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特集号"伊勢湾台風の特色と災害"の発刊にあたつて 土質工学会長 富樫凱一

 昭和34年9月26日夕刻から27日早暁にかけて本邦を横断した超大型台風は東海地方,特に伊勢湾沿岸地域に,日本台風史上,まれにみる暴威をふるい,愛知,三重,岐阜三県において,5,000人にもおよぶ人命をうばい,5,000億円余の災害をのこしていった。
 毎年のように台風の災害になやまされつゞけ,ややもすれば,その被害に慢性となっている我々日本人にとっても,この台風の猛威はあまりにも大きすぎ,そのきびしい災害の現実に対しては,その伊勢湾台風という名とともに永久に忘れることはできまい。
 伊勢湾台風においては,台風の規模,進路,台風襲来前の気象状況,台風上陸時の湾内潮位等がすべて悪条件であったことが,被害をかくも大きくしたのであるとは云えるかもしれないが,この台風は,本邦の国土建設,特に海に面した大工業都市の形成および沿岸干拓地の造成に対して,大きな問題をなげかけた。
 もしも被害の最も大きかった名古屋市と同じく,近年地盤沈下になやんでいる東京,大阪等の大都市に,伊勢湾台風と同じ規模の台風が襲来したとすれば,名古屋市が伊勢湾台風で受けた以上の被害を受けないとは誰も断言はできないし,今年にも,同程度の大型台風が,再び三度,日本をおとずれないとは誰も予想はできないのである。
 われわれは,いたづらに伊勢湾台風の被害をかなしみ,おそれているわけには行かない。われわれはすぎ去った台風の被害を復旧し,再び来るべ台風にそなえ,敢然と立向わなければならない。
 たしかにこの台風の被害はあまりにも大きかった。しかし,その被害が大きれば大きいほど,われわれには貴重な参考資料を残して行った。われわれは今,細分化されている科学技術の総力を結集して,多角的に被害を調査し,対策を研究すべきであると信ずる。
 土質工学会は,その線に沿って昭和35年3月1日,特別講演会の開催を企画し,伊勢湾台風の被害調査ならびに復旧にあたった諸氏を招き,この台風の科学的特色をうかがった上で,海岸,河川堤防,港湾,道路,鉄道その他の公共施設のうけた被害ならびにその復旧工法について,主として土質工学的見地から,その貴重な資料を解折して頂いた。
 そして,この特別講演会の主旨を,さらに全会員にとって意義あるものとするために,多忙な諸講師をわずらわせ,さらに詳細な資料の御提供と,より明解な御説明をいただくために原稿の御執筆を願い,ここにそれらを土と基礎特集号として編集,発行することとなった。
 伊勢湾台風の来襲から,すでに半年以上をへて,再び台風期を間近にひかえた今日,その災害をかえりみて,その事実を把握し,あらためて本邦の斯界技術者に課せられた大きな宿命を認識し,台風対策についての科学的調査研究の有益な資料として,当特集号を最大限に利用されることを期待している。
 なお,この機会をかりて,台風後の調査復旧に御多忙であったにかかわらず,特別講演会における御講演,および当特集号の原稿の御執筆を頂いた諸講師に対し,深くお礼を申し上げたい。最後に伊勢湾台風による痛ましい被災者に,心からの哀悼をささげるとともに,力強く復旧に努力されてこられた地元の方々に,かぎりない敬意と声援をおくりたい。

風について 寺田一彦(気象庁海洋気象部長)

 伊勢湾台風は名古屋その他の低地に高潮による被害をいちじるしくおよぼした。このため風による被害のことは案外等閑視されているようであるが,今回は風も極めて大きなものが吹いたのである。又そのため今回のような大きな高潮が起ったと見るべきである。
 一口に40m/sとか50m/sとかいっても,風の中にはいろいろの変化が入っていて,数秒の間で風の強さがちがって来ている。これは風の中に沢山の渦や乱れがまじりこんでいるからであり,そういう変動を伴った風が全体として台風の近接につれ強くなってくる。一例を伊良湖測候所の自記紙から見ると,26日午前中ではまず瞬間値で20m/sを超すものは数回しか観測されていなかったし,風の強弱の変動もそう大きくはない。しかし夕方からは最低でも35m/sをこし,最大は35m/sを超すのが出て来たという位で,風の変動の幅も決して小さくない。これが更におそくなって台風中心に最も近い距離―といっても75km位離れていたが―の時には最大が50m/sをこしていることが,図の工合からわかる。ここで最大値55.3m/sを記録した。図からわかるように自記紙の巾は台風が近ずくにつれだんだん広くなり台風が過ぎ去ると巾も狭く風のおとろえ方も割に早くなっている。以上は渥美半島突端の伊良湖測候所のデータであるが,他の地区も大体同様の傾向を示している。
 それ故台風域内には随所に強い風が吹いていたわけであるが,中心からの距離と瞬間風速との工合をしらべて見ると,台風中心から70~80km位離れた地点が最も強い風を観測していることがわかる。この場合に用いたデータは各地1時間間隔の中の瞬間最大値を台風中心からの距離の関数としてプロットしたもので,これからはつきりいえることは,海岸地帯では内陸地帯に比べかなり大き目の風が観測されているということである。
 次に気のつくことは,台風の風は台風中心よりもそれから50km位から150km位離れた位の所が強く,一番強いのは70~80kmの所であるといえる。これは台風が一つの大きな渦巻で,その中心に向って四方から風が吹きこんでくるが,台風の中心に吹きこんできた風は中心附近で上昇気流となってしまい,その際に多くの雨を降らせたり,中心に台風眼を生ずるようになり,その周辺に風の強い所を生じることに原因している。今回の伊勢湾台風では,中心が湾の西の陸地を通って行き,台風域内の風の最も強い所が伊勢湾全体におよんで来たということに今度の大きな高潮災害を起した原因がひそんでいるといえる。事実灯台その他の観測によると,60m/sをこした風を観測した範囲も伊勢湾口付近相当広い所におよんでいることから見ても,今回の台風の猛威の程がうかがわれる。
 この風はたしかに大きな高潮を起した原因の一つでもあるが,又この風のため沢山の建造物も被害を蒙っている。鉄塔もやられ,建物もたおれ,又海上では多くの船が遭離している。
 こういう風がいろいろな物体にどんな作用をするのかというと,これは風圧といわれる一種の圧力をおよぼすためと解釈さたていた。そして風圧は風速の自乗に比例するとよくいわれてきたが,この風圧の問題はそう簡単には片づかないのである。流体力学の教える所によると,風に正対すの面積Sの物体に,風速Vの風が当たった時,その物体のうける圧力Pは
式-1
の式で与えられることになる。ここにρは空気の密度,Cxは抵抗係数といわれるもので,物体の形によって大変異るのである。例えば俗にいう流線型のような物体ではCxは極めて小さく,四角の角のあるような物体はこれが大きい。即ち同じような条件の下で考えれば流線形に当る風圧は小さい。
 このことは風圧というものが,単に物体を押す力というだけでなく,物体の後にできる渦の工合に大いに影響されるためで,流線形のように風の流れが滑らかになるように設計された物に対しては渦も小さく抵抗が少なくなる。之に反し角ばったようなものがあると,その角から大きな渦が出て抵抗を大きくする。又こういう角ばつたものが前後に並んでいると,渦が次の物体に当ってそれから出る渦の形もちがって来て,抵抗の値は複雑になる。これは必ずしも一つの物体の抵抗の倍の値を示すとは限らない。
 こんな工合であるから,台風の中のように風自体にいろいろと乱れているものが,物体に当るとそのための抵抗は複雑になって来る。しかし大体の工合は一様な風が物体に当る時の抵抗から推定してよい。
 物体によってCxのちがいは図のように大分ちがうが,Cxの値はしかし理論的にはレイノルズ数Rによって複雑な変化をする。レイノルズ数Rが大きくて10^4とか10^5以上の値になっていれば,大抵Cxの値は一定に近い値をとっている。この図に書いたCxの値はこういう程度のものとして示してある。
 レイノルズ数というのは空気の粘性係数μを密度ρで割って得られる動粘性係数νと風速Vと,物体の大さを示す一次元の長さl―例えば球の場合は直径といったものとの間に
式-2
の関係式で結ばれるものである。空気ではvは大体0.15(C.G.S.単位)であるから,直径1.5mの球に対しては10m/sの風に対しR=10^6となるという工合である。
 このRとCxとの関係は大変で,物体によってこの関連工合は異るが,球についての状況で大体の目安はつく。球の抵抗は小さい球については昔から有名なStokesの式がある。これは砂粒のように極く小さいものに使えるがR=1以下でしか使えない。この工合はいろいろの人によって調べられたがやはりRの大きいものに使える式はまだ出ていない。筆者のはやや大きい所にまで使えるがこれとても雨滴位までのものである。とにかくCxとRとを対数目盛にしたものが図のようなものである。これで見るとRが10^4位からだとCxは0.5とか0.4位になる。3×10^5の附近にCxが急に小さくなる所があるが,それでも0.1より少し小さくなる位である。
 今度の台風のように大風の時に,どんな物体に対してRがどうかは下の図表を利用すればよい。50m/sの風が直径1mの物体に当る時は50と100cmとの点を結びRの線と交わらせると3×10^6位のRをうる。そのような場合のCxとしてはそのRに対するものをとればよい。
 一応Cx=0.5とした場合にS(m^2)の断面をもつ物体に当るV(m/s)の風が及ぼす圧力はkg単位で
   P≒0.03SV~2
となる。これで計算すると
V:10 20 30 40 50 60m/s
P:3 12 27 48 75 108〃
となる。戸板一枚はこれと面積が同じようであるが,Cxが1.0とか1.2とかでこの値の倍位になるから,風速30m/sで50kg以上の力をうけることになり,60m/sだと200kg以上の力をうける。こういう力が伊勢湾周辺に及んだので,被害が大きかったのは無理もない。
 こういう風は地面附近だけでなく上空も吹くが,上空はしかし地上に比べ極めて大きい風が吹いているわけでもない。台風中心から少し離れているが,高層気象観測のある八丈島,館野,輪島のデータから見ると,上層でも40~50m/sどまりで,八丈でも60m/s近くを観測している位である。また富士山の値を見ると,台風が近づくにつれ,30,40,50m/sと風速は増大し,60m/s近くまでの風速を観測している。それ故台風といってもその上空がそう大きな風とはなっておらず,地上付近の最大風速と同じ位のが吹いていることになる。
 しかし地面附近では風速分布はやや異る。というのは地面では風が0であるべきなので,風速分布としては図のAのように高さと共に変るのが一般で,数mの高さからはカーブは殆んど一様となる。しかしこれはやや安定した大気の場合のことで,乱れが大きかったりすると,この一様になる高さが低くなり,地面の極く近くまで上の方の影響が及びBのようになる。それでもし地面附近に何か障碍のようなものがあると,このカーブがある高さで切られるような型となり,その障碍物はやはり強い力をうける。地面のすぐ上にはいろいろの小さい凹凸もあるので,完全には風速0ということはない。その上地面附近を吹く風の中の乱れのため渦が出き,それが地面に斜にも垂直にも風を吹きつける。
 それで台風の時のように風も強く,乱れも強いと風速は高さによる変りが地面附近でも余り見られない。この結果地上にも強い風が当ることになる。しかもこれが渦のような形で当るので風向にもいろいろ変動がある。即ち複雑な強い風をうける。
 こういう風がいろいろの構造物に風圧を与え,被害をおこす基となる。そして前に見たように内陸より海岸の方が風速が大きい。すなわち遮えぎるものがないから強い風が吹きつのることになる。
 しかがって伊勢湾の中では50m/sとか60m/sとかいう風が吹走し,これがやはり水面に大きな力を及ぼした。この水に及ぼす風の力の問題にはいろいろ面倒なことがあるが,風の応力τとしては
   τ=γρV^2
というふうに風速の自乗に比例するとしている場合が多い。そして係数γは風速が6m/s位をこすと著しく異るといわれている。一般に
   γ=0.8×10^-3  V>6m/s
    =2.6×10^-3  V≧6m/s
のような値が活用されている。しかし,これ等は比較的小さい風速の時のデータから出したもので20m/sも30m/sもの風ではどうもこの値は使えそうもないといわれている。例えば外国では20m/s以上ではγ=3.2×10^-3をとつている人もおり,又風速の3乗の項も入るといっている人もいるといった工合である。
 今度の台風の場合,高潮のデータをうまく解析するとこのτの値に対してかなりいい結果が得られるかも知れない。大体に於てτの値は風速が大きくなると大きくとる方がいいようである。
 現在気象庁で電子計算機を使って高潮の解析をしているがこの中にτの入る項が入っているので,あるいはこの方面からこの係数を知る糸口がつかめるかもしれない。
 地上での風は何とかできるが,海上の風の観測は困難である。又これが高潮等とも結びつくので,海面に及ぼす風の応力の問題は,地球物理的の基本問題であるばかりでなく,土木工学等にも大いに影響する実際問題でもあるが,まだ海上の風のよいデータがない状態である。

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図-1
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図-2
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図-3
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式-1
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図-4
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式-2
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図-5
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図-6
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図-7

水について 吉川秀夫(工博 建設省土木研究所)

 1.まえがき
 昨年9月27日夕刻伊勢湾地方をおそった台風は約6,000人の人命と3,000億以上の財産とをわずか数時間の内に鳥有に帰するという恐しい災害を引き起した。大阪,東京,伊勢湾,有明海などでは度々高潮の被害を受けているが,伊勢湾台風は近年まれな規模の高潮を生じたといわれている。「海近ければ浪高き時は山の頂きをも浪の越ゆること度々なりしゆえに浪越の里と呼びにし」といわれているように名古屋地方は高潮の常襲地方である。
 過去の伊勢湾における高潮の発生の状況を記録に残っているものについて調べて見ると図-1に示すように非常に屡々高潮が発生していることが判る。1800年以前では比較的少く,最近は非常に多いように見受けられるが,これは沿岸開発の進度と記録が最近のものではよく残っていることによるのであろう。これから見ると10年位に一度は高潮の被害を受けているようである。これは湾が南に開いていること,遠浅であること,また沿岸平地が非常に低いことなどによるものである。図-1に同時に愛知県下の新田干拓の状況を示したが,古くより次第に干拓された土地で,例えば日光川流域では海岸線より約20km上流までポンプ排水区域であり,この地域は常時満潮位より低く,今回の災害により破堤浸水した区域とほぼ一致する。
 水理現象的に今回の高潮は過去の高潮の中でどの程度のものであるかを調べて見るために,水谷氏の論文(水谷鋳 尾張湾の高潮 水利と土木 Vol.8 No.1~3 1953)から過去の大きな高潮の状況を摘記して見ると次のようである。
(1)明治22年9月の高潮
 最低気圧 津:717mmHg, 名古屋:721.7mmHg
 高潮位  幡豆郡吉田町  当日の普通満潮位常上の高さ 17.5尺
    知多郡豊浜町        〃         13.8尺
    幡豆郡小薮         〃         11.0尺
    名古屋市熱田        〃         6.2尺
(2)大正元年9月の高潮
 最低気圧   名古屋市:728.6mmHg
 風速      〃  :40.3m/sec
 高潮位 日光川河口より約1里10町附近
             干潮位上           15.8尺
 この他数多くの高潮があり,又近年では昭和28年9月の13号台風による高潮がある。これらから見ると今回の高潮は過去の高潮の中で第1級のものではあるが決して特別なものではないことが知られよう。
 これからの設計においてはこの事に留意して行わねばならないと共に,他の同じような条件を持つ湾に対しても,充分に注意する必要があるように思われる。
 2.潮位と波
 最高潮位の値(東京湾中等潮位上)およびその発生時刻の湾内の分布状況は図-2に示すようになっている。異常な低気圧による吸い上げと風による吹き寄せにより,とくに伊勢湾奥部に異常高潮を示した。
 異常高潮の継続時間は湾口においては比較的長く,かつ最高潮位の持続時間が長いが,湾奥部では潮位がT.P.+2.0mを越す時間はわずか2時間程度であり,潮位は急激に上昇し,下降している。また今回の台風による高潮は小潮の満潮時以前に生じており,天体潮の高潮におよぼす影響が少なかったことに注目されねばならない。
 河川内の異常高潮の影響も各流入河川に認められるが,一例として,木曾川の場合には図-3に示すようになっている。すなわち,高潮が河川に侵入するにしたがって潮位は上昇していることが認められる。この現象は長良,揖斐川において実測された結果によっても認めることができる。
 また新川の例を見れば波高は上流に行くに従い減衰しその関係は波高をH,距離をxとすると
式-1
の形で表わされ,減衰率は新川の場合はα=0.0003(m単位)であった。
 河川内の潮位の上昇は,主として上流よりの河川流量と風によるせん断力によって生ずると思われるが,木曾川の場合には資料より調べたところ,上流よりの流出量の影響は非常に少いので,主として風により吹き上げられたものと推定される。木曾川の横満蔵,船頭平雨量水槽の水位差と桑名(一部分は名古屋)の風速の自乗との関係は図-4のようになる。この関係は非常によい相関を示し,河川内の潮位を推定する有力な手がかりとなると思われる。
 次に湾内の高潮の状況を調べて見ると各地点の潮位は図-5に示すとおりである。伊勢湾の長軸に沿って各地点の潮位をプロットすれば,名古屋の最高潮位時には図-6に示すようになる。同時刻の海面に沿う風のせん断力を図-6より逆算して見ると湾内ではほぼ一定であり,その大きは約600×10^6t/m^2である。風によるせん断力をτ,風速をW,空気の密度をρ_aとすれば
式-2
の関係が成立する。ここにκは風応力係数である。実測結果からκを求めて見ると0.006となり,従来測定されているものよりは,いくぶん大きいが,ほぼ同じような値が得られた。序に前に述べた木曾川の場合についてκを求めて見ると0.004となる。次に伊勢湾において生じた過去の高潮についてκの値を調べて見ると
 大正10年6月30日高潮 W=17.5m/sec κ=0.005
 大正10年9月26日高潮  =17.5    =0.010
 大正12年4月6日高潮  =18.0     =0.004
 大正12年6月22日高潮  =20.0    =0.005
 大正14年9月11日高潮 W=22.8    K=0.006
 昭和28年9月25日高潮  =13.0    =0.007
     〃      =20.0     =0.008
のようになり,大体において風応力係数は一定した値を持つことが知られる。海底摩擦や波の加速度の影響を考慮していないので,充分には正確という訳にはいかないが,高潮の主な原因は伊勢湾においては風による吹き寄せであると考えられる。今後更に応力係数を精度よく求める必要があるし,又応力係数の風速による変化の様子を明らかにしていかねばならないことは勿論である。
 今回の高潮において被害を大きくした一つの原因は堤防破壊による平野部への浸水である。破堤の原因を明らかにしておくことは,今後の対策として最も重要なことであるが,この点については本誌に福岡博士が詳細に述べられる筈であるので参照されたい。ここではどの程度の浸水量があったかを調べて見る。地形を詳細に調べることができないので,日光川流域で調べた結果を参考として概算して見ると,海岸堤防が決潰してから1~2時間以内の浸水量は5×10^8m^3程度であったと考えられる。この量は台風時に伊勢湾の湾口から湾内水位が最高になる迄の総流入量を湾内水位曲線から推定した値約28×10^8m^3に対して相当な比重を占めていることから,莫大な量であることが知られる(図-7参照)。
 次に高潮時に湾内に河川から流入した水量を求めて見ると,12時から20時までの8時間に合計約0.9×10^8m^3が流入した事になり,浸水量に比べてかなり小さいことがわかる。さらに高潮時には河川水位が相当上昇していたために河道内にそうとう貯溜されている状況なので,海への流入量はさらに小さいと考えられる。したがって今回の場合,高潮に対する河川流量の影響は非常に小さいと考えられるが,相次いで台風が襲来するような場合には,河川流と高潮とが重さなる場合も考えられ,河川流の影響も十分考慮しておかなければならない。
 次に今回の台風によって生じた波の高さであるが,これについては福岡博士の論文を参照して頂くことにして,ここでは波高が2~3mに達したことだけを述べておく。
 海岸堤防の設計に当っては高潮位および衝突波高を知って,堤防高を決定することは勿論重要なことであるが,その他に堤防に作用する波圧を知って,充分これに耐えるような提防を設計しなければならない。このためには波圧が今回の台風でどの程度のものであったかを知っておくことは非常に大切なことであるが,資料が殆んどないために適確には知り得ないが,比較的単純な構造物の破壊状況から推算して見る以外に測定値がないので致し方がない。一例として示せば康衛新田の波返しが波の圧力により破壊されているが,この場合に波圧を逆算してから求めて見ると11ton/m^2程度であったと推定される。この例について広井公式から推算すれば約5ton/m^2,Minikin公式では約100ton/m^2となる。広井公式は幾分小さ目の値を与えるけれどもMinikin公式は瞬間的な圧力を求めるように作られているので非常に過大な数値を示す。海岸堤防のようにコンクリート構造物と土体とが一体となって働くように設計されているものでは,瞬間的な衝撃圧は吸収されて,ある時間に働いた平均圧力に抵抗するように働くものであるように見受けられる。したがってこのような測定に基づいて作られた広井公式の方がより近い値を与えるものと思われる。今後この様な点については水理学的な面からも,土質力学的な面からも更に研究して行くことが必要であることが痛感される。
 又堤防設計には越波量を明らかにしておくことも必要であるが,今回の高潮の現地調査では明らかにすることが残念ながらできなかった。この点についても基本的研究を行う必要があると思われる。
 3.昭和28年13号台風との比較
 伊勢湾台風時には伊勢湾内では全体的に潮位は13号の場合より高く,湾奥部では約1.0m,東岸では約0.5m高い。湾の入口では20cm低かったのに,このように高くなったことは今回の台風の規模が大きかったことが認められる。低気圧の圧力差は今回の方が約10mb低かったが,このことは潮位におり込まれていると考えてよい。風については,13号台風の場合には最大風速が20数m/secであったが,今回の場合には湾奥部で40m/secに近い値を示しており,風力としては13号の場合の約2倍になっている。風向については全体的には13号台風の場合と大差はないが,湾奥部では13号の場合よりも高潮に対して危険な方向になっている。
 したがって,今回の台風では伊勢湾においては13号台風の場合に比較してそうとう高く,かつ風速,風向から考えても波浪も非常に大きく,13号を対象にして計画された堤防はそうとうな被害を受けることは予想されるところである。
 一方,渥美湾においては知多半島東岸が13号に比べて潮位がやや高かったが,他の場所は大体において13号の場合とほとんど同様であったと考えられる。潮位の方はだいたい13号の場合と同じようであるに反し,風の方は観測点の数が今回の場合には比較的少ないけれども観測値のみを比較してみても今回の方がやや大きいようであり,かつ風向も13号の場合とほぼ同様であったと推定される。今回の場合に観測値が少ないことは,風速が13号の場合より大きくて,測定が出来なかったことを物語り,また陸上における風害も13号の場合よりいっそう大きかったことより考えて,波浪は少なくとも13号と同じか,あるいは上廻ったものと考えられる。
 このように渥美湾においては13号の場合と同程度,あるいはそれ以上の自然条件に対し,西側によった地域以外は大した被害を受けなかったことは13号の場合のこの地区の大被害と比べて注目に値する。すなわち,13号被災以後改良工事が行われて,前回の場合には大被害を出したが,今回はごくわずかしか被害を受けなかったことは改良工事の成果を示すものと考えてよいであろう。
 13号台風程度の自然条件に対して耐えるように計画施工された海岸堤防が今回の条件に対して十分耐えたことは工事の妥当性を示すものであり,堤防の老朽化の問題を土質力学的にまた水理学的に究明して対策を樹てるならば十分安全な設計を行うことができると思われる。

