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 明応・慶長・宝永・安政東海津波について、現地調査をふまえ新史料を加えて、それぞれの津波挙動の特徴を示す。そのほか震度・地殻変動のデータを比べ、波源域の問題点を整理して述べる。

1.はじめに

 1974年10月、名古屋大学において最初の「東海地震」のシソポジウムが開かれた(安藤・深尾1975)。その時筆者は、安政地震と1944年東南海地震の津波データを比べ、安政地震の震源域が東南海地震のものより南海トラフに沿って北東側に伸び、御前崎沖に達していたであろうと述べた。その2年後に、震源域がさらに駿河湾奥にまで伸びていることを示唆する史料「静岡県安政地震報告」が見い出された(羽鳥1976)。筆者が1976年2月に開かれた地震研究所の談話会でこれを発表した時には、誰も問題の重要性に気づかなかったようだ。その3ヵ月後、飛脚問屋の史料などから石橋が「駿河湾地震説」を発表し、これが大きく報道され社会問題に発展したことは周知の通りである。
 以来、静岡・愛知県の行政側をはじめ、大学・研究機関によって東海地域の地震・津波の史料収集が精力的に実施されてきた(例えば宇佐美1979、都司1979、飯田1981)。一方、筆者は宝永・安政津波の史料をもとに静岡・三重県沿岸の現地調査を行ない、各地の津波の高さを測量し(東京湾中等潮位面を基準)、浸水域の広がりなどを調査した(羽鳥1977、1978)。さらに1984年1月に、関東・伊豆東部沿岸の史料収集・現地調査を行なった。本稿ではこれらの調査を振り返り、新史料や解析資料などを付け加、1400年以降の明応・慶長・宝永・安政東海津波の挙動を1944年東南海津波と比べ、その特徴を示す。そして、波源域などの問題点を整理してみる。また、これら歴史津波の挙動をふまえ、将来の東海地震に伴う津波を考えてみたい。

