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伊勢湾台風記録写真集

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写真 表通りはクレーン車で取片付けているが、裏通りは流木でうまつている。南区白水町にて……(中部日本新聞社提供)
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写真 水は、忌わしい17日前と少しも変らない。今日も海水がわが物顔にさざ波を立てている。港区南陽町茶屋町にて……(中部日本新聞社提供)
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写真 ㊤四十日過ぎた後も、今なお水中に孤立する農家。……海部郡飛島村地内
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写真 ㊦肩までつかる浸水地帯を、食糧を受取り筏に乗つてわが家へ帰る被災者。港区南陽町春日野にて(㊤㊦中部日本新聞社提供)
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写真 ㊤名港、9号地と柴田町を結ぶ潮止めも無惨に破壊され名古屋市南部の被害を大きくした。……柴田町から西方潮見町を見る
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写真 ㊦ラワン材がうまつたままで復旧の見込みがつかぬ臨港線。……港区8号地にて(㊤㊦中部日本新聞社提供)
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写真 ㊤リヤカーに家財道具を積込み干潮時を利用して避難する人々。港区西稲永町……(中部日本新聞社提供)
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写真 ㊦この家を壊した流木は、無表情に居すわりを続けている。南区元柴田西町……(中部日本新聞社提供)
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写真 ㊤洪水で線路上散らばつた木材や家具。港区港新橋……(中部日本新聞社提供)
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写真 ■■■自衛隊員がボートで流木を片付けて■■■……(中部日本新聞社提供)
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写真 ㊤見よ!この惨状。市南部一帯に流混した木材群。
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写真 ㊦ラワン材が打上げられ埋つた家南区船見町附近……(中部日本新聞社提供)
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写真 ㊤屋根の上にあつた木材を捲上げチエーンで取はずす作業……(朝日新聞社提供)
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写真 ㊦流木集材作業に活躍する藤木海運機動隊白水地区(名占屋港木材倉庫提供)
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写真 故 加藤周太郎氏 前名古屋木材KK社長■流木対策本部顧問
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写真 鈴木達次郎氏 材摠木材KK社長 元流木対策本部顧問
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写真 斎田清喜氏 瑞穂製函KK社長 元流木対策本部長
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写真 杉山定吉氏 八宝製材KK社長 元流木対策本部副本部長
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写真 上地 武氏 上地木材KK社長 元流木対策本部副本部長
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写真 中村国一氏 中村合板KK社長 元流木対策本部副本部長
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写真 河野保徳氏 ■■木材工業KK社長 元流木対策本部総務委員長
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写真 加藤六美氏 三井物産KK名古屋支店長代理 元流木対策本部経理委員長
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写真 米田幸雄氏 三菱商事KK名古屋支店木材課長 元流木対策本部認定委員長
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写真 今井軍一氏 昭■合板制作所社長 元流木対策本部陸上委員長
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写真 袖山政則氏 協和材木商事KK社長 元流木対策本部水上委員長
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写真 伊藤清蔵氏 藤木海運KK社長
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写真 林 熊蔵氏 名古屋港木材倉庫KK社長
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写真 成田 善助氏 名港運輸KK社長
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写真 野間勘一郎氏 名古屋筏企業組合理事長
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写真 中村亀次郎氏 KK千年組社長
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写真 野間美治氏 名古屋港筏KK社長

序 山崎 斎(前林野庁長官)「伊勢湾台風流木集材の記録」刊行に寄せて

 想えば昭和34年9月26日の台風15号は我々に自然の猛威をまざまざとみせつけたばかりか、我が国台風史上に未曽有の流木による惨禍等記録的な災害をもたらしました。
 この流木は真に悪魔の爪跡と申すに相応しい暴状を呈し、人家等の破壊はもとより尊い命を多数奪つたばかりか、実に100万石を上廻る流木集材活動は我が国港湾木材業界にとつて空前絶後の大事業であつたのであります。
 災害発生以来、終始流木処理活動に昼夜を分たず挺身し、見事完遂された名古屋流木対策本部をはじめ関係各方面の御努力には深甚なる敬意を捧げるものでありますが、今後は総合的科学的な対策を樹立することの緊要なことを痛感致します。
 業界にあつては、これが契機となり港湾貯木施設の抜本的な整備、強化につき積極的な活動が開始され関係方面の理解と協力を得て進展を見るに到つたことは誠に御同慶にたえない次第であります。
 終りに臨み、名古屋木材組合が、この流木対策につき編集委員会を組織し「伊勢湾台風流木集材の記録」が発刊されますことは同台風流木集材の貴重な体験を記録し、その尊い教訓を記念する上からも誠に有意義なことと御同慶に耐えない次第であります。
 又流木処理に際し御尽力いただいた故加藤周太郎氏の御功績は忘れることの出来ないものであります。

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写真 山崎 斎(前林野庁長官)
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山崎 斎(前林野庁長官)サイン

序 前名古屋営林局長 丸山幸一(前名古屋営林局長)

 四面楚歌の声のただなかに木材界は立たされてしまいました。
 私たちもあの台風のため経済的には空前の損害を受けながら、他面においては精神的にも流木で被災した地域の住民の激しい批難を甘受しなければならぬという物心両面の打撃を与えられたのでした。
 あの台風、昭和34年9月26日午後9時25分、名古屋気象台で最大風速45.7メートルを記録した伊勢湾台風は、室戸(昭9)枕崎(昭20)台風につぐ超大型のものであり、台風圏700キロのエネルギーと高潮による被害は前二者をしのぎ、台風史上空前のものといわれている。
 名古屋気象台は、市の東部丘陵地帯にあつて、上記の風速を記録したが、海岸に近い福江と尾張平野の東北部に位する小牧では60メートルの観測限度を越えた風速を示した。また瞬間風速60メートルに堪えるよう設計されていた送電鉄塔が、木曽川河口などでバタバタと倒れ、中には63メートルを記録した風速計が倒れていたのもありました。これらを総合してみると、伊勢湾附近の上空では、60メートル以上の烈風が吹きすさんでいたようであります。
 高潮は各古屋港の検潮儀が、午後9時35分に最高潮位3・89メートル(東京湾中等潮位基準)を記録しており、港湾工事基準によると5・30メートルの高潮ということになつております。これが台風によつて激浪となり、おそらく3~4メートルの高さとなつた様であるから、浪の山は7メートル以上に達したものと思われます。堤防が5メートルの場合には、その上を2メートル以上の潮が越えたことになります。
 こうして海岸と河口附近の堤防がズタタに破壊され、停電で暗黒となつた街や村に、激浪が小山の如く襲いかかり、アツという間に、幾万の人々を呑みこんでしまい、そして5000に近い人命を奪い、名古屋市南部と伊勢湾北部の広大な農村地帯が、長期間、水没冠水するという未曽有の惨害を引き起こしました。
 このような台風でわれわれの貯木場に対する常識的な対策は吹つ飛んでしまいました。
 そのため97万石の木材が一部は伊勢湾へ、大部分が陸地へ押し流され、それがために我々は上述のごとき物心両面の苦難にぶち当つたのであります。
 幸いにしてこの97万石の流材は関係当局の応援と。就中港湾荷役運輸業界の不眠不休の努力によつて100パーセントが回収に成功しましたし、また流木災害を保証せよという被災地住民の声に対しては有力者の斡旋によつて円満な諒解にもとづき見舞金を贈り、こゝに物心両面の苦労もついに報われるということになりました。
 さて、口上が長くなりましたが、あの災害に直面した時、私たちは何の手がかりもなくしやにむに災害復旧と流木取り片づけにぶつかつたわけでした。これ迄に災害も再三あつたのですが、その災害時の記録とデーターも何ひとつ無かつたのでした。
 この度の空前の流木災害の取りかたづけについて「後世のため役に立たねば幸いだが」という実録的なものを残すのが責めではないかと痛感されますが、この度、名古屋木材組合において「流木集材の記録」を刊行されることになりましたことは極めて意義深いものと考える次第であります。

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写真 丸山幸一(前名古屋営林局長)
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丸山幸一(前名古屋営林局長)サイン

発刊のことば 鈴木達次郎(名古屋木材組合長)

 過ぐる昭和34年の9月26日は、我々業界にとつて史上空前の最厄日と謂うべきで、吹くな暴風!降るな豪雨!と神懸けて祈つた効いもなく、予想通り真正面から東海地方を襲つた伊勢湾台風の恐るべき爪跡は、正に未曽有のもので文字通り深刻無惨の限りであつた。
 殊に予想外なる超高潮に依り、狂奔された貯木群の不可抗力的乱流禍は到底筆舌の能く尽し得るものではなかつた。
 依つ当業界に於ても早速幾多犠牲者の御冥福を謹而祈念すると共に、被災者の方々に対し心から御見舞を申上げた次第である。
 この凄惨極まりなく、然も社会的にも極めて緊迫した情勢下に於ける尨大なる流木集材処理の緊急且つ其の重大性に鑑み、当初「名古屋木材災害対策本部」の一部門として活動中の流材処理委員会の抜本的改編により、関係者を一丸とした「名古屋流木対策本部」を結成し、別格的新機構に依る最強度の非常体制を確立してこの焦眉の難局打解に対処することになつた。
 この最も緊急且つ慎重を要する集材処理事業は、特に全国的最大の関心事でもあり、災害対策事業中の最難事業でもあつたが、克く万難を排し半蔵余日を以て極めてスムースに之を完了し得られたことは、誠に特筆に値するものである。
 今回この世紀的事業の完了を記念して「伊勢湾台風流木集材誌」を刊行する運びとなつたことは「名古屋流木対策本部」として有終の美を飾ることであり、正に機宜に適したものと謂うべきであろう。
 本誌は流木の被害並に之が緊急集材処理状況等について詳録した貴重なる一綴の資料集でもあり、将又涙ぐましい努力と高価な支払いをすました総決算書でもある。
 俗に災害は忘れた頃にやつて来ると言われるが、寧ろ「我々は常に災害に狙われている」のであつて「備えあれば憂なし」即ち、天才が平素の努力に在るように天災も亦平素の心構えで災害を少くすることができる。
 若し幸いにして本誌が将来災害に対する頂門の一針ともなり、高価な教訓書としての使命の一端を果し得るならば洵に幸甚の至りである。
 終りに本誌刊行に当つて寄せられた関係官庁並に報道関係を始め、業界各位の懇篤なる御支援と編集委員等の深厚なる努力に対して茲に満腔の謝意を表する次第である。
 昭和36年9月

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写真 鈴木達次郎(名古屋木材組合長)
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鈴木達次郎(名古屋木材組合長)サイン

発刊のことば 斎田清喜(元流木対策本部長本誌編集委員長)

 いま思うだにゾツとする。
 それは私にとつて、永久に忘れることのできない、昭和34年9月26日の、午後9時25分を頂点とする、あの伊勢湾台風である。
 その時、わが名古屋地区は、未曽有の災害に見舞われて、死者、行方不明を合せて、約4600人。全壊と流失家屋は、計36000戸の多きに達する、史上最大ともいうべき、尨大な被害を出したのである。
 特に、我々業者の貯木が、高潮の襲来で押し流され、そのため、この被害状態に一層の拍車をかけたとして、遂には、これは「人災」なりの非難まで飛び出す始末で、当時我が業界は物心両面から完全に叩きのめされた形となり、一時、我々は呆然自失に近いところまで追い詰められてしまつたのであつた。
 思えば無理もない話であつた。
 流木が市民の貴い生命、財産を一瞬に奪つたとあれば、それに対する償いの方が先決問題であつて、自分たちの損害をとやかくいつている場合ではなかつた。
 一体、なにから手を付けてよいのやら、皆目見当のつかないような日が暫く続いたが、やがて、我々の誠意と熱意が、順次、被害地の人々の共感を呼び起こすようになり、一方には、地元有力者の斡旋もあつて、さしもの大惨事処理も逐次軌道に乗り、総ては平穏裏に解決を見ることの出来たことは、今も私の大きな喜びとするところである。
 一方、100万石に及ぶ流木も、関係当局の御指導や御援助と運輸機関、特に港湾荷役業界の不眠不休のご努力と、業者の一致団結が完全に実を結び、その98パーセントまで回収を見たことは、なんといつても大きな収獲であつた。
 こうして、約半力年を要した流木対策経費は、実に、5億1800余万円を計上するに及んだが国、県、市よりは些かの援助を仰ぐことなく、ひたすら、我々業者の力によつて処理し得たことは、当然のこととはいいながらも、意を強くするところである。
 台風は「天災」であつても、流木による被害は当然「人災」なりという、当時の強い批判を浴びて、四面楚歌の中から、強く手を握り合つて、かく戦い抜けられたのは、なんといつても、我々に固い結束があつたればこそであつた。
 私には、業界の皆さまに、いくら感謝してもしきれないほどの感激が、いまも深く胸に残っている
 もう、こんな惨事が、再び繰返えされないことを、心から念ずるものであるが、将来の参考にもなればと、災害2周年を迎えるに当つて、ここに「流木集材の記録」を刊行した次第である。
 過去、この地方も屡々台風の被害はあつたが、その記録が業界には残つていない。おそらくこの一冊が最初の発刊物として残ることになろう。
 昭和36年9月

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写真 斎田清喜(元流木対策本部長本誌編集委員長)
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斎田清喜(元流木対策本部長本誌編集委員長)サイン

伊勢湾台風流木集材の記録 目次

伊勢湾台風記録写真集………………………………巻頭・文中
序………………………………前林野庁長官 山崎斎
〃………………………………前名古屋営林局長 丸山幸一
発刊のことば………………………………名古屋木材組合長 鈴木達次郎
〃………………………………元流木対策本部長本誌編集委員長 斎田清喜
第1章 伊勢湾台風の記録………………………………1
その1 台風15号の発生………………………………1
その2 伊勢湾台風の特微………………………………3
その3 恐怖の高潮………………………………5
その4 史上空前の惨害………………………………8
(東海三県の被害一覧表)………………………………10
第2章 木材業界のケツ起………………………………17
その5 流混材の発生………………………………17
その6 緊急役員会開く………………………………20
その7 流混材の移動禁止………………………………23
第3章 資材不足と斗う………………………………27
その8 初期の集材作業………………………………27
その9 応援作業員来る………………………………29
その10 上地武氏の手記から………………………………32
その11 新入荷材を規制………………………………35
第4章 活躍する組合本部………………………………37
その12 先ず公共用材から………………………………37
その13 ■用木材対策要綱…………………………39
その14 万全の復旧対策…………………………42
第5章 流対本部の分離独立…………………………45
その15 珠数を片手に…………………………45
その16 こじれた流木対策…………………………47
その17 内田橋から加福へ…………………………49
第6章 難航した流木補償…………………………51
その18 流木引取証の発行…………………………51
その19 懸命の地元民対策…………………………53
その20 難問漸く妥結…………………………55
第7章 流木対策本部の成立…………………………59
その21 流木荷主総会開く…………………………59
その22 経費総額5億円に…………………………62
その23 流木対策本部規約と役員…………………………65
その24 加藤経理委員長の手記…………………………68
その25 五委員会と業務分担…………………………70
第8章 苦斗の集材作業…………………………73
その26 浅野孝氏の手記…………………………73
その27 水上作業班の活躍…………………………89
その28 遠く流木を求めて~戸本順二氏他の手記~…………………………92
第9章 100%集材を達成…………………………97
その29 原木不足が表面化…………………………97
その30 集材最終段階へ…………………………99
第10章 終章…………………………103
その31 流対解散総会開く…………………………103
(流対精算書~加藤経理委員長報告による~)…………………………106
その32 犠牲者の霊を偲んで―上野庄吉氏の手記…………………………109
その33 おわりに…………………………111
 筏作業員に感謝して―成田善助氏の手記―…………………………112
 流木問題始末記―上地武氏の手記―…………………………113
(附)流木対策本部関係資料
流木被害荷主名簿…………………………119
流木対策本部役員・委員名簿…………………………134
流対出向社員名簿…………………………149
流木被害届出数量(貯木場・樹種別)…………………………141
陸上集材作業関係総括表…………………………178
流木被害荷主届出図表…………………………179
流木認定(荷主還元)一覧図表…………………………179
累年高極潮位図表…………………………180
9月26日の気象記録…………………………180
編集委員・特別寄稿者・編集協力者名簿…………………………181
あとがき…………………………182

第1章 伊勢湾台風の記録

その1 台風15号の発生

 台風15号(後に伊勢湾台風)は昭和34年9月21日、中部太平洋上のマリアナ群島附近に熱帯性低気圧として発生し、その後急速に発達して翌22日午前9時には台風15号と名付けられ、同日午後3時にはサイパン島の北東およそ150キロメートルの海上で、970ミリバールの中心気圧を示した。
 その後北西に進み、23日の午後3時には硫黄島の南南東およそ600キロメートルの海上に達し、さらに発達して中心気圧は894ミリバールと深まり、最大風速は秒速75メートルという超大型の台風となつた。そして毎時20~25キロメートルの速度で北西に進み、25日の凪すぎには潮岬の南およそ1,000キロメートルの海上に達し、このころには1,000ミリバールの閉じた等圧線の長軸はおよそ1,500キロメートルに達するほどになつていた。
 ここで過去の台風史上において史上最大といわれていた室戸台風と伊勢湾台風との比較をみると次表の通りである。
 台風はその後北西に向きを変え、26日早朝には潮岬の南南西およそ520キロメートルの海上に達し、速度を次第に加え毎時35キロメートルで北に向つていた。
 このときの中心附近の最大風速は秒速60メートルで、半径400キロメートル以内の東側と、300キロメートル以内の西側では秒速25メートル以上の暴風雨となつていた。一般にはこのように暴風圏が拡大するにつれ中心の気圧は上昇し、又台風眼も大きくなるのが普通であるが、台風15号の場合は常識を破つて衰え方が少なく台風眼も直径40キロメートルを保ち形状もはつきりとしていた。
 このころ既に本土への影響は著るしく、遠州灘の沖合は秒速25メートル以上の暴風圏に入つており東海沿地方の海部でもすで1こ10メートル以上の風が吹いていた。
 その頃名古屋気象台では、台風の移動に従い警報や注意報を刻々発表し、一般の注意をうながしていたが、台風情報1号は9月25日午後6時30分に発表していた。それに先立ち午後5時には大雨注意報を出し、「全般に50~100ミリ、所により100~150ミリの大雨が降り、このため河川は増水し、低い土地には浸水、また崖崩れの恐れがあるから厳重警戒を要する」と伝えている。
 続いて25日午後10時に台風情報号外として「台風は四国の南およそ400キロメートルの海上に達し東海地方にかなり接近する見込み」と伝えられ問題の26日に入ると早朝の6時、7時20分と相次いで警報が出され11時15分には「暴風雨警報」、「高潮警報」、「波浪警報」が同時に出され、「台風は紀伊半島または東海道のどこかに上陸する可能性が濃く、このため海岸地方は間もなく、内陸では夕方ごろから暴風になる。雨量は平野部で100~150ミリ、山間部で300ミリに達し、風雨による大被害の続出する恐れがある」と伝えた。又「台風が最も接近する夜半は、名古屋港の満潮時(27日0時45分)に重なり、三河湾、伊勢湾の海岸地方には平常時より1メートルから1.5メートルの高潮がおこる模様、この数字は昭和28年9月の台風13号に匹敵するもので大きな被害が予想される」と厳重な警戒を求めている。
 続いて警報は台風が潮岬に上陸し、伊勢湾の三重県岸に沿つて北上し、長良川上流から富山を経て日本海に抜けるまで=台風情報11号(26日10時50分)=伝えられたのだが、いずれにしても同台風が室戸台風、枕崎台風に匹敵する超大型のものであつたため、或る程度の被害は免れなかつたにしても、あまりにも大きかつた人的被害の出たことを想えば、史上空前の不幸を恨むばかりでなく、事前に今少し警報を信頼し防備態勢や避難対策に真剣であつたらと悔まれることで、過去においてあまり大天災の経験の無かつた名古屋地方だけに痛烈な体験であつた。

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室戸台風と伊勢湾台風との比較

その2 伊勢湾台風の特徴

 さて、26日午後6時ごろ潮岬と白浜の中間附近に上陸した台風15号は、1時間後の7時には奈良と和歌山の県境附近に、8時には奈良県中部、9時には鈴鹿峠附近を通り10時には揖斐川上流に達した。このとき中心気圧は945ミリバールとなり、暴風圏は北東に移つて東海地方、中部山岳部、北陸および近畿北部では風速20~30メートルとなつた。
 最大風速(10分間平均)は、名古屋で10時に南南東の風秒速37メートル、岐阜で10時に南南東32メートル、御前崎で10時45分に南南西35メートルを観測した。
 さらに台風が通過する前2~3時間は時間雨量40~70ミリの激しい雨が各所に降り、各河川は急速に増水し、これと高潮、および名古屋港の満潮などが重なり合つて各河口附近の堤防は至るところで決壊し、史上空前の大災害をもたらしてしまつた。
 このように台風15号は伊勢湾沿岸地方にとつて最悪のコースを通り、最大風速の分布をみても判るように最大の強風域は不幸にして伊勢湾に集中し、あののろうべき大高潮の条件はすべて揃えられてしまつた。
 午後9時半頃の名古屋港の最高潮位は5メートル81センチ(名港検潮儀D・L上)を示し、これは推算最高潮位よりも3.55メートルも高く、昭和28年の台風13号のときより1.53メートルも高い最高記録を残し、台風災害史上今だかつてない大惨害を残した。
 ついで台風は午後11時には岐阜県白川附近、27日零時には富山の東を通り、零時45分ごろ高田と糸魚川の中間を経て日本海に抜けた。このころ中心気圧は960ミリバールとなり時速75キロメートルの早いスピードで北北東進をつづけていつた。
 台風が潮岬附近に上陸してからわずが6時間あまりで本土を縦断して行つたわけで、この間の平均速度は65キロメートルであつた。
 この台風の特徴をあげれば次の通りである。
(1)マリアナ東方で発生してから上陸までの時間間隔が短く、わずか6日しか要しなかつたこと。及び21日発生して23日には中心気圧が895・4ミリバールと異常に早く、しかも深く発達したこと。又発達期の頂点から上陸まで僅か3日あまりであつたこと。
(2)発生の初期から本土上陸の直前まで非常に強い中心勢力を維持し、9月26日午後6時13分潮岬で観測した最低気圧929.5ミリバールは過去昭和9年9月21日の室戸台風(911・9ミリバール)、昭和20年9月17日の枕崎台風(916.6ミリバール)に次いで史上3番目のものであつた。
(3)暴風圏の非常に広い超大型台風で、本州南か海上を北上するころの最大風速75メートル、風速25メートル以上の暴風圏の直径が700キロメートルあつた。
(4)本州附近を東西に延びていた停滞前線が台風の接近とともに活発となり各地に大雨をもたらした。
(5)上陸後も勢力が衰えず風による被害を大きくした。
(6)台風のコースが伊勢湾や渥美湾沿岸地方に高潮を起すのに最適であつたこと。即ち最大強風域が伊勢湾に集中し、最大風速が生じるまでの主風向が伊勢湾にとつて最悪の南東であつたこと。
(7)経路の特徴が25日以後南北方向に速度成分が大きかつたこと(34年の台風経路の特性として“北上型”が多かつた。)

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(名古屋港における高潮記録)
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(過去の台風による高朝の記録)
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写真 (大きな傷痕をみせる堤防欠壊口)
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写真 (倒壊家屋の上に居据つたラワン材)
その3 恐怖の高潮