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図-7

地盤沈下との関係について 宮部直巳(理学博士地理調査所)

 1.まえがき
 伊勢湾台風の際に,広い地域に浸水して大きい災害を生じたことについては,いろいろの立場から論じられているが,その原因のうちに,その地域が低地であるということを忘れることはできない。
 浸水地域のうちには,高潮の襲来したときだけ浸水して,高潮が退くとともに水もひいた地域もあるが,名古屋市南部および,愛知県海部郡と三重県長島町木曾岬村桑名市の一部を含む,木曾,揖斐,長良三川の下流地域は,長期間にわたって湛水し,高潮来襲による直接の災害も甚しかったが,湛水による被害も小さくなかった。このような地域は,干拓地としてひらかれてきたので,元来,低い土地ではあるが,どれくらい低いかについては,あまり明らかにされていなかった。
 このたびの災害を契機として,地理調査所においては,この地域について,簡易水準測量を行い,特に水田表面の高度の分布をできるかぎり詳しく調べた。その結果の一部を図-1に示してある。
 この図によると,名古屋市の西部,桑名市に至る地域において,北は津島にいたる広い地域が,平均海水面より低いということが明らかにされている。又,海岸に沿う地域においては,水田面の高さは-1.0mとなっており,堤外の海水面と比較して目測される所と略々一致しているが,内陸部において,-1.5m又はそれ以上の低地が存在することは,注目に値するといえよう。このことは,この地域に海水が浸入した場合に,これを排出することが困難となり,長く湛水するに至った原因の一つでもあろうと考えられる。
 干拓地が造成される場合には,その地域内の排水のことは当然考慮されるはずであるから,より古い,したがって海岸より,より遠く離れた干拓地の地表面が,それよりも海岸によっている地域より低いということは,いささか解しかねる所である。それ故,このことは,むしろ干拓地が造成された後に若干沈下したものではないかとの疑いをいだく一つの根拠になりそうである。
 干拓地に地盤沈下が生じているのではないかと思われるもう一つの理由は,次のような事実である。干拓地を灌漑した水は,悪水路に導かれて海へ排出されるが,水田面が低いために,排出にはポンプが使われている。ところで,この排水用ポンプの数およびその所要電力が年々増加しているといわれている。このことは,灌漑面積が増加しない限り,灌漑用水量が増したか,水田面が低下して,灌漑水の水面と堤防外の海水面との間の高程差が増加したかのいずれかに外ならない。実際には,灌漑用水として,地下水を汲上げているから,用水量の増加というこもと考えられないわけではないが,それらの関係を量的に云々するには現状では資料が充分でない。しかも又,地下水の汲上げ量も過度になれば,地盤沈下の一因としてとりあげられる可能性もある。
 この地域のような干拓地における地盤沈下については,少なくとも次のような三通りの現象があると考えられる。第一には
 (イ)地殻変動と一般によばれる地面の運動で,その原因は,地下の深い所にあると考えられ,人力で左右することのできない自然現象である。地震などの際に比較急激に起ることもあるが,平常時でも緩やかながら進行していると考えられる。ただこの場合には,ある一地点.に着目すれば,その場所が沈下することもあれば,又,逆に隆起することもある。
 第二には
 (ロ)干拓地を造るために盛った盛土の沈着(Settling)による表面の低下現象である。これも自然的現象に属するが,これは極表層だけの問題であるし,この種の沈下現象は時がたつとともに急激に減衰してゆくものである。
 第三には
 (ハ)いわゆる地盤沈下現象で,地下水を過剰に汲みあげるために地下水圧が下り,それに伴って,表面の粘土層が収縮して沈下を生ずる,あるいは,地下の物質(例えば石炭など)を採掘したために空洞を生じて沈下する。
 などの沈下現象である。
 実際に,その量も大きく,問題になるのは,(ハ)の方式による地盤沈下現象である。
 木曾川下流地域における問題の地盤沈下には,少なくとも,上述の三通りの現象が含まれていると思われるがこれを分離することは困離である。
 2.地盤沈下の土地条件
 前項において述べた,地盤沈下が起るためには,それに相応する環境や条件がなくてはならない。
 地盤沈下の生ずる機巧についてはいろいろと考えられるが,名古屋附近での沈下が,東京や大阪における沈下と同じような構巧であるとするならば,
 (i)地下の帯水層の水圧(水位)がある程度低下していなくてはならないし,
 (ii)帯水層の水圧低下によって,含有水分を失い,従って収縮する粘土層が,ある程度以上の厚さをもって存在しなくてはならない。
 (i)については,量的に正確に測定された資料は不充分のようである。ただ,以前には地上に噴出していた井戸の水が,現在は,噴かなくなったのみならず,その水位が,地上から相当の深さまで低下したというようなことが言われているのみである。又,ある特定の井戸については,水位が10m以上低下したといわれているものもある。しかし,問題の地域全般にわたって,地下水位がどのような変化を示したかについては,充分に知られていない。
 (ii)については,多田,井関両氏1)の調査によって,大体の容子は知られている。それによると,聞題の地域全般にわたって,主として砂利からなる帯水層が二層あり,いずれも,その地域の西南部において深く,東北部において浅くなっている。第一の帯水層は,最深部で30~40m,第二の帯水層は最深部で90mくらいの深さにある。そして,これら二層の上部および中間部には,それぞれ砂および粘土の層があるといわれている。
 このような状態であるから,もし何等かの原因で,これらの帯水層の水位が低下するなら,粘土層の収縮による地盤沈下は起り得る条件が備っているということができよう。
 しかし,帯水層の水位を低下させるような原因があるかというと,その点はあまり明らかではない。現在,海部郡等の水田地帯には,多数の灌漑用の井戸があって,水の必要な時期には盛に揚水している。けれども,これらの井戸は,その深さが多くは100m以上で,上述の第二の帯水層よりは深い場所にまで達している。それ故,第二帯水層より深い部分の状態のよく判っていない今日の状態で,このような揚水が,地下水の水位を下げ,それによって地盤の沈下を生ぜしめるような原因となっているか否かは確言できない。
 3.地盤沈下の測定
 地盤の沈下状況を知る最も端的な方法は,言うまでもなく,水準測量であるが,水準測量によってその高さの変化が測定されるべき水準標石が,沈下する地域を外れていては,問題にならないわけである。その点で,伊勢湾沿岸地域における水準点(標石)の分布は現状では完壁とはいえない。しかし,最近,補助的な水準点(二等水準点)も設置されたから,今後の調査には充分期待できるであろう。
 地盤の沈下は又は隆起を知るもう一つの手段は,験潮記録を調べることである。験潮記録には,海水面の上下するようすが記録されるので,そのうちから,潮汐や気象の影響を除けば,海水面の不規則な変動が残るが,この不規則な変動は,他に理由を見出すことができない限り,略々地盤の沈下隆起に相応すると解される。図-2は,名古屋港および福田前新田(日光川右岸)におけるおのおの年平均潮位の変動を示したものである。
 この図によって,この地域,すなわち伊勢湾北岸地域において,昭和20年頃に,潮位の急激な上昇,すなわち,地盤の急激な沈下があり,その後,一時回復の傾向を示したが,昭和23年頃より再び地盤沈下の傾向があらわれていることがわかる。昭和20年頃の地盤の急激な沈下は,昭和19年12月8日の東南海地震に伴った地盤の変動とみられ,その変動は,濃尾全域の地盤の南への傾斜運動のあらわれと理解してよいのではないかと思われみ,又,その後の復元的な変動も,地震後の濃尾地区全域的な変動と思われる。そのことは図-3に示した濃尾地区の水準点の分布図および,図-4に示した,それらの水準点の変動図からも推察される所である。すなわち,昭和4年から昭和22(又は23)年の期間において,岐阜-名古屋間で著しく南への傾斜を示しているが,その運動は,その後昭和26年までの間に幾分回復の傾向を示している。そして,名古屋以南の地区では,丁度それと逆の地盤運動があったことが判る。昭和19年12月に東南海地震があったのであるから,この傾向は,この地震に伴なう地盤運動の経過を示しているものと考えてもよいと思われる。
 その後,昭和30年に伊勢湾北岸地区についてのみ,水準測景が行われ,このときは,第3図中に示されている一部の二等水準点についても検測が行われた。その結果のうち,一等水準点の変動は,図-5に曲線Aで示してある。この場合,基39号水準点を不動として変動量を算出してあるが,伊勢湾北岸地域で,概ね4cm程度の沈下が認められ・いる。又,二等水準点及びこれに関係をもつ一等水準点の同じ期間の変動量は,やはり基39号水準点を不動と仮定して算出してみると,名古屋港,および福田前の験潮場附属の水準点の変動量がおのおの-44mmおよび-52㎜となる。この二個所における,同じ期間の変動量を験潮記録から推定し,これを比較してみると,その値は,いずれも-50mmで,水準測量から求められた結果とほぼ等しくなる。このことは,間題の期間におけるこの地域の地盤変動量を算出するのに基39号水準点を不動と仮定したことが,大きな誤りでなかったことを意味するものである。そうだとすると,昭和26年から,同30年の期間において,特に日光川下流の右岸地区が著しい沈下(-100mm以上)を示していることが認められる。
 なお,昭和35年1~2月にほぼ同じ地域の水準測量を行なっているが,そのうちの,名古屋-桑名間の一等水準点についての変動量の概略値を示したものが,図-5の曲線Bである。これによると,昭和30年から同35年までの間に,名古屋-桑名間において,昭和26年から同30年までの間とほぼ同程度の地盤の変動(沈下)があったことがみとめられる。この変動は,勿論,基39号水準点を,昭和30年から同35年の期間,不動と仮定して算出したものであるから,基39号水準点がその期間に著しく動いておれば問題は別になってくるけれども,そうでなければ,昭和26年以来,伊勢湾北岸地区では,今日までに10cm程度沈下していることを示している。
 4.むすび
 以上のことから結論的に言えることは,次の通りである。
 (イ)基39号水準点を不動とすれば昭和26年以後,伊勢湾北岸地区において,平均年1cm程度又はそれ以上の沈下が認められる。
 (ロ)その沈下は,少なくとも,昭和28年から同30年にいたる期間において,名古屋港および福田前験潮記録における潮位の永年変化から推定される地盤の沈下量と一致する。
 (ハ)名古屋南部および西部地区において地下水水位の著しい低下が報ぜられている。
 (二)名古屋西部の木曾川下流地域においては,砂および粘土よりなる厚い地層があり,その間に,二つの帯水層が存在する。それ故,帯水層の水圧低下に伴って粘土を含む層の収縮沈下の生ずる可能性は充分である。

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地図 図-1 名古屋付近地盤高図(名古屋-桑名間)
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図-2 名古屋港および福田前における年平均潮位の変化
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地図 図-3 名古屋付近の水準点分析
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図-4a 岐阜-名古屋間の変動
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図-4b 名古屋以南の変動
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図-5 伊勢湾北岸(名古屋-桑名)変動

被害と対策 -その全般について- 安芸皎一(科学技術庁,科学審議官)

 昭和34年9月26日に伊勢湾周辺にかつて経験しなかつたほどの被害を与えた台風は確かに伊勢湾奥に対しては最悪の条件を備えていたといえるであらう。伊勢湾台風と呼ばれることになったこの台風はそれ自身近年日本を襲ったもののうちでは第一級に属するものでる。気圧からいえば室戸台風,枕崎台風につぐものであるが,暴風雨圏の広さからいったらこれをしのいでいたという。この台風はその規模ばかりでなく,潮岬からその通過した経路,時速平均70kmという速さは,丁度あげ潮の時期と際会し,伊勢湾内にこれも近年になって経験したことのない高潮を出現したのであった。湾奥に吹きよせられた高潮は川を遡行して高い水位を示している。しかも湾の奥に向って強い風で吹きよせられたため高瀬は著しく地形的な影響を受け,場所によりかなり異った水位を示しているのであった。
 昭和34年10月27日現在の中部管区警察局の発表によると,愛知,三重,岐阜の三県の死者及び行方不明は4,908名に達したという。名古屋市内だけをとっても死者は1,848名,行方不明148名というのであった。昭和9年の室戸台風では死者及び行方不明は3,036名,昭和20年の枕崎台風では3,130名であり,昭和33年の狩野川台風では,1,189名であったのである。
 この三県の一般被害額は,愛知県3,130億円,三重県1,627億円,岐阜県505億円,合計5,262億円といわれているが,過去10力年の一般被害額の年平均はおよそ2,400億円といわれているのであるから,およそ伊勢湾台風による災害の姿を知ることができるであろう。愛知県下の商工業のうけた損害は,総額651億円に達しているといわれ,とくに工業の中心である臨海工業地帯がおよそ2週間以上も湛水状態にあったために,その被害は極めて大きく,大企業ばかりでなく,中小企業の受けた損害はまた莫大なものであった。
 名古屋地方気象台の伊勢湾台風気象概報にはおよそ次のような意味のことが述べられていた。高潮の侵入速度はおそろしいほど急激であり,事前に避難できなかった人々にとっては潮がきてからではすべてが手遅れであった。とくに名古屋市南区では貯木場の巨大なラワン材が流失し,家屋に衝突したために多くの人命を奪い惨事を益々大きくした,というのである。高潮は伊勢湾奥の四日市市から名古屋市の南部にかけて海岸堤防を乗り越えて侵入し,堤防は寸断され,一面に泥海と化してしまった。
 堤防が高潮そのものより高かった海岸ででも,強風によってうち寄せられた波浪は堤防を越えてその背面の土砂を洗い流し,遂に前面からコンクリートを打ち破られた事例が非常に多い。また昭和28年の13号台風のあと,補強された堤防で,高潮にも波浪にも堪えたものが側面の川から侵入した潮に背後に廻られてしまった例も少なくない。愛知県の浸水面積はおよそ350km^2に達し,そのうちおよそ237km^2は長く水浸しとなり,海と同じく潮のみちひきをくりかえした。愛知県弥富町から津島市にかけては11月25日現在なお浸水中で,国有鉄道関西線は11月25日,近畿鉄道線は11月27日になってようやく閉通したのであって,浸水は2ヵ月以上にわたったのであった。これらの浸水地域の農作物はすぐに退水した所以外はすべて収獲皆無となった。稲は収獲直後の早生種だけが被害を免れたが,水没地帯は晩生種が多かったため,最高といわれた豊作を前にして全滅してししまった。又名古屋港を中心とする一帯の埋立地は臨海工業地帯として工場が密集しており,いずれも高潮が浸入した,これらの工場の多くは埋立地であるので土地が高く,数時間で水は去ったが,モーター,電源などが大部分地下または一階にあったため浸水し,しかも職員の多くが周囲の低地に居住しており,その被災率は7~8割におよんだため,修理復旧がおくれて被害を大きくした。臨海工業地帯の工場,職員住宅の将来の設計にこの教訓を生かさなければならない。名古屋港在泊の大型船舶15隻は,大部分港外に待避していたため,港内での沈没,衝突などの事故がなかったのは幸であった。
 このように災害の事情を述べているのであった。
 伊勢湾台風による公共土木施設の被害は,直轄河川では木曾川をはじめ32河川におよんでおり,その額は778,728万円となっていた。木曾川下流では588,455万円,木曾川上流では39,242万円,鈴鹿川で27,840万円,千代川で29,720万円,天神川で19,400万円,紀の川で13,340万円という順序になっている。都道府県の災害では,愛知県の316億円を筆頭にして,三重県では105億円,奈良県では74億円,兵庫県で39億円,岐阜県で36億円,滋賀県で30億円となっていた。愛知県の公共土木施設災害の工種別内訳をみると,総額316億円のうち,海岸は135億円となってており,河川が155億円というのであるが,これもほとんど海岸地帯にあるので,高潮による被害が圧倒的であったといえるのである。愛知,三重両県の海岸,河川の破堤個所は甚大な数にのぼり,長期湛水区域内の破堤個所は220ヵ所,その延長は35,000mというのであった。これらの破堤個所の仮締切りの完了したのは11月21日のことであった。
 私達はこの地区でこのような災害をいったい予想していたのであろうか。
 災害の経過からみると,この地域に住んでいた人達はこのような事態を予想していたとは思えないのであるし,又同時に防禦の施設からみても,ここではこの地域がどのような危険度を持っているのかは知られていなかったのではないかとしか思えないのである。
 名古屋市の南部の干拓地は19世紀の末期ではまだ市街地化されておらず,わずかに農漁村の集落が干拓堤防に沿ってみられる程度であった。明治40年(1907年)に古港が閉港場として指定されるようになり,これに従って築港や埋立事業が進められることとなって,初めて堀川,築港を中心とした小規模な市街地が形成されたのである。昭和5年から埋立地に次第に大工場がつくられるようになり,これに伴い,その背後に中小企業と住宅がつくられるようになって市街地化が急速に進んだのであった。第一次および第二次世界大戦を通じて名古屋は有数の工業中心地となり,重工業からさらに化学工業の面で飛躍的な発展をとげたのである。
 この地域の工業化は今日日本の四大工業地域とうたわれる京浜,阪神,中京,北九州のなかにあってもっとも著しいものといえるのではなかろうか。今日での工業生産額は中京地域は京浜,阪神のおよそ1/2であり,北九州に較べればおよそ2倍になっているのではあるが,この地域は他の諸地域がその生産活動にかなりの波乱をみせているにもかかわらず,着実な歩みをみせているのであった。名古屋を中心とする地域は他の地域が今回の戦中,戦後を通じて工業生産額の対全国比において大巾な増減があったのにもかかわらず,ここではほとんど変動をみせず,着実な上昇傾向をみせていたのであり,しかも戦後にああってはこの地域は阪神,北九州が漸減傾向を示しているのに,京浜地域とともに上昇傾向をたどるばかりでなく,戦時中よりもより早い速さで進展をみせているのであった。そしてこのような工業化の進展が,どこに,どのような方向をとつて進められてきたのかというと,これは名古屋市が進めてきた地域設定によっても知ることができるように,従来工業地域であった東志賀,矢田川廃川敷,烏森,小本町,野立町,篠原町などで住宅が団地として拡がってきたようなところは,工業地域からこれれを除き,運河や港湾に接した地域,庄内川の沿岸とか,名古屋市の東南部と西部で荒子川に沿ったところなどを工業地域とするとともに,準工業地域として主として中小工場とか住宅,学校などの混こうすることを許す地域として築地口商業地域周辺の倉庫地帯,名古屋港西部の稲永新田,千年町,南一番町附近,大曾根駅附近それに豊前町,名古屋駅西などを指定しているのであった。工業の発展をおよそ名古屋市の南から西に期待しているのだといえるであろう。
 名古屋市の周辺はこのようにして急速に発展していったのである。市営住宅のみをとってみても南,港,中川,それに熱田の四区に建設されたものは全体の51%に及んでいるのであった。それにこれらの地域につくられた大企業の工場ではその社宅をその周辺につくっているのである。南区のごときは名古屋市内で人口の増加率が最も高かったといわれている。およそ大工場にあってはその多くは新たな埋立地につられており,あるいは自分で多少埋立てた上に建設しているのであるが,多くの中小工場とか,住宅はおよそ干拓地にそのまま建てられているのであった。資本集約的な新しい大工場ではこのことを十分可能にしたのであったが,中小工場とか住宅ではこういうことは困難なのであって,むしろ用地費の安いところを探して伸びていったといえるのではなかろうか。
 この4区内の団地に建てられた住宅はその89%がほとんど平家建の木造であったことからも考えられることなのである。中京地域はこの戦後に他にみられないほどの速さで発展してきた。この工業化の速かった理由に,地代が京浜,阪神に較べればおよそ1/2であったとか,この附近では労働力の取得が容易であったとか,又地下水が豊富であったということがいわれているが,確かにこれが大きな要因であったといえるであろう。ラワン材の貯木場のすぐ裏の低い干拓地に市営住宅を含む多くの住宅が建てられていったのである。多くの大工場を初めてとして工場はその用水を地下水に依存した。工業用水ばかりでなく住宅地化していったところでは地下水を水源とする簡易水道を設けるようになり,かんがい用水にも地下水を利用している。かっては自噴していた井戸も地下水面の低下により今日では200mから300mの深井戸を用いているのであった。とくに南区の工場地帯では,ここの重化学工場はおよそ昭和25年頃から建設せられたのであったが,ここ5~6年のうちに地下水面は45m前後も低下していたのである。昭和30年来この地域では水準測量が行われていなかったのであるが,浸水の状況から判断すれば場所によってはかなりの地盤沈下を招来していることが推察されるのであって,現に施行中の測量の結果を待っているのであるが,とにかく地盤に変貌をみていることは十分考えられるのである。
 この災害で国鉄も国道も2ヵ月にわたって不通であった。関西線と一号国道なのである。このような事情はおそらく予想されていなかったことなのであろう。挙母の豊田の自動車工場がしばらく休まなければならなかったという。どうしてかといったら150に及ぶ関連の下請工場が浸水の厄に会ったのだということであった。被災地と名古屋の間でさえ通信は杜絶していたのである。無線通信も多くのところでは電源に浸水して用を足さなかったという多くの場合高潮の警報を受けても避難の処置がとれなかったといわれている。しかもさきにも述べたように,高潮の状態は地形によりかなり一様ではなかったのであって,たとえば床高を名古屋港標高5.00mとした9号埋立地の新名古屋火力発電所では床上浸水45cmであったのであるが,名古屋港内の中川及び堀川の河口附近に設けられた名港及び名古屋発電所ではそれぞれ床高が3.60mと3.40mであったのであるが,浸水高は床上それぞれ40cmと71cmであったといわれている。それぞれの河川へは高潮が浸入しているのであるが,これには高潮自身とともに実質的に海水の侵入をもみているのであって,木曾川河口附近の横満蔵検潮儀では高潮による最高水位はその時間とともに残念ながら不明なのであるが,推定最高時間は21時30分から40分の間と考えられるのに,さらにおよそ11km上流の船戸平では最高水位は東京湾中等潮位上4.12mで,21時20分に現われていた。河口よりも15分程度早く潮は到達していたのである。私達は高潮自身についてもさらに微視的な,そして動的な知識が要求されているといえる。
 要すると災害の経過からみると,私達は防禦施設についてもさらに検討を要する点を思いだすのであるが,災害自身について考えると,これは急速な経済発展に内包された矛盾が露呈したのだといえるのではなかろうか。今日の都市の急速な周辺地区への拡大がもたらしているいろいろな問題の1つとして考えるべきものといえるであろう。
 災害はこのようにしてひきおこされたものと考えるとすると,この対象はどうあるべきであろうか。私達はこの災害を海岸から河川にわたる堤防で防ぐことはできるであろう。しかしこの都市化の矛盾を堤防だけで解決しようとするのは本当の意味のこの矛盾の解決にはならないのである。
 私がここで気になったことは或る時,現地視察の途に長島村を訪ねたときのことであった。堤防に沿って土盛りをした上に建てられた在来の農家では床上1.2m余りの浸水をみたのであったが,それは数時間に過ぎないのであって,初めに高潮により,さらに河川の洪水によって二度浸水をみていたのであるが,とにかく一時の浸水ですんでいたのであった。しかし低地に,或いはこれはかっての堤防であったと思われるのであるが,今日ところどころ切り開かれたところにつくられた家では相当の損害を受けていたのである。流亡をみていたところもあった。かってはこのような干拓地に建てられていた農家は水屋を設け,小舟を用意していたのである。おそらく度々の浸水を受けていたのに違いない。私はこれはその当時にあっては,個人の生活の規模が小さく,このような事態も部落なりに吸収していたのではないかと思っている。しかし今日のように経済が拡大されてくると,互の生活のあり方は複雑となり,とくに生産性の低い分野にあっては生活に弾力性が乏しく,大きく国の支持を受けるという事態になっては,災害もその地区限りのものではなくなって,国の問題となってきているといえるのではなかろうか。
 もちろん国の経済が大きく農業に依存していたときにはその当時なりに,地域から国において,これに相応する災害防除の体制はつくられていた。しかし今日に至ってはその対象となるものの内容が変ってきているのである。今日なりに災害対策が大きく取り上げられていることは又十分理解し得られるであろう。そこで水害を防ぐとなると先づ考えられるのは堤防であり,私達はこのために古くから堤防をつくつてきた。そしてこれらの堤防はそれぞれの時に応じて技術的に,さらに資本的に可能な限度でつくられてきたのであった。私達は長い期間にわたって堤防をつくってきたのであるが,災害は依然として減らないばかりでなく,むしろ増加しているのではなかろうか。しかしこれは堤防をつくったために災害が増えてきているものとはいえない。確かに施設をつくれば災害を受ける個所の増えるということは一応は考えられる。しかしそれによって災害が増えるというのではなく,一般に災害の評価額が大きくなったためだといえるのではなかろうか。同じような破堤浸水をみてもこのために受ける実質的な災害が大きくなってきているのだと考えられるのであって,これに従い堤防は次第により大きな洪水とか高潮を対象としてつくられてくるようになったのであるが,そうすると工事費はより大きくなるばかりでなく,そうなるとこれは流況に変貌を与えるようになるし,又この対象となるものの頻度がより少なくなるということから常に期待するような状態に維持することに困難をみるようになってくるのであった。より低い洪水なり高潮を対象とする堤防ではその高さはそれほど問題とはならないのであるが,より高い水位を対象とする場合には水位の局部的な異状の堤防高に与える影響はより大きくなる。私達はここで事態を再考しなければならないような機会に当面しているといえるのではなかろうか。
 とにかく私達は堤防によって水害を防いできた。たとえ破堤,浸水を繰り返えされるとしても,堤防によってこれを防ぐということは基本的な手段であるといえる。しかし既に述べたように対象となる洪水なり或いは高潮をより大きくとるようになるとすると,不確定さは又より大きくならざるを得ない。微視的な探究がより強く要求されるようになるであろう。しかし又水害を防ぐ手段としては水害についての予報とか,警報に従ってこれに対処するということもこの場合考えられるのである。必要な場合には待避するとか,物は安全な場所に置き換えるということなどもこの手段の一つといえるであろう。さらに又被災をみる地域の土地利用のあり方とか建築様式を制限するということも考えられる。その地域のおかれている自然環境に従って土地利用の区分を行うというのであって,工場とか住宅の配置,その構造などを制限することによって災害を低減することも考えられているのである。農地にしても必要な規模に共同化するとか,或いは浸水をみても損害を最少にすることのできる作物なり,経営のあり方ということもあるはずなのである。
 今日の段階に達しては私達は水害から私達の生活を守るためには,考えられる幾つもの手段を地域ということを対象として,これらを同一の水準のもとに,一つの体系のなかで互にこれらの手段を評価し,統一された対策を探求することが必要となってきたのではないかと考えるのである。これは言いかえると一つの地域計画のなかで災害対策も考えるべきであるということなのである。地域計画ということは考える地域で自然環境からさらに社会経済的な環境を十分に理解し,そのなかに最も安定した生活条件をつくり出してゆくことであるといえるであろう。近年地域の総合開発ということが拡く,強く指摘きれるようになっていることは,現実の要求に対して応えるためにつくりだされた新しい手段の探究であると私は私なりに考えている。
 私は地域の総合開発ということは本質的にはこのようなことではないかと考えるのである。これはそれぞれの地域に安定性のある経済発展を企図するということではなかろうか。
 私達は長い間災害,とくに水害の防除に努めてきた,それでいて今口災害は減らないばかりかむしろ拡大きれてきているのである。何故このような事情になってきているのかということに私達はもっと関心を持たなければならないのではなかろうか。私はこれをこう考えたのである。要するに水害を受ける地域の社会経済的な事情が経済の発展に従って様相を変えて来たということに対し,新しい秩序がまだ建てられていなかったということが今日の災害の増加の主な要因ではないかと考えるのである。私はここで伊勢湾台風とこれによりもたらされた被害について検討を進めてきたのであるが,このことは次のような事情についても考えられるのではなかろうか。今日集中豪雨という新らしい言葉までできたように小地域を襲う豪雨が問題となっており,私達は中小河川の改修を進めなければならないということが討議の課題となってきている。降雨の事情が変ったのではないかともいわれるのであるが,今日ではまだこれを立証するだけの根拠は得られていない。事実を検討するとむしろ過去にもこのような事情を見受けることはできるのであった。矢張り問題は地域住民の生活の在り方にあるといえるであろう。今日では農家の生活は一般に弾力性を失っているといえる。一つの打撃もより広い集団で対処しなければならなくなってきているのである。こう考えると対象としては国の負担の増えることは十分考えられることであり,そうであるとすると,今日私達がとり得られる手段のもとにどうしたら最も安定した地域生活の体系がつくり得られるかという立場から,この問題に接近することが必要なのではないのかということを再びここに痛切に感んずるのであった。この小地域の災害も本質的には伊勢湾台風の災害に通ずるものがあるといえるであろう。