2.地震・津波の概況

 日本で最初に記録された津波は、天武13年(西暦684年)の南海道津波である、東海地域では永長元年(1096年)11月24日の津波が記録の始まりである。後二条師通記には「駿河国解云、去月廿四日大地震、仏神舎屋百姓四百流失、国家大事也」とある。また、中右記には「後聞、伊勢国阿乃津(今の津市)民戸地震之間、為大浪多以被損云々、凡諸国有如此事近代以来地震、未有如此例也」とある。そして承徳3年と正平16年に南海道で大津波があり、1400年の初めの応永年間には熊野灘で津波が2回発生した記録があるが、記事が少なくて詳しいことはわからない。東海津波で議論できるほど史料のあるのは、1498年の明応津波以降からである。
 表には、有史以来最近に至る間に関東・東海・南海道沖で発生した津波のリストを示す。その他、東海地域に影響を与えた津波に、外国で発生した遠地津波がある。例えば1952年カムチャツカ津波、1960年チリ津波、1964年アラスカ津波などである。ことにチリ津波では、清水港の貯木場の木材が流れ出し、志摩沿岸では養殖真珠が潰滅的な打撃を受けている。
 表中に示す津波マグニチュードm(今村・飯田スケール)は、m=−1~4の6階級に津波の規模を分類してある(近年の津波では、検潮記録からさらに細かく0.5段階の精度で区別できる)。1階級上がると津波エネルギーにして5倍、波高では2・3倍大きくなる。なお、最大級の津波のエネルギーは10^23エルグのオーダである。定義によれば、m=−1の津波は波高50cm以下のもので検潮器で検知される。m=0は1m程度の津波で、陸上の影響はほとんど出ない。この程度の小津波は記録に残らなかったらしく、表中の古い津波にはない。m=2では、津波の高さが4~6mで沿岸各地に被害が発生する。例えば1964年新潟津波がこのクラスになり、1983年日本海中部地震津波はm=2.5であった。m=3以上の津波は、200kmの沿岸で局地的に10mクラスの波高に達する。東海・南海道の巨大津波は、ほとんどこのクラスにランクされる。近年では1933年三陸津波があり、最大級のチリ津波はm=4.5であった。
 さて表を見てわかるように、宝永以前の巨大津波では死者が5000人もあり、安政東海・東南海津波でも1000人近くに達している。これは地震による圧死者も含まれているが、多くは津波による溺死者であった。当時の人口構成を考えれば、驚くべき死者数にのぼったと言える。志摩・熊野沿岸の寺院や小路に、これら津波の犠性者を葬った供養碑が多数建っており、当時の惨事をしのばせている。筆者は、多くの津波碑を現地調査してきたが、尾鷲にある宝永津波碑のように津波の来襲状況を克明に刻みこんだものがある。図1は南島町にある宝永・安政津波碑を示したもので、宝永碑には「当浦家不残流出而男女六十人計溺死也」とある。
 明応・慶長・宝永・安政・昭和(東南海)地震における各地の震度は、飯田・宇佐美・都司によって詳しく調べられた。それらのデータから、震度分布のパターンを描くと図2のようになる。これを見ると、慶長地震以外の地震では震度6の範囲は東海地域から伊勢湾沿岸に伸び、ほぼ同じようなパターンである。しかし、震度5の分布パターンはかなり相異している。慶長地震では愛知県渥美の田原域が大破し震度6と推定されているが(飯田1981)。東海地域では広く震度5が分布し他の地震と著しく異なる。
