により危険のおそれがある臨海埋立工業地
第2種区域 出水により危険のおそれがある低地域の開発予定地で、土地区画整理事業によって地上げが予定される区域
第3種区域 出水により著しく危険のおそれがある低地域の既成市街地
第4種区域 出水により危険のおそれがある低地域の内陸部既成市街地
第5種区域 出水により危険のおそれがある低地域の農村集落地
(2)災害危険区域の指定
災害危険区域は町丁目および指定図によって別に指定する。
(3)災害危険区域内の建築物および敷地の制限
①第1種区域
a 建築物の建つ部分の敷地地盤面は、名古屋港平均干潮位基準より(以下N.P.(+)という)4m以上の高さとする。
b 建築物の構造は、木造以外の耐水構造とし、かつその壁腰部分は高さ1m以上の組積造、補強コンクリートブロック造または鉄筋コンクリート造とする。ただし、居室を有しない建築物または附属建築物で延べ面積が100m^2以内のものは除く。
c 海岸線または河岸線より50m以内の区域内においては、住宅・共同住宅・寄宿舎・併用住宅その他常時居住の用に供する建築物の建築を禁止する。
②第2種区域
a 建築物の建つ部分の敷地地盤面はN.P.(+)2m以上とする。
b 建築物の建つ部分の敷地地盤面がN.P.(+)3m未満の場合には、1以上の居室の床面がN.P.(+)3.5m以上の建築物、または延面積が50m^2以下で床面がN.P.(+)3.5m以上の避難室(別項で定める)または避難設備(別項で定める)を有する建築物とする。
c 建築物の構造はN.P.(+)3.5m以下の部分は耐水構造とする。
d 海岸線または河岸線より50m以内の区域内においては、特定行政庁が定めた期間内において、木造以外の耐水構造とする。
e ただし、船着場・木材集積場・公衆便所その他これらに類する建築物、居室を有しない建築物または延べ面積が100m^2以内の附属建築物については、a b c d項を適用しない。
f 敷地地盤面がN.P.(+)2m未満、(+)1m以上の敷地にあっては、特定行政庁が定めた期間内において、a項によらず、次のイ、ロによって建築することができる。
イ、階数が2以下で、地階を有せず、かつ延べ面積が100m^2以内で、木造もしくは鉄骨造で容易に移転除却をしうる耐水構造
ロ、N.P.(+)2m以下の建策物の部分が、将来地上げされる場合に、基礎または地階となしうる耐水構造。
③第3種区域
a 建築建つ部分の敷地地盤面はN.P.(+)1m以上とする。
b 建築物の建つ部分の敷地地盤面がN.P.(+)3m未満の場合には、1以上の居室の床面がN.P.(+)3.5m以上の建築物、または延面積が50m^2以内で床面がN.P.(+)3.5m以上の避難室または避難設備を有する建築物とする。
c 建築物の構造はN.P.(+)3.5m以下の部分は耐水構造とする。
d 海岸線または河岸線より50m以内の区域内においては、特定行政庁が定めた期間内において、木造以外の耐水構造とする。
e ただし、船着場・木材集積場・公衆便所その他これらに類する建築物、居室を有しない建築物または延べ面積が100m^2以内の付属建築物については、a b c d項を適用しない。
④第4種区域
a 建策物の建つ部分の敷地地盤面はN.P.(+)1m以上とする。
b 建築物の構造はN.P.(+)3.5m以下の部分は耐水構造とする。
c ただし、船着場・木材集積場・公衆便所その他これらに類する建築物、居室を有しない建築物または延べ面積が100m^2以内の付属建築物については、a b項を適用しない。
⑤第5種区域
a 建築物の建つ部分の敷地地盤面は2m以上とする。ただし、建築物の基礎をN.P.(+)2m以上とする場合にはこの限りでない。
b 建築物の建つ部分の敷地地盤面または基礎の高さがN.P.(+)3.5m未満の場合には、1以上の居室の床面がN.P.(+)3.5m以上の建築物、または延面積が50m^2以内で床面がN.P.(+)8.5m以上の避難室または避難設備を有する建築物とする。
c 建築物の構造は、N.P.(+)3.5m以下の部分は耐水構造とする。
d 海岸線または、河岸線より50m以内の区域においては、特定行政庁が定めた期間内において、木造以外の耐水構造とする。
e ただし、船着場・木材集積場・公衆便所その他これらに類する建築物、居室を有しない建築物、または延べ面積が100m^2以内の付属建築物については、a b c d項を適用しない。
(4)特殊建築物および敷地の制限
a 災害危険区域内においては、1棟内に10戸以上の住戸を有する共同住宅・寄宿含、または一団地内に10戸以上の住宅を建築する場合、その建築物の建つ部分の敷地地盤面は、前条各区域の規定にかかわらず、N.P.(+)2m以上とする。
ただし、やむをえずこの地盤面の高さ未満の敷地に建築する場合には、木造以外の耐水構造とする。
b 災害危険区域内においては、学校・病院・療養所・集会場、官公署その他これに類する公共建築物(延べ面積が50m^2以内のものは除く)または発電所・変電所・排水ポンプ場その他これに類する公益建築物は前条各区域の規定にかかわらず、敷地地盤面はN.P.(+)2m以上とし、木造以外の耐水構造とする。
(5)構造
a この基準において耐水構造とは、主要構造部のうち柱・床・はり・または外壁を鉄筋コンクリート造等の耐火構造もしくは鉄骨造としたもの、または主要構造部を浸水に対してとくに堅固にした次の各号に該当する木造をいう。
イ 建築物外面および主要間仕切壁の下の基礎が布コンクリートであるもの。
ロ 基礎・土台・柱との間を適宜ボルトで緊結したもの。
ハ 主要柱の最小径を10.5cm以上としたもの、ただし、延べ面積が50m^2以内の建築物については、10cm以上とする。
ニ 政合第46条(構造耐力上必要な軸組等)に規程する所要軸組の長さのうち、その1/2以上は筋交を入れた軸組としたもの。
ホ 土台・柱・はり・筋交の主要仕口に鉄物を用いボルトで緊結したもの。
b この基準において、避難室とは、避難の用に供するため中2階・屋根裏等に設ける室で、次の各号に該当する居室でないものをいう。
イ 採光・換気のための開口部の面積がその室の床面積の1/20以上であるもの。
ロ 避難室の床面積の合計が、延べ面積の1/10以内であること。
ハ 階下と階段またははしごで連絡し、開口部は容易に開閉できるものであること。
c この基準において、避難設備とは、屋根上に脱出するためのはしご・脱出口をいう。
d この基準における建築物の建つ部分の敷地の擁壁部は、基礎と適当な距離をとり、鉄筋コンクリート造・コンクリート造・石造その他これらに類する材料を用いた擁壁を設けること。石造の擁壁は裏込めにコンクリートを用い、石と石とを十分に結合すること。ただし、擁壁の法勾配が緩かで構造上安全と認められる場合にはこの限りでない。
(6)雄則
a 非常災害があった場合において、災害により破損した建築物の応急修繕その他応急仮設建築物の建築については、特定行政庁は一定の期間、それらの建築物または敷地に関するこの基準規定を緩和することができる。
b 特定行政庁は、建築物または敷地の維持保全が適当でなく高潮・出水等による被害を受けるおそれがあると認めた時は、当該建築物または敷地について、その所有者に対し、安全上必要な措置を命ずることができる。
この掛置を命じた場合、必要と認めるときは、それらの資金に対して扱助を与えることができる。
c 建築に際し、それぞれの災害危険区域の各規定にしたがって敷地の地上げをなし、または耐水構造とする場合において、必要と認めるときは、それらの資金に対して援助を与えることができる。
d 第2種区域内において、その6)項の規定によって、規定の地盤面まで地上げしないで建築する場合には、土地区画整理事業に基づく地盤面の変更によって建築物に与える損害に対しては、補償しないことができる。
