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1.はじめに

 1498年の明応大津波以来、この500年の間に、南関東沿岸を襲った巨大地震による津波は7回を数え、そのほか相模湾西岸でおきた中規模の津波が2回ある。1923年関東地震から50有余年を経過した現在までに、関東近海では被害をもたらした津波はおきていないが、チリ津波や検潮儀でとらえた小津波を加えれば、発生件数は三陸・南海道地域とそう劣るものではない。その発生源である波源域の地理的分布を大別すると、相模トラフ・房総沖・茨城沖の3つの地域に分けられよう。そのほか、明応・宝永・安政津波のように、東海沖の津波も南関東沿岸に大きな影響を与え、発生源の地理的条件で津波挙動は多様であった。
 最近、これら歴史津波の記録が見直され、かなり整理・検討されてきた(渡辺,1970;羽鳥ら,1971)。また一方,筆者(羽鳥,1975c,1975d,1976)は1703年の元禄津波について、房総・伊豆沿岸各地の現地調査を繰り返し、新たに見出した史料から波高を推定するなど、津波像の複元を試みてきた。
 南関東沖では相模トラフと日本海溝が会合し、断層運動がきわめて複雑で、津波のおこり方が多様であった。しかし、海溝ぞいまたは沿岸付近でおこされた津波には、地形条件からかなり共通した挙動がみられる。本稿では、これまでに解析された結果や現地調査報告をまとめ、今回行った再調査の資料をつけ加え、関東地方における津波の特徴的な問題点を整理してみる。
 最近、伊豆大島近海地震をはじめ、伊豆・房総近海の地震活動が活発化し、観測強化地域に指定されているように、ひとたび大規模な津波がおこれば、近年著しく発展している海岸の工業施設・沿岸漁業や、過密化した沿岸の市街地に与える影響はきわめて重大である。そこで、地震の空白域とみなされている房総沖をはじめ、寛永(1633年)・天明(1782年)地震の震源域と思われる相模湾西部沿岸と、いま注目を集めている東海地震の波源域を想定して津波伝播図を作図し、関東沿岸における伝播時間や津波が集中する地域を考えてみたい。