 また、図2には地盤変動の隆起・沈降量を付記した。宝永・安政・東南海地震では、御前崎がその都度隆起し、浜名湖口と伊勢湾から熊野灘沿岸にかけて沈降している。しかし、駿河湾奥では安政地震で顕著に隆起したが、宝永・東南海地震では沈降があった。一方、慶長地震では地盤変動の記録は見い出されていない。以上のように、各地震の震度・地盤変動のパターンは同じ繰り返しとは言い難く、次節で津波データを加えて特異点を述べる。
 宝永・安政津波の記録には「寺院の石段の何段目に潮がついた」とか、「どの地点にまで津波が上がった」という浸水高を示す具体的な記録がある。筆者はこれらの記録をもとに、静岡・三重県沿岸を数回にわたり現地調査し、津波の高さを測量してきた。また明応と慶長津波については、被害記録のみで浸水高を測る具体的な記録はないが、地盤高をふまえ被害状況を安政・東南海津波と比べて、各地の津波の高さを推定した(羽鳥1975)。その後、飯田(1981)は愛知県を中心に三河・伊勢湾沿岸の津波の高さを詳しく調査した。最近、都司が駿河湾奥の江梨において、津波の高さが10mに達したとみなせる明応津波の記録を見い出している。
 これらの津波データをまとめると、各津波の高さの分布は図3のようになる。その他、安政東海・南海道津波は太平洋を伝わり、米国カリフォルニア沿岸のサンフランシスコとサンジエゴ検潮所で10cmの津波が観測されている。また「勝海舟全集」によれば、小笠原父島の奥村では安政東海津波が集落に遡上して家が5軒流された。津波の高さは3~4mあったとみなせる。以上のように、明応・宝永・安政津波は志摩・熊野沿岸で局地的に10m達し、強く影響を受けた地域が300kmを超えており、津波マグニチュードはm=3と格付けできる。
 では、津波の発生源である波源域は、どの範囲にあったのであろうか。波源域の推定には、歴史津波のものは震度・津波分布および地殻変動の広がりから考え、近年の津波は検潮記録から得られた津波伝播時間をもとに逆伝播図から求められている。このような方法のもとに、明応から現在に至る500年の間に、関東・東海海域に発生した津波の波源域分布を図4に示す。ここで斜線をつけた波源域は、津波マグニチュードm2以上の顕著な被害をもたらした津波である。
 図示のように、関東海域では津波の発生件数はきわめて多く、東海地域では2件を除いて巨大地震による津波である。宝永5年と安政2年の津波は、それぞれ余震に伴った津波とみなされている。宝永5年の津波は伊勢・三河湾沿岸の田畑に浸水し、波源域は志摩近海にあったらしい。一方、安政2年の津波は都司(1982)によって詳しく調査された。それによれば、静岡県下の新居~浜岡間で震度5を記録し、浜名湖口で地盤が隆起し、御前崎付近が沈降した。また、下田から尾鷲に至る東海沿岸で1~2mの津波が記録された。その波源域は、浜名湖から御前崎に至る沿岸付近にあったと考えられる。
 次に津波発生の時間・空間分布を見てみよう。図5には明応地震以降の津波で、縦軸に年代をとり、横軸にはそれぞれ津波の影響範囲を示してある。この500年間に、東海・南海道ではよく知られるように100~150年の規則正しい間隔で津波が発生してきた。これに対して、関東海域では発生間隔はきわめて不規則である。これは、房総沖で日本海溝と相模トラフが会合し巨大地震の発生域がそれぞれの海溝系に分れ、さらに伊豆半島の東部近海にM7程度の地震による津波があって、発生パターンを複雑にしている。駿河湾・遠州灘沿岸は、安政津波以降130年の間に強い津波を免れてきた空白域として目立つ。