 伊勢湾台風が約4,700名の死者、行方不明者を出し、家屋全壊30,000戸、同流失3,700戸、流混材1,000,000石という古今未曽有の大惨害を出した原因の大部分は、いうまでもなく最高潮位5.31メートルという記録破りの高潮の襲来にあつた。
 名古屋港の過去の記録は大正10年9月25日紀伊半島に上陸した台風がもたらした2.07メートルが最高で、伊勢湾台風の平均潮位は3、89メートルと1メートル近く上廻つている。
 これは標高Oを基準とした数値で、海岸堤防の基準面(名古屋港工事基準面)から測ると前述のとおり実に5.31メートルで、海岸堤防の4.80メートルの高さを大きく上廻つている。
 最高気象潮の起つた時間は南東風をまともに受けた三重県中部海岸がもつとも早く午後8時30分ごろ、次に名古屋市を含めた伊勢湾奥及び知多湾奥で9時30分ごろ。三河湾の奥が一番おそく風が南南西に変つた10時30分頃となつている。
 同日正午の満潮時から引続き増水した水は強風と次の満潮が重なつて来るという異常潮位ではあつたが、水の動きはすばらしく早く、大江川、山崎川両堤防が午後8時ごろには決壊。満潮とともに内田橋附近から南陽通り、道徳本通り、加福本通り、井戸田町、宝生町、柴田、大同町、荒浜、塩屋町をはじめ南区の東海道線以西、港区全域、中川区は関西本線以南、市外では蟹江町から弥富町、長島町にわたり、遠くは津島市から桑名市の一部までの広大な地域が、ほとんど一瞬のうちに水中に没した。
 道徳、柴田、白水地区の被害は土地が低い上に、八号地の貯木場から流出したラワン材が被害に拍車をかけたことは否めぬところで、水深は道路面から3.5メートルに達したところもあつて、玄関に下駄が浮いているのを見て浸水と覚つてから水が首の深さまで増えるのに僅か2~3分であつたといわれ、多くの柱時計が午後10時10分前後で止つていた。
 中川区では運河の西側が低く、運河支線からの溢水で浸水した時刻も10時以後で、北へ進むほど遅く玉船町で11時ごろ、篠原橋附近では翌27日零時以後になつてからである。又熱田区六番町では道路の浸水は午後11時ごろで、海岸部に比し増水はゆるやかで、最深は11時ごろ、同区八千代通附近はさらに1時間ほど遅れている。
 特に被害の大きかつたのは三重県の伊曽島、本曽岬、長島、愛知県の海部郡、鍋田などの干拓地であつて、記録破りの高潮、河川の氾濫などにより海岸堤防が腹背から強圧され、ずたずたに寸断されたため全くの泥海と化した。
木曽岬、伊曽島方面の被害者の話を総合してみると、「26日午後8時30分頃に木曽川、長良川の堤防が決壊し、9時~9時30分ごろになつて海岸堤防が破られた。初めは東に流され、後に北西に流され、冷たい水や暖かい水が交互に感じられた」と語つている。
 高潮の最高位(5.3メートル)は午後9時30分ごろであつたから、それよりも1時間も前に海から押し上げた海水と、洪水がぶつかつて木曽川の都羅、白鶏方面の堤防が決壊したとみられ、三大河川の同時洪水の恐ろしさを物語つている。
 とにかく愛知県下の全浸水面積約350平方キロメートルに達する広大な地域のうち、約237平方キロメートルもの広い地域が台風後も海岸堤防が締切られないため冠水が去らず、海と同じく潮の干満を繰り返す悲劇を続けていたことは記憶に生々しいところで、台風後60日を経過した11月23日現在、なお愛知県弥富町から津島市にかけて浸水中で、国鉄関西線が11月25日に、又近鉄線は11月27日になつてやつと開通した。

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(台風被害の比較)
その4 史上空前の惨害

 恐怖の一夜が明けた。翌27日はカラッと晴れた秋晴れの日曜日であつた。市南部の被災者を除き、北、東部はもとより中区の市民でさえあの大被害とは夢にも知らず、前夜の暴風で寝不足の顔を揃え、無事を喜びあつていたのだつたが、その夢を破つたのがいつもより遅れて配達された各新聞社の朝刊であり、さらに史上空前の大惨害の実情を伝えた号外紙上であつたろう。
 「台風15号の被害ますます広がる」「半田で300人水死、海岸の堤防ズタズタ」……9月27日付中部日本新聞号外の見出しである。
 さらに「死傷1,300、行方不明140、被害愛知県が8割占める」と報じ、なおも続々増大する見込みで、県としては未曽有の大災害と書かれている。被害者数はその後刻々と増加の一途をたどり、同日夕刊では早くも死傷5,000余人と報じ、生々しい現地ルポでは「夜明けが近づくにつれ、市南部の被害はさらに大きく悲惨な実相をあらわしてきた。一面泥海に沈んだ内田橋、南陽通り、道徳本通り一帯は堀川、大江川にはさまれた三角地帯だけに激流と高潮の押し寄せるのも早かつた。午前3時には守山の自衛隊第10混成団第2大隊約60人が、ついで5時ごろ市水防本部の消防署員らが舟艇4隻、ボート14隻をもつて救援にかけつけた。内田橋で1メートル余、両側の人家の窓際まで水びたしだ。南陽通りを2、3丁目と進むにつれ水カサも増し、水没した消防車、自動車があちこちに屋根だけのぞかせている。明治小、道徳小学校も一階は泥海、このあたり水は屋根のヒサシすれすれだ。家々の屋根、ヘィの上、二階手スリには肉親同士がかたまり合つて必死に助けを求めている。みんな着のみ着のままだ。屋根裏に子供3人と女房がいる。早くなんとかして下さいと警察官にすがりつく夫。……マネキン人形が流れハッとする。泥海に救いを求める地嶽絵図……」。
 とにかく一夜にして伊勢湾沿岸の主要工業地帯をはじめ豊富な穀倉地帯、営々苦心の干拓地帯などがことごとく破壊されつくし、名古屋市の死者1,700人(南区1,328、港区355、中川区24、瑞穂区7)、その他行方不明200人(南区170、港区32)、重軽傷者5,500人という尊い犠牲者を出し、県内の事業施設の被害では流失家屋2.300戸、全壊家屋28,900戸をはじめ、公共、民間など総合計実に3,000億円という莫大な損失を蒙つてしまつた。
 とくに今災害を振り返つて忘れてならないことの一つは、あの惨状の真只中に身を挺し後片付けや復興に奉仕した人達のことであるが、とりわけ目立つた活躍をしたのが死臭ふんぷんたる名古屋市南部一帯で懸命の働きをみせた自衛隊員と学生の尊い姿であろう。
 全国から動員された自衛隊は、遺体収容、救援、避難作業に涙ぐましい活躍をつづけ、復興作業、とくに海岸、河川堤防などの仮締切り作業については、かつての工兵隊に劣らぬ活躍をとげ、南陽作戦(10月28日完工)、木曽岬作戦(11月9日完工)、尾西作戦(11月10日完工)、長島作戦(11月16日完工)などの難事業をつぎつぎに完成した。この間ドラム缶工法とかべーリー橋の架設など前例のない工法がとられ、施設隊の歴史に輝いている。
 さらに全学連をはじめ、YMCA、YWCAなど各学生団体の活躍もめざましく、息切れを知らぬ精力的な活動は救援の原動力となつたことも感謝の的であつた。
 また県内の高校生も奉仕に連日出動し、台風翌日の27日から毎日2,000人平均が組織的に活躍し、救助活動を通じてこの間の動員数は48,400人、県下高校生の約7割が尊い奉仕をしたことになる。
 また自治体消防団の活躍もめざましく、11号地の尾西作戦(海部郡南部の水没地を救うため日光川、筏川の護岸堤防を締切つたもの)第2工区用の土俵作りでは、16日から27日までに10万俵が予定されたものを24日には早くも18万9,000俵を完成するという成果を収め感謝の的となつた。このほか地域婦人会、ボーイスカウト、個人の労力奉仕者など数多くの人々の善意と協力により、あの大災害を受けながら驚異的なスピード復旧を成し遂げ得たのである
(註)東海三県下の伊勢湾台風による被害総額は次表の通りである。

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東海三県の被害総額一覧(1)
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東海三県の被害総額一覧(2)
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名古屋市台風被害状況調
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地図 伊勢湾台風被害概要図

第2章 木材業界のケツ起

その5 流混材の発生

 伊勢湾台風は、わが木材業界にとつても未だかつて体験したことのない最大の災禍であり、名古屋材界人のすべての人々にとつて最大の苦難と試練を提供した。
100万石に達す莫大な量の木材が一夜にして流出混乱し、これが伊勢湾一帯に散逸して遠くは鳥羽方面にまで流失したものもあり、知多半島及び三河湾沿岸に漂流し、とりわけ名古屋港内の惨状は港内一帯が浮遊する木材とドラムカンなど他の浮遊物のため水上を徒歩で歩き廻れるほど埋めつくされてしまつた。
 さらに8号、加福両貯木場をはじめ市内各貯木場から高潮と洪水に乗つて流れ出た多量の巨木が、一瞬のうちに市街地に襲いかかり、これが一般民家、工場、学校、病院などあらゆる施設や建築物に突入破壊し、多くの尊い人命を奪う一因ともなつたことは悔んでも余りある暴状であつた。
 いずれにしても100万石に達する貯木材が、約14万石が知多、伊勢湾一帯に漂流、約42万石が市南部市街地に突入、さらに40万石余が貯木場内や各河川内に混材するという最悪の事態となつたのだが、この惨状を事前に誰が想像し得たであろうか。各貯木場及び河川の護岸堤防も当時まではむしろ最強の部に入る堅牢さを誇り、だからこそ業界の信頼していたものであつたにもかかわらず、それが実にあつけなく全壊し、海水が容易に且つ自由に市街地一帯に15~60日間も浸水し、深い所では3メートル、少くとも1メートルに達する水没状態を現出、このためさらに8号貯木場等からおよそ8万石余が市街地に再突入する有様で、集材の急務(冠水中の集材編筏)を痛感させた。
 いうまでもなく、8号貯木場をはじめ各貯木場の災害に対する防備態勢は決しておろそかにされてはいなかつた。
 台風接近の報に名古屋港木材倉庫及び名港管理組合の担当重役が筏けい留状態など貯木場の保安施設の点検のため巡視し、考えられる限りの対策をとつていたのであるが、如何せん史上空前の規模をもつて襲いかかつた高潮の暴威の前には何物も防ぎ止める手段とてなく、遂にあの災害を蒙つてしまつたのだから全く不幸の一語につきるものがあり、後になつて罹災地元民と補償問題が起つた際貯木場の防備に不備があつたかのデマに悩んだことなど重ね重ねの不運であつた。
 さらに地元木材産業地帯も(主として合板工場)、水利と新興工業地としての好立地から多くが臨海部の港、南区、運河に面する中川区などに集中していたため、瞬間風速45メートルという暴風雨による被害に加え、各河川の堤防欠壊、空前の高潮の災禍をまともに受け、日本一の生産規模を誇つた市内80余工場のうち辛くも平常生産を行なえるものわずかに2、3工場、他はほとんどが年内復旧がやつとという、まさに壊滅的打撃を受けてしまつた。
 当時の暴状を知るため、地元業界紙である日本林業経済新聞が9月30日付紙上で全国に紹介した第1報を転載してみると、「9月29日午前現在今なお濁流渦巻く中に孤立する亀田合板、荒川特殊合板をはじめ、ヒザを没する高潮に浸る名港合板、佐藤合板、名古屋べニヤ、三浦合板。加福貯木場から流出したラワンの大群に埋めつくされた観のある昭和合板、日産木材、三井木材など、全く目を覆わせる惨胆な光景が展開されている。中村合板、名古屋プライウッド、湯浅貿易などいずれも最大浸水位2メートルを超し、工場全域がヘドロに埋り、復旧再開は2ヵ月を要する……」と報じている。
 さらに同紙上で、「生産地変じて消費地、復旧用ベニヤも無し!」と伝え、合板工場の手持原木のことごとくが市街地や海中に流出したこと、工場労務者の大半が冠水地域に居住する被災者であることなどを挙げて生産の早期再開の全く困難な模様を報じ緊急を要する復旧資材としての大量のラワンベニヤ需要にどう応えるかに警報を鳴らしていた。―なおこの資材及び労力不足と緊急需要の板ばさみは、その後100万石に達する流木処理の段階を通じ、常に問題化し当事者の頭を悩ましつづけた問題であつた―。
〔註〕台風直前の貯木防備状況に関する名古屋港木材倉庫KKの現認書は大要次の通りである。
 現認書
 9月26日開庁後佐々木主事に対し港営部長より8号地貯木場並びにその他の臨時に筏をけい留してある所の暴風雨に対する措置を質問されたので、名古屋港木材倉庫に対し電話にてけい留状況の万全の指示を取り確認のため名古屋港木材倉庫小方課長(担当)、管理組合業務課施設係佐々木主事及び森主事3人にて本庁を9時40分出発し、2号地運河、汐凪橋、堀川筋住友横、大江川、神徳橋、8号地貯木場、8号地木材整理場を巡視し12時40分に帰庁しました。
○けい留状況
 2号地運河 ソ連材でアバを組み4分ワイヤー及び麻ロープにてけい留。
 汐凪橋 ピツト及び汐凪橋の橋桁に4分ワイヤーでけい留し南側には米松の角材でアバが組んであつた。
 住友横(堀川筋) 水面に仮けい留してあつたが筏師が60人位で名港貯木場へ搬入中であり早急に完了するよう忠告してきた。(夕方6時頃完了の電話が木材倉庫へあつたとのこと。)
 大江川口 両側より麻ロープ及びワイヤー6分にてけい留し松の角材でアバ炉組んであつた。
 神徳橋 両側より4分ワイヤー、麻ロープにて松角材のアバでけい留。
 貯木場 三ツ繰縄、麻ロープ等で、けい留杭、護岸よりけい留してあつた。
 8号地木材整理場 5分ワイヤー、麻ロープでけい留してあつた。
○所感
 ワイヤー、麻ロープ、三ツ繰縄等でけい留してあつたが、けい留技術は吾々当組合職員では専門的なことはわからないが、あれだけ事実厳重にけい留され素人目では安全と見なした。
○経路
 9時40分本庁出発 2号地-汐凪橋-住友横-大江川ロ-神徳橋-貯木場-8号地整理場-12時40分帰庁

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写真 (遠く伊勢湾沿岸に漂着した流木)
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地図 台風直後の流材概況
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地図 台風直前の三貯木馬及河川繁留状況

その6 緊急役員会開く

 名古屋木材業界の復興への組織的な動きの第一歩は「名古屋木材組合災害対策本部」の発足に始まつたといえよう。
 これより先木材業界、荷役業界の個々の動きも当然のことながら迅速であつたが、中でも上地木材社長上地武氏と名港運輸社長成田善助氏が帯同の上、名古屋港内をはじめ8号、加福、名港など各貯木場をはじめ堀川、中川運河など各地を巡察し、上地氏はその足で名古屋木材組合の緊急役員会に臨み、被害の激甚さを強調し「組合災対本部」設置に有力な示唆を与えたこと、さらに成田氏は急拠築港周辺の資材店を歴訪し、冠水してズブ濡れのロープなど資材確保に働いた先見の明などは印象深い一幕であつた。
 さて、名古屋木材組合では9月28日午後2時に緊急役員会を招集し、正午ごろから木材会館(名古屋市中区米浜町)には一切の交通網、通信設備のマヒした中を、「至急電報」で招集された役員達が次々と姿を現わし、定刻前には早くも組合長鈴木達次郎氏をはじめ中村国一、上地武、杉山定吉、斉田清喜氏など名古屋材界を代表する首脳30余名が参集した。
 当日の組合2階大会議室は、猛台風の被害を受け屋根瓦は飛散して雨漏り甚だしく、窓ガラスは破れて室内に散乱し折からの雨滴が遠慮なく降り込むありさまで、そのビシヨ濡れの椅子と机が辛くも会議場らしさを留めているといつた悪条件下であつたが、災害対策を論ずる各理事の表情は未曽有の混乱を目のあたり見て来た興奮がさめやらぬ面持で、実に真剣そのものであつた。
 冒頭の鈴木組合長の挨拶も「この空前の大災害に際し業界に課せられた使命は重大である。業界の総力を結集して責務の達成を図りたい」と決意を述べ、次いで上地武、安藤滋次郎両理事からそれぞれ苦心の視察による現地ルポの説明があり、大要「(1)8号貯木場南堤防の大部分と加福貯木場の2ヵ所の欠壊、さらに空前の超高潮により流混材被害は想像を絶する激甚さで池内には殆んど残材が見当らない。(2)名港貯木場のうち北池はほぼ安全、南池は2~3割の流混材が出た見込み。(3)一般に運河内にあつたものは安全の見込みだが堀川筋では大瀬子橋~白鳥橋間において官材が2ヵ所で混乱しており約半数が流材した模様。(4)白鳥駅では水陸両積の貯木が混乱して荷主の立入りを禁止している。(5)集材の対象となる流混材は少なく見積つても70~80万石に達するだろう」と説明が行なわれ熱心に質疑が続けられた。
 次いで岩佐県林務課次長から愛知県の災害対策方針と現況につき説明の上今後の木材業界の絶大な協力が要請された。
 そこで鈴木組合長から緊急措置として先ず取敢えず災害対策処理本部を設けることの必要性とその構想について説明、一同もこれを了承、直ちに処理機構を急設することが決定され、(イ)本部を本組合内に置き傘下に各部門別委員会として、(ロ)流材処理委員会(堀川、新堀川など地域別小委員会を含む)、(ハ)公共材委員会(ニ)入港船対策委員会、(ホ)集荷委員会、(ヘ)金融対策委員会、(ト)価格対策委員会(金融、価格両委は本部直結とする)などを結成することとなり、これによつて水防用その他公共用材供給の優先は勿論、極めて至難な流混材の集材処理を第一義として、さらには材価の高騰を防止して民心の安定を図るなど非常事態下の材界の根本目標と緊急対策を決定した。即ち、
(1)流木は場所の如何を問わず、一切を名古屋木材組合流木処理委員会の管理下に置く。
(2)流木処理については流木のすべてを流木委員会の所有物とみなし、全面的に荷主プールとして処理する。
(3)流木処理委員会は流木集材作業を円滑に行なうため事務所を災害現場に最寄の場所に置くこととし、名古屋市南区笠寺町加福2ノ1の名古屋港木材倉庫KK内に置く。
 (なお同所が冠水していたため、南区内田橋名古屋筏企業組合内に設置された。)
(4)組合員自身も罹災者であり極度に労力が不足しているが、流木集材は焦眉の急を要するため、各荷主より2~3名の作業員の供出を求める。
(5)流木の各荷主は至急今回の被害物件の保管、保有場所、ハエ種、数量、材種など詳細を流木処理委員会宛提出すること。
(6)流木荷主の届出、流木管理方法などを個々に通知するほかに新聞広告をもつて周知徹底する。
(7)災害発生に伴う人心不安を解消するため、木材相場の高騰を積極的に抑制し、業界の責任において良識ある自主価格の調整を行なう。
 などの諸点が議決され、ただちに実行委員会が結成されて活動を開始した。なお席上決定をみた本部役員及び各委員長、委員らは次の通りである。
「対策本部委員」
 本部長=鈴木達次郎
 副本部長=大島三郎、斎田清喜、中村国一
 会計=長瀬金造及び各委員会委員長
 相談役=加藤周太郎
○流木処理委員会
 委員長=上地 武
 副〃 =三菱商事、江口木材、昭和合板、太陽木材工業
 委員 =三井物産、岩井産業、安宅産業、東洋棉花、東洋プライ、湯浅貿易、浅井プライ、名港合板、稲垣合板、天竜木材、津田産業、八宝製材、安藤商店、協和木材商事、名古屋港木材倉庫、名古屋筏企業組合、名港運輸、千年組、藤木海運
 なお流木処理委員会は次の三つの部門に分けて行動した。
 △総務=天竜木材、八宝製材、太陽木材工業、三井物産他五商社
 △水上=津田産業、協和木材商事、江口木材、東洋プライ、名港合板、筏関係各社
 △陸上=昭和合板、湯浅貿易、浅井プライ、稲垣合板、太陽木材工業、藤木海運
 △堀川班(小委員会)=伊太木材、北折木材、中部官材、半田木工、梶浦商店、名古屋ベニヤ
○入港船対策委員会
 委員長=杉山定吉
 委員=東洋棉花、天竜木材、江口木材、石川合板、三菱商事
○公共材対策委員会
 △既成品材委員長=小山芳松
 委員=大森木材、山城屋、材徳木材、名古屋木材
 △製材委員長=河野保徳
 委員=吉田錦弥、大塚良三、木下鉱三
 △杭丸太委員長=早川茂一郎
 委員=黒川 清
○復興対策委員会
 委員長=阿部広三郎
 委員=材摠木材、岐阜木材、浜木屋、山城屋、丸安製材、石原木材、真野木材、祖父江材木、木下鉱三、名古屋プライ、浅井プライ、石川合板、東海合板、三井物産、三菱商事、安宅産業
○金融対策委員会
 委員長=長田甚次郎
 委員=江口木材、湯浅貿易、丸良安藤商店、伊太木材、浜木屋、森平製材、森木材、丸幸木材、水谷木材、森徳次郎、加藤義一

その7 流混材の移動禁止

 こうして名古屋材界の統合本部ともいうべき災害対策本部の誕生をみ、即刻各種の処理活動を開始したのだが、先ず第一に着手したのはいうまでもなく流混材の集材を容易にするための移動禁止方策であつた。この措置が妥当か否かはともかく、いうまでもなく、非常措置としてとられたもので、本来なら台風による流木被害の発生に伴いその整理方針などは個々の荷主の指示に基づくべきであるが、今災害が未曽有の大規模なものであり、又集材は寸刻の猶予も許されぬ事態であつたことから止むなく組合役員の緊急会議で決定されたものである。
 このため集材整理が軌道に乗つた適当な機会に「流木荷主総会」を開催し経過報告と、改めてその後の方針などについて、荷主の総意を問う必要があつたことは当然のことであろう。
 ちなみに流木荷主総会は後述の如く10月27日に開催された。
 (註)流混被害木材の移動禁止に関し対策本部では各荷主宛通達を行なうと同時に次の通り新聞広告を行なつた。
 なおこの集計には約1ヵ月を要したが、当時の流木対策本部が各荷主の報告に基づいて集計したところによれば大要次の通りである。(詳細は巻末所載のへ「流木被害荷主別届出石数表」参照のこと)
 ○貯木場別数量
  8号貯木場 49万9,990石
  加福貯木場 27万1,925石
  名港貯木場(南池) 15万2,599石
  名港貯木場(北池) 3万2,455石
  その他(千年組扱い) 4,887石
  合計 96万1,856石
 ○樹種別数量
  ラワン丸太 61万2,445石
  ソ連材 5万8,926石
  米材 4万2,918石
  北海道針葉樹 5万3,065石
  北海道広葉樹 14万5,129石
  内地産針葉樹 1万0,303石
  内地産広葉樹 7,871石
  その他 3万1,199石
  合計 96万1,856石
 ○業態別荷主別数量
  輸入商社(18社) 35万3,141石
  問屋(170社) 28万0,043石
  需要者(99社) 32万8,672石
  合計(荷主合計287社) 96万1,856石

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写真 (住宅地を埋め尽した流木群)
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急告
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各位殿

第3章 資材不足と斗う

その8 初期の集材作業

 「陸に上つた材木は陸で始末をつけねばならん」……これが惨胆たる流混材を見て名港運輸の成田社長が初めに思つたことだつたという。
 8号貯木場のあの偉容を誇つた大堤防がまるで櫛の歯のようにズタズタに切断され、40万石以上の貯木が陸上に混材し、中川運河口に編筏されていた1万7,600余石のソ連材がソツクリそのまま日本ハードボード工場南の10号地に乗り上げてしまつていた。
 勿論加福、名港南北池なども然りで総計100万石に達する流混材を前にして木材業者はいうまでもなく荷役業者も、全く手のつけようがない混乱ぶりに呆然としたのも無理はなかろう。
 台風翌日の27日には南区内田橋畔にある名古屋港筏企業組合(野間社長)には名港運輸、千年組など筏関係各社首脳が集まり、必死の集材計画が練られていた。
 当時の混乱の只中では資材や食糧、労力等の確保が最大のネツクであつたが、とにかく水中に散乱浮遊している木材を集結し網場(アバ)の中に押込んで流失を止める作業に全力がうち込まれ、資材不足打開のため筏業者はそれぞれ伝手を求めるほか東京、大阪などの筏協会メンバーに供出を依頼、流木処理委員会本部が内田橋の筏企業内に設置されてからは三井物産、三菱商事、安宅産業などの綜合商社の協力を得て全国各地に依頼され、食糧も木材業者が持寄つて本部で炊出しを行ない急場を間に合せた。
 他方藤木海運KK(後に流対集材の中心となつて活躍した)でも災害直後から独自の活動を開始しており、9月29日には早くも、県市当局からの要請に基づき石油貯蔵庫のある9号地への道路(8号貯木場北側)開通作業に従事し、散乱する巨木群のためトラツククレーンの前進が思うに任せぬとあつて水路フローテイングクレーンでトラックを9号地側に揚陸し両端から作業に当るなど辛苦の結果、10月2日には見事この難事業を克服し道路開通の目的を果したことは吾々の記憶に生々しいところである。
 中でも南陽通の開通に際し、中村合板附近に山積していたラワン流木の整理が某建設の手で難航していたものを、藤木海運が引継いでわずか3日間の短時日で完了し、実力を誇るとともに、その後の流材整理の難事業を完遂するために大いに自信をつけたとは、藤木海運浅野氏の後日談である。
 こうして集材作業期間中に動員されたクレーン、トラックは、実に延べ3,000台に達し、最盛時には5トンから15トンの大型クレーン車が19台も投入され、平均して1日当り10台のクレーンに対し、これに追随する運搬用トラックの絶対量が不足し、この両者のバランスを保ちつつスムーズに排材作業を進行させるため本部役員は非常な苦労を重ねたものだつた。
 さらにこの初期集材期間中を通じ水上班(筏各社)でも延べ857名の作業員と65隻の曳船が投入され、冠水地域や港湾内の流出材確保に懸命の努力が払われた。(数字は9月29日から10月24日分まで=名港倉庫調査による)
 こうして集材作業も10月6日以降漸く軌道に乗り出したが、その目的とするところは、勿論短期間に整理を完了するところにあつたことはいうまでもないが、このため本部では名古屋市南部の大地図を前に、概算の流材石数により色分けし、先ず流木の集中しているところ、筏のまとまつているところから集材を開始し、そしてその中でも特に(1)遺体収容、(2)道路開通、(3)送電線の復活の3点に重点を置くよう作業員に指令していた。
 しかし、何といつても100万石という流混材はあまりにも莫大な量であつた。後に本部が移つた名古屋港木材倉庫の社屋から昭和合板へ抜け出るわずか200メートル足らずの道路上だけでも、加福貯木場から流出したラワンの巨木が山積し、その量も3万石を超していたという始末だつたから集材作業の困難さは筆舌につくせぬ辛苦の連続だつたことは想像に難くない。
 さらにこの初期集材作業において特筆すべきことは、流木委員会が愛知県知事ほかの関係当局に熱心な陳情を重ねた結果、特に流木排除の目的のために東北茨城部隊の自衛隊約50名が10月上旬現地に特派されたことである。
 これら自衛隊のトラクターなど機動力が全く手のつけられぬ混材の山を縦横に処理し、主として道路の通行整理を行なつたが、当時の不安におののく民心安定に果した役割は大きく、ヘドロと流材に埋つた白水小学校にキヤンプを張り、連日のキビキビとしたたくましい活動ぶりと明るい表情は、地元民の感謝の的となり、後に34年末をもつて茨城部隊が引揚げ、替りに京都部隊が来援したが、これら2部隊に対し流木対策本部から感謝状及び記念品が贈られ、木材業界として深甚の敬意と感謝の意を表した。