海岸・河川堤防 福岡正巳(工博 建設省土木研究所,機械施工部長,)

 伊勢湾台風の被災現地を2回にわたって調査した。その結果を報告する。調査区域は愛知県の豊橋市地先神野新田から三重県四日市までの間が主である。この間に存在する海岸堤防の天端高は一様でなく表-1のようである。衝突波高はMolitorの方法により計算し,若干の検討を加えた後決定したものである。
  (潮位)+(衝突波高)=(波頭高)
  (波頭高)-(天端高)=(越波高)
 この表は将来さらに検討を加えて訂正しなければならないが,これから大ざっぱにみて次のような結論を出すことができそうである。
 越波高が0.5m以上は全線にわたり破堤,
  〃 0~0.5mは局部的に破堤
  〃 0m以下は欠潰またはほとんど無痕
ということができる越波高の計算は必ずしも正確ではないが,越波高が同じ程度であるのに破壊の程度に差違があるのは堤防の構造,特に天端と裏ノリの被覆,堤体土質などのちがうためでもある。以下これらのことについて順次のべて行く。
 伊勢湾海岸地帯の土質は地表面から5.5~10mは砂層で,その下に粘土層があり,さらにその下が砂レキ層になっている。鍋田川河口附近で粘土層の厚さが40m,にもおよぶところがある。また衣浦干拓のように表面から軟粘土のところも部分的には存在する。地表面附近の砂はチュウ積期に河川から流れ出して来たものであり,砂の性質は各河川上流部の山地の地質の影響を大きく受けている。矢作川,朝明川,鉛鹿川は花コウ岩の風化した粗粒の砂からなっている。木曾,長良,揖斐の諸川は中粕砂,日光川,庄内川などの内水河川は粘土を含んだ細砂を流してくる。
 昔の堤防は附近の表層土のうち粘土分に富んだものを用いて造ってある。その例は海部南部の海岸堤防である。最近の堤防は海底の砂をサンドポンプで吹き上げ,その表面に粘土をはっている。木曾川,揖斐川の河口附近の堤防には「あしね土」と称する粘土分に富んだ土がまた碧南干拓堤防には洪積層の山地粘性土が用いられている。これらの粘土は侵食防止のための,植物の成育を助けるための働きをする,粘土張りの厚さは15~30cmである。
 現地調査の際採取した土の試験結果は表-2ならびに図-2に示す。三角座標による土の分類(土質工学会データーシート)によると木曾川河口附近の堤防の被覆土に用いてある「あしね土」はローム,南陽町から飛鳥村をへて松蔭に到る間の昔の堤防は砂質ローム,その他は砂である。三重県北部の堤防の被覆土に用いた土はごく少量のシルトと粘土分を含んでいる。砂の粒径を60%粒径で比較すると富田浜の6mmが最大で,磯津2.4mm,四日市1.1mm,石原0.85mm,朝明川0.8mmである。以上は花コウ岩の風化した砂である。木曾川河に附近の砂はこれらよりも小さく0.50~0.40mmで鍋田干拓は0.22mmで最も小さい。
 捨石は堤防前面基礎を波浪の洗掘作用から守るためのものである。今度の台風に際しては相当大きな石も波のために多少動いたようである。例えば鍋田干拓の船だまりの防波堤の前には約300kgの大石がならべてあったが多少乱れていた。富田浜では約200kgの石が護岸線をこえて破壊された天端の位置に打ち上げられていた。捨石は普通表面に大石を,下層に小石をつめるが,小石が抜け出して波の中にまき込まれ,護岸に激突する場合がある。例えば石原海岸では重さ約50kgの小石が花コウ岩の張石に激突してその傷が白い斑点のようになっていた。
 護岸の形はいろいろの種類のものがあった。波のはい上り量,波に対する抵抗力が形によってどう違うかは明らかでなかった。堤防を何回にもわたってかさ上げしてできた部分の護岸は古いものの上に新しいものがかぶせられ幾重にも巻立てられている。例えば最下層はタタキ,その上が雑割石張りコンクリート,最上層がコンクリートというようになっている。古い護岸が丈夫にできているところでは,護岸の上方部分と波返しだけをつぎ足したところもある。護岸のコンクリートは時代と設計施工方針などにしたがって,非常に大きな開きがある。もちろんこのような質の違いが堤防全体の破壊と全然無関係であったということはできない。しかし今回の破壊はもっと異った形であらわれた。すなわち護岸を支えるべき土が流失して護岸の破壊をもたらしたものである。護岸が倒れるとき,回転の中心は侵食された堤体土の表面附近にあるから,護岸の脚部は前方に蹴(け)り出されたようなかっこうになる。鍋田干拓堤防の土台にあたるコンクリ一ト函体の破壊もこのようにして起ったものと思われる。ここでは護岸と波返しは鉄筋で接合されていたため,倒れるときには波返しの重みによってけり出し力が強められたのではなかろうか。飛島村海岸では波返しは安全で,護岸に孔があいているところが数ヵ所あった。これらは何れも後方の堤体土が流失したところへ波が当って穴をあけたものと思われる。波に浮遊物(木材など)があったかどうか不明であるが,とにかく最高潮位附近で堤体土が流失し,潮位が低下していく途中で波にたたかれて孔があいたものと想像される。
 波返しの高さは50cm内外のものが多く,その効果がどれだけであったかは明かでない。波返し前面の形についてはいろいろとくふうされているが,それらの形の効果も同様に明かでなかった。それよりも波返しは構造上の弱点を形成した罪が大きい。河岸堤に高さ1mていどのコンクリート壁をたてたものは有効であった。この例は鍋田川,新川などにある。壁のところどころに開口部を設けて交通の用にあて,洪水時には角落し式の板で閉鎖するようにしているところが鍋田川左岸にあったが,ほとんど閉じていない。裏のりは開口部から浸入した水で洗われ崩壊し,特にひどいところは破堤している。
 堤体用土は前にのべたように主として砂である。被覆土は「あしね土」「山土」のように粘土分のある土であるが厚さは一般に15~30cmである。被覆土には芝またはweeping grassを植えている。被覆土は侵食に対して砂よりもはるかに強い抵抗を示すが,一度被覆土がはがされると中の砂は簡単に洗い流されてしまう。weeping grassの根は「あしね土」の層を貫通して砂質の堤体土の中へまっすぐに延びている。そして約5年問で1.2mていどになっている。根は葉と同様に直に延び,砂を結合させるような働きはしていない。だから「あし根土」が洗掘された後の心土の砂に耐侵食性を与えることはできない。昔の古い堤防は笹竹で覆われている。前にものべたようにこの部分の堤体土質は砂質ロームである。竹は約100年の間に生長を続け,その根は堤体内に縦横無尽にはびこり土をしめあげている。根の長さは約4mにも達し,幹の密度は2×2mに約100本のていどである。幹の高さは4mほどである。この幹と葉とは風によっても折れることなく,しぶきが内陸にはいるのを防ぎ,直接堤防表面が波にたたかれるのを防ぐ。
 昭和28年災害復旧断面では天端と裏のりをコンクリートで張るようになっていた。しかし全部が完成していたのは鈴鹿河口附近,碧南,蒲生などだけで未完成部分が多かった。完成部分の中鈴鹿河に附近で一部破損したところがあるが,天端と裏のりをコンクリートで被覆することは抵抗力を非常に増すことは疑う余地がない。
 堤体土の洗掘の機構は次のようになると想像される。波返しを越えた波浪ないししぶきは暴風に吹き流されて天端や裏のりに落下する。この水と空気の混合物は非常な破壊力と侵食力を有している。水量が少なければ波返しにあけた孔から前面護岸に流れでるが,水量が多くなると天端にたまり,ついには裏法に流下する。この際一様な薄層流になって流れれば侵食力も少くてすむであろうが,多少でもでこぼこがあればへこんだところに集まり,この部分を侵食する。その結果の集まりをますますよくし,侵食力を倍加する。このようにして部分的に完全に深い侵食谷ができる。裏のりに歩道が設けてあるところは低くなっていて水が集まり侵食されやすい。侵食の最初に起るのはこのほか地表面のわずかなこぶやへこみ,地表面の木など物体があるところなどである。weeping grassは全面に一様に生えていればよいが,直径10cmていどの群をなして生えていると,その周りは洗堀されやすい。笹竹は侵食を防止することは前にのべたところであるが,裏のり先に水路があるところでは斜面を支える力が不足しているから全体が一塊となって■■る場合がある。裏のりにコンクリートを張って天端に粘土を張った場合の破壊はどうして起るかを推測する。越波がはげしくなって天端が洗掘され粘土の被覆が侵される。次に砂が侵食され,裏のり張りが前方に倒される。かくして益々侵食されやすくなり,最後に波返し前面護岸が後方に倒れる。裏のりと天端にコンクリートか張ってある場合の破壊についてみると,まず問題は裏込めにあるようである。裏込めには粒径80~30mmの砂利が20mmの厚さに入れてある。堤体用土は最大粒径でも10mm以下である。従つて水が浸透すれば砂質の堤体土は流されて裏込の空ゲキをつめてゆく,堤体土の容積はこの空げきの量だけ減少したと同様の効果を生じ,ついに天端コンクリートの下にすきまを生じる。またコンクリート護岸の目地が十分水密になっていない場合は裏込の空げきを通り抜けた堤体の砂は外海に出ていわゆる吸出しの現象を生じ,護岸の下に空洞を造る。天端コンクリート版はその自重でクラックを生ずることもあるが,越波の力で破壊される。破壊されると多量の水が天端から堤体内に流入し,それ以後の現象は天端コンクリートのない場合と同様になる。前面護岸や天端の継目から侵入した浸透水が裏護岸を持ち上げて破壊せしめ,裏のり先のコンクリートブロックを押し倒すこともある。
 以上は海岸堤防についてのべたのであるが,河川堤防の破堤は越流によって生じているのは他の災害の例と同様である。表のりの欠壊は雨水の侵透,水位の上昇,下降によって起っている。裏のりの欠潰は漏水の浸潤線が裏のり面に現われることによって起っている。
 最後に河川,海岸堤防の断面,破堤の機構を示す図を参考のためにかかげておく。(図-3以下)

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表-1
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地図 図-1
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表-2
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図-2(1)
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図-2(2)
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図-2(3)
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図-2(4)
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図-3 神野新田四号堤標準断面図
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図-4 碧南干拓河川第1号堤(上流)
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図-5 玉津浦海岸(碧南市南)
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図-6 衣浦干拓堤防兼衣浦橋取付道路縦断図
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図-7 衣浦橋左岸取付道路破堤しない(軟弱地面上の盛土)
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図-8 衣浦橋右岸取付道路(破堤しない)
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図-9 半田康衛新田堤防天端未完成(破堤した)
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図-10 南陽海岸藤高前地先(破堤しない。このような構造は安外強い。波返しが構造の弱点を形成していない。
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図-11 梅之郷
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図-12 鍋田干拓海岸堤(東側)全面破堤
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図-13 鍋田干拓,鍋田川筋河川堤一部破堤
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図-14 長良川右岸野寺地光堤防断面図(大須橋上流)
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図-15 松陰地先海岸堤防破壊状況図
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図-16 城南干拓地海岸堤防破壊状況図
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図-17 富田浜地区
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図-18 石原産業前海岸堤防被災状況
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図-19 磯津地区・海岸堤破壊状況図

干拓堤防 出ロ勝美(農林省農地局建設部設計課)