e 災害危険区域内の学校・幼稚園・託児所・病院・療養所・集会場・官公署その他これに類する公共建築物または一団地の住宅については、建築物の敷地・構造・設備に関し、特定行政庁は、防災上必要な措置を命ずることができる。発電所・変電所・排水ポンプ場その他の公益建築物について同様の措置をとることができる。
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5 今後の問題点
結びとして、今後の災害危険区域のあり方について述べると、低地域の水害等の防災対策は、単に建築規制のみでは十分目的が達せられず、他の諸施設の防災対策と関連して総合的な防災計画をたて、その効果を十分にあげる必要がある。このためには、災害危険区域の指定、また規制内容を建築基準法のみの課題としないで、大きく都市計画の問題として扱うことが肝要である。
また都市計画はさらに防災面に重点をおいて事業を行うべきで、たとえば低湿地における土地区画整理事業においては、敷地の地上げ、遊水池や運河、排水施設の設置など事業内容を拡げるとともに、その事業費の財源について適切な方法がとられるよう検討することが必要である。
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VIII 千拓地域都市化対策の問題点 新沢嘉芽統
1 全面的埋立の可能性の検討
2 理立地域の範囲
3 都市化に関する規制
4 干拓計画と埋立計画との調整問題
1)経済価値の比較
2)実現の時期による比較
5 都市計画の問題
1 全面的埋立の可能性の検討
今回の災害、とくに名古屋市内の被災の状況からみて、干拓地を工業用地や住宅地などに転用し都市化しようとする場合、全面的に埋立を行うことが、のぞましい方法であることはいうまでもない。この全面埋立をはばむ諸条件のうち、最も困難な条件は埋立用土の取得の問題である。海に面する地域は、サンドポンプの経済的使用が可能の範囲で埋立てることができる。内陸部では、側面を流れる河川の凌渫、川巾の拡張の限度によって制限され、小規模な局地以外では不可能である。
この対策として、内陸部も、海岸の埋立地のように、周囲に運河をめぐらした多数の団地に分割することとし、運河敷地の凌渫土によって団地内を埋立てるという方法が考えられる。完成された姿から見ると一つの理想的な形であるといってよいであろう。しかし、そこまで持ってゆくプロセスを考えると、すこぶる困難な点があることに気づかざるを得ないのである。
a まず考えなければならない点は、土地の所有関係である。戦前では、干拓地域は大抵大地主の所有地であったから、小数の大地主が運河敷地の買收に応ずれば、取得ができた。現在では、土地は農民に分割所有され、農家経営の主要生産手段として使用されている。彼らはその土地を失えば、生産の基盤を失うのである。河川の増巾のための用地くらいは買收できても、地域面積の相当割合をしめるような運河敷地の買收には応じないと考えなければならない。
b そこで、農民に区画整理を行わせ、運河敷地となる予定地を、全地域の農民に所有面積に比例して換地し、これを買收するという方法が考えられる。つまり、都市化する場合の土地価格の上昇による利益と、運河敷地として失われる土地を、地域内農民に比例的に配分するやり方である。
しかし、こういうやり方にも難点が予想される。全面的に都市化するまでの過渡期の農業経営をどうするかが問題になるのである。埋立と同時に都市化しない場合には依然として農業経営を継続しなくてはならない。運河敷地の買收価格は、大体経営面積の縮少に伴う農産物の附加価値の滅少を利子としての資本還元額に等しいか、それ以上でなければならない。表作と裏作の附加価値(売上金額一金銭支出)を4~5万円とし、年利子率(定期預金利子)を6分とすれば、買收価格は反当70~90万円、坪当り2,400~3,000円である。
運河の造成は公共事業として行われると考えられるが、農地を坪2,400~3,000円で大規模に買收するようなことが果してできるであろうか。
ダムによる水没などのように、純利益(附加価値一労賃)を基礎とする買收価格では、到底買收できないと考えられる。残地の地価上昇が少ない方が容易である。運河敷地にはこのような条件が欠けている。
c 過渡期に埋立地を農地として利用する場合、水田にするには新たに灌漑排水施設が必要であり、埋立地へ水を揚げるためのポンプ施設も必要である。畑地として利用すれば、收益が減少する。これも、運河敷地の買收価格に加えて補償しなければならない。
d 運河の造成は公共事業として実施するにしても、広範な地域の埋立や地均し、道路などの諸施設は公共事業では実施がむずかしいであろう。土地所有者たる農民に実施させるとすれば、ある程度の年数の過渡期が予想されるかぎり、そんな投資をやる気持にはならないであろうし、資金も持合せていない。市など地方公共団体が実施するとすれば、将来売渡す場合の売渡価格を土地所有者たる農民との間にいかに分割するかという困難な問題がある。また、地方財政の立場からも、実行不可能であろう。
e そこで最後に残る方法は、ブロック毎に大企業が買收するに応じてそのブロックを埋立てる方法である。しかし、この方法によると、その埋立ブロックの背後に新しい海岸堤を新設しなければならない。埋立地の背後地の間に運河ができ、高潮は運河に侵入してくるからである。したがって、埋立ブロックが背後地に延びることにしたがって、埋立地と背後の非埋立地との境界をなす海岸堤防を造ったり、くずしたりして進行しなければならない。こういうことも事実上はできないであろう。また、一部が埋立てられ、工業用地化する場合には、埋立地以外の附近の土地も自然に宅地化する傾向があらわれ、これを阻止することは甚だ困難であろう。一度都市化してしまえば、その後の埋立は困難になる。
2 埋立地域の範囲
これまで見てきたように、全面的埋立の阻害条件のうち、最も大きな条件は、埋立用土を取得できないことであった。海に面するある程度の地域あるいはその前面の海面は、用土を海から取得できるので埋立の対象になる。今回の被災の状況を見ると、埋立地上の工場は高潮の退潮まで2~3時間冠水したが、建築物にはほとんど被害がなく、内部施設の被害も少なかった。埋立によって波のエネルギーが消耗したからであろう。埋立地は前面に堤防がなくても工場用地として適すると考えてよい。ただ、建物内への浸水に対する配慮と、内部施設の配置などに対する配慮があれば十分であると考えられる。
a 埋立は企業か地方公共団体かが実施するであろう。そこには、埋立から工場建設までの過渡期の処理の問題は発生しないのである。
b 背後非埋立地の保護施設について考えると、埋立地の地盤高を高潮に対して完全になるほど高くすることは不可能であるから、背後地の保護のためには海岸堤防が必要である。しかし、前面に埋立地ができると、埋立地によって高潮に伴う波のエネルギーの大部分は消耗するから、背後地の海岸堤は主として潮位に対し安全であればよく、海に直面する海岸堤ほど大きな外力を予想しなくてもよい。埋立地と堤防を組合せることにより、十分高潮の侵入を防ぐことができる。
今回の災害で埋立地の背後地に大きな被害があったが、それは埋立地の背後に海岸堤防がなかったためであり、埋立地を越えた侵入水は、なんの抵抗もなく背後地へ侵入し、長期に湛水することとなった。
もしも、埋立地の背後に海岸堤防があれば、高潮の退潮までは短時間であり、埋立地の高さは天文潮の満潮位より高いのであるから、万一その海岸堤防が局部的に破壊しても、埋立地を越えた水だけが、その破壊の巾だけ一時侵入するにすぎず、侵入水量は少ないから、大被害が発生するはずはないのである。
また、このような海岸堤防は、常に波に洗われているのではなく、前面の基礎は埋立地に厚く保護されているのであるから、海に直面する堤防とは、まったく異るものである。
c また、全地域の側面を流れる河川の増巾や凌諜によってえられる用土のゆるす範囲で、河川沿いに埋立地を造成することはのぞましい。もちろん、大河川では洪水位が高く河川沿いの埋立が無意味の場合は、河川堤防を強化する以外に方法はない。しかし,山間部から流出する大河川でなければ、河川沿いにも埋立地を造成することは可能である。大河川の場合でも、河川堤防には、波のエネルギーはほとんど作用しないから、堤防は潮位に対し十分に安全であればよい。したがって、このような堤防を築造することは財政上からもそれほど困難なことではない。