その9 応援作業員来る

 取敢えず内田橋畔の名古屋筏企業組合内に現場指揮の第一線本部を置いた流木対策本部(当時はまだ流木処理委員会であつた)の初仕事は、先ず労力と資材の絶対量の不足という最悪のネックの打開に始つた。
 いうまでもなく、かかる大規模な災害発生に伴う諸物資の不足は免れないところではあつたが、特に集材作業が特殊な技術と資材を必要とするものであり、いわゆる筏師などの特殊作業員の大半が市南部の港、南両区の被害激甚地域に住み、彼らの労力を集材に期待することが全く不可能であつたことは、本部にとつて最大の痛手であつた。
 この不測の事態を打開するため、本部では流材荷主各位に対し作業員の供出を命ずると共に、全国各港湾都市業界に懇請して筏作業員の大々的来援を乞うことになり、直ちに本部役員が全国各地に飛び、直接各港の荷役機関に依頼するだけでなく同地の荷主団体にも名古屋の実情を説明し、名古屋港の復興が1日でもおくれればそれだけ各港に無理な荷役負担がかかることにもなるなどの点の了解を求め、出来る限り協力を懇請した。
 各地に急派された各委員は……
 ▽阪神地区=津田産業、昭和合板、阪神木材、安宅産業
 ▽清水地区=兼松KK、三菱商事、天竜木材
 ▽京浜地区=東洋棉花、岩井産業、石川合板、三井物産
 ▽北海道地区=湯浅貿易、三井物産
 ▽日南地区=津田産業
 ▽北陸地区=大建木材、上地木材
の各社であつた。
 この結果10月5日から6日の早朝にかけて大阪22名、神戸14名、東京20名、計56名の応援作業員が第1陣として到着し、直ちに作業を開始したのを皮切りに、各港荷役団体の好意的な協力を得て続々と救援の手が伸びたことは、今台風史上の美談の一つであろう。
 こうして10月6日作業開始と同時に8号貯木場、大江川、山崎川、名港貯木場、堀川、名古屋港内などの集材に配置展開し、さらに一部は遠く知多、横須賀方面の流材処理に派遣されたほか、災害のため港内に釘付けとなつていた武庫春丸、高昌丸2船の本船荷役が行われたのを皮切りに、以後水上班は11月30日までの約50日間、陸上班は翌年3月25日に感謝の言葉と感激の拍手のうちに名古屋を去つた富山班を最終とする延々半歳にわたる尊い奉仕が続けられ、この間中川区八幡町天竜閣ほか7ヵ所に分宿、その地区別内訳けは東京40、大阪25、神戸18、清水10、富山58、小樽38、釧路22、高知19、総計230名の多きに達していた。
 ちなみに協力団体、会社名は次の通りである。
  協力団体、会社名
 △東京筏協会 東京都中央区月島東海岸通1ノ4
 △株式会社坂口組 東京都江東区深川門前仲町1ノ29
 △大阪筏事業協同組合 大阪市大正区大正通10ノ1
 △鳶儀組 神戸市兵庫区浜中町2ノ32
 △鈴与株式会社 清水市入船町3ノ12
 △塚八組 富山県東砺波郡井波本町3ノ20
 △瀬川組 富山県東砺波郡庄川町青島372
 △木下回漕店本田組 高知県安芸郡奈半利町
 △小樽筏株式会社 小樽市南浜町3ノ17
 △三ツ輪運輸株式会社 釧路市錦町5ノ8
 △株式会社能登組 小樽市南浜町5ノ1
 さらに業界内外の救援活動も活発であり、多くの義捐金品が寄せられたが、当時木材業界新聞各社においても、木材組合の災害対策本部の活発な行動に併行するかのように各社共同して、或いは個々に災害救援活動を開始し、逸早く泥水を冒して被害第1報を特集した地元林経紙をはじめ報道、PRに全力を傾けて、平素からの密接な関係をさらに進めて本領を発揮し、業界復旧の有力な一翼を担つたが、とりわけ救援のため各社が共同歩調で行なつた義掲金品の募集、配分を行い、その徹底に努力したことは、業界新聞の美挙であつた。
 なお9月30日付紙上に掲載された業界紙5社の社告文全文は次の通りである。

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写真 (巨木排除に活躍するクレーン車)
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写真 (業界の惨状を全国に報じた林経紙第一報)
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写真 新聞記事
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謹告
その10 上地武氏の手記から

ではここで、当時を回顧し、木材業界のうけたショックが如何に大きいものであつたか、そして業界が如何にしてその苦難に耐え、如何にして打開して行つたかを知り、改めて試練を乗り越えた勇気をたたえるためにも当時流木対策本部副本部長上地武氏(上地木材KK社長)の手記をご覧願いたい。(以下原文のまま)
 台風の爪痕、この表現は我々木材界には適切でない。猛獣に八つ裂きにされた雌兎か、否適言を知らない。
 忌わしい台風の当日(26日)情報の悪化に11時会社を出発、各貯木場の管理(警戒)状況視察のため車中の人となる。白鳥(堀川沿岸)第4作業所附近もワイヤー及び麻ロープで充分の態勢と見て先ず一安心。名港へ。千年組で状況を聞く。堀川口沿岸の木材は殆んど池内又は運河へ緊急入庫しその配慮に謝意を表して8号地へ。業界人の常識として8号貯木池のものは何の不安も覚えず、筏会社の専務と共に運河及び筏整理場へ。此処も多勢の作業員によるワイヤーと米松角材のアバで先ず完全な防備態勢、事務所で労苦を謝すと、筏会社の幹部以下相当人数は今夜不寝番の由、後事を託して1、2号運河(西築港)へ。時に午後3時、風雨激しく名港運輸の努力でこれも大丈夫と安心して10号地運河へ到着の頃は風雨の猛威で歩行も容易でない。
 臨時の見張小屋で筏師2人が今後の警戒に努める由、全く御苦労の限り、風雨強きため繋留筏が大揺れに揺れる。然し散乱の状況なし。2人の労苦を偲びつゝ帰路につく。現地を廻つてやや安心、各作業会社の配慮にむしろ感謝して午後5時帰社。夕食後の猛威は人力では防備の術なし。鳴呼。
 台風一過・27日は唯唖然、早速80余才の旧主を訪う。この古老にして昨夜の経験は初めてなりと。通信交通杜絶のため如何ともなし難し。鈴木組合長に電報による緊急役員会の明日召集を進言する。
 28日、居たたまれぬまま内田橋の筏会社へ。成田社長の好意によりランチで先ず8号地へ。途中堀川口の両岸に打上げられたラワンに先ず肝を冷やす。港内は2、3百石宛の流木が浮遊。ああ今日10人の労務者あれば1万石の流失を防ぎ得ると誠に残念なり。筏整理場に着く。10万石の木材が殆んど無し。気の急くままに8号地の陸に上つて、唯荘然となる。北西岸に打上げられた木材の山又山、大山小山を飛び越え漸やく事務所に辿り着く。途中無惨な死体、生存者の自失状態、天災と申しながら心から憤激を覚える。あの堤防が切れるとは誰が予想したろう。電柱に登つて助かつた実話を聞く。不覚にも、貯木池東の堤防が切れ流木が南区内へ乱入した事は少しも気付かず、ただこれは大変な事になつた、30年の苦労も一夜にして吹つ飛んだなーと狼狽する。1、2号運河を経て10号運河の状況。帰路大江川、名港貯木場を見て木材会館の役員会へ視察状況を報告。この収拾は急を要すると力説、この間も住宅街への流出を顧慮することなく流材処理委員長をお引受けする。軽卒この上なし。
 29日本部を内田橋名古屋筏組合。委員30余氏の協力を得て人なし、鳶なし、縄なし、米なしでスタート。委員の有志が白米を持参して労務者米の確保をはじめ、器具、器材を東京、大阪へ急送を乞う。と同時に本部を総務、水上、陸上の3部に編成、先ず海洋流失を防止するため、水上交通組合杉山理事長に両堀川業者より労務者の大挙応援を懇請、各工場共従業員の被害甚大なるに拘らず連日100余人の応援を得、水上は筏会社に、陸上は藤木海運に集材を委任する。
 殊に新堀川応援隊を自ら指揮し積極的に協力願つた丸勝木材社長野瀬氏の熱意には頭が下る。
 10月2日頃漸やく被害状況明白となり、南部地区の流木被害甚大の新事実に狼狽、早速杉山市議と共に南区長、警察署長を訪問、市民の感情融和を懇請、更に弔慰見舞金を差上げる用意ある旨連日申入れるもその機を得ず、死体収容食糧確保、堤防仮締切等難問山積の区長には無理と察知、6日より市長に申入れるも同様、その間真実を探究せず、軽卒な新聞報道に区民の憤激その極に達す。本部は仮締切前水運利用による集材に苦慮するもその効なし。
 仮締切工事中潮流による流木破壊で大目玉、八方塞がりなり。締切の進捗につれ民心安定のため自衛隊出動、集材協力懇請を企図、事務局もなきため、自ら名(迷)文並びに地図を作製、鈴木組合長、杉山市議と共に連日中部、県、市の対策本部を歴訪、時には深更に及ぶ。漸やく営林局長、県農林部長の熱心な助言により1個小隊出動決定、快哉を叫ぶ。その間筏会社並びに各委員の尽力により東京、大阪、神戸、富山、北海道、清水、高知等より筏労務者230名も来援、本格的集材となる。ここにおいて私は熟慮の結果、未曽有の大問題解決には組合の総力を結集すべしと確信、組合長に辞表を提出。
 17日、緊急首脳会議で払暁に至り組合長の本部長、大島、斎田、中村の副組合長に杉山、私が副部長と決定、全員協力を約すも不幸本部長が連日の心労のため発熱で倒れ辞任され、空席のまま作業を推進する。
 20日、南区伊勢市議、広瀬南区公民会長の斡旋で南区代表と公会堂で第1回の話し合いの機を与えられ、更に港区長谷川県議の斡旋で港区の一部とも話合い、会合4回にして26日完全妥結す。この間各区代表者の御労苦に全く感謝する。
 27日、商工会議所において荷主大会を開催、斎田氏が本部長に、副部長に中村、杉山、私が決定、委員の増員も得て快調に集材が進捗。12月20日現在陸上残量約5万石(当初45万石)水中全量集材、総量96万石中実荷主認定済50万石に達し、陸上は年内、水中明年2月略々終了の見通しもつき快調であるが、貯木場狭あいの為め輸移入材を抑制し、原料面で御迷惑をかけた当市業者に心からおわびする。
 然しまだ難問が相当ある。私は真剣に本問題と取組み本部長を補佐して最善を尽くすと共に再びこの惨害なきよう全業界を挙げて木材界100年の大計を樹立すべきことを痛感する。
 終りに災害発生以来特別の御援助、御協力を賜つた林野庁、全国業界、県市当局、港湾関係者、南港区代表者、業界新聞、各委員の方々には衷心より御礼申上げると共に一層の御支援をひたすら懇請して擱筆する。

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写真 上地 武氏
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写真 (集材に威力を発揮する藤木海運のクレーン)
その11 新入荷材を規制

 集材作業に対する流木処理委員会の活躍と併行し、当時業界の最大の関心を集めたことに新入荷材の入港制限問題がある。
 名古屋港の閉鎖期間中は当然のことながら制限付開港後も入荷制限は継続され、流対の人港対策委員会の管理下で流木集材を円滑ならしめ、又個々の輸入計画の衝突混乱を避けるためにも止むを得ぬ手段として、いわば必要悪として容認されていたが、これとは別にさらに有力な理由として協力費問題がある。
 すなわち新入荷材に石当り100円(毎月減額し、昭和35年3月以降中止された)の協力費を徴したことについては、単に調整手続上の経費ということだけでなく、莫大な支出を要した流対本部の諸経費を積極的に支援するという大きな意味があつた。当時流木対策本部の収入源としては各荷主から徴収する予納金石当り150円と、集材費(各貯木場により300円~600円)があつたが、集材費は勿論請負作業の支払いに引当てられるもので、各委員会や事務当局を擁する流対本部の諸経費の支出には前記予納金が充当されており、莫大な流木の集材作業完遂という前途をかかえている本部としては予納金だけでは不足を告げる惧れありとして、ここに新入荷材に対して協力費徴収を図つたものである。
 幸いにして各荷主の協力を得て相当額の収入が得られ、かつ流対本部の経費支出見通しもついたので周知の如く2月末日限りをもつて打切られた。
 下記は昭和34年10月15日付をもつて流木対策本部(正式には当時まだ名古屋木材対策本部流木処理委員会である)から新規入港材の各荷主宛出された協力費要請文の全文である。

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協力費要請文

第4章 活躍する組合本部

その12 先ず公共用材から

 9月28日名古屋木材組合に設置された災害対策本部の各委員会は、即刻夫々の部門での処理活動に入つたが、翌29日には流材処理委員会が新設されたばかりの名古屋筏企業組合内で初委員会を開き、流材処理の具体的方法の協議を行い、関係方面への通牒(前掲)が発せられたのに引続き、9月30日には公共材対策委員会の製材対策委員会が木材会館で開かれ、(1)水没地堤防仮締切りのための水防材の特急製材、(2)その資材としてモミ、ツガ、スギなど国有林36,000石と所有者の明らかなソ連材20,000石を充当する、(3)そのため稼動製材工場の馬力数及び生産能力を至急調査するが、非組合員は除外する、(4)代金の受渡しは本組合で行う、(5)製材の適正価格を判定するためブロツク別委員を設置することなどを協議決定し、緊急至上命令ともなつた各方面の公共材需給安定に力強い活躍を開始した。さらに10月1日には災害対策本部会議で他県からの公共材移入方法並に受渡し方法を審議しこれら公共材代金は組合本部がプール機関として支払い代行を行うことをも併せ決定した。
 また復興対策、金融対策両委員会も10月2日会議を開き、復旧用資材としてスレート、亜鉛鉄板、釘、ガラス、結束用縄、などの入手斡旋方を名古屋通産局及び県、市商工当局などに懇請、また金融委では流通資金の非常時増枠などを主務官庁である林野当局、中部日本災害対策本部(政府直轄機関)、名古屋商工会議所、関係各金融機関などに対し即日陳情を行うことになつた。
 いうまでもなくこの種災害発生に伴う各種対策事業はすべて前例の無いものであり、まして伊勢湾台風という史上空前の大災害であつてみれば万事の対策や処理活動が桁はずれの規模をもち、常識を遥かに破る困難を伴つていただけに、名古屋木材災害対策本部各首脳の労苦が並大低のものではなかつたことは想像に難くなかろう。
 この組合本部の処理活動が前例の無い中を暗中模索し、百論百出の論議の末打ち出されたものだが幸いにして当を得たものであつたことはその後の復旧段階において、こと木材需給に関しては困難を免れなかつたとは云え、その不安や混乱を最少限度に止め得たことからも自明のことである。その中でも最も画期的であり、さらに輝かしい成果を収め得たものは応急仮設材及び水防材を含む公共材対策と、材価暴騰防止と民心安定を図る罹災者用対策の2点にあつた。
 即ち組合本部では10月13目午後2時から木材会館ホールにおいて災害発生後2度目の臨時役員総会を開催し、既に同日までに開かれた各対策委員会決議に基づく各種対策事業の再検討を行うとともに、その具体的施策について協議決定を行つたが、ここにおいて応急対策機構並に処理方針、災害対策要綱は全く確立され、その後の活動に大きな力を与えたものであつた。
 同日席上明らかにされた各対策委員会の活動情況は、(1)流材処理について杉山定吉副本部長(八宝製材社長、市会議員)から流材被害の最も甚大であつた、柴田、大同、白水地区でそれが社会問題にまで発展しそうな勢いであり、県、市各1名宛の立会吏員出張の下に目下円満処理に努力中であること、さらに現段階では作業が極めて困難であるが自衛隊員約50名の応援出動を得たこと、今後は県、市当局の態度からみて業界独力での打開をはかるべく事態処理の方途をさらに考究する必要があることなどが明らかにされた。
 (2)入港船対策について杉山委員長から木材関係各工場の復興情況からみて予定船の入港を可及的速かに計り、資材確保の緊要なことが述べられ、既にラワン材2船、ソ連材1船が手配済みであること、10号地を仮繋留地としてインボイス通関が承認済みであること、さらに10月中の入荷材に対し「対策協力費」として石当り100円を徴収することなどが明らかにされた(3)金融対策についても長田委員長から災害特別融資制度(中小企業者向け)及び税の災害減免措置など詳細説明があつた。
 (4)流材処理委のうち堀川班については集材処理方法を鉄道池、白鳥池、堀川に3区分し所有権の確認が同月中で終ること、さらに何れも予納金(処理協力費)を徴収することなどの説明があつた
 次いで鈴木組合長から県外の木材業界から寄せられた激励と同情、及び見舞金品の現状について報告があつたあと、前述の通り災害対策事業の中、最も画期的な罹災者用木材直売所の開設を敢行した趣旨説明が行われ、各理事からも賛同意見が述べられ、ここに特筆すべき役員会を終了した。
 なお同日発足した罹災者用木材対策要綱並に木材災害対策要綱全文は次の通りである。
  △木材災害対策要綱
 当業界は伊勢湾台風がもたらした未曽有の惨禍に直面し、その課せられた使命の重大性に鑑み、自主自粛をもつてこの緊急事態の収拾に寄与するため敢然と総力を挙げてこれに対処する。
1、緊急役員会の議定により木材災害対策本部並に各対策委員会を設置する。
2、各委員会における具体的要領は関係委員会でこれを定める。
3、本部長は総てを統轄し、速かに対策の実施を計る。
4、本部と各委員会は常に関係当局並に報道機関と緊密なる連繋の下に新しい情報の獲得と指令の伝達と対策の実行に努める。
6、各委員長は本部長に対し毎日1回状況報告する。
7、報導の1元化を図り誤報並に錯雑をさける。
8、集合時間の励行を強化する。
9、収支の経理は別途会計とする。
10、県内、外材の受入体制を整え、公共材特に水防材の確保に最善を期する。
11、木材価格の平静化と民心の安定を図るため罹災者用応急材の迅速適正な販売の方途を構ずる。

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写真 (知多半島沿岸の惨状)

その13 ■用木材対策要綱

    記
  △罹災者用木材対策要綱
 当業界は下記により可及的速かに所要木材を確保して迅速且つ適正なる供給を行い、価格の平静化と民心の安定を図り、災害の復旧に対し全面的協力をするものとする。
1、県の内外を問わず速かに所要木材の確保を計る。
2、受入材の契約者を愛知県木材組合連合会とし、名古屋木材組合がこれを代行する。
3、名古屋木材組合は県木連の代理として銀行借入金をもつてこれの支払いを行う。
4、本用材に対する経費は本組合の特別会計とし、総ての経理は別紙「罹災者用木材販売に関する経理要綱」に依る。
5、罹災者用木材直売所を次の通り開設する。
 港区=山城屋材木店(櫟木清吉)中川運河金船町東海橋バス停西南角
 南区=真野木材KK(真野鈴雄)木場町6丁目市電南陽通り4丁目南
 瑞穂区=山岸製材所(山岸藤男)新堀川新開町日の出橋詰
 中川区=材摠木材KK(江端正雄)江川線西古渡電停前
 熱田区=大森木材KK(大森忠男)江川線八千代通り中央市場前
  〃 =大同木材工業(小山芳松)花表町東海木材相互市場前
6、直売所に「罹災者用木材直売所」の標示をする。
7、直売所は名古屋木材組合が代催し、名古屋営林局並に県、市がこれを後援する。
8、直売所の係員は指定の腕章を附ける。
9、直売所係員には指定を受けた針葉樹一部会及び二部会の会員がこれに当る。
10、販売品目は主として垂木、貫、柱、合板とする。
11、販売価格は別表の通りこれを定める。
12、販売については各区役所発行の罹災証明により一戸当り木材は2石以内、合板は10枚以内とする。
13、罹災者証明書持参者には地区の限定なく販売する。
14、販売価格表は見易い場所に掲示し必らず現金取引とする。
15、販売時間は毎日午前9時から午後5時までとする。
16、直売所は受入並に販売件数、品目、数量、金額等を取纒め翌日午前10時迄に災害対策本部長あて報告する。
17、販売用材の保管警備については最寄警察当局と緊密なる連繋の下に最善をつくす。
18、直売所においては本指定木材以外の販売を行わない。
     以上
    記
  △罹災者用木材販売に関する経理要綱
第1条 静岡県材に対する支払資金は銀行より借入れ、返済は売上金をもつて逐次充当する。利息は当会負担とする。
第2条 受入材の代金は当会より静岡県木連に一括支払う。
第3条 販売所は売上につき月の初日より起算して5日目毎(最終は月末)に締切り、各その翌日、静岡県材と市内手持出品材とに分け各別に売上伝票を集計し、数量及び金額の合計票を添付して当会に報告する。
第4条 販売所は第3条の報告と同時に、静岡県材売上代金の100分の3に相当する金額を控除し、残金を現金又は販売所の発行する小切手により当会に納入する。
第5条 販売所の事務費及び商品受渡等の費用は売上代金の100分の3に相当する金額をもつて充当すること。
第6条 市内手持材については販売所と当会との間に金銭の授受をしない。
第7条 販売所は静岡県材の到着と同時に数量及び金額を当組合に報告すること、なお保管の責任を負うこと。
第8条 本要綱は名古屋木材組合が代行する。

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被災者用木材の販売価格
その14 万全の復旧対策

 台風の一夜を境にして、わが国有数の生産都市名古屋は、巨大な消費地に変貌してしまつた。
 広大な冠水地帯の堤防仮締切りに始り、罹災者用応急住宅、そして復旧需要と木材の需要は一時的にそして大量に求められ自ら罹災者であつた木材業界であつたが、良くその要望に応えぬいた陰には適切な国有林当局の対策と、静岡県木連をはじめ、大阪、広島などの各業界の暖い援助があつたことを忘れてはならない。伊勢湾台風による国有林の風倒被害は、木曽檜を含む長野局材430万石、名古屋局材50万石、前橋局材75万石、東京16万石、秋田2万石、青森7万石、札幌13万石、など実に8営林局管内にわたり700万石に上り、去る29年9月の北海道風倒木7000万石に及ばぬにしても内地における風倒被害としては最高の数字を記録したのであつた。
 東洋一の規模と設備を誇つた名古屋熱田営林署白鳥貯木場内も、強風と高潮で混乱を極め、貯材65,000石が混材したほか庁舎も冠水の中に沈んだ最悪の事態だつた。
 しかし前述の通り応急用木材は一秒を争つた。
 このため名古屋営林局では中部地区災害対策本部の復旧対策に即応態勢をとり、丸山局長を本部長として「災害対策協力本部」を設置し、10月2日現在既に水防用杭丸太2,600本、矢板400石を放出したのに続き、管内の新域、小坂、中津川の各営林署から小丸太3.400石を同本部に緊急集積、管内14営林署の備蓄材14万3,000石の中緊急輸送の可能な応急材53,000石、長野局より20,000石、東京局より27.000石の計10万石の緊急移入を行つた。
 さらに水防材、難民住宅用材として熊本局30,000石、高知局30,000石、前橋局30,000石、秋田局10,000石の計10万石を手配したほか、愛知県、及び名古屋市当局から要請のあつた仮設住宅25,000戸分の製材品41万石に対し、国有林材を裏付けとして各地県木連から集荷を図るなど、災害にもめげず国有林当局の復旧対策は万全が期された。
 このほか民間ベースでの緊急移入対策も積極的に展開され、対策本部から斎田清喜本部長、大森忠男(大森木材KK社長)、江端正男(材摠木材KK専務)の3氏が静岡県木材組合連合会に懇請し、スギ柱角、タルキ、ヌキ、板などを静木連の全面協力を得て移入し主として罹災者用販売所などに2,952石が入荷された。
 又愛知県木材買方協組でも渡辺守彦(材為商店)、馬場勇(買方協組専務)、山田源市(山源木材)、富板准一(板庄商店)、鬼頭治三郎(マル治鬼頭)、清水正一(染木木材)の諸氏が急拠下阪し、大阪木材仲買協組、大阪木材業組合を訪問、製材品5,000余石の友情供給を仰ぐことが出来たのであつた。
 さらに名古屋市内の東海木材相互市場、関西木材名古屋支店、西垣林業相互市場など各市売機関も集荷能力をフルに発揮して需給安定に努力し、価格面でも売止め策をとつて暴騰を防止するなど、当時の混乱の最中にあつて良く需給と価格の安定を保つたことは感銘深いことであつた。
(註)なお伊勢湾台風で被害激甚を極めた愛知、岐阜、三重3県下に対する国有林からの(一部ソ連材を含む)緊急災害復旧用材の供給計画は下表の通りで、官民材総計74万石が動員された。このほか追加要請された水防材については立木の非常伐採によつて供給された。