 〝干拓堤防〟という課題を頂きましたが,干拓堤防も海岸堤防の一種で,多くの場合はまったく同意語ですから,前に講演された福岡氏の海岸堤防と重複することがあるかも知れませんが(実は講演を聞いていませんので)その点御容赦を願っておきます。
 ここで干拓堤防を強いていわゆる海岸堤防と区別しますならば,干拓堤防は干拓地の堤防ですから,そのうち海岸に面する部分は海岸堤防,河川に面する部分は河川堤防であって,伊勢湾台風によって水没した土地はほとんど新旧の干拓地ですから,その意味では,それらの堤防は新旧の干拓堤防であるわけです。この地域のいわゆる海岸堤防が古い干拓堤防であって築造後長い間には災害等で修築を加えられてはいるが,ある程度安定した状態にあるのに反して,いわゆる干拓堤防は比較的新しく完成したか,または工事中の堤防であること。したがって水深が比較的大きな水中において築造される場合が多く,基礎や堤自体の土の圧密や沈下も目下進行中の状態にあるといってよいと思います。水中工事である点では,現在の海岸堤防の工事に比べて潮汐や波浪の影響も大きく,材料や工法にも大きな制約があることを指適しなければなりません。
 今度の伊勢湾台風災害における干拓堤防の土質工学的問題ということになりますと,今ここではっきりと堤防決壊の重要な因子としてあげうることはないのですが,後で申し上げるように今後の対策上問題になることは2,3あると思います。
 干拓地の被災状況について先づ概略を述べますと,農林省の国営干拓では鍋田全滅,碧南,衣浦浸水,代行干拓では城南全滅,平坂,境川浸水でありまして,(浸水というのは堤防が一部決壊して比較的容易に復旧されたからでありまう)鍋田と城南では海に面する正面堤防が全部被災して干拓地は完全に元の海となったのであります。このように正面堤防全線が破壊されて堤防の形を止めないという例は近代の災害では見られないもので,大きい決壊口というものができてそこから潮が出入するようになる程度の堤防被害であります。もっともこれらの干拓地以外でもかい滅的打撃をうけた堤防は外にも枚挙の暇がない程です。要するに高潮が最も高かったところの伊勢湾奥の名古屋,四日市近傍の海岸と河川の堤防は例外なく決壊を免れなかったというのがこの災害の特質といってよいでしょう。それではその原因は何であるか?これは御承知のとおり未曾有の台風災害といわれた昭和28年13号台風の時の高潮(+)2.33mを上廻ること1.5m余,(+)3.89mという高潮が名古屋で記録されておりますが,それ程段違いに大きな高潮の襲来が主原因であるといえます。13号台風で被害を受けた
伊勢湾,三河湾沿岸の堤防は,13号台風の海象条件を対象として改良復旧されていました。城南,碧南,平坂等皆そうであります。しかし鍋田はその時ほとんど無被害であって,この付近海域ではひとり堅塁を誇ったものでありました。事実,工事担当者も入植者も〝不沈-鍋臥"を信じていたのでありまして,鍋田に120人もの死者を出したことも,鍋田だけは大丈夫という気持から避難が後れたためであるといわれているところであります。鍋田のかい滅は当時信じられないような大打撃でありました。この一撃からも,伊勢湾沿岸堤防の大被害とそれを起した高潮の猛威が理解できるかと思います。鍋田干拓堤防の天端高は(+)6.0mでしたから,高潮位(+)3.9m上に衝撃波高推定3.0mが重なると波高は約7.0mとなり,多量の越波が起り天端および裏のりを侵食したと考えられます。もともとこの堤防は多量の越波による侵食に充分耐えるような設計になっていないので,これに対しては無条件降伏せぜるを得なかったのであります。巷間によく設計のミス,工事の手抜き等のデマが飛びましたが,どのような設計でも,だれが施工したものであっても無事に残った堤防は名古屋,桑名付近に関する限り皆無です。例えば城南の傾斜型堤防,箕田のコンクリート巻堤防等々13号台風後に改築された新しい堤防も決して例外ではなかったのであります。それでは一体堤防は台風に無力か,という問題になりますと話しは別のものになります。現に13号台風に耐えた堤防はありました。また今回でも潮位や波の条件が良いところ,すなわち,湾奥から遠く潮位があまり上らなかった場所や風向や対岸距離の関係で波力が弱かった場所では破堤しない所もありましたということは条件さえ備われば安全な堤防はあり得るのでありまして,これは技術的に極めて当然のことであります。ただ問題はどの程度の条件を設計の対象とするか,将来実際に起るであろう悪条件を定め,それが経済的に可能であるか否かであります。この技術的常識が海岸堤防の設計に通用しない訳はありません。確かに海の現象は陸のそれとは違いましょうが,河川構造物における雨量のごとく,建築における地震のごとく,何れも最大限は予定しえないにも拘らず,一応技術的,経済的に妥当とする条件があるのですから海の現象にもそれを定めればよい訳です。誰も日雨量2,000mmや震度0.4を設計に採用する人はないのですから,この意味において堤防にも設計基準があり得ると考えますし,またなければならないのでありまして,現に堤防(海岸保全施設としての)を所管する農林,運輸,建設の省では昭和33年12月に"海岸保全施設築造基準"を規定して,堤防の設計基礎条件や構造の基準を示しているのです,その起草の当事者の一人として私は今回の伊勢湾台風級の高潮をも念頭に置いて設計基礎条件を規定すべきことを主張して参りましたし,基準の基本は,伊勢湾台風を経験した今日でもなお適用されるものであると信じています。特に潮位の問題につきましては,高潮の頻度に関する考え方が重要でありますが,何分にも近々数十年の実測期間しかないわが国のことですから,その間の記録から数百年確率を算出することは無意味であります。したがって実測記録に技術的洞察を加えたとでもいいましょうか,科学性や経済性を総合的に判断して,設計潮位としては,朔望平均満潮位(天文潮)に既往最大偏差(気象潮)を加えたものを取ることを基準に規定しており,その1年後の供勢湾高潮対策協議会の基本方針も概ねその線で決定したのでありました。
 堤防の断面形につきましては,被災全滅した鍋田や城南の堤防に関する限りその優劣は論外であって,直立型石積の前者,傾斜型練石張りの後者は比較になりませんが,他の堤防について比較するならば,強い波力を受ける堤防は傾斜型がよいことは決定的であります。それはじゅうらいから各国の長い経験から認められています。このことは当然堤防全体の工事費を勘案しての議論であって,直立型でも前面工だけで直立する構造と強度をもち,大量の越波に耐えるだけの天端および裏のり面の被覆を施すならば,そうして工事費に糸目を付けないといった純粋に強度試験の立場からの比較であればまったく別の問題です。
 堤防の欠陥のいくつかが被災の原因と見られるものもあります。それは堤体盛土の砂部分がほとんどむき出しの状態で越波の侵食に抗しえなかったもの,表裏のり面被覆のコンクリートの裏側にすでに空洞が生じて,コンクリートを支えるものがなく,被覆工としての働きを失っていたもの,後面盛土が吸出しによって流出し,石積工のみで外形を係っていたもの,等々であります。これらの欠陥は堤防設計の常識的な処置によって解決されるものでありますが,その外にもこの大災害を教訓とし
て,今後進められつつある高潮対策には抜本的な,積極的なものがあります。それは単に現海岸線を強化するだけでなく,高潮を緩和し,波浪を減殺する目的での防波堤計画,あるいは長大な海岸線を短縮すると共に海面の内水面化を図る複式干拓計画,または河口締切計画等であります。海岸堤防はたとえそれがいかに強固なものであろうと一線だけでは十分でないこと,そしてもし二重,三重の堤防の備えがあれば水害を小区域に止め得ることは?次の海岸水害が教えるところでありますから,堤防は二線あることが望ましく,さらにできれば進んで高潮と波浪を主堤防の前面で抑制することが上策ではありますまいか。
 鍋田干拓の復興につきましては,堤防の復旧という技術的問題だけでなく,干拓地を農地として再建すべきかどうかの議論も出たようです。それはこの付近海域が中京工業圏内の臨界工業地帯の一環と目されているのでこの際工業用地に転用すべしというもののようであります。現在の名古屋工業地の一部が古い干拓農地に発達したことから,鍋田も将来工業地化されることはありうることでしょうが,それまで放置できるものではないし,現に農地としての干拓再建の工事が進んでいます。新堤防の原設計(図-3)は旧堤防(図-4)に比して一目いちじるしい差異があります。その設計の基本的な考え方としては,①高潮の強大なエネルギーに対抗するものは堤防の大きなボリュームであること。②そのボリュームを維持するため外力や内力に対し十分な表面の保護を施すこと。したがって③砂を主体とする大きな断面を与え,④特に強力な波力が作用する部分を緩勾配にして波力の分散を図り,⑤表法被覆工にコンクリートブロックを用いて本体土砂の収縮沈下に対応できるようにし,⑥弱点となりやすいパラペットをやめ,また裏法被覆工への越波の作用を極力少くするため,十分の堤高をとったことなどであります。この設計はその後の試験研究によって幾分変更されるはずで,例えば波の遡上高を減ずるための突起の効果が実験により確認されたり防波堤による高潮緩和や波力減殺の効果が明確になった場合には断面や構造を変更するのは勿論,現地材料の都合によっては改めるべき点があります。
 土質工学的問題として最後に少しく触れますとまず堤防材料と地盤との関係では,干拓堤防の基礎地盤は岩盤はほとんどなく,一般に土砂地盤上の構造物ですから土砂を主体にしたものにならざるをえないのは当然でありまして,これはダムの場合と同様であります。もし土砂地盤にコンクリート等のソリッドの構造物を造ろうとすれば,それ相当の基礎工事を必要としますが,それは堤防のように長物で,しかも水中事ではまず不可能でしよう。これにしたがって必要な基礎工事を施さないで,土砂の上に重い被覆工を施すことにも問題があることは多くの実例が示すところであります。
 次に堤体に土砂を使用することは最も一般的で,粘土特に含水率の大きな軟弱土を使用する場合の困難さは,同じような基礎地盤の場合とともにすでに深刻に経験されたことで,土質工学の活躍分野の一つでありますが,砂を使用する場合にも大いに考えなければならない点があるように思います。実は私はそれが最近非常に気懸りになっております。干拓堤防に使用する材料としては細砂が適している,として最も賞用されているのですが,これが水で飽和された場合に圧力または振動を与えたらどうであるか,これが堤防決壊の一原因ではないかということであります。
 この間,鍋田の堤防工事現場の水際の砂(サンドポンプで吹かれた純粋の細砂)の上に立っていますと,初めは固い砂でしたが次第に軟くなって,数秒後には足が没するようになり,この砂を靴の裏でたたくとまるで泥土のようにドブドブになるのでした。これまで水締めされた砂は固いものと思い,砂の強度を信じていたので,これは私には一種のショックでした。このような現象を見ますと,ますます堤体内への水の滲透を防止し,また一旦滲透した水は速かに堤外へ排除しなければならない。またたとえ滲透は増しても,このような現象を起さない粗砂を用うべきではあるまいか,と思うのです。強風時に堤防はブルブル震動しています。そして衝突した波は十米以上も高く跳躍して天端や裏のりをたたきます。なおさら,台風時の堤防の状態は想像以上でしょう。この現象を少しでも緩和することが,上の問題の外にも色んな理由で堤防の安全を高める方法であると思います。
 次に地震に対する堤防の安全の問題があります。じゅうらいの比較的小型で,しかも構造も単純な堤防では,地震力を設計で考慮することはなく,また実際にも地震によってそのような堤防が決壊した事例を聞いたことがないように思います。換言すはば,じゅうらいの堤防の設計は,地震力を計算に入れるほど厳格な応力計算を必要としない程度のものであったといっていいと思います。堤防の構造が強化され,断面も大きくなってゆくと,当然地震に対する配慮が設計上必要となりますが,地震に対しても十分安全な堤防とは,最近現実に設計されているところの,土砂本体,コンクリート被覆の構造で,かつ敷巾の比較的狭いものでは満足できないのではないかと思います。
 堤防の設計についての基本的な考え方-地盤,材料,波力,地震力,等々の処理-を整理するならば堤防の形式や構造に関する新しいタイプが自らでき上ってゆく筈であって,私は鍋田のこの新堤防がその新方向を示していると考えるものであります。

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地図 図-1 干拓地区位置図
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地図 図-2 鍋田干拓平面図
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写真 写真-1 直立型石積護岸堤防決壊状況
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写真 写真-2 傾斜型石張被覆堤防決壊状況
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写真 写真-3 傾斜型コンクリート被覆堤防決壊状況
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写真 写真-4 裏法コンクリート被覆の破損状況
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図-3 鍋田拓干新堤防断面図
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図-4 鍋田干拓堤防断面図

港湾 石井靖丸(運輸技術研究所 港湾土質部長) 福家竜男(運輸技術研究所 港湾土質部)

 1.まえがき
 昭和34年9月26日夜半東海地方を襲った伊勢湾台風はわが国台風史上における最大級のものであって,その猛威は去る昭和28年当地方を襲った台風13号を遥かにしのぎ未曾有の惨害を与へた。すなわち愛知,三重,岐阜の三県下で死者行方不明約5,000人総被害額約3,000億円で,このうち港湾および海岸分(運輸省所管分)約50億円におよんでいる。
 構造物の被害状況を被災直後に調査して今後の対策工事のための資料とするため,また台風の当日の気象状況,高潮,波浪等の状況を痕跡,実見者の記憶等の消失せぬ中に調査するため9月末,運輸省港湾局.第二港湾建設局・運輸技術研究所の協同現地調査隊が編成され愛知,三重両県に派遣された。本文はその調査結果の概要と私見を述べたものたものである。
 2.港湾災害
 未曾有の台風ではあったが他の海岸堤防,干拓堤防に限って港湾施設の被害は甚しくはなかった様に思われる。
 a.防波堤
 防波堤の被害は多いが,混成堤では武豊港,常滑港等の様に上部場所打,或いは嵩上げコンクリートが破壊した程度で本体が被災している例は名古屋港4号地北側防波堤位である。上部場所打ちコンクリートあるいは嵩上はコンクリートが破壊したのは何れも本体との接合が不充分であった為と解される。又半田港においては頂部のブロックが波力により転倒している。
 石張り堤については鳥羽漁港,蒲郡港,等空石積のものが何れも天端から被災している例が多い。三谷漁港の様に港内側の斜面の方が港外側の斜面よりも破壊の激しい例もある。今波高2mに対する捨石の所要重量をIribarren-Hudson 式で求めてみると1:1.5の勾配で約1.6t1:2の勾配で0.9tであるからいくらかみ合せが良好であったとはいえ100kg~200kg程度の張石では重量不足のため飛散するのは当然である。
 四日市港の防波堤が破損せず健全であった事は天端が+3.0mで非常に低くしたがって高潮(+4.5m)により簡単に水中に没し,潜堤のような型になりその上ブロックのかみ合せが強固な構造であった為と解される。
 今迄行われてきた防波堤の設計は季節風などの際の波浪を防ぐのを目的として高潮時のそれは考えていない。したがって今回のような異常高潮時は防波堤のほとんどは潜堤となり,比較的被害をまぬかれたがそのために背後の港湾施設がかなり被災した例がある(例四日市港)。防波堤の計画のとき高潮をも防ぎ得るような高さ及び幅を考慮するかどうかは今後大いに検討すべき事である。もしそのような大規模な防波堤を考えるとすればそれは今迄のような形式から現在の海岸堤防のような型式に移行し,しかも幅の広いものとしその利用を考えるのが適当のように思える。たとえば臨海公園,臨海遊園地でも作り都市生活者のいこいの場所でも作れば一石二鳥の得策である。
 b.港頭施設
 われわれのいわゆる埠頭区域は一般にH.W.L上1.00~2.50mの地盤高になっており高潮時には溢流による洗掘はおこるが地盤高が高いので流速はそれ程大きくならない。したがって洗掘による港頭施設の被害としてはそれほど大きくない。しかし前述したように防波堤がその機能を発揮しなかったことと高潮による物揚場,護岸の破壊および上屋,倉庫の浸水は相当おびただしい。
 又大型の漂流物による被害も各所で見うけられる。
 b-1 物揚場および護岸
 イ)名古屋港
 8,9号地連絡南部護岸構造は練石護岸であり頂部はコンクリートブロックを置いたものと,練石積胸壁としたものが入り混っている。法面は前者の場合三和土石積が多く後者の場合は大体練石積である。
 被害は護岸全延長の約2/3にわたって頂部のブロック又は胸壁が図-5のごとく滑動又は転倒している。破壊胸壁の大きなものは長さ約3mにわたり原形のまま法線より3~4m背後に転倒している。頂部ブロックの箇所はほとんどブロックが飛んでいるがゴロゴロと転動した様子は少ない。天端舗装は幅約4m施工,未施工の入り混っているが斜面崩壊箇所を除いてはひどい破壊はみられない。斜面は比較的強く崩壊箇所は3ヵ所何れも三和土石積部である。
 ロ)武豊港物揚護岸
この護岸は昭和32年度土木助成費にて施工したもので中山製鋼所はこの護岸裏側に建設中の工場の基礎残土でバラヘット背面を埋立てる予定であったが,被災前はまだその段階に至っていなかった。台風時は高潮によって前面水深が5m前後に達したため護岸本体は被災が少なかったが強烈な波圧によってパラペットが図のごとく転倒あるいは飛散した。これらの被災箇所はいずれもパラペット前面の舗装版にクラックが入っている。胸壁は基礎版とコンクリートと石とで接がれているが,この接目から飛ばされているもの,また接目の強度が強いためそこで切れず基礎版が破壊しているもの,基礎版もろとも後方へずりさがっているもの等がある。
 ハ)蒲郡港護岸
 蒲郡港中央埠頭正面および東側の護岸は昭和8年改良工事が行われた極めて古い構造物で,昭和29年,30年に臨港線布設,昭和30年に28年災害の天端張り舗装コンクリートを行っているが地震,地盤変動変動により相当傷んでいた様である。
 正面約60m,東側約200mにわたり全面的に崩壊しているが,東側は元部約100m程度は図-8に示すように前側に転倒しており尖端部は内側に転倒し前にスベリ出している。また大体下より4段目の方魂以上が崩壊しているようであるが,中央部尖端より約20m程は上部二段の場所打ちコンクリートのみが被災している。この被災原囚については種々考えられるが,目下検討中である。
 ニ)四日市港第3埠領
 ここではパラペットが図-10に示すごとく約50mにわたって完全に転倒して底をみせている。この被災原因は潮位がエプロンを越へ,斜めの方向から襲来した波(波高約3.0m弱)が容易にパラペットを越流背後の土砂を洗い流し基礎の土を洗いパラペットを倒したものと考えられる。したがってもし背後地が舗装されていれば被害が相当くいとめられたと考えられる。
 ホ)四日市大協石油護岸
 当地は波高約3.0mを真正面から受け四日市市において最も被害の大きかった中の一つである。すなわち背後地の大協石油KKの被災額は約1億円といわれている。このところ護岸は大体図-11に示すごとく二つの形式からなっており一つは護岸線とパラペットが一致しておりこのパラペットが完全に倒されている。もう一つの型は護岸線より17m下ったところに石積みモルタル塗りの天端の+7.0m貧弱な防潮壁を作ってあったが天端も高かった為か完全に破壊されていた。
 尚工場内の海岸線に一番近いoiltankのほとんどがスベリ出したようである。したがってこれ等のアンカーについては考慮を要する。
 b-2 岸壁
 岸壁岸壁の被害は名古屋港に少しあった程度である。
 イ)名古屋港中央埠頭および東埠頭。
台風当時名古屋造船KK艤装岸壁に繋留中の新造船名和丸(8.000GT)が強風のため漂流し,約1200m離れた中央埠頭東側岸壁に衝突,さらに半回転して中,東物揚場間に衝突し,繋船中のはしけ2隻を破損させた。このため,各衝突箇所の岸壁は笠石舗装および場所打の上部が図-13のように破損した。中央埠頭および東埠頭の前面も同船又は同様漂流船舶によるものと思われる。
 ロ)名古屋港10号地南側棧橋
 この棧橋は港外より侵入してくる波浪が直接ぶつっかる位置にある関係上,棧橋の前面および側面にPSコンクリート柱を密に並べて取付け波力を減殺させるように工夫されていた。このためか棧橋自体の被害はなかったが取付床版がup-liftによって一様に棧橋方向に5mほどずれ出し,7枚は海中に転落した。
 棧橋の設計の際には通常連絡床版は充分にアンカーせずup-liftによる床版の移動,破損は充分予期していた事である。
 b-3 上屋倉庫
 四日市港,名古屋港,常滑港,衣浦港等被害を受けていない例をさがすのが困難な程である。何れも高潮による海水の浸入によって壁が脱落したり,風波浪,漂流物の衝撃により全半壊したり,越波高潮の水流により基礎が洗出されたりしたものである。
 c 航路,泊地
 航路,泊地航路,泊地の埋没は常滑,蒲郡のように既に一部判明したのもあるが,名古屋港のように未調査の所がある。
 d 貯木場
 イ)名古屋港貯木場南側護岸
 貯木場南側護岸約1,000mはほぼ全延長にわたり完全に欠潰した。わずか天白川川口よりの送電塔の背後約65mの防潮壁が倒壊を免れ,それに続く天白川よりの部分が頂部パラペットのみ倒壊して下部のパラペットは残った。これらの部分でも盛土は完全に流出しレールは枕木ごと貯木場の中へ落ち込んで木柵を並べたようであった。
 パラペットは高さが約2.5mであり表のりは1:3の勾配で,潮位が天端附近に達したときは波は丁度パラペットの位置で砕けることになり非常に大きな砕波圧がパラペットに作用し粗石を三和土で固めた程度のパラペットはかんたんに被災したと考えられる。新名港火力送電鉄塔背後はわずかに三和土石積斜面上部あるいはパラペット迄残存している.これは送電塔により波がさへぎられたためと考えられる。
 ロ)名占屋港貯木場東側護岸
 この護岸150mの欠潰が名古屋市柴田地区の広範な浸水を招いており,当時極めて多量(70万石といわれる)のラワン材が貯木場から流出して高潮の遡上と共に市街地に押し上げ浸水家屋を軒なみに打ちこわしこのため死者200~300名といわれる悲惨な状況を呈した。
 この事は今後の港湾計画における貯木場のあり方について大いに検討すべき事を示している。
 3.海岸堤防災害に関す所見
 2に記したごとく,港湾に関する災害が他に比べ少なかったのに反し,海岸堤防干拓堤防の被害は甚大であった。これらの被害については別途述べられているので,筆者が調査した結果についての所見を述べるにとどめたい。
 海岸堤防が欠潰した原因としてその被害の状況などから推定すると,おおむね次の類に大別する事ができる。
 イ.溢流あるいは越波による裏のり肩欠壊
 天端を越えた波によって,裏のりの肩が欠壊し、続いて中詰の流出がおこり,支えを失った表法の壁体が施工継目等の弱点を通して崩壊する。このような破壊過程は今回の災害の中もっとも一般的なものであってその件数は一番多い。未だ決潰には至ってないがすでに相当程度中詰を流出し欠壊寸前と思われるのも観測された。この種の破壊原因としては設計当時予想された程度の潮位,波高であっても,あるいは欠壊したかもしれないという構造上の弱点を有するもの,例へば堤頂被覆のないもの,裏法の被覆が張芝程度の貧弱なものと,設計当時予想されなかった潮位,波高によって破壊に至ったもので構造上の弱点はなかったと推定されるものの2種類があげられる。対策としては前者に対しては
 I 堤頂は完全に保護すること
 II 裏ノリおよび肩を丈夫にすること
 III 表ノリ壁体はある程度中詰が流出しても設計波圧に耐える強度にすること
などが考えられ具体的には天端,裏ノリ共にコンクリートを被覆し,又適当な間隔に隔壁を入れて表ノリと裏ノリの壁を繋ぐことが有効であると思える。この隔壁は今回の災害においては各所でその効力を発揮し破堤を一部に食い止め全般的な決潰に至らしめていないところがあった。
 後者に対しては今回の潮位波高などの資料を参考にして充分に天端高をとることが最良の対策であろう。
 天端高の決定にあたり問題になるのは設計波高,偏差,地盤沈下の推定である。これらは各省の統一見解のもとに設計基準なるものを作成し,順次修正を加えて行く等の配慮が望ましい。
 ロ.申詰沈下に基く波の破壊作用
 壁体の中詰が沈下して壁体背後に空洞が生じ,その上左波でたたかれて,頂部被覆が先ず破壊され,次いで前項(イ)のような経過をたどって欠壊に至ったと思われるものもかなりみられた。このケースは前項のケースと被害の状況から区別できない場合も多い。
 これらの対策としては,施工時堤体のコンパクションを完全にすることは勿論,適当な間隔に中詰の検査穴を設け,管理者による検査が必要である。このことがもし忠実に実施されていたならば今回の災害も相当軽減出来たといっても過言でなく管理者による施工後の管理の重要さを如実にあらわした好例である。
 ハ.波力によるパラペットセン断
 パラペットが波力によってその基部から破壊する場合で,この破壊によって本堤体の完全な破壊を防いだかもしれない。したがってこの種の破壊については一概に論じられないが背後地の重要さの程度によりパラペット壁体の継ぎを考えなくてはならない。
 二.入江,又は河川流入部における堤防断面の低下
 海岸に面するところは立派な海岸堤防であるが,連続する入江,河川流入部では不連続に断面低下を来し,家屋浸水,海岸潮堤体裏ノリの浸蝕の原因となっている。
 ホ.水門,樋門等施工継目の弱点
 水門,樋門はその前面が深掘れしていてみお筋を形成し,波当りが強まる危険があり,また地盤の悪いところでは構造の差による不等沈下を起し易いから設計施工の際特に留意しておく必要がある。海岸堤防の部分でも断面を急変させると同様な危険があるから注意すべきである。又堤防法線の屈曲部分には特に波力が集中する事があるので弱点を形成する事が多い。
 へ.石積構造の弱点に原因する波の破壊作用
 石積構造において部分的に石が脱落しそこから中詰が吸出され,破堤が進行したと思われる例はかなり多くあり,空石積の場合は勿論,練石積でも同様である。特に波が越へ,背後をたたかれる様な状態となると特にその危険性は大きい。この対策として根本的には石積構造は波のある場所ではなるべく避けた方がよく,現存のものは張コンクリート,注入コンクリート,注入アスファルトなどで補強するのが望ましい。波のあまりない場所でやむをえず石積工法を採用する場合には施工を充分,入念,確実に行うことが必須条件で,施工のそ漏は致命的な欠陥となることを銘記すべきである。