2.相模トラフの津波

 この系列に属する代表的な津波に、1703年の元禄津波と1923年関東地震の津波があげられる。元禄津波の記録は、地震史料に集録されたものがあまりなく、その挙動はナゾに包まれていた。ごく最近、千葉県の防災課や安房博物館によって房総沿岸各地の史料が勢力的に集められ(千葉県,1976;宇佐美ら,1977)、また筆者の現地調査から、房総・伊豆地域に分布する津波犠牲者を葬った供養碑の所在が多く確認され、その実体像が浮び上がってきたのである。次に今回調査した津波碑の2~3を紹介しよう。
 写真1は九十九里浜の本須賀(成東町)にある元禄津波の供養碑を示す。この村落の水死者は大正寺の過去帳に96人と記録され、「百人塚」と刻まれた大きな石塔は225年忌にあたる昭和2年に建てられたものである。その左側の石碑は津波直後の古いもので、途中から折れて上半部を再建し、これに「上総国本須賀大水溺死」と刻まれた文字が読みとれる。石碑は海岸から1.3kmも離れた田畑のなかに建ち、この付近に多くの水死者が流れついたものを葬った、と伝えられている。このほか、九十九里浜の各村落には、元禄津波の供養碑や無縁塚が多数現存する。海抜2~3mの広々とした平坦地に、逃げ場を失なった犠牲者の悲惨な状況を、これらの石碑が伝えている。
 写真2は伊豆宇佐美の行蓮寺境内にある元禄津波碑を示したもので、地震から59年後の宝暦12年に建てられた。宇佐美には寺院の過去帳に記された津波記録や言い伝えが各所にのこり、浸水域が海岸から1km近く、大仁に通じるいまのスカイラインにそって伸び、村落の大部分に浸水したことが追跡できる。行蓮寺の碑文には「溺死者大凡三百八十余運命尽期」と刻まれ、津波の犠牲者を供養した。このほか、伊東・川奈にも供養碑が多く現存しており、元禄津波がこの地域に猛威をふるったことを偲ばせている。寺院の石段にはい上がった潮位記録や浸水域の広がりから、宇佐美~川奈間では津波の高さは8~10mに達したとみなせよう。
 鎌倉では、元禄津波は材木座海岸にある光明寺や、八幡宮の二の鳥居(現在の鎌倉駅前)まで侵入し、死者600人と記録されている。一方、1923年の関東地震津波も鎌倉に大被害を与え、江ノ島電鉄長谷駅付近の軌道をのり越えた。写真3は、鎌倉市腰越の浄泉寺に建つ大正地震の供養塔を示す。石碑の裏面には、旧腰越津村の死者77人、江ノ島の死者3人の氏名がこまごまと列記されている。これらは、地震による死者も含まれていようが、一家が全滅したと思われるような同姓のものが多くあり、津波に呑まれた犠牲者が多かったという。
 以上、3例の供養碑を紹介したが、このほか関東・伊豆沿岸各地に所在が確認された津波碑や地震記念碑の分布を図1に示す。図示のように、元禄津波の供養碑がじつに多く現存しており、津波の猛威が九十九里浜から伊豆東岸に至る広域に及ぼしたことが、供養碑の分布からも理解できよう。そのほか、本邦最古の津波碑として、1498年の明応津波の石碑が小湊の誕生寺山門前に建ち、1677年延宝津波の「浪切地蔵」が東浪見(上総−宮町)の国道脇に、安政東海津波の供養碑が伊豆下田の稲田寺境内にある。また、房総南部にある1923年関東地震の石碑は、震災復興記念に建てられた。次に完禄津波の挙動を1923年関東地震津波と比較するにあたり、まず、1923年津波について概要を示そう。
