1.はじめに
海底の鉛直変位によって発生する津波の発生、伝播に関する数値実験が始められたのは、今から約15年前、そしてまた、海底変位場を地震断層モデルによって近似するようになってからは約10年を経過した。その間1976年頃、駿河湾を中心とする東海地震発生の可能性が指摘され、大規模地震対策特別措置法の施行などもあって、東海地震津波の災害予測の立場に立った数値実験が多数行なわれた。東海地方沿岸のほとんどの地域が、何らかの形で数値実験の対象になって津波の挙動が調査された。現在はこれらの結果をとりまとめ、さらに信頼度の高い津波挙動の予測ができるようにするために、総合的な検討を行なう良い時期にきていると言えよう。このような観点から、ここでは東海地震に関連した多くの津波数値実験の結果を紹介し、東海地震津波の挙動を明らかにしたい。また短期間に多くの調査、研究が行なわれたための拙速のうらみがあったとするならば、今後如何なる点が改善されるべきかなどの資料ともなることを期待したい。
2.津波の数値実験
個々の数値実験の結果について述べる前に、ここで簡単に津波の数値実験の基本的なことを述べる。よく知られているように、波源の水平スケールは海の深さに比べて十分大きいので、発生する津波は浅海波として近似できる。そこで基本方程式としては、
【式】:(1)・(2)・(3)
のようなものが用いられる。ここにqx、qyは水平x、y方向の流量、ζは水位上昇、ξは海底の鉛直変位であり、静水面からの水深をhとすると、D=h−ζ+ξ、またfは海底の摩擦係数、gは重力加速度である。またQ^2=qx^2+qy^2である。
これを数値化するために、差分法と有限要素法が用いられる。しかしいずれにしても、対象とする津波スペクトルの最も周期の短い成分に対しても、1波長内に数個以上の格子を持つ必要があるので、格子点の数は非常に多くなる。ことに浅海域になるにつれ波長が短くなるので、それに応じた細かい格子が必要になり格子間隔を変えることが容易な有限要素法に利点がある。しかし計算時間は差分法、特にleap−frog法が極めて有利である。
海岸は汀線が固定した直立壁で、波が完全反射する条件を用いる場合と、汀線が水位の昇降に伴って移動できるようにし陸上遡上も条件に入れる場合とが行なわれている。もちろん後者はプログラムも複雑になり計算時間も長くなるので、数値実験の目的によって使い分ける必要がある。
津波入力は、現在ではほとんどが断層モデルで鉛直変位ξ0を計算し、要する時間τ(断層破壊の立上り時間の数倍)を仮定し、(3)式の∂ξ/∂t≒ξ0/τとして与えることが多い。またτが瞬間であると考え、ξ0を初期水位として与えることもある。ただ小区域で、構造物等に津波防波堤などの効果を検討するなどの場合、波源域などを含む広域でなく、対象領域の外縁に適当な入射津波を与えて数値実験を行なう場合もある。この際、領域外縁では津波入射波と海岸からの反射波が重畳することに注意して、境界条件を与える必要がある。
さて、以上のような条件で数値実験を行なう場合、意図的に多くの異なった入力条件を設定して、津波挙動の変化を見るいわば実験的な用い方もあるが、また 実際に起ったある津波現象を数値的に表現することを目的とする、シミュレーション的な用い方とがある。本文でこれから記述しようとするものは、後者の目的の数値実験の結果であって、原型としての津波像があり、それに可能な限り近似する数値モデルが求められる。その上で、実際の津波像で資料不十分であった細部の挙動を考えようというものである。
3.津波波源モデル
1854年安政東海地震後、再びその震源域付近に蓄えられてきた歪エネルギーのうち、南西の半分の領域は1944年東南海地震において開放されたが、北東の半分の領域(駿河湾およびその南方)ではすでに130年にわたって歪が蓄積され続けている。したがって、この部分に地震が発生する可能性が高いというのが今問題とされている東海地震である。そこでまず安政東海地震の震源機構を明確にすることが、予想される東海地震の震源モデルを推定するために必要なことである。これについては石橋(1976)が、東海地方沿岸の地殻変動やフィリピン海プレートの沈み込み推定面などから、図1に示す断層モデルを提案した。断層面は駿河湾とその南方海域を含む北東側断層と、遠州灘から熊野灘にかけての南西側断層の2部分に分けられ、それらのパラメータは表1に示すようである。