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図-1 常滑港南防波堤
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図-2 名古屋港4号地北側防波堤
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図-3 半田港防波堤
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図-4 三谷漁港防波堤
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図-5 名古屋港 8,9号連絡南部護岸
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図-6 武豊港物揚護岸
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図-7 武豊港物揚護岸破壊状況
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図-8 蒲郡港中央埠頭断面図
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図-9 蒲郡港中央埠頭断面図
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図-10 四日市港第3埠頭
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図-11 四日市大脇石油護岸
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地図 図-12 四日市港平面図
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図-13 名古屋港中央埠頭
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図-14 名古屋港東・中埠頭平面図
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図-15 名古屋港10号地南側桟橋
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図-16 名古屋貯木場南側護岸

名古屋港の防波堤 佐藤 肇(運輸省港湾局建設課長)

 まえおき
 与えられた題目の"名古屋港の防波堤"は未だその構想が認められているに過ぎない段階にある。その築造位置や構造については目下調査研究中であって,発表するまでには到っていない。然し,海岸に面し,人口と産業が集中する都市を台風による高潮から防護する方策は,今次の伊勢湾台風によってもたらされた多大の被害,特に数千人の生命を一朝にして失った惨禍に思いを致すとき,これは極めて重要な問題である。台風によって破壊されない構造物を築造すべきであることは当然であるが,それにも増して都市施設の一環としての高潮対策の適切な計画は深刻な配慮を要求していると考える。このような観点から名古屋港の防波堤の構想についてその概要を述べるものである。
 1.戦後における新しい高潮対策の計画
 台風によってもたらされる高潮の被害を防止するためには,高潮やそれに伴う波浪の高さよりも更に高い防潮堤を築造して背後地を防ぎょするのが一般の方式である。然し海辺の状況が工業生産や輸送の場として高度の発達をしてくる場合には問題は複雑となってくる。高くめぐらされた防潮堤が平常における生産や輸送の活動に対して支障を及ぼすことがあるからである。更に又絶えず発展して行く産業が高い防壁の中に閉鎖されて逼塞してしまうおそれがなしとしないからでもなる。これらの考察にあたっては高潮の頻度が一つの問題点である。今例として,大阪港と名古屋港の場合を比較して見よう。大阪湾については明治24年から昭和25年までの60年間に77回の高潮記録がある。すなわち1年に1.3回の割合である。一方,伊勢湾については明治以降現在まで90年間に14回ということであるから大阪湾の頻度は甚だ多い。それにしても,最近における大阪湾の最高の高潮は昭和25年のジェーン台風の際のものであり,その前の最高は昭和9年の室戸台風であるから,その間16年である。名古屋港においては今回の伊勢湾台風の高潮に次ぐ記録は大正10年の高潮記録であって,その間約40年の間隔がある。この長い期間において,港湾やその周辺の状況は経済的発展と共に全く著しい変貌を遂げているのである。防潮堤はこの地域的な産業の進展に支障を与えるものであってはならない。むしろ,最良の計画とはこの経済的な発展を促進するものであるといわなければならない。ことに昨今のごとく,全国で年間数百万坪の埋立地が造成されて,その埋立地が最も優秀な重化学工業の生産基地となり,わが国の国際貿易における競争力強化の根幹をなしている場合は特に配慮すべき点といわなくてはならない。
 一方,最も台風による高潮の襲来するところであって,しかも人口の稠密な大阪湾や東京湾には工業用水としての地下水汲み上げに起因する地盤沈下の傾向が著しい。又今次伊勢湾台風によって被害の著しかった地域は干拓地および旧干拓地に発達した市街地である。このような海面以下の土地は堤防の破壊によって海水が浸入した場合は締切り工事を行って内水を排除しない限り水浸しの状態が続くのである。然るに満潮面よりも高い土地は,一時冠水の憂き目を見たとしても高潮が去った後には水は自然排水によって取り去られる。このような低地対策も併せて考慮されるべき問題である。
 以上述べた如き配慮の下に戦後計画された著名な高潮対策の実例を述べてみよう。
 1)大阪港
 昭和9年9月21日に大阪を襲った室戸台風は実に死者1,678人,行方不明210人という被害をもたらした大災害であった。当時の最高潮位はo.p.+5.10m,偏差は3.2~2.9mと測定されている。この災害の頃より地盤沈下の現象が着目されることとなり,その後大阪市の地盤沈下の観測が続けられてきた。この地盤沈下は戦争中の工場の増産時代に地下水汲み上げ量の増大によって著しく加速され,累計で1.5mから2.0m程度の沈下が認められていた。そのため戦争の末期,昭和19年及び20年に同港を襲った高潮によって,戦災と共に水禍を蒙り,港区を中心とする臨港地帯およびその背後はほとんど廃墟に近い状態となった。
 この戦災と天災と地下水吸み上げに伴う地盤沈下という人災からの大阪港の復興は,戦後直ちに市当局によって取り上げられ,権威者を集めて,大阪港復興計画と銘打たれて昭和22年度より着工された。その構想は大阪港の内港化計画と称されるものであって,港を陸地に堀りこんで,その際に発生する浚渫土砂をもって沈下した地面を嵩上げするものである。その内容は
 (i)安治川筋を主要外国貿易地帯とする。そのために安治川を幅員500m,水深-9mに浚渫する。この浚渫土砂をもって港区を全面地揚げしてo.p+4.0mとする。
 (ii)大正区における従来の貯木場を水深-7.5mに堀り込んで内国貿易地帯を造成する。この際に発生する浚渫土砂をもって大正区を全面地揚げする。尚お新に住吉区平林町地先に代替の貯木場を造成し,製材工場等は新設貯木場周辺に移設する。
 (iii)此花区についても北港区および正蓮寺川口の泊地を,浚渫して地揚げを行う。
 かくのごとくして,最も沈下の甚しい西大阪地区の地盤高を恢復すると共に港湾を中心とする商工業及び住居地域を新しい都市計画に基いて設定し,戦災よりの復興をはからんとするものであった。この計画は終戦直後の昭和21年に樹立され,当時の計画では総工費10億円,10力年計画となっていた。
 ところが工事の途中において昭和25年9月3日のジェーン台風に遭遇し,室戸台風を凌ぐ広大な地域が浸水して多大の被害を蒙った。この災害の直後,一部の人によって,この計画は非難され,再び高い防潮堤によって水際線を囲む案が主張された。しかし,水際線を高い防潮堤で囲むことは大阪市の生命線ともいうべき港湾の機能を殺すものであること,又,港区の一部においては当時すでに地揚げを完了していた地区が高潮による被害が軽微であって,長期の湛水を免れたこと,等によって,本計画の妥当性が再確認され,基本方針は変更することなく,工事のプログラムを多少変更して,工事中の災害を防止できるような方式を採用し続行されて来ている。
 室戸台風による最高潮位はo.p.+5.10m,ジェーン台風によるそれはo.p.+4.37mとなっており,いずれも地揚げ後の地盤高o.p.+4.00mを上廻っている。しかし,平常における満潮面より高い地盤高に全面的に地揚げされた地域は,このような第1級の高潮に際しては時の浸水は止むを得ないとしても,被害は軽微であって,平常時の輸送および生産の場としては極めて快適の状態を提供していることが立証されつつある。
 ただ一つ甚だ遺憾なことは,地下水汲み上げの規制が不徹底なことである。そのために生産活動が盛になると共に再び地盤沈下の現象が顕著になり出した。本計画の成果は地盤沈下を最小限度に喰いとめることが前提となっており,現在のごとき地盤沈下の現象が継続する限り,この地域の安全性を確保することは困難である。高潮による生命,財産のおびただしい損耗を想起するとさ,地下水汲み上げの規制について市当局ならびに地下水利用者の真剣な考慮が希望される。
 2)尼崎港
 大阪港の西に連る尼崎港は昭和5年以来尼崎築港株式会社によって埋立地の造成が進められた。この埋立地には大阪市と同様に鉄鋼業を中心とする各種の工場が建設され一大工業地帯が現出した。しかし,大阪港と同様なチュウ積層上の土地は地下水の汲み上げによって著しい地盤沈下を来していた。沈下地域は大体東海道線以南,すなわち市街地の大半を占め,最も著しい箇所は新しい埋立地の大阪寄りの地帯であって,累計で1.5mから2.0mに及んでいた。かくて,平常の満潮にも浸水を来すような状態となり,河川および運河によってとりまかれた埋立地はその周辺に防潮堤が築造されていた。その防潮堤嵩上げ工事が昭和23年頃から行われつつあった時に昭和25年のジェーン台風に遭遇した。この高潮に際しては浸水地域は東海道線以南の市街地の殆んどに及び被害額は所在工場分のみでも71億円に達し,一般民家の被害額は160億円を上廻った。
 本災害の直後において復旧計画が検討された際にじゅうらいの輸中式防潮堤が当面した第1の問題は,o.p.+4.37mを記録したジェーン台風の高潮に対し安全な防潮堤を計画するとすれば,運河や河川に沿った工場が原料の搬入に使用していた起重機はすべて改造しないことには,この壁の上を越して荷役が不可能になるということであった。又埋立地をフルに活用している工場にとっては防潮堤の川地を提供することに対する困難性も生じてきた。このような難問題を避けるために,武庫川と神崎川の間に位置する全市域を保護するために,海岸の第1線に1本の防潮堤を築造し,これを両側の河川堤防に取り付ける案が生れた。この場合は勿論,水門や間門によって排水や船舶の航行が確保されることが必要である。前者の輸中堤方式と比較してみても工費は後者の場合が安いことも判明した。又,この防潮堤によって内水位の調節が可能となることは,排水不良の地盤沈下地帯に対しては特に好ましいものであった。このような理由によって所謂閘門式防潮堤と称せられる全市を1本の防潮堤で取り囲む案が採用されたのである。
 この案が運輸省が主催する専門委員会に諮問された時の岡部三郎博士の発言を忘れることができない。博士は,この案に賛成するが,この案では1ヵ所の破堤によっても全市が浸水するおそれがあるから将来においては防波堤を整備して防潮堤を高潮時の波浪から防護することが必要である,ということであった。すでに尼崎築港株式会社によって建造された防波堤は沈下によって干潮時にかろうじて,その天端が現れる程度になって居ったのである。
 又大方の委員によって,防潮堤の構造は土堤ではなく,コンクリート構造物として,高潮や波浪が乗り越えることがあっても破壊されない構造であることが要望された。
 本防潮堤は天端高o.p.+7.00mないし+8.00m。堤防延長は河川部において神崎川沿い6km,武庫川沿い1.5km,海岸部は3.6kmで3基の水門と1基の閘門を有している。又地盤沈下した陸地の排水を考慮して内水位をo.p.+1.50mと定め,それ以上の潮位に際しては水門を閉鎖して外側の潮の流入を止め,その際における船舶の出入は閘門を利用することとした。豪雨と高潮とが一致した場合は内水位の上昇が考えられるのでその対策として軸馬力2,000HPの排水ポンプを設置することとした。
 本計画は予定の工程をもって昭和26年度以降3ヵ年で完了し市民を安堵せしめたのであるが,やはり1つの問題が残っていた。それは閘門によって入港船の大きさが制限されることである。内港の工場が大型船の入港を必要とする時期が到来した際には新な閘門を建造しない限り,それは不可能なこととなる。現在の閘門は1,000D.W.T.の船舶を入港せしめ得るに過ぎない。
 2.伊勢湾台風と名古屋港の防波堤
 1)名古屋港の被害状況
 昭和28年9月25日の13号台風は伊勢湾の沿岸に甚大な被害を与えたのであるが,台風の進路が渥美半島を西から東に通り抜けたので名古屋港における高潮の最高潮位は名古屋港基準面上+3.73m程度に過ぎなく大きな被害を受けずに済んでいる。
 しかるに今次の伊勢湾台風は紀伊半島を北上し,名古屋港の西側を通ったために実に名古屋港基準面上+5.30mという未曾有の高潮に襲われることとなった。又波浪も13号台風時には波高は1.3m程度と推定されているが,今次の台風時には約3.0mの波高が観測されている。
 筆者は10月10日,すなわち台風襲来後2週間目に現地に赴いた。翌未明に庄内川の応急締切工事が完成した時期であった。未だ東海道線,関西線以南の中川区,港区,熱田区,南区一帯は浸水したままである。これらの浸水状態を見てはじめて名古屋市の地盤高がいかに低かったかということが了解された。すなわち干拓によってできた土地がそのまま市街地となっていたのである。堀川,山崎川,大江川を経て八号地貯木場に到って,その間いかに多量の木材が流失して,民家や人命に損傷を与えたかということが判明した。
 直径1m以上のラワン材が累々として,所々方々に散乱している。聞けば台風時迄にその前年の1ヵ年分の木材が既に輸入され,貯木場は数段に木材を積み重ね,しかも貯蔵能力を超えた分は河川に繋留されていたということである。名古屋港は全国でも著名な木材の輸入港であり,建築用材その他の製材業者が堀川をはじめとして東部の河川沿岸に工場を持っている。台風時にこの木材を安全に繋留しておくための策はないものであろうか。確かに今次の災害は低地が弱い河川筋の堤防によって護られていたことや,収容能力を超えた木材が高潮で流失して被害を倍加していることから見れば,起り得べくして起ったことが,惨禍の実情から教えられるのである。
 又些細なことのようであるが,八号地貯木場の三和土による石積護岸の破壊状態を調査していると,その前面の海面に九号地の火力発電所からの送電鉄塔が立っていて,その基礎のコンクリート脚によって僅かに遮蔽されているところは護岸が破壊されていないのである。高潮が乗り越えたことは疑いないことであるから,破壊の原因としての波浪の威力を眼のあたり確めたわけである。
 一日,対策本部の仕事の閑暇に海部郡および南陽町の海岸堤防の破壊状況を海上から視察した。この延々たる海岸堤防をいかに強化したとしても1ヵ所の欠潰によって又広大な内部の干拓地は海水の浸入するところとなるであろう。干拓地の安全性を確保するための方途はあるであろう。
 ともあれ,愛知県の被害額は3,130億円,三重県のそれは1,627億円となっており,しかもその過半は名古屋市および海部郡に属するものであるからこの地域だけの被害でも三重県全県の被害を上回っていると解すべきであろう。死者は愛知県で3,040名,三重県で1,180名,その中,名古屋市の分は1,704名,これに海部郡の分を加えれば,これ又過半の人命はこの地域で失われている。又長期滞水した地域も,愛知県14,229ha,三重県4,340ha,愛知県の分は名古屋市内で7,054ha.海部郡で6,829ha,上野,横須賀地区で346haとなっており,いずれも名古屋港の周辺である。
 2)名古屋港高潮対策えの提案
 名古屋港の周辺は伊勢湾工業地帯の中心である。そして伊勢湾工業地帯は,東京湾,大阪湾,北九州とならんでわが国4大工業地帯を形成している。この4大工業地帯の中,戦後においてもっとも活況を呈し,発展のテンポが急速であったのは当工業地帯である。紡績,織物,陶器,機械工業を主とする当工業地帯の生産額は昭和32年において名古屋市のみで約3,000億円に達し,臨海工場分はその内約半分の1,300億円になっている,最近の景気の上昇,特に重化学工業を中心とする投資熱は当地帯の優位性に着目し,東海製鉄株式会社の工場建設計画をはじめとして,各種の大工場が進出の気運にあった。その上げ潮の出鼻にこの台風の襲来があったわけである,9号地に建設された中部電力の新鉛火力がわづか30cmの床上浸水を蒙ったために始動機が運転不能となって3週間も送電が不能になったのをはじめとし,周辺の工場群は長期の滞水によって160億円の被害を受けたという。 しかし台風の襲来はわが国の自然的位置からいって宿命である。又上記の4大工業地帯のいずれにおいても台風から安全といえるものがない。むしろ他の幾多の立地的優位性を生かして工業化を進めて行くためには台風から安全である工業港の造成を計画することこそもっとも必要なことである。
 次に,耐えがたい当地方の欠点は周辺が古来からの干拓によって出来た土地であって平常の潮位よりも低いことである。名古屋港にしても明治以降埋立てて造られた埠頭地帯は,台風時高潮によって被害を受けたとはいうものの,高潮が引くと共に排水されて平常に復しているのである。それがその背後の旧干拓地であったところは庄内川をはじめとする各河川の破堤箇所を締切り,数日かかってポンプによって排水を行うまで滞水の状態にあった。その間,台風後3週間経過している。しかも,戦後新に造成された工場は3,000にものぼるというから,これら工場の従業員の簡易な住宅等が急速に低地に建造され,この非常の際に生命の安全を托するに足る永久建造物は殆んどなかったということおよび待避のための訓練や予報の伝達の不備等が多数の人命を失うに到った原因ということができよう。
 戦災後の名古屋市の都市計画は模範とするに足るものであった。しかし急速に膨張した港湾周辺の市街地は高潮に対する配慮に欠けていたことは明らかである。このような意味で名古屋市の都市計画は再検討の必要がある。高い地盤高をもつ住宅地と永久建造物と堅固な防潮堤,つまり高潮の危険から護るべき都市の建設にあたっては,戦後における大阪と尼崎港の高潮対策事業が幾多の示唆を与えるであろう。さらにまた,こはらの事業計画において足らなかった部面をも反省し,モデル的な計画の樹立が望まれるべきではなかろうか。
 その一助という意味から次の諸点を提案したい。
 (a)湾奥に位置していること,多数の河川や水路が存在していることおよび干拓によって次々と造成された低地が多いこと等の高潮に対する不利な条件を再認識すると共に臨海工業地帯として将来の発展が約束されている利点を生かすことを考慮して先ず港の外かくに一大防波堤を築造し高潮や波浪をまずそこで喰いとめること。その位置は木曾川河口左岸の鍋田干拓地より対岸の横須賀地区に向い,概ね最短距離の線が適当であろう。
 (b)干拓農地の前面には埋立によって陸地の造成を急ぎ,既存防潮堤の安全度を向上すること。
 (c)防潮堤の天端高は防波堤の効果を検討の上決定すると共にその法線は臨港環状道路または高速自動車道としての防潮堤の利用を考慮して決定すること。このことは防潮堤の耐波性の向上および維持管理の励行に好結果をもたらすと共に臨港地帯道路の立体化を促すことともなるであろう。都市の防潮堤は平常時においてもそれの利用を考慮することは土地の有効利用の面からも当然である。
 (d)荒子川の運河化を促進し,その浚渫土を利用して両側の低地を埋立て,地盤高の高い土地を造成すること。現在の荒子川運河の計画は艀船を対象としているが重量屯1,000T程度の内航船を対象として拡幅,増深を行うべきである。
 (e)現在の内港及び堀川,山崎川,大江川等に所在する貯木場は南陽町地先または海部郡地先に新に安全な貯木場を建造して移転すべきである。又従来の貯木場及び周辺の製材用地等は転換後において区画整理を行い,貯木場は浚渫して内国貿易のための泊地とし,浚渫によって生じた土砂によって周辺の土地の地揚げを行えば防潮効果と排水良好な宅地の取得が可能となる。
 3)防波堤の計画について
 今回の伊勢湾台風による高潮の最高潮位は東京湾中等潮位上+3.90m(名古屋港基準面上+5.30m)である。今被害の甚しかった海岸堤防の天端高を東京湾中等潮位上の高さをもってを示すれば
   鍋田干拓       T.P.+7.0m
   鍋田村(海部海岸)  T.P.+5.50m
   飛島村(同上)    T.P.+6.00m
   南陽海岸       T.P.+5.70m
となっており,いずれも最高潮位よりも高いのである。したがって波高が1m程度の波を伴ったのであればあのような大災害を受けることはなかったのであろう。名古屋地方気象台の観測記録によれば,26日は朝9時頃から南東の風が次第に強くなり,13時には12.2m/sに達し,この頃より風向はさらに東にかたむき,17時頃まで10m/s前後の風速を保ち,18時頃から南に風が廻ると共に急速に風速を増し,22時に南南東37m/sの最大風速を示している。この南よりの強風が長時間継続したことにより,波高計による測定値は1/3最大波高で2.0~2.5mとなっている。すなわち,1/10最大波高では約3.0m程度の波高の波が襲来していたわけで,堤防の破壊の状況から見て最高潮位に達する前から越波によって天端や裏ノリの土砂の流失や洗掘が起っており弱体化した堤防が最高潮位時の風浪によって破堤したと見るべきであろう。したがって堤防の安全を保っためには越波によって土砂の流失しない構造物を築造することが大切であるが,台風時の強烈な波力を減殺することが最も有効であると考える。
 さらにまた,内港および河川筋の木材の流失が高潮による被害を局部的に倍加しているのであるが,これもまた波浪の減殺が可能であれば防止し得るものである。
 このような理由から防波堤の必要性が立証されるのである。もたその位置は出来るだけ広く干拓堤防を保護し得ることと臨海工業地帯としての埋立予定地を包含し得ることが望ましく,図-1に示される如く名古屋港の港域の境界に近く鍋田川左岸から横須賀地区に到を約10kmの線が適当である。
 この際に問題となることは次の4点である。
 (i)防波堤の築造によって,その外側の木曾,揖斐両川の下流部や四日市港地区の高潮を激化するこりがないであろうか。
 (ii)波浪の高さをいくら減殺することが期待できるであろうか。
 (iii)港口の幅員を狭めることによって高潮のピークを切り取ることも可能であるが,平常の船舶の航行に支障をおよぼさないためには港口の幅員をいくらと決定すべきか。
 (iv)一般に防波堤は完成までに長期の年月を必要とする。その理由は,工費を多額に要すること。天候によって年間の作業日業が少いこと。又海中の潜水夫を使用する作業等はその程に限界があること等である。しかし高潮対策としての防波堤は長期にわたって施工していたのではその目的を達成することができないから,本防波堤は急速施工が可能であるがどうか。
 以上の諸点については目下調査研究を進めているが,現在までに確信を得たことについて概要を述べる。
 (i)高潮に関する数値計算
 名古屋港の高潮防波堤の設置によって伊勢湾内の高潮の分布が現況とどのように変るであろうかということは,この防波堤の計画にあたって最も重要なポイントである。
 近年,高潮に関する計算方式は著しく進歩してきており,北海のハリケーンによる高潮に関するHansenの計算等著名な例があり,ことに電子計算機の利用によって数値計算の能力は著しく高まってきている。本防波堤の設置に関する高潮の分布状況については気象庁に依頼し,同庁海洋気象部長寺田博士の指導のもとに宮崎正衛博士を煩して計算していただいた。その基礎方程式は次のごとくである。
式-1
 本計算は(1)式を階差方程式に直し,2分毎のステップで次々の時刻における値を計算し,2km毎の格子点につきS_x,S_y,とζとを1つおきに交互に見出すものである。なお境界条件は,入口(湾外)においては運動がなく,ζは気圧のみによってきまるものとし,また海岸では流量はないものとした。
 台風の経路と気圧および風については今回の伊勢湾台風のデータをモデファイして使用した。
 その計算結果を図示すれば図-2のごとくであり,数字は最高時に近い22時の潮位偏差であって,実線は締切りを行なわない場合のもの,すなわち現状を示し,点線は防波堤によって締切りを行った後の姿である。図-3は木曾川における潮位偏差の時間的分布の比較図である。
 これらによって判明するところでは,現状の場合と締切りを行った場合とにおける最高潮位の変化は微少であって潮位コンターの形が変化しているのみである。すなわち,伊勢湾の湾入の最奥部である名古屋港の部分をカットしたために湾形の変化によって潮位コンターが変ったものと見てよいであろう。
 勿論以上のことはマクロ的な計算の結果であって,実施に際しては局部的な潮や波浪の集中を避けるような法線を採用しなければならないことは当然である。
 次にこの防波堤によって内部の高潮の最頂部をカットすることができるであろうか。これについては防波堤の内側に格子点をつくって宮崎博士が計算した結果によれば,港口を500mにせばめた場合には50cmのピークカットが可能であることが判明している。しかし本港の港口幅員を500mにせばめた場合本船の航行に支障がないであろうか。本船航行の利便を考慮して700mの幅員にする場合はピークカットの効果は微少なものとなる。港口幅員の決定は今後の研究課題として残されている。
 (ii)波浪について
 伊勢湾台風時における名古屋港防波堤沖における波浪記録はH_1/3=2.0~2.5m,T_1/3=6.4secとなっている。これは四日市港に対する来襲波(H_1/3=3.0~3.3m)に方向分散を考えた場合とよく一致している。今回の気象条件は本港の来襲波としてはほぼ最悪の状態を与えるものであり,そのまま将来の設計波として取ることができるが堤防決潰の最大の原因が高潮に伴う波力であると考えられるので,浅海におけるBretschneiderの方法を参照とすることにすれば,風速=30m/s,フェッチ=45km,平均水深=27m,平均海底勾配=0.0010,対象地点の水深=11mに対し設計波高=3.0~3.2m,同期=6~7secの波が考えられる。これに対し,高潮防波堤の設置後には設計波高=1.5~1.0m,回周期=4sec程度の波浪に減じ得うことが概算されるが詳細については目下検討中である。
 (iii)構造および施工について
 本防波堤の位置は未だ正式には決定されていない。したがって詳細な深浅測量や海底の地質調査も4月以降に実施を予定している。構造および施工方法はそれらの調査をまって決定すべきである。然し本防波堤の構想を採用するについては,早期完成が可能であるとの腹案はあったのである。それを次に述べると
 (i)想定される防波堤位置は水深の深い箇所で7.0m程度,平均水深では-4.0~5.0mに過ぎなく,防波堤の施工位置としては水深が浅い方であること。
 (ii)波力も比較的で小さい。すなわち,台風時の最高で波高が3.0m内外と推定されるが,平年時は1.0m内外の波高の波より立たないこと。
 (iii)内湾であって施工のための作業日数は年間200以上も予定し得ること。
 (iv)今,かりに幅員100m,延長10kmの埋立地を造成するとすれば100万平方米,約30万坪である。この程度の埋立地を造成することは適当な土砂の採取場があれば容易なことである。しかもこのような埋立地によって風浪を遮られた背後の泊地は極めて安全度が高い。又このような埋立地は台風に際しても一朝にして流失するものではない。高潮に際しては埋立地上に設置されたよう壁が有効にはたらくであろう。
 したがって今後の調査と設計にあたっては,以上のような考えに基いて,いかにして安く,はやく,高潮に際して破壊されない断面を考え出すかということであり,2,3の断面が試案として検討されている段階である。終りに高潮の潮位分布の数値計算について,御協力を賜つた気象庁の寺田博士,宮崎博士をはじめとする多くの方々に深甚な謝意を表するものである。

