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三陸沿岸の地形

 三陸地方は津浪の常習地であります。近く昭和八年三月三日突如押し寄せた津浪は、約三千の貴い生命と多額の財宝とを、一瞬にして奪い去りました。沿岸の随所には未だ当時の生々しい跡が残って居ります。自然現象である津浪は、今後も必ず繰り返し来襲するに違いありません。三陸沿岸の居住者は、予て其の十分なる覚悟が必要であります。
 併し乍ら津浪と其の被害とは、一応切り離して考うべきものであります。被害の中、取り分け人命に就いては、そうであります。何となれば、津浪は来襲前、その予知が可能であり、正当な知識を以て行えば、多くの場合十分な避難の余裕があるからであります。
 勿論、従来と雖も土地の伝承や古老の言い伝えによって、津浪に対する或る程度の知識は、現地の方々も持たれて居ります。しかし、かゝる程度の知識は唯単なる体験上の所産に過ぎないため。昔から殆ど何等の進歩をも示していないこと、従ってこの程度の知識に委ねて置いたのでは、今後の津浪に際して再び既往に於けると殆ど同様の惨状を呈すべきこと て想像に難くありません。
 今日に於ける科学の進歩は、津浪の研究に於いても、只単なる体験以上の色々の事実を明らかにしました。津浪に関するかゝる科学的知識を予て身に着けておき、又、研究の結果最も合理的と認められる避難法をとることによって、今後の津浪はさして恐れるに足りなくなったと考え得るに至りました。今後来襲すべき津浪の被害は今後の津浪対策を、科学的基礎の上に置くことによって、過去に於けるものよりも遥かに軽減し得ると、信ぜられるのであります。
 当台に於きましては、此の科学的基礎に立つ津浪対策就中退避方策を立て、之が普及に努めまいったのでありますが、現地各方面の要望もあり、今回之が普及の一助として此の小冊子を作成配布のことゝ致しました。
 由来かゝる科学的知識は、柔軟性に富む児童の頭に植え付けるのが、最も効果的と考えられます。仍って本書の対象には国民学校五、六年程度のところを択んでみました。しかし元より著者は、かゝる対象に対する予備知識にも、著作の経験にも乏しく果たして此の企画が成功しているか否かに就いては自信がありません。之が指導に当たられる先生方及び、父兄方の御協力をお願いする次第であります。
 本書は既に一昨年脱稿したもので、夙に印刷配布の予定でありましたが、昨年七月十日の仙台空襲により、原稿も組み版も完全に消失しましたので、かく遷延したものであります。公約に反したことに対し、大方の御諒解を乞う次第であります。
 本書の執筆に当っては、多くの方々の御指導を得ました。就中原稿は東京帝国大学理学部松澤武雄教授、中央気象台長藤原咲平博士、中央気象台地震課長井上宇胤博士、同課廣野卓蔵技師並びに仙台市榴ヶ丘国民学校長加藤英二、連防小路国民学校長山田才治、宮城県月濱国民学校長小田捷太郎諸先生に御校閲を願い、誤り無からん事を期しました。又出版に当っては中央気象台図書課の労を煩わしました。茲に記して謝意を表する次第であります。
  昭和二十一年二月
            著者識

目次

一、はしがき…1
二、五兵衛の様な人になるには…4
三、津浪とはどんなものか…7
四、津浪の種類…14
五、津浪の起こり方と起こる所…15
六、津浪の大きくなり易い場所…17
七、津浪と三陸沿岸…21
八、津浪の来方とよけ方…25
九、津浪警報…30
一〇、津浪の害を防ぐ方法…31
一一、津浪に対する誤った考え…36

一、はしがき

「これは、ただ事ではない。」
とつぶやきながら五兵衛は、家から出て来た。今の地震は、別に烈しいという程のものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない無気味なものであった。
 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では、豊年を祝うよい祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向気がつかないものゝようである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸い付けられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原やがん岩底が現れて来た。
「大変だ。津浪がやってくるに違いない。」と五兵衛は思った。此のままにしておいたら、四百の命が村もろ共一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予は出来ない。
「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明(たいまつ)を持って飛び出して来た。そこには、取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」
と、五兵衛は、いきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突立ったまゝ、沖の方を眺めていた。
 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなって来た。稲むらの火は、天をこがした。山寺では此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。荘屋さんの家だ。」
と、村の若い者は、急いで山手へかけ出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うようにかけ出した。
 これは、みなさんのよく知っている初等科五年生の国語読本六の四(前の本では第十巻の十)「稲むらの火」の初めの方です。今から約九十年の昔、安政元年十一月五日、和歌山県の沿岸に大津浪が押し寄せたことがあります。その時、濱口儀兵衛という偉人が、甲斐甲斐しい仂きをして、おおぜいの村人を津浪から救いました。この文は、その時のお話を書いたものであります。
 この津浪は、紀伊半島の沖合百粁位のところに起こった地震と一緒に、そこから押し寄せて来たものでありました。読本に書いてある通り、先ず最初に長いゆったりとした地震を感じ、地鳴りが聞こえて来ましたので、敏感な五兵衛には直ぐに「これはきっと津浪がやって来るぞ」と感じられたのです。その瞬間、彼の頭の中には、やがて押し寄せて来るであろう大津浪に、村の人々が一呑みに呑まれてしまう様子が、絵の様にうつりました。放っておいては一大事と覚った彼は、直ちに村人を助ける方法をとるために、家から駆け出したのです。
 五兵衛が放った稲むらの火を目がけて駆け付けた村人が、五兵衛に教えられて、はじめて津浪と知るや間もなく魔物の様な津浪は、村を一呑みにし村人の目の前で、悠々(ゆうゆう)と二度三度村の上を往来したのであります。稲むらの火が風にあおられて、再び燃え上がった時、五兵衛の姿は神様のように村人に前にうつし出されました。「命の神様」村人の五兵衛に対する尊敬は、生き乍(なが)らにして彼を神様と呼ぶまでに至りました。そのかげには、勿論(もちろん)五兵衛の、みなさんの読本に書かれてない数々の立派な行い、たとえば家を失った村人に対する我を忘れた衣食の世話などがあったのではありますが、何より大切な村人の生命を救った、この「稲むらの火」は、そのまゝに赤々ともえる五兵衛の、けだかい心の火であったのであります。
 今から九十年前、皆さんの住んでいるところからは遠い、和歌山県の一部落に起こったこの出来事は、勿論皆さんには何の関係もない、一つの昔の出来事に違いはありません。しかし、何時かは、いや明日にも、これと同じ様なことが、皆さんの住んでいる三陸の一部落で起こらないと、誰が言い切れましょうか。皆さんは知っていますか。皆さんの住んでいる三陸沿岸が、津浪の来るのでは世界一有名な場所であることを。ところで皆さんは思いませんか。今度津浪が来たら、自分も五兵衛の様な、立派な仂きをしようと。
 三陸の海辺に住む皆さんは、実にこの世界一津浪で有名な所に住んでいるのです。しかし、それだけでは決して自慢にはなりません。皆さんの誰もが五兵衛の様な仂きをする立派な人になって、はじめて、この世界一は自慢できるのです。皆さん、今日から心掛けようではありませんか。五兵衛の様な立派な人になることを。
 それには一体どうしたらよいでしょうか。