これによる海底の鉛直変位の分布が図1に等高線で示されている。実線は隆起であって、駿河トラフ沿いに1.5~2m以上の隆起域があり、清水や御前崎では1.5m程度隆起する。また浜名湖から伊勢湾を経て尾鷲付近までの陸上は沈降域になっている。
一方、羽鳥(1976,1977)は、古記録に記載された当時の津波の様子から沿岸各地の津波の高さを推定している。そこで津波の数値実験によって石橋の提示した断層モデルが、沿岸の津波の高さの推定値を説明できるか検討が行なわれた。
まず、相田(1981)は差分leap−frog法により、海岸は固定境界で数値実験を行ない、図2のような結果を得た。図の上段で短い横棒で示したものは前述の実際津波の推定高さであり、複数個の推定値があるものは縦棒でその幅を示した。数値実験から得られた津波の高さは二重丸(A)と小さい丸(B)で示した。ここにAは浅海域で細かい計算格子(最小312.5m)を用いて海岸での値を計算してあるもの、Bは東南海地震に対する200m等深線上の数値実験波形の始めの波の全振幅H0と、海岸での実際の津波の高さとから増幅率を求め、 この安政東海津波の数値実験波形のH0にこの増幅率を乗じて海岸での計算津波の高さとしたものである。Aの値もBの値も、実際津波の推定高さにかなりよく近似していることが図から明らかであり実際の値と数値実験値との比obs/calを求めてみると中段に示すようになる。ほとんどが0.8~1.2の範囲におさまっていることがわかる。
ここで実際の津波に対するモデルの近似度を表わす指標を定義する。地点iにおける実際津波の推定高さをxi、数値実験による津波の高さをyiとする。その比Ki=xi/yiを全地点ηについて幾何平均をとりKとする。すなわち、
【式】:(4)
これは全体の平均として、実際の津波の大きさがモデルのK倍であることを示している。次にKiのばらつきをみるために対数標準偏差をとる。
【式】:(5)
κは各地点の平均からのばらつきの程度を示すが、従来の数値実験では1.2~1.4程度と考えられる(相田1980)。図2の場合、Aの値のみをとるとK=0.99、κ=1.16となり、A、 B全体で求めてみるとK=0.92、κ=1.20となっている。これはかなり良い結果で、石橋(1976)のモデルが安政東海地震による津波をよく説明していることを表わしている。
他の例を見ると、第五港湾建設局(1980)で下田港に関する数値実験の過程において、モデルの検証のため石橋モデルによる広域の数値実験を行なっている。計算領域は図2の場合とほぼ同じで、差分leap−frog法である。この場合は海岸まで細かい格子をとることを基本としているが、そのために最も細かい格子でも625mにとどまっていて、場所によっては1250mのところもある。この場合もKiは大多数が0.8~1.2の範囲におさまっている。
さらにIida et al.(1983)は、有限要素法で石橋モデルによる広域計算を行なっている。要素の大きさは外海で10kmであり、海岸の625mまで順次に細かくとっていて、要素数は69000にのぼっている。この場合も、羽鳥(1976,1978)などによる推定値と、数値実験値との比較を行なった。ただし、ここでは、この実験の前に東南海津波の数値実験(石橋による東南海地震の断層モデルを用いた)で、実際の津波の高さと計算による高さとの比を求めてあり、この比を安政東海津波の計算値に乗じたものを数値実験による高さとしている。これは要素の大きさが海岸で625mであるため、真の海岸の値とはならないための補正である。このようにして求めた1/Kiの値が0・5~1・0の間に分布していて、計算値がやや低めに出ているようである。
後の2例においては原論文中ではK,κを求めていないが、表および図から値を読み取り、K,κを計算して以上3例の結果を一括して表2に示した。方法によっても多少違いがあるが、この段階では石橋モデルは安政東海津波をかなりよく近似していると考えられ、現在までに行なわれている数値実験ではほとんどが石橋モデルを採用している。