d 断面が縮少する河川や船溜になっている狭長の入江などでは、下流から狭い上流におし入る形になり、上流ほど水位がたかまるような傾向が、今回の被害現象に見られた。この点も、河川堤防や運河に沿う海岸堤防の計画では考慮すべきであろう。
e 埋立地の範囲はサンドポンプの経済的使用条件によって定まる。
f 伊勢湾地域においては、将来、名四国道予定線を海岸堤防予定線とし、その前面を埋立地、その背後を非埋立地とすることも考えてよいであろう。
g 干拓地においては、第二線堤防維持しなければならないものであるから、前面の海面の埋立が不可能で、既存干拓地の尖端部が埋立てられる場合には、旧第二線堤防線を埋立後の海岸堤防線とし、その前面を埋立地、その背後地を非理立地とすることが妥当であろう。
h 現在の干拓地域の前面の海面に埋立地を造成する場合には、現在の海岸あるいは干拓堤防線を将来の海岸堤防線とし、その前面に、ある巾の埋立地を造成すべきである。
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3 都市化に関する規制
埋立地を海に面する上記の範囲に限定すれば、背後地をも含め、それらが都市化する場合の規制は容易になる。背後地に埋立がなく、過渡期の処理が容易になるからである。しかし、全然規制が不必要であるというのではない。
a まず区画整理の問題である。前述したように、背後地をとりまいて、ある巾の埋立地を造成することとなるが、それらの土地が海面や河川敷からえられず、既耕地を埋立てざるをえない場合には、背後地を含めて区画整理し、その換地によって、地域内土地所有者が公平(比例的)に所有するようにすることがのぞましい。都市化に伴う利益と損失を関係地域内の土地所有者に均等に分配することは、都市化に伴う利害の対立や摩擦を少なくするために大切である。
b 背後地も後には都市化するのであるから、無秩序に宅地化してゆくことはのぞましくない。したがって、その前に区画整理を強制的にでも実施させなければならない。
c しかし、過渡期の問題を考えると、しばらくは農地として利用しなければならない。したがって、区画整理は農地としての利用にも、都市化する場合にも、大きな矛盾が生じないようにしておかなければならない。矛盾の生ずる恐れのある要因は、道路の巾員や道路と道路の間隔(つまり一区画の大きさ)と、区画整理の場合の費用の問題であろう。
d 今日の耕地の区画整理でも、道路巾は相当広く、最小の農道でも3.70~4.00mである。しかし、都市化する場には、巾員はさらに大きくなるから、都市化して後の計画をたて、その道路敷となるべきところを、地域内土地所有者に公平な持分となるように換地しておかなければならない。つまり、耕地の区画整理によって造成される道路以外に、将来都市化し、道路敷となるところを計画的に予想し、持分の均衡を計っておくように強制するのである。
e 道路と道路の間隔は、将来の都市化する場合に必要な間隔を基準にすべきである。耕耘機の能率は、一区画の面積が極端に小さくならないかぎり、大きな相違はないのである。また、都市化する場合は必要でも、耕地としては不必要な道路は、ただちに築造する必要はない。巾員のところで述べたように、将来を予想して、全体としての道路敷の持分が公平になるように、換地することが必要なのである。
f 将来下水溝となるところも、道路と同様な配慮が必要であるが、下水溝の巾は小さく、かつ道路に沿って設置せられると予想されるから、道路巾に含めて考えればよい。
耕地の排水路は道路と道路の中間になるが、この排水路敷は将来の下水幹線として使用されるであろう。
g 過渡期の問題を考えると、最初の区画整理は耕地の区画整理として実施するのが妥当であろ制う。ただ、将来の都市化を予想しての計画に従って、特殊な換地方法を強制する措置を法的に定めておく必要があるのである。
h したがって、最初の区画整理の段階では、資金の問題は、現在の土地改良法などで定められた補助と融資で十分である。
i 過渡期間中のある段階に達すると、本格的な都市の区画整理を必要とするにいたる。都市として道路や水路を整備せざるを得ない。これらに要する費用には、都市の区画整理では普通地区内の一部の土地を売って充当する。したがって、土地所有者には全体として売却する土地だけ、所有面に比例して縮少した換地を行うのである。
このような資金に対する措置が予想されるので、最初の耕地の区画整理における換地の際、将来の予想をしないで換地をすると、本格的に都市化してきた場合、特定の土地を売却して施設整備の費用に当てることが困難になる。かかる困難をさけるためには、最初の耕地の区画整理の際に、将来売却する予定地を定めておき、その土地の持分を公平にしておかなければならない。
以上検討した結果は、区画整理を強制的にやらせることと、最初から将来の都市化を予想して、それに対応する換地方法を強制することが必要であるということである。
j 背後地における建築の規制としては、都市計画や都市化すると予想しての区画整理計画の完成するまでは、強い制限を加え、計画に矛盾するものは許可してはならない。
計画が完成して後には、計画に矛盾しない限り、なるべく自由にすべきである。
k 建築物の構造に関しては、背後地は周囲をとりまく埋立地と海岸・河川堤防の組合せで安全が期せられるから、特別な耐高潮構造を強制する必要はないと思う。
もちろん、いかなる市域でも行われた方がよいと考えられる一般の都市計画の観点から見ての建築規制は別問題である。高潮は火災などと異り、内発的なものではなく、外部から襲来するものであるから、外郭施設が最も重要で、そこで護ることが最も経済的である。1 非埋立地は、過渡期間には一部は宅地化しているのに、一部は水田になっているため、全面的に都市化した場合のように排水条件を整備できない。宅地造成にはいくらかの土盛りが必要になり、不経済になる。
このような不均衡を除くには、地域内を多数のブロックに分け、都市化の進展に適応するように、ブロック毎に排水施設を整備し、整備したところは水田を中止し、順にそこの都市化を促進することができないであろうか。土地所有の関係から、困難が予想されるが、ある程度は可能であり、強制できる側面もあるのではないかと思う。すなわち、一方では強制し、他方では援助するというようなやり方である。
4 干拓計画と埋立計画との調整問題
同じ海面に干拓による農地造成と埋立による工場用地造成の両方の計画があり、どちらを選ぶべきかの問題である。この選択は、経済価値の比較と、実現の時期による比較からなされるだろう。
1)経済価値の比較
経済価値の比較は、收益の比較と雇傭量の比較に分けられるであろう。
a 收益の比較の一方法は、両方の計画が完成するまでの総投資額と、それによってえられる純收益の比率の大小によって判定すべきであろう。
もう一つの方は、土地そのものの收益(地代)の資本化としての土地価格の予想の比較による方法もあろう。
いずれにしても、臨海埋立地を必要とするような大工場では、農地よりも工場敷地にする方が経済価値は高いと考えられる。
b 雇傭量の増加の比較は、まず、国民経済全体としての雇傭量の増加の比較になろう、雇傭増加の波及的効果の問題である。一定面積に対する投資額の大きな方が、大体において雇傭増加は大きい。したがって、工業用地にする方が雇傭増加に役立つ。
c しかし、雇傭増加の問題は、地元にとってとくに切実である。近頃の大工場では、ほとんど地元民を履傭しない場合が少なくない。この点は誘致される工場の業種によって判断すべきである。予想される工場が地元民をあまり雇傭する見込みがなく、かつ、地元農漁民に農地に対する切実な要求がある場合には、一、二の条件では不利であっても、地元の要求を満すのが妥当な措置であろう。