二、五兵衛の様な人になるには

 五兵衛の様な人になるには、ふだんから立派な行いをして、人のもはんとなる一方、津浪のことをよく勉強しなくてはなりません。津浪のことをよく知っていて、「いざ津浪」という時、どうしたらよいか、ということをふだんから十分研究しておかなくてはなりません。
 皆さんは、「津浪というものを知っていますか。」と問はれたら、何と答えますか。「いゝえ、知りません。」と答えますか。それとも「はい、知っています。」と答えますか。若し「知っています。」と答えたとすれば、「それでは津浪を見たことがありますか。」と重ねて問われたら、今度は何と答えますか。「いいえ。」と答えるでしょう「それでは、どうして知っていたのですか。」と問いつめられたら、どうしますか。きっと、先生やお父さんやお母さんや兄さんや姉さんたちにきいたのです、と答えるでしょう。それでよいのです。皆さんの住んでいる地方では、皆さんがまだ知らないころ、津浪というものがあったのです。しかもそれは決して古いことではありません。皆さんのうち昭和八年三月三日より前に生まれた人は、よその地方から引越して来た様な人でない限り、一度は津浪に会ったことがあるのです。というのは、昭和八年の三月三日に皆さんの住んでいる海岸に大きな津浪が押し寄せたことがあるからです。みんなの先生やお父さんやお母さん方はもちろんのこと、皆さんよりお年の三つ四つも多い兄さんや姉さん達は、そのときのことをよく御存知ですから、きいてごらんなさい。
 皆さんの中には、おじいさんやおばあさんのある人があるでしょう。おじいさんやおばあさんから津浪のお話をきいたことがありますか。若し、まだなら聞いてごらんなさい。おじいさんやおばあさんは、お父さんやお母さん方の知っていらっしゃる津浪とは、又別の津浪のことを御存知だと思います。昭和八年より前にも幾つかの津浪があリましたが、おじいさんやおばあさんがお話して下さる津浪は、大方明治二十九年六月十五日のだろうと思います。この津浪は大抵(たいてい)のところでは、昭和八年の津浪よりももっと大きかったのです。
 昭和八年のときは青森県で三〇人、岩手県で二六五八人(全体の八八%)、宮城県では三〇七人、北海道では一三人、合わせて三〇〇八人という沢山の人が、津浪に浚(さら)われて死んだり行方が判らなくなったりしました。しかし、それでも明治二十九年のときの十分の一位にしか当たっていないのです。明治二十九年のときは死者だけで青森県で二九九人、岩手県で一八一五八人(全体の八三%)、宮城県で三四五二人、合わせて二一九〇九人という沢山の人が亡(な)くなったのです。
 皆さんは昭和八年の津浪で亡くなったお友達を持っていませんか。そのお友達が、若し生きていたとしたら、どんなに幸いなことでしょう。又、皆さんのうちには、この津浪でお父さんやお母さん、或は兄弟を失った不幸な方もありましょう。本当にお気の毒なことです。明治二十九年や昭和八年の津浪で沢山の人々が亡くならなかったら、皆さんの村は今よりも、もっと賑(にぎ)やかな筈(はず)です。村で仂いている人も、海へ出て漁をする人も、みんなもっと今より多い筈です。そして、それだけ村は栄えている筈です。津浪で命を失うことは、ただ気の毒や可哀想(かあいそう)なだけでなく、こうして村を寂(さび)れさすことになるのです。
 だから皆さんは、今後何時(いつ)かは必ずやって来る次の津浪に対して、どうしても自分の、いや村の人全体の貴い生命を守らねばなりません。それには先ず第一に、津浪というものがとんなものであるかということを研究し、そして、どうしたらそれをのがれることが出来るかということを、ふだんからよく考えておかねばなりません。
 安政の津浪に紀伊の国で立派な仂きをした五兵衛の様になるには、皆さんは、こういう心掛けで居ればよいのです。そして、その心掛けで、これから後に書いてあることをよく読んで下さい。