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4.安政東海津波と東海津波
1854年安政東海津波は、前述の石橋モデルでかなりよく近似できることになった。したがって予想される東海地震津波は、石橋(1976)の意見のように第一近似として図1の北東側の断層のみを震源断層と考えればよいであろう。そこで北東側断層のみを波源とする数値実験を前述の場合と同じように行なった結果が図3である(相田1981)。ここで二重丸や小さい丸は前の場合と同じくそれぞれA,Bの方式で海岸の津波の高さを求めたものであり、実際津波の高さとしては安政東海津波の値を示してある。中段にはそれらの比obs/calがプロットしてあるが、明らかなことは駿河湾周辺では0.8~1.4程度で、安政東海津波と同等の津波と思ってよいことがわかる。しかし遠州灘沿岸では0.6~0.7、熊野灘沿岸では、0.3~0.5程度に小さくなっている。
このように、地域によっては東海津波は安政東海津波より低くなるけれども、津波の波高の高い地域は安政東海津波と変わらぬ高さになるので、防災対策などの想定高さとしては安政東海津波の高さを用い、また数値実験のモデルとしても安政東海地震の断層モデルで行なわれることが多い。

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5.安政以前の津波
地震は同一地域では、ほぼ同様な機溝で繰り返し発生すると考えられており、南海トラフ沿いは特にその特徴的なところである。しかし史料を見ると、津波の挙動や震度の様子が個々の地震でいくらか異なっている場合もあるようにみえる。1707年宝永津波の史料は比較的多数あるが、少なくとも東海地方に関しては、津波の高さなどが安政地震とかなりよく似ているようである(羽鳥1977)。1605年慶長津波や1498年明応津波は史料が非常に少ないが、安政津波とやや異なった津波の高さ分布をしているようで、相田(1981)は、羽鳥(1975)や飯田(1979)が史料から推定した津波の高さに近似する波源断層モデルを求めている。
しかし史料が少ないため、1つ1つの史料の信愚性の吟味によっては、津波の高さの推定も変わる可能性がある。石橋(1980)は、鎌倉の津波史料や駿河湾沿岸の地震動の史料の検討などから、明応地震も安政東海地震と同じような駿河トラフ、南海トラフ系の地震である可能性を指摘した。
また、地震予知総合研究振興会(1982)による明応地震関係の古記録の見直し、地震・津波の再検討も行なわれた。史料面から見直された主な点は次のようである。まず、安房小湊・誕生寺は当時妙の浦の浜辺の粗末な建物であり、3m経度の津波でも破壊されることは十分あり得る。鎌倉は下馬四つ辻(千度壇)まで津波が達したが、その付近は洪水などで容易に浸水する低地であり、津波の高さ8~10mの推定は大きすぎる。また仁科に関しては、約10mの高さの浜の安城は安全であったと考えられ、寺川以下の低地にある田圃に浸水したと考えられる。伊勢大湊では宮川上流の山崩れによる洪水と重なった複合被害であった可能性もある、などである。
以上のような観点から見直された津波の高さを、相田(1981)がさきに採用した各地の津波の高さと比較して表3に示した。また図4に示したAは、相田(1981)がさきに推定した断層モデルであるが、見直された津波の高さを満足するためには、Bの断層でよいことが数値実験で明らかにされた。Aモデルは、新島、式根島に残された隆起の痕跡が明応地震の際のものであるとする考え方もあって想定したものであったが、太田・他(1983)によって隆起年代はさらに古いことが明らかにされたので、この面からもAのように断層が東方に伸びている必要性はなくなった。
Aモデルは地震モーメントが7×10^28dyn・㎝であったが、Bモデルでは3.6×10^28dyn・㎝でMw=8.3となる。もしこのBモデルが明応地震を表現しているとすれば、それは東海地震などとほぼ同じような駿河トラフ、南海トラフ系の地震と考えられる。
古地震は史料が少ないため、史料1つ1つの比重が高いだけに史料の誤りが非常に歪んだ地震像を現すことになるので注意が必要である。
6.地域の津波挙動(津波遡上数値実験)