d 予想される工場が地元民を雇傭しないとしても、その職員や工員の農漁産物に対する需要が大きいと考えられ、それによって地元農漁民の收益が大きいと考えられる場合には、一、二条件を考慮して、工場用地化する方を選んだ方がよい場合もあろう。
2)実現の時期による比較
干拓の実現が早く、工場用地となると予想される時期とに相当大きな時間的ズレのある場合には、初め農地として開発し、後に工場用地に転用することも考えなければならない。とくに近頃のように、市町村までが、工業地帯として発展の見込みの薄いところでも、地元の希望的観測で埋立計面を立案していることが多い事の下では、この比較は切実なものとなることもあろう。
a その計算は以下のごとくなろう。
干拓投資額をI_1とする。
干拓完成後の年々の経常投資に対する農産物の附加価値額をAとする。
n年後干拓地が埋立てられるものとする。
干拓地を埋立地に変える場合の埋立費をI_2とする。
海面から直接理立てる場合の埋立費をI_3とする。
干拓してn年後そこを埋立する方が有利になるためには
I_1+I_2-nA<I_3
でなければならない。
nの限界は
n=(I_1+I_2-I_3)/A
から求められる。
投資に対する利子を考える場合には、年利子率をiとして、次のごとくなろう。
数式:投資に対する利子
本式から求めればよい。
I_1は干拓工事費に漁業補償を加えたものである。
I_2は干拓地の埋立工事費と干拓地の買收価格に理立用土を取得するための漁業補償を加えたものである。
I_3は海面の埋立工事費と埋立地の漁業補償に、理立用土を取得するための漁業補償を加えたものである。
I_1、I_2、I_3、に対する漁業補償額には大きな差があるであろう。補償を行う水面の広さがそれぞれ異るばかりでなく、干拓における漁業補償の場合は、地元漁民が干拓地に入殖増反して土地を取得できるという魅力があるのに対し、I_2、I_3に対する漁業補償にはこれがなく、また干拓の場合には前面に洲がつくに従ってノリなどの收獲は回復するから、補償単価に大きな差が生ずる可能性がある。
I_2には土地の買收費が含まれるが、干拓地内の漁業補償は含まれない。I_3は土地の買收費は含まれないが、埋立地の漁業補償が含まれる。
Aを附加価値としたのは、干拓地への入殖による雇傭増を干拓の利益とみなす必要があるからである。
予想される埋立開始までの年数が上式で求められるn年に干拓工事期間を加えた年数より大きい場合には、計算の起年において干拓を開始する方を選ぶべきである。
d 干拓事業は国庫から助成をえて行われるものであるから、その起年を推定することは比較的容易である。
c 埋立事業の起年を推定することは。現状では甚だ困難であろう、なぜならば、工業の発展速度、工業立地条件の全国的視野からの優劣の検討、工場に対する誘致条件の優劣などにより、その地域が工場敷地となる時期の判断に大きな相違がでると考えられるからである。
したがって、国の工業立地に対する政策がはっきり打ち出されないかぎり、上記計算を行っても無意味である。ある海面を干拓すべきか埋立てるべきかを選択せんとする場合、問題は干拓にあるのではなく、埋立を実施する時期を確定できない点にあるものと思う。
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5 都市計画の問題
以上を総括的にみると、干拓地域を都市化する場合には、将来を見通しての、はっきりとした基本施設計画(埋立・海岸河川堤防・道路・排水・区画整理など)が確立していなければならず、これらの計画実現を強制し、かつ援助するための法制的措置が整備されなければならない。
干拓計画と埋立計画の選択調整については、だれをも納得させられる全国的規模での工業立地の順位が確立されなければならない。
基本施設計画に工業用水計画を含めなかったのは、水田地帯が都市化する場合には、水田用水の転用によって、ある程度間に合うこともあり、むしろ、別の角度から検討する方がよいと考えたからである。
干拓地域では地下水の水質が不良の場合が少なくないから飲料水については配慮する必要があるが、必要水量は少なく、大抵の場合、上水道計画を都市化の規制の条件に加える必要はないであろう。都市化が進行するに従って、計画を立てればよいであろう。
IX 伊勢湾台風災害対策における行政上の諸問題 小関紹夫
1 序説
2 問題点
1 序説
昭和34年9月26日、中部日本および近畿地方をおそった15号台風は、その与えた物的損害の規模の大きさとともに、5千名に上る多数の人命を損なったことによって、国または地方公共団体その他の公的機関の措置に手落ちがなかったかという、いわゆる人災論を惹起せしめていることにこれまでと違った意味をもつといえる。
もとより今次の台風の破壊力そのものがはるかに予測を超えたものであり、しかも各種の悪条件が重なり合った稀有のものであったにしても、この種の災害に対する警告がまったくなかったわけではなく、この警告に注意を払ったもの、または過去における経験の上に対策を行ったものの被害が比較的軽徴であったことは、今次台風の災害がまったく防ぎえなかったものでないことを証するものというべく、ここに人災論の根拠があるともいえよう。加うるに昭和31年4月にはすでに総理府資源調査会水害地形小委員会は「水害地形分類図」を作成して関係方面に配付しており、また、同調査会の普及広報団体である資源協会は同報告書を「水害地域開発上の基礎的研究」として発売、さらに同小委員会委員長多田教授は、同年6月雑誌「資源」に「水害は何故おこるか」の題の下に報告書の梗概を紹介している。また、行政管理庁は、昭和33年9月伊豆地方をおそった22号台風による災害の原因と対策について、静岡地方行政監察局が関係機関に対して行なった監察報告を昭和34年7月に発表し、さらに昭和33年8月から10月に亘って行なった東海北陸6県下の河川管理に対する監察(昭和34年1月発表)の経験に基づいて、名古屋管区行政監察局が昭和34年3月から愛知県との共同において行なった「愛知県における水防計画並に水防活動に関する実態調査結果報告書」を同年8月に発表している。
これらはいずれも部分的の面において注目すべき内容をもち、近来における出色のものである。しかし、果たしてこれらの注意・警告は台風の予防措置において十分にとり入れられたのであろうか、もしそうでないとすればその原因は何か、が究明されることが、今次のような災害を二度と繰り返さないための施策に多くの寄与をなすものであろう。
しかし、これらの報告書の分析批判は他の機会に譲り、ここではこれらの諸調査報告その他の刊行物にあらわれた諸家の意見を参考にして、当面の問題として取り上げらるべき諸点を指摘することに止めることとする。
2 問題点
i 伊勢湾台風災害対策の問題は、わが国における開発の基本構想との関連において考察せらるべきこと
今次伊勢湾台風災害は、わが国における複雑・不統制な開発政策およびそれらに基づく行政上の諸欠陥の上に拡大発生したものということができ、したがって、その原因および対策について簡単に断ずることは不可能である。いわんや不十分な資料に基づいて早急に未熟な結論を出すことは、いたずらに問題を混雑せしめるだけで、決して適切な対策を得る所以ではない。これは「臨時台風科学対策委員会」の中間報告においても述べられているように、今次の対策が原形復旧ではなく、改良復旧として企画され、かつ、わが国における同様条件の地域に対する模型的意義をもたらしめようとするかぎりにおいて、それは全国開発計画との関連の下に、現代の叡知を動員した強力な組織的調査・計画であるべきであり、さらにこれらの結果が国民に支持され協力される方途についても徹底的に考究される必要がある。