三、津浪とはどんなものか

 津浪の害を防ぐには、先ず津浪というものがどんなものであるかを、知っておくことが大切であります。
 津浪といえば、皆さんは今までたゞその恐ろしい方面ばかりに気を取られて、それを自然現象(げんしょう)として考えてみるという態度に欠けているところはなかったでしょうか。
 人間が、あのゴロゴロと鳴る雷様を、虎の皮のふんどしをしめた鬼の仕業(しわざ)だと考えていた昔は、ただ恐ろしいものと思うより他ありませんでしたが、今の皆さんはそうではありません。あれは、家の中にともっているのと同じ種類の電気の仕業だ、ピカッと光るのは電気火花だ、そしてゴロゴロ鳴るのは火花が飛ぶ時の音だ、という様なことをチャンと知っていますね。ですから、雷が鳴っても昔の人の様には恐れず、かえって雷の時はどうすればよいかということを、落ち着いて考えることが出来るでしょう。津浪でも矢張(やは)りそれと同じです。津浪というものが、どんなものであるかゞわかれば、無暗とそれを恐れる必要がなくなり、落ち着いてその対策を考えることが出来る様になります。
 そこで、先ず、津浪というものは一体どんなものであるかということを、われわれの知っている事柄から、一つ一つ調べて行ってみましょう。
 先ず、皆さんが一番よく知っていることは、津浪の時、家や人が流されるということだろうと思います。そしてそれは、洪水の場合の様に川上の方から大水が出て来て、流されるのではなくて、反対に沖の方から大水が押し寄せて来て、それが又、沖の方へ引き返すとき、家や人を浚って行ってしまうのだということを知っていますね。そうすると津浪というものは、何か沖の方から、沢山の水がどっと押し寄せて来て、やがて又強い勢いで引いて行くものだということになりますね。
 所で、皆さんは海辺へ出て、波が押し寄せてくるところを見ていると、そこでどんなことが行われていますか。沖の方から波の山が押し寄せて来ます。だんだん海辺に近付いて、或るところまで来ると、その形が砕けて白い波となります。砕けた波は、浜辺へ向かって音を立て乍ら押し寄せて来て、やがて又引いて行きます。
 この砕ける前の波と、砕けた彼の波とで少し違ったところがありますが、気が付いていますか。皆さんは勿論、浜辺で育った海の子ですから、泳ぎをしたり、舟に乗ったりしたことがあるでしょう。そのときどうでしたか、砕ける前の波だと、砕ける前の波だと、泳いでいるところへ波が来ても、体は違った場所へは殆(ほとん)ど持ち運ばれませんね。ところが、岸近く泳いでいて、砕けたあとの波に会うと体は波と一緒にズーッと持ち運ばれて、泳がなくても岸辺へ押し遣(や)られてしまうでしょう。舟を操(あやつ)る場合にも、丁度これと同じ様なことがありますね、舟を浜へあげる時などには、この事柄を巧く利用すると、舟はひとりでに浜へ上ってしまうことは、よく知っているでしょう。
 さて、波の砕ける前と後とで、この様な違いがあることを、われわれはどんな風に考えたらよいでしょうか。
 われわれが水の中にいるときは、われわれの体は周囲の水と同じ様に動きます。丁度水の上に浮かんだ木の葉と同じです。ですから砕ける前の波では体は余り動かないが、砕けた後の波では急に岸の方へ運ばれるというこの違いは、そのまゝ水の動き方の違いと見て差し支えありません。つまり、砕ける前の波では、海の水は殆ど動かないで、ただあの様な波の恰好が水の上を進むだけなのです。ところが砕けた後の波では、波の恰好(かっこう)ではなくて、水そのものが丁度川の水の様に流れて来るのです。そして引き返すときには、又川の水の様に沖の方へ流れて行くのです。
 津浪の場合と同じことが、こうして毎日皆さんの眼の前で起こっているのです。ただその大きさが津浪の場合にくらべて、何もかもがずっと小さいために、皆さんには何の影響もないのです。皆さんは先ず最初の知識として、毎日の波のずっと大きい親玉が、津浪だと考えて差し支えありません。つまり津浪も亦波であって、それは毎日浜辺に打っている波と根本(こんぽん)は同じものなのです。
 この様に津浪の一番根本的な性質は、それが「波」であるということであります。しかも、普通の波はどんなに風が強くて、海が荒れている時でも、家を壊したり、人を浚って行ったりする様なためしは殆どありませんが、津浪は普通の波にくらべると、何もかも桁(けた)違いに大きいために、恐ろしい大浪になり、大きな被害を起こすのです。
 その桁違いに大きいということをはっきりさせるために、数字をあげて示しましょう。池の中へ石を投げると、そこから丸い波紋が拡がって行きます。その様子を見ていると、最初に丸い輪が出来、それが次第に大きくなり、或る速さで遠くへ進んで行きます。すると、それに続いて、第二、第三の丸い輪が矢張り同じ速さで、最初のものを追いかける様にして進んで行きます。その場合、波紋の次々の山の間隔はみな同じ様であります。これを波長といいます。一つの山が或るところを通ってから、次の山が又同じところを通るまでの時間も大体同じであります。これを周期といいます。それから山の高さを波高といいます。
 海の波や津浪もみな波ですから、それぞれの波長や周期や速さを持っています。先ず波長をくらべてみますと、普通の波は一〇〇米程度のものですが、津浪の方は三〇〇粁とか四〇〇粁とかいう長いものです。(或る学者は、津浪の波紋が日本から太平洋を越えてアメリカへ伝わるのに、十二、三も波紋があれば、行ってしまうだろうと計算している位です。)周期は、普通の波が数秒から数十秒位なのに対して、津浪の方は一〇分から二〇分位にも達し、これ亦大変長いものです。波の進む速さは、普通の波は大体一秒間に数米の程度ですが、津浪はずっと速く、沖の方では大体一秒間に一〇〇米から二〇〇米に達します。波の高さは、沖合では津浪も普通の波も大した違いはありませんが、津浪の方は、海岸に近付き、殊に湾の中に入ると、急に大きくなる性質があって、それであんな大波になるのです。
 津浪のこんな性質というのは、すべて互いに関係があって、もとをただせば、その波長の長いことに原因があるのです。ここで長いというのは、唯単に普通の波に比べて長いというだけでなしに、海の深さに比べて長いという意味をふくめています。皆さんは太平洋の深さを知っていると思いますが、一番深いところでも一〇粁位しかありません。平均して大体五粁位のものです。津浪の波長は、前にのべた様に一〇〇粁も二〇〇粁もあるのですから、それに比べると、はるかに長いのです。そこへ行くと、普通の波の波長は一〇〇米位のものですから、深さに比べてずっと短いわけです。
 この様に海の深さをもとにして、波長の方がずっと長い波と、反対にずっと短い波とでは、その性質に色々な違いがあります。今、短い波の方のことは省略(しょうりゃく)して、津浪の様な長い波の性質を二つ三つお話してみましょう。
 先ず、波の進む速さですが、これは海の深さによって変わるのです。深い所ほど速く、浅い所ほど遅いのです。深さ四〇〇〇米の所では、一秒間二〇〇米位の速さですが、深さ一〇〇〇米の所では、その半分になり、深さ二五〇米の所では、その又半分になるといった具合です。しかし、これは海の深さが波高に対してまだ深いときの話で、海岸近くなって、海が浅くなって来ると、波の速さは波高に関係しますから、海が浅くなる程、却(かえ)って速くなる様なこともあります。
 普通の波が海岸に来て崩れる様に、津浪も、ある程度海岸近くなると崩れます。但し、前にものべた様に、津浪は普通の波と色々な点で違っているので、その崩れ方も普通の波と同じではありません。むしろ、流れが急に速くなる、といった方が適当かも知れません。しかし、ここでは簡単のために、普通の波と同じ様に、崩されるという言葉を使ってきましょう。
 さて、津浪はどの辺まで来たとき崩れるかといいますと、それは海底の地形によって違いますから、一がいには言えませんが、ごく浅い湾でない限り、大抵湾内に入ってからです。又湾の無いところでは、海岸の可成り近寄ってから崩れます。昭和八年の大津浪も、沖合数浬(海里)のところにいた舟では気づかなかったということですから、その辺ではまだ崩れていなかったのに違いありません。理屈の上からは、大体波高と海の深さとが同じ位になるところで崩れる筈になっています。
 波が崩れると速さは急に二倍位に増し、それからは物すごい勢いで浜へ突進して来ますが、その時の速さは大体一秒間に一〇米位と言われています。
 津浪の周期は今までの津浪では一〇分から二〇分位と言われています。これは深いところでも浅いところでも違いはありません。ただ波が湾の中に入ると湾の中の水がゆり動かされて、又別な波が出来ますから、湾の中では、津浪のもとからの周期のほかに、その湾に固有の周期で、水が振動する様になります。その周期は湾の形や大きさで違いますが、三陸地方の多くの湾では一〇分から二〇分位のものです。あとで説明する様に、実際の津浪のとき、波は第一第二第三という風に次々にやって来るものですが、それ等の間隔は、大体この周期に等しくなっているものです。
 波の高さは、沖の方では、一般に低いものです。その高さは津浪によって違うもので、一がいには言えませんが、今までの大きな津浪でも、沖の方では五〇糎か一米位のものだろうと思われます。(波長が数百粁もあるのに、波の高さがたったこれだけですから、沖合では津浪の形というものは、全く人の目に付きません。)それが次第に海岸近くの浅いところへ来ると高さが高くなって来ます。
 又、津浪が湾の中に入る場合には、このほかに、湾の幅も津浪の高さにきいて来ます。多くの湾では、奥へ行く程幅が狭(せま)くなるのと一緒に、深さも浅くなるのが普通ですから、実際にはこの列よりもっと大きくなる筈です。こうして湾の奥では、一〇米とか二〇米とかいう、大変な高さになるのです。
 普通の波では海の水は表面近くの部分しか動きませんが、長い波では海の底まですっかり動くのも亦その著(いちじる)しい性質です。したがって普通の波では海の上はどんなに荒れていても、海の底は全く穏やかですが、津浪では底の水まで烈しく動きます。津浪のとき丁度海底で仂いている潜水夫などは、すごい勢いでよそへ持って行かれるということです。
 この様に津浪は普通の波に比べると、波の高さもはるかに高く、その上、水の流れが強いので、水は普通の波の届かぬ様な高いところまで、奔流(ほんりゅう)の様にかけ上がり、家を倒し、人を捲き込んで、水が引くときすっかり引き浚って行ってしまうのです。だから津浪は恐ろしいと言われるのです。しかし、この恐ろしい津浪もよく調べて見れば皆さんが、毎日海辺で見なれている波と、根本的には何の変りもない一種の波であることが、上の説明でよくわかったことと思います。