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表 関東・東海・南海道沖津波の表
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写真 図1 三重県南島町の最明寺にある宝永(右)と安政(左)津波碑
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図2 各地震の震度分布と地殻変動(単位m)
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図3 各津波の高さの分布(単位m)
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図4 関東・東海沖における推定波源域の分布(期間 1498~1984年)

3.各津波の特徴

 前節で示したように、各津波の震度・波高および地殻変動をそれぞれ比べると、東海地域ではほぼ似た分布パターンの繰り返しであったが、周辺部ではかなり相異が見られる。相田(本特集号)は、津波の数値実験からそれぞれの断層モデルの解析を試みているが、ここでは各津波の特徴を要約し、その問題点を述べる。
 1)明応7年の津波
 明応7年8月25日(1498年9月20日)朝8時頃の地震で、遠州灘沿岸に山崩れ、地割れを生じ、浜名湖口が切れて「今切」の地名を残した。津波は遠州灘沿岸をはじめ、駿河湾・志摩沿岸を襲い5000人にのぼる水死者を記録した。その津波挙動は宝永・安政津波のものとよく似ており、波源域が遠州灘にあったことは疑いないが、果して駿河湾に入り込んでいたのであろうか。
 明応地震で特筆すべきことは、関東の安房小湊と鎌倉の記録である。房総では「長狭郡の沿岸大津波、地盤陥落し人畜没す。小湊誕生寺破潰し、朱印流失、鯛ノ浦の岡に移す」とある。また、鎌倉では「大地震、一夜に30回の余震、大仏殿まで津波上がり舎屋破損干潟陸路となり、200余人水死」とある。大仏付近の地盤高を考えれば、津波の高さは8~10mに達したことになる。しかし、この津波記録は最近の調査によると信ぴょう性が薄いとされ、鎌倉の被害は3年前の「明応4年8月15日相模湾の地震」によったという見方がある(飯田1981)。そのほか、下総国葛西郡では「海辺湖、人屋千余人漂没」とあり(東鑑)、津波が東京湾内にも侵入している。
 明応地震のもう1つの問題点は、南伊豆・伊豆諸島の新島・式根島の地殻変動である。海岸に付着した穿孔貝の高度分布から、明応地震による地盤隆起とみなされていたが、これも最近、年代測定から否定された(石橋・他1979、太田・他1983)。また、相模湾西部から南伊豆に伸びる伊豆東方線は「死プレート境界」とみなされている(恒石1984)。先に筆者(羽鳥1975)は、小湊・鎌倉の津波記録と南伊豆の地殻変動を重視して、波源域を遠州灘から南伊豆に伸びる形で示した。これらの記録が否定されれば、明応津波の波源域は宝永津波と同様に、熊野灘から御前崎付近までという可能性が強くなる。しかし、伊豆東方沖・新島から銭州にかけて地震活動が活発であり、また南伊豆沖では海底調査から数条の断層が見い出されている。これらの観測事実があり、波源域が南伊豆に伸びた可能性は否定できない。
 その他、明応地震で熊野の本宮社と那智坊舎が崩れ地震の40日後に湯峰の湯が出るようになり、また和歌山県紀ノ川河口で津波記録が見い出された(都司1980)。これは南海道地震特有の現象であり、明応地震は東海と南海道の二元地震の可能性が指摘されている。その判定は、今後さらに四国地方の史料発掘に待たねばなるまい。
 2)慶長9年の津波
 慶長9年12月16日(1605年2月3日)20時頃起きた津波は、房総から九州に至る広範囲に記録を残した。これほど広域に記録されたことは歴史津波では初めてのことであり、震源が数個所にあったのではないかと考えさせる。紀伊・四国地方の記録を1946年南海道津波と比べると、津波の高さは同程度の値に推定され、大阪の津波被害も宝永・安政南海道津波のものほど大きくなかった。また震度分布も似ており、串本で地盤が隆起するなど多くの点で1946年地震の記録と共通し、慶長地震の1つの震源が南海道にあったことは間違いない。
 一方、東海地域では浜名湖口に侵入した津波は舞阪・新居の集落内に溢れ、橋本では100戸のうち80戸が流失した。伊豆の仁科・田牛にも浸水記録がある。また伊勢・三河湾内の集落に溢れ、多くの死者を出した。紀伊長島・尾鷲では被害は比較的軽かった例外もあるが、津波記録がかなり宝永・安政津波と共通していることから、今までは波源域が東海沖にあった見方が有力である(石橋1978、飯田1981)。
 しかし、この東海地震説には大きな弱点がある。それは、渥美・掛川で局地的に震度6のところもあったが、東海道で広く震度5の地域が分布し(図2)、宝永・安政地震の震度を大きく下回ったことである。さらに、東海沿岸で地殻変動の記録が無いことも東海地震説に説得力を欠く。これらの理由から、慶長地震が地震規模に対して津波がきわめて大きい「津波地震」であったという見方もある(石橋1978)。