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図-1
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式-1
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図-2
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図-3

道路 -カサ上工事用水中盛土材について- 安部清孝(建設省名古屋国道工事々務所長)

 1.前言
 昭和34年9月26日夕刻より夜半にかけて来襲した伊勢湾台風は,伊勢湾沿岸一帯に甚大な被害を与えたが,特に名古屋南部より,愛知県海部郡並びに,三重県桑名郡に至る海岸部は海岸堤防の破堤溢流によって大惨状を呈した。
 これにより,国鉄関西線並びに近畿日本鉄道の両線共不通になった上に,名古屋~四日市間の唯一の大動脈である,1級国道1号線もいたるところ,冠水のため,自動車交通が不能になり,両都市間の交通並びに,通過交通に大混乱の様相を呈したばかりでなく,災害復旧の進捗上に大きな障害となったのである。
 そこで建設省中部地方建設局においては,中部地方災害対策本部の指示にもとずいて,早速災害対策本部を設けて建設省道路局の指令にもとずいて,新川~日光川間の冠水箇所の土俵堤による遮水工事を名古屋国道工事事務所に,木曾川~長良川間の流失コンクリート橋の自衛隊のべーリー橋による仮復旧工事を三重工事事務所に緊急完成させるように指令した。
 これらの工事は,おおむね10月10日頃完成されたのであるが,この頃諸般の情勢より推測して,旧東海道に沿って日光川~木曾川間の締切工事(尾西作戦工事)の完成が,相当遅れて11月初旬以降になるものと思われるふしが濃厚になって来たので,日光川~木曾川間現国道に沿っての復旧が焦眉の急務となって来たのである。
 しかし,この日光川~木曾川間,すなわち蟹江,弥富間の冠水延長は5.1kmもあり,平均水深は0.8~1.0mで,水深大なる所は干潮時でも1.0mもあり,満潮時には1.5~1.8mにもおよぶ箇所が処々にあり,さらに干満には1~2m/secの流速の潮流があるという状況からして,この水中盛土カサ上工事は難工事を極めるものであろう事が予想され,水深大なる水中作業という悪条件の影響による工期的の成否が相当憂慮されていたのであるが,建設省並びに中部地方建設局は物資並びに,災害復旧用資材の輸送を円滑にし,早期復旧に貢献するためと,沿線被災民の交通の便に供すると同時に,民心の安定の一助とするためと,名古屋~四日市間を結ぶ唯一の大動脈である国道1号線を復旧して交通輸送の混乱を緩和し,災害に対する経済再建の一助とするために,この難工事を遂行する事に決定したのである。
 2.基本計画の概要
 国道上での水位観測の結果,国道上での干満潮時刻は名港の標準時刻より約3時間遅れ,国道上での最高水位を示す日付は暦の大潮望日より約3日遅れ,国道上での最高水位は,東京湾中等潮位+1.1mであり,干満差は小潮時に30~40cm,大潮時に80~90cmであり,小潮干潮位は+0.6mであり,低い部分の路面の標高は-0.3~-0.5m位であり,この国道に沿う地帯はこの国道が昭和6~7年頃にくらべて約40cm位の地盤沈下をしている事等が判明したのでこれにもとずいて次のように基本計画を決定したのである。
 (1)基本計画高
 盛土材料として愛知用水公団の羽黒の隧道のズリを主体として使用する蟹江側2.7km区間については,小潮干潮位の+0.6mとし,木曾川の砂を主体として使用する弥富側1.3km区間についてはほとんど冠水を受けない高さ+1.0mに決定した。
 (2)標準断面
 (i)有効巾員
 有効巾員は2車線の7.0mとし,路肩を見込み全巾8.0mとした。
 (ii)断面内の盛土材構成
 断面内の盛土材料は,蟹江側では路床材料として羽黒のズリ60%,庄内川の切込砂利40%の出来型混合比を保つように切混ぜて使用し,その上に路盤材料として目潰砂を使用し,弥富側では路床材料として仕上路面下30cmの高さまで木曾川の砂を使用し,その上に肱江川の切込砂利20cm厚を使用し,その上に路盤材料として厚10cmの玉石砕石と目潰砂を使用する事にした。蟹江側の路床材としての庄内川の切込砂利については,40%の出来型混合比を保つために羽黒のズリの容積の約30%をその目潰用として追加使用される必要がある。
 従って蟹江側の路床材のズリと切込砂利の実際の混合比は51%との49%との比となる。
 なお,すべての材料は流失,側方押出し等を含めて約30%増しの量を運搬,搬入する事にした。
 (iii)ノリ止工法
 水深80cm以下の所は土俵によるノリ止めを行い,水深80cm以上の所はドラム缶を千鳥に2列に並べ,前後左右並びに両側ドラム缶列間は,鉄線によって緊結してノリ止めを行う事にした。土俵ノリ止めて区間長2.457m,ドラム缶ノリ止め区間長1.583mである。ドラム缶列は6本並び1組として枠の中にはめ込んで掘付けを行ない,ドラム缶の中には土砂を詰込んでおさえとした。
 (3)計画土量
 盛土計画土量は表-1に示すごとくであるが,蟹江側合計材料18.928m^3,弥富側合計材,12.891m^3,全量31.819m^3である。
 路面工材料の計画量は表-2に示すごとくであるが,蟹江側合計材料2.673m^3,弥富側合計材料1.183m^3,全量3.856m^3である,全計画盛土材料は35.675m^3である。
 (4)ノリ止め材料
 計画土俵数は96,000俵であり,計画ドラム缶本数は,12,000本である。
 土俵も北陸,関西の方より集めたのであるが,ドラム缶に至っては,北は北海道,南は九州各方面より緊急集得するのに苦労した。
 (5)建設機械
 土取場4ヵ所,土捨場2ヵ所に押土,積込機械10台,積込機械8台,路面材料敷均し機械3台,転圧機械5台,運搬路補修用グレーダー2台,合計28台を2週間フルに使用する事にした。
 そのほかに予備の機械を2段,3段と準備しておいた。
 (6)材料運搬トラック
 トラック搬入並びに荷卸の所要時間は平均3分と考えられるので,これを考慮に入れて,蟹江側も弥富側も1日約2.000m^3の土砂を運搬するとして,トラックの搬入,積卸の所要平均時間を3分と仮定し,蟹江側は昼食,汐待ち時間を約6時間を見込み,弥富側は昼食,余裕時間を約4時間を見込み,運搬トラックの余裕台数を2割見込むと,蟹江側では羽黒のズリ運搬に44台,庄内川の切込砂利運搬に30台,合計74台を毎日使用し,トラックの運搬時間を毎日18時間,現場作業時間を16.5時間とし,弥富側では木曾川切込砂運搬に12台,肱江川の切込砂利運搬に13台,合計25台を毎日使用し,トラックの運搬時間を毎日18時間現場作業時間を16.5時間とする事にした。毎日の全トラック使用台数約100台という事になる。
 (7)労務員
 土取場,現場における労務員の毎日の総数は蟹江側約120人,弥富側約80人,合計約200人とする事にした。
 (8)計画事業費
 カサ上区間内延長4,040m,有効巾員7.0m,事業費85,000,000円である。
 3.工事材料の土質的性状
 蟹江側施工区間約2.7kmは大潮満潮になると約30~50cm位冠水するようなF.Lになっており,弥富側施工区間約1.3kmは大潮満潮になると約10cm位冠水するようなF.Lになっており,いずれにしても水中盛土を行うものであり常時ほとんど水で飽和している状態の盛土であるため,水で飽和しても不安定にならないような材料を選定しなければならないというのが本盛土工事の基本原則であった。
 (1)羽黒のズリの性状
 羽黒のズリは蟹江側施工区間の盛土の母体をなすものである。これは表-3に示すごとく水に対する物理的安定性は申し分のない良質のものであるが,その粒度組成は図-1に示すごとく中間粒径以下のものが少いので力学的安定性が不足していると思われる。
 この中間粒径以下の不足材は,目潰材として庄内川の切込砂利を約40%切混ぜる事によって補う事にした。
 (2)庄内川の切込砂利
 庄内川の切込砂利は春日井市内の松川戸橋上約2km地点左岸で採取する事にした。
 この地点の切込砂利は,おおむね良好の水中盛土切込材であるが部分的に粘土質砂を含んだ場所もあって採取に少し注意を要したのである。
 粘土質砂を含まない部分の切込砂利並びに,粘土質砂を含む部分の切込砂利の粒度分布は図-1に示すごとくであり,物理試験結果は表-3に示すごとくである。
 試験結果よりわかるようにLL,PL,PIはいずれの場合もすべて零であるが,粘土等の細粒部分の洗分析流失部分率L.Wが粘土質砂を含まない部分は1.37%,粘土質を含む部分は8.02%である。
 粘土質砂を含まない切込砂利を使用した時は,冠水を受けても運搬用トラック,その他施工機械の頻繁な通行によってますます,水中の盛土の締固り度が大きくなって来るのであるが,粘土質砂が少しでも混っていると冠水中の運搬トラック,その他施工機械の頻繁な通行によって水中盛土は次第に軟弱泥濘化して通行不能となってくるものである。
 第II工区施工中にどうしたことか,粘土質砂の混入した切込砂利が現場に搬入されたらしく,施工した部分が冠水によって軟弱泥濘化して来たので驚いて土取場に急行調査したところ,表面より約1m位下に粘土質砂を含んだ層があって,これを一緒に持って来たために起った事実であり,早速採取に細心の注意を払わせ,以後難なく完成する事ができた。
 ごくわずかでも,粘土質砂が混入すると水中盛土の安定は保てないものである事をつぶさに体験したのであるが,冠水を受ける盛土における物理的安定性は従来のようにL.L,P.LP.Iによって判定するのみでは不十分であって,粘土等の細粒部分の洗分析流失部分率L.Wを考慮する必要がある。ここに水中盛土の困難性があるわけである。
 羽黒のズリと切込砂利の混合比は51%と49%との比になっているが,材料の流失,側方押出し等でズリの30%増し分が全然有効に使用できず,切込砂利が30%増しの分全部有効に使用出来たと仮定するとこの比は42%と58%との比になり,その逆の場合はこの比は57%と47%との比になり,実際の場合は上記両極端の混合比の中間の混合比になるものと思われるが,30%増分の内,ズリは15%無効になり,全有効115%,切込砂利は30%全部無効になり,全有効100とすれば,この比は54%と46%との比になることになる。従ってこれらの事を考慮して床内川の粘度質砂を含まない切込砂利を35%,50%,60%それぞれ混入したものの粒度を示すと図-2のごとくであるが,現場で試験施工した結果も良好な結果をおさめたようである。
 この3種類の混合材料は粒度組成は従来の考え方からすれば最良のものではなく,細粒材が少し不足しているが,細粒材はどうせ大部分流失するのでなくてもよいように思われ,微細粒材のない事は物理的安定性確保のためにかえって望ましいと思われる。
 (3)肱江側の切込砂利
 弥富側の盛土材料も当初は,切込砕石を主体に使用したいと思っていたが,三重県側には短期間に多量に切込砕石が取得できる見込みがたたなかったので良質な切込砂利を使用したいと思ったが,近くの町屋川の砂利は1~2年前より採取禁止になっているので,これも取得の見込みが立たたなくて困ってしまった。やっと三重県の採取許可も得たのは揖斐川合流点附近の切込砂利であったが,この粒度分布は図-1に示すごとくであり,物理試験結果は表-3に示すごとくである。
 粒度分析結果,並びに物理試験結果よりして明らかなように,これはシルト並びに粘土質部分を相当含有しており,P.Iは零であるが,L.Wが2.97%で水中においては,物理的に相当不安定な材料で冠水盛土材としては良好な材料とはいい難いものである事が判明したので,盛土材の主体としては,使用する事を避けて,余り水を受けない上層約30cmの盛土材として使用する事に決定した。下層の主盛土材には,やむを得ず木曾川の砂を使用する事にしたのである。
 上層約30cmの肱江の切込砂利はブルで押し拡げて均らすので,実際はこの中に木曾川の砂が10~20%位混入したものと思われ,これの粒度組成は図-3に示すごとくである。
 (4)木曽川の砂
 弥富側の下層の主盛土材には,木曾川の砂を使用する事にしたのであるが,その粒度分析結果並びに,物理試験結果はそれぞれ図-1,表-3に示すごとくである。
 物理試験結果よりして,この砂はP.Iは零で,L.Wも1.96%であって物理的には一応水中でも安定である事は想像されるが,粒度分析結果よりわかるように,少し粒径が小さすぎて冠水中に十分な力学的安定性を期待する事は困難であった。水中では噛み合せマサツによるセン断抵抗のみ期待されるので,噛み合せマサツ抵抗の少い材料は直接セン断を受ける状態では具合が悪い。
 事実盛土を始めると,冠水を受けると運搬車の車輪がめり込んで通行不可能になってしまったので,基本盛土高をほとんど冠水しない東京湾中等潮位+1.0mに変更せざるを得なくなったのである。
 しかし,ノリ止めのドラム缶の内側にムシロを並べて,この砂の流失を防止し,冠水も防止したので細砂もこの様な状態下におけば,結構間接的には力学的に安定な盛土構成するものであるという事が体験出来たのである。
 (5)藤原山の砕石
 路盤用の砕石は,岐阜県坂祝の小西砕石その他も使用したが主に三重県の藤原山の砕石を使用した。
 その粒度分析結果は図-1に示す通りであるが,これに木曾川の砂を目潰として,20~30%混合使用した。この混合材の粒度分析結果は図-4に示す通りである。
 (6)水中盛上材としての具備すべき条件
 以上要約すると水中盛土材として具備すべき条件としては次のようにいえると思われる。
 (i)物理的に非常に安定な材料すなわちPI=0,L.W<2.0%の材料でなければならない。
 (ii)冠水を受ける状態においては,路盤材としての良好な粒度組成のものでなければならないが,どうしてもこのような材料が得られない時は,この材料の流失並びに,冠水を極力防止するような盛土構造にしなければならない。
 4.交通開放後の状況と経済効果の概算
 10月31日に工事は大略完了し,11月1日より3日間路面の整備を行い,4日午前中試験運転を行った結果良好であったので予定通り15時より一般交通を開始した。
 まえもって新聞,ラジオ等で11月4日の交通開始を予知していたとはいえ,各関係者渇望の国道1号線の開通であり,見る目も鮮やかに交通輸送が開始された。交通量は,4日15時より5日17時迄は,2,622台を数え,以下,下記の通りであるが予期以上に路面状態は良好であり,路肩の沈下も見られず通行車の運転手並びに通行人の感歎する程良好な結果であった。
 なお排水完了迄は,常時グレーダー及びブルドーザーを現地に配置して路面の維持補修にあたり万全を期す予定である。一方,交通開始より排水を完了する迄交通量調査を行い,平常輸送に戻るまでの間の全交通量に対する経済効果を算定し,本工事の有意義性を確認したいと思っているが,交通開放後の交通観測によると,24時間交通量は,5日約5,000台,6日約6,100台,7日約6,400台,8日約6,800台,9日約7.500台,10日約8,900台,11日(小型車も解放)約9,100台,12日約12,000台,13日以降1万台以上という具合になっていた。その後11月20日頃交通観測を参考に行ったら約14,000台の日交通があった。
 12日以降は1日交通量が1万台であると仮定して,経済節減額を算定してみる事にする。
 水位観測資料によると,国道冠水がなくなったのは,11月24日頃であるから11月4日に交通開放してから,11月24日までの交通車両による直接経済節減額を算出すること,おおむね3億9千万円となる。
 尚国道冠水がなくなっても,路肩の流失,舗装版下の流失その他の損傷の緊急手直しに1週間位かかると想定されるので,これらを考えて,12月1日頃完全交通開放が出来るものと仮定すると,直接経済節減額はおおむね5億1千万円にのぼると想定される。
 これは,直接経済節減額のみであるが,このほかに間接的経済節減額はかなり大きくなるものと思われる。
 この復旧工事に要した工費は,緊急復旧工事費約8千5百万円と本復旧費約2億1千万円で合計2億9千5百万円であって,直接経済節減額はこれを相当上廻っているので民心の安定並びに,災害復旧の促進はいうに及ばず経済効果の面からも本工事遂行の意義は大きかったと思われる。
 5.結語
 蟹江~弥富間のカサ上工事の特色は,何といっても水中における盛土締固め工事であって,しかも38.000m^3にも及ぶ大量の土工工事であり,建設省においてもおそらく前例のないことであったと思われる。また,法止めにドラム缶を使用したことは,短時間に大量の土のうを作ること,また,これを水中で積み上げることが困難があるため発案されたものであって,結果的にはドラム缶を使用したことは,工程上,また,ノリ止めの安定上にも良好な結果を生みだし,成功をおさめた遠因となったが,これも珍しいケースで今後の参考事項の一つとなるものと思われる。
 さらに,冠水盛土を良好な状態で行うには,その材料は普通状態での盛土材としての良好な物理的性質並びに粒度組成を備えているばかりでは不充分であり,L.Wの値が,20%以下の材料である必要があり,粒度組成も良好範囲の下限あたりのものでなければならない事がわかった。
 また,前述のごとくこのカサ上げ工事による直接経済節減額のみで約3億9千万円~5億1千万円に達するものと思われ,復旧工事に要した全工費が,2億9千5百万円であったと思われる。
 木工事完遂によって地元民並びに,交通輸送関係者の再びは手にとるように感じられて本当によかったという気持で一杯であるが,それにも増して,私共建設省の道路建設にたずさわるものとして最も強く感じた事は,ほとんど不可能と思われるような仕事でも,関係者が全員打って一丸となって死物狂いで頑張って行えば必ず可能であるという事を身をもって皆体験し得たという事である。
 なお,34年度末(35年3月31日迄)までに11mに巾員を戻す拡巾工事,それに必要なプレキャストコンクリートウォールの設置工事,舗装のブラックベース工事,約60軒の沿道人家のカサ上工事,カサ上しない沿道人家に対する約130箇所の坂路,又は階段の取付工事,県道,町村道,農道の国道へのへの取付工事等を完了する予定で目下鋭意努力中であるが,拡巾後の本舗装は35年度第1四半期中に完了する予定である。