四、津浪の種類

 学問的な言葉としての津浪には、二つの種類があります。一つは皆さんがよく知っている地震津浪で、もう一つは三陸へんでは津浪と言わないで、俗に「沖ぶくれ」といっている、あの暴風津浪のことです。三陸は有名な地震津浪の発生地であり、その反面あまり強い暴風は来ませんから、この辺で津浪といえば地震津浪を指すことにきまっている様です。地震津浪は海の底に発生した地震に伴って起こるもので、暴風津浪は台風の様な強い低気圧が、沖合を通るために起こるものです。
 三陸方面の一部分では、地震津浪のことを海嘯(かいしょう)と呼ぶ人があります。しかし、学問上で海嘯というのは、津浪のことではありません。津浪という言葉は、日本で出来た言葉ですが、今は世界中何処へ行っても通ずる、国際的な言葉になっています。それに反して、海嘯という方は支那特有の言葉で、 而も日本に起こる様な津浪とは違ったものを指しているのですから、皆さんには海嘯より津浪という言葉を使って頂きたいものです。
 暴風津浪は台風季節である夏から秋にかけて起こり易く、三陸方面にも時々起こりますから勿論注意が必要ですが、これは地震津浪にくらべると、一般に波の高さが低く、被害もそれだけ小さいのです。その上、その原因となる台風は、地震と違って大分前から来ることが分りますから、津浪の警戒もよほど行き届いて出来ます。ここでは地震津浪の方が主な目的ですから、暴風津浪に就いて詳しくのべません。これから後、津浪といえばすべて地震津浪を指すものと、約束しておきます。

五、津浪の起こり方と起こる所

 津浪の源が海の中にあることは、今更申すまでもありますまい。其処でどういう風にして津浪が起こるかという事は、まだよくわかって居りません。大体の推定では、海底の可なり広いところに、突然大仕掛けの凹み、或は盛上がりが出来、その動きが水に伝わって波になるのであることは、間違いない様です。
 皆さんはお風呂の中に入っているとき、掌(たなごころ)を最初水面から何糎かの下に置いて、それを急に上か下へ動かしてみたことがありますか。もしまだやってみたことがなければ、今度お風呂に入ったとき、やってごらんなさい。そしてその時お風呂の水面がどんな風になるか、見てごらんなさい。これが津浪の一番手っ取り早い実験です。
 それですから、津浪はどういう所に起こり易いかというと、第一に、海底で大仕掛けの動きが起こり易い所です。大仕掛けの動きが起こり易い所は、どんなところかと言えば、それは地球がまだよく落ち着かないところです。地球の上から大きくみますと、一体に日本の付近は落ち着きの悪い部分に入り、したがって地震や津浪が多いのですが、とりわけ皆さんの住んでいる三陸の地は、我が国のうちでも、一番落ち着いていないところいえるのです。御承知の様に、三陸沖三〇〇粁から四〇〇粁位のところに、タスカロラ海溝(日本海溝)という深いところがあります。この辺が一番落ち着いていないところなのです。
 海の底にそんな大きな動きがあると、当然その動きは、地震となって地中を伝わって来ますから、津浪と地震とは付きものとなるのです。したがってその辺にはよく地震が起こります。而も大きいのが起こるのです。勿論小さいのも沢山起こりますが、小さいのでは目に見える様な津浪は起こりません。相当な被害を及ぼす様な津浪は、大仕掛けな海底の動きがないと起こらないのです。そして地震も亦海底の動きが大きいと、それだけ大きいのです。ですから大きい津浪がある様な時は、地震も亦大きいということになります。このことは津浪を予知する上に大切なことで、あとで又話の出ることがありますから、よく覚えておいて下さい。
 こうして、津浪の起こり易いところは、先ず海の底に大仕掛けの動きの起こり易い所ということになるわけで、津浪はそこから波となって四方に拡がって行くのです。