 もう1つ慶長津波で特徴づけているのは、房総と八丈島の記録であろう。九十九里浜で被害を受けた村々の村名が細かく記され、房総沿岸で山崩れがあったが、この記録は軍記物として疑われている。しかし、鴨川では津波後避難丘が築かれたり、勝浦では魚類が集落に打ち上げられた由来から「海老塚」、「鯛が谷」などの地名が付けられ、慶長津波にまつわる伝承が数々残っている。八丈島では八重根(今の新漁港付近)に遡上して山の根に達し、八戸(やと)の在家が残らず流され、弁天山下には津波で打ち上げられた大石が多数埋っているという。地盤高を考えれば津波の高さは10mを超える。
 これらの記録を重視すれば、慶長津波のもう1つの波源は房総沖にあった可能性を考えさせる。図6には想定された慶長の波源と1953年房総沖津波の伝播図を示したもので、房総と八丈島に波向線の集中が見られる。ともあれ、東海地震説・房総説にせよ、いまひとつ主張できる史料に欠け、疑問は残る。
 3)宝永4年の津波
 宝永4年10月4日(1707年10月28日)12時30分頃東海沖と南海道沖の二元地震でそれぞれ津波を伴い、房総から九州に至る広範囲の沿岸地域が津波に襲われた。壊家29000戸、死者4900人という日本最大級の地震・津波災害を記録したのである。地震の1ヵ月半後には富士山が大爆発し、各地に大量の降灰を記録している。その4年前には関東で1703年の元禄大地震があり、まさに地学的な激動期であった。なお、宝永地震は初め東海沖で起り、1~2時後に南海道沖で起ったという見方もあるが、区別は難しい。
 まず南海道津波を要約すると、紀伊・四国沿岸は大被害に見舞われ、大阪では津波で700人にのぼる死者があった。沿岸地域は、地震よりも津波災害が大きく上回ったのである。浦戸・久礼では津波の高さが20mを超えたとされているが、最近筆者の現地調査で浸水地点を確かめると、10m程度であった。それでも、1946年津波の高さより3倍近く上回っている。その他、紀伊・四国における震度・地殻変動の分布は南海道地震特有のパターンを示した。
 次に東海地域における津波記録を見てみよう。最近の調査から、地震関係の記録は次々と発掘されてきたが、津波記録はあまり出てない。ここでは細かい記録の紹介は省略するが、安政東海津波と比べると、駿河湾・遠州灘・伊勢湾の津波の高さには差異はないが、熊野灘沿岸では宝永津波がやや上回っている(図3)。一方、震度6の分布は東海道から伊勢湾沿岸に伸び、安政地震と同様なパターンである。しかし、震度5の分布では安政地震が関東に広がったのに、宝永地震ではこれを下回ったようである(図2)。伊豆諸島の新島では本村の北側で山崩れがあり、一部の住民は島内の若郷地区に移り新たに村を作ったと言われている。震度5ぐらいの地震動に見舞われたが、津波の状況は不明である。
 地殻変動の記録によれば、御前崎・遠州横須賀が隆起し、浜名湖口・志摩・熊野が沈降して東海地震特有の変動パターンを示した。しかし、清水では地震で地盤が沈み波が向島を越えるようになって、港で荷物の取りさばきができなくなったとある。これは安政地震の場合と著しく異なり、波源域が駿河湾奥にまで達しなかったことを暗示する。
 4)安政元年の津波
 前に述べたように、筆者は安政東海津波と1944年東南海津波の高さを比べ、安政地震の震源域が東南海地震のものよりさらに北東側に伸び、同じ震源に起った地震でないことを指摘した。その根拠は、熊野灘沿岸では安政津波の高さは東南海津波の2割程度上回ったが、志摩沿岸では2~3倍大きく、遠州灘から駿河湾沿岸にかけては3倍も上回ったことである。しかし東南海地震では静岡県小笠郡で家屋が倒壊するなどの大被害を受け、10数cmの地盤隆起が測地された。また、余震域が浜名湖付近にまで伸びていたこともあって、津波・震度記録にいまひとつ説得力を欠いた。それが「静岡県安政地震報告」の発見によって、清水とその周辺沿岸で1.5~2mも地盤が隆起して、港が使用不能になったことがわかった。
 その後調査が進むにつれ、静岡県下では安政と東南海地震とでは、震度・津波および地殻変動量が顕著に相異したことが明白になってきたのである。そして、駿河湾西岸域が明治以降沈降を続けていること、また駿河トラフがプレートの境界であることが海底調査から指摘されるなど、東海地震説が大方に支持されるに至った。
 さて、もう一度図3を見て頂きたい。沼津沿岸では津波の高さが7.2mにも達しており、津波が内浦湾の固有周期と共振したらしい。その他、駿河湾・遠州灘沿岸では5m前後の高さが平坦に分布している。これは津波の周期が比較的長く、20分程度の長周期波であったことを考えさせる。安政東海津波の水死者は300人とも言われ、歴代の津波と比べて犠性者が少ない。静岡県沿岸では地震から5~10分後に津波が来襲しているが、昼間の津波であったことと比較的緩やかに遡上したらしく、避難にやや余裕があったようである。これは平均的な見方であって、津波は地形によって多様に振る舞うことは言うまでもない。