波源域から広域にわたる津波の挙動に関する数値実験について述べてきたが、以下では局地的に詳細な地形を用い、陸上への遡上を含めた数値実験の結果を紹介する。方法は差分leap−frog法で、波源のある外海は5~10kmの格子を用いるが、海岸から陸上へかけては100m以下の細かい格子が用いられている。
1)新居・舞阪・浜松地区
静岡県西部遠州灘沿岸市町防災研究協議会(1983)は、この地区の津波挙動の調査を行なった。まず安政東海津波の石橋モデルを用いて、安政当時の地形での数値実験によって実験の精度の検証が行なわれた。新居町での安政東海津波の高さは関所跡付近で2.5m、新福寺門前で3.Om程度と推定されている。これに対して数値実験値は、ともに2.5mとなっている。舞阪町でも一里塚跡で2.5m、角屋で5.6mの推定に対し、3.2m、2.9mという値が計算された。角屋の値は、他の場所と特に異なっているので局所的なものと考えると、ほぼこの数値実験は実際を近似できていることがわかる。この安政当時の地形の数値実験で、今切の入口付近では3.Om、新居の浸水先端で2.5m程度である。
そこで現在の地形において、安政東海石橋モデルを用いた数値実験を行なって、浸水高の分布を見たものが図5(上)である。今切外側で3.5m位であるが、内側では急速に降下し、新居町での浸水域内では2.0~2.5mである。浸水範囲は安政当時と大差はない。
この地形に対して、石橋モデル北東側断層のみ、すなわち東海地震モデルで数値実験をしてみると、図5(下)に等高線で示す浸水の分布が得られる。すなわち今切の外側でも2.2m程度、新居の町の中でも埋立地との間の水路沿いに僅かに浸水するのみで、浸水面積は著しく減少しており、高さも1.7~2.3m程度に止まっている。これは前述の図3に示した遠州灘沿岸では、東海地震津波の高さが安政東海津波の高さの0.6~0.7になったことと調和している。
舞阪でも同様のことが言え、安政東海津波波源では海岸の砂丘、安政津波の時にも浸水しなかった天白社櫻月院のある高台、東海道線沿いなどは浸水せず残り、全体としてT.P.上2.0~2.5mの浸水高さになることが計算されている。一方、東海地震波源では浸水は今切付近と漁港付近他の海岸のごく一部に止まる。
また浜松市馬込川沿いでの浸水の状況は、安政当時のことはほとんどわかっていない。しかし安政東海津波波源での数値実験によって、芳川との合流点付近、殊に芳川東方低地への浸水状況が明らかにされた。この地上の浸水高は50cmあるいはそれ以下である。この付近は河川堤防が工事中でもあり、その完成によって状況は変わるであろう。
2)御前崎地区
静岡県(1981)によって御前崎地区の遡上を含む数値実験が行なわれている。御前崎は居住地区の多くは海岸段丘の上にあり、海岸の低い所は近年開発された港湾施設や観光施設が多い。港湾埋立地などの無かった安政当時の地形で、安政東海波源を用いた数値実験の結果を最高水位の等高線で示したものが、図6(上)である。図中の格子は計算格子で80mおよび40mとなっており、格子内に細かい数字が記入してあるのは水のあるところで、白抜きの格子は浸水しない部分である。
海岸で津波は。T.P.0.5mとした当時の水位を基準として5mまで遡上しているが、浸水面積はごく僅かである。この検証実験で御前崎付近の推定津波の高さと比較すると、数値実験で得られた高さの平均1.2倍であるという。したがって、この地区の津波からすると石橋モデルによる変動量はやや小さいと言える。
御前崎地区では、現在図6(下)の太線で示すように埋立地が造成され、港の防波堤、護岸が築造されている。この現在の地形で、石橋モデルによる安政東海津波波源の数値実験を行なうと、図の等高線で示したような最高水位の分布が得られた。海岸はT.P.2.38mになっているが、その上に浸水して約3.Om程度の高さになっている。港の入口の水位はそれより低く2m程度であるが、岸に近い程高くなる。ただし、これは検証実験の結果を考慮すると2割程度上積みして考える必要があろう。この数値実験は、安政以来の地形の変化によって津波の挙動が変る例である。すなわち、旧地形では海岸の汀線付近で急激に津波の高さが高くなっているが、現地形では港の防波堤や埋立地などがあり、海岸へ近づいてからの水位の高まりがそれ程著しくないことがわかる。