六、津浪の大きくなり易い場所

 沖に起こった津浪は次第に進んで、ついに海岸に達し、湾入している所ではその中に侵入して来ます。波の高さは、沖ではせいぜい一米程度のものですが、海岸に近付くとぐんぐん高くなって、ついには家をも流す大浪となります。その場合、津浪の高さは何処でも大がい同じ様なものでしょうか。そうではにのです。或る所では村全体を流す程うんと高くなりますが、又或る所では何の被害も起こさない位の高さで終わってしまうという風に、相当違うものなのです。それが随分(ずいぶん)離れたところというのなら又別ですが、ほんの隣り合いの土地でいてそういうことが起こります。例えば昭和八年の時、岩手県重茂村の姉吉部落では、津浪の高さは一二,四米にも達しましたが、それから一寸離れた山田湾内の織笠部落では僅か二,四米に過ぎませんでした。明治二十九年の時も姉吉では一八,九米でしたが、織笠では僅かに三,四米でした。こんな例は他にもまだ沢山あります。そして津浪の高い所は、大抵何時もきまった様に高く、低い所はきまった様に低いのです。
 そうすると、何かそこにその土地としてきまった訳があるに違いありません。確かにそうなのです。つまり津浪は土地によって大きくなり易い所と、そうでない所とがあるのです。どうして、そういう違いが起こるのでしょうか。それは全くその土地の地形に因るのです。第一に上から見た湾の恰好の違いによるのです。第二に湾の深さによるのです。第三に湾の向きによるのです。
 先ず第一の点から調べて行きましょう。北は青森県から、南は福島県まで、所謂(いわゆる)三陸地方の沿岸には、大小いろいろな恰好の湾が、鋸の歯の様に並んでいます。それを細かく見ると、勿論同じ形のものは一つもありません。しかし大ざっぱに見れば、幾つかの似た様な恰好のものに分けることが出来ます。皆さんは先ず図の様な模型を考え、三陸沿岸からそれに近い恰好をしたものを拾い集めてごらんなさい。第一は口が開いて奥のつぼんだ漏斗型(じょうごかた)のもの(甲)。第二は口から奥まで殆ど同じ広さのコップ型のもの(乙)。第三は口がつぼんで奥の広いフラスコ型のもの(丁)。それともう一つ、湾になっていない真っ直ぐな海岸もある訳でから、第四の型としてそれも加えておきます(丙)。図には皆さんの観察を助けるため、それぞれの型に対する例があげてあります。
 これ等四つの型に就いて津浪の高さが、どう変わるかと言えば、普通甲型の湾が一番高く、次いで乙、丙、丁の順になります。その訳をざっと申しますと、甲型の湾では入口が広くて奥の方が狭いから、入口から入って来た津浪が、みんな奥に集って大変高くなるのです。反対に丁型の湾では入口が狭くて奥が広いから、入口から入って来た津浪は奥へ行って散ってしまうので低くなるのです。乙型や丙型は、その中間の場合ですから、波の高さも中間になるのです。
 しかし、同じ甲型の様な湾でも、割につぼんだのもあれば、開いたのもあり、乙型の例でも、細くて長いのもあれば、太くて短いのもあります。それ等は湾の奥での津浪の高さが、それぞれ同じではありません。つぼんだものや細長いものは津浪が比較的小さく、開いたものや太いものは比較的大きいのです。又、上にあげた四通りの型でも、大きいものもあれば、小さいのもあります。例えば丙型の例にあげたのは、みんな小さい方ですが、この型の大きい方の例には青森県や福島県の海岸等もあげられます。又、海外に向かって直接その形をとっているのもあれば、大きな湾の子湾として、その中へ開いているのもあります。例えば大槌湾は図の例にあげた様に丁型ですが、湾の奥の大槌港は乙型をしています。ですから実際の場合になかなか複雑で、この目安はほんの大体のことを言ったのに過ぎません。
 第二は深さのことです。湾には全体として深いのもあれば、浅いのもあり、又急に深くなっているのもあれば、遠浅のもあります。そして一般に、深い湾では浅い湾よりも湾の奥での津浪が高く、又急に深くなっている湾では、遠浅の湾よりも高いのです。
 第三は湾の向きです。これは津浪の来る方向に向いている場合が、いちばん波が高いということは直ぐわかりましょう。しかし一般に津浪の起こる所はきまっていないし、波はどっちの方向から来るかわかりません。ですから、恰好や深さと違って、どっちに向いているものが津浪を受け易いという様なことは前以て言えません。大体から言えば、真っ直ぐ沖の方を向いているものが、割合津浪を受け易いということになります。しかし湾の向きによる違いは思った程ではありません。
 次に前にのべた色々な湾の実例を二つ三つあげておきましょう。細長い湾の例としては雄勝湾、気仙沼湾、大船渡湾等、浅い湾の例としては気仙沼湾、女川湾等、真っ直ぐ沖の方を向いていない湾としては雄勝湾、気仙沼湾、宮古湾等があげられます。
 さて前のお話では専(もっぱ)ら湾の奥に於ける津浪の高さについてのべました。しかし津浪は湾の奥だけに来るものではなくて、湾の両側に当たる所に来ます。では両側の津浪の高さは、湾の奥に比べてどうかと申しますと、一般に低いのが普通です。例えば昭和八年の時、雄勝湾の奥にある雄勝部落では、津浪の高さ四,五米に達しましたが途中両側の部落では大抵一,五米から一,八米位でありました。これはつまり、波というものが袋でいえば底に当たる湾の奥に集まる性質があるからです。ですから、たとえ大きな湾の途中にある小さな湾でも、それが矢張り一つの湾となっている場合には、津浪必ずしも大湾の奥に比べて低くありません。例えば矢張り昭和八年の津浪で、岩手県の越喜来湾では、湾の奥にある越喜来部落も、途中の泊や下甫領や小石濱等の部落も、共に三米から四米程度の同じ様な高さでありました。

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図:(甲)[例]綾里湾・吉浜湾 重茂村姉吉(乙)[例]久慈湾・田老湾 大槌港(丙)[例]吉浜村千歳 赤崎村 雄勝町大■(丁)[例]山田湾・大槌湾 越喜来湾

七、津浪と三陸沿岸

 皆さんの住んでいる三陸沿岸が、我が国でも一番津浪の起こり易いところであることは、今までの説明で大体わかった筈です。津浪が起こるためには、第一に沖合に大仕掛けの海底の動きが起こらなくてはならないこと、第二に海岸の形が津浪の大きくなり易い恰好をしていなければならないこと、などを話して来ましたが、そんな考えで、もう一度よく日本の地図を見直してみると、一層このことがはっきりするでしょう。
 そこで三陸沿岸では、実際、昔から何回位津浪があったか調べてみましょう。大昔のことは、よくわかりませんから、貞観十一年(皇紀一五二九年≪西暦八六九年≫)から後だけにしますと、今までに津浪が大体二十回あり、その中昭和八年程度以上のものが四回ありました。その中で一番大きかったと思われるのは、慶長十六年(皇紀二二七一年≪西暦一六一一年≫)の津浪であります。当時伊達領内で溺死した人が一七八三人、南部津軽領で人馬の溺死が三〇〇〇余りありました。貞観十一年の津浪は、明治二十九年のと大きさが同じ位のもので、溺死一〇〇〇余人とありますが、昔のことですから勿論正確なことはわかりません。昭和八年の津浪はそれより一寸小さく、順位から言うと四番目位に当たります。
 ここで考えておかなければならぬことは、われわれはとかく記憶の新しいものに捉(とら)われがちなことで、津浪といえば直ぐに昭和八年の場合を持って来て、その標準にし易いことです。しかし波の高さでも、やって来る時間でも又、沿岸のうちでどこが一番高いかという様なことでも、それぞれの場合でみんな違いますから、何時も昭和八年の津浪の様であるとは限りません。波の高さにしても、昭和八年より大きかった津浪が三回もあったのですから退避の場所や、高い所へ移るのならばその位置や、防浪堤を作るならば、その大きさなどは、みんな昭和八年の時より相当高く大きくとっておく必要があります。
 次に明治以後三陸地方にあった津浪を、小さなものまであげてみますと、次の様であります。
 明治元年六月二十七日   宮城県本吉郡地方 琉球地震の余波か
 明治二十七年三月二十二日 岩手県沿岸    根室沖地震による津浪
 明治二十九年六月十五日  三陸沿岸一帯   死者二一九五三人
 明治三十年八月五日   三陸沿岸    広田、越喜来、女川等で浪高
   三米程度
 大正四年十一月一日   宮城県志津川湾  三陸沖地震による
 昭和八年三月三日   三陸北海道    死者及び行方不明三〇〇八、
   傷者一一五二、
   流失及び倒壊七二六三