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図5 関東・東海・南海道津波の時間・空間分布
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図6 慶長津波と房総沖津波の伝播図(波面は10分間隔)。沿岸の数字は津波の高さ(単位m)。( )内は伝播時間(分)

4.関東・伊豆東海岸の津波挙動

 前節に関東における明応・慶長津波の概況を述べたが、宝永・安政津波については地震史料に数個所の記録があるに過ぎず、関東にどの程度影響を与えたものか、はっきりしていなかった。ごく最近、静岡・神奈川県の自治体によって関東地震津波の調査が実施され筆者も伊豆東海岸の現地調査に参加した。その際に、各地で安政津波の2~3の記録と伝承が多数残っていることがわかった。また宇美佐らによって、宝永津波の記録が収集され、それには、九十九里浜で中小河川の河口付近に津波が溢れたことが記されている。これら両津波の記録を整理して、図3に関東地域の津波の高さのデータを付け加えて示した。
 安政東海津波では、伊豆東海岸にある言い伝えの中に、例えば熱海ではアワビが家に流れついたり、川奈の海蔵寺では「石段あ3段目まで潮が上がった」などがある。伝承であるのでやや信頼性に欠けるが、津波の高さは3~6mに推定され、伊豆西海岸の波高値と大差ない。これは、伊豆東部近海が相模トラフに面した浅海域であり、エッヂ波のように津被エネルギーがあまり消耗することなく半島を迂回したと考える。図7には、安政と関東地震津波の高さの比較を示す。
 そのほか、逗子・浦賀で家屋に浸水し、東京湾内の東京・横浜の河口付近に溢れている。また、外房の鴨川にも路上に溢れたと伝えられており、房総南部には記録はないが、津波の屈折効果で5m程度の波高になった可能性がある。東南海津波では、布良で全振輻2.7mの波が検潮器で観測され、周辺の記録と比べて異状に高く屈折効果を暗示しているし、相模湾沿岸では宝永・安政津波の高さは関東地震津波を下回っているが、外房沿岸では2倍程度上回ったことに注目したい。

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図7 伊豆東海岸における安政と関東地震津波の波高分布の比較

5.津波の遡上例

 伊豆下田は、安政津波で984軒のうち937軒が流失し、宝永津波も同様に90%を超える流失被害を記録している。下田は南向きに開いた湾奥に位置し、湾水が津波周期に敏感に反応して、増幅しやすい地形条件にある。
 安政津波の時、下田では2波目が最大で、入幡神社の石段3段目まで潮が上がった。津波は下田市内全域に溢れ山ノ手にある寺院の本堂に潮がつくなど、浸水面を示す具体的な記録が多数ある。また、町役所の「諸御用日記二番安政二年」の文書に、市内の21軒の商家に地上からの浸水高が克明に記録されている。これを手掛かりに、東京湾中等潮位面を基準に各地点における津波の高さが測量され、市内の波高分布が明らかになった(図8)。
 市街南部の七軒町・坂下町では津波の高さは6mに達したが(地面上3mを超える)。被害は比較的軽く、崖を背にした長楽寺・了仙寺などの寺院は流失を免れた。山ノ手付近では、津波は定常波のように振る舞い流速が小さかったのであろう。これに対して、稲生沢川流域では山ノ手より波高は下回ったが、大部分の家屋は洗い流された。多くの津波の数値実験によれば、市街地に遡上した津波の流速は、家の建て込んだところで1~2m/sec、山ノ手では0.5~1m/secであり、河口付近では4~5m/secにもなる。被害状況は流速分布によく対応し、下田においても安政津波の記録はそれを示唆している。
 日本海中部地震津波の時、平坦な海岸に段波状の波が押し寄せる状況がテレビで放映され強い印象を与えた。遠州灘海岸では、歴代の津波はどのようなタイプの波であったのであろうか。安政津波は浜岡・大浜町の中小河川に600mほど遡上して水田に溢れた。浸水面を示す具体的な記録は無いが、津波の高さは4~6mと推定され、砂丘は乗り越えなかったらしい。それは、この沿岸地域が地震で地盤が1mほど隆起し、津波の高さが発達しにくいからである。天竜川にほど近い鮫島では、「大地の震動とともに海水一丈余引汐となり、空地を生じたるに、今引き返したる潮水再び湧くが如くに陸地に向て浸し、其勢潤々として忽ち海浜数十歩の砂原を没し、なお止まるべくも見へす。実に物凄きことを言んかたなし。然るに波は誠に平穏にして、油を流したる如し」とある(静岡県安政地震報告)。
 一方、熊野灘に面した三重県沿岸は宝永・安政・東南海津波で、その都度甚大な被害を繰り返してきた。志摩~熊野間はリアス海岸が発達し、各港湾で津波が著しく増幅され浸水域は山の根に達した。ことに賀田と新鹿では、毎回7~10mの津波の高さを記録してきた。賀田では、電柱に安政と東南海津波の浸水面を示すマークがつけられており(図9)、驚異的な高さは津波の猛威を如実に物語る。
 紀伊長島と尾鷲では、宝永津波でそれぞれ500人にのぼる水死者を出し、流失1戸当りの死者数は0.6~1.0、安政津波では0.2~0.6であった。これは、1896・1933年の三陸大津波に匹敵する比率である。そして東南海津波では0.1~0.2と減少したが、紀勢町錦では伊勢・熊野地域で最高の64人にのぼる死者を出した。津波の高さは6mであったが、市街地の背面に山がせまり、河川に沿う避難路で多数の人が波に呑まれ、宝永・安政津波の教訓が生かせなかった。
 志摩の甲賀では東南海津波の高さは3m程度にとどまったが、安政津波では集落や田畑一面が海原のようになり、津波の高さは10m近くに達し11人が水死した。妙音寺横に安政津波碑があり、来襲時の状況が細々と刻まれ、終りに「後世の人若地震に際せば必火を戒め速に老幼を携へ高丘に避すべし否ざれば危難必共身に至る事あるべし」とある。