この地区での問題点は、他の駿河湾西岸の場所と同じく地震時に隆起した海岸であるので、それをどのように扱うかの問題である。現在の地形で再び地震が起これば海岸は隆起するであろうから、同じ高さの津波がきても過去の浸水地点までは上らないはずである。ただ御前崎先端は現在沈降しつつあり、安政当時からの沈降量を見積もる必要もあろう。ここで述べた数値実験をはじめ、今までの数値実験においては計算の上に、地震間および地震時の地殻変動に対する考慮が不十分であったように思われる。
3)田子ノ浦地区
静岡県(1980)による田子ノ浦港の遡上数値実験による調査の結果を述べる。図7(上)は安政時地形における安政東海モデルによる浸水高分布を等高線(m)で示した。細かい数字は各格子点の水位(cm)で、これが示されている点は水があることを示している。陸上への遡上は海岸に沿った部分と川を逆上った沼川の西岸の低地である。当時は沼川の河口が吉原湊と言われていたが、現在は旧河道と低地を利用して掘込港湾が作られている。現在地形で同じ安政東海モデルを用いた実験の結果は図7(下)である。港外の値は2.6~3mで変化はなく、内部は旧地形の方が川の入口が狭いため、抵抗によって津波の高さが低くなっている。現地形では内部に津波の高さが高い部分を生じている。しかし中央部では2.Omと低くなり、それが港奥で再び高くなる。旧地形では地上に溢れることによって浸水高はかえって低くなったが、現地形では津波は陸上へ溢れないため港奥で狭くなって、高さはかえって高くなったものと思われる。
4)沼津地区
駿河湾奥・沼津についても、静岡県(1982)によって数値実験調査が行なわれている。図8では、湾奥部で格子間隔が240mの部分を表わしており、安政東海地震の石橋モデルによる検証計算である。白抜きのAREA5は更に格子を細かくした部分で図9に示す。この図の中で湾の最も奥は内浦湾・重須で、計算水位は6.0mになっている。この値は羽鳥(1977)などの調査の結果とかなり良く一致している。またこの図の範囲9ヵ所の実際の津波の高さと、数値実験値の比の平均をとってみると1.07となっている。この図では湾奥に向かうにつれて津波の高さの増大が顕著に現れていて、内浦湾南岸沿いで西方の久料・古宇などの集落で津波が低かった(都司,本特集号)ことと調和している。このように、この検証実験の結果はモデルが良い近似を与えていることを立証した。
図8にAREA5と示した部分の安政東海モデルに対する安政当時および現在の地形の浸水状況を、図9に示す。a)はAREA5で格子間隔80m、b)はそのまた中央部のAREA6で格子間隔40mである。それぞれ上側が安政当時の地形であるが、図の中央に流れる狩野川の河口から流域にわたって広く浸水していて、水位の高さはT.P.0.5mを基準にして海岸で3m、陸上で1.6~2mになっている。図の下段は現在の沼津港で、港には防波堤、防潮堤(図に二重線で示す)があり、狩野川には河川堤防が完成しているので浸水は非常に少なくなっているが、港奥物揚場から市街地への浸水が認められる。この水位は約2.5mで海岸の津波の高さは安政当時の計算と変わらないが、港内のこの値はむしろやや高い。堤防などで浸水を防いだ場合、その前面の津波の高くなることが、ここでも現れている。
また港の入口などではかなり速い流れが見られ、大きな渦を巻くことも多い。図10に現在の沼津港の地形(AREA6に相当する範囲)で、安政東海モデルの場合の地震後5分および10分の時点の流速ベクトルを示してある。すなわち5分後では、港奥では水の動きも少なく陸上へも浸水していないが、港口の流速は既に最大4m位に達している。津波が水位の上昇より前に流れとして気付かれることがわかる。10分後、陸上への浸水は最高になっているが、港口ではすでに逆に外向きの流れとなっている。このような港内や沿岸の流れは船舶、海洋構造物、水産漁業関係施設などの被害に関わりがある。津波挙動をみる上で重要な要素である。

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7.数値実験結果と防災対策