 1923年津波は、三陸から四国にかけて広域に分布する検潮所で観測された(寺田・山口,1925)。これら各地の検潮記録の津波伝播時間をもとに、逆伝播図の方法で波源域を推定すると、図2に示したようになる。これは、房総・神奈川にまたがる地盤隆起域を囲むかたちになり、測地の結果と調和的である。一方、陸地の測地データから地震の断層モデルが解析され(ANDO,1971)、また津波の数値実験(相田,1970)が行なわれた。その結果、海底の最大変動量が2~6mの間で、1~2分以内に変動すれば、関東沿岸の波高分布を説明できることが指摘された。地震前後の海底測深から、相模湾内のトラフを境に東域の海底が隆起、西域が沈降し、その垂直変動量は100mに及ぶと報告されているが、地震・津波の観測データから隆起・沈降の変動パターンはよく合うけれども、ぼう大な変動量は否定されたのである。
 では、1923年津波は関東南岸地域で、どのような波高分布を示したであろうか。図3の中図は、地震直後の調査報告から各地の波高をまとめたものである。これによると、相模湾沿岸では熱海で局地的に12mもの波高に達したところもあるが、平均して5m前後になっている。房総先端の相浜付近は9mもあったが、浦賀水道で急速に減衰し、東京湾奥では1m以下になった。また、外房沿岸では1.5m前後の波高が測定された。
 一方、元禄津波の波高は、これまでの現地調査の結果を整理して、図3の上図に示す。これらの波高は、寺院の石段などに浸水した潮位記録を手掛かりに測定したものと、津波の被害状況から推定したものを含む。房総南端では、元禄地震による海岸段丘の測量から4mほどの地盤隆起が確認されており(松田ら,1974)、津波の高さは地震前の海面を基準に、地盤隆起の分を加算して示してある。
 さてここで、元禄津波と1923年津波の波高分布を比べると、図3の下図のようになる。相模湾沿岸では、元禄津波の波高は1923年津波のものより1~2m上回っているが、いずれも鎌倉と伊東付近の波高が大きく、分布パターンはよく似ていると云えよう。しかし、外房沿岸の波高を比べると、その差は目立って大きく、元禄津波の波高は1923年津波の3倍も上回る。1923年津波では、外房沿岸で陸上にわずかに溢れたところもあったが、元禄津波は前に述べたように、九十九里浜に多くの津波供養碑や無縁塚が分布し、各村落が潰滅的な打撃を受けている。波高は5~6mに達したであろう。茂原の鷲山寺境内に九十九里浜9力村の犠牲者を合同葬した供養塔が建ち、これに「溺死都合二千百五拾余人」と刻まれている。
 このような波高分布の相異点から、元禄津波の波源域を1923年津波のものと同一視することはむずかしく、相模湾からトラフぞいに房総南東沖にむけて、200kmほど大きく伸びていたと考えられる。
 相模トラフ系の巨大地震とは異質の地震が、寛永10年(1633年)と天明2年(1782年)にあった。両地震とも津波を伴ない、マグニチュードはM7.2前後に見積もられ、小田原では震度6の激震に見舞れた。寛永地震による津波は熱海・伊東に被害を与えた。写真2に示した宇佐美の行蓮寺の石碑には、元禄津波は初め押し波であったが、寛永の津波では浜が干上がったことが記してある。また、熱海史に地震で港が地盤隆起した記事がある。天明地震の津波では、熱海付近のほかに安房(房総南部)に津波という記録がある。両地震とも史料不足で詳しいことはわからないが、西相模断層(石橋,1977b)の地震とみなせよう。後節で波源域を相模西部沿岸近くに想定し、関東沿岸の津波挙動を考えてみたい。