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図8 下田における安政津波の高さ(T.P.上、単位 m)
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写真 図9 尾鷲市賀田における安政(A)と東南海津波(B)の浸水潮位面
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図10 想定される東海地震の津波伝播図(波面は2分間隔)

6.むすび

 以上、明応以降の東海津波の特徴を述べ、それぞれ津波の挙動が震源周辺地域でかなり相異していることを示した。波源域の広がりや津波の発生機構は、同じパターンの繰り返しとは言い難い。ことに明応・慶長津波では、東海地域で宝永・安政津波と似た状況が記録されているが、関東では著しく異なり、今後史料の発掘ならびに検討が必要であろう。伊豆諸島の記録は断層モデルの解析にきわめて有用であるが。八丈島以外の島々では、歴代東海津波の記録はまだ見出されていない。
 関東・伊豆東海岸では、最近の筆者の調査から宝永・安政津波で予想以上に強い影響を受けていたことがわかった。予想される東海地震の震源域の大きさは安政地震の2/3程度と見積もられている。もし波源域の長さが150kmぐらいあれば津波の規模は統計的にみて、津波マグニチュードはm=2.5に相当し、日本海中部地震津波クラスの規模が予想される。駿河湾内では津波の高さは5m程度になり、安政津波と似た挙動をとるであろう。一方、熊野灘・関東沿岸では安政津波を下回るであろうが、津波の屈折効果や港湾の増幅作用で局地的に津波が大きくなる恐れがあり、要警戒域である。図10には、石橋モデルの震源から津波伝播時間が作図され、各地域への伝播時間の目安を示した。
 1960年のチリ津波以前の津波では、平均海面上4m程度の波高で、家屋が全壊・流失するなど大被害に見舞われてきたが、最近の津波では流失件数は激減している。これは、家屋構造が強化され、防潮堤など海岸保全施設の建設整備が大きな効果をあげてきたと言えよう。しかし一方において、港湾では著しく船舶が増加し大型化しているので、1m程度の津波でも相互に衝突したり護岸を破損させる恐れがある。津波被害は波高の他に、流速にかなり左右されたことが歴史津波の記録からも読み取れる。

参考文献
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