 なおこのかた、昭和十三年十一月五日福島県の沖合に起こった地震にも、極めて小さな津浪がありましたが、大抵のところでは一般の人に気づかれるほどではありませんでした。明治以来の津浪は、これを除いても、六回にも上って居ります。そのうち四回は三陸沖に起こった地震によるものですが、他の二回は他の地方に起こったものです。前に三陸の地形はとくべつ津浪を受け易い様になっていると申しましたが、こんな風に他の地方に起こった津浪までも、感ずることがわかれば、そのことを成る程とうなずけるでしょう。
 これらのうちで一番大きかったのは、いうまでもなく明治二十九年ので、その次が昭和八年のでありました。しかし各地に於ける津浪の高さは、必ずしも前の時の方が大きかったとは限りません。今各地に於ける津浪の高さを記してみますと、次の様であります。
 明治二十九年の津浪の高さは、宮城県下の平均四・五米、岩手県下の平均が一〇・三米で、昭和八年のときは宮城県下の平均が三・一五米、岩手県下の平均が五・九米でありました。又明治二十九年のとき波の一番高かったのは吉濱の二四・四米で、昭和八年のときは白濱の二三・〇米でありました。皆さんは二〇米という波がどんなに高いものであるか、想像してごらんなさい。
 この様に三陸沿岸は、昔から津浪の多いところです。そこに住む皆さんは、ふだんから津浪のことをよく研究しておかなければなりません。そして、うまくよけるためには、次にのべる津浪のよけ方をよく心得ておかねばなりません。

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表:各地に於ける津浪の高さ

八、津浪の来方とよけ方

 津浪の来る前には、先ず大きな地震があります。その地震は殆ど上下動(上下方向の動きをまじえず、ゆったりとした水平動(水平方向の動き)で、ほんとうに大地の底からゆれる様な感じです。それはいわゆる「底ゆれ」ともいうべき感じで、人間の直感から「これは大きいぞ」ということが、すぐに感ぜられます。ゆれている時間も、普通の場合と違ってずっと長く、なかなか止みません。そして、そのあとに引き続■て何回もの小さな地震(余震)のあるのが普通です。だから強い地震であっても、上下動の方が水平動よりも大きく、ガタガタと急激にゆれる様なものは、却って津浪の心配は少ないのです。
 この様な地震があったら、先ず津浪が来るのではないかと直感せねばなりません。そして津浪が来た場合には、どこへどうして退避するかということを考えます。(退避の仕方については次の節にのべます。)退避の場合はふだんからきめておきます。次にはすぐに小高いところか、或は岬(みさき)の先端などに津浪の見張りをする人を立てます。その人は沖を見つめ、若し津浪が見えたら、大声をあげるか、その他の方法で部落の人に知らせてやります。
 ここに考えて置かねばならないことは、津浪というものは地震があってから、直ぐには来ないものだということです。今までの例だと、早いところでも三〇分、おそいところでは一時間以上もかかっています。だから見張りの人も、待っている人も、そのことを知っていて、少なくもこれ位の時間は待っている必要があります。
 これは明治二十九年のときの様に、夏ならば何でもないことですが、冬の、殊に寒い夜などですと、なかなか楽なことではありません。待っていても津浪は来ない、寒いからもう寝てしまおう、というような気持ちになり勝ちですが、ここの辛抱が大切です。昭和八年の津浪は三月三日の午前二時三十一分という、まだ寒い頃の、而も一番冷える時刻に起こったので、一旦にげた人の中には、暫らく待ったが津浪は来ないし、寒いからといって、再び家に帰って眠についたところへ津浪がやって来て、そのまゝ流されてしまったという話が少なくありません。くれぐれも注意すべきことです。
 津浪が押し寄せて来る時の有様は、丁度水の堤の様な恰好でやって来ますから、昼間ですと、見張りをしていれば明らかに認めることが出来ます。見張りの人はそれが見えたら、直ぐに合図をして、部落の人を退避させねばなりません。これが夜ですと、この水の堤が白く光って見えます。又沖の方でゴーゴーという音が聞えることが多いから、それ等のことによく注意していて、その徴候があったら直ぐに合図をします。
 津浪の顔ぶれという様なものに、浜辺の上げ潮や引き潮があります。昭和八年の時は、最初小さな上げ潮があり(これは注意深い人でないと気づかない程度でしたが)、次に誰でも気の付くような著しい引き潮があって、その後で第一の津浪が押し寄せて来ました。しかし津浪は何時でも、こういう順列で来るとは限りません。けれど、とも角、地震後何程かたって急に潮が引いたり、何かふだんと変ったことがあったりした時は、津浪の前触れと考え、直ぐに警戒せねばなりません。
 津浪の湾内に入ってからの速さは、前に述べた様に大凡毎(おおよそ)秒一〇米位といわれていますから、速駆けすれば急には追い付かれない程度です。ですから見張人の合図で逃げる場合は、悠々とにげられるわけで、決して慌ててはいけません。又、仮に見張り無しの場合にも逃げる方法さえ誤らなければ、よくよくの場合でない限り、生命に別条なく逃げ得られる筈です。そんな場合にあわてていると、逃げてもなんにもならない方向に向かって走ることがあります。昭和八年の話ですが、あわてた人が、海岸に平行な道路の上を走ったため、とうとう津浪にさらわれた例があります。少し心にゆとりがありさえすれば、それではなんにもならないということがわかる筈です。逃げる時は少しでも、高いところを指して逃げなければ何の役にも立ちません。ではどれ位高いところまでにげれば、安全かといいますと、八までの経験では、特別の湾を除き津浪の高さは、最高二〇米位ですから少なくとも、それ位のところまでは遁げていなければ安全とは申されません。しかし、実際津浪の高さは湾によって大いに違うことは、前に述べた通ですから、くわしくは自分の住んでいる湾について、昔からの経験をよく聞いた上で、それよりも高いところに、大体二倍位のところに、きめるのがよいでしょう。逃げる高さは、それ以上幾ら高くても決して悪いことはありません。
 退避場即ち避難する場所は、この様なことを考えに入れて、ふだんからちゃんと決めておかねばなりません。又、一つの隣組は同じ場所に退避する様にきめておく方が何かと都合がよいでしょう。
 退避する時は、余裕さえあれば火事など出さない様に火の始末をよくし、戸障子は外すか、或は開け放ち、貴重品や食べ物は持って行きます。家内中一つに纏(まとま)って、お年寄りや小さい子供を先にし、順序よく逃げなければなりません。又、夜なら尚更のこと、昼間でも隣組が退避場に集合したら直ぐに人員点呼を行い、逃げ遅れた人は無いかを確かめます。
 前にのべた様に津浪は、地震の後暫くたってやって来ますから、退避場では暫く退避していなければなりません。そして第一回の津浪が来たら、続いて二回目、三回目のが来る筈ですから、その間辛抱強く待っていることが必要です。いよいよ来ないと見込みがついたら引き揚げて帰りますが、見張りの人だけは暫く残って、見張りを続ける必要があります。
 次に舟のことですが、沖にいる舟では津浪に気づかぬこともある位で、沖の方が却って安全です。地震のとき岸から二、三百米以上も離れている舟は、却って沖の方へ漕ぎ出した方がよいと云われています。昭和八年の時、宮城県の雄勝では水際から二百米位も離れた国民学校の校庭に、大型発動機船が打ち上げられ、又、岩手県の宮古や釜石でも多数の発動機船が上陸して、家屋にぶつかって、家を壊したりしました。其の他小舟が岡へあがったのは数えきれない程ありました。それらはみんなよくつないでなかったものでした。岸辺にある舟はよくつないでないと人家の方へ押し流され、舟も家も壊れる結果となりますから、津浪が来ると思ったら直ぐに傍(かたわら)のものに、しっかりとしばりつけておかねばなりません。