このために、かのアメリカ陸軍技術本部をして「308報告書」"308 report"として知られるアメリカ河川流域開発に関する最も完全にして包括的な調査をなさしめた1927年および1928年の「河川・港湾法」、引続いて経済的事情との調整を図ることを命じた1935年の「河川・港湾法」の制定過程、ならびに都市政策の基本をなした1909年のシカゴ都市計画書の成立過程、また河川流域開発計画の経済的分析を行なって実施決定に大きな寄与をなした「連邦機関間河川流域委員会」の「利益と経費に関する小委員会」の報告書(いわゆる「緑の書」The Green Book)の作成過程が学ばれてよいであろう。
「天災か人災かの対決を私達にせまっている。この対決はなお、こんご被災者と被災地がどのようにたち直って行くか、というところに焦点を合わせて、決定しなくてはならない問題でもあろう。そしてそれは社会科学者・社会経済学者が対決せねばならぬ課題である。しかしその正しい解決は、自然科学者・科学技術者の協力なしにはとうてい望めないこともまた事実である」(資源、1959、12月号)と、東京農大の小出博教授が述べていることは、単にいわゆる批判的な意見ではなく、広い層における国民の考え方でもあるといえよう。今次災害発生に関連し、わが国における完備した総合開発計画のないことによる理論と実際における破綻が、具体的に明らかにされねば、人災の原因の絶無は期し難いであろう。しかし、このような具体的地域の間題が解決されずして、開発全体の課題が解明されうるわけではない。いわば、この伊勢湾台風災害対策における諸問題は、まさしくわが国における開発問題の前駆をなすものといえよう。
この意味において一元的な伊勢湾台風災害対策を確立することは、わが国における開発全体計画の策定と実施に対する体系的近接の一歩であって、その意義はきわめて大きなものがあるといわねばならない。それだけに困難な要素を有しているともいえようが、それは結局突破されねばならない壁である。
この意味において、以下に指摘する事項は、伊勢湾台風災害対策に対する示唆であるとともにわが国における開発政策および行政上の根本問題の指摘でもあるといえよう。
ii 現在のわが国が必要とする国土開発に関する根本理念を明確にするとともに、諸機関のもつ達成目標および実施方法について、総合調整に当る機能および機構を速かに整備強化すること
これまでわが国における国土開発に関する政策は、いろいろの原因はあるが、不幸にも常にその場的のもので、しかも中途半端に終わり、一貫した理念の下に完成されたことがないという悲劇の歴史に立っている。もとより、社会経済の時代的変化は、それらの理念と方法の変更を必然的に要求するもので、政策の固定化は避けられねばならないが、統一した理念と成果についての十分な検討の上に立てられた全体計画がないところにわが国の開発の後進性がある。いまこそわが国はこれらの整備確立に力を致すべきであろう。
このような基本的な立場から、国土総合開発法およびこれに基づく行政のあり方について、国家的規模における委員会により組織的な検討がなされるとともに、これの効果的な実施を促進するための強力な措置が具体的にとられねばならない。
そもそも、経済的社会的地域格差のはなはだしいわが国における国土開発は、地域によっておのずから性格・方法において異なるものがなければならない。したがって、これらの地域開発が最も大きな効果をあげうるためには基本的な理念と計画に沿うと同時に、それらの地域の社会的経済的条件に適合した考え方と方法がとられねばならないのである。その意味において今次の災害地域はわが国における地域開発上きわめで複雑な諸要素を包含している模型地域であり、わが国における代表的な場の一つであるといえる。しかも、災害対策という困難な要素が加わっているところに大きな課題があるといえる。
さらに、わが国の実情は、治山治水等の域において農林・建設・運輸・通産の各省およびその出先機関、これに加うるに災害対策において厚生・警察の関係面があり、これらの省庁による所管が縦割りに、より厳重に系列化されていて、その間の調整連絡が十分でない。この関係はこれらの指揮をうける地方公共団体においても見られ、行政の効果を著しく阻害している事実が指摘できる。このような事実は、各省の事業予算における積算の基礎の不統一、工法の差異等となってあらわれ、重大な欠陥を露呈していることは注目さるべきであろう。たとえば、海岸堤防と干拓提防における所管の違いが、同じ湾内にありながら同一工法・同一単価による施工を不能ならしめていた事実はその適例の一つで、これらを総合調整する強力な機関が望まれているのは看過さるべきではない。
さきにアメリカにおいても類似の現象があり、これを克服するための措置として第一次フーヴァー委員会が内務省の改組を勧告し、3人の委員が関係部局を包含する新しい天然資源省の設置を提言した過程、また、陸・海・空の3軍事省を調整するための国防総省が設置せられた経過、さらに第二次フーヴァー委員会が水資源開発政策の審議・調整のために、大統領事務局内に関係閣僚5人からなる水資源委員会Water Resources Boardを設置すること、ならびに主要な河川流域における計画の樹立および調整のために、連邦・州および民間の利益を代表するものをもって構成する河川流域委員会River-Basin Commissionを設置することを勧告した事情は顧みられてよい。
とくにアメリカの予算局やイギリスの大蔵省のような強力な行政調整機構をもたないわが国においては、これらの業務が一元的に考案された計画において効果的に運営されうるよう経済企画庁の機能を整備強化するか、またはこのような業務を統合して省を新たに設けるか、あるいは強力な省間委員会を設置するか等、関係機能と機構の整備について促進する必要があろう。
iii 開発ならびに災害救助関係法令の整備・統整を図ること
いまや国土開発事業の計画および実施については、従来の方法に代って新しい理念による措置が要求せられるに至っている。災害対策関係法令をも含め、開発関係法令の整備に対する要望が強く各方面に起っているのは当然であり、ことに災書応急関係において災害基本法の制定が議会において論ぜられていることは注目すべきであろう。ここにおいて開発行政上大きな阻害となっている明治29年制定の河川法をはじめ、既に社会的機能の発揮に問題を生じている関係法令の近代化が図らるべきである。とくに河川・道路その他の公共用物の維持管理に関する事項については、その財政措置とともにその実効を期するための法的改正が行われねばならない。この点イギリスにおける1947年から1954年に亘る都市・農村計画法Town and Country Planning Actの発展の過程は示唆するところに大きいものがあるであろう。これは現に内閣法制局長官林修三氏自ら認めているところである。(ジュリスト1957.12.15)
iv 中央と地方との関係を行政機構および機能の面からのみならず財源の面から再調整を行なうべきこと
占領行政によって強制的に移殖をされた異質の国土に育ったアメリカ的地方行政体系を日本的に成長せしめることについて、根本的な立場から検討を加える必要がある。もとより、これは制度・機能の面からのみならず、地域経済開発の直接担当者としての地方公共団体の権限と責任についてこれを明定するとともに、その財政的基盤を確立するという立場からなさるべきである。このため、現行税制はもとより、事業補助金制度を改善し、中央の計画指導の方法ならびに地方の地域社会運営の基本原理の確立を図るべきである。ことに緊急状態における防災体制および指揮権等についてその組織関係を明確にする必要がある。
v 計画調査面と実施面との協力体制を確立すること
次に指摘されるのは、開発行政関係において計画調査面と実施面との間の連絡協働体制が不十分であるという事実である。
開発事業(防災をも含め)の面には、他の行政面と較べその性質上多くの技術者が従事しており、かつ中央との縦の系列が強く、横の関係すなわち他の省庁の所管機構との連絡調整が十分に図られていない。はなはだしいのは、同一省庁に属するものの間においてすらその弊がみられる。