数値実験によって、東海地震津波の挙動を見てきたが、これらの結果は種々な防災対策資料となる。津波の最高水位や流速の分布は、最も基本的な資料であることは言うまでもない。防波堤の位置や高さによる対津波効果の判定や、防潮護岸、防潮堤の天端高の決定などにそのまま用いられる。船舶や海上の施設に対する資料としては、図10に示したような流速ベクトルの分布が有効であろう。しかし陸上の浸水による被害は流速のみでなく、地上の浸水の高さも重要である。この両者を含めて流速の2乗値と地表からの浸水高の積をとると、流れの圧力に比例する量となる。これは例えば1946年南海地震の際の高知県宇佐における各地区別の家屋の破壊率(破壊率D=(a+b/2)/(a+b+c)×100%,a:流失および全壊,b:半壊,c:床上床下浸水の各戸数.)と良い相関があり、5m^3/sec^2以上の値になると破壊率が50%を超えることがわかっている(相田1977)。したがって、この最大値の分布を見ると陸上での津波災害危険度を知る目安となる。
図11は、相田(1981)による安政東海モデルによる清水の遡上計算の結果で、流れによる圧力の分布を等高線で示した。興津清見寺・江尻・巴川河口・三保付近に大きい値が出ている。ただしこの実験では、地震時の隆起を考慮せず安政時とほぼ同じ浸水高を生じるように入射波を与えてあるので、将来起り得る浸水状況とは異なるだろう。しかし相対的な危険区域の分布は、これから推定し得る。Kim&Shimazu(1982)は、駿河湾沿岸の6地点について数値実験を行ない、同様な危険度マップを提供している。
つぎに住民の避難の問題がある。沼津の結果において、地震後5分で港口に激しい流れを見た(図10)ように、震源断層が駿河湾内にあるため、静岡県のほとんどでは地震後すぐ津波が来襲するといってよいであろう。図12は数値実験から得られた各地に津波の先端が到達する時間を黒の棒の長さで、続いて第1の波峯が到達する時間を白の棒で表わしたグラフである。これを見ると、波峯がくるまででも10分以下の場所が多い。これは計算格子の大きさから、それぞれの場所の沖300m位に達する時間であるので、陸上へは1~2分の遅れはあろう。しかし地震が起ってからの避難時間が非常に限られていることがわかる。
静岡県では、沿岸低地の住民は地震を待たず警戒宣言発令によって高地への避難が行なわれるはずである。この場合にも避難にはかなりの時間を要する。避難に関して数値シミュレーションによる研究(Kim 1981)がある。図13は清水市の結果の1例で、警戒宣言が発令されると、人々は職場・学校などの出先きから一旦帰宅し、家族が揃ったところで(もし1時間たっても揃わなければその時点で)避難所へ向かうという設定である。また職場などを出発するまでに、準備などで平均15分(標準偏差5分)を要するという条件を与えてある。図の縦軸のステージA・B・C・D・Eは、それぞれ職場・学校などの出先、帰宅の路上、家庭、避難所への路上、避難所を示し、横軸は警戒宣言発令後の時間を示す。すなわち、発令時に出先きに84.9%、家庭に15.1%の人がいたのが、60分後に出先きは9.2%に減少し、帰宅の路上54.8%、家庭30.8%となり、避難所へ向かっている人(2.8%)と避難を終った人(2.4%)はまだ非常に少ない。120分経つとほとんど避難が終ることが示されている。この場合、避難を阻害するものは道路の容量であって、特に避難所の直前の道路は各所から人が集中するために往々にして麻痺状態になる。不幸にして、この途中で地震が発生するようなことがあれば避難は一層急がれねばならないから、このようなシミュレーションを有効に利用して避難路の選定、避難手順を考えておく必要があるだろう。
津波による浸水と、避難の両方を組み合せたシミュレーションのシステムを消防科学総合センター(1983)が開発している。図14は、あるモデル地区に対する試算の結果を示している。まず50m四方内の人口が各格子点に与えられ、地震と同時に人々は避難を開始するとする。目的地は上方の格子点に○印で示した7ヵ所であるとする。避難に要する時間は歩行速度、道路幅員で決る。歩行速度は最大90m/分で、混雑度によって低くなる。