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写真 (集材の中枢流対本部)
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災害復旧用材(緊急)供給計画

第5章 流対本部の分離独立

その15 珠数を片手に

 10月10日前後といえば市南部には勿論未だ胸まで浸る海水と泥土の世界であった。集材作業開始で先ず道路の開通といっても水が深いためトラツクやクレーン車は行動の自由が得られなかった。
 そこで散乱浮遊している流木を片寄せ、筏による交通や救命ボート類の航行を容易にすることが仕事であった。この中で地理に暗い地方からの応援作業員があとからあとから発見される犠牲者の遺体と取組むのだから、作業の進行は極めて遅々としたものであった。
 特に柴田、白水地区は8号貯木場にあつた60万石に達するラワン材の大部分が散乱し犠牲者の多かつた所だけに作業員の苦労は並大低でなく、泣き叫ぶ遣族の要求に応えて遺体発見が最優先した。こうして10月16日柴田白水地区の完全排水の完了とともに、いよいよあの流木史上に忘れられない「死と泥と木材」の苦斗史が綴られていつた。
 これより先、全くの放心状態から漸く再建へと目ざめて行つた民心は、あまりにも激甚な流混材による被害に驚き、絶望の声はいつしか流木の所有者である木材業者に対する激しい怒りの声に変りつつあつた。
 その怒りを端的に現わしているのが「このマンモスのような丸太さえなければ、女房や子供を殺さずにすんだのに」という木材業者に対する痛烈な非難と怨嗟の声であつた。当時毎日のようにラワン丸太の下から堀り出されていた遺体を前に、民心は激しい憎悪の空気に包まれ、流木整理に従事した現場作業員達は戦々兢々たるうちに約10日間を過したのであつた。
 流対首脳部もこの事態を重視し、中部地方対策本部(政府直轄機関)への陳情をはじめ県、市当局への折渉、自衛隊への出動要請など民心安定と集材作業の円滑化をはかるため杉山市会議員、上地委員長などを中心に懸命の運動をつづけたほか、とくに地元民との交渉には細心の注意を払い、陸上、水上班などの現場作業班中に専任の渉外係を置き、たとえ1本の流木でもそれを集材、引取る際にはいちいち渉外係員がその所在地の家主、地主など関係当事者に鄭重に申入れを行い、充分に納得の上引取ることになつており、地元民の反対に会い引取りが難航した場合には流対本部総務委員会直属の本部渉外係員の川口武男氏(美深プライ)、上野庄吉氏(津田産業)らが折衝に当り、1本の丸太を引取るために数十回も足を運んで説得に当つたこともあつた。
 さらに尖鋭化した地元民の民心安定のためには現場作業員全員が渉外の重要さを認識し陣頭指揮に当つた杉山副本部長が直径3尺に及ぶ大ジユズを胸に、毎朝のごとくに出動前の作業員を集めて「流木撤去は遺体収容を最優先し、常にホトケ心を持つて遺族に対し、遺体を発見したら先ず合掌して念仏を唱えよ」と訓辞を繰り返していた姿は今も関係者の忘れられぬ思い出の一つとなつている。
 さらに本部としても集材計画や、集材上の手順を犠牲にしてでも遺族の意を安んずるために可能な限り多数の作業員を柴田、白水地区に投入し、集中作業に当らせたのも本部の配慮を物語るものであつた。
 また杉山氏の例にならい作業員全部にジユズと線香の携帯をさせることになり、このため本部の中にはジユズと線香の買出し仕入れに事務員1人がかかりきりになつたほどで、民心慰撫のため気の使いようは大へんだつた。又、水上班は水上班で多くの難関と斗つていた。中でも当時を回顧して最も口惜しかったこと、辛かつたこととして当時水上班の主体を成していた名港運輸成田氏、名古屋筏野間氏らの交々語るところによれば、水上班としては流木の中でも一番大きな集団る逃さぬように確保しようと努力を集中し、堀川、運河などに片端しから網場(アバ)を張つて行つたのだが、せつかく張つた網場や、ロープなどが、沿岸に混乱していた地元漁業組合や水上生活者達の小船舶の通行のためにロープが次々に断ち切られ、このため集材したものがみすみす流れ去つてしまうケースが連日のように発生し現場作業員を口惜しがらせたものであつた。
 さらに山崎川では、堤防の仮締切りと並行して集材の整理が急がれたが、何しろ海岸堤防が決壊したままのこととて、海水の干満のたびに山崎川の水位が大きく上下し、このため堤防附近の電柱や鉄道線路に仮りに繋留してあつた筏づなが次々と切断され、筏を止めるのと流れるのとの追つかけ合いで堤防仮締切りに懸命だつた当局から毎日呼びつけられてお叱りをうける苦労の一幕もあつた。

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写真 (漸く平常に復した貯木場内)

その16 こじれた流木対策

 杉山市議、上地副本部長ら流対首脳による県、市当局への折衝、渉外係員による地元民折衝と集材に先がけての渉外は真に重要であり、至難な作業であつた。しかし作業現場ではそれらの政治的解決をのんびりと待つていられない事情があった。即ち直径2メートル長さ20メートルに達するラワン材の巨木を集材、移動させるためにはどうしても被害地の冠水中に水を利用しなければ到底人力では歯が立たぬところであり、水が引いてしまつてからでは早期整理は不可能であるとの観点から作業が強行され、柴田、大同、白水地区を中心に遠く知多半島方面にまで手をのばし、流混材の保管、確保……いわゆるマル災の刻印を押して歩いた……が強行されて行つたのだが、このような手段をとつたことが後日になつて被災者の憤激を買う結果になろうとは、当時関係者の誰しもが予想し得なかつたところであつた。
 さらに流木処理委員会本部が流材の所有権確保を急いだ今一つの理由に盗難防止の目的があつた。当時市内各貯木場から高潮に乗って港外に流失した木材の処置に流対首脳は頭を悩ませていたが、その量も名港々内から伊勢湾内海上に漂流しているもの、或は遠く太平洋に流失したと思われるもの、近くて知多半島西海岸一帯にわたり延々10数里に及ぶ地域などを含めおよそ14~5万石という莫大なものと推定されるに至つたが、当時の難問山積し、しかも組織、人員共に不完全な流対本部としては早急にこれら流出材確保のため行動を起すに至らず、まして相手が何処の浜にどれだけ打上げられているものやら正体不明の流木とあつて全く手がつけられぬのが実情だ。そこへ知多方面に流失したラワン丸太について盗難の恐れがあるという情報がキヤツチされるに至り、流対本部としてもこれ以上放置は出来ぬとして急拠愛知県警察本部の諒解を得て県警本部名入りの「盗難防止依頼状」を作成し、これで取敢えず伊勢湾、三河湾沿岸の市町村長、漁業組合長など地方自治体に協力を懇請し、もつて流木の盗難防止、異動禁止を地元に呼びかけることにしたものだつた。
 たまたまこの市町村長宛の依頼状が名古屋市内における盗難防止の回状、立札などと混同され、地元民の憤激を買う結果を招いたことは周知の通りであるが、その本文は後記の通り至つて常識的な依頼状であつたが、いずれにしても当時の、極度に混乱し、興奮しきつていた民心には好感を持たれなかつた。
 勿論これらの手段はひとり木材業者のみの利害観念ばかりでとられたものでなかつたろうが、この通達問題が地元民心の硬化を招き、遺体発見と住居の再建に必死の願いをこめていたところだけに地元民代表者が警察当局に処罰云々の通達の撤回を要求、これを警察当局が流対の責任として回避したため、俄然批難の矢面は流対に集中される結果となり、木材業者が極めて不利な立場に立たされた。作業現場では業者と住民が対立し、渡せ渡さぬで随所に小競合いを生じ、果ては日本刀を振り廻しあわや流血沙汰にまで発展しそうになつたことや、地元民が名古屋港木材倉庫会社に押しかけて興奮の余り灰皿を机上に投げつける暴状もみられた。
 しかし前章でも述べたように流対全員が終始一貫して低姿勢に甘んじ、抗争を厳禁していたことから一度も暴力衝突が起らなかつたことは不幸中の幸いであつた。
 流対本部でも既に何らかの補償を決意していたものの、この段階としては県、市或は国家の補償対策の出方待ちといつたところで、内田橋の流対本部に地元民代表と称して折衝に来た際も杉山副本部長が応待し、未だ結論に達せずと引取りを願つたことなど、実に苦しい立場に立たされていた。
 一方、世論は……毎日新聞をはじめ大新聞のセンセーシヨナルな取上げ方と相まつて木材業者の非を鳴らし、流木被害者に対する損害補償を要求するなど、流木問題は漸く重大な社会問題へと発展して行つた。
 当時の模様を報道した中日新聞の記事は人要次のようなものであつた。
 「流木に不満高まる―「被害をふやし復興の邪魔」、台風であばれて家をこわし、人命を奪った名古屋市南部の流木が、そのまま復興のジヤマをしてデンといすわつている。早くこれを何とかしてくれ」との声が起り補償問題にまで発展してきた」と4段抜きの大見出しで報じ、南区白水学区で区内の公民会長会議が開かれ、流木取片付けと補償の問題が検討されたことを伝えている。
(註)流対本部から伊勢湾沿岸各市町村宛に出した問題の通達全文は次の通りである。
 謹啓
 今般第15号台風により名古屋港周辺部の貯木場に貯木中の木材が漂流、陸上に打ち上げられるなど、御迷惑をお掛けしております。
 就いてはこれが対策として愛知県警察本部にも届出を済まし、名古屋流木対策本部を設置致しましたので、早急に集材回収することになりました。
 誠にお手数を煩わし恐縮ですが、貴町村周辺に漂流せる木材は当万より集材に係員が参上致しますので、その節は何卒お渡し下され度く、御高配の程お願い申上げます。
  昭和34年10月1日
     名古屋流木対策本部 印

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写真 (田畑に取り残された集材は苦労が一入だ)
その17 内田橋から加福へ

 こうした情勢を背景として10月16日、名古屋木材対策本部では午後6時から木材会館において緊急会議を招集し、鈴木本部長をはじめ大島、斉田、中村各副部長、加藤周太郎顧問、杉山市会議員、上地流木処理委員長ら関係首脳が参集撤■の会議を開催した。
 論議の焦点はいうまでもなく災害対策事業中最難関に直面している流木処理対策に集中され、流木補償問題を含む地元民対策、さらには莫大な出費を要する陸上集材作業などの重大問題の解決には現有の流木処理機構を根本的に再編成し、流木被害荷主の総意と努力を結集した最強度の新機構を設置すべきだとする意見の一致をみ、上地流木処理委員長が卒先して辞表を提出したことから直ちに新機構の編成にとりかかつた。
 こうしてここに従来の名古屋木材組合災害対策本部の1処理委員会として上地武委員長のもとに発足活動をつづけて来た「流木処理委員会」は事実上発展解消をみることになり、新らしく組合本部から分離独立した存在として「流木対策委員会」の誕生(流木対策本部という名称のもとに正式発足したのは加福の名港倉庫に移転完了後1週間を経つた10月27日の流木荷主総会の決議によつてからになる)となり、役員選出の結果新委員長に鈴木達次郎組合対策本部長が上地氏に替り兼任し、副委員長に大島三郎(名古屋木材)、斎田清喜(瑞穂製函)、中村国一(中村合板)、杉山定吉(八宝製材)、上地武(上地木材)の5氏が就任、名古屋業界として最強力の非常態勢が確立された。
 10月16日のたそがれ時に開会された緊急役員会が議了して散会したのが翌17日の午前4時過ぎという、まさに記念すべき暁の重要会議であつた。
 さらに同日をもつて新機構はその本部を初期集材の思い出深い内田橋の名古屋筏企業組合内から南区加福町の名古屋港木材倉庫KK内に移され、流木被害の中心地である柴田、大同、白水地区には指呼の間に進出し、文字通り流材騒動の台風の目として関係者にとつて生涯忘れられぬ思い出を遺した、いわゆる流対本部の発足の前駆をなしたのである。
 なお前述のとおりここに発足をみた新機構は、従来の組合本部の下部組織としての「流木処理委員会」を解消せしめ、真に被害荷主のみを結集した強力な、またそれだけに実行力に富んだ新組織を作る構想として確立されたというべきものであつた。
 さらに鈴木新委員長をはじめ更新された新首脳部も後に開かれる「荷主総会」までの暫定的な人事というもので、荷主総会招集の諸手続を行つたのみで、実際の集材作業は総会の決議承認を経て、完全な経理部門の裏付けがなければ行えぬ道理であり、このため同日をもつて「新流対」の発足ということは早計であろう。

第6章 難航した流木補償

その18 流木引取証の発行

 一夜にして百万石に達する流混材が発生したとき木材業者の脳裡をかすめた問題は、先ず第1にこれを如何に短期間に、如何にして集材するかであつた。そしてそれが同時に道路を閉ざされ、家を押し倒された人達にも共通の願いでもあつたはずだつた。
 だから作業の容易な冠水中に敢えて集荷に乗り出し、さらには認定を容易にし、盗難事故を防止するためにも「無断持出禁止」を告示し、立札をも立てて廻ったのだつた。が、これが地元民を刺戟し、いたずらに木材業者の非を鳴らす結果を招いたことは既述の通りであるが、ここに渉外係員の苦労があり、その功に負うことろが多かつた。
 こうした渉外の苦労が生んだ、いわば苦肉の策として採られた手段が「流木引取証」の発行であつた。
 既に当時でもかかる天災不可抗力による流混材がたとえ自家庭内に残存されていようがこれを拾得物とみなし、或はそれによる損害賠償の請求権は法的にも認められないし、まして国家による補償などを期待し得ないことは一般地元民でも認識していたのであるが、現実問題として流木により死傷者を出し、家屋建造物に損害を蒙つた者としては、その遣恨の対象として、流木を簡単には業者側に引渡せぬのが人情であって、又木材業者自身も道義的には責任を認め、ひたすら陳謝の意を表し、地元民との折衝には最大の誠意をもつて臨んだことは周知の通りである。
 とにかく流木集材は1日も等閑に出来ぬ至上命令であつて、いたずらに責任の所在を論議している場合ではなかつた。
 引取証の発行は当時流対総務委員会に出向社員として活躍していた上野庄吉氏(津田産業名支店勤務、本誌編集委員)が発案し、流材引取に際し対手方を納得させる手段として採用されたいわば非常手段であつて、上野氏をはじめ流対当事者の心境は「もし間違えば身を以て責を負う」心意気と「私心を捨て自己の信念に基づき」以て集材をスムースに運ぼうとする悲壮なものであつたようだ。何れにしても「受取」に非ず「引取」証により、地元民も被害の事実を証明されそれによつて流木引渡し後家屋の再建に取り掛れると喜んで納得したようで、流対渉外係員の説得と相まつて集材がスムーズに運んだことは上乗の成功であった。
(註)
 もつとも集材終了に伴つて一部地元民がこの引取証を持参して補償金を請求して来たが、本部側の懇切な説明と誠意のある態度に納得して帰り、結局同引取証による補償金問題は1件もなかった。ただ集材段階において家屋の一部や垣根などに止むなく損傷を与えた場合、渉外係員の才覚で若干の見舞金品が出された場合もあつたが、これとて百万石の流木集材という大局からみれば全く例外ということが出来る。
 なお依頼書(引取証)全文は次の通り。(br/>
    依頼書
 流木集材にお伺い致しました。
 本書持参者へ何卒お渡し下さるようお願い申上げます。
(当本部所属作業員作業による)
    記
 本数     本
 内訳
    月   日
         名古屋流木対策本部 印
    殿
 右の流木集材し正に引取りました。
    月   日
         名古屋流木対策本部 印
       作業員指名
               某   印

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写真 (復旧急ぐ八号地護岸堤防工事)

その19 懸命の地元民対策

 一方、地元民側でも10月中旬に至り流木補償問題をめぐる組織的な動きが活発となり、流木被害を社会問題としてセンセーショナルに取り上げていた一般大新聞の論調を背景として木材業者の不誠実、台風前の貯木保安の不備(これは後に誤解として解明された)を口実に損害賠償を強く要求するに至つた。
 特に柴田、白水、大同地区を中心とする南区民の動きが積極的で、10月17日午後2時から白水小学校で開かれた南区公民会長会議など、その最も代表的な会合であつた。当日の模様を市内版のトツプ記事として掲載した中部日本新聞の同日夕刊紙上から、その模様を転載してみよう。
 「(前略)本日白水小学校で公民会長会議が開かれ、学区長水野三四三県議(社)、顧問の福井健造市議(同)をはじめ23人の代表が出席「この地区で1,000人もの人が死んでいる、この大半は流木のためにやられたのだ、当然業者からなんらかの話があるべきだ」と補償問題について意見を交した。その結果△被災者と業者が直接話合うと誤解や疑惑が生じやすいので、県または市を仲介者にして話合う△これは単に白水学区だけでなく南区全体の問題だから他の学区とも力を合せていく△業者との第1回の会合を19、20日ごろ開くからこの間業者が流木を片づけにきても町民を説得し無用の混乱はさけること、などを決めた。」と報じ、既に流木を集めにきた人夫と引渡すまいとする町民の間に小ぜり合いも起つている――名港流木対策委員会は非公式に「500万円くらいなら」と見舞金を出すハラだが、町民はとてもそんな額では(後略)と地元民の強硬な態度を報じている。
(註) 文中名港流木対策委員会の名称など、不正確な語や、不適当な表現が多いが、これら大新聞紙上の一方的な報道が、木材業者を不必要なまで苦境に追い込んだことは、報道機関の在り方として今後に多くの問題を残している。
 このような一般新聞の論調や、世論の悪化、及び市南部の地元民の激昂と流木補償問題の難航に苦しんだ流木対策本部は、何とか民心の安定と世論の解明を図りたいと種々方策を求め、県、市当局への陳情や、中部地区災害対策本部(政府機関)にも対策を期待したが望みを達せず、結局具体化したことは中部日本放送(CBC)からの放送と一般大新聞紙上への広告であつた。
 即ち10月19日午後3時半から4時に至る30分番組としてCBCで流木問題を採り上げ、正しい理解と速やかな解決を期待して地元民代表と業者側代表による座談会形式で放送したものだつた。出席者は名古屋港管理組合の浜島港営部長をオブザーバーに迎え、地元側に白水町代表坂五郎氏、柴田町代表宇野正男氏、業者側は鈴木達次郎、杉山定吉の正副本部長が出席した。その主な内容は大要次の通りである。
(イ)台風及び流木による死傷者は名古屋全市で約1,600名に達したが、そのうち流木被害の最もひどい南区は死者1,200名、港区は400名に達している。
(ロ)「流木を勝手に処理すると罰せられる」という意味の立札が当初市街地に立てられたがこれが地元民に極度の刺戟を与えている。
(ハ)痛ましい犠牲者の冥福を祈ると共に、その補償につき木材業者は納得のいく方策をとつて欲しい。
以上の如き要望が出されこれに対し業者側から誠意をもつて解決をはかり、見舞金を出す用意があることを確答し、これは電波に乗つて街の隅々にまで伝えられた。
 次いで10月21日付の大新聞紙上に掲載された広告全文は次の通りである。
 此の度の伊勢湾台風により名古屋港周辺の貯木場に貯木せし木材にして、漂流又は陸上に打上げられる等、皆様に多大の御迷惑をお掛けし、その被害に対しましては心から御見舞申上げます。
私共は総力を挙げて1日も早く御迷惑をお掛け致している箇所の集材を致し、皆様の復興等に少しでも御協力を致すべく努力している次第で御座います。何卒御高承を賜り、今後共よろしく集材に御協力を貸し与え下さる様切にお願い申し上げます。
   昭和34年10月21日
     名古屋流木対策本部

その20 難問漸く妥結

 流木補償問題をめぐる木材業者と地元民との第1回の会合は、10月20日に名古屋市公会堂第一会議室で開かれた。
 当日会場には終始緊迫した空気が流れ、業者に不満を持つ地元尖鋭分子が兇器を持つて会議場にナグリ込みをかけるとの噂もあつたほどで、当日席上は杉山定吉、上地武、中村国一、斎田清喜、阿部広三郎氏ら業者側を代表した大物ぞろいであつたが、その心境は全く誇張でなく必死のものがあつた。
 業者側は終始低姿勢で会合に臨みひたすら陳謝の意を表したのだが、怒り立つた地元代表は全く業者側の苦衷を思いやるゆとりもみせず、激しい追求ぶりはいささかの弁解も説明も受け付けないほどのものであつた。
 当日の模様を伝えた中日新聞を次に掲げよう。(一部抜粋)
「流木によつて被害をうけた地元民と木材業者の流木関係打合せ会が20日午後2時30分から市公会堂第一会議室で開かれ、地元代表水野三四三県議、福井健造市議ら南区選出議員8名と広瀬大祐公民会連絡会議長ら6名の計14名、業者側から杉山定吉市議、上地流木対策本部副部長ら6名斡旋役の伊勢弦八郎市議にオブザーバーとして大西市会議長、林南区長らが出席、地元側から流木さえなかつたら人命、家屋にあれほど被害はなかつた。木材の管理が不完全だつた。電気、ガス、水道が災害直後迷惑をかけたと広告したのに木材業者はそんな広告をしないばかりか、勝手に流木の処置に来たり、愛知県警本部の名前を振りかざす文書を配布したり、流木を勝手に処分すると罰せられるなどハリフダをした。人命や家を奪つた流木に対する認識が無く全く誠意が認められない、とつめよつた。
 これに対し業者側は流木による被害発生を知つたのがおそく、そのため処置が後手に廻り地元民の感情を刺戟した。被害者との話合いも区長、市、県に頼んだが断られ、日数がかかつた。ハリフダも業者向けに立てたがこの点も誤解をうんだ。いずれにしても陳謝すると述べ、弔慰見舞金を出す用意があることを示し、地元側もこれを一応了承し、23日に第2回打合せ会を開くことを決め散会した……」とある。
業者側と地元民との第2回の会合は、10月23日午後3時から前回と同じ市公会堂会議室で開かれ、斡旋役の伊勢市議、広瀬南区公民会議長が両者の意見を調整した結果、業者側からの弔慰見舞金を受入れることで解決のメドがつき、再び26日午後1時から市役所委員会室で市当局者の立会いを求め最終的結論を出すことになつた。
 見舞金の額については県、市の今災害被災者に対する見舞金額を基準とし死者1人当り12,000円、家屋完全流失8,000円、同全壊4,000円、半壊2,000円の4段階に分けることさらに被災者の対象を南区全域及び船見町など港区の一部も含めて全部を同様に取扱うことに地元民側で話合いがつき、業者側としても納得し、26日の会合では金額の点だけに話題がしぼられ、しかも当初地元側の主張した損害賠償もしくは補償金という考え方が、業者側の誠意をつくした弔慰見舞金という道義心の発露が認識され、業界の苦しい立場をも漸く理解されるところとなり、補償金額も地元側の要求額であった4,000万円と業者側の2,000万円の中で互いに歩み寄り結局は堀川以東の犠牲者のために業者側が一括して3,300万円を贈り、配分は市に依頼することが出来た。
 いずれにしても、さしも揉みにもんだ流木補償問題も業界代表各氏の誠意と努力が実を結び、この26日の会議を以てわずか4度の会合にして一気に妥結の運びとなつたことは望外の幸せであったというべきで、その後は作業も1日平均2,000石集材と急ピツチで進行、10月末には早くも20万石の認定を完了した。
 なお、その後において見舞金は被災個人に配布され、会社、工場、学校、神社など法人関係へは配分されなかったことから流対との間に多少の問題があつたが、それらはいずれも本部渉外係員の誠意をつくした努力が実を結び、それぞれ円満解決をみたことは、木材業界100年の大計からも誠に同慶に耐えないところであった。