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写真 写真:九十九里浜の本須賀に建つ元禄津波の供養碑
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写真 写真2:伊東市宇佐美の行蓮寺にある元禄津波の供養碑
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写真 写真3:鎌倉市腰越の浄泉寺にある大正震災の供養塔
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図1:関東・伊豆沿岸における各地震津波の供養碑・記念碑の分布
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図2:逆伝播図による1923年関東地震津波の推定波源域。各最終波面に観測点の伝播時間を示す(単位分)
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図3:元禄・大正関東地震津波における各地の津波の高さ(単位m)とその比較

3.房総沖の津波

 1972年の2月と12月に八丈島東方沖でM7.0~7.2の地震があり、当時この海域の地震活動が活発化したことで注目を浴びた。両地震は津波を伴い、房総南部の布良で全振幅30~40cmの津波が観測された(羽鳥1972,1973)。社会的な影響は出なかったが、北海道から九州に至る各地の検潮所で記録され、津波の規模は意外に大きい。今村・飯田スケールで表わせば、2月の津波はm=0.5、12月の津波はm=1に格付けできる。波源域は、いずれも1953年房総沖津波の波源の南西端に位置した(図12)。
 この海域で近年目立つ地震に、1953年11月の房総沖地震がある。気象庁の決定によると、マグニチュードはM=7.5となっているが、長周期表面波の解析から(安藤,1971)、低角逆断層によるM8の巨大地震とみなされている。津波は外房沿岸の勝浦・犬吠崎付近で2~3mを目視され(中央気象台,1954)、津波の規模は広域の検潮データからm=1.5と格付けされる(羽鳥,1973)。図4は震源周辺の検潮記録をもとに、逆伝播図から推定した波源域を示す。波源域の走向は日本海溝ぞいに伸びて余震域と合致し、その長さは160kmである。津波規模は地震の大きさの割に小さいが、海底の変動域の広がりは巨大地震に見合う大きさになっている。検潮記録によれば、津波初動の向きは八丈島・布良で引き波、銚子以北は押し波初動であり、図4に示す最終波面にそれぞれ点線と実線で区分してあるように、波源域の南西側が沈降、北東側では隆起とみなせる。
 近年、房総沖では被害をもたらした津波はみられないが、歴史をさかのぼると、慶長と延宝年間に大津波の記録がある。その1つ、延宝5年(1677年)の津波は、宮城県岩沼から伊豆の伊東に至る広域に被害記録をのこした。これらの記録から各地の津波の高さを推定すると、図5のようになる。津波被害が広域にまたがり、波源域は福島沖と房総沖の2説に分かれている。福島説は、岩沼で水死者123人、小名浜付近で80人という記録を重視したのであろう。
 一方、外房沿岸の東浪見から勝浦間では、水死者235人、各村落では30戸前後の家が流された。東浪見には、いまの海岸から1.5kmも離れた地点に「浪切地蔵」が建っている。これは、津波がこの付近まで侵入し、水死者を供養した由来があり、延宝津波が東浪見の集落奥深く襲ったことを物語る。そのほか八丈島・伊東にも浸水記録があり、福島説では房総とそれ以西における津波挙動の解釈がむずかしい。これを確めるために、長さ100kmの波源域を福島沖と房総沖に想定し、波源域周縁から放射する波向線が沿岸に達した幅と水深の変化をグリーンの法則を応用して、沿岸のshoalingと屈折係数を求めてみた。図6はその解析結果と波高分布とを比べたものである。これは、波源域の海底が一様に上昇して波の指向性を無視した取り扱いであるが、図示のように、沿岸の波高増幅係数のパターンは福島沖に波源域を想定したGよりも、房総沖のHで表わしたものの方が、波高分布と調和的である。なお、波源域を房総沖とみなしたとき、延宝地震の震度6の分布が房総から茨城沿岸に伸びた記録と矛盾しない。このような南北方向に長い震度分布のパターンは、近年の房総沖地震によく見られるからだ。
 慶長9年(1605年)津波は、房総から九州に至る広域に記録され、2つの震源が定説になっている。1つは地震・津波と海岸の地盤変動記録が1946年南海道地震のものと似ていることから、南海道沖に間違いない。もう1つの震源域が房総沖か、東海沖かに分かれている。東海説は西伊豆・新居・伊勢大湊の津波記録を重視し、房総の記録は軍記であるから信ぴょう性が薄い、という見方をとっている。しかし、最近の東海地震説以来、静岡県下の宝永・安政地震史料が続々と発掘されてきたが、慶長地震の記録はかいもくと云っていいほど出てこない。
 慶長津波で特筆すべきことは、八丈島の記録である。風浪をさけた集落が高台にある八丈島で、家屋・田畑の流失があったことから、津波の高さは10mを超えたと考えざるをえない。また、鴨川・勝浦など外房沿岸各地には、潰滅的な打撃を受けた慶長津波の伝承がかなり残っており、津波の高さは5~7mに達したと思われる。さらに外房沿岸地域では山崩れの記録もあり、震度5程度の強い地震動に見舞われたらしい。これら八丈島・外房沿岸の記録を説明するのには、東海説では都合がわるい。そこで図7に示すように、慶長津波の波源域を1953年房総沖津波のものと直交するかたちで相模トラフぞいに想定し、これから放射する波向線のパターンを伝播図でみた。房総沿岸の海岸段丘の調査で、慶長地震に対応できる地盤変動の痕跡がないことが確められており、波源域を房総の沖合に想定したのである。図示のように、波源域周縁から放射する波向線は、外房沿岸と八丈島に集中し、また東海沿岸にも波向線の1部が集まり、波高分布が説明しやすい。
 房総沖には近年、M7~7.5の地震に伴った小津波がときどき起きている。社会的な実害がないことから、歴史的な小津波の記録は残りにくい。1927年8月19日の地震(M=7)による津波は、布良と銚子で20~30cmの波高を検潮儀で観測された。地震の観測データから震源域ははっきりつかめなかったが、津波記録から波源域は勝浦の東方約100kmの沖合、1953年津波の波源域の北側に、長さ50kmと推定される(図12)。
 1909年3月13日の地震は、震度4の分布が関東一円に広がり(宇佐美,1976)、さらに福島・宮城県下に伸び、横浜で小被害を出した。有感域の広がりから、地震のマグニチュードはM7.5~7.7と推定されている。これほど規模の大きい地震であるから、当然津波の発生が予想できる(現在の観測網では、M7程度の地震による津波は100%近く検知可能)が、津波記録はまったく見当らない。気象庁(1973)の再調査によれば、震央は九十九里浜東方約50km、余震域は南東方向に90km伸びたかたちになる。しかし、震度分布のパターンは1953年房総沖地震のものとよく似ており(羽鳥1975a)、震源域が九十九里浜近海であるよりも、むしろ1953年地震のものに近い領域を考えさせる。