九、津浪警報

 特別大きな地震があった時、皆さんは上に述べた様な方法により、自分で津浪の有る無しを判断し、直ぐに退避の心がまえをすることが必要ですが、一方又、測候所からも津浪の警報というものが発せられ、直ぐに電話でもって沿岸に伝えられることになっていますから、電話のあるところでは利用されることになります。又ラジオの放送時間だとラジオでも言うことになっています。
 津浪警報というのは、測候所の地震計によって地震の大きさを測り、津浪が有るか無いかを判断し、それに基づいて発せられる警報(警戒せよというしらせ)のことであります。このしらせは直ぐに警察電話で沿岸の各駐在所に届きます。駐在所では更に役場や警防団に通知し、離れた部落では電話のあるところへは電話で知らせてやり、又近くの部落へは大きな声で布れ歩いたり、警鐘で知らせたりします。
 津浪警報には一、二、三という三つの階級があります。警報一というのは一番弱いもので、津浪はあるにはあるが大したものではない。しかし一応用心して下さいという場合に出ます。警報二は中位の津浪で、相当被害もある見込みだから、みんな用心して下さいという場合に出ます。警報三は大津浪だから、直ぐにその用意をして下さいという場合に出ます。
 警報一が出たら小さな津浪のあることを覚悟して、一応用心せねばなりません。このときの津浪の高さは、高いところで二、三米程度、多くの所では一米程度或は、それ以下と思ってよいでしょう。
 警報二が出たら、津浪は前より大きく、多くのところで二、三米に達し、特別津浪の高くなり易い湾では五、六米にも達するものと思ってよいのです。従ってどこでも直ぐに退避せねばなりません。
 警報三が出たら、津浪は一番大きく、多くのところでは三、四米に達し、特別津浪の高くなり易い湾では一〇米以上に達するものと思ってよいのです。従って直ぐに最も厳重な警戒に移り、退避は勿論、その他出来るだけの処置を講ぜねばなりません。
 津浪が終わった場合や、心配していた津浪が来ないということがわかった場合には、測候所から津浪警報解除というものが発せられます。皆さんはそれをきいてからはじめて家へ帰って下さい。