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写真 (頼みの鉄路もこの有様)
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流木処理委員会組織表(34.10.改組まで)
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流木対策本部組織表(34.10.改組後)

第7章 流木対策本部の成立

その21 流木荷主総会開く

 流木処理委員会が組合本部から分離し、真に流木被害荷主のみによる集材機関として各荷主の貴重な財産の管理を行う以上、その施策万端について総意を問う必要のあることは当然のことであつたが、県、市当局への折衝、流木補償問題など難問を抱えて苦斗の連日であつたことから荷主総会の開催が若干おくれたことも止むを得ぬ事情であつた。
 そして10月下旬を迎えて漸く流混材の実態調査も軌道に乗り、被害荷主届出も280余件96万余石に達し、これらの集材費概算も実に総額4億7,000万円という莫大な金額が見込まれるに至り流対本部首脳も最早荷主総会の開催を1日も延引出来ぬとして、10月27日午後1時から名古屋商工会議所で荷主総会を開催することに決定したのである。
 いうまでもなく27日の流木荷主総会は、今災害対策中最大の事件の一つであり、文字通り画期的な意味を持つもので、当日の会場には全荷主286名中大半の226名の多くが参集8号、加福、名港各貯木場(中川運河、堀川大瀬子橋上流、新堀川は除く)及びその他の場所にあり名古屋港木材倉庫の管理下にあつた流混材荷主のうち8割強が顔を揃えたことになり、流木の集材、配分、及び処理費の負担、徴収など荷主の死活問題を協議するだけに、会場には文字通り緊迫した空気が漲つていた。
 当日の総会次第は①開会の辞(河野保徳総務委員長の挨拶)②議長団選出(杉山定吉、中村国一、斎田清喜の三氏選任)、③経過報告、④規約審議、⑤委員選出、⑥本部長挨拶⑦作業並に配分方法の決定、⑧経費の分担及び徴収方法、⑨閉会の辞、以上であつた。
 会議の模様は、全員起立して流木による尊い犠牲者の霊に黙祷して冥福を祈つてから議事に入り、先ず上地武副本部長から大要次の通りの経過報告が行なわれた。
 即ち10月1日に至り8号貯木場の東部及び東北部における流木被害の激甚な様相が判明直ちに10月2日から上地、杉山両副部長により知事、市長、南区長らを歴訪して協力を求めると共に、自衛隊の応援を要請したこと、さらに荷役労務者不足のため東京、大阪ほか8県から来援を得たこと、このため現在ではクレーン10台(自衛隊1台を含めて)により1日に2,000石の集材が行なわれていること、工場復興に伴う新入港材の要求に対し10月中8万石、11月中10万5,000石のラワン材を入荷すること、10月12日付を以て名古屋港木材倉庫KKから流木集材作業を一手に請負うことの申出があつたことなどの事情が明らかにされ、さらに当時の最大関心事であつた南、港両区民に対する流木被害の見舞金は、3,300万円を流対本部として一括支払うことになったことなどが報告され、総会の了解が求められた。続いて別項の通り「流木対策本部規約」が審議決定され、この規約成立に伴つてここに従来の流木対策本部は自動的に解消され、全く新らしく権利、義務、既支出経費などの一切を継承していわば新「流木対策本部」のスタートが確認された。
 なお「流木対策本部」の新規約の成立により新段階を迎えた流木集材作業の請負制度確立については、今災害発生直後の業界人の蹶起に伴い木材組合、つまり荷主業者団体の自治的な緊急実施が行なわれたのであるが、しかし11月に入り木材の寄託機関である倉庫会社の態勢も完備し、さらに作業実施に当る各ステベ団体との連繋を図ることなど、漸く業界内にも荷主業者による集材整理の不自然なことが世論となり、夫々の職域が各自責任を分担し合うことが最善の策としてここに集材作業の倉庫会社による請負制度の確立をみるに至つたもので、この間契約成立までの立役者として当時流木対策本部顧問であつた故加藤周太郎氏(名古屋木材KK前社長)と藤木海運KK社長伊藤清蔵氏の労苦は感謝に余りあるものがあり、両氏の政治的解決は真に流対の生みの親ともいえるものであつた。
 ちなみに流木対策本部と名古屋港木材倉庫との間に後日交された契約書全文は次の通りである。
    請負契約書
 名古屋流木対策本部を甲とし名古屋港木材倉庫株式会社を乙として請負契約をなすにつき左記の通り契約を締結する。
 第1条 甲は伊勢湾台風により発生した流木蒐集作業の一切を次条以下の条件にて乙に請負わしめ乙はこれを請負うことを承諾した
 第2条 前条の請負賃金を左記の通り定む
  ①陸上集材 1石に付 金500円也の割合とする
  ②知多方面集材 〃 金812円也   〃
  ③港内集材   〃 金180円也   〃
  ④8号地、加福名港池内集材 〃 金230円也 〃
   但し以上の石数算定は何れも検知に基づく実石数による
 第3条 乙は前条の請負金を以て流散材の蒐集並に各荷主別に仕訳をなし引渡可能に至るまでの作業を遂行するものとす
 第4条 甲は乙の作業進行に準じて遅滞なく請負金を乙に支払うものとす
 第5条 若し甲の賃金支払渋滞ある場合乙の作業進行に故障を生じた場合は乙はその責に任ぜざるものとす
 第6条 流木蒐集の上荷主別に仕訳をなすには乙は甲の立会を求め甲の認定に基づき乙は各荷主毎に引渡しを行なうものとす
 第7条 集材配分作業は特別の故障なき限り昭和35年3月末日までに終了の予定とす(但し沈木処理を除く)
 第8条 集材の荷主別仕訳に当り荷主が判定し難いものが生じた場合別に甲乙双方協議の上処理するものとす
 第9条 流木引取に付き被害区民との折衝は甲において極力善処するものとし若し折衝妥結が延引する場合の責任は乙は負わざるものとす
 右の通り甲乙合意の上この条件を定め契約締結した証として本契約書2通を作成し双方各1通宛を分有する
  昭和34年11月3日
     甲 名古屋流木対策本部
       本部長 斎田清喜 印
     乙 名古屋市南区笠寺加福2ノ20
       名古屋港木材倉庫株式会社
      専務取締役 野崎 霊 印
   取 極 書
 名古屋流木対策本部を甲とし、名古屋港木材倉庫株式会社を乙として甲と乙との間において今般左の通り取り極める
 1、昭和34年11月3日、甲と乙との間において締結せられたる請負契約書第2条に、左記文書を追加挿入する
  ⑤8号、加福、名港池内沈木集材作業割増   1石に付 金170円也の割合とする
 右の通り甲乙合意の上取り極めたる証として本取り極め書2通を作成し、双方各1通宛を分有する
  昭和35年2月1日
     甲 名古屋市南区笠寺町加福2ノ20
        名古屋港木材倉庫株式会社内
         名古屋流木対策本部
      本部長 斎田清喜 印
     乙 名古屋市南区笠寺町加福2ノ20
        名古屋港木材倉庫株式会社
      専務取締役 野崎 霊 印

その22 経費総額5億円に

 さらに同荷主総会における全議題中、最重要な議題の一つはいうまでもなく経費問題であつた。総額5億円に達する集材処理費の荷主別分担、及び徴収方法の2項目であつた。
 席上上地副部長から説明された集材、経費についての本部案は大要次の通りである。
 ①集材期間
 請負者側(倉庫及び荷役会社)の予定では、(イ)陸上班のうち柴田、大同方面は12月末、名港、加福は11月末、8号貯木場は12月末、10号地及び運河周辺は12月末。
(ロ)水上班のうち8号、加福は翌年3月、名港貯木場は12月末までに夫々集材を終る見込み
 ②処理方法
 集材に当つては場所により非常な作業上のロスは免れない。従つて認定を完了した材から逐次引渡し、別に定める経費基準に従つて分担金を徴収していく、又流木処理の原則として経費はプール計算とし流失材は荷主の実損とするが、荷主不明の材は全寄託数量に按分して配分を行なう。
 ③経費の内容
 作業に必要な経費総額は名古屋港木材倉庫KKの請負見積額によれば4億700万円となる。
 その計算基準は、石当り作業費を陸上にあるもの平均500円、知多方面への流出材812円、湾内にあるもの180円、加福、名港、8号各貯木場内にあるもの230円として算出され、全作業対象石数を95万石とした場合石当り平均料金を428円とする。流失材が1割出れば、これが1割高となる。
 ④経費徴収方法
 9月26日(災害発生時)現在の倉庫寄託量は名港貯木場19万石、8号及び加福貯木場その他が76万石、合計95万石であるが、このうち流失木を1割見込んだ場合には名港17万石8号、加福ほか68万石となる。
 そこで経費分担金を名港貯木場分を石当り400円として17万石で6,800万円、同様に8号、加福ほかを600円として68万石で4億800万円となり合計4億7,600万円となる。
 これに災害発生後の新入港材に対し協力費として石当り100円を徴収しており、入港材(入港調整実施中で入港はすべて割当枠によつている)を10月10万石、11月20万石、12月30万石と見込んで合計60万石、6,000万円が徴収予定。
 従つて徴収総額は、5億3,600万円となり、この場合作業見積総額4億700万円との間に1億2,000万円余の剰余金が一応見込まれることになるが、これは想定を基礎としたものであり、又作業内容の見込違いも計算に入れるべきで、一応余剰見込金は本部費その他の準備金に充当する。
 以上が作業、経費に関する本部案の内容であるがこれについて名港貯木場荷主側から同貯木場の特異性を強調、本部案の石400円に反論が述べられ、結局この問題は委員会に一任されることとし、ここに作業料金の予納を含め全議題を満場一致で議決し、業界懸案の流木荷主総会は無事終了した。
 そして同総会で委員会議決に一任されたかたちの実際的な経費の徴収方法については種々論議が重ねられたが、結局総会から1週間後の11月3日、流対本部で委員会が開かれ、荷主よりの予納金及び集材費の徴収万法を大要次の通り決定した。
○予納金
 予納金は1石当り150円と定め、全額前納又は1回50円の分納を認める。
 なお予納金は流木対策本部の一般経常費に充当するもので、徴収金額は払込人に返戻しない。
○集材費
 ①名古屋港木材倉庫KK寄託材の8号貯木場、加福貯木場及びその所管材
                            1石当り=600円
 ②名港運輸KK管理材の南池貯木場及びその所管材     1石当り=300円
 ③名古屋筏企業組合管理材の北池貯木場及びその所管材  1石当り=300円
 ④KK千年組管理材の日車池貯木場及びその所管材     1石当り=300円
 なお①を除く②③④の三者材は個人貯木場であるため各ステベ会社は作業請負を行なう又集材費に限り概算金を徴収し、精算勘定の上剰余金が出た場合は各支払人に石高に準じ返戻する。
○例外集材費
 ①剥芯~端切等合板不適材にして名港南、北池にあったもの  1石当り=200円
 ②オモシ材で名港南、北池にあったもの           1石当り=150円
 ③旧材、用材でやや不良材だが作業取扱上同一に取扱われる  1石当り=300円
 ④東棉材、台風当時筏繋留場所が名港運河の通路内に避難し、所管が何れか論議があつたもので、結局名港倉庫と、名港運輸の二者共同保管となつた           1石当り=375円
 なおこの例外集材費に限り金額は荷主に返戻されない。
○協力費
 新規に名古屋港を経て入荷される木材一切を含め、流木対策本部において入港調整を行なうため荷主より協力費を徴収する
 ①昭和34年10月1日~12月末日まで    1石当り=100円
 ②昭和35年1月1日~同月末日まで    1石当り=50円
 ③昭和35年2月1日~同月末日まで    1石当り=25円
 なお協力費は荷主に返戻しない。
   註 3月以降協力費徴収は中止された。

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写真 (家も鉄道もすべて流木で埋つた)
その23 流対規約と役員

 流木荷主総会の決定による「流木対策本部」の新陣容及び流木対策本部規約全文は次の通りである。
「別記」 ○名古屋流木対策本部規約
1、当本部は名古屋流木対策本部と称する。
2、当本部の目的は伊勢湾台風によつて被害を受けた8号、加福、名港の各貯木場(但し中川運河、堀川大瀬子橋上流、新堀川を除く)並にその他の場所にあつて名古屋港木材倉庫KKの管理下にあつた流木の処理配分をなすをもつて目的とする。
3、本部に次の役員を置く。
 (イ)本部長 1名
 (ロ)副部長 若干名
 (ハ)委員 若干名
4、本部長は対策本部を代表し、委員により構成される各委員会を総理する。
 副本部長は本部長を補佐し本部長事故ある時は代理する。委員は委員会を構成して別に定める任務の遂行に当る。
5、本部には委員によつて構成する次の委員会を置く。
 (イ)総務委員会
 (ロ)経理委員会
 (ハ)陸上作業委員会
 (ニ)水上作業委員会
 (ホ)認定委員会
 (ヘ)入港対策委員会
6、本部長は会議の議長となる。
7、各委員会の任務遂行に当り重要なる事項は出席委員の3分の2以上の同意を得て決す。
8、流木の集材処埋は名古屋港木材倉庫KKに一括請負わしめ、その経費負担は委員会に一任する。
9、前項処理費徴収方法に関しては委員会に一任する。
10、本部の経費は処理費の一部をもつてこれに当てる。
11、本部には委員の承諾を得て相談役を置くことが出来る。
 (8、9の両項目の実施については委員会に一任して処理してゆくことを条文解釈として採ることとする)
本規約は昭和34年10月27日より実施する。 以上

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流木対策本部役員
その24 加藤経理委員長の手記

 ではここで終始流木対策本部の経理委員長として困難な資金運営に努力された三井物産KK名古屋支店長代理加藤六美氏の手記から当時の流対首脳部が如何に辛酸をなめたかを御想像願いたい。(原文のまま)
 資金調達に就いて
 被災日以来一日一日とその被害程度の増大する事が判明するにつれこれが整理に伴う資金も頭初予想したよりもはるかに莫大なるものが必要となるに至つた。果してこの資金を如何に調達するか、生やさしい金ではない故慈善的に金を出そうとする相手を期待することは絶望であり、どうしても関係被害者同志で工面しなければならない。
 然しながらお互いに関係者は大なり小なり災害を受けており他に資金需要もより以上必要なる秋であり果して集材関係費用が思う様に集まるかどうか。即ち初めのうち作業の進展につれてまだ材が荷主に渡らぬうちに作業員に対して賃金の支払をしなければならないし、又見舞金等作業費以外の金も必要となつて来たわけであつて、これを円滑にする為めの配慮は関係者として非常な心配事であつた。
 このような状勢下において経理関係として左記根本方針を決めた。
 1、資金的に各自色々の事情はあるにせよその負担方法は一律に平等でなければならないし事務処理の円滑を図る為め納金は総て現金主義で行く。
 2、あとになって金が余れば返すことは容易なるも足らなくなつて更に徴収は困難となる為め時節柄関係者には誠に気の毒ではあるが予想より多目に徴収して行く。
この方針の下に
 (1) 被災者の申告石数に基き集材費(保管貯木場によって流木被害の程度が相違し、なかなか決定されなかつたが8号、加福貯木場は石600円、名港貯木場に保管されていた流木は1/2の300円に決定された)の内金として一律に石50円宛を3回にわたり(150円)徴収して作業進捗の継ぎ資金を調達すると共に
 (2) 新規に入荷する木材に対しては協力費として、石100円(34年12月迄の入港分に対し。35年1月は50円、2月は25円を賦課したが2月入港分は後日返戻した)の賦課金を徴収して(1)の資金にて賄い切れない場合の補充資金を確保した。
 (3) 認定された流木に対しては(1)の残金即ち8号、加福は石450円、名港貯木場は150円を速やかに徴収する。一方又木材倉庫に対しても一時的立替金を都合さす事も交渉事実頭初のうちはかなりの金を立替えてもらつた状態であった。
 このようにして出発したが10月中旬頃見舞金として2,800万円を支出することに決定したが当時資金不足でどうにもならず、致し方なく関係商社に対し新規入荷賦課金(協力費)の前借を交渉、徴収して資金を充当する等かなり逼迫した時期もあつたが、全員の協力の下に先ず順調に取運ぶことが出来たことは誠に同慶の至りで業務関係者としては非常に感謝している次第である。
 何分突然の災害で関係業者は300名余りあり、関係費用の支出は災害日当日より始まつており、これが帳簿の整理に付て、又集金については、経理当事者として並々ならぬ苦労もあつた訳で、それだけに全関係業者より1銭の取り洩しもなく又収支も1銭の間違いもなく照合出来、大成功裡に事務の完遂を見たことは苦労も多かつただけにまた喜びも大きく、やり甲斐があつたと思う。重ねて関係各位の御協力を感謝する次第である。

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写真 加藤六美氏
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写真 (活躍する水上パトロール隊)
その25 五委員会の業務分担

 ここで流木対策本部内に設けられた各委員会の業務分担とその性格を眺めてみよう。
 いうまでもなく、これら委員会は台風被害の発生が古今未曽有の大規模をもって全く突発的にやって来たごとく、災害対策本部の設立や各委員会の業務も平時であれば先ず組織があり、綱領があつて活動に入るところであるが、今の場合先ず被害と活動があつて後に組織綱領が次第次第に形作られていつたのが実情であつて、当時の非常な混乱を回顧するとき、これらの組織と運営に当つた関係者各位の労苦に今さら乍ら敬意を惜しまないものである。
   各委員会分掌
△総務委員会
 流木対策委員会の本部として全般の集材、認定、渉外などの業務を統轄するもので、対内的な一般事務係と、対外的な苦情処理に従事した渉外係が含まれ、渉外業務には主として西野熊男(安宅産業)、三谷弘道(東洋プライ)、川口武男(美深プライ)3氏が担当した。
△経理委員会
 災害処理費、入港材協力費の徴収、各種用具の買入れ、支出を担当。
△陸上委員会
 名古屋市南部の市街地0帯に流混散乱した材を整理すると共に各所の流木集材に当り、作業主体である藤木海運と密接な連絡を図る。さらに集材作業現場における対外関係も本部渉外係(総務)と協力解決をはかつた。
 なお市内地域の災害現場には山本一郎(名占屋木材)、梶浦誠司(湯浅貿易)両氏が委員代理として専任された。
△水上委員会
 各貯木場内に散乱した沈木の引揚げ、及び名古屋市域外の各地に流失した漂流材の回収に従事した。
 伊勢、知多方面など遠方の災害現場へは安藤良太郎(丸良商店)、原友也(材総木材)両氏が専従努力された。
△認定委員会
 市街地域及び市街各地域から集材された流混材を加福、8号、名港各貯木場に集材の上各荷主別に整理、再仕択けを行い、夫々書類と照合判定し各荷主に還元出来得る態勢を整えることが業務である。
△入港対策委員会
 流混材の整理、認定が容易に早急な進行が期待出来ない情勢から、各需要層(主として合板工場、製材工場等)の復旧に伴う用材手当さらには全名古屋的な復興資材の供給源を涸渇から救うためにも新規輸入材の必要に迫られ、反面流材処理を先決とする荷役作業員の不足という制限もあつて、この間の人為的な入港調整(入荷規制)を行い、流木対策本部の使命を全うするための活動を行う。
 なおこの入港対策委も発足当時は組合本部の一部会であったが流木委員会の分離独立と同時に入港対策委も分離新流対に編入されたもの。
 なおここで新「流木対策本部」委員に名古屋港木材倉庫KK、名港運輸KK、KK千年組、名古屋筏企業組合、藤木海運KKのいわゆるステベ5社が含まれていないが、これら5社は流木集材作業の実施機関として終始第1線に挺身活躍しており、従つて委員であると否とにこだわらず右5社と流対本部の関係は車の両輪の如く目的達成のため最も重要な存在であつた。
 殊に名古屋港木材倉庫については同社自身水害犠牲者であり、10月中旬頃まで水深10尺に余る冠水の中に孤立する悪条件のため流木集材への出動がおくれ、このため流対による荷主側の集材作業について一部に異論が為されていたが、決して左様な事情はなく共存共栄の大乗的精神をもつて終始円滑に事業が推進された事実が雄弁に証明している。

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写真 (集材された流木は次々と再編されて行つた)