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図4:1953年房総沖津波における各地の検潮記録と推定波源域。黒丸は余震分布
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図5:延宝5年(1677年)津波の推定波高(単位m)と波源域。左上図は水死者/流失家屋数
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図6:延宝津波の波高分布(横線)と水深100mにおける波高の増幅係数(G:福島沖に波源を想定。H:房総沖波源)

4.茨城沖の津波

 茨城沖は、関東地方のなかで最も地震活動の活発な地域にあげられ、群発型のものが多く、この80年の間にM7.5を超えるような大規模地震の記録例はない。この間に、M6.5~7.3の地震で6回ほじ津波が観測されてきたが、いずれも規模は小さく、小名浜・鮎川の検潮所で30~40cmの波高にとどまり、実害はなかった。
 図8は1938年以前の津波について、検潮記録をもとに(IMAMURA and MORIYA,1939;IIDA,1956),逆伝播図から解析した波源域を示す。古い津波ほどデータも少なく、波源域の1部をおさえる程度の結果になっている。1938年5月の地震は、同年11月の福島沖群発地震(11月中に7回の津波が観測された)の前駆的な地震であった。この波源域は、水深1,000mの海域に南北方向に伸びているが、そのほかの津波はこれより浅海域にあったようである。1896年1月の地震は鹿島灘でおこり、茨城県下で土蔵の壁が落ちるなどの軽い被害を与えた。
 関東震災の3カ月前の1923年6月に、鹿島灘で群発地震がおこり、水戸の有感地震回数が73回、銚子が64回と、1カ月間の値としては最高の回数を記録した。大部分はM5以下の地震であったが、6月2日の地震が最大でM=7.2、鮎川で全振幅32cmの津波を観測した。これら一連の群発地震は、関東大地震の前震という見方もある(関谷,1970)。そのほか、近年では1961年1月の茨城沖群発地震で、2回小津波が観測された(HATORI,1969)。両津波とも波源域は水深3,000mの沖合にあって、長さは約50kmである。
 以上、茨城沖では規模の大きい津波をおこした記録例がなく、1933年三陸大津波でも茨城沿岸では1m前後の波高にとどまった。茨城沿岸の被災記録は、1960年チリ津波以外に、近地地震によるものでは1677年の延宝津波にまでさかのぼることになる。これは前に述べたように、房総沖に波源域があった津波であり、今後、茨城沿岸では房総沖津波に警戒すべきことを教えている。

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図7:慶長津波を想定した伝播図と1953年房総沖津波の波向線の比較、波面は10分間隔、沿岸の数字は津波の高さ(単位m)、カッコ内は伝播時間の実測値(単位分)