一方、津波の数値実験によって図の下方の海岸から次第に上方へ浸水域が拡大する。避難シミュレーションによって最初に各格子点に与えられた人口は、次第に上方に移動するが、図13の(上)は地震後11分の各格子点の人ロと浸水域を示してある。中央左寄りに水中に取り残された人達のいる5格子が認められる。図13(下)は、これに道路幅員を拡げたとして定数の変更を行なったもので、浸水域内から人々はほぼ完全に逃れることができている。このような避難のシミュレーションは仮定も多く、また対象が人間行動であるということで、自然科学と異なった難しい面もあるだろうが、防災計画の立案の上で参考になることも多いと思われる。
ここでは住民のみを対象にしてシミュレーションを行なっているが、例えば観光都市の場合、住民以外の人達の取り扱いが問題となる。年間を通じてほぼ一様であれば住民に準じた扱い方もできる。しかし、海水浴客など季節性を持った場合の避難計画は難しい。例えば、平時人ロ940人の町で地震後浸水完了まで11分を要するとして水中に取残される人は214人、23%となるが、人ロの約10倍9940人に及ぶ海水浴客があった場合、6231人、63%が水中に取り残されるという試算もある。

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8.むすび
東海地震津波の挙動を数値実験の面から見てきた。津波波源としては現在、1854年安政東海地震の石橋モデルが用いられているが、石橋氏自身が述べておられるように(石橋1984)、このモデルが発表された後、種々な地学的データ、知見が増してきているので、このモデルをさらに精密にし、またこれから導かれる予想東海地震の断層モデルの見直しなども必要なことであろう。また津波数値実験の上でもすでに述べたように、駿河湾西岸の隆起域における実際の津波の高さの推定についても、数値実験上の取り扱いについても十分でなかった点があるように思われる。これは波源の断層の位置にも強く影響されるので、予想東海地震のモデルに関わってくる。この面からも前述のモデルの精密化が必要であろう。
今まで東海津波でほとんど考慮されなかった津波挙動の問題として、1983年日本海中部地震の際に、能代北方で見られたような段波の遡上の問題がある。海底傾斜が緩く長く続く海に直面した海岸では、短周期の津波が起きれば能代地方と同じような現象が起るかもしれない。これは、波源や海底傾斜の条件などがかみ合うので予測は複雑である。しかし津波は基本的にはほぼ長波として振舞うから、これまで行なってきた浅海波による数値実験で、できるだけ短周期領域まで精度を上げることで、津波の高さはほぼ表現できると思われる。その上で局地的な条件によって、ソリトン分裂などによる短周期の大きな波が生ずるかを検討することが必要であろう。いずれにしろ今後、この問題に対する研究が進展することが期待される。
数値実験の結果と災害想定、防災対策の結びつきが必ずしも明確であったとは言えない。数値実験自身、ある程度幅もあり不確定要素もあるので、政策決定の後にその補助的意味にしか用いられないような場合もあったろう。しかし、数値実験は条件を変えて多くの場合を試行することが容易であるので、防災対策の立案に当ってそのプランの適否を判定する資料としても活用し得るのであろう。単なるシミュレーション(原型に忠実なモデル)と考えるより、試行実験として防災に活用されてもよいのではなかろうか。
参考文献
[1]相田 勇:震研彙報,52,441~460(1977).
[2]相田 勇:月刊海洋科学,12,485~494(1980).
[3]相田 勇:震研彙報,56,367~390(1981).
[4]羽鳥徳太郎:震研彙報,50,171~185(1975).
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[10]石橋克彦:地震予知研究シンポジウム(1980),123~125(1980).
[11]石橋克彦:「東海地震」防災シンポジウム1984,予稿集,3~4(1984).
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[16]都司嘉宣:月刊地球,7,192~203(1985).