一〇、津浪の害を防ぐ方法

 今までは主に津浪の退避について、お話して来ましたが、津浪の害を防ぐ方法は必ずしも退避だけに限りません。退避のほかにも色々の方法があり、それらはみんな大切な事ですから、ここにはそれらについてのべておきます。
 その前に、われわれは津浪がなぜ被害を及ぼすかということについて、もう少し深く考えて見ましょう。よく考えて見ると、それは結局(けっきょく)、津浪というものが稀にしか起こらないからだということになるのです。若しもふだんに起こっている現象なら、ちっとも被害を起こさない筈です。例えば海の波は毎日押し寄せていますから被害はありません。というのはわれわれはそれの届かぬところへ家を建てて、ふだんにそれを逃げているからです。潮のみちひだって同じです。たったあれ位の水の上がり下がりでも、若し何の前ぶれもなく突然あんなことが起こったとすれば、水際でのんきに座って遊ばせてあった赤ちゃんは、知らない間に溺れてしまう筈です。それと反対に関東大地震の様な大地震でも、若しそれが毎日きまってあるものとしたら、人間はとっくの昔に、それ位の地震には平気で耐えられる家を建てて、住んでいたに違いありません。
 だから、この「滅多に起こらない」ということが、天災にはなくてはならない大切な条件になっているのです。たまにしか起こらないあめに、われわれは一つの大きな災害を受けても、何時ということなしに、それに対する用心を忘れてしまう。忘れた頃又やって来る。そして再び大きな被害を起こすということになるのです。だから、一般に天災を避ける一番たしかな方法は、仮に毎日それがあるものと考えて、不断の用意をしていることです。津浪も丁度浜辺の波と同じく、それが毎日押し寄せているものだと仮定して、心の上でも物の上でも、それに差し支えない様な生活をして居れば、それが一番確実な避難法であり、いざ津浪という時にちっともあわてないですむ方法です。
 それに代わるよい方法は、津浪のことをよく研究し、その性質をよくのみ込んでから、津浪退避の方法をすっかり定めておき、時々定期的な退避訓練をすることです。
 さて退避以外に津浪の害を防ぐ方法としては、津浪の波を防ぐ方法と、直接津浪の害を防ぐ方法とがあります。先ず津浪の波を防ぐ方法には、防浪堤や護岸を築くこと、防潮林を作ること、防浪地区や、緩衝地区を設けることなどがあり、津浪の害を防ぐ方法には高地に移転すること、避難道路を造ること、記念碑を立てることなどがあります。
 防浪堤というのは、津浪を防ぐために浜辺に設ける堤防のことで、陸上に設ける場合もあり、又海の中に設ける場合もあります。現在三陸沿岸でも津浪の高くなる湾では、これを設けているところが沢山あります。「稲むらの火」の五兵衛は村人を救った後、その海岸に立派な防浪堤を造りました。和歌山県の其の村には、今も尚立派にそれが残っています。防浪堤の高さは津浪を真正面から受ける様になっているものでは、津浪の高さの二倍位にすることが必要で、幅もそれ相応に広くしないといけません。しかし津浪を唯単に他所へ廻して、その場所の安全を計ろうというだけのものなら、津浪よりも稍高い程度で結構です。いずれにしても、コンクリートや石垣で余程しっかりしたものにしないと、実際津浪のときは浪の勢いで崩されてしまい、何の役にも立たない様なことになります。
 防潮林というのは、津浪の勢いをそぐための林のことで、海岸に比較的広い平地がある様なところに、木を植えて作ります。これも三陸沿岸で造ってあるところが沢山あります。木が大きくなれば中々効果のあるもので、枝葉のよく茂る木ほどよいのです。奥行は深い程よく、又家のまわりに木を植えるものもよいことです。
 護岸というのは、海岸を石垣やコンクリートなどでまもることで、津浪の余り高くないところでは効果あります。
 防浪地区というのは、海辺と住宅との間にしっかりした建物を並べて建て、そこに当たった浪を正面から防ごうという区域です。
 又、緩衝地区というのは、むしろその反対に津浪が一番入りやすいところを空けておき、津浪を人家の方へ来させないで、そこへ追いやる様にした土地のことで、人家のある方はそれだけ被害が小さくてすむわけです。
 高地移転というのは、津浪の来ない様な高いところへ人家を移すことで、これは一番安全な方法です。三陸沿岸でも昔は浪を直ぐかぶる様な低いところにあった家が、明治二十九年の津浪のあとでは、だいぶ高いところへ移り、昭和八年の津浪のあとでは更に沢山の家が高いところへ移りました。こういう風に、津浪の届かぬ高いところに住んでいれば、津浪が何時来ても大丈夫で、何時でも安心して居られるわけです。少なくも学校や役場の様な大切な建物は高いところにないといけません。普通の家では何もかも高いところへ移してしまうと、毎日の仕事に不便ですから、住居だけを高いところへ移して、事務所や倉庫などは低いところへおき、又加工場や舟の道具や網などは浜辺に納屋を建てて、そこにおくことにすれば、不便はだいぶ少なくなります。岩手県の吉■村は津浪の最も高くなり易い漏斗型の湾の奥にあり、明治二十九年の津浪で全滅の憂き目を見ましたが、その後で家を全部高いところへ建てたため、昭和八年の津浪では殆ど被害を受けませんでした。又、船越村の山ノ内部落は古くから高地移転を行っていたので、明治二十九年の時も、昭和八年のときも、ちっとも被害を受けませんでした。
 海岸から真っ直ぐに山の方へ向かって広い道をつけ、これを避難道路にしておけば、いざという場合迷わないで逃げることが出来ます。海岸には海岸線に沿った道は必ずついていますが、それは津浪の時にげる道としては、何の役にも立ちません。山の方へ行く道がないため海岸に平行な道を夢中で走って、ついに津浪に呑まれてしまったという話は前にもしました。気持ちさせ落ち着いていれば、そんな馬鹿なまねはしない筈ですが、それにしても、いざ津浪という場合、誰でも迷わず逃げられる避難道路があるにこしたことはありません。
 津浪の様な滅多に無い天災は、その当時こそみんなが苦しかったことを覚えていて、二度とこんな目にあうまいと色々と、その対策に骨を折りますが、時がたつにつれ自然とその記憶も薄れ、熱もさめて行くものです。それをそのままにしておきますと、次の津浪が来る頃には最早(もはや)、前のことは殆ど忘れてしまって、もう一度前の時と同じ様なひどい目に逢うことになります。
 それで津浪があったら、その時の有様や津浪に対する注意などを書いた記念碑を立てておくのが、津浪のことを忘れないためによいことです。津浪にあった人々は、それを読む度に津浪のことを想い出して用心を忘れず、又そのころまだ生まれていなかった皆さんの様な子供や、津浪のあとで他所から引っ越して来た人達も、それを見て津浪のことを知り、津浪の用心をする様になります。三陸地方でも方々にそんな碑が建てられていますから、皆さんも大方一つや二つは見たことがありましょう。あれには昔の人の皆さんを思う真心が、こもっているのです。それを見る毎に皆さんは津浪の用心を忘れない様に、心掛けて下さい。そしてそれを十分大切にし、将来とも傷つけたり、邪魔にして片付けたりしてはいけません。
 ここに述べた様な色々の方法は、何れも退避とは違い、ふだんからやっておかないと、そのときになってからでは間に合わないものばかりです。十分に考えた上、よいと思うことは、津浪の来ない先にちゃんとやっておかなければなりません。

一一、津浪に対する誤った考え

 私がこれまでに述べて来たことを、皆さんがよく読み、よく了解するならば皆さんは、津浪というものに対して、正しい知識の持ち主となることが出来ます。
 ところが、昔は科学がまだ進んでいなかったために、津浪に対しても色々誤った考えや迷信が行われて居りました。そしてそのために、正しい退避を行わず、助かるべき命を失った実例が少なくありません。いったいに誤った考えや迷信という様なものが、どんな場合でもいけないことは、今更言うまでもないことですが、津浪の場合には尚更いけないのです。なぜといえば、その結果が大切な人の命にかかわるからです。それも自分一人だけの命ならまだしも、津浪のときのように人の心が不安にかられている際は、人々の判断力がにぶって居りますから、一人の人の間違った考えが、うっかり大ぜいの人々に信用され、多数の命を同時に失う恐ろしい結果おなることがあります。
 次に三つの実例をあげて、その戒といたしましょう。
 宮城県雄勝町の荒屋敷は外洋に面した小湾の奥にある部落で、昭和八年の津浪の高さは一〇米に達しました。この部落は明治二十九年の津浪で沢山の死者を出したので、今後もまた津浪が来るかも知れぬと思い、部落民はみな一度戸外に出て津浪を警戒しました。しかし、大分待ったが津浪が来ないので、「地震が強ければ津浪は来ないものだ」という様なことを誰か言い出しました。そこでみんなも、大方そうだろうと早合点(はやがってん)して、家へ帰ってしまいました。そこへ津浪がやって来たので死傷者は九十七名にも達し、同部落は殆ど全滅の被害を受けたのでありました。
 又、同県大原村の鮫の浦では「寒い時には津浪は来ないもの」という迷信をいだいている人があり、昭和八年の津浪のとき、直ぐに用心してにげた人は助かりましたが、この迷信のため油断していた人は流されてしまいました。
 そのほか迷信ではありませんが、昭和八年の津浪のとき、明治二十九年の津浪の経験だけから色々の判断を行ったため、その通りに行かなくて災難に会った例もあります。例えば明治二十九年の時は三十分以内に津浪が来たが、今度は三十分経っても来ないから、もう来ないだろうと考えて、再び寝たところを津浪に浚われた、という様な例が方々にあります。又明治二十九年のときは浪はあの辺までしか来なかったから、今度も多分ここまで来ないだろうと考えて、退避しなかったために浚われた例もあります。
 明治二十九年や昭和八年の津浪のこういう間違った考えが、多くの人々を死に導(みちび)いた例は少なくありません。若し皆さんの近くに津浪に対して、こんな誤った考えを持っている人があったら、注意してあげねばなりません。
 前に津浪にあった経験を持っているということは、津浪に対して何よりも心強いことですが、津浪というものが、何時もそういう風にして来るものだと考え込んでしまうことは、あぶないことです。その点皆さんはまだ一度も津浪の経験が無いのですから、ほんとうに科学的は正しい知識を持つのには、却って好都合です。私は三陸沿岸の正しい津浪警戒が皆さんの手で、成し遂げられる日の必ず来ることを信じています。