今回の災害発生においても、技術者はとかく施行を重視しがちで、その事業全体の運営管理、ことに災害対策等については意を用いることが少ないという行政管理上重要な問題が提起されていることは注目すべきである。技術者を管理者として訓練することの必要が最近各国における課題の一つとなってきている事実にかんがみても、こればひとりわが国の問題ばかりではないのであるが、はしなくも今次災害の発生においてその必要が強く要請せられるに至ったことは特記せらるべきことがらである。
開発事業が単なる技術面を超えた科学の総合を必要とするものである以上、人的結合の面でもあらゆる要素の協働体制を整えることは不可欠の要件であろう。
vi 現行予算を検討し、開発および対策が効果的に遂行されうるようその改善を図ること
政策決定に対する集中的審議および調整の重要性についてはとくに説くまでもない。昭和35年度予算において国土保全および災害復旧対策として一般・特別の両会計を合わせ1,184億に上る巨額の経費が計上されているだけに、これらの経費の有効適切な使われ方に一段の検討が加えられる必要がある。事業達成に大きな役割をもつ会計手続については、なお多くの改善の余地を有しているのがわが国の現状であり、しかもこれらの改善に対して政府は必ずしも意欲的であるとはいえない。「後進国の特徴の一つは、会計支出の貴任追及に主眼がおかれて、煩わしい会計制度によってはなはだしく運営能率が阻害されていることにある」とアメリカのパークヘッド教授が、行政事務の能率化と予算会計制度との関連の大きいことを指摘していることは、この際強く顧みられるべきであろう。
会計制度は犯罪を防ぐことが唯一の役割ではなく、行政部および議会に対して管理状況を明らかにし、かつ計画の審議または承認が適切に行われるための情報源として、あるいは議会統制または行政部における内部統制の手段としての管理機能が発揮されるように改善されねばならない。これは中央およびその出先の機関に対してのみならず、地方公共団体についてもいいうることである。
もとよりこれらの制度改革は、これらの改革をささえる公務員の行政技術とモラールが高いことを要件とする行政水準の問題があり、必ずしも一朝一タに達成が期しえられうるものではないが、こんごにおける重要課題の一つである。
昭和35年度予算においては国土保全および災害復旧が最重要の施策として取りあげられ、前記巨額の経費の計上とともに、「治水特別会計」が設けられ、国有林野事業特別会計に「治山勘定」が設定されることになっているが、先進諸国に較べればなお運営機能の面において著しく劣っている。アメリカにおいて採用されている事業別予算制が効果的な事業計画の決定機能ならびに管理的機能に果たしている役割について理解を深めるとともに、現行予算会計制度の改善に努力すべきであろう。
vii 災害発生に対する公務員の行政管理的および法的責任の所在を明らかにして賞罰を励行し、いわゆる人災の絶無を期すべきである
今回の台風災害について、人災によることの面が指摘されている。もし、人災による場合があるとすれば、関係公務員の行政管理上の責任はもとより、法的責任が明確にされ、賞罰励行のことが論ぜられていることは注目すべきである。
伊勢湾台風による水没地帯の被災者が「台風の被害は国家が護岸堤防の管理を怠ったためであるから慰籍料を支払うべきである」として、名古屋地裁に対し国家賠償法第2条第1項に基づき国を相手方とする損害賠償請求訴訟を提起し、同じく水没地帯の被災者が国に対し海岸法第14条に基づき海岸堤防の完全な設備を施行すべき請求訴訟を提起し、また、東京都亀有署が伊勢湾台風により同都内葛飾区小管町793番地先綾瀬川の木製水門が流出し、1,348世帯を水浸しにした責任を追及して、水門の改修工事に当った区役所史員3名を過失溢水罪の嫌疑で書類送検した事件は単なる話題に終ってはなるまい。「どのように事件が結着するにせよ、災害後の法による社会秩序維持の問題が、従来と異った新しい角度から批判されるべきものとして、恰好の素材となるものであろう」(ジュリスト、前掲号)という谷口正孝名古屋高裁判事の見解は多くの国民の賛同をうるものであろう。
viii 防災および災害応急に対し強力にして機動的な出動が可能のように、地域的防災または災害発生に対する応急体制の整備確立を図ること
今次災害において多くの人命が損われた原因の一つは、強力にして機動力のある防災または災害応急に対する組織体制が確立されていなかったことである。水防団はあったが強力な組織ではなく、また消防団・警防団などは機動的に動いてはいない。気象予防警報の伝達連絡が人命救助のための事前措置に万全の働きをなしえたかどうかについては疑問がある。要するにバラバラで、一切の力を防災あるいは救助に動員できなかった現行体制について、法律制度および運営機能の面から徹底的の検討を加える必要がある。昭和33年の伊豆狩野川の災害経験と行政管理庁の勧告によって静岡県は警察を主体とした防災組織の強化を行ったことが報ぜられているが、これらの過程は他府県における措置の模型としてとりあげられてはいない。愛知県のみならず一般に現実に災害を受けるまでは殆んどこれらの対策に関心が示されていないといえる。これらの事実にかんがみても、行政監察結果の実効を確保する方法の明定が必要で、これに関する行政管理庁の権限と責任が検討さるべきであろう。
また、法令が完全に履行されなかったことによる災害の増大が明らかにされている。法令の執行状況を監察し、その完全履行を確保する組織方法において現行体制はなお多くの改善すべき点を有している。とくに人命の確保に関する体制の強化については新たな法的措置が考慮せられてよい。国民の生命を軽んじて福祉政策が成り立つわけがない。今回の災害は基盤の薄い、ややもすれば形式的になりがちなわが国の福祉理念に対する警策であるとなしえよう。
ix 国土開発計画に従事する者の教育訓練施設を設置すること
以上、わが国の国土開発の現状は先進諸国の発展過程が示すとおり、ようやく専門職員の養成を必要とする段階に至っていることが明瞭である。ここで必要とするものは、広汎な近代科学の総合知識であり、同時に有能な行政者であることである。これは公務員のモラールの問題とも関連し、一貫した体系のもとに教育訓練を行なうことの必要性と意義を示すものである。これはまた国民の協力を求めることに対する最も効果的な方法でもありうる。
この点に関し、1945年シカゴ市との協力において設定されたシカゴ大学における都市計画者養成計画Chicago Planning Programの構想は、多くの示唆を与えるものがあるであろう。
X 災害と地方財政 加藤芳太郎
1 災害の地方財政に及ぼす影響の性格
2 影響の実態と問題点
1)歳出に与える影響と問題点
2)歳入に与える影響と間題点
3 あとがき
1 災害の地方財政に及ぼす影響の性格
伊勢湾台風のもたらした災害が、その後被災各地方団体の財政にどのような影響を与えているであろうか、ということを明らかにする目的をもって、筆者は実態調査を行った。
各地方財政に与えている影響というものはつぎの2点にわけて考えられる。第一は、昭和34年度予算の執行中に与えた影響である。第二は、35年度以降の財政計画に長期にわたって与える影響である。
第一の点についていえば、差し当って必要な緊急の応急的災害諸対策を実施したため、各地方団体は、予算規模の急激な膨張を数次にわたる予算の追加更正を通じて、結果した。この予算膨張率は、下級地方団体において、とくに著しいものがある。相対的に富裕と思われる県市ですら、かなりを起債と交付税に期待しつつも、なお、34年度決算見込において赤字を予想しなければならない状況である。まして予算規模を数倍に膨張せしめた町村においては、35年度以降においても巨額の赤字はまぬがれない。