第8章 苦斗の陸上集材作業

その26 浅野孝氏の手記

 台風発生後2旬を経た10月下旬、漸くにして流木対策本部による組織が完成され、各荷主からの出向社員と各地の来援作業員などの協力を得て人員も整備され、ここに本格的な集材作業が開始された。
 前代未聞の惨禍が対象であり、機動力をはじめ各種の資材不足を克服し、苦心の新工法を案出して作業は真に苦難の連続であつた。
 以下、当時流木対策本部の陸上集材を担当した藤木海運KKの浅野孝氏の手記を御覧願いたい。(原文のまま)
1、陸上流木集材作業についての覚え書
伊勢湾台風によつて陸上に押上げられた流木の集材作業について私の記録をここにまとめて御参考に供したい。
 もともと台風直後の流木の状況については、本部陸上班の調査が唯一のものであり、ただ外観の域を出ない上に、交通も不便でありなお長期湛水地域も多かつたので、正確な認識はなかつたのが実情であつた。
 例えば10月初旬のメモには流木の状況として次のように書かれている。
  8号東側通路  10,000石
  元柴田西東町  35,000石
  大同前     10,000石(大丸太) 4,000石(小丸太)
  名港貯木東   5,000石(大丸太) 5,000石(小丸太)
  堀川造船所   3,000石(大丸太)
  道徳橋南    2,000石(大丸太)
  2号地     12,000石(小丸太)
この数字は内田橋で毎日会議していた頃のものであるが、8号地、加福地区の数字は挙げていない。大体の数量さえ握ることが出来なかつたのである。以上の数字もその後集材するに従つて大変化を来している。
 このような殆んど盲目的といつてもいい位の状態で集材作業か始められたのである。集材作業に先立つて9号地からの道路啓開の問題があつた。9号地には名古屋地区に必要な燃料油のタンクがあり、毎日市内の給油所にタンクローリーをもつて運ばれていたが、台風による流木のため8号地区に於てこの重要道路が閉鎖されたので、一切の油の供給がストップしてしまつた。このため道路を閉鎖している木材を排除して1日も早く開通させることが最も緊急な問題となつた。名古屋港管理組合からも強い要請があり9月29日からこの作業を開始した。29日にはトラッククレーン1台を南陽通から8号地神徳橋に至る道路の整理に当らせた。翌30日には名古屋港東埠頭から弊社トラッククレーン1台と自衛隊トラッククレーン2台をフローティングクレーンによつて水路を輸送して8号地岸壁に揚陸し、貯木場水門に向つて、東西より木材を排除しながら道路啓開に当つた。最初この道路の開通には1週間を予定していたのであるが、約4日間でこの困難な作業をなしとげ10月2日15時40分無事この重要な道路が開通したのである。
 この当時吾々にとつて最も困難な問題の中に燃料油確保の問題があつた。市内の給油所では入手出来ない状態で如何にしてトラッククレーンの燃料油を手に入れるかが悩みの種であつた。この問題は然し出光興産の9号地油槽所長の英断によつて直ちに解決を見たのである。石油の輸送路の開通を必死に要求していた多くの9号地油槽所も港警察署の油供出の要請には難色を示していた際、直ちに18立入10ドラムを供出して戴いた出光興産所長の英断には深甚の敬意を表せずにはいられない。この際の油の1滴は正に血の1滴にも当る。流木集材に当つてこの難問がかくも簡単に解決されたことは誠に印象的であつた。
2、集材のはじめ
 陸上流木の集材は10月1日に開始された。
 先ず、東埠頭地区からはじまつて堀川西岸地区、12号運河附近、海岸通、中央埠頭等名古屋港周辺が約10日間で完了した。トラッククレーン、フォークリフト(同業の供出したもの)による集材をトラックに積んで、筏と連絡をとりながら水中卸しをした。なお堀川西岸のトラッククレーン立入不能の個所はフローティングクレーンを使用した。
 8号地に於ては前記の道路開通後引続き水門附近の整理に当り、集材した木材の水中卸しをするのに都合の良い状態を作る必要があつた。水門の南の両岸にこの場所を整備してその後の集材の筏組に便宜を与えた。
 加福貯木場東側の通路は10月5日から作業を開始、12日ひと先ず開通した。これはトラッククレーンによつて道路上の木材を直接貯木場に降して直に筏組をした。
3、集材に当つての注意事項
 陸上集材に当つては被災地の住民感情を尊重することが第1に大切であるという認識に基いて特に流木による犠牲者の多かつた白水地区、柴田地区集材に当る労務者には下記の注意事項を徹底させた。
 1)どんな事情があろうとも被災地住民とは絶対に喧嘩したり暴力を振うことのないよう全員が気をつけること。
 2)流木の下敷となつた死体が発見された時は先ず合掌して死者の冥福を祈り所定の連絡をとること。
 3)流木を渡さない場合は先方の言い分を十分に聞いて流対本部に連絡し無理な集材をしないこと。
 4)早く流木を処理してくれと申込がある場合は仕事の都合如何にかかわらず出来るだけ集材するよう努力すること。
 5)すべて善意と説得によつて円滑な集材を行なうよう極力努力すること。
以上の注意事項は監督以下全労務者に徹底して住民とのトラブルは1件も生じなかつたのは誠に幸であつた。集材作業に従事した労務者も殆ど被災者であり互に共通する感情の流れが奇蹟的ともいえる結果を生じたものと思われるが、特筆すべき問題といえよう
4、本格的な集材はじまる
 本格的な集材は柴田、大同、白水地区の水が引きはじめると同時に開始された。流対本部における決議に基いて、陸上集材は重点的に柴田、臼水地区に向けられた。10月中旬からトラッククレーン、トラック、トレーラーは殆どすべてが同地区の集材に廻り水中降しの場所も従来の8号水門、加福貯木場の他に新たに大江川港東橋に新設して夫々筏組を行なつた。(河川堤防における木材水中降しの状態はスケッチ参照下さい。)
 当時の最大の悩みはトラッククレーンの不足とトラックの不足であつた。或はクレーンとトラックの数量のアンバランスであつた。トラッククレーンは手配がついたが、トラックが間に合わなかつたり、トラックが出来ればクレーンの数が少なかつたりして予定通り作業が進行しない場合がしばしばであつた。
 当時は台風被害復旧のためトラッククレーンとトラックは極度に入手難であつた。自衛隊のトラッククレーンは8号地から引続き白水地区に入つて道路の整理に当つていたが、当時自衛隊に与えられていた任務は通路の開通にあつて流木の集材ではないので、道路上の流木は両側に積上げて交通路を作る作業しか行なつていなかつた。トラックを出してもトラックに積込んではくれないので集材という観点からは何等プラスにはならなかつたが一方対住民工作という観点からは大きなプラスであつた。
 この当時の私のメモには作業予定として次のような記載がある。
   集材予定
 クレーンの手配
 10月20日まで     4台―5台
 21日から31日まで   7台
 11月1日/15日     9台
 16日/30日      9台
 12月1日/30日     9台
  ①柴田、大同、白水地区   12月末日
  ②加福地区         11月中旬
  ③名港貯木地区       11月末日
  ④8号地区          12月末日
  ⑤名和地区 堤防及び道路修理完了の上  1ヵ月
  ⑥10号地運河地区      12月末日
 上記のメモからもわかる通り、私の手配出来るトラッククレーンの最大限は9台であつた。10月中旬になると名古屋港もぼつぼつ機能を回復し輸出入貨物も相当動くようになり、それまで、同業者から借りていたトラッククレーンも次第に引揚げられて行つたので、本格的集材がはじまると同時にクレーンの不足が切実な問題となつたのである。
8号貯木場の港東橋卸し場の技術的問題
 1)堤防を保護する為、図のように堤防を枕木をもつてカバーし、その上に丸太を1メートルおきに置き、ワイヤにて移動せぬようしつかりと締めつける。
 2)堤防道路上に枕木(或はフリッチ)を以てトラックのタイヤの乗る部分を作り、約20センチメートルの高低をつける、即ち河側の方を低くして、トラックの床板を傾斜させ木材の歯止をはずしてトラックから木材を河中に転落させる。
 3)この方法は相当な危険を伴い、トラック運転士及び荷卸労務者には最大の注意力と大胆な行動力とを要求する。
 4)この方法で荷卸しすれば、トラックの各部に亘り、異常な歪曲が生じることは止むを得ない、しかも大径木の場合特にひどい。
 5)3ヵ月の使用でトラックは殆どひずみを生じ全部修理を行なった。
5、トラッククレーンとトラックの入手について
 陸上集材に最も必要な器材として先ず第1にトラッククレーンを挙げねばならない。ラワン丸太を主として相当の重量がある流木を処理するため、捲上げ能力のある、しかも機動力のあるトラッククレーンがこの作業の主体となるのは当然である。
 これ等クレーンの問題については流対本部の会議において10月11日商社筋より関係土建会社に要請して戴くことになつていた。当時の土建会社の仕事の都合上早急には出来なかつたが、後日下記のルートを通じてクレーンを借りることに成功した。
  日綿実業→大日本土木→不二建材   ビユサイラス 2台(キャタピラ式)
  岩井産業→旭ディーゼル       ライマー   1台(〃)
  東洋棉花→竹中→中京建材→新興建材 コーリング  1台(〃)
  安宅産業→三星工業         ハイドロクレーン 1台(トラック式)
これより先、三井物産から同社の取引先である田辺の熊野運送のレッカー(日野ディーゼルワトン改装捲上能力5トン)が流木集材作業に使用出来るなら1ヵ月位派遣してもよいと照会があり、直ちに整備の上名古屋に廻送するよう同社を通じて要請した。このレッカーは途中大阪で整備の上10月21日に名古屋へ到着した。翌22日から作業に出動、予定の1ヵ月を遥かに超過して12月23日まで流木集材に活躍してくれたのである。
 わが社としては名古屋地区でトラッククレーンが入手困難な情況から東西の関係業者を通じてクレーンの借入れに努力した。
 結果、横浜藤木企業からP&H1台、神戸竹田運輸からP&H1台を借受けた。尚陸運局、管理組合を通じて全国的にクレーン入手のために努力した結果、群馬県太田市の松田自動車からトラッククレーン1台を借受けた。神戸のP&Hは10月20日、太田のクレーンは10月26日、横浜のP&Hは10月31日、それぞれ名古屋に到着した。
 外に管理組合から住友製トラッククレーン(捲上能力4トン)を借受けた。このクレーンは小型で捲上能力が不足していたが、白水地区の狭い場所に配置して、ソ連材、ニュージーランド材等の集材には便利であつた。
 尚トラッククレーンを購入する計画は最初から持つていたが、早急に間に合うように全国からのニュースを入れて検討した。
 大阪で整備中のクヰツクウェイ(捲上能力7トン)は、10月20日到着して直ちに活躍した。この外ローレン(捲上能力10トン)2台、バックアイ(捲上能力20トン)1台の購入契約を行ない、社員を派遣して整備を急がせ流木作業の戦列に加えたのである。
 このようにしてトラッククレーンの数は10月前半1日平均4台が10月後半になつて1日平均10台の稼動となり集材能力は飛躍的に増大した。
 トラックも台風直後は入手困難な器材の一つであつた。港附近のトラックは殆ど全部浸水のため整備工場の御厄介になつていた。わが社のトラックもガソリン車は浸水のため役に立たず、僅かにディーゼル車のみが健在であつた。
 トラック確保については愛知県トラック協会港支部に協力を求め出来る限りトラックを供出させた。然し流木の主体がラワン材である為普通車では積めないので勢い大型車(6トン、7トン、8トン)が要求され全面的に港附近のトラック業者のみに依存することは到底不可能であった。市内のトラック業者からも広く応援されたが、それでもなお不足するばかりであつた。大型トラックの外に、長尺材のためトレーラーも必要であつた。三輪トレーラーも必要であつた。これ等はあらゆる関係先を通じて必死にかき集めたものである。尚不足を解消することが出来なかつた為、横浜藤木企業を通じて関東方面から大型トラック18台を借入れ、10月15日から順次名古屋に到着して作業に従事した。
 尚陸運局の紹介で富山県トラック協会から大型トラック4台を翌年3月までの条件で借入れた。これ等は11月23日に到着し直ちに作業に従事した。
 トラックの稼動台数は10月前半が1日平均5台に比し同月後半には約18台に増大したが、クレーンに比較してなお不足の感を免れなかつたのである。
6、労務者確保について
 伊勢湾台風によつて名古屋港に働いていた港湾労務者の殆どが被災した。しかもその大半が長期湛水地区の住民であつたため、労務者の確保は最も困難なものの一つであつた。しかも台風被害復旧のために緊急資材の荷役、海難船の救助、流木の集材等緊急を要する作業が各方面から要求せられていた際、幸いにもわが社の常傭労務者の大半は湛水地区からその元気な姿を見せてくれた。既に9月29日にはラワン材50万BMを積んだまま鍋田沖に坐洲した汽船高昌丸の救助の為荷役に赴いている。この荷役は10月9日まで続けられた。常傭労務者の大半は水に浸つた自分の家のことも忘れてひたすら当面の緊急作業に従事したのである。
 次に食糧の問題があつた。台風の被害状況が伝わるや、関東、関西の全国港湾荷役振興協会から早速莫大な数量の食糧が届けられた。この外関係者、得意先からも食糧の寄贈が相次ぎ、当面の需要を満たすことが出来たのである。
 わが社では1日3食の炊出しを行ない全従業員に配給した。流木集材作業隊への配給は作業場が絶えず移動しているので、なかなか時間通りに配給出来ない場合もしばしばあつたことは否めない。食糧の確保が労務者の確保につながつていることはあの場合必至であつた。日雇労務者も次第に多く集まつて来た。
 名古居港の機能がぼつぼつ復旧の途について10月8日から輸出貨物船の荷役が開始され、当分の間毎日1隻、次いで10月12日から2隻、16日から7隻、19日から10隻の荷役が行なわれるにつれて労務者が次第に不足してきた。流木集材作業隊の人員も次第に増加が必要となつてきたので(横浜藤木企業から30名の労務者を派遣させると共に)11月に入ると名古屋港の荷役業者から毎日36名乃至50名の提供を受けた。
 横浜の労務者は大体集材の見通しがついた12月末に全員を送り還した。
 富山の筏師48名は最初水上作業隊に属していたが、柴田、白水地区の狭隘な個所の集材にはトラッククレーンも使用出来ず、専ら人力に頼る以外に方法がないため、特に陸上作業隊の傘下に入つて作業に当らせた。彼等は柴田、白水地区のほか知多町、上野町、横須賀町方面の農地に入り込んだ流木集材にはさすがに専門家的能力を発揮した。
7、集材の進行状況
 集材作業は10月初旬には名古屋港埠頭附近と8号地水門附近及び加福貯木場東側通路で行なわれていたが、柴田、白水地区の水が引きはじめると共に同地区に集材の主力が移動した。
 大同製鋼星崎工場では工場内に入り込んだ流木処理のため、工場側でトラッククレーンを提供するからトラックを廻送するよう依頼があり、直ちにこれに応えて労務者並びにトラックを送つた。名鉄大同駅附近はラワン材の大きな山があり、鉄道線路は流木で覆われていた。線路上の流木は名鉄の手によつて線路の両側に積上げられた。
 8号地貯炭場の中に入り込んだ流木はトラッククレーンが入れないため特に強力な5トンフォークリフトを使用して1ヵ所に集められ、トラッククレーンによってトラック又はトレーラーに積込まれた。
 8号地貯木場西側に新に水中卸し場を新設して8号地貯木場における筏組みはその後すべてここで行なわれた。水門附近の卸し場はトラッククレーンの不足から役に立たなくなつたからである。
 集材が本格化すると同時に水中卸しにクレーンを使うことは非常に不経済であるため卸しにはクレーンを使用せず、港東橋で設置したと同様の方式で水中卸しを行うこととしたのである。
10月中の集材実績は下記の通りである。
 集材数量   85,224,4石
 使用した器材人員
 トラック、トレーラー  延  349台
 クレーン        〃  184台
 フォークリフト     〃  16台
 ブルドーザー      〃  22台
 フローティングクレーン 〃  6台
 曳船、連絡艇      〃  21隻
 連絡車両        〃  62台
 労務者         〃  4,047名
 10月末から新たに道徳地区の集材が始まつた。柴田、白水、大同地区、加福地区に引続き集材作業隊の主力が投入された。尚8号地東亜樹脂工場では自らトラッククレーンを使用して貯木場に水卸しを始めた。大江のトヨタ自販工場用地では竹中工務店の手によりブルドーザーで流木を大江川に卸していた。鹿島建設大同工作所ではブルドーザーを使つて構内の流木を構外に押し出していた。大同機械工場ではトラッククレーンを使つて流木を数ヵ所に集積した。
 大同製鋼はじめこれ等工場側の手によつて行なわれた流木処理の費用は後日我々によつて決済された。
 11月末には市外の大高町、横須賀町方面にも作業隊が出動しはじめた。
 なお8号地区に於ては鉄道線路を至急開通する必要があった。8号地の鉄道線路上には未だ流木の山があった。線路上の流木は11月25日迄に撤去してほしいとの名港管理組合の要求が流対本部になされていた。当時の事情ではトラッククレーンをこの為に使用する余裕がなかったので国鉄中部支社を通じて静岡鉄道管理局から操重車(捲上能力15トン)1台を回送するよう依頼した。操重車は11月14日現場に到着し、15日から作業を開始した。操重車は線路上を走るクレーンであり線路附近の流木処理には威力を発揮したが、そのブームの旋回半径が短いので線路から梢々離れた場所にある流木は捲上げ不能であった。このためトラッククレーン1台を随伴させ線路附近一帯をクリーニングさせた。この作業は11月23日に終り鉄道の開通をまつばかりとなった。この鉄道開通は予定より若千遅れ、12月上旬開通した。
 8号地貯木場北側の流木の水中卸しは11月20日からブルドーザーによって始まった。
11月の集材実績は下記の通りである。
集材数量        213,016.8石
使用した器材人員
トラック、トレーラー  1,006台
クレーン(操重車を含む)385台
フォークリフト     15台
ブルドーザー      42台
連絡車両        60台
労務者         4,960名
 (この数字には工場側で行なつた作業のクレーン、人員等は含まれていない。)
 11月末を以て累計約30万石の集材を行なつたことになる。予定数量に近づき稍々楽観的な情勢が生じてきた。但し加福地区のうち、日産農林附近の湿地帯に流入の木材の数量は予想をはるかに上廻り、なお作業条件も著しく不良のためこの地区の計画は非常に遅延し12月末やつと完了という始末であつた。
8、12月末で44万石を集材
 12月5日に道徳地区が一応完了した。柴田、白水地区は次第に裏街に集材隊が入り込む状態となつた。知多方面では農地からの困難な集材作業が続く。然し主力は8号地と加福日産農林地区とに集結した。集材地域が稍々縮小されたためトラッククレーントラック、トレーラーの稼動が減り、8号地貯木場北側の流木処理のためブルドーザーの使用が増大した。この地区は最初の予定ではトラッククレーンの使用を考えていたが、地盤が頗る悪いことがわかり、クレーン、トラックの使用が著しく不便であるためブルドーザーを使うことに変更した。貯木場に近い場所は非常に能率が良かつたが、距離に正比例して能率は低下した。然し12月末にはこの地区も一応完了した。日産農林湿地帯ではトラッククレーンのウインチによって、1本宛近くに引寄せ、ワイヤをかけ直してクレーンのブームにて捲上げトラックに積む方法がとられた。
 加福地区名鉄大江駅構内に入つた流木は殆ど人力により線路を利用して道路まで運搬され、ここでトラックに積込まれた。東洋レーヨン東側の宝生池一帯は12月22日から作業が始まつた。池の中に浮いていた流木は筏師によつて筏組みされ北側水門附近に集められここでトラックに積込まれた。池附近の湿地帯の作業は頗る困難を極めた。当時この池を埋立てる為大江川岸から北に向つて中央部にやぐらを組んだ上に埋立用パイプが設置されていたのでこれを傷付けることは大きな問題となるため慎重に作業が進められた。埋立地は地質が弱く、流木も殆ど埋まつていた。ポータブルウインチが大江川の堤防上に置かれ離れた流木をワイヤで引寄せるのである。
 この作業は年を越して続いた。
 12月の集材実績は下記の通りである。
  集材数量   144,604,5石
  使用した器材人員
  トラック、トレーラー  616台
  クレーン        207台
  ブルドーザ       90台
  ポータブルウインチ   9台
  連絡車両        62台
  労務者         3,163人
 12月末には総計44万石以上の集材が出来、残つている流木ももう殆ど目につかぬ程度になつていた。我々集材作業隊に課せられた任務も近く成功裡に終結するように思われた。関係者一同はこの3ヵ月の悪戦苦斗を今や楽しい回想として感じていた。このようにして新しい年を迎えた。1月以降は最早まとまつた流木はなくなつた。最終的なクリーニングの段階であった。同じ道路を2回も3回もパトロールして流木が1本も残らぬよう集めて廻った。
 大江川上の東海道線東にもラワンの大径木があつた。流対本部陸上班と密接な連絡をとつて徹底的にクリーニングをした。
 1月の集材実績は下記の通りであった。(稼動日数20日)
  集材数量  3,751.3石
  使用した器材人員
  トラック      29台
  クレーン      10台
  ポータブルウインチ 15台
  連絡車両      26台
  労務者       878人
 2月の集材実績は下記の通りであった。(稼動日数5日)
  集材数量      357.3石
  使用した器械人員
  トラック      5台
  クレーン      1台
  連絡車両      5台
  労務者       96名
 3月には流対本部からの連絡によつて集材を行なつた。知多、柴田、道徳、加福又遠く下之一色からも若干の流木を集めた。
 3月の集材実績は下記の通りであった。
  集材数量      218,5石
  使用した器材人員
  トラック      3台
  連絡車両      3台
  労務者       52名
 3月15日を最終日として集材作業隊は解散した。
 なお、その後5月になつて2日間に亘り残存流木の集材を行なつたが、この数量は120.3石であった。
 上記の集材数量の外ムキシン、端切材等3,900石集材したが、これ等の集材時期は不明である。最初ムキシンは流木集材のワク外のものであつたが、流木を集める際住民からこれ等ムキシンの処理を依頼されたため止むを得ず集めたものであつた。
9、工場など自己の手によつてなされた流木処理費について
 流木が広範囲にわたつたため、流対本部に早急処理を要請しても作業隊の能力が限定されている為、各工場で自己の手によつて処理されたものが相当にある。大同製鋼のようにクレーンを出すからトラックを廻せというものもあり、大同機械のように、工場内に自己の手で集積したのもある。工場再開の為め緊急に処理する必要があるためである。これらの処理費はすべて我々の負担すべきものとして決済された。
 大同機械製作所   ¥600,000
 日産農林(株)   〃 60,000
 竹中工務店     〃 954,000
 大同製鋼(株)   〃 3,316,510
 東亜樹脂、東亜合成 〃 5,200,000
 中央鉄骨(株)   〃 181,500
 鹿島建設(株)   〃 121,000
 三幸工業所    〃 33,000
 間組       〃 45,000
  計        10,511,010
 外に8号地にてブルドーザー作業のため昭和製函のレールを破損させ100,000円の弁償金を支払つた。
10、道路整備について
 トラック、トラッククレーンを使用する場合には特に道路の整備が必要であつた。8号地から大同病院前を経て柴田本通への道路は1車線のみ鋪装されていたが、これは却つて危険をすら伴つた。このコンクリートの1本道が辛うじて通行出来るのみであつたから大径木を積んで走るトラックには道幅一杯を走るのと同様であつた。柴田本通に近い場所にはこのコンクリート道路の傍に「注意、深さ3尺」という立札が立つている程の溝が出来ていた。尚あらゆる道路が文字通り悪路でありトラッククレーンのためには最悪の状態であつた。このため道路整備のためブルドーザーが用意され、補修用の砂利は本部を通じて絶えず市当局に要求された。クレーンの活動力はこの道路整備の状態に左右されたといつても過言ではなかつた。この道路整備のために作業隊の組織の中に道路班を設置した。
11、送電線について
 台風直後は、何処も電柱が倒れ被災地区には電灯はなかつた。然し中電では被災地の電灯復興と工場への送電再開の為全力を揮つて復旧工事に取りかかつていた。最初の中は電力に対する注意は何も必要がなかつたが、送電線が復旧するにつれ慎重に行動することが要求された。万一、クレーンのブームが送電線に触れた場合はクレーンの運転士は当然危険にさらされることとなる。高圧線の場合は致命的である。この点からも復旧した送電線附近の集材には特に注意する必要があつた。なお、中電とは殆ど毎日連絡して中電より現場監督一名を作業隊に派遺して作業場附近の送電状況を打合せ、特に差支えない限り昼間送電の中止を依頼した。送電線を切断するというような事故は1件も生じなかつたのは作業隊員が如何に慎重に行動したかの一つの証朋となつた。
 なお、中電の協力について特にここに書いて置きたいことがある。柴田、白水、道徳地区等の狭隘な場所で集材を行なう場合電灯線が邪魔になつて作業が出来ないことが多い。こういう時は一時電灯線を切断してクレーンを通し、集材が終つたあとこれを接続する方法がとられた。毎日中電の工務員がこれ等の地区に出動する作業隊に随行して必要の都度電灯線の切断、接続の作業を行なつた。毎夕行なわれた作業打合せ会議には必ず中電の連絡員が出席して作業地区を確認し必要な手配を行なつて我々に協力してくれたのである。
12、住宅図について
 陸上班には集材作業隊への連絡メモがあり、場所、人名、材種、本数概算等が記入されて送付されてくる。このため作業隊の各班には住宅図(居住者、氏名、丁目、番地入)が用意され、無駄な捜査をしなくても良いようにした。この地図は最終的なクリーニングの段階では最も便利なものであつた。
 陸上班の連絡メモは作業隊が一応受取り、集材完了した場合、その旨を記載して陸上班に返される。
13、チェンソーの使用について
 クレーンの行動半径の中にある流木はそのままトラックに積込むことが出来たが、クレーンの入り込む余地のない場所に於ては人力で運び出せるものを除いて、切断せねば集材することが出来ないものもあつた。このためはじめはダイギリが使用された。後チェンソーに代つた。切断の寸法は作業に随伴する陸上班の指示に従つた。木材の利用についての考慮から適当な寸法が指示された筈である。
 切断された流木の数量は私の記録には残つていない。
14、トラッククレーンとキャタピラクレーンについて
 同じ移動用クレーンでもトラッククレーンとキャタピラクレーンでは機動力に格段の差があるのでその配置はよく考慮せねばならなかつた。
 キャタピラクレーンは同一場所で作業するに適している。というのはキャタピラでは移動するためにトレーラーに積んで運ばれねばならないからである。業者のクレーンは大半がこのキャタピラ式であるためまとまつた数量のある場所に配置して、あまり移動させぬ様にすることが必要である。但し地盤が多少悪くてもトラッククレーンほど悪影響を及ぼさないのは有利な点であつた。
 集材に使用されたクレーンの種類は次のようなものである。
 P&H (Truck) 能力  8トン
 Lorain (〃)     10トン
 Backeye (〃)     20トン
 Bay City(〃)     20トン
 Lima (Carterpiller) 10トン
 Koeling (〃)     8トン
 Bucyrus (〃)     5トン
 Kato (Truck)     8トン
 Quickway (〃)     5トン
 住友 (〃)       4トン
 Hino 改装 ハイドロクレーン 〃  5トン
 この外トラックに架装された軽レッカー(3トン)やアメリカ製の特殊クレーン車(6トン)も使用された。国鉄操重車(15トン)は最近は国鉄に於ても余り使用されていないということであつた。
15、集材に要した荷役道具その他
 集材作業隊1口につき(平均)
 クレーン       1台
 トラック、トレーラ  3台~5台
 労務者        6名~10名
 6分/7分ホコ付ワイヤ 5本~10本(長15尺~25尺)
 ラワンツカミ     3丁~5丁
 オモチヤワイヤ    3本~5本
 トビ         各1丁
 この配置は基本的なもので現場の状況如何によつて、相当の差異がある。クレーンとトラックとの数量のアンバランスにしばしば悩まされたことは前に書いた通りである。
 全作業を通じて枕木1,000丁が使用された。これは道路の整備と卸し場とに使用された。
 この外卸し場の整備のためアラスカ材フリッチが若干使用された。
16、宿泊施設について
 地方からの応援者(トラック運転士、労務者)の為の宿泊施設として旅館及び我社の厚生施設が当てられた。港附近の旅館として花屋とハーバーロッヂに35名、我社の厚生施設に30名を収容した。富山の筏師は対策本部の用意した宿舎に収容されていた。
17、自衛隊との共同作業
 さきに述べたように災害地に出動した自衛隊には夫々任務が与えられ行動が指令されていたため、そのワクから一歩も外に出る訳にはゆかぬもののようであつた。優秀な装備をもつて救援に馳けつけてくれた自衛隊は命令の通り行動していた。
 はじめ9号地道路を開通させた時から我々の希望は道路を開通させる為に流木を片付けるのであるからトラックを廻して、それに積込んでくれることであつた。然し自衛隊の現場指揮官にはそのような勝手な行動をする権限がなく、業者の利益になることは一切出来ないとのことであつた。
 道路開通の為出動した部隊も期間を切つて再三変更された。12月になつて新に柴田地区を担当した部隊指揮官は遂に我々の希望を入れてトラックに流木を積込むことを快諾した。こうして我々と自衛隊との協同作業が行なわれることになつたのである。期間が短かかつたとはいえ、お互いに貴重な体験を得たことと思う。
18、むすび
 以上は私のメモ、或は会社の資料から、或は作業担当者からの話をもとにして概説したものである。多少の違いはあるかも知れないが大体正確なものと自負している。
 未だ書きたいことは山程あるし、整理未済の資料も多い。然し再びこれを書くことは無いであろう。
 あの未曽有の被害の後で流木集めに寧日のない日々を送つた私にとつて、この覚書を走り書きしながら当時のことを想い出すと、まことに懐しい感じがするのである。