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表-1 盛土使用計画材料
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表-2 路盤使用計画材料
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図-1 粒径加積曲線
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表-3
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図-2 粒径加積曲線
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図-3 粒径加積曲線
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図-4 粒径加積曲線

国鉄の災害 西亀達夫(国鉄 名古屋幹線工事局主任技師)

 1.まえがき
 伊勢湾台風については,国鉄関係としては特に土質工学的な問題点はあまりないので,「国鉄の災害」ということで当時の状況を述べ,土質工学に関連あることを少しつけ加えたいと思う。なお伊勢湾台風により国鉄としては,名古屋鉄道管理局の他天王寺,大阪,福知山各鉄道管理局が相当の災害を受けたのであるが,当時筆者は名古屋鉄道管理局に勤務していたので名鉄局管内の被害状況を中心として述べたいと思うので御了承願いたい。
(図-1)
 2.被害状況
 1)警戒状況,昭和34年9月25日夕刻名古屋地方気象台から大雨注意報が発せられ,その後台風の本土接近に伴い各種警報が発せられ又鉄道気象通報(関係気象台から鉄道に対し行われるもの)も併行して発せられた。これらの警報並べに情報により今回の台風は名古屋地区に対しては最悪のコースをたどることが予想されたので,26日11時50分名鉄局保線課は各保線区にあらかじめ定めてある方針にしたがって警備態勢に入ることを指令した。管内10保線区はただらに第3種警備(特に警備を要する箇所に線路班員を指名して警備すること)に入ったが,その後台風が名古屋地区を通過する可能性がますます濃くなったので,地域的に時間の差はあるが,15時~18時の間に各保線区は第2種警備(線路班員の約半数が警備につくこと)に入り,ついで暴風雨がはげしくなったので,四日市保線区の16時を始めとして18時~19時には各保線区とも第1種警備(線路班員全員が警備につくこと)に入って,列車運行の安全確保につとめた。一方台風の猛威は時と共に激しさを加え,特に風速が30km/hを超える程になったので16時48分幸田にて第3列車(はと)を抑止したのをはじめとして次々に列車の運行を停止した。又各所で浸水し始めて線路巡回も危険となったので,19時40分ついに各保線区に対し線路巡回の中止を指令した。その後通信線は次々と障害を起し,中央線,高山線の各保線区との通信が杜絶し,19時40分四日市保線区から区内浸水甚しきため全員二階へ待避するとの報告を最後に関西線とも通信不能となった。
 台風通過により幾分風の収まった頃から,各保線区は線路巡回を再開し,名古屋方面では23時30分頃から巡回を始めたが深夜である上に浸水箇所が多く被害状況の把握は困難をきわめて又通信線の被害のため相互連絡ができず,名鉄局においては27日3時頃になっても被害の全ぼうを知ることはできなかった。しかしあらゆる困難を克服して各方面から入った情報や報告により次第に被害の模様がわかり,東の空が白む頃になってようやくこれは並々ならぬ災害であることが分かった。
 2)線路被害状況 26日17時東海道本線関カ原・柏原間で竪下水の氾濫により線路が浸水し,ついで17時30分同区間の野瀬踏切で土砂を含んだ雨水が流入してついに18時には上り線が,18時30分には下り線が不通となった。又大高,笠寺,熱田間でも山崎川,天白川の堤防欠壊のため道床砂利が流失し又一部築堤が欠壊して不通となった。
 関西線は主として四日市附近より名古屋駅までの間が災害を受けた。そのうち桑名以遠は一時的な冠水で翌日は直ちに減水したが,名古屋-桑名問では,河川および海岸堤防の欠壊のため1~2月の間線路の大部分が水没したことは御承知の通りである。(写真-1)しかしこの区間では破堤により直接波浪が押し寄せてきた長島構内では建物が倒れたり,ホームが流失したりしたが,その他の所は大部分が比較的ゆっくりと浸水したため,小橋梁の基礎が洗掘された程度で,軌条が押し流された所は3箇所にすぎない。それでも洗掘は相当ひどく橋脚,橋台の基礎抗が1.7mも河底より出ている所があった。このようにひどく洗掘された橋梁ではその橋台の後方にクイを打って,在来桁より支間の大きい桁をかけて,在来橋梁をすっぽりまたいで通れるようにし,減水をまって,在来橋梁を修繕することにして,現在修繕工事中である。そのような仮桁をかけた橋梁が4箇所ある。
 岐阜から高山線の美濃大田を経て御母衣方面の北濃に行く線が越美南線であるが,この線では深戸~相生間の第5長良川橋梁の橋脚が1本倒壊し,そこにかかっていた桁が2連200~300m下流に押流されて川岸に打上げられた。(写真-2)これは現在仮橋脚を作って,そこに戦時中に作製した応急用組立桁である重構桁を架設して開通しているが,目下別線を作って長スパンのトラスを架設することにして,その工事中である。又郡上八幡~美濃山田間では長良川の氾濫のため,460mの区間にわたって路盤が流失した。
 武豊線も相当な災害を受けたが,大部分は比較的早く減水したので関西線のように長期間水没するということはなかったが,まだ水のある中で復旧工事を行ったので,その苦労は大変なものであった。(写真-3,4)。
 その外名古屋港線,西名古屋港線をはじめ,名鉄局管内の全線が時間の差はあっても全部一時は不通になったが,幸い旅客に1名の死傷者もなく開通させることができた。なお不通箇所の開通状況は(表-1)の通りである。
 3)電気関係被害状況 前述のように通信用電柱が倒壊してほとんど全管内の通信が一時は杜絶したが,電車線電柱も倒壊又は傾斜した所が多く,特に蒲郡,幸田,岡崎,安城,刈谷附近および穂積,大垣間が特にひどく,線路関係の被害よりも電柱関係の被害が,東海道線の開通時期をおくらせたような結果になった。電柱はどこもほとんど同じような根入れで建植されているのが現状であったので,復旧にあたっては(図-2)のように,風に対する地形の良否と,地盤のコーンペネトロメーターによるコーン支持力とを調査して,根入れの設計をした。
 4)建築関係被害状況 伊勢湾台風はわが国でも未曾有のものであっただけに,又特に強風を伴っていたため,建築関係被害はきわめて甚大であり,件数にして3,370件をかぞえている。被害状況を類別すると,流失・倒壊176件,半倒壊・傾斜164件,床上浸水181件,床下浸水26件,屋根破損1,461件,垣根・塀破損268件その他1,093件となる。
 5)被害金額 これらの総被害金額は(表-2)の通りである。
 3.関西線水没区間の線路保守状況と土質との関係
 関西線八田~桑名間は,庄内川,木曾川,長良川等比較的大きい河川の附近では堤防の関係で施工基面が高いので水没しなかったが,他の部分は中等潮位+1.000m程度の低地を通っているので,河川あるいは海岸の堤防が欠壊すると水没はまぬがれない。今回の災害にあたっては,この区間は1~2ヵ月海水に浸っていた。
 そこで堤防の欠壊箇所の復旧工事が終りに近づいて,いよいよ鉄道も開道の見通しがついてきた時,水の引いた直後の築堤にただちに列車を走らせてもよいかどうかが問題となった。つまり水没していた間に築堤がうんでしまっていて,強度を失ってはいないかということである。そこで復旧工事の途中で築堤の土を採集して調べてみたが,それは後述するようにほとんど砂又は砂質ロームであったのでまずその心配は解消した。又事実復旧工事は線路が水中に没している時から始められ,減水を追って工事を進めていったのであるが,11月24日全区間の試運転列車を走らせる時には,最も築堤の低い部分ではまだ施工基面の上すれすれまで水があったような状態であったが,試運転に際し築堤にはほとんど大した変化はなかった。使用機関車はD50,速度は20km/hであった。
 次に水没区間における線路の保守状況は災害前と災害後でかなり変化しているだろうと思われたので,これを調べてみた。国鉄では線路に関する各種の状態をいろいろな様式にまとめて記録して,いわゆる線路管理図というものを作製している。これを使って,災害前の4月1日から9月26日までの各種軌道狂進み量と,災害後の11月25日(関西線開通の日)から35年2月3日までの同様軌道狂進み量とを調べてみた。すると(図-3)のように軌道狂のうち斑の進み量に最も顕著な変化がみられた。他の狂つまり,通り,高低,水準等ではあまりはっきりした変化が見られなかった。斑の狂進み量は斑直し作業の実施当時の狂量と,作業から次の作業までの日数,および残留狂量を考慮して,10日間当りの斑の平均進み量を単位mmで表わしたものであって,蟹江,永和附近では進み量が災害前の約2倍に,又永和~弥富間および弥富附近では,約2.5~3.0倍になっている。いいかえれば斑は災害前に比し災害後は2~3倍進み易くなっているのであるが,大体において名古屋寄りの方より桑名寄りの方がひどく狂い易くなっているということになる。
 この調査では水没の影響を調べることに主眼をおいたので,復旧工事において築堤の土を補充したり道床砂利が流失していた所等を除いて,ただ単純に水没しそして減水した所をそれぞれ200mづつとって調査したものである。又調査期間中に総搗を実施したことのある場合はその影響を除くためにその次の斑直しまでの日数を差し引いた。
 一方同区間に検測車を走らせて列車動揺を調べてみると(図-4)のように上下動では災害後がいずれもやや大きく出たが,左右動については一定の傾向が現われなかった。しかし左右動についても0.04gが0.06gになった程度でしかも例外が多くあまりはっきりした傾向とはいえない。
 さて斑の進み量にはかなりはっきりした傾向が現われたのでそれぞれの試験区間について築堤土を採取して土質試験を行ってみると,まず土の種類としては(図-5)のように砂および砂質ロームとなった。そして少しの例外はあるが,大体において2.5~3倍の変化のあった桑名寄りの方は極端に砂分が多い砂で,2倍程度の変化を示している名古屋寄りの方は砂質ロームと砂の両者のように思われる。しかしこれらの土の稠度試験の結果によると,(図-6)のように名古屋寄りの方は液性限界30~50の範囲にあり,桑名寄りの方は液性限界30以下の範囲にあって,狂進み量の変化とよく符合する。ただ復旧工事の最中で忙しい中で不十分な材料で急いで試験したため十分なデーターが得られなかったため決定的な結論が出せないのは残念であるが,非常に大まかな考え方として塑性図において,CL,ML,OLの範囲の土の方がそれより左側の方のものより築堤土としてよいだろうということは想像に難くないが,ただ液性限界が35以上になると環境の条件によっては噴泥を起すおそれがある(鉄道業務研究資料第13巻第22,23号)から築堤資料としての適正土としては注意を要する。いずれにせよ,もっと多くの調査が必要であるが,保守周期(狂進み量)から適正土の液性限界下限値を,噴泥現象から液性限界上限値を決定し得るのではないかと思われる。
 なお水没区間の災害前の土質試験は別に行ってなかったので,水没により土質にどんな変化があったかということはわからない。
4.おわりに
 今回の台風災害復旧に際して愛知県,名古屋市,自衛隊当局の方々を始め多くの関係の方々から絶大な御支援をいただき,早期に開通することができたことを心から感謝します。又現在なお復旧工事が進められていますが,早急の間に報告をまとめましたため不十分でおわかり難い点のあったことをおわびします。

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地図 図-1 伊勢湾台風被害区域略図
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写真 写真-1 弥富構内
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写真 写真-2 深戸~相生間
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写真 写真-3 半田~東成岩間
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写真 写真-4 水和~弥富間
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写真 写真-5 極楽寺川橋りょう
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写真 写真-6 西側川橋りょう
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表-1
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図-2 豊橋~彦根間地形並に地耐力分布図
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表-2 名鉄局被害額
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図-3 関西線冠水前後の変化
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図-4 関西線冠水前後の列車動揺の変化
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図-5 関西線冠水後の路盤土調査三角座標による分類
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図-6 塑性図

私鉄の災害 -近畿日本鉄道名古屋線の被害および復旧について- 中谷茂一(近畿日本鉄道KK名古屋営業局長)

 1.まえがき
 昭和34年9月26日東海地方を襲った台風15号(伊勢湾台風)は各地に大被害を与えて過ぎ去つたが,伊勢湾沿岸特に湾奥部一帯は各河川の氾濫,海岸堤防の決壊等によって甚大なる被害を蒙ったことはすでに御承知の通りである。
 本報告は,伊勢湾に沿って走る近畿日本鉄道KK名古屋線(中川~名古屋間)の被害および復旧状況について述べたものである。
 当社では当時昭和35年2月末から3月初めにかけて行われる名古屋線(78k8)軌間拡巾工事の前提として多年懸案の木曾・揖斐両橋りよう架設工事が竣工し,34年9月18日には揖斐川橋りょう前後の切替工事,9月25口夜には台風の前触れで小雨降る中を衝いて木曾川橋りよう上り線の切替を行い,後は10月2日予定の下り線の切替を待つばかりとなった。
 翌26日は午前中小康を得たが,午後から再び降雨をみるようになり次第に強度を増して14時には早くも中川~津間が強風のため運転を休止し,台風の北上につれて運転休止区間も次第に拡大していった。一方大阪線(上本町~中川間),山田線(中川~宇治山田間)も17時には強風のために全線が運転を取り止めた。19時には名古屋線に残った最後の区間桑名~名古屋間が不通となり,遂には大阪~名古屋間全線が完全に運行を停止するに至った。
 2.被害状況
 26日夕刻から夜半にかけて台風は当社線の中央部附近を通ったために全線がその圏内に入り,各所で築堤崩壊,道床路盤の流出等の被害が続出した。
 その状況は図-1の通りである。
 伊勢湾沿岸は台風経路の東側に位したために,その被害が大きく特に湾奥部の四日市~伏屋間は木曾・揖斐・長良川を初めとする数多河川の氾濫および高潮によって,海岸堤防が随所で決壊し,濁流が当社線を溢流したために道床・路盤の流出,橋台橋脚の洗掘,袖石垣の洗掘転倒,電柱・建物の傾斜倒壊,車両の浸水等の大被害を受けて惨憺たる有様であった。
 長良川左岸~伏屋間(延長13k5)は海抜0米以下の低湿地であり,海岸堤防の決壊によって流入した濁水は外海に連なって潮位を示し,大潮時には軌条面上1.4mの水深があった。そのために被害状況を調査するのに困難を極め,舟を浮べ潜水夫を使って10月中旬やっとその全貌を知ることが出来た。
 名古屋営業局管内における被害状況は図-2および写真1~7に示す通りで,当社創立以来未曾有の災害を受け,その大半が桑名~伏屋間に集中した。
 (1)道床・路盤の流出
線路が複線であるために海側から押寄せた濁流は築堤を溢流して,おもに山側の線路を洗掘し(写真-2参照),軌框の移動は(線路に直角方向)長島駅附近で最大10mにも達した。
 (2)橋台・橋脚の洗掘および袖石垣の倒壊
 濁流は線路を溢流するとともに各橋梁に集中したため小スパンの橋台・袖石垣の前面・背面・あるいは底面が洗掘されたもの13橋リョウにおよび,中には辛うじて基礎クイに支持されていた橋台もあり,また根入れの浅い袖石垣には倒壊したものがあった。(写真-4参照)
 (3)電柱の傾斜および倒壊
 強風および濁流の洗掘のために,電柱の傾斜および倒壊するものが多く,中でも長良川左岸~木曾川右岸間(2k0,45基)は全電柱が倒壊した。(写真-2および6参照)
 (4)車両の浸水
 各所で車両が浸水し,特に弥富駅に退避した9両は減水まで2ヵ月の長期にわたって海水に浸されたままとなった。(写真-5参照)
 (5)軌条の腐蝕
 長期浸水した弥富~日光川右岸間(4k5)の軌条は海水の浸蝕を受け,開通後4ヵ月になる今日でもなお痕跡が残って騒音を発している。(写真-8参照)
 (6)その他
 通信線,信号保安施設および駅舎・詰所・倉庫等各建物が潰滅的な打撃を受けた。
 3.復旧状況
 一般に河川の氾濫による堤内地の災害は,災害後早急に減水するので被害程度も早く確実につかめ,また復旧作業も比較的容易にできるので過去の例でも大構造物さえ被害を蒙らなければ数日内には一応,応急復旧できるものである。
 今回のように線路が水面1m下以上に沈み,その延長も13k5におよんでは材料運搬および施工方法の面で特殊な個所(たとえば橋台の補強)以外は或程度の減水を見なければ手がつけられないものである。
 被災当時,海岸堤防の決壊個所およびその規模についてはつまびらかに知るよしもなく,ましてその復旧の見透しに至っては皆目見当もつかない状況であった。
 かかる状勢のもとで,大阪・山田両線の被害が割に軽度であることがわかったので,名古屋線としてはまずこれら両線に連絡するため中川~桑名間の復旧に全力をあげることにし,中川方より順次復旧開通して10月1日全通した。一方水没区間により分断された名古屋~伏屋間もわずかな被害であったので,9月30日開通をした。
 この間,長良川左岸~伏屋間の被害調査を鋭意進めたが同時に中部日本災害対策本部の復旧計画が次第に明らかになってきた。
 それによると,伏屋~日光川左岸間(蟹江地区),長良川左岸~木曾川右岸間(長島地区)の締切排水が10月中旬,残りの木曾川左岸~日光川右岸間(弥富地区)が11月中旬になる予定であったので,当社の復旧計画もそれに合せて,先ず蟹江・長島両地区より復旧することにした。
 その方針として
 (1)減水後速やかに復旧し,桑名~長島,伏屋~蟹江間を単線開通し,残りの線を弥富地区復旧用の工事線として使用する。
 (2)各地区の復旧材料集積場を益生・烏森とする。また災害により分断された蟹江地区側には材料運搬用の電気機関車および貨車がなかったので,機関車は当社天王寺営業局より国鉄線経由で回送し,貨車は国鉄より無蓋車10両を借用し使用する。
 (3)電柱・通信線の応急復旧,構造物の補強,ステージングによる復旧作業は減水を待たず強行する。
 (4)切替えの済んでいない木曾川橋りよう下り線の切替をこの際行い,廃線になる旧線の線路資材,築堤土砂を復旧用に使用する。
 等を決定した。
 (a)道床・路盤の復旧
 (イ)被害程度の小さい場合
 道床・路盤の被害は山側の線がひどいので,先ず海側の線を復旧して工事列車を通し,補充土砂,砂利を運搬すると共に,流出土砂を掻き集めて山側の線を復旧した。水没区間では叺に砂利を詰めて線路を扛上して1線を復旧し,水深が軌条面上20cmになれば貨車を乗入れて資材を補給して他線を復旧した。(写真-9参照)
 (ロ)被害程度の大きな場合
 上下線共大きく洗掘されているので,ステージングあるいはサンドルで1線を開通し,他線は叺で土留した後,土砂・砂利を補給して復旧した。(写真-10参照)
 (b)洗掘された橋台の補強
 洗掘された橋台の補強は図-5の通りで,先づ橋桁をステージングで仮受けすると共に,橋台裏路盤肩に沿って土留工を施して前面と背面から玉石を投人して潜水夫により敷均し,さらに背面に切込砂利を投人して路盤を造成した。次に砂利詰叺を前面に積んで型枠代用とし,橋台下に水中コンクリートを填充した。(写真-11参照)
 これらの作業は相当の時日を要するので,他の復旧作業に先立って昼夜兼行で行い,早強セメントを使用した。トランス・ウインチ等のクイ打器械はすべて筏を組んで運搬した。
 かくして蟹江,長島両地区はおのおの10月15日および11月8日に復旧開通したが,弥富地区は海岸堤防の締切が予定よりも遅れ,線路が露出するのは11月末に延びる形勢となった。
 この間すでに復旧なった中川~桑名間は翌年2月末から行われる軌間拡巾の準備工事を着々と進めていた。
 たまたま欧米視察中であった社長が帰国するにおよび災害で半身不随になっているこの機会に軌間拡巾工事を繰り上げ施行することを決定し,会社の総力を復旧・拡巾両工事に傾注して,11月27日同時に両工事を完成し,大阪~名古屋間が2ヵ月ぶりに広軌線で開通した。
 なお,本災害の復旧に要した人員および主要資材は次の通りであった。
 作業人員 延 43,000人
 砂利     14,800立米
 栗石      900立米
 土砂     12,000立米
 叺      35,000袋
 セメント    1,600袋
 まくら木    5,100丁
 木材      1,600石
 4.むすび
 当社線は大阪府・奈良・三重・岐阜・愛知の四県に跨り沿線広大で,同等他線に較べて被災率が高いため,古くより災害の防止に深い関心を有し鋭意防災工事の施工に努力してきたのであるが,自然の猛威の前には完壁を期し難く,所期の成果をあげるには未だ道遠しの感を禁じ得ない。
 最近では防災対策の方法をさらに促進するため昭和32年度より水害対策計画工事を起し
 1.線路排水の強化
 2.線路築堤および切取ノリ面の強化
 3.橋リョウ下部構造の補強
 4.マイクロウェーブ回線の増設(非常時の通信連絡の確保)
 等の種目についての工事を5個年計画で実施中であったが,たまたま伊勢湾台風に遭遇して未曾有の被害を蒙るに至った。
 しかして本台風の教訓を生かし,さらにこの計画を再検討すると共に新たに
 1.避溢橋の設置
 2.線路の高上
 3.電線路支持物の強化
 等の種目を追加して,水害対策工事を計画中である。
 しかしながら,国により施工さるべき防災工事を強力に推進されざる限り根本的な防災は不可能であり,一企業の限りある資力をもってする自衛工事も年々繰返される水害の前には,しばしば無力を露呈している。
 したがって,この際国土保全の立場より
 (a).防潮堤の増強
 (d).河川改修および堤防の強化
 (c).砂防
 (d).低湿地の排水
 等の治山,治水工事を極力推進されることを特に強く要望してやまない。
 最後に,2個月の長期にわたって運転を休止し,乗客各位に非常な御迷惑をお掛けしたことを誌上をかりて御詑びする次第である。