第二の点、すなわち、35年度以降の長期的見通しについていえば、いまだはっきりした計量的把握が不可能な状態にある。とくに下級地方団体においては、過去の資料はもとより喪失し、現在、35年度予算を例年のペースによって編成に着手しているものは、殆んどないといってよい。したがって、将来の復興計画も長期的財政計画も、それらの第一歩である35年度予算も、まったく手がつけられていないのが現状である。ただ、地方団体においては、さし当り必要な諸事業を中心に、35年度当初予算を編成して査定中であり、これもいまだ確定していなかった。以上のような現状であれば、伊勢湾台風災害の地方財政に及ぼす影響を確定するには、なお相当の日時を必要とする。むしろ、中心は今後の推移とその調査にまつべきものであろう。
しかしながら、そのような限界内においてもなお注意すべき諸点があるので、以下において整理しておきたいと思う。
ひとくちに、災害の地方財政に及ぼす影響といっても、県や市と町村では、かなりの相異がみられるということである。また当然ではあるが、県や市といっても、地方財政の基礎である経済構造とその成長率、および財政力にかなりの相異がみられる。逆にいえば、国の施策や今後の調査等においても、以上の差を災害対策上反映せしめる注意と措置が必要である。各地方団体は上級と下級、さらに相対的に富裕か質困かによって、すべての処置に差がみられる。災害復旧計画策定の進捗度、さし当っての対策事業費、将来の長期的財政計画の見通し等々に、その差が具体的に現われている。県段階における地方財政においては、なんといっても行政区域が広く、経済構造も多元的であるために、災害地と非災害地および被災産業と非被災産業間のアンバランスを、当該財政の收支両面にわたって期待できる。その再分配上の効果によって解消しうるものである。同じようなことは市財政についてもいえる。とくに市財政の基礎には、成長率の高い都市的諸産業がひかえているために、農村地帯をより多くかかえでいる県の財政よりも、かえって災害による負担をより早期に解消しうるであろう。これに反して町村財政においては、その経済構造が第一次産業に偏しかつ単純でもあり、加えて加害が全行政区域に及んでいるために、財政における再分配効果をまったく期待できない。さらに財政能力も少くないので、災害の与える財政負担の実質は、かなり重いものとなろう。
つぎに大きな問題として、復興計画の間題がある。復興計画はできるだけ早く、具体的な計量化をはかる必要がある。災害および関連諸事業の事業費の算定のみではなく、財政当局と調整し、財源上の長期的計画をも策定しておかないと、将来の当該地方団体の財政計画はもちろん、復興計画が既成事実の前にバラバラになる恐れがあるからである。現在では、国・県・市がさし当っての応急的必要から、おのおの独自に事業を計画し着手している。今後これら諸事業が事業主体ごとに、かなり進捗度の差をみせるようになるであろう。この間、再度被災がなければ幸いである。さらに各地方団体では、補助金の決定したものから、順次、各事業担当課ごとにバラバラに事業に着手しはじめている。財政担当部課では、災害による将来の財政負担、および自主財源率の見通しから、相当長期の赤字的要因を看取して、高率の災害補助事業を受動的に歓迎し、予算上の優先を与えていく傾向がある。災害復旧の緊急性は大切な判断の基準であるが、これらの組み合せ、将来の基本構図をまったく考慮しないでいい理由はどこにもない。現実にはこれらの応急的諸処置によって、既成事実がつみ重ねられつつある。国費および県費・市費の効率的使用と、確実な防災的諸処置の組み合せのためにも、できるだけ早く具体的な復興計画を策定する必要がある。目下は場当り的な予算編成に追われており、復興計画の策定は進んでいない。当分の間完全な計画が完成されえないものであれば、せめて大づかみな青写真は用意しておく必要がある。このばあい将来の修正と単年度ごとの財成計画の具体化のために、ある程度の選択的な予算を算定して巾をもたせておく必要がある。被災地方団体のばあい、自己財源率が低下していくから、2年次以降の交付税と起債に依存する割合を考慮に入れるべきであるからである。復興基本計画策定といっても、県と市ではかなり進捗度に相異があり、またある市などはこの計画策定の試みすらなく、日々の財政運営に追われている。町村段階になれば、本来不可能なものである。とくに町村のばあい、県の積極的な援助が望まれる。以上の処置を早くしないと、今後の財政運営をますます苦しくするばかりである。
2 影響の実態と問題点
1)歳出に与える影響と問題点
前にも述べた通り、より下級地方団体であればあるほど、災害の地方財政に与えた影響はまったく壊滅的なものである。災害関係予算増による財政規模の増大比率は、町村財政において最もいちぢるしく、計量化しうる自己負担部分、および「かくれたる経費」の増大の比率も、また最大である。それだけ自己財源は食い込まれる。弥富町はやや良好であるが、十四山・飛島・木曽岬・長島等の各村においては、従来より時おり学校の新築による投資的経費がみられる程度で、事業らしい事業も少ない。学校の建築すら町村合併時の約束によるものである。農家経営は必ずしも貧困とはいえぬクラスにあると思われるが、地方財政は富裕ではない。今回の被害額からいって、相当長期間、立ち直りは不可能であると思われる。
災害による歳出増しの見通しは、未だ応急的試算程度の域を脱していない。県ですら正確な数字が見積りがたい。愛知県ではある程度の計量把握を完成しているが、なお今後の変動は不可避である。三重県などは各課よりの数字が出るかどうか、かなり疑問に思える。名古屋市と桑名市の間にもかなり差がみえる。当然といえば当然であろうが、それ以前に行政制度と機構の性格の差によるものと思われる。町村財政においては、資料も人手もなく、また執務の場所に事欠く現状では、県の積極的指導が必要である。とくに積算基礎、将来の支出計画の策定方式について、援助し、ある程度の見通しを、せめて概念的にも当該町村に与えておく必要がある。この点、三重県北勢災害復興事務局の努力を買いたい。
災害救助法による救助費の清算事務が目下行われているのであるが、細部の規則について根本的に考慮する必要がある。たとえば桑名市のばあい、経常の予算規模は4億6~7千万円程度であるが、被災後予算は膨張して、本年2月現在、8億を越している。市当局試算の今回の災害復旧総事業費のうち、一般財源の持ち出しは874万円弱である。この長期にわたる持出し分の約1/4、200万円が、災害救助費の清算事務費として、別個に計上している。もって清算事務の地方財政に与える影響がわかる。
その他、被災地方団体においては各種事務量が急増している。連絡と調整のための書類作成および出張、これら費用増大の大半の責任は、諸報告を求めまたは連絡を求める上級官庁の側にある。この費用も町村財政において馬鹿にならない。改善と費用カバーの方策が考えられる必要がある。公共施設の維持補修費の重要さはいうまでもない。財政当局が補修費にも重要度をおく制度を、交付金・補助金政策をつうじて、地方財政に確立すべきである。とくに今回の二番手、三番手の提防の問題は、第一に公有地の払下げ、第二に維持補修責任の不明確さによるものである。国の財政方針としても、はっきりした態度をとるべきである。
今回の災害は各地方団体に、長期かつ重大な財政負担を負わしたのであるが、従来策定されてきた総合開発計画なり都市建設計画なりが、この重い財政負担のために中断もしくは軽視されはしないかという心配がある。当該地方団体の財政部員は、その見解にかなり徴妙なニュアンスの相異をみせた。その財政の基礎である私的経済部門の構成と成長力の相異によるものと思われる。今回の災害の教訓および調査の結果に基づき、今後かなり従来の諸計画の変更が考えられよう。防災の点から根本的に再検討して、むしろ積極的に従来の基本計画の達成に努力すべきであり、自治庁も当該地方団体を、消極的に赤字解消にのみ追いやる必要はないであろう。成長力の高い県・市にあっては、この際、抜本的な建設計画を推進できるような処置が必要であり、起債必ずしも押えて事後の財政運営を消極化することも必要ではないであろう。反対に経済力財政力の相対的に貧しい県や市においては、地方団体の希望はともかく、基本的復興計画を遂行していく可能性がかなり薄いと考えられる。当該地方団体の財政部課は、過去の緊縮縮少の予算規模と編成に性格づけられており、それのみが財政政策の基本と考え勝ちである。自治庁もまた過去において、そのような基本の方針であった。この県内外からする圧力のもとで、従来の計画も含めた抜本的復興計画の実施が可能であるためには、県自体の機構と国の政策について、この際、考え方を再考慮する必要がある。予算がなかったからという理由で、再び災害をうけることのないようにしたい。こういう県のばあい、起債よりも交付税により、多くを処置する方策がのぞましいのはもちろんであるが、毎度いわれるように、経済成長率およびその変動率を加味した災害補正を交付税に考慮する必要がある。いずれにせよ、財政運営の消極さから、きわめて安易な弥縫策に終らないような考慮が必要なのである。