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写真 浅野 孝氏
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写真 (土のうと土砂で応急修理された堤防)
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トラックの幅一杯の河川堤防で積載木材の川降しをする為の装置
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写真 (トラックで運ばれた木材を池中で筏組みする)

その27 水上作業班の活躍

 一方、水上作業班の活躍も陸上班にいずれ劣らぬ目ざましいものであつた。名港運輸、名古屋筏企業組合、名古屋港筏KK、千年組ら水上班の作業母体となつた各社作業員をはじめ富山、小樽、釧路、高知、神戸、東京、大阪、清水など遠来の応援作業員を含め、全集材期間を通じ、水上班で活動した延人員が実に5万205人(数字はいずれも名港倉庫調べ)に達し、集材石数も後述の通り、総計52万2,000石強の莫大なものに達している事実がその労苦の多大であつたことを雄弁に物語つている。
 水上班の活動範囲は集材初期の陸上班との協力による冠水地域での陸上集材にはじまり名古屋港内の浮游材、遠く三重、知多方面の流出材集材と驚くべき広範囲にわたつておりその作業内容も集材、編筏、回漕といわゆる筏作業の特殊技術を要するもので、作業員の多年の経験と技術に負うところの多いものであるだけに、災害発生当初の筏作業員不足は筏各社首脳の最大の悩みであつた。
 折角苦心の末集材し、取敢えず網場を張つて再流出を防いでいるとき、強い潮流の干満によつて次々と網場を切つて再三、再四流出していく木材、或は冠水地帯を勝手気儘に浮游している木材などを眼前にして、「今ここにせめて数人のベテラン筏師が居て呉れたら」とは当時の首脳陣の痛恨の念であつた。
 とくに難航を極めたのは大同、柴田方面と8号貯木場周辺のいわゆる被害激甚地の冠水地帯の集材(排水完了後は陸上集材)であつたことはいうまでもないが、この両地区での集材石数が、柴田、大同地区12万2,000石、8号貯木場周辺23万3,000石と全石数の過半数を占めていることからも作業の難行ぶりがうかがえる。
 さらに港内6万石、知多半島周辺1万石などの数字も水上班員の努力の成果として高く評価さるべきものであろう。
 あの大惨害発生の翌日、つまり34年9月27日、極度の資材不足の到来を察知して筏綱を買い集めた名港運輸成田社長の先見の明は既述した通りである。
 水上班が全作業期間を通じ使用した筏綱の総量が無慮7万4,337本、8番鉄線165トン、12m/mワイヤーロープ133トンなどの数字が如何に莫大な数量であるか想像も出来ない。
 機動力も実動トラック延1,530台、起重機延4,630台、各種曳船延1,212隻(名港筏797 名港運輸197、名筏企133、千年組85)の多くが動員されている。
 なお今更いうまでもないが、流木対策本部の流木集材という未曽有の大事業が、その開始から終了に至る期間を通じ、各部門が夫々ベストを尽し、互いに協力を惜しまず大目的完逐に努力を重ねた結果が、あの予想外の短期間に終了をみたわけであるが、そこには陸上班或いは水上班という適材適所に自ら区分が出来たとはいうものの、当初から区分が判然となされたものでなく、市南部の陸上集材に流対の全力を傾注した例の如く、水、陸協調し、作業員も互いに応援し合つて集材に当つたもので、水上班の作業完遂時期が8号、加福、名港各池とも4月上旬にほとんど同時であつたことや、さらにこの頃陸上班の作業も完了したことなどからも、このことがうかがえよう。
 なお水上班としての地区別集材量は別表(次頁参照)の通りであるが、資材総量を列記すれば大要次の通りである。
 (数字は名古屋港木材倉庫KK、名港運輸KK、名古屋港筏KK、名古屋筏企業組合千年組各社の協同集計による)
  筏網          74,337本
  中藤網         2,805本
  太藤網         2,820本
  針金(8番線)      165屯
  調合ペイント      43缶
  12m/mワイヤー     133屯
  9m/mワイヤーバンド   52本
  3分ヒルカン      1,565本
  棕梠網          30屯
  トラック       延1,530台
  トチカン        484kg
  竹           100本
  鳶竹付         363本
  大鳶          68本
  18m/mマニラロープ   148屯

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写真 (偉力を発揮するキャタピラクレーン)
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水上作業班地域別集材量(昭和35.5.31現在完了)
その28 遠く流木を求めて ~戸本順二氏他の手記~

(その一) 「伊勢湾台風」中部地区を中心に近畿・関東方面に及ぶ空前絶後の暴風雨災害は、なかんずく愛知、岐阜、三重、静岡等の県下を主として襲い、かつて稀なる高潮の浸入は、何人も体験のない不測の惨状となつた。
 被害範囲は遠く海上にまで及び伸張して事後の流木収集に多大の困難と苦労の加重に相成つた。
 物的損害は申すまでもなく、殊に甚しいのは名古屋市南部海辺地区に於ける市街地の惨状であつた。水魔によつて一瞬に尊き人命2,000余の生霊を奪い数々の悲劇となつた。
 風水害並に高潮が如何に天災不可抗力なりと云え、無情かつ強大で、到底想像出来ないことであつた。
 当時の濁流こそ、我が子、我が妻、老父母を拉し去つた長恨である。
 自来こうした渦中に投じ流木処理の目的遂行に、出向社員任務を帯び毎日を濁流に流木を追い続けた。
 市街地一帯を歩き遠く知多、三河、渥美、伊勢、鳥羽等の沿岸を再三にわたり踏査を行なつた。
 靴を履き減し身を粉にする思いで流木対策本部精神を発揮すべく、百数十日余の体験は直接皮膚に感得して、終生の想い出になつた。
 流木集材の作業に従事せし教訓は一に「自己を捨てる」ことであり、人間社会の論理的情感を失い憎悪と嘆き、憂いのみが交錯せる投ヤリの気持は、如何に天災不可抗力とは云つても、罹災者の抱く社会感は一時的にもせよ抵抗となり憤りと化したのは無理もないことである。
 かかる悪条件下にある流木集材は容易なことでは行ない得ない、一切の利害を乗り越えあらゆる苦難に打勝つ覚悟を必要とした。
 ウズ高くかつ乱雑に積み重つた流木の山を眺め、天災とは云わず人災だと叫ぶ。また当然であり然かも直接風当りは私共に向けられた。
 混乱状態の異常人心の動向について、常に細心の留意を以つて罹災者と全く同じ気持を持ちかつ折衝せずしては、流木集材の円滑は期せられない。
 斯くて作業状況も徐々に運び、漸く冬季に入り益々寒さが深まるにつれ人心も益々尖鋭化して行く。
 「この材木を取除き運び去る前に、いとし我が子を返せ」
又別な叫びがする。
 「この材木の下には俺の女房やおふくろが居る筈だから、速く取除き出してほしい」怒号と面罵にも甘んじて、身に受ける危険すら屡々あつた。
 渉外を兼ねての流木集材が如何に困難かをしめし、中途職場放棄を考えさせられたことも幾度かあつた。
 しかし苦労のみでなく又ほほえましい、かつ楽しい思い出もあつた。
 富山~北海道方面から応援に来た木材労務者(通称エンヤラコ)の中には、狸や兎の毛皮で作つた尻当(座ぶとんのようなもの)を常にブラ下げており、お国言葉丸出しにして、自慢のノドを張り上げて
 「ソラ来た エンヤラコ
  この度はお邪魔さんでござつた
 こんな大きな材木ぢやとて
  エンヤラコでゆけば
 見ちよる間に
  それそれこの通り
 何の苦もなく
  片付きますわいな――
 木材労務者特有の歌調で声高らかに歌に合して作業を運んで行く場景は、正に平和そのものであつて見る者をして思わず微笑を与えた。
 我々現地出張社員は、こうした歌声にほだされてあらゆる苦労も忘れ去り、仕事に張りが出て毎日を愉快に続けることが出来た。
(その二) 遠州灘沿岸三河方面踏査行
 昭和36年2月上旬静岡県新居浜町を起点に海岸線を赤羽根~伊良湖岬を経て渥美湾に入り、立馬岬の灯台から大洲岬~田原町のコースを踏査し、三河沿岸の三河三谷、蒲郡、形原、吉良吉田の海岸線を縫つて終着予定地点、三河高浜港に到達したのは基地出発後1週間であつた。
調査班の踏査目的は概ね次の如し。
 漂流―漂着材の状況調査及び集材計画等
  附(1)海苔業者流木被害状況
   (2)漁業者の流木による被害状況
 以上のために現地派遣を二班に分担しA班は渥美半島から三河に至るコース、B班は知多半島の西岸から三河高浜港にてA班と落合う計画で行動を開始をした。
 長靴に雨合羽、荷物を肩に振り分けして腰に弁当箱をブラ下げ、何のことはない今様弥次さん喜多八の道中姿であつた。
 浜名湖を左に新居浜駅から徒歩で振出して、渥美南岸の海の見える処に漸く達して小休止した。
 海上はるか遠州灘の水平線、彼方は波静かにして一幅の絵であり、これが暴威を逞しくした同じ海かと考えさせられ、自然の力が実に威大であると、その美しき眺めに暫らくぼう然とした。
 さらに目を後に転ずると、これとは全く反対に荒れ果てた無惨な台風の爪跡が、到るところに展開していた。
 砂袋と藁で出来た応急の築堤は海岸一帯に延々と続きまことに当時の混乱した場景が浮かぶ思いである。
 砂浜深く突込んでいるドラム缶の赤サビた色が海と対象して極めて印象的であり、渚の水鳥の立つ音に驚かされるなどそぞろ旅愁を深める。
 断崖を登攀したり、陸地測量図面にない道に迷い込むなど、宿の灯を見て蘇生の思いをするなど、悲しみのドン底から俄然嬉しさにもどるなど、我ながら他愛なさに苦笑せざるをえなかつた。
 大洲岬から田原町に向う途中海苔採集の老漁夫の背をかりて浅瀬を渡渉したこともあつた。果しなく続く砂浜をザクザク前進し、斯くて漸く予定地高浜港で他の班と出会い、この行程は終つた。
 かくて踏査によって調査し得た流木は僅々100石余に過ぎないが、再三の探索を行ない一本でも多く、荷主還元に努力をして来たことは、私共の精一ぱいの成果であり、任務遂行については、後日に至つても決して悔なきことを唯一の慰めにしている。
(註)
 (1)本項「流木を求めて」は筆者戸本順二氏の他に
  早川 信義氏(昭和合板製作所)
  市橋 直氏(湯浅貿易(株)名古屋支店)
  榧垣 廣志氏(名古屋木材(株))
の3氏が夫々行を共にした。
 他に陸上においては山本一郎氏(名古屋木材(株))、水上に於ては安藤錠太郎氏(丸良安藤商店)及び原友也氏(材摠木材(株))等が当初から最終まで出向して流対本部の業務遂行を果された人々であつたことを附記する。(出向社員は他にも大勢いたが何れも概ね同時期まで活躍した)然して戸本順三氏の手記にある体験談は何れも身をもつて行なわれたこと他と同一であり、なお他の諸氏による寄稿も大同小異につき特に割愛したことを附記してお詫びする。

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写真 戸本順二氏
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写真 早川信義氏
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写真 市橋 直氏
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写真 榧 広志氏

第9章 集材100%を完遂

その29 原木不足が表面化

 前章で明らかな通り流木集材作業も34年11月以降急ピッチで進行し、12月末日までに全量の50%強に当る54万石を集材し、越年して35年1月末には64万石を集材認定引渡し、2月末には75万石、3月末には85万石と早くも全量の95%の集材と認定引渡しを完了した。
(註) 巻末の集材、認定石数一覧表参照のこと。ちなみに集材の進展に伴ない荷主の要請に応え本部が行なつた認定引渡し開始以来の月別認定量は次の通りである。
昭和34年10月  141,549.40石
    11月  171,379.50石
    12月  222,993.45石
昭和35年1月  195,115.79石
    2月  100,660.99石
    3月  112,494.24石
    4月  16,689.74石
    5月  5,923.77石
    6月  23,465.68石
合計     990,272.56石(沈木、古材を含む)
 以上の通り集材作業の進捗ぶりは急ピッチで、作業を請負つた名古屋港木材倉庫をはじめ実施に当つた藤木海運、名港運輸、名古屋筏、千年組など各関係者の努力は高く評価された。
 思えば長い苦難の二百数十日であつた。とにかく毎日が、暗い気分の連続であつた。
 100万石と一口にいつてもその流材処理は筆舌に尽し切れない難事業であつた。それは陸上班の山本一郎氏(名古屋木材)が述懐しているように「金さえ出せば片付くなどという考え方では決して遂行出来なかつた。1日でも早く片付けることが荷主、被災地元民双方の幸福だという信念の問題である」といえよう。しかしここに新入荷材処理という難問題が残されていた。
 新入荷の問題は今にはじまつたことではなく、集材作業の当初からこれとからんで流対当局の頭を悩まし続けたことであつて、既に述べた如く新入協力費の問題と共に流対内部でも調整難航を重ねていたものだつた。
 即ち流木対策本部が流混材の集荷、整理を第一義としたことは当然のことだが、このため港内は勿論各貯木場の混雑は想像以上のものがあり、さらにその収容能力や稼動能力にも自ら限界があつて一層混乱の度を深めていた。
 流対本部としても責任をもつてこれら流木の集材作業を行ない、1日も早く、1本でも多く認定の上各荷主に返戻しようと努力を傾注していたが、何といつても大量であり被害荷主個々の意志や希望通りの即時回収は非常に至難なことで、荷主側のあせりと不安もこの点にかかつていた。この反面、入荷制限の影響で市内の各合板工場、製材工場など、いわゆる需要層での原材料不足が漸く表面化し、旺盛な災害復旧需要に応えまた被災後の不完全操業がたたつて減少した取扱い高を取戻し、販路確保は死活問題であり各工場とも利益を度外視しての生産意欲に燃えていた。
 問屋筋なども工場の要求に応えるため名古屋港周辺の各都市、港湾などから原木の陸送を盛んに行ない、当時国鉄白鳥駅などにはこれら陸送材の貨車が延々長蛇の列を作り前代未聞の珍風景が見られ特に外材の輸入のみでなく、北海道材の如きは丁度新材の手配時期に当り、入荷制限の実施は最も大きいショックとなり市内移入業者の困惑のみに止らず、産地移出業者から生産者、ひいては出材労務者の生活にも影響する由々しい問題となり関係者の苦慮は非常なものがあつた。
 さらに輸入商社でも既配船材の処置に窮し、某社の如く四日市港に揚地変更し陸路回送したものや某商社の如く四日市港から海洋筏に組んで伊勢湾内を回漕するなどの非常手段がとられていた。ついには各輸入商社が争つて名古屋港以外の富山、伏木などの地方港揚げを行なつた結果、今度は各地方港が満員となり輸入制限を行なわねばならなくなつた後日談もある。
 なおこの頃の話題として陸上蓄材があるが、これは各貯木場が混雑し集材作業の進行に支障を来すに至り流対本部では8号貯木場周辺の民有地を借用、陸上集積を行なうことを決意し、東亜合成化学工業KK及び太陽木材工業KK2社の協力で所有空地の臨時借入れを行なつた。
 しかしこれらはあくまで集材作業を便法ならしめるための暫定期間の処置であり、かつ収容能力も限度があつてさらに他に集積地を必要とし、幸いにして藤木海運KKの好意的な奔走により名古屋港内9号地の一部約5,000坪借入れに成功し、新入荷材及び流木集材の陸上集積場として大いに威力を発揮し、当時はラワン大径木が累々として天空高く積み上げられ新名所として一般紙上にも紹介されたところである。

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写真 (資材不足打開に窮余の海洋筏も)

その30 集材最終段階へ

 こうして昭和35年も風薫る5月を迎えるに至り、流木集材作業も100%完遂と最終段階を迎え、新入荷材の本格化と共に流対本部にも漸く朗色が蘇つて来たが、ここに流対首脳を困惑させた問題があつた。
 それは主として貯木場内における沈木処理をめぐる無識別材の問題である。当初より流木の荷主引渡しについては各荷主よりの流木被害届と、名古屋港木材倉庫KKの保管台帳を照合して行なつて来たが、何しろ各貯木場とも輻輳混乱を極め、集材してこれを樹種別荷主別に、再仕択を行なう作業は実際問題神業に近い忍耐と努力を要し、このうち4万石に達する沈木が池内作業を甚だしく阻害し、又所有主の判定もつき難いというまことに厄介なシロ物であつた。そしてさらにこの無識別材の判定をめぐり、当然のことながら各荷主の被害申請石数と実際の引渡し石数との間に石数上のズレが現出し、例えばA社では申請石数に対し90%しか引渡材が無いのにB工場には逆に110%もの材が過分に引渡されるという妙な現象が現われ遂にはどうにも所有荷主の判定がつかないという迷い子材や、無識別材が発生した。このため流対本部でもその処置に頭を悩まし、結局これら無識別材を一括して入札制度により荷主に売渡し速やかに現場引渡しを行なつた方が双方に有利であるとして入札処理を実施することが議決された。
 この場合入札に参加出来る荷主は認定引渡し材が回収不足の業者に限られ樹種別にして競争入札が行なわれ、落札と同時に現場引取りが行なわれたが、その第1回が5月28日に開かれ、引続き6月21日、6月28日と3回にわたり針、広葉樹、ソ連材、米材、南洋材など総計1万3,000石弱が入札された。
 なお入札月日及び入札に附された樹種別石数は大要次の通りである。
△第1回=5月28日
 広葉樹丸太
  名古屋港木材倉庫KK管理の加福貯木場及び8号貯木場在荷材
   合計 459石余
△第2回=6月21日
 ソ連材及び松杭丸太
  名古屋港木材倉庫KK管理の加福貯木場及び8号貯木場在荷材
   合計 648石余
 内地針葉樹丸太
  名港運輸KK管理の南池貯木場在荷材及び名古屋筏企業組合管理の北池作業所在荷材
   合計 420石余
△第3回=6月28日
 米材
  名古屋港木材倉庫KK管理の8号貯木場在庫材
   合計 625石余
 南洋材
  名古屋港木材倉庫KK管理の加福貯木場及び8号貯木場在荷材
   合計 9,770石余
 (なおこの中には災害発生当時通関手続が完了していなかつた所謂未通関材が含まれる)
   以上総計 11,922石余
 これより、先本部では集材の最後の努力として流木特別調査班を組織、徹底的な再調査を実施したがその期間と担当委員名は次の通りである。
△陸上の部
 自1月10日――至2月28日
 (市内南部災害地一帯の流木確認作業)
 委員=昭和合板、東洋プライ、湯浅貿易、名古屋木材、石川合板、中村合板
△水上の部
 自3月3日――至3月11日
 (8号貯木場沈木材)
 委員=中村合板、水谷木材、岩倉組、川口商店、丸勝木材、江口木材、丸幸木材、大建木材、湯浅貿易、浅井プライ、協和木材、山七木材、斉藤木材、北海木材、材摠木材、上地木材
 自3月12日――至3月23日
 (加福貯木場沈木材)
 委員=前記に同じ。
△地方の部
 自2月5日――至2月28日
 (伊勢志摩、知多半島、三河沿岸、渥美半島方面一帯。(前章戸本氏参照)
 委員=昭和合板、東洋プライ、湯浅貿易、名古屋木材
 また名港南池(名港運輸)、名港北池(名古屋筏企業組合)、日車池(千年組)は前記ステベ3社が夫々沈木集材=引揚作業を完了していた。
 なお、この調査終了をもつて流対本部から名港倉庫に対し集材確認について通達が発せられたがその全文は次の通りである。
昭和35年3月1日
  名古屋流木対策本部
  本部長 斎田清喜 印
名古屋港木材倉庫株式会社殿
流木集材確認について
謹啓
首題の件について、当流木対策本部が流木集材作業を貴社に委嘱せし処、これが鋭意実施されて、所期の目標を超ゆる数量を集材されました。よつて流木集材はこれを充分に尽されたものと当流対本部委員一同認めます、例えば沈木材確認等当流対本部委員立会し、全く残材皆無なることを確認致します。
   記
(イ)8号貯木場
(ロ)加福貯木場
(ハ)名港運輸(株)南池
(ニ)名古屋筏企業組合北池作業所北池
(ホ)(株)千年組日車池
(註)右貯木場に所属する各河川に有つたもの
 以上昭和35年3月1日をもつて当流対本部流木集材業務終了と同時に、貴社に委嘱せし作業も併せて完結せしことを茲に承認致します。  以上

第10章 終章

その31 流対解散総会開く

 待望の流木荷主報告大会は、昭和35年7月20日、名古屋市中区大池町名古屋商工会議所大講堂において開かれた。
 業務報告を兼ね、精算及び解散承認を求めた会議の模様は大要次の通りである。
 河野保徳総務委員長の司会により議長に杉山定吉副本部長を指名、議事録署名人に名和木材KK、KK誠工舎、増田製材KK、以上3社を選任した。次いで斎田清喜本部長の挨拶に続き、上地武副本部長の一般経過報告、米田幸雄認定委員長、加藤六美経理委員長から夫々業務報告が行なわれた。その要旨は概略次のようなものであつた。
   △斎田本部長挨拶
(イ)流木処理は相当長期間を費したが、一応全業務を完了した。
(ロ)流木集材後の荷主還元石数が、当初被害石数として、届出られた石数を上廻つたがこれは台風当時未通関(保税中)の材、及び沈木旧材の引揚げなどが加算された結果である。
(ハ)流木集材費として徴収されたものは、あくまで概算であつて名港南、北池、8号、加福貯木場など一部に予定金額を下廻つたものがあり、これらは精算の上今月末までに払戻しを行なう。
   △上地副本部長報告
(イ)陸上に40数万石の流木があり、陸上集材が終了したのは2月28日頃であつた。
(ロ)水中における仕択作業及び荷主引渡しを終えたものが3月末で概算95%に達した。
(ハ)流木集材作業と新入荷材処理、流木の入念な再調査など1本といえども残量を無くし、荷主還元を多くしたいと念願した結果、予期以上の日時を費した。
(ニ)流木集材後荷主を夫々判定した上還元するのが本来の目的であつたが、荷主の不明確なものが生じ、判定仕訳が困難となつた結果、これの入札処理を行なつた。その概数は
△南洋材   約1万石
△米材    約5,000石
△北海、ソ連材 約2,000石
△広葉樹材  約500石
△内地針葉樹 約450石
 以上の如く大量のものになつたが、その売上代金の荷主還付も7月中旬現在全部を完了した
(ホ)従つて以上の結果主たる集材費を次の通り決定した。
△8号、加福貯木場及びその所属する各河川
 石当り  500円
△名港南池(名港運輸)、名港北池(名古屋筏)、日車池(千年組)の3貯木場及び所属する各河川
 石当り  250円
△東棉材(名港倉庫、名港運輸共同管理)
 石当り  375円
(ヘ)集材実石数が届出石数を上廻つたことは本部長挨拶の通りであるが、その石数は約6万5,000石に及んだ。
(ト)精算勘定の結果当初予想より荷主払戻金額が多くなつた主な理由としては……7月上旬名古屋筏企業組合理事長野間勘一郎氏の申出に「我々筏業界が木材業者より受けている恩恵は多年にわたり、有形無形ともに大きいものがあり、木材界が有史以来の大災害を蒙つたのに際し報恩の意をこめて作業費の内から割戻しをしたい」と当本部に内意が披歴され、本部で緊急役員会を開き検討の上、同氏の誠意の発露を心好く受入れ、且つ同氏の美挙は多数の被害荷主の喜びとするところでもあるとし、この結果当流対本部と集材の正規請負契約先である名古屋港木材倉庫KKを通じ同社分を合せ金2,000万円を受領した。
(チ)当流対本部の業務遂行に当り終始絶大な支援、協力を賜つた県、市当局、名港管理組合、自衛隊、県、市会議員、市区有力者等を御招待の上御挨拶を申上げ、また流木作業実施に最大の努力を尽された多くの人々に深甚な感謝の意を表したい。
  △米田認定委員長報告
 流木集材の結果荷主に還元を終了したものは大要次の通りで、入札処分したものは換金の上還元した。
△名港倉庫管理、寄託材(8号、加福及び各河川鉄砲池にあつたもの)
    807,494.69石
△名港運輸(南池)、名古屋筏(北池)、千年組(日車池)3社管理寄託材
    173,417.90石
△東棉材   4.370,79石
△剥芯、端切 3,592.37石
△オモシ材  1,271.75石
△旧材    228.34石
合計     990,375.84石
 なお集材費徴収など事務的煩雑を避けるため経理面の石高と差異があることを御承知願いたい。
  △加藤経理委員長報告
 報告された収支決算書など報告内容は別項の通りである。
このあと大橋監査委員(KK川口商店)から監査の結果相違なきことを報告した。
(なお流対の監査委員は安宅産業名支店、湯浅貿易名支店、川口商店の以上3社である)