5.仮想波源の伝播図

 将来の津波発生を想定して、3つの波源域から津波伝播図を画き、沿岸各地の伝播時間と波高の分布パターンの傾向を予測してみる。
 まず、初めに取りあげた波源モデルは図9に示すように、房総半島沖の水深3,000mの等深線を中心に日本海溝ぞいに、長さ100kmを想定してある。その根拠は、最近南房総から九十九里浜近海にかけて、地震活動はきわめて活発であるが、その沖合側はこれとは対照的に低調で、地震の空白域という見方もあるからだ。これは、前に述べた房総沖の可能性がある1909年地震の震源域とみなされた(茂木,1974)領域でもある。
 各地の伝播時間は、九十九里浜で約40分、勝浦~千倉間ではわずかに10分と短かく、相模湾沿岸では約20分になる。一方、波向線は波源域周縁を10kmごとに分割して画いたものを示してある。これによると、波源から放射する津波エネルギー量の半分が房総南端から銚子間で受け、とくに勝浦~一宮間と銚子付近に集中することがわかる。また、伊豆大島の北回りと南回りの津波が伊豆半島東部沿岸付近で交わり、波の位相が合えば大きな波高になるであろう。
 図10は、西相模断層の地震を想定した波源モデルを示す。この構造線にそって海底地形は急峻な崖をなし(海上保安庁水路部,1978)、寛永・天明地震(M=71~7.3)の震源域と考えられる。熱海史によれば、寛永地震で「其節より船揚場所悪敷相成候為め、漁師共は難儀致し候訳に相成申候」とあり、港が地盤隆起したように読みとれる。これらを根拠に、波源域を沿岸に設定した。津波伝播時間は三浦半島西岸で10分、房総南部が約15分となり、かなり短時間に津波が沿岸に到達することがわかる。波向線は波源縁を5kmごとに分割したものを示してあり、これを見ると、三浦三崎と房総南部に集中している。天明津波は安房にも記録され、これは波向線が房総南部に集まることから理解できる。なお、東京湾口には伝播時間は約15分を要し、湾内に流入した津波は幅広い浅海域にひろがり、波高は急速に減衰するであろう。
 小田原・伊東付近では、嘉永6年(1853年)小田原地震と1930年北伊豆地震で大きな災害を受けてきた。しかし、いずれも震源域の主要部が陸地にあり、寛永・天明地震のような津波被害をもたらした地震はこの200年の間にない。1974年伊豆半島地震から1978年伊豆大島近海地震と続き、地震活動域が北側にむけて移動のきざしをみせ、ごく最近には伊東沖で群発地震が発生している。地震予知連絡会でも警戒を深めているように、寛永・天明タイプの地震はきわめて注目すべき地震である。
 さて、現在東海地震の発生が社会の重大関心事であるが、この地域に津波がおこれば、関東沿岸はどのような挙動をとるであろうか。図11は、石橋モデルによる震源域(石橋,1977a)を想定した津波伝播図を示す。これによると、相模湾・房総南部沿岸の伝播時間は約30分になる。波向線は海底地形が複雑なために発散し、関東沿岸の集り具合ははっきりしない。しかし、波向線の1部は新島・神津島に集まり、また伊豆大島の北と南回りの波が房総南部に集まり、この地域で大きな波高が予想される。安政東海津波における関東地方の津波記録はきわめて少ないが、鴨川と浦賀で浸水家屋のでた記録がある。また、宝永4年の津波も東浪見・白子町の低地に潮が溢れた。これらの記録は、東海津波に対して、房総・三浦半島沿岸が要注意域であることを示している。

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図8:茨城沖津波の推定波源域。逆伝播図の波面に各観測点の伝播時間を示す(単位分)
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図9:房総沖に波源域を想定した伝播図。波面:1分間隔
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図10:寛永(1633年)と天明(1782年)津波を想定した伝播図。波面:0.5分間隔
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図11:東海地震(石橋モデル)の津波伝播図。波面:1分間隔

6.むすび

 明応津波以降、最近500年間における関東周辺の津波の史料を収集・整理し、さらに現地調査から見出した津波碑などの史料を加えて、関東地方の津波挙動とその特性を述べた。図12はこれらの解析をまとめて、推定波源域の分布を示す。ここで、点線で表わしたものは歴史津波、または波源域の不明瞭なものである。南関東沖は相模トラフと日本海溝が会合しており、津波のおこる間隔は複雑で、南海道津波のような規則性はみられない。また、房総近海の地震空白域が目立つ。ことに、元禄津波のような270年以上も被災例をみない外房沿岸では、あらためて歴史津波の挙動を見直さねばならない。
 東海津波も三浦・房総沿岸に大きな影響を与えてきたが、一方、相模湾内の寛永・天明津波のように、規模はそれほど大きくないが、局地的には4~5mの波高を記録した津波がある。このような津波と、地震空白域とみなされている房総沖に波源域を想定し、関東沿岸各地の津波伝播時間と波高分布の傾向を示した。今後さらに細部にわたる波高の予測には、各種の断層モデルを設定した津波の数値実験などの手法による解析が必要であろう。

   文献
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図12:関東とその周辺における津波の波源域分布。津波の発生年に付記した数字は地震のマグニチュード(M)