2)歳入に与える影響と問題点
地方税の減免等により、全体的な收入減は当然であるが、このばあいにも、県・市・町村および、その各々の間の経済力の相異によって、当該財政におよぼす影響はまったくちがう。一般的好況の影響の最もつよい部門をかかえ、かつ集中している名古屋市のばあいと、愛知県全体で考えたばあいとを比較してもわかる。前者においては税收の災害による減免分を自然増收によって十分カバーしつつ、なお前年度より上廻ることも考えられているが、後者にあってはほぼ前年なみという推算に落ちつくほどの相異が当然あらわれる。町村財政にあってはまったく反対に、壊滅的というべきであって、34年度のみでなく、かなり長期にわたり立ち直りは至難であろう。もちろん、この点の見通しは国や県の災害復旧事業の進捗度と相関的であって、国や県の節約主義は、かえって何時までも地方団体の歳入の立ち直りをおくらせ、赤字要因を地方団体に押しつけることとなろう。国の予算の節約は、実は節約ではなくて、単に負担を地方団体にシワ寄せしているにすぎないのである。
35年度予算としても、一応町村においては町村税を見込みたいところであろうが、果してどうであろうか。国や県の諸事業に伴い、直接間接に一般財源の増加要因が発生してくるわけであるが、そのためにのみ形式上町村税を見込むということに疑問がある。そうせざるを得ない国の財政政策と予算制度に疑いをもつ。さらに被災者の減免以外、当該町村の諸税の徴收歩合は低下するであろう。35年度以降の徴收歩合は当分、従前には回復しないであろう。この点の正確さが町村財政のばあい、案外将来の負担となることが予想されるのである。県の積極的な技術援助がのぞまれる。歳入欠陥債の計算についてのみでなく、歳入としての町村税の確実な積算と見通しのための助力が将来も必要である。
支出が増加する一方で、收入が当分滅少したままであるとすれば、問題は、交付税と起債によって穴をうめる以外途はないところに生ずる。公債は充当率が高くとも、将来の負担であることに変りはない。交付税に期待されるところが大きいのは当然である。とくに県市よりも、町村財政に対しては、交付税を対策の中心におくべきである。交付税について第一に問題になるのは、交付にあたって重視されるのが初年度のみであって、年を経るにしたがい当初の災害の甚大さと長期にわたる地方財政への影響とが、ともすれば軽視され勝ちとなることである。結局、町村は被害損ということになりかねない。第二には、歳入の見込み計算が国の立場で机上の計算であり、かつ静態的であることである。町村税などは殆んど回復と伸びを、今後の災害復旧事業のテンポに依存している。基準財政收入をこの後数カ年にわたり計算していくばあいには、この点の諸事業の進捗率と相関的に動態的に補正する必要がある。運営上の問題としては、とくに早期に決定交付される必要がある。
つぎに起債の問題がある。交付税が決定されれば、赤字の大きさは、災害公共事業のための起債の充当率如何に左右される。充当率が低ければ、単に他の起債が多くなるだけであるが、財政負担に格段の相異があらわれる。論理からいっても、災害(公共および単独)と災害関連事業分は、今回の場合とくに財政力をも考慮して、一そうの充当率の上昇が必要であり、税の減免等に主たる原因をもつ歳入欠陥と実質赤字は、それのみを対象とする起債をもってするのが建て前である。さらに起債の許可はできうるかぎり早期にする必要である。
つぎに補助金の問題がある。公共施設の災害復旧は高率であるので、自己財源部分の見通しから返上した例はない。ただ農村関係のように受益者分担金の見通し如何によっては、今回の災害のようなばあい、問題が生ずる恐れがある。また補助額の査定と交付を早期に行う必要がある。とくに3カ年にわたり3・5・2の割合で一率に補助しなければならぬ理由はない。被害と当該財政規模に応じ、相当程度第一年、二年次に集中したらどうであろうか。とくに町村財政のばあい、この集中度を高める必要がある。もっとも地方財政に悪影響を及ぼすのは、当初の計画とことなり、3カ年の補助が、さらに補助額を細分して7カ年位にまで先に延期されることである。公共災害で9割の補助が仮にあったとしても、3カ年以上に細分されて交付されるならば、その間の金利負担を計算に入れると実質3削を滅じ、当初で6割の補助にしかならぬというのが通説となっている。改善措置が取られないと、地方財政負担は実質負担を増すのである。
つぎに国または県の諸事業に伴う地元負担金の問題がある。将来長期にわたり再起困難と推定される町村財政にあっては、全額究除か減額の方法がとれないものであろうか。また諸種の関連または単独事業分について、当該部落または地域から寄付金を予定するということは、その町村財政にとって将来の財政運営に禍根を残すばかりであろう。各地方団体の諸事業の見込財源としても、かなり問題がある。
最後に一時借入金について注意を喚起しておきたい。交付税・起債・補助金等の決定・交付の遅延のために、本来一会計年度中における一時借入金としての資金操作の制度が、むしろ多年度にわたる財政上の実質的な負担となっているのが事実の姿なのである。とくに町村財政においては、一ペんに巨大な財政規模にふくれ上り、それだけですでに資金操作の困難におち入り勝ちなのであるから、前記依存財源のおくれによって齎さられる当政財政における実質負担の割合は、財政規模からいって相対的に極めて高くなっているといわなければならぬ。たんに資金操作上の負担という程度ではまったくない。ところが政府資金はあくまで一時借入の建て前であるから、3回以上の借替えは許可しない。したがって、市町村にあっては、政府資金を再び借入れられるまでは、銀行・農協その他からのつなぎ融資に依存する以外に術はない。一時借入金が巨額であればあるほど、何らかの処置が考慮されなくてはならない。該当町村の私的経済部門の立ち直りを早期に期待するためには、他方、依存財源等の県込みにより復旧事業を行わざるを得ないのが地方財政の現状である。交付税・補助金・起債の決定と交付のおくれの結果もたらされる一時借入金の利子負担は、国の責任である。かりに地方団体に一時負担させておいても、当該地方団体の財政と経済とに再び生産性を回復せしめるための生産的利子と看做すべきである。
民間経済力の早期の立ち直りだけが、当該町村財政の税その他諸收入に明るい展望を与えうるものであり、また前記諸公債や実質赤字を解消しうるものである。そうであれば一時借入金の利子負担は、事後的にもせよ、交付税の基準財政需要算定上あるいはその他の方策によって、かなり重要視して算定もしくは処置する必要があるであろう。
3 あとがき
要するに、歳出入の両面にわって、早期に種々の抜本的対策のとられぬかぎり、とくに町村財政は長期にわたり立ち直ることは不可能であると考える。現在は復旧事業の緊急性におされて、とも角、急場しのぎの財政運営をみせているのであるが、災害の影響は、むしろこの後の2年目3年目の地方財政に、はっきりと厳しい重い負担となって現われてくるであろう。
現在の財政運営をよく注視して、困難な将来を見通し、その困難を最少ならしめる方途を見出し、国や県、市町村の財政力の効率的な運用を計っていくべきである。とくに国の災害地の財政運営についての基本的考え方に注目していたい。