 このあと斎田本部長及び上地副本部長から前記加藤委員長の経理報告について補足説明が行なわれ、
(イ)精算報告中解散予備金100万円引当の外、集材費の端数切上げによる剰余金70万円があり、これらの主な支出引当としては△沈木の陸上置場の借地料、△事務所借用料の未払金、流対解散、表彰などの諸経費がある。
(ロ)さらにこれら支出後においてなお剰余金を生じた場合、全額を名古屋木材組合に寄附し、同時に本部の未使用什器、備品類も同組合に寄附したい。
(ハ)知多、三河、伊勢地区における流木の現地処分売上代金は雑収入勘定に入つているが、これに要した諸費用も多額にのぼり且つ荷主判定が困難であつたため現地処分の手段をとったことを了承願いたい。
 以上の通り本部側の説明があつた。
 こうしてここに荷主報告大会は一切の承認手続を終り、改めて斎田本部長の解散動議が提案され「流木対策本部も所期の目的を達成したのでこの報告大会をもつて解散します」と感無量の面持で挨拶が行なわれ、満場異議なく承認、昭和34年9月26日災害発生以来実に296日間に及んだ苦斗史の最後のページを閉じたのである。
〔別項〕
   流対精算書
       (加藤経理委員長報告による)

(1)上記の内(ヌ)項協力費とあるは当流対本部から流木集材作業を請負わせた名古屋港木材倉庫㈱請負金額の割引金を称す

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写真 (流対最初の前線拠点となつた筏企業組合全景)
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写真 (悲喜思い出を遺す名港倉庫KK全景)
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流対精算書(第1表~第5表)
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流対精算書(第6表:流木集材費請負金内訳表)

その32 犠牲者の霊を偲んで ~上野庄吉氏の手記から~

 伊勢湾台風の暴威は、一瞬のうちに多数の尊い人命を奪い去つたが、中でも恐怖の高潮にのつた無数の流木が被害に拍車をかける結果になつてしまったことは木材業界として痛恨の極みである。
 当時流木対策本部においてもその謝罪と救済に万全の策を講じたことは既に述べたところであるが、とくに犠牲者のめい福を祈るため罹災地の各職域や学区毎に度々開かれた慰霊祭には流対本部から本部長、副本部長、委員などが欠かさず参列し、深甚の弔意を表した。
 では次に当時流木対策本部総務委員会に在り、市内南区宝小学校慰霊祭に本部長代理として参列した上野庄吉氏(現室内装飾KK専務)の手記を掲げ、尊い台風犠牲者の霊を偲ぶことにしよう。
 名古屋市立宝小学校の慰霊祭は昭和35年4月26日に開かれました。涙にくれる遺族や県、市区関係者ら多数がしめやかに参列し、次々と捧げられる弔辞に悲しみを新にするのでした。次はその一文です。「思えばまことに惨胆たる災害をもたらした9月26日の夜であります。昭和34年4月1日名古屋市立宝小学校として開校以来僅かに半歳、教育施設、備品の整備に、教育内容の充実に、職員、児童、学区民一体となつて新しい学校作りに努力を続けて参りました折柄、突如として襲った伊勢湾台風は、一瞬にしてすべてを混乱の渕に追込んでしまいました。
 山なす高潮は、山崎川、大江川の堤防を随所に破壊し、学区全域は2メートル余の怒濤さかまく泥海と化し、学区民300余名、その内本校児童68名を含む尊い生命を奪い去つたのです。自然のなせる業とは申せ、まことに悲惨痛恨の極みでございます。
 ここに謹んで今は亡き御霊の御めい福を心からお祈り申上げます。」
 この宝学区にはあの大混乱のさ中にも美しく咲いた人間愛の物語があるのです。
 それは今も市内南区浜田町2丁目地内に建つている「くつ塚」の話です。これは未だ泥海のさ中にあつた当時、宝学区地内に悲しい犠牲者のものでしょう、非常に沢山の靴が流れ着いたのですが、これを心ある地元の人々が丁重にこれを1ヵ所に積み上げ、それに墓標を立てて無名犠牲者の霊を慰めたのです。
 これを伝え聞いた人々も次々にここを訪づれ常に線香と美しい生花が手向けられ、いつとはなしにこれが「くつ塚」と名付けられました。そして後に時の名古屋市長故小林橘川氏らが発起人となり立派な石碑が建立され、小林市長筆になる「くつ塚」の碑銘と共に、除幕式には小林市長をはじめ、県、市会関係者や地元民多数が参列、当流対本部からも来賓として招待され、当日の感激を共にしたことでした。
 「あるだけの 花を手向けん 星月夜」 よみ人しらず
追悼碑のうた 下村栄完氏作詩 小沢正三氏作曲
1、ここは冷たい海でした
 胸までつかる水の中
波のしぶきと吹く風に
 よろめく足をふみしめて
たがいに励まし助け合い
 嵐の中に手をとつて
頑張り続けたところです
2、ここで切なく呼びました
 雨降りしきる闇の中
流れてしずむ父母に
 夫や妻やいとし子に
生きぬくんだよと声かぎり
 叫びつづけて手を合わせ
泣き泣き祈つた所です
3、ここでみんなで建てました
 野菊のゆれるその中に
今や悲しい想い出の
 涙にくもる面影よ
今日も静かに安らかに
 眼りたまえと心こめ
祈り捧げるこの碑です

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写真 上野庄吉氏
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写真 (今も新たな涙をさそう「クツ塚」)(写真は下村栄完氏提供)
その33 おわりに

 わが国木材業界最大の悲劇ともいえる「伊勢湾台風流木始末記」も、昭和35年7月20日の流対解散総会をもつてここに終幕を迎えた。
 想えば「いまわしい追憶」の数々であつたが、今災害を回顧して改めてその真実を探り再び、繰り返してはならない体験の中から多くの教訓を求めることも決して無駄なことではあるまい。
 ここに再び上地武氏の登場を願い、同氏の手記及び名港運輸KK社長成田善助氏の寄稿を収録して本誌巻末を飾ると共に、改めて関係者各位の御協力に感謝の意を表する次第である。
 筏作業員に感謝して
 一生涯忘れることの出来ない史上最大の災害を起したあのにくむべき伊勢湾台風とあの高潮が来るとは神ならぬ身の誰れが知ろう。
 9月26日午後7時頃より風雨共に強くなつて来た。ラジオや、テレビ等で朝からやかましく警告されていた。全従業員を督励し終日かかつて名港貯木場沿岸に繋留してあつた筏を全部池内及び運河に運び入れた。その他の仮繋留所の筏には、ロープ、ワイヤー等で万全を尽した、当夜は相当数の監視員を配置して監視に当らせたが、遺憾ながら命からがらかろうじて難をまぬがれることが出来た。これ等作業員の当夜の努力に対して心から感謝致して居ります。夜明けて二度びつくり南陽通り6丁目附近の電車道路には貯木場より打上げられたラワン丸太を始め大小の丸太が山となり車はおろか人さえ通ることが出来ない有様であつた。
 中京病院の附近では庇まで浸水して歩行は絶対に出来ず、丸太で筏を急造し又小舟などで交通連絡するような状態であつた。
 一方海を眺めると流木が港内一面に散乱して船の航行も不可能であつた。この時鳴呼今日ここに筏作業員が2~30名も居てくれたら、港内に散乱している流木の何万石かを確保することが出来るがと心ばかりあせるのであつた。筏の曳舟は岸壁に打上げられ枕を並べて討死の有様であつた。我々の命とも頼る貯木場はその価値を失ない、武器と頼む綱もワイヤーも全部もぎとられて丸腰となつた。
 年中木材の取扱業者として毎日木材と取組んでいる我々にも、この有様を見た時にはただぼう然とならざるを得なかつた。
 特に筏の作業員の大部分は道徳、豊田、明治、千年等の貯木場の附近に在住して居る関係上殆んど庇まで浸水しその日の食料の確保に、寝室の改造に大わらわであつたにもかかわらず家も子供をもかえり見ず毎日の集材に取掛つてくれたお蔭で港外に流出をくい止めることができた。かくの如く協力して下さつた業界の筏師には頭の下るものがあつた。
 なお各方面よりの協力により広く全国から応援を求め早速馳け付けて下さつた筏作業員の皆様には各々港の地形に依り作業の方法が違うのでその御苦労も一方ではなかつたことと存じ厚く感謝致しております。
 何としても範囲が広いのと交通の便が無いので一段となやまされた。段々月日の経つにつれ人員も出揃うようになり筏師の面目にかけて流木の整理に集材に全能力を発揮して努力したのである。日時を長く費して業界の皆様に御迷惑をおかけしましたが満量に近くまで各荷主様に返還することが出来たのは偏えに木材業界各位の深甚なる応援と種々の苦難をしのぎ一丸となつて集材に整理に御奮斗下さつた筏師諸君の努力の結晶であると考え心から御礼を申上げます。(筆者は名港運輸KK社長)
 流木問題始末記
 「いまわしい追憶」夢想だにしなかつた大惨害の爪跡を残した伊勢湾台風、特に木材業界に与えた被害は世界流材史上未曽有のものと云われ、この難事業に名古屋業界が挙げて一丸となり急速処理に真向から取組み種々の曲折を経て、完全処理を遂行し得たことは、ただ過ぎし想い出として語るには余りにも高価な犠牲であつた。
 然しこの難事業を成し得たのも偏えに諸官庁、陸上自衛隊、港湾関係者更に全国業界から寄せられた絶大なる御協力と御声援、業界委員の悲壮な御尽力によるものと先ずもつて深甚な謝意を表するとともに、尊い犠牲者の御めい福を心からお祈りします。
 当時の被害状況は死者1,500余名(内相当数は流木による被災者)全壊、半壊家屋8,000余戸(流木によるもの多数)冠水無数、流木の状況は届出流材96万余石、実石数104万石、内45万石が陸地に打上げられ8万石が南、港両区に流失し、これが流木処理上最も複雑な問題をかもし深刻に我々の頭を悩ましたものである。
 港湾の流木は水中という原則で、業界人の考えは甘かつたといえよう。
 しかも危険水域の木材(約20万石)が湾内流木したに対し完壁を誇る全国業界羨望の的だつた県営8号貯木場、及び加福、名港の2貯木場の堤防が決壊し市街地に雪崩れた様は誰がこれを予期し得たろう。
 業界は9月28日直ちに流木処理委員会を結成、現地との便を慮り熱田区名古屋筏企業組合に本部を設置、活動を開始したが木材労務者の大半は西南部の居住者多く「人なし、米なし鳶もなし」で如何とも施策なく、しかも1日も放任は許されず通信杜絶、被害地全貌把握も困難なため先ず労務者と器具機械の確保が先決であり委員を北海道、東京、清水、大阪、神戸、四国等へ急派し、これと並行して死体収容のための流木除去、市民(特に南区民)の慰問に重点を置くことに先決す。真実を探究せず全く職業的な一部報道陣の記事は被災市民の業界に対する怨嵯に拍車をかけ不穏な形勢となる。連日南区長、南警察署長を歴訪慰撫工作をしたが混乱その極に達し適策なし。
 この上は自衛隊の出動懇請以外になしと考え、鈴木組合長杉山市議と共に市対策本部を再三訪問懇請、時に深更に及ぶも手応えなし。時日の経過につれその被害は益々増加、被災者の業界への非難は募るばかり。現地作業も派生問題続出困難を極む。たまたま杉山市議と共に市会議長を訪問の際同席の伊勢市議(南区選出)がその実情を理解せられ、南、港区選出県、市会議員並びに有力者と相談尽力下され、被災者代表と流木委員会代表との第1回会合が市公会堂で開催された。当時の我々は全く被告同然で超低姿勢であつた。
 自衛隊の出動は緊急を要し某日朝6時杉山氏と共に県知事を襲う。対談5分間充分実情を理解せられ翌日調査班派遣を確約、数日後1コ小隊(移動クレーン1基)出動せられ共同集材の緒につく。この時の喜びこの上なし。特に自衛隊出動に関し終始側面から援助下さつた丸山営林局長、山分農林部長のお蔭であると深謝している。
 被災地住民代表との話合いは有力者の御尽力により進展、第4回会合が市公会堂で開催され当本部から弔慰見舞金として3,300万円を贈ることで妥結し、最も難問題が解決した。広瀬南区公民会長、伊勢市議を始め有力者各位の御尽力を心から御礼申上げたい。
 これと前後して流木荷主大会を商工会議所で開き全荷主の総意で委員会を改組、流木対策本部として斎田氏が本部長に、杉山、中村両氏と私が副本部長になり従来の総務、陸上、水上の3部制と認定部を設置4部制となり委員総数を52名とする。
 名古屋木材倉庫と集材作業請負契約締結(渉外関係を除外)実行は陸上集材藤木海運、水面投入迄石当り500円、水上集材、認定引渡迄を名古屋港筏企業組合、名港運輸KK、KK千年組の3社、集材経費8号、加福両貯木場分石当り600円、名港貯木場分石当り400円と決定、前記自衛隊出動と相まつて本格的集材となる。当初50名内外だった筏労務者も順次復帰せられ、また自家の被害を顧みず参加せられ、かつ、両堀川業者よりの増援なとで10月上旬250名、全国の応援隊も参加中旬以後500名となる。
 移動起重機も15台となり水、陸両面の集材は着々と進んだが、ただ残念なことは被災地との話合いが遅れたので冠水中に水運利用による集材が不可能となり、この大半が陸上集材となり経費面で相当の不利となつたことに対し重々責任を感じている。
 作業の本格化に伴ない。
 1、死体収容のための木材撤去(当初からこれが重点)
 2、9号地、油槽地帯通路の流木撤去
 3、名鉄線上及び道路上の除去
等陸上集材完了を12月末に水上集材を3月末目標に総力を結集した。
 見舞金額決定後も、派生的な問題が続出、総務部出向社員が最も辛い渉外に陸上部員は現地で、忍び難きを忍び全く涙ぐましい苦労をかけ、ただ申訳なくその御心労に対し感謝の言葉を知らない。
 流木対策本部の最高方針は公平無私、一本でも多く実荷主にお返しするのが鉄則である。
 この目標達成のため水上部は遠く伊勢、志摩、渥美、三河地方へ再三出動、陸上住宅街の流木は11月下旬撤去完了、8号地北岸陸地のも12月30日完全に水中へ投入終了した。
 これと並行して水中作業も進捗10月中旬から認定引渡開始各工場も約1ヵ月にして復旧枯渇した資材に流木引渡しが旱天の慈雨となり業界から非常に喜ばれ、やや軌道に乗つた感じ。集材認定引渡しと並行して輸入材の抑制が緊要であり、限られた貯木場と労力を両面に調整することは難事である。たまたま新輸入材の要望しきりとなり、本部は入港対策委員会を設置多少の犠牲を忍び予定外経費支出を考慮して新輸入材石当り50円~100円を協力費として徴収、輸入材の増量に努力を重ねたが、大量の復旧材需要に資材不足、合板メーカーは大阪、清水、東京に飛び原木入手に大童、特に大阪市場は在庫材を一掃しトラック輸送が延々長蛇をなした。
 作業は沈木処理で一つの壁に突当る。4万石に達する沈木は池内の作業を阻害し、かつ荷主判定資料乏しく、止むを得ず全量仮引揚水中運行、陸揚の手段をとる。この経費と労力時日は予想以上となる。
 認定材の早期引取りと新輸入材増量即ち水面貯木場の回転は最も重要である。然し業界は輸入抑制長期化を予想し他港からの転送に夢中の余り認定材の引取りが遅延するという結果となり、却つて業界に非常なマイナスとなつた事実は今後充分心すべきことであろう。認定引渡開始以来月別認定量下記の通り、集材率95%強。
昭和34年10月  141,549.40石
〃   11月  171,379.50
〃   12月  222,993.45
昭和35年1月  195,115.79
〃   2月  100,660.97
〃   3月  112,494.24
〃   4月  16,689.74
〃   5月   5,923.77
〃   6月  23,465.68
    合計  990,272.56石
 作業は快速に進み、3月末認定91%に達し愈々精算段階に入る。当初の方針通り実荷主にお返しするの原則により不明材6万余石を反復調査の結果最終不明材次の通り。
 1、沈木(主にアツパリ材、アピトン、マレー材、ニュージーランド材)  5,000余石
 1、南洋材                             1万1,000余石
 1、ソ連材及び北海道エゾトド                    1,500石
 1、米材                               300石
 1、内地材                              600石
 1、北海道雑木                            800石
これが処理に付き関係荷主全員参加の上入札処分に付し不足材に按分払戻しをなす。
 当初より流木の引揚に関しては各荷主よりの流木届(明細書添付)と名古屋港木材倉庫の台帳と照合280余名の全荷主が終始真面目に御協力を願い、大したトラブルもなかつた。ただ関西の某社出張所が災害納材を理由に本部の注意を無視、勝手気ままに搬出されたことは遺憾の極みである。
 35年7月末をもつてさしもの難事業も完了解散となる。収支次の通り。
   収入の部
6億0473万3,952円
 内訳 5億3,836万8,402円   荷主よりの徴収金
    6,636万5,556円    入港協力費
    2,000万円       名古屋港木材倉庫KK
               名古屋筏企業組合 より作業請負利益金の中返戻
   支出の部
6億1473万3,952円
 内訳 4億8,871万0925円   請負作業費
    2,800万円      弔慰見舞金(外に500万円木材倉庫)
    254万4,446円     流木処理拾得御礼
    147万3,204円     旅費交通費
    9,030万円      荷主払戻(8号、加福石当り 100円)
                   (名港 〃   50円)
    309万6,300円    本部人件費その他
    63万7,727円     剰余金 流材史編纂費に繰入
 以上の通り各委員は本業をなげすてて献身的に奉仕せられ予期以上の好成績を収め得たことは感激の外なし。
 ただ色々の事情により回収を急ぐの余り港湾労務賃金の著しい高騰を来し、その余波は現在に及び、又入港制限等の措置により資材の不円滑を来たし業界に御迷惑をおかけしたことは誠に申訳なく思つている。
 政府も伊勢湾台風流木被害の甚大に鑑み8号貯木場防波堤の完全改良工事を完了すると共に港湾木材貯木施設の拡充に熱意を示すに至つたことは最も喜ばしいことである。
 これを顧みるにかかる災害の再発は絶対避けるべきも万一を慮り気付いた点を列記してみよう。
1、流木(回収)対策の
責任を明瞭にすべきである。
 1.貯木場所有者(管理者)か
 2.木材倉庫会社か
 3.寄託荷主か
 これは天災だから非常に難しい問題であるが、保税倉庫へ保管料を払った寄託荷主がその回収経費は当然大部分を負担すべきも集材責任者と断定出来ないように思う。
2、被災者の慰撫を第一とする。
3、冠水中水運利用による運材
4、台風期前の危険水域木材の撤去(輸入調整)
5、予備器具機械(鳶、縄、ワイヤー等)の安全地保管
6、理想的な集団木材街を建設すべきである。
なお、幾多の貴い経験を得たが、健忘症の私はこれを表現する能力がない。ただ想い出すままになぐり書きしてお許しを得たいと思います。
     (筆者は上地木材KK社長)

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写真 成田善助氏
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写真 上地 武氏

(附)流木対策本部関係資料

昭和34年9月26日15号台風に依る
流木等被害材保有量届書に基く
届出荷主名簿

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届出荷主名簿・その1
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届出荷主名簿・その2
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届出荷主名簿・その3

役員・委員・人名簿 附 業務分担人名簿

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役員
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委員
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委員会
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名古屋流木対策本部荷主出向社員名簿

流木被害届出数量(貯木場・樹種別)―34.10.28現在調べ―流材総石数 961,855.90

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伊勢湾台風流木被害数量 八号貯木場(1)
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伊勢湾台風流木被害数量 八号貯木場(2)
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伊勢湾台風流木被害数量 八号貯木場(3)
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伊勢湾台風流木被害数量 八号貯木場(4)
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伊勢湾台風流木被害数量 八号貯木場(5)
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伊勢湾台風流木被害 数量 加福貯木場(1)
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伊勢湾台風流木被害 数量 加福貯木場(2)
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伊勢湾台風流木被害 数量 加福貯木場(3)
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伊勢湾台風流木被害 数量 加福貯木場(4)
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伊勢湾台風流木被害 数量 加福貯木場(5)
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伊勢湾台風流木被害 数量 名港北池(1)
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伊勢湾台風流木被害 数量 名港北池(2)
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伊勢湾台風流木被害 数量 名港南池(1)
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伊勢湾台風流木被害 数量 名港南池(2)
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伊勢湾台風流木被害 数量 名港南池(3)
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伊勢湾台風流木被害 数量 名港南池(4)
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伊勢湾台風流木被害 数量 名港南池(5)
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伊勢湾台風流木被害数量 その他(工場、土場等)
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陸上集材作業関係総括表(月別)
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業種別届出石数(昭和34年9月26日現在)
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樹種別・貯木場別届出石数 昭和34年9月26日((10/28 修正に依る)
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名古屋流木対策本部認定(流木堡材荷主還元)一覧表 (昭和35年6月28日)
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第一章附録(其の三) 累年高極潮位グラフ(名古屋地方気象台の記録)
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9月26日の気象記録(風速・気圧は、名古屋地方気象台名港分室の記録潮位は、名古屋港検潮所の記録)
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編集委員名・特別寄稿者名・編集協力者名

編集後記 杜撰で恐縮

 伊勢湾台風の実感もうすらいだ頃になつて、一部の筋から後世のため参考になる様な記録を作つておく可きではないかという声が昂まつて、その実現が期せられるという所までは結構なことだと思つていたら、白羽の矢がこちらに飛んで来てその編集の任を負わきれるに及んでは、まさに名状しがたい気持になつてしまつた。
 正直に言つて私自身は有難迷惑だつた。いや結果的にはこういう杜撰なものが出来ては読者のかたがたに迷惑かけることになつてしまつた。
 編集後がきでお詫びする訳である。
   ×   ×   ×
 およそ新聞なんて仕事の年中足もとから鳥が飛び立つ様な雰囲気にあるものが、こういう気の長い、ゆつたりとした気持で取り組まねばならぬ実録的、記録的のものは不向きであるのに引き請けたのが間違いのはじまりであつた。
 その上昭和35年9月、第1回編集委員会を開いた直後まつたく運わるく宿痢の、痔なんて色気もない病いが昂じてニヵ月余を空費しなければならなくなつたことは、私を一層イライラさせてしまつたのである。
 この空白を埋めようと、今春早々からスピード・アップした記録であつてみれば、同じ編集の責任ある委員会のかたがたにも期待以外のものが出来上がつてしかもその責めを、その方たちに負わせることになつたことも、私としては期せざることであった。
   ×   ×   ×
 結果はうまくなかつたけれど、この編集について終始熱心に努力をつづけて戴いた上野庄吉氏(当時津田産業名古屋支店勤務)の御尽力に対しては衷心から感謝を捧げておきたい。
 私がこの編集事務局を担当する時「流対」についてはメクラ同然の私では上野氏を杖と恃むほかはなかつたし、それだけ「流対の生き字引」として本書編集に当つては終始御協力を戴いたことを敢えて報告申上げ、私の編集あとがきの御挨拶とする次第であります。
 昭和36年9月1日
   編集委員会事務局
   日本林業経済新聞社社長
        神野左右一
【参考資料】
○伊勢湾台風気象概報(昭和三十五年一月十五日・名古屋地方気象台編集・気象協会名古屋出張所発行)
○伊勢湾台風回顧―市会の活動を中心に―〆昭和三十五年九月二十六日.名古屋市会事務局資料月報災害一周年特集号・名古屋市会事務局発行・野呂八束編集)
○名古屋木材商工月報(昭和三十四年四月~昭和三十五年三月・月報集10・鈴木達次郎編集・名古屋材木組合発行)
○伊勢湾台風記録・中部日本新聞縮刷版(昭和三十四年九月二十六日~昭和三十四年十月二十六日・中部日本新聞社発行)
○伊勢湾台風の全容(写真集・昭和三十四年十一月三十日・池田順昭・小山太郎編集・中部日本新聞社発行)
○伊勢湾台風流木集材記録写真集(昭和三十五年三月二十九日・新田西雄編集・名古屋港木材倉庫株式会社発行)
○日本林業経済新聞社伊勢湾台風特集号(昭和三十五年一月三日・神野左右一編集・日本林業経済新聞社発行)
○日本林業経済新聞(昭和三十四年度集成版・日本林業経済新聞社発行)

昭和36年9月1日印刷:昭和36年9月10日発行
 伊勢湾台風
   流木集材の記録
編集人 流木集材記録編集委員長 元流木対策本部 本部長 斎田清喜
発行人 名古屋木材組合組合長 元流木対策本部顧問   鈴木達次郎
発行所 名古屋市中区米浜町3木材会館 名古屋木材組合 TEL■(0886 1017
印刷所 名古屋市中区春日町53 日本林業経済新聞社  TEL■(4416 0878

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写真 神野左右一
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安政二年の伊勢湾大津波被害図
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尾張国伊勢湾太古図