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地図 図-1 近畿日本鉄道被害状況
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図-2 名古屋営業局管内土木関係被害状況
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写真 写真-1 増水危険水位を突破の揖斐川橋りょう
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写真 写真-2 伊勢朝日駅附近の軌道の被害(←溢流方向)
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写真 写真-3 一面泥海と化した長島駅附近
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写真 写真-4 洗堀された橋台(長島駅附近)
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写真 写真-5 水中に没した弥富駅
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写真 写真-6 電柱・信号機すべての倒壊の弥富-佐古木間
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写真 写真-7 線路上の流出家屋(伏屋駅附近)
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写真 写真-8 長期浸水で浸蝕の軌条
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図-3 名古屋営業局管内開通状況
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図-4 桑名~名古屋間復旧計画
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写真 写真-9 復旧材料取卸作業(弥富地区)
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写真 写真-10 ステージングI(蟹江地区)
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図-5 洗堀橋台の補強
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写真 写真-11 補強なった洗堀橋台(弥富地区)

山地崩壊 渡正亮(建設省土木研究所河川部砂防研究室研究員)

 1.緒言
 筆者は昭和34年12月に,伊勢湾台風による山地崩壊の状況を視察するため,紀の川,木津川,櫛田川水系を約1週間にわたって踏査して来た。この報告は,その際に見聞したこと,およびそれについての考察である。
 伊勢湾台風による山地の被害は,上記三水系だけではなく養老山系および三重県の雲出川,朝明川,熊野川等もこれにおとらぬほどであったといわれているが,日程の都合で見ることができなかった。したがって,この報告は前記三水系についての崩壊の特色だけを述べたものである。
 伊勢湾台風の前に台風7号が襲来して,山梨,長野に大きな災害をもたらした。伊勢湾台風が主として高潮による海岸の災害が大きかったのに比して,この台風7号は,山地の崩壊,河川のはん乱によるものが大きかった。筆者はこの災害直後,山梨県内を約1週間にわたって視察して来たので,この際の崩壊状況と伊勢湾台風による崩壊状況を比較して,少し論じてみたいと思う。
 2.降雨量と山地崩壊
 山地崩壊の素因,誘因としては地質,地形,林相,風山、地下水等,多くのものがあげられるが,大きな災害をもたらす様な崩壊,すなわち,1つの流城内で多くの崩壊が同時に発生する場合の誘因として第1にあげられるものが降雨量である。いかに,地質,地形,林相等が崩壊を起こしにくい状態にあったとしても,数百mmもの降雨があれば,崩壊は発生し得る。この台風による降雨量を図示してみると図-1のとおりで,雨量は大台ケ原山附近にその最大があり,898㎜を記録している。等雨量曲線は,大体,台風の進行方向に向って幾分延びた形になって,台風の中心よりやや右寄りでは大体400mm以上となっている。山地の崩壊は大体,この降雨量400㎜以上のところが最も大きい。しかし,これをさらに細かく見てゆくと,崩壊の最も激しいところは降雨量のピークである大台ケ原山系は勿論であるが,500mm内外の高見山,国見山附近もこれと同程度あるいはそれ以上の崩壊を発生している。この原因は,次の図-2を見れば明らかである。図-2は降雨ピーク時をはさんだ3時間雨量の等雨量線図である。これを見ると最大雨量の140mmは明らかに2つのブロックに分離しており,その1つは大台ケ原山で,もう1つは高見山附近である。すなわち,今回の台風による山地の崩壊と雨量との関係は,連続降雨量よりもむしろ,3時間雨量或いは時雨量において密接であることが明瞭である。この両地域の時間降雨量図は図-3に示すとおりである。この図中,入之波は吉野川上流の大台ケ原山北々西8kmの地点であり,迫は入之波より下流にあり,この2つは大台ケ原山の最大雨量のブロックの中にある。これに対して岩端は木津川流域で,高見山のブロックに属している。入之波,迫,岩端の最大時雨量はそれぞれ118mm,86mm,94㎜であった。さらに養老山系においても図-2で見るとおり,3時間雨量が100mm以上のブロックがあり,したがって,相当の崩壊の発生したことが推察される。
 3.吉野川(紀の川)水系
 この川は,本川は大台ケ原山に水源を持ち,北流して新子(上市町東方6km)で,高見山,国見山に水源を持ち,西流して来た高見川と合流して,流れを西に向けて和歌山に注いでいる。したがって,その流域の中に最大降雨の2つのブロックを包含しているため,山地の崩壊は非常に甚だしい。河口より上市町,新子,高見川を経て,高見山に至る線に東西に延びる中央構造線大断層があり,その北部は主として花コウ岩,南部に三波川変成岩,領家変成岩,中世層が整然と並んでおり,大きな断層は大体中央構造線と平行している。これらの大断層に沿って破砕帯が存在している。これに対して中央構造線にほぼ直角に交わる小断層が,無数に生じている。これらの断層,破砕帯の交点附近は,地質的に最も脆弱であり,また,地下水も元来非常に豊富なため,崩壊・地すべりを起こしやすいものと思われる。特に変成岩地帯は最も地スベリを発生しやすい。中央構造線より南の山地の崩壊状況を見ると,そのほとんどが地すべり性崩壊であって,崩壊深は5m以上におよぶ深いものが多く,中には基岩まで達しており,地スベリ粘土の見られるものもあり,崩壊地1か所あたりの生産土量は非常に大きく,これが河まで押し出した場合には,一時的に河をせき止め,天然ダムを形成したと思われる個所も随所に見られ,この欠潰のために,下流では思わぬ大災害をこうむっている。この状況は昭和28年の有田川災害とよく似通っている。これらの崩壊個所の中の相当数は,災害前にもすでにある程度の地すべり徴候を示していたのではないかと思われる。
 この地域は古来,吉野杉の産地として知られ,山地の大部分はこの美林によって被われているが,今回の崩壊と林相との関係は,むしろ,逆に地位の良好なところほど,崩壊している場合が多い。こ
れは,スギが非常に好湿性であり,破砕帯のように,地下水の非常に豊富で,常にある程度の水分を供給されている地盤ほど,その発育が良いためであろうと思われる。吉野川上流の地すべり性崩壊の中,特異な例として高原の地すべりがあげられる。この地域は吉野川の左支高原川中流左岸の台地上にある高原部落背後の山腹に発生したもので,基岩は頁岩,石灰岩から成り,その上に約4~5mの表土層をかぶっていた。
 頁岩の表面には粘度が発生しており,これが地すべり粘度として働らき,基岩上の土層が全部すべり出し,台地上で泥流となって部落の上を流過して,家屋10戸を埋没させ,50人以上の人命を奪っている。この場合の地すべり崩壊地の中央に破砕帯が通っている。地表には10~15年生の杉林があり,表土中に転石が比較的少なく,このため,泥流を生じたものと思われる。泥流は台地上を約250m流れて,厚さ2mに堆積している。この地すべりは前述のような,深層からの地下水の影響は少なく,強烈な降雨の滲透が主原因であろうと推測される。
 4.木津川水系
 中央構造線の北側の花こう岩地帯に,その流域を持っているこの地域の崩壊は高見山ブロックの降雨によるものである。木津川は三重県の名張市におい掌状に分岐して,東から,比奈知川,青蓮寺川,宇陀川に分れている。これらの川の下流部はやはり吉野杉の名産地の1つで,吉野川流域と同程度の美林が多く見られる。崩壊の形式は,その大部分が表土層の滑落又ははく落で,崩壊深は浅く,2~5m程度であるが,崩壊地の数は,吉野川流域に比べてはるかに多い。崩壊による土砂の生産量は比較的少ないが,下流部における流出土砂の量は非常に多く,このため,溪流沿岸の家屋で,流出土砂により埋没したものが多く見られた。これは現在まで河床に不安定に堆積していた土砂が流出したもので,7号台風による山梨県釜無川右支川大武川等の流出状況と酷似している。このような状況は吉野川水系高見川筋にも多く見られ,花こう岩地帯の一つの特性をよく現わしている。花こう岩地帯は中小降雨によっても,地盤は崩壊を起しやすく,このため,水源附近では溪床の土砂滞積量が非常に多い。これに反して,山腹では比較的崩壊しやすい層がすでに崩壊しつくして,風化土層が薄く,今回のような豪雨によっても崩壊深は比較的浅く,崩壊量は少ない。したがって,このような地域の防災対策には,山腹崩壊のほかに,溪床滞積量を正確に推定して,堆積土砂の移動を阻止するような工法を考える必要があろう。また林相から見ると,スギの壮令林での崩壊は非常に少なく,20年生以下の幼令造林地の崩壊が目立って多い。したがって,造林に際しては幼令林地の保全のために適当な広葉樹との混植を考える必要があるのではないだろうか。
 5.櫛田川
 高見山に水源を持ち,中央構造線に沿って東流して松阪市南方に注いでいる。地質的な弱点を流れていること,高見山ブロックの豪雨のため,土石流を発生している場合が多い。高見山には以前から大規模な崩壊地があり,これが今回の豪雨によって拡大している。本川の左支川は花コウ岩,花コウ片麻岩地帯から流れ出しているため木津川水系,高見川水系に見られるものと同様な土石流を発生している。この流域には比較的砂防工事が進んでおり,えん堤による土砂の調節作用が効果を発揮している所が多く見られる。右支川は三波川系変成岩地帯から流れて来ているため,大規模な地スベリ性崩壊を発生しているように見受けられた。また,現在地すべり運動を発生している地区も見られ早急に対策を考える必要があると思われる。
 6.結び
 伊勢湾台風による山地崩壊の特徴を要約すれば,下記のとおりになる。
 (1)3時間連続雨量100mm以上,時雨量60mm以上のところに主として崩壊が生じている。
 (2)変成岩地帯では,大規模な地すべり性崩壊が多く,崩壊による生産量が多い。
 (3)花こう岩地帯では,幼令造林地において小規模な表土はく落が多数見られるが,生産量は少ない。しかし,河床堆積物が一時に流下するため,±石流を生じやすい。
 (4)対策としては
 ①変成岩地帯では特に地すべり対策に重点を置き,その滑落を防止すべきである。このためには河床を上げて,地すべりの根を押え,必要に応じて排水工を行なうべきである。
 ②花こう岩地帯では,大規模な防災えん堤を必要とするとともに河床の滞積物の安定をはかるため,床固め工等を十分に行なう必要がある。また,現在の土石円錐については,この安定と,下流への災害の防止を目的としたえん堤工が必要である。
 以上,筆者の見たまま,また考えついたまま述べて来たのであるが,もちろん,さらに詳しい調査によって,さらに細かい崩壊の機構を調査して,根本的対策を考える必要がある。また,今回の被災地のみならず,全国いたる所にこれと同程度の災害を発生する可能性のある場所があり,これらについての防災対策を今後大いに考慮する必要があろう。

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地図 図-1 台風7号総雨量図
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地図 図-2 3時間雨量分布図
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図-3 時間雨量図

送電 -送電鉄塔の基礎の被害- 神谷貞吉(電力中央研究所 技術研究所土木部長)

 まえがき
 伊勢湾台風の一週間後,筆者は名古屋地方に出張し主として電力施設の災害を調査した。災害は水力および火力発電所,変電所,送配電線路などあらゆる施設におよんでいたが,筆者の特に注意をひいたのは木曾川下流の川越鉄塔の倒壊の惨状であった。その概要はすでに発電水力No.43に紹介したが,今回土質工学会で講演する機会を得たので,改めて中部電力株式会社からさらに数点の資料を入手し,主としてその鉄塔の基礎に関する災害をまとめることとした。この調査については始めから一貫して同会社工務部の格別の協力を得てきたので先ず謝意を表さねばならない。
 1.送電鉄塔の被害記録統計
 伊勢湾台風の中心は大垣西方を北北東に進み,その右側に最も強い風が記録されている。たとえば名古屋東辺の鳴海地区を通る名火大高送電線の♯17鉄塔の先端地上26mに設けられた電気式風向風速計は瞬間風速65m/sを記録している。送電鉄塔の被害はこの附近を中心として広く岡崎,四日市の間にそのほとんどが分布している(図-1)。名古屋地方気象台の概報を参照するとこの分布地域は10分間平均最大風速35m/sの等値線の中に含まれており,前記の鳴海附近は40m/sの線が通っていることを知る。その被害鉄塔の総数は149基であるが,被害の状況にはいろいろあって基礎に関係したものがかなりの割合をしめしていることがわかる(表-1)。
 2.被害の状況
 表-1の鉄塔の被害状態をみると基礎とともに倒壊もしくは傾斜した鉄塔は117基,全被害鉄塔数の約80%にあたる。鉄塔にとって基礎がいかに大切であるかということをこの事実が如実に証明しているといわざるをえない。したがって倒壊の原因にただちにふれるべきであるかもしれないが,そのまえにまず2,3の鉄塔の被害の実例を少しくわしくとりあげておきたい。
 (1)基礎とともに倒壊した例
 基礎とともに倒壊した鉄塔の基数は30kVに最も多く,被害総数に対する割合では20kVも同じく高率である。設備数からみても30kV鉄塔が特に被害率が高いように思われるが,これは30kV鉄塔と70kV鉄塔の中間あたりに設計,施工の段階があって,今回の台風が恰度その虚をついたということであろうか。写真-1は基礎が引抜けて上部構造が倒れた典形的な例であって同類が極めて多く見られる。写真でわかるように4本の脚のうち2個は完全に引抜け,他の2本は抜けてはいないが主柱が折れまがったためコンクリートの上端がこわされている。右端の基礎の周囲は幾分沈下しているようにみえる。また抜けた脚部のコンクリートをみるに上端から下部までその出来ばえが層をなして変っており,粗骨材が露出してペーストが逃げてしまっている。それでもこの基礎コンクリートは引抜けたなかではまだよい方である。この鉄塔は岡崎市の西方の水田中にあって,この附近は鉄塔の被害最多の地区で,分布から気のつくことは被害が部分的に集中していることで,おそらく一部が倒壊すると前後の釣合いが破れてつぎつぎと連鎖的に倒れるためであろう(図-2)。なお,このうち♯6から♯66にいたる一群の鉄塔だけがそろって基礎がぬけているのは基礎の土質の故かもしれない。また矢作川の石岸の川越鉄塔がみな被害をうけているのは何か共通の理由があるに違いない。なお,この地区の鉄塔は塔高19m~30m,経間は150m~200m,重量は1.5t~3.0t程度であり,送電線は30kVである。また図-1に示した通り10分間平均最大風速30m/sの等値線がこの附近を通っている。
 (2)基礎と共に傾斜している例
 前項にあげた倒壊状況は基礎の上引耐力が極めて弱い場合でコンクリート脚部は完全に抜けているが,それより幾分抵抗力はあってもまだ不十分なところでは脚部が半ばぬけかけて,鉄塔が傾いたままとまっている形となる(写真-2)。さきの被害状況内訳をみると30kV送電鉄塔では基礎とともに倒壊している数が多いが,70kVでは基礎とともに傾斜している場合の方が多い。このことは70kV送電線では架渉線重量,径間,したがって塔高など30kVに比して大型になるが,基礎はそれ以上に強力な設計となっているためかもしれない。
 (3)地表より構材が倒壊あるいは傾斜している場合
 伊勢湾台風による鉄塔の被害のなかで最も注目をひいたのは濃飛幹線のそれである。濃飛幹線が木曾,長良,揖斐の3河川を横断する箇所で3基の川越鉄塔が倒壊した。これらの鉄塔はいずれも,送電電圧140kv,径間850m,塔間,93m,増重量66t程度で送電用の鉄塔としては最大の規模に属するものである。地点は水田または河川敷で,土質は上部細砂混り粘土,その下は細砂および砂層と記録されている。基礎は深さ12m,径3mのウエルを用い,一般の鉄塔とは全く別の設計,施工によっている(図-3)。長良川と揖斐川の間はこれにそうて最も強い風が吹いた地帯とされており,高さ90m余の鉄塔はそのなかの構造物としては最大の風圧をうけたことは間違いない。それにもかかわらず鉄塔の基礎は微動の形跡すらなく,これに対して上部構造は結構の原形がわからないほどむざんな倒れ方をしている。写真-3,4はその主柱の根本の状況を示したものである。主柱材はアングル材200×200×15を2箇組合せたもので,倒れた向きに対して外側の2本は写真-3のごとく曲っており,内側のものは写真-4のごとく破断して折れてしまったものである。この2写真にみられるアルグル材のこわれ方は送電用鉄塔が倒壊したときの代表的な形であるが,もともとアングルの柱が対象的に4脚配置されているのであるから横荷重に対する応力の分布は4者4様であり,したがって破断状況が全くことなったものとなることは止むを得ない。その上基礎の反力が上引と圧縮のごとく少くとも2様に働くのであるからその組合せは複雑である。これが研究は重要にして興味深いものと思うが,部材型鋼についても新工夫の望まれる所以である。
 (4)鉄塔が途中で破壊している場合
 被割状況内訳をみるにこれに類するものは非常に少なく,わずかに30kVに例をみる程度である。基礎というよりはむしろ鉄塔上部構造の問題であるので,ここでは写真によって例をしめすにとどめる(写真-5)。
 3.鉄塔における基礎の扱い方
 さてこれまでは鉄塔の被害の実例を紹介してきたが,かかる場合に倒壊に対して基礎が要素としいかなる役割を果しているのであろうか。筆者は実は送電用鉄塔の仕事に関係してから未だ日が浅く伊勢湾台風調査の際始めてその被害状況に接した程である。したがって研究的な内容を報告できないのを申訳ないと思ふが,一方土質工学会でも之までの講演会,土と基礎のなかに鉄塔に関した記事はなかった様に思う。そこで送電用鉄塔の設計において慣用されている基礎の扱い方を説明してみたい。
 送電用鉄塔の設計は電気学会の送電用鉄塔設計標準JEC-127によっている。その2.7基礎の条項をみると
 2.7.5 基礎の耐力基礎は,上引耐力・圧縮耐力,および横圧耐力のおのおのにおいて,その安定度が2以上になるよう十分な耐力を有することが必要である。
 2.7.6 上引耐力,基礎の上引耐力は,基礎の重量,基礎底面積の土壌の重量ならびにこの土壌と周囲土壌との間に生じる抵抗力によって算定するものとする。
 2.7.7 圧縮耐力 基礎の圧縮耐力は基礎の底面に働く土壌の支持力によるものとする。
 2.7.8 横圧耐力 基礎の横圧耐力,は基礎に加わる水平力に対し,基礎の側面に働く土壤の支持力によるものとする。
 そこで鉄塔基礎構造に作用する力を調べてみると,規模にもよるので一概にはいえないが2,3の例をひろってみると上引力は耐圧力よりはいくらか低いが,それでもかなりの数値に達している。殊にさきの条項にもある様にこの耐力は埋戻しの土に頼っているのであるから,耐圧力よりは土質上の条件も不利であり,それだけに非常に重要な要素とせざるを得ない。上引耐力の考え方はまえの条項に紹介したが,その算出方法は同規格の解説によって知ることができる。即ち図-4のごとく基礎底面上の土柱および基礎コンクリートの重量の総和をその周辺の抵抗力の総和をもって上引耐力とする主旨であるが,実際には底面上の倒立角錐の重量をもってそのまま上引耐力とし,土角柱周辺の抵抗力は角錐を用いることによって増した重量によっておきかえる方法が慣用されている。その場合土質も4種類程度に分類され(表-3),現地調査の上土質はすべてこのうちいずれかに認定され,基礎の設計施工上の数値は表によって直ちにわかるように作られている。これは送電用鉄塔のごとく長距離にわたって,短い工期で建設される特殊性にかなうよう工夫された所産であるといえよう。
 しかし最近は土質調査が普及してきたので,鉄塔の基礎設計にあたっても,粘着力,摩擦力などの土質常数を一々測定して諸力を算出する気運にむかっている模様である。
 ところが前にもどって台風によって倒壊した鉄塔の基礎をみると,この設計標準とだいぶちがうようである。床板はみられないし,コンクリートの出来も上から下まで均一とは思われない。床板が設計通り打設されていないとか,あるいは強度不十分でとれてしまったのかいずれかであろうが,この状態では上引耐力を概算すると基準設計の1/2~1/3になってしまう。しかしこれでも長年耐えてきたのは次のごとき理由によるのであろう。
 (1)設計標準では,基礎根入は堅固な岩盤の場合は別として1.8m以上としており,さらに諸耐力の安定度(安全率と同義)を2以上としていること。
 (2)風圧は鉄塔に対して290kg/m^2,架捗線に対して100kg/m^2をとっているが,これは平均最大風速40m/s程度を基準とした風圧である。高い鉄塔,長い径間では風圧が全体にわたって同時に一様に作用するとは考えられない。したがってこれよりある程度高い風速時にも耐えていると考えられる。
 (3)上引耐力がたとえ若干不十分でも,耐圧力がかなり十分であれば,鉄塔主柱が座屈するまでは耐える筈ではなかろうか。
 4.むすび
 送電線は非常に長い距離にわたるものであり,したがって,その鉄塔は同じく鋼構造とはいっても橋リョウなどとは異り,多量生産方式をとらざるをえないし,又基礎施工やエレクションも長い距離にわたって一挙に工程を進める必要がある。ところが最近は電力供給が広域運営の方向を目ざしており,そのため,400kV超高圧送電とか,瀬戸内海横断送電線等画期的なものが生れようとしており,これらに使用される鉄塔は今までになく大規模となるものと予想される。たとえば後者のごときは島づたいに長径間となるため高さ200mの鉄塔さえ必要といわれている。鉄塔の鋼構造はもとより,基礎についてもいちいち詳細な調査設計がおこなわれることが技術上でも又経済的にも望まれるときがきたように思われる。
(以上)

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表-1 被害鉄塔内訳
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写真 写真-1 基礎と共に倒壊した例
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地図 図-1 倒壊鉄塔の分布
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地図 図-2 岡崎市附近倒壊鉄塔位置
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写真 写真-2 基礎と共に傾斜している例
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図-5
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写真 写真-3
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写真 写真-4
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写真 写真-8
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表-2
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表-3 土壊の性